All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

「急がなくていい」昭彦が口を開いた。「食事が終わってから話そう」柚香は小さく頷いた。この食事会は、遥真がいるおかげで驚くほど気楽だった。面倒な質問もなければ、詮索や好奇の目もない。誰もが遥真の放つ圧倒的な存在感に気圧され、余計なことを言おうとしなかった。たまに一、二人が質問しても、遥真が先に受け止めてうまく処理してしまうので、柚香の出る幕はまったくなかった。そのせいで、この席は親族の顔合わせというより、ただの食事会のような雰囲気になっていた。ほとんどの時間、黒崎家の人たちが遥真にお世辞を並べ立て、お互いを持ち上げ合うような会話をしているのが聞こえていた。夕食が半ばを過ぎた頃、柚香はふと、気品に満ちた落ち着いた雰囲気をまとい、無表情で座る遥真へ視線を向けた。その視線に気づいたのか、彼は会話を切り上げてこちらを見る。その瞳には、本人すら気づいていないような優しさと気遣いが宿っていた。「どうした?」「ううん、何でもない」柚香は視線を逸らした。「席を外したくなったら言って」遥真は声を落とし、彼女の耳元で囁く。「俺が何とかするから」柚香の表情が一瞬揺れた。昔も彼は、どんな食事会でもいつもそう言ってくれた。時には彼女が口にする前から、彼女を連れてその場を離れていたことさえあった。ガタン。カラン。その時、遥真の前に置かれていたグラスが突然倒れた。中の酒が彼の服に派手にこぼれる。「申し訳ありません!久瀬社長、大丈夫ですか!?」酒を注ごうとしていた相手は顔色を変えた。これは黒崎家の家族の宴とはいえ、遥真がこの業界でどれほどの地位にいるかは誰もが知っている。酒を注いでいる最中に誤って酒をかけてしまい、遥真が黒崎家からの挑発だと受け取るのではないかと、皆ひやひやしていた。「大したことじゃない」遥真は立ち上がり、服についた酒を軽く払った。「着替えてくる」「はいはい」皆が慌ててうなずいた。「俺、この辺りはあまり詳しくないんだ。柚香、案内してくれないか」遥真の視線が柚香へ向く。低く穏やかな声だったが、その目が何を言いたいのかは柚香にも分かった。彼女は周囲を見回した。常和が軽く頷く。「行ってきなさい」ほかの人たちも、先ほどまでのよそよそしさが消え、彼女を見る目にいくらか丁寧さが混じっていた
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第652話

「それは……」皆は顔を見合わせた。「親子鑑定の結果は見たか?」昭彦が口を開いた。その一言で、場の空気が一変した。誰も何と答えればいいのかわからない。昭彦は黒崎グループの筆頭株主だが、昭彦の手元にも相当数の株がある。少なくともこの場にいる人たちの中では、二番手と言っていい立場だ。「俺が聞いている話では、柚香は安江が京原市で別の男との間に産んだ子どもらしい」承輝はこの話を大きくしたかった。さっきまで遥真がいたから言いにくかったが、今はもう遠慮する必要がない。この話は半分本当で、半分は作り話だった。たとえ昭彦が反論しようとしても、どこから否定すればいいのか分からないはずだ。「本当なのか?」「昭彦、本当に親子鑑定はしたのか?」「そういえば、安江とはもう二十年以上も連絡を取っていなかったんだろう?どうして柚香が自分の娘だって分かるんだ?」「神崎家と黒崎家は昔から対立してきたし、柚香は神崎家が黒崎家に仕返しするために送り込んだんじゃないのか?今も神崎家とかなり親しくしているって聞くし」その場は一気にざわついた。昭彦は承輝をちらりと見た。この流れが承輝の差し金ではないなど、これっぽっちも信じていない。「昭彦、どうして黙ってる?」承輝が問い詰める。「まさか親子鑑定なんてしていないのか?昔、安江を好きだったからって、あの子が自分の娘だと思い込んでいるわけじゃないだろうな?」「柚香は俺の娘だ。信じるかどうかは勝手にしろ」昭彦はいつも通り、威圧感のある視線でその場にいる者たちを見渡した。「少しでも頭が回る人間なら、俺とあの子の関係くらい見れば分かるはずだ」皆は顔を見合わせた。確かにその通りだった。もともと半信半疑だったが、今日実際に柚香の顔を見て、その七、八割は昭彦にそっくりな顔立ちを見れば信じざるを得なかった。とはいえ、信じることと納得することは別だ。承輝側の人間が、昭彦の株を今まで黒崎家で暮らしたこともない部外者に譲るのを黙って見過ごすはずがない。「そうは言っても、株の件は慎重に考えるべきだ」「柚香は神崎家との関係が深すぎる。彼女に譲るのは確かに問題がある」「じゃあ柚香に譲らずに、承輝の役立たずの息子に譲れっていうのか?」昭彦は容赦なく本音を突きつけ、言葉も遠慮がなかった。「それとも、
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第653話

常和は視線をそらし、彼と目を合わせるのを避けた。株式譲渡となれば、DNA鑑定は欠かせない。本人が望もうと望むまいと、必ず踏まなければならない手順だ。恨むなら、柚香が黒崎家で育たなかったことを恨むしかない。「遥真はまだ来ないのか?」常和は外へちらりと目を向け、ゆったりした口調で言った。「柚香に聞いてみなさい。着る服が見つからなかったんじゃないか」昭彦は何も言わなかった。だが遥真がいない隙を見て、ほかの者たちが次々と質問を始めた。「常和様、遥真がここに来たのには何か特別な意味があるのか?」「彼と柚香は一体どういう関係なんだ?」「二人は離婚したんじゃなかったのか?」結局のところ、この場にいる連中は皆、自分の利益が最優先だ。遥真という大物を目の前にして、簡単に手放す気などない。昭彦や安江が柚香のために将来への道を整えてやるのと、遥真とのつながりでは話が別だ。比べるなら、彼らは目に見える利益のある未来のほうを好む。「今の若い子は離婚なんて遊びみたいなものだからな」常和ははっきりとは言わなかったが、言葉の端々に誘導する意図が滲んでいた。「二人の様子を見てみろ。離婚したように見えるか?」一同は顔を見合わせた。見えない。むしろ喧嘩中の恋人同士にしか見えなかった。「好きに遊ばせておけばいい」常和は気楽そうに言った。「気が済んだら、そのうち復縁するさ」昭彦はちらりと彼を見た。利益優先の考え方は、何年経っても変わらない。もし柚香が最初から遥真と何の関係もなかったら、この人はまた昔のように、自分のやろうとすることを全力で邪魔していただろうか。「何だ、その目は」常和は彼の視線など意にも介さず言った。「柚香には聞いたのか?何て言ってた?」「聞いてない」昭彦が答える。常和はわざと怒ったふりをした。「君は……」昭彦の胸の中には苛立ちが渦巻いていた。「もう大人なんだ。戻る気があるなら、こちらが言わなくても戻ってくる」「戻ってこないなら、二人で話したいことがあるんだろう。邪魔をしないのが礼儀だ」もともとは遥真の力を借りて、柚香の目的を叶えようとしていた。なのに食事の席で、目の前で娘を連れ去られた。どう考えても割に合わない。そう思った昭彦は、こっそり柚香にメッセージを送った。【着替え終わったか?】
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第654話

柚香は、自分の手を遥真の手の中からそっと引き抜いた。手のひらから温もりが消えた瞬間、遥真は胸にぽっかり穴が空いたような気がした。「離婚するときに約束したこと、忘れたの?」柚香は彼との距離を取る。表情はよそよそしく、冷たかった。「何を?」遥真は尋ねる。柚香は過去の話を持ち出した。「私のことに干渉しないこと。私の前に現れないこと」遥真は頷く。「覚えてる」「だったら、どうして……」「陽翔の誕生日の夜、君が約束の内容を更新しただろ」遥真もまた、その時の話を持ち出した。「条件を全部、『離婚した後、赤の他人でいよう』に変えた。思い出せないなら、俺が思い出させてやってもいい」「あれは、あなたと友達になるのが嫌で適当に言っただけ」柚香は反論した。「でも、その前に話していたのは約束の内容だった」遥真の視線が彼女の顔に落ちる。柚香は黙り込んだ。だからあのとき、彼が唐突に「ありがとう」と言ったのか。「じゃあ今、その内容を元に戻す」柚香はもともとごねる性格ではなかったが、この状況ではそうでもしないとどうにもならない。「最初の約束どおりにして。私の生活に干渉しないこと。私の前に現れないこと」遥真は淡々と言った。「何度も都合よく変えられると思うな」柚香は眉をひそめて彼を見る。遥真はまっすぐ視線を返した。しばらくして。彼を説得できないと悟った柚香は、仕方なく新しい約束の内容に話を戻した。「でも今のあなたの行動、どう見ても他人のすることじゃないよね」「好きな相手なら、赤の他人だろうと俺はこうする」遥真が言いたかったのは、大人になってから再会したあの日のことだった。だが柚香は気づかなかった。「ずいぶん誰にでも優しいのね」遥真は即答した。「君だけだ」「……」「子どもの頃からずっと、君だけ」絶望の底にいた自分を救い出してくれた少女。そして大人になり、パーティーで再会したとき、一目見ただけで目を奪われた女性。彼女はいつだって、遥真にとって特別な存在だった。だが柚香は信じなかった。一度離婚を経験した今、甘い言葉にはもう簡単に心を動かされない。「行こう」遥真は今度は手をつながなかった。彼女が嫌がると分かっていたからだ。「帰ろう」柚香は彼の横を通り過ぎ、そのまま歩いていく。だが分かれ道に差
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第655話

メッセージを見た警備責任者は、すぐにその内容を常和に伝えた。「常和様、警備から連絡です。久瀬社長と柚香さんが先にお帰りになったそうです」「何だと?」「さっき彼にお酒をかけてしまった件が原因なのか?」「俺だってわざとじゃないんだ。久瀬グループの社長が、そこまで器の小さい人間じゃないだろう」「引き止めますか?」警備責任者が尋ねた。「いや、いい」常和は厳しい表情のまま、重々しく口を開いた。「こちらの礼が足りなかった。相手が不快に思って帰るのも無理はない」ちょうどその時、昭彦のスマホに、柚香からメッセージが届いた。【昭彦さん、私と遥真は先に失礼します】そして遥真からも。【舞台は整えておきました。あとはお好きなように動いてください。こちらはいつでも合わせます】昭彦の胸には、何とも言えない感情が込み上げた。もともとは、この男が柚香を連れ去ったような気がして気に入らなかった。だが今となっては、怒りたくても怒れない。柚香に株式を手に入れさせるため、自分が利用されることすら厭わない。その姿から、遥真が本気で柚香を想っていることが伝わってきた。それでも昭彦は、ひと言だけ釘を刺した。【黒崎家の連中は一筋縄ではいかない】遥真を敵に回したくなくて大人しくしている者もいるだろう。だが承輝派の人間は違う。必ずこの機会に騒ぎを起こすはずだ。その時になれば、どんな非常識な真似や行き過ぎた行動に出るか分からない。黒崎グループの株式のためなら、承輝は何だってやる男なのだ。遥真からの返信は、あまりにもあっさりしていた。【修司より手強しいですか?】昭彦は思わず手を止めた。それは……ない。【遠慮なくやってください。気にする必要はありません】遥真のメッセージは続いた。【残りは俺が片付けます】「常和様、昭彦社長」突然、恭介の声が響いた。仕立ての良いスーツを着た彼は二人の傍らに立ち、紳士的でありながら仕事のできる雰囲気を漂わせている。「社長と柚香さんは急ぎの用事ができまして、先に戻られました。お二人にご挨拶だけお伝えするよう言われています」「分かった」昭彦が頷く。恭介は微笑みを浮かべると、迷いのない足取りで去っていった。その後ろ姿を見送りながら、皆の胸には理由の分からない不安が広がっていく。普段なら遥真の機嫌
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第656話

皆「???」常和「?」ほとんどの人が状況を飲み込めず、ぽかんとしていた。どうして話がここまで大ごとになったのか、まったく分からない。「ただ酒を一杯こぼしただけじゃないか?」誰かが口を開く。「そんな大したことでもないだろ?」「酒をこぼす前に、君たちは何を話していた?」昭彦は彼らに視線を向けた。皆は顔を見合わせる。世間話をして、仕事の話で持ち上げ合い。離婚の噂が本当なのかと聞いたり……酒が進んで気分が高まると、なぜ柚香を好きになったのかまで聞いていた。「あれはただの食事会での雑談だろう」昭彦に言われ、彼らも少しずつ思い出し始めた。「今までの食事会だって、いつもこんな感じだったじゃないか」多くの人は表向きこそ愛妻家や家庭思いを演じている。だが、それも所詮は見せかけだ。熱が冷めれば何も残らない。まさか久瀬グループの社長が、本気で恋愛感情を抱いているとは思えなかった。「まさか、本当に……」「本当に何だ?」昭彦が問い返した。「昭彦、正直に教えてくれ」不安になった一人が自ら尋ねた。「遥真の柚香への気持ちは、ただの好意とビジネス上の利益なのか。それとも本当に大切に思っているのか?」昭彦は逆に聞いた。「君たちはどう思う?」皆は再び顔を見合わせた。まさか本気の恋なのか?だが、久瀬家がそんなことを許すのだろうか。「今夜の家族の集まりは最初からはっきりしていた。柚香の帰国祝いで、みんなに紹介するための席だった」昭彦は話を元に戻し、淡々と続ける。「それなのに君たちは最初から遥真にばかり注目して、言葉の端々で柚香を軽く見ていた。もし自分が大切にしている相手をそんなふうに扱われたら、最後まで平然と食事を続けていられるか?」皆「……」できるはずがない。その場で怒り出さなかっただけでも十分大人の対応だ。「遥真がその場で君たちと揉めなかったのは、柚香の顔を立てたからだ。せっかくの歓迎会を台無しにしたくなかっただけだ」昭彦の言葉は容赦がなかった。「それに黒崎家を飲み込むだって?もし俺が完全に手を引いたとしても、株を持っていなくても、遥真が本気で黒崎家を潰そうと思えば、ここにいる誰が止められる?」その言葉に、全員が黙り込んだ。ようやく、自分たちがいつの間にか承輝の話に引きずられていたことに気付いたのだ。
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第657話

「さっき君たちがあの子を無視してたときは、そんなこと考えもしなかったくせに」昭彦はまったく取り合わず、険しい顔のまま言った。「君たちのために娘の機嫌を損ねろって?そんなバカなことすると思うか」皆「……」確かにそうかもしれない。だが、そこまでストレートに言わなくてもいいだろう。家族なのに、そこまで怒る必要があるのか。「何だかんだ言っても、あの子だって黒崎家の人間なんだから……」しばらくして、誰かが口を開いた。「いつから黒崎家の人間になったんだ?父親の俺が知らないんだが?」昭彦はわざとそう言った。皆「?」「娘じゃないのか?」「娘だ」昭彦は即答した。皆は当然だと言わんばかりだった。「今の黒崎家当主は君だ、君の娘が黒崎家の人間なのは当たり前だろ?」「さっきまで『親子鑑定もないし、柚香は安江と別の男との子かもしれない』って言ってたのは誰だ?」もともと昭彦は気が短い。これまで抑えていたのは、立場と年齢のおかげに過ぎない。「別に笑われても構わないが、今のところ柚香は俺を父親として認めるつもりはない」皆「!?」全員が固まった。まさかそんな事情があったとは。こんな好条件の父親を、どうして認めないのか。黒崎家は蒼海市四大名家の一つであり、昭彦自身も蒼海市屈指の実力者だ。それなのに柚香は何を考えているのだろう。「株だって、俺が無理やり押し付けようとしてるだけだ」昭彦の言葉は、少なくとも嘘ではなかった。「みんなをバカにするのもいい加減にしろ」承輝はさすがに聞いていられなかった。これ以上言わせたら、もともと昭彦の能力を過大評価している連中は本気で信じてしまう。「本当に欲しくないなら、どうして神崎家の株を手に入れるためにあそこまで動いた?嘘をつくなら、もう少し現実味のある話をしろ」常和は昭彦をちらりと見た。――昭彦、やりすぎたな。最初から順序どおり進めていれば、こんな面倒なことにはならなかったのに。「神崎家の株はもともと安江のものだ。母親の代わりに取り戻しただけだろ」昭彦は淡々と言った。「それに黒崎家については、当時君たちが安江に何をしたか、自分たちが一番よく分かってるはずだ」嫌がらせをする者。足を引っ張る者。黒崎家で安江をまともに受け入れていたのは、昭彦以外に一人もいなかった。食卓
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第658話

昭彦は、自分の資産がどれだけあるのか本人でも把握しきれないほどだった。これだけの財産を持っていれば、権力争いや人との駆け引きにうんざりしていても不思議ではない。実際、黒崎家がここまで繁栄してきたのは、すべて彼のおかげだった。彼と、彼が育て上げた人材がいなくなれば、別の人間が会社を管理しても、短期間では大きな変化はないかもしれない。だが五年も経たないうちに黒崎家は四大名家の最下位に転落し、さらにその先はもっと悲惨なことになる可能性もある。「昭彦……」年長者たちは皆、彼を引き留めようとした。「用事があるので先に失礼する」昭彦は聞く耳を持たず、黒い瞳でその場をひと通り見渡した。「ごゆっくりどうぞ」「何かあっても、話し合えばいいだろう」「和樹さんの退職だって、そんなに急ぐ必要はない」「株の件については、俺たちは反対していない」中立を保っていた者たちが口を開く。昭彦は振り返ることもなく、そのまま立ち去った。もともとは遥真に合わせて一芝居打つため、少し脅しをかけるつもりだっただけだ。だが今となっては、先ほどの分析にも一理あると思えてきた。説得のために無駄な労力を使うくらいなら、彼ら自身に現実を思い知らせた方が早い。昭彦が去ると、会場の議論はさらに白熱した。全員の視線が常和へと向けられる。「止めなくていいのか?」「止める必要はない」常和は諦めたのか、それともまだ何か考えているのか分からない表情で答えた。「昔の件では俺があいつに借りがある。二十年以上前、一度あいつの人生に口を出した。今さらまた無理やり従わせるわけにはいかない」それに、今となっては無理に押さえつけようとしても、できるとは限らない。あの頃の安江には通用したやり方も、柚香には通用しないだろう。だからこそ昭彦は、食事会であれほどはっきりと言い切れたのだ。彼も安江も、柚香と遥真の復縁には期待していないし、むしろ止めたいと思っている。だが、その場にいた人間たちは違った。彼らは二人がやり直すと本気で信じている。黒崎家を出ると、昭彦は柚香にメッセージを送った。「しばらくの間、黒崎家の人間が君に会いに来ても、一切会うな」そのメッセージを見た時、柚香はまだ遥真の車の中にいた。表情の変化に気づいた遥真が尋ねる。「どうしたの?」柚香はス
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第659話

「そもそも引き止めなければ、社長だって冷えずに済んだんですよ」慎吾は相変わらず独特な理屈を口にする。「寒い思いをさせておいて心配するなんて、人を刺しておいて『痛くない?』って聞くようなものでしょう」遥真「?」恭介「???」柚香「?」三人とも、その言葉に完全に呆気に取られた。しかも慎吾はまだ続ける。「そもそも、なんでわざわざ車を降りて、こんな寒い冬の夜に話す必要があるんです?車の中じゃダメなんですか?家の中じゃ話せないんですか?」「勉強になった」遥真は反論しなかった。柚香が降りるのが早かったし、自分を家に迎え入れる気がないことも分かっていた。だからこそ、ここで話すしかなかった。けれどよく考えれば、陽翔に会うついでという形で家に入って話をすれば、きっと彼女も断らなかっただろう。「社長」慎吾は遥真と敵対しない約束はしていたが、それと問題点を指摘しないことは別だった。「外は寒いです。中に入りましょう」柚香はそのまま歩き出した。一度も振り返ることなく。彼女の後ろ姿が建物の中へ消え、視界から見えなくなって初めて、遥真は車に乗り込み、その場を後にした。「社長」恭介は何度目か分からないほど、慎吾という人間の思考回路は普通じゃないと思っていた。「彼、本当にあそこで育った人なんですか?あんな言い方して、今まで殴られたことないんですかね」「資料では実戦能力が一番高かっただろ」遥真は淡々と言う。「……」恭介は黙った。まあ、腕が立つ人間は違うということか。「でも、あいつの言ってることは全部正論だ」遥真は物事を冷静に見られる人間だった。どんなことでも、学ぶべき点があれば素直に受け入れる。「ただ、多くの人はそこまで考えが及ばないだけだ」「でも、あの人の言う通りにしたら、全然ロマンがないじゃないですか」恭介は苦笑する。「車を降りたら一言も話さず、そのまま別れる。時間も一秒たりとも無駄にしないなんて」「人それぞれ、大事にしてるものが違う」遥真は理解していた。「ボディーガードとしては、柚香を寒さにさらしたくないと思うのは当然だ。そこまで気が回らなかったのは俺の落ち度だった」以前いた蒼海市も、冬はかなり寒かった。それでも外出するときも帰宅するときも、寒さにさらされることはほとんどない。目的地の駐車場には暖
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第660話

柚香が誰かと結婚したいと思っても、そう簡単に結婚できるわけじゃないだろう。柚香は、このほんの短い間に遥真の心境が大きく変わっていたことなど知る由もなかった。家に帰ると二階へ上がり、安江と陽翔のところへ行って、いつものように他愛ない話をした。それから三十分ほど経った頃、柚香のスマホが鳴った。知らない番号だったが、青葉医療を引き継いでからは、こういう電話もむやみに切らないようにしていた。「もしもし、どちら様ですか?」「柚香かな?俺は君の叔父だ。今夜会っただろう」相手は簡単に名乗ると、時間を無駄にすることなく続けた。「明日、時間があれば一緒に食事でもどうかな?」柚香は少し考えた。けれど、誰だったか思い出せない。黒崎家の人たちについては、以前安江から資料を見せてもらっていた。ただ今日は、昭彦が一人ひとり紹介する前に、柚香と遥真は帰ってしまった。そのため、この人にはまったく覚えがなかった。「君たちがあまりに早く帰ったから、叔父もゆっくり話せなかったんだ」返事がないのを察した相手は、気まずくならないよう慌てて言葉を継いだ。「最近ちょっと忙しくて」柚香は以前康平に言われたことを思い出し、会話の主導権を握ろうとした。「落ち着いたら、こちらからご挨拶に伺います」相手はしばらく黙り込んだ。二、三秒ほどしてから口を開く。「君、俺が誰か分かって……」その言葉に重なるように、柚香も口を開いた。「すみません、別の電話が入ったので失礼します」そう言って電話を切った。もっとも、本当に別の電話がかかってきていた。一方その頃、「叔父」たちは、電話をかけた本人を一斉に責めていた。「柚香ちゃんがあそこまで言ってくれたのに、なんで話をまとめなかったんだ!」「いや、あの子、俺が誰かも分かってないのに、どうやって話を進めろっていうんだ?」彼は複雑な表情でため息をついた。「それに、大人が『落ち着いたら伺います』って言うのがどういう意味か、分かるだろ?」「分からないふりをすればいいんだよ。住所を送って、『お待ちしています』って言えばいい」「そうそう。来るかどうかはあの子次第だけど、こっちの誠意は見せないとな」「住所を送ったら、もう一回電話しろ。今度はもっと丁寧にな」「急げよ。他の連中に先を越されるぞ」男はもう一度ため息を
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