All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

「あなたは休んでなさい」安江は柚香にそう言った。どうでもいいことで余計な気を遣わせたくなかったのだ。「こっちは私が対応するから」「うん」柚香はそう返事をして、その場を離れた。昭彦が母に会いに来たのだと、柚香には分かっていた。今夜の出来事を知って母が気を悪くし、自分に悪い印象を持つのではないかと心配しているのだろう。母と昭彦のことに、自分が口を挟むつもりはない。今夜が終わっても、しばらくは仕事で忙しい日々が続く。最初のプロジェクトはほぼ完了し、あとは承認のサインをもらって検収を終えるだけだ。しかし、拓海の性格を考えれば、そう簡単には終わらせてくれないだろう。そんなことを考えているうちに、気持ちは少し重くなった。その後の展開は、案の定だった。検収の承認サインをもらうのは、決して簡単なことではなかった。だが、検収が終わらなければプロジェクトの資金は会社の口座に振り込まれず、彼女の仕事も完了したことにはならない。恭介はその件を遥真に報告し、あわせて指示を仰いだ。「こちらから相手に一声かけましょうか?」遥真にとっては、こんなのは取るに足らない些細な問題だ。恭介が動くまでもなく、簡単に片づけられる。だが、どんなコネも力も使えない柚香にとっては、とても難しいことだった。そして、それこそが大半の人の現実でもある。「いや」遥真は助けたい気持ちを抑えた。「もう少し本人にやらせてみよう」「拓海の部下が、検収担当者と接触しています」恭介が続ける。「わざとサインを引き延ばすよう仕向けるかもしれません」「今はまだ放っておけ」遥真は、柚香に十分な成長の機会と自由を与えるつもりだ。「相手のやっていることは全部記録しておけ。必要になった時に出せばいい」「承知しました」この件を解決するまでに、柚香は何度も何度も足を運んだ。そしてその時になって初めて、多くの人が、本来なら自分のもののはずの権利を手にするだけでもどれほど大変なのかを思い知った。手順どおりにプロジェクトは完了している。それでも最後の最後で、わざと足止めされるのだ。ようやく関係者全員のサインがそろうと、柚香は書類を慎吾に渡し、銀行へ提出してもらった。あと二日で大晦日。年が明ければ、プロジェクトの資金が会社の口座へ振り込まれる。これで最初のプロジェクトも
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第662話

慎吾と康平は顔を見合わせた。先に口を開いた慎吾は、まるで感情のないロボットのような顔で、給料を引かれることなんて気にもしていない様子で言った。「ダサいです」柚香は肩をすくめた。「私はそういう人だから」慎吾「それだと、社長がすごく普通に見えます」柚香「普通の社長でいいの」慎吾「俺たちは普通じゃない人のほうが好きです」「俺たち?」と柚香が聞く。「それはこいつだけです。俺は関係ありません」康平はいつも通りの口調で言った。「忠実なボディーガードとして言わせてもらえば、社長がどんな姿でも全部好きですよ」慎吾と柚香は同時に黙り込んだ。――キザすぎる。柚香は気持ちを整えて言う。「いいこと言うじゃない」「???」慎吾はわずかに眉を動かしただけで、無言のまま彼女を見つめる。柚香も視線を合わせた。「私を見るんじゃなくて、これからも私のところで働きたいなら、康平を見習いなさい」慎吾は視線を外し、真面目な顔で言った。「病院へ行きましょう。社長はたぶん具合が悪いです。予約を取ります」康平が提案する。「脳神経外科と精神科、両方ですね」慎吾はうなずいた。「わかりました」「???」柚香は頭の中が疑問符だらけだった。本人の目の前でそこまで言って、クビになるとは思わないの?その疑問は、家に着いて車を降りたあと、そのまま二人にぶつけた。康平は迷いなく答える。「社長はそんなことしません」慎吾も続けてうなずく。「そうです」「その自信はどこから来るの?」柚香は率直に聞いた。ますますこの二人が読めなくなってきた。康平は笑うと、少し悪戯っぽさと不良っぽい雰囲気をにじませた。「社長以外に誰がくれるんです?社長は本当にいい上司です。冗談と本気の区別がちゃんとついてるし、俺たちがたまに口が悪くなるだけで、本気じゃないってわかってくれてるんです。本気で怒ったりしません」慎吾もうなずく。「その通りです」「私は怒るけど?」柚香が言う。康平は笑うだけ。慎吾は相変わらず無表情だった。柚香は念を押した。「本当に怒るからね」「じゃあ、社長が俺たちに出て行ってほしいと思ったら、いつでも言ってください」そう言いながら康平は慎吾を連れて自分たちの部屋へ向かう。「そのときは一言も文句を言わず、おとなしく従います」言い終えた
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第663話

安江「……」昭彦「……」昭彦は、安江のあからさまに呆れた視線に気づき、表情を少し曇らせた。「まさか、あんなに早く上がってくるとは思わなかった」「株の件はどうなったの?」安江は話題を変え、それ以上その話を続ける気はなかった。「承輝派を除けば、他のみんなは俺に『株は柚香へ譲れ』って説得してる。もう少ししたら遥真のほうでも少し圧力をかけるだろうし、ほぼ決まりだ」安江は目を細め、何か考え込むように黙り込んだ。昭彦はその隙を逃さず尋ねた。「君が柚香に俺の株を受け取らせてもいいと思ってるってことは、つまり君も……」「せいぜい有効活用するだけ」安江は彼を許したことなど一度もなく、その言葉も本心だった。「どうせ承輝たちに狙われるんだから、それなら正面からぶつかったほうがいい」昭彦は思わず聞いた。「君は俺に、少しも情なんて残ってないのか?」「ない」「本当に、少しも?」「欠片もないわ」「これだけ何年も君一筋でいたんだから、それでも少しくらいは……?」昭彦は真剣そのものだった。「君が出て行ってから、俺は誰とも付き合ってない」安江はじっと彼を見つめる。昭彦は信じてもらえていないと思い、慌てて付け加えた。「本当だ。信じられないなら、みんなに聞いてくれてもいい」安江は短く言った。「……やっぱり、私の判断は正解だった」昭彦は首をかしげる。「何が?」「人って、自分の情けない部分を立派な理由で取り繕うものだから」安江は淡々と言い換えた。その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。昭彦はますます訳が分からなくなる。立派な理由?情けない部分?そう聞こうとした瞬間、彼女の思考回路をたどって、ある答えにたどり着いた。「まさか……俺がずっと独りだったのは、男として機能しないからだと思ってるのか?」安江は彼を見ることすらしなかった。それでも、彼女の言いたいことは十分伝わってきた。――じゃなきゃ何?「もし俺がそんな状態なら、柚香はどうやって生まれたんだ!」昭彦はここまで生きてきて、これほどまでに打ちのめされたのは初めてだった。「柚香ができた頃、あなたはまだ二十五歳にもなってなかったでしょ」安江はいたって真面目な口調で、落ち着き払って続ける。「ネットにも書いてあるけど、男の全盛期って短いらしいし。時期を考えれば、二十
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第664話

「その気持ちだけで十分」安江はまるで他人に接するような、よそよそしい口調で答えた。「家のことで忙しいから、今回は遠慮するよ」「それなら、俺がそちらへ行ってもいいかな?」和雄がそう尋ねる。安江は少し黙り込んだ。あれほど頑固で誇り高かった神崎家の元当主が、こんなふうに相手の顔色をうかがうようになったのは、いつからだろう。「大晦日の食事は家族だけで囲むものよ。あなたがいる場所じゃない」気持ちを落ち着けると、安江はきっぱり断った。過去を手放すことはできても、忘れたわけではない。「ほかに用がなければ、切ります」その一言が、和雄の胸に刃を突き立てたように痛んだ。時間だけが静かに流れていく。三、四秒待っても相手が何も言わないのを確認すると、安江は通話を切った。昭彦はその会話をすべて聞いていた。そしてこのときになって初めて、このところ安江が自分をそばに置くことを許してくれていたのは、本当にただ付き添いが必要だっただけで、少しずつ許してくれているわけではないのだと気づいた。それでも構わなかった。彼女のそばにいて、償い続けられるなら、それだけで十分だ。「お正月に神崎家へ挨拶に行きたかったら、陽翔を連れて行ってもいいわ」安江は柚香にスマホを返しながら言った。「さっきの話は、あくまで私とあの人の問題。あなたたちまで含めて言ったわけじゃないから」「うん、分かった」柚香は素直にうなずいた。夜十時半が近づいた頃。柚香は家の庭を散歩していると、偶然昭彦と顔を合わせた。相手は年上なので、自分から声をかける。「昭彦さん、まだ帰らないんですか?」昭彦「……」その挨拶、どうしても必要だったのか。「もう少ししたら帰るよ」「私に何か用ですか?」入口のほうから歩いてきたのを見て、柚香はそう尋ねた。「さっき安江が君に言っていたこと、本当の意味は分かっているか?」昭彦が聞く。「分かっています」「安江は過去のことがあるから、神崎家とは関わりたくないし、和雄にも会いたくない。でも、君たちが蒼海市へ来てから、あの人は君たちによくしてくれていただろう」昭彦は落ち着いた表情のまま、まるで父親のような口調で話した。柚香は否定しなかった。少なくとも今までを見る限り、和雄は常和よりずっと自分を気にかけてくれていた。一人は罪悪感と
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第665話

昭彦は過ちを犯した。けれど、その過ちに気づいたとき、真っ先に安江のもとへ行くことはしなかった。柚香から見れば、この実の父はあまりにも臆病だった。二十年以上もの間、一度も安江に会いに行かなかった。謝ることなど、なおさらだ。「柚香」昭彦が呼び止める。柚香は顔を上げて彼を見た。昭彦は何かに気づいたように口を開く。「君のお母さんは……昔、幸せじゃなかったのか?」「裏切られて傷ついた人が、幸せでいられるはずありません」柚香は正面から答えなかったが、それだけで十分だった。「体の傷だって治るまで時間がかかるんです。まして心の傷なら、なおさらです」昭彦は黙り込んだ。柚香は別れの挨拶をする。「お気をつけてお帰りください。私はもう入ります」「会いに行かなかったのは……どう向き合えばいいか分からなかったからだ」柚香が立ち去る前に、昭彦はそう言った。「みんなが、彼女は幸せに暮らしているから、静かな生活を邪魔するなって言うんだ」柚香はそっと唇を結ぶ。そして、まっすぐ問いかけた。「……それは、母もそう言ったんですか?」昭彦の表情が止まる。違う。安江があの夜に言ったのは、「あなたを憎んでいる。一生許さない」という言葉だけだった。「たとえ母がそう言ったとしても、自分のしたことには、ちゃんと謝るべきだったと思います」柚香はただ、善悪の話をしているだけだった。「自分では一途なつもりで、ただ待ち続けるんじゃなくて」その一言は、鋭い刃のように昭彦の胸へ突き刺さった。こんなふうに言われたのは、初めてだった。「一生結婚せず、子どもも作らなかったからって、それだけで母への愛が深かった証明にはなりません」柚香の言葉は容赦がない。「それはただ、臆病だったということです。好きだと言う勇気も、一歩踏み出す勇気もなくて、ただその場に立ち止まったまま、自分の気持ちを『一途だった』と美化しているだけです」もし彼が安江に謝り、自分の想いもすべて伝えたうえで、それでも待ち続ける道を選んだのなら、柚香は何も言わない。それは、その人自身の選択だからだ。けれど、何もしないままただ待っていただけなら、それは滑稽でしかない。その「待つこと」で安江が受けた傷を消せるわけでもないし、時間を巻き戻して過去を変えられるわけでもない。なのに、いつしか何の意味
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第666話

仕事を頑張って、子どもを育てて、自分を大切にする。それ以外のことは、そのとき考えればいい、と柚香は思っていた。時はあっという間に過ぎていった。気づけば大晦日。柚香は安江とともに、別荘で働く人たち全員に休みを出した。康平と慎吾以外は皆、それぞれ実家へ帰っていった。年越しの食事について、柚香はレストランを予約するか、シェフを呼ぼうと思っていた。ところが、安江に止められた。「今日は私の腕前を見せるから」と言うのだ。結局、柚香は下ごしらえを手伝ってもらうために、使用人を二人だけ呼んだ。一方、慎吾と康平は買ってきたしめ飾りや正月飾りを手に、庭の飾り付けへ向かった。午前中いっぱいかけて作業すると、庭はすっかりお正月らしい雰囲気になっていた。「お嬢様、ここには門松を置いたほうが、もっと雰囲気が出ると思います」康平が別荘の玄関先を指差す。「いや、ダサい」慎吾は即座に言った。「何言ってるんだ。門松は歳神様を迎えるための大事な縁起物なんだぞ」慎吾は箱を一つ運んできた。「俺はこっちを飾るべきだと思う」康平が聞く。「店を開くわけじゃないんだから、そんなイルミネーションをいっぱい買ってどうするんだ」「夜はきれいだから」康平「……」柚香「……」「それと、南天も何鉢か買ってきました。正月飾りもちゃんと付いてます」普段はまるでロボットのように無表情な慎吾なのに、こういうことには妙に熱心だ。「門から五十メートルくらい入った分かれ道の両側に置けば、ちょうどいいと思います。その横の木にも正月飾りを付けましょう。だから正月飾りもたくさん用意してある」康平は反射的に柚香を見た。最初に柚香が「シンプルに飾ってね」と言っていたのとは、もはや正反対だ。慎吾が買ってきたものを全部飾ったら、別荘も庭もすっかり正月らしい景色になりそうだ。「好きにしていいよ」最初にシンプルと言ったのは、時間もないし、飾り付けが大変だと思っていただけだ。「面倒じゃなければ好きなだけ飾って。もちろん残業代は出ないけど」康平がおそるおそる聞く。「本当に好きにしていいんですか?」慎吾の目にも少し期待が浮かぶ。柚香は周囲を見回した。今のところセンスは悪くない。だから一言だけ付け加えた。「ただし、あんまりダサくしないでね」「ダサくはし
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第667話

柚香の胸がきゅっと締めつけられた。その様子を見た和雄は安心させるように言った。「大丈夫だよ、心配いらない」「これからは、お出かけのときはもう少しゆっくり歩いてくださいね」柚香は少し迷った末にそう口にした。「少しでも具合が悪いと思ったら、すぐ病院へ行ってください」「はいはい、わかったよ」和雄は柚香に気遣ってもらえたことが何より嬉しそうだった。「柚香の言うことはちゃんと聞くよ」柚香は和雄の腕を支えながらリビングへ向かった。遥真はずっと彼女のそばについていた。和雄にお茶とお菓子を運び終えて、ようやく柚香は遥真に初めて声をかけた。「陽翔なら二階に荷物を取りに行ってるの。あとで降りてきて、慎吾と一緒に正月飾りを付ける予定よ」「うん」それでも遥真は立ち去ろうとしない。柚香は不思議そうな表情を浮かべた。「君は?」遥真が尋ねる。「え?」柚香は一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。「このあと何をするの?」遥真は周囲を見回し、使用人の姿がないことを確認すると、穏やかな口調で続けた。「何か手伝えることはある?」柚香は「ない」と言いたかった。和雄と一緒に来ていなければ、とっくに追い返していたところだ。「暇なら台所に来てちょうだい」そこへ安江がひょっこり顔を出した。柚香ほど遠慮はしていない。どうせ遥真もこのあとここで年越し料理を食べるのだから、しっかり働いてもらったほうがいいと思ったのだ。「わかりました」遥真は素直に返事をし、台所へ向かった。ちょうどそのとき、陽翔が自分の飾りをたくさん抱えて二階から降りてきた。遥真の姿を見つけても挨拶もせず、小さな足で一目散に外へ駆けていく。弾むような声で嬉しそうに叫んだ。「康平おじさん、これ木に飾って!」「いいよ」「あとこれも!」「わかった、全部任せて」その途端、屋敷中が笑い声でいっぱいになった。康平と慎吾が陽翔と一緒に飾りつけをしながら遊び、陽翔は楽しそうにけらけら笑っていた。一方、安江と遥真は台所で年越し料理の支度を進めていた。慣れた手つきで料理をし、下ごしらえをこなす遥真を見て、安江は少し驚く。遥真が料理をできるなんて知らなかった。昔、まだ自分が事故に遭う前にしばらく一緒に過ごしたことはあったが、その頃はいつも家の使用人が料理をしていて、彼が台所に
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第668話

「これ、ちゃんとできる?」安江は遥真の前に並んだ食材をちらりと見た。「できます」「じゃあお願い」安江はあっさりした口調で言った。「こっちは任せるから、私はほかの準備をしてくる」「はい」柚香はまさか、たった十分もしないうちに遥真が母の信頼を勝ち取るなんて思ってもいなかった。和雄との話を終えたあと、庭へ出る。慎吾たちと二、三言話したところで、ポケットのスマホが鳴った。画面には昭彦の名前が表示されていた。 柚香は電話に出た。「昭彦さん」「もう大晦日だね」昭彦は低く落ち着いた声で言った。「お母さんは?さっき電話したんだけど出なくて」「今はキッチン。スマホは書斎で充電してるよ」昭彦は軽く咳払いをした。「悪いんだけど、そのスマホをお母さんに渡してもらえるかな。少し話したいことがあって」「わかった」そう返事をして歩き出そうとした、そのとき。「ママ!」陽翔が突然呼び止めた。柚香は足を止める。「どうしたの?」「今日の夜ごはん、本当にパパが作るの?」陽翔のよく通る声が庭中に響く。「もう何か月も料理してないのに、腕は前みたいなままなの?」電話の向こうの昭彦は思わず固まった。――遥真?柚香は陽翔の頭を優しくなでる。「この前三か月ぶりに作ったときだって、おいしいっていっぱい食べてたじゃない」そう言いながらも、心の中では首をかしげていた。陽翔は食べ物の好き嫌いがほとんどないし、遥真の料理の腕だって誰よりよく知っている。それなのに、どうして急にそんなことを言い出したのだろう。「柚香」昭彦が呼びかけた。「今、お母さんに電話を渡すね」柚香は陽翔のほっぺを軽くつまみ、その場を離れた。昭彦は複雑そうな声で尋ねる。「遥真がそっちにいるのか?」柚香は少し間を置き、正直に答えた。「和雄さんを送ってきてくれたの」――和雄まで来ているのか。「こっちで急に用事ができた」昭彦はすぐに言葉を継いだ。さっきまでより少し感情の混じった落ち着いた口調だった。「お母さんの手が空いたら、そのとき改めて電話するよ」過ちを抱えた父親と、娘を傷つけた元婿がそろっているというのに、本来なら堂々と恋人としてそこにいるはずの自分だけがいないなんて、あまりにも格好がつかない。「……?」柚香が何か言おうとした瞬間、電話はあっさり切れてしま
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第669話

「あれは安江が俺を気遣ってくれただけだよ。それに、ついでに遥真の実力を試してみたかったんだろ」昭彦はそんな言い訳を口にした。自分が敵わなかったなんて、認めるつもりはさらさらない。和雄はため息をつく。「この年寄りを騙すのは構わんが、自分まで騙してしまうのは哀れだぞ」昭彦「……」昭彦はどうしても納得できない。遥真のあいつ、一体どうやって育ったんだ?仕事はできるし、顔もいい。そのうえ今じゃ料理まで作れる。これまで一体どんな人生を歩んできたんだ?そんなに暇だったのか?そのことは安江も少し気になっていた。遥真が手際よく二品を仕上げ、あとは蒸すだけというところで、安江が口を開く。「料理って、いつ覚えたの?」「十六、七歳くらいですかね」遥真はそう答えた。安江は少し意外そうな顔をする。遥真はその表情を見て、自分から説明した。「留学してた頃、向こうの料理が口に合わなくて。それで自分で作るようになったんです」その答えを聞いて、安江はますます不思議に思った。久瀬家ほどの財力と権力があれば、料理人を一人雇うくらい、簡単なことのはずだ。それなのに、どうして自分で料理を覚える必要があったのだろう。実際には、その頃の雅人は別件の対応に追われていて、遥真の生活にまで気を配る余裕がなかった。遥真自身も頭の中は勉強を終えて帰国することしかなく、料理人を雇うことなど考えもしなかった。その後の一時間ほど。遥真と安江はずっとキッチンで料理をしていた。柚香が呼んでいた下ごしらえ担当の使用人二人は、逆に出番がほとんどない。一方、柚香や慎吾たちはリビングの飾り付けを見事に仕上げていた。お正月らしい華やかさにあふれながらも、どこか新鮮で目を引く空間になっている。これまで昭彦も和雄も、こういう飾りにはあまり興味がなかったが、今年は例年以上に新年を迎える特別な空気を感じていた。気づけば午後六時。すべての料理が完成し、次々とテーブルへ運ばれていく。色も香りも盛り付けも完璧な料理が並ぶ光景を見て、昭彦は疑いの目を遥真へ向けた。……本当に、これ全部あいつが作ったのか?「うわぁ!見てるだけでお腹空いてきた!」康平は慎吾の隣に座りながら目を輝かせる。「料理ができる人って、本当に尊敬する!」慎吾は料理を一通り見渡して、短く言
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第670話

柚香は、この数か月ずっと張り詰めていた心が、この瞬間ようやく完全にほどけた。康平の語る話に耳を傾け、慎吾の絶妙なツッコミに笑い、昭彦と和雄が時折交わす軽口にも自然と頬が緩む。時は流れ、楽しい時間はまだ続いていた。一時間以上、皆で食べて飲んで笑って、本当に楽しいひとときを過ごした。夕食が終わったのは、夜の八時を過ぎてからだった。何も手伝っていなかった昭彦は、自分から食器洗いを引き受けた。安江に「食べに来ただけ」と思われたくなかったのだ。一方、遥真は、食事を終えると、皆と一緒にソファでくつろいでいた。和雄たちが昔話に花を咲かせる中、不意にスマホが鳴る。画面を見ると、雅人からだった。「ちょっと電話に出てくる」そう柚香と陽翔に声をかけると、スマホを持って外へ出た。柚香と陽翔は顔を見合わせたが、何も言わなかった。庭に出ると、周りに誰もいないことを確認してから、遥真は夜空の下で通話ボタンを押した。「何?」「まだ帰ってこないのか」雅人は目の前に並んだ料理を見つめながら、冷たく厳しい口調で言った。「料理が冷めるぞ」遥真は短く返す。「帰らない」その一言で雅人の怒りに火がついた。「大晦日に帰ってこないでどうする!みんな待ってるんだぞ!」「俺を待ってどうする」遥真は皮肉っぽく笑った。「俺は箸か?それとも茶碗か?」「遥真!」雅人の声が一気に大きくなる。だが遥真は聞こえなかったかのように、表情ひとつ変えない。「用がないなら切る」「柚香と一緒にいるんだろ?」電話を切られる前に、雅人は低く重い声で言った。「普段、会社もほったらかしてあいつと一緒に過ごしてることには何も言わなかった。でも年越しの食事にまで帰ってこないなんて、この家を軽く見すぎじゃないのか!」遥真はもう聞き飽きていた。結婚していた頃も、事情がなければ実家で食事をすることすらなかった。何度か一緒に食事するくらいで、昔のことが全部水に流れたとでも思っているのか。「今からでも飛行機に乗ればまだ間に合う。俺たちは……」雅人が言い終える前に、遥真は電話を切った。その先の言葉は、途中でぷつりと途切れる。二秒もしないうちに、また着信が入る。遥真はそのまま拒否し、電話には出なかった。雅人は怒りで顔を真っ青にした。「少し力をつけたからって、
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