All Chapters of 偽りの愛は危険な香り~恋の罠が次から次へ~: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

篠井由美(ささい よしみ)は家の「いい子」。この人生で犯した最も馬鹿げたことは、姉の宿敵を愛してしまったことだ。浮気性で多情な彼を満足させるため、由美は多くの場所での恥ずかしいプレイに付き合ってきた。「野外は刺激的だって……着替え、手伝おうか?」キャンプ用のテントの中。浅沼雅彦(あさぬま まさひこ)はシャツをはだけさせ、くっきりと割れた胸筋には、艶めかしい紅い痕が散らばっている。さっき、由美を誘って付けさせたものだ。由美は伏し目がちに呟く。「雅彦、今日は……やめにしない?」男は一瞬動きを止め、目を見開く。「生理か?」「ううん」雅彦はいつも激しく、物音も大きい。今日は彼の友人も一緒にキャンプに来ている。由美は恥ずかしそうに囁く。「外は……音が漏れるから」そして、もう一つ、もっと重要な理由がある。彼女は妊娠している。「優しくするから。あまり声を出すな。テントは離れてるし、あいつらには聞こえないさ」男は由美の柔らかな髪を指先で弄び、額をこつんと合わせる。蠱惑的な声で、甘く囁く。「やろうよ……由美も、ほしいだろ?」ベッドの上での雅彦は、甘やかすのも誘うのも上手い。由美はすぐに抗えなくなる。テントの中は暖色のムードランプで満たされ、雅彦はロマンチックな雰囲気を作るため、わざわざプラネタリウムライトまで持ち込んでいる。今、テントの天井には、満天の星が揺らめいている。雅彦の蕩けるような甘いキスと共に、テントが揺れ始める……由美が着ていたピンクのバニースーツが、引き裂かれていく。事後、すぐにスーツをきっちりと着こなした男が、由美の瞼にキスを落とした。「一服してくる。うろつくなよ。後でキャンピングカーに洗ってやる」由美は甘さと恥ずかしさを感じている。彼はいつもこんなに優しい。後始末まで手伝ってくれる。雅彦が出て行った後、由美は見知らぬ相手から友達申請のメッセージを受け取る。申請メッセージにはこうある。【篠井由美さん、大事な話があります】相手は自分の名前を知っている。由美は「承認」をタップする。次の瞬間、送られてきた写真。それはなんと、雅彦との婚姻届受理証明書。女性側の情報は落書きで隠されているが、日付は一ヶ月半前になっている。篠井家の家規は厳格で、浅沼家とは深い確執
Read more

第2話

「由美……」雅彦がハンディライトを片手に、慌てた様子でテントに滑り込んでくる。由美の姿を認めると、長い腕を伸ばし、彼女の後頭部を掴んで胸に引き寄せる。心地よい低音ボイスが、わずかに震えている。「明かりが消えていた。由美は暗いのが苦手だろ、怖かった?」上品なシダーウッドの香りが由美を包み込む。鼻の奥がツンとするが、雅彦を押し返し、冷たい声で言う。「平気よ。もうすぐ生理だし、キャンプは冷えるから、先に帰りたい」雅彦はテントのムードランプをつける。暖かみのある淡い黄色の光。ロマンチックな雰囲気を引き立てるためのものが、今の由美の目には、ただの皮肉にしか映らない。雅彦が深い眼差しを向ける。「由美、大事な誕生日プレゼントがあるんじゃなかったのか?」日付が変われば、雅彦の二十七歳の誕生日だ。由美は望み通り妊娠している。ついさっきまで、これこそが最高の誕生日プレゼントだと思っていた。この二年、雅彦はベッドの上で彼女を喜ばせるのが実に上手かった。ピルで体を傷めるのを嫌い、自らパイプカットの手術まで受けたほどだ。だが、できちゃった結婚に持ち込みたかった由美が、彼に頼み込んで元に戻す手術をしてもらった。雅彦は、本当は二人の子供なんて欲しくない。それなのに、あんなにも真に迫って彼女を愛しているフリができたなんて!今日診察してくれた医師には、妊娠初期はセックスを控えるようにと注意されていた。診察を受けた時点で、すでに妊娠五週目。二人は毎晩のように肌を重ね、時には雅彦が一晩に何度も由美を求めることもあった。それでも、お腹の赤ちゃんには影響がなかったようだ。雅彦を満足させるため、たった今、リスクを冒して彼との情事に付き合ったばかりだ。彼は約束通り、いつもよりずっと優しくしてくれた。妊娠のことはまだ知らない。もし知ってたら、今夜は……血の海にでもなってたんだろうか。フン。由美は目の前の男を見つめる。あんなによく知っているはずなのに、今はまるで知らない人のようだ。東都市一の名門・浅沼家の生まれで、容姿は一級品だ。身長188センチ。整った目鼻立ちに、夜のように濃い漆黒の瞳。プレイボーイとしての悪名高さが、かえって彼に危うい色気を与え、女性たちを惹きつけてやまない。だが残念なことに、その完璧な皮の中
Read more

第3話

電話の向こうは一瞬静まり、やがて光希の凛とした声が響いた。「あの男のこと聞いてどうするの。種馬みたいなクズ、あなたの世界に関わらせるべき人間じゃないわ。東都で偶然見かけても、絶対に避けなさい。いい?」とにかく、光希は雅彦を心底嫌っている。彼を褒める言葉など一つも出てこない。電話を切り、由美は芳美館へ入る。下腹部の痛みが強くなった気がした。バッグからエコー写真の検査票を取り出す。二つの胎嚢が写っている。この結果を見た時、彼女は泣きたいほど嬉しかった。今は、別の意味で本当に泣きそうだ……由美は検査票を置き、腹部の痛みをこらえながら荷物をまとめる。芳美館を出るためだ。「由美」雅彦が帰ってきた?由美は慌てて検査票を掴み、ソファの下に滑り込ませた。雅彦が寝室に入ってくる。ソファの傍らに立ち、スーツケースをそばに置いた由美を見た。整った眉をひそめた。「どこへ行くつもりだ?」由美は雅彦をじっと見つめ、心配を装った落ち着いた声で言った。「明日、お姉ちゃんが来るの」姉という言葉に、雅彦の瞳に異様な光が一瞬よぎった。今夜、彼の友人たちの話を聞かなければ、今の強張った目つきにも気づかなかったかもしれない。雅彦は一歩踏み出し、由美を腕に抱き寄せる。「荷造りは人を寄越させる。明日は空港まで送るから、今夜は行くな」由美は雅彦を押し返す。その瞬間、下腹部に再びズキリと重い痛みが走った。彼女は眉をひそめ、無意識に腹部を押さえる。雅彦はいつものように目敏い。「腹が痛むのか?」「たぶん、生理が来たみたい。ちょっとトイレに行ってくる」由美は足早にバスルームへ向かった。雅彦の黒い瞳をわずかに細めた。そして、キッチンへと向かう。バスルームで、由美は出血していることに気づいた。やっぱり、医者の言うことを聞くべきだった。無茶しちゃダメだった。でも、もうどうでもいい。たとえ双子だとしても、産むつもりはない。バスルームの収納棚から新しい下着を取り出して着替え、ナプキンを当てた。そして、わざと血の付いた下着を、ゴミ箱の目立つ場所に捨てる。雅彦は遊び人だが、ただのドラ息子ではない。常人離れした鋭さがある。直接見させなければ、生理が来たと信じないだろう。妊娠したことだけは、絶対に知られてはな
Read more

第4話

由美の心臓がズキズキと痛む。この二年、雅彦を一途に愛し、周りが見えていなかった。だからこんなに惨めに騙されたんだ。「日冴子、隠さないで教えて」日冴子は仕方なく、知っていることをすべて由美に話した。四年前、二十三歳だった雅彦は、あるバイクレースで光希に一目惚れした。光希を探すため、東都市中をひっくり返す勢いだったという。当時、光希はまだ十九歳。東都の大学に通っていた。傲慢な雅彦が、光希を二年間追いかけ回した。海辺で盛大なプロポーズをするため、フランスから「ピンク・アバランチェ」のバラを空輸し、クルーザーをバラで埋め尽くした。三時間にわたる花火ショーには、数千万円を投じたそうだ。誰もが雅彦の求婚が成功すると思った。だが、光希は容赦なく拒絶した。「あんたを愛することは永遠にないわ、諦めて。二度と付きまとわないで」と。「犬を好きになることはあっても、あんたを好きになることは絶対にない」とまで言い放った。二年間も彼と連絡を取り続けたのは、ただこの日のため。雅彦の顔に泥を塗り、数十年前に失われた篠井家の面子を取り戻すためだった。それ以来、雅彦は人が変わったように、服を着替えるがごとく女を取り替えるようになった。大学を卒業すると、光希は江都市に戻り、篠井グループに入社。浅沼家と篠井家の争いは、白熱化の一途を辿った。由美は、姉がバイク好きで、多くの公道レースでトロフィーを手にしていたことを知っている。だが、光希はそれにのめり込むことはなかった。将来、篠井グループを継ぐ自分が、単なる趣味に時間を費やすだけだったから。レースに出る目的も、有力な一族の御曹司たちと親交を結び、将来のビジネスに繋げるためだった。篠井家には娘が二人きり。跡継ぎとして厳しくしつけられた光希を尻目に、妹の由美は温和な性格もあって、蝶よ花よと育てられた。雅彦に近づくため、四年前、由美は姉のバイクをこっそり持ち出し、あるレースで雅彦に勝った。それが姉にバレると、光希は激怒した。由美を厳しく叱りつけ、「バイクなんて、由美が触っていいものじゃない。危ないし、関わってる連中もろくなやつじゃないんだから。純粋で世間知らずな由美が傷つけられたらどうするの」と。大好きな姉を怒らせたくなくて、それ以来、由美は二度とバイクに触れなかった。由美は唇を噛
Read more

第5話

雅彦の唇が由美のそれに触れようとした瞬間、彼女は顔を背けてそれを避けた。彼の親密な素振りに嫌悪感を覚える。だが、今はまだ彼に合わせなければならない。「今、生理中なの」雅彦の表情が曇る。「何を拗ねてる。俺が抱きたいだけだと思ってるのか?」じゃあ何だって言うの?まさか、愛してるとでも?由美は心の中で嘲笑った。男の深い瞳と整った顔立ちをぼんやりと見つめ、そのシャツの襟を掴む。白黒はっきりした大きな瞳が、無垢さと色っぽさをあわせ持っていた。「だって……いつも私といる時、一番してるのはそういうことじゃない」雅彦の顔は一瞬固まり、すぐに口の端を吊り上げた。「あまり構ってやれなくて悪かった……こうしよう。お前の姉さんが帰ってきたら、数日スケジュールを空ける。旅行に行こう。場所は、由美が選んでいい。ん?」実におだてるのが上手い。以前の自分なら、多忙な彼が時間を作って旅行に連れて行ってくれると聞けば、有頂天になって喜んだことだろう。だが今、冷静に考えれば、おかしなことばかりだ。雅彦は大量なプレゼントを贈ることと、ベッドの上で激しく求め合う以外、ほとんどの時間を彼女と共有してこなかった。そして、彼にとってプレゼントは最も安上がりなものだ。だって、あの人には金が有り余っているのだから。雅彦の電話が鳴った。彼は由美を下ろし、スマホを取り出す。由美の視界の端に、画面で点滅する「皐月」の二文字が映った。皐月って……あの「さつき」ね。雅彦は一度電話を切る。だが、すぐにまた着信音が鳴った。仕方なく、彼は通話ボタンを押す。しばらくして、眉をひそめた。「分かった。すぐ行く」スマホをしまうと、雅彦は由美の頬にキスを落とす。「生理中だろ。腹、痛いと心配だから、わざわざ寄り道して生姜入りの葛湯を持ってきた。ちゃんと食べるんだぞ。会議があるから、もう行く。いい子にしてろ、ん?」由美は淡々と頷いた。雅彦の姿がクローゼットから消える。彼を信頼しきっていた。電話一本で慌ただしく去っていくことも、これまで何度となくあった。彼のスマホの画面を、まともに見たことすらなかった。なんて馬鹿だったんだろう。遊び人の男が、一人の女だけで満足するはずがないのに。もし少しでも注意していれば、この二年、雅
Read more

第6話

今日は雅彦の誕生日。いつもなら、彼は友人たちとのパーティーを終えた後、由美と二人きりで誕生日を祝い直していた。由美は自嘲の笑みを浮かべる。約束なんて。要は、彼が用意したコスチュームを着て、ベッドで彼を満足させることだ。由美はスマホを閉じ、パソコンを開く。海外の大学への出願準備を始めた。彼女は今年二十歳になったばかりの大学二年生。十八歳で大学受験を終えた時、本当は海外に留学して、大好きなアニメーション制作を学ぶつもりだった。ただ、雅彦に出会ってしまったから。留学を諦め、彼に一番近い東都市の大学に進学先を変えた。結果、二年間という時間を無駄にした。これからの人生はもう二度と、こんな無駄なことに時間を費やすわけにはいかない。出願書類を入力し終え、由美は時計を見る。七時近くだった。光希を起こしに行った。光希は、あらかじめ「金蘭閣」の個室を予約していた。その店名を聞いた時、由美は一瞬固まった。金蘭閣は東都市でもトップ3に入る高級レストラン。雅彦が今夜、友人たちと誕生会を開いているのもこの店だ。だが、由美の表情はすぐに元に戻った。個室に着くと、由美はふと気になって尋ねた。「お姉ちゃん、今回東都市に来たのは何の商談?」「私のシェアリング充電ステーション事業に、人工知能システムを導入する件でね」「もしかして、『アークス・テクノロジー』?」光希は満足そうに笑う。「賢いわね」ここ数年、AIの発展は凄まじい。「アークス・テクノロジー」は瞬く間に頭角を現し、今や時価総額数百億の企業だ。「アークス・テクノロジーは今一番勢いがあるし、AI業界のトップ企業だもの。お姉ちゃんなら、当然そこを選ぶと思った」「さすがは私の妹ね。私のこと、よく分かってる」光希は愛おしそうに由美を見つめる。「でも、篠井グループのことは、あんまり心配しなくていいの。由美はしっかり勉強して、自分のやりたいことをやればいいんだから」由美は姉のことが不憫でたまらなかった。女性は体力面で男性に劣る。篠井家のこの世代には男がおらず、長女である光希が篠井グループの未来を背負わなければならなかった。幼い頃から、家族は光希に厳しく接してきた。対照的に、妹の由美はずっと気楽に生きてこられた。「お姉ちゃん、仕事、大変?」光希はメニューを見な
Read more

第7話

由美は姉に感づかれるのを恐れ、きつく抱きしめてくる男を押し返しながら、必死に取り繕った。「お手洗いにいる。今、蚊に刺されて」雅彦は由美を覗き込み、片方の眉を面白そうに吊り上げた。またキスをしようと顔を近づけてくる。由美は慌てて手でその唇を塞ぎながら、電話に向かって早口でまくし立てた。「もうすぐ戻るから待ってて。いったん切るね」由美は慌てて電話を切り、男はすかさず彼女の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。「雅彦!」由美は彼を突き飛ばし、鏡の前に駆け寄る。白く細い首筋に、生々しいキスマークが残っていた。彼女は眉をひそめ、怒りを込めて雅彦を睨みつける。「わざとでしょ。お姉ちゃんにバレさせたいのね」雅彦は後ろから彼女を抱きしめる。「姉さんは、彼氏を会わせろって言ってたんだろ?もし聞かれたら、俺が一緒に行ってやってもいい」由美は息を呑んだ。雅彦はこれまで何度も、彼女と一緒に篠井家へ挨拶に行ける、と言っていた。由美の方が心配して、拒否し続けてきた。どうやら、本当に姉に会いたいらしい。まだ諦めてないんだ。もちろん、今、彼を光希に会わせるわけにはいかない。だが、その理由は以前とはまったく違っていた。「うちの家族が、今すぐ賛成してくれるはずないって分かってるくせに、どうしてそんなこと言うの」首筋の痕に触れ、由美は甘えるように彼を睨む。「次から、こんなことしないで。もう戻らないと。お姉ちゃんを待たせられない」由美がトイレのドアに向かうと、男は背後から再び彼女の腰を抱きしめた。蠱惑的な低音が耳元で囁く。「なら、早く子供を作ろう……」子供……由美は伏し目がちに自分のお腹を見つめ、唇の端に痛々しい笑みを浮かべた。「……ええ」男はようやく彼女を解放した。「早く行け……今夜、待ってる」由美は足早にバスルームを出た。待ってる?行くわけないだろ。子供なんて、絶対に無理。由美が個室に戻ると、光希は瞬時に彼女の首筋のキスマークを見つけた。その美しく理知的な瞳が、鋭く細められる。「……さっきの、本当に蚊だったの?」「ううん。彼氏」光希は即座に言った。「どこにいるの?ちょうどいいわ、会わせて、由美に品定めしてあげる」「ううん、もういいの。さっき、彼と別れ話をしてきたところ。それ
Read more

第8話

雅彦は由美の腰を掴む。「俺と寝ないで、どうやって妊娠するつもりだ?公表もできないだろ。今夜、頑張ってみるか?ん?」正直、男のそんな卑猥な言葉も、恋している真っ最中なら魅惑的に響く。よく言えば、情熱的。だが、愛が冷めてしまえば、それはただの「下品」でしかない。由美は釘を刺す。「生理中だって言ってるでしょ!」雅彦は彼女を解放した。諦めたのかと思った、次の瞬間。男は口調を変えた。「だが、今日は俺の誕生日だ。由美は、約束したプレゼントをまだ渡してない」プレゼント。もう、あげるものなどない。「最高のプレゼント」だと思っていたものは、今も芳美館のソファの下だ。姉が帰ったら、真っ先に子供を堕ろすと決めている。それに、芳美館へも行って、検査票を回収しなければ。あそこに置いたままでは危険すぎる。……いや。今夜、雅彦にこうして捕まったのなら、ついでに取りに行ってしまおう。「先に車で待ってて。私、着替えてすぐ行くから」雅彦は今度こそ彼女を離し、エレベーターホールへと向かった。由美は部屋に戻ると、引き出しからサファイアブルーのカフスボタンを取り出す。昨日、デパートで一目見て、雅彦に似合うと思い買ったものだ。まだ、彼に渡せずにいた。それをバッグに入れ、パジャマ姿のまま慌てて部屋を出た。エレベーターの中で、光希にメッセージを送る。【お姉ちゃん、先に寝てて。友達が高熱出したみたいで、看病する人がいないから、ちょっと様子見てくる。待たなくていいからね】由美がロビーに降りると、雅彦が車のドアに寄りかかってタバコを吸っている。夜の闇に、赤い火が明滅している。彼に歩み寄る。青白い煙が男の周りを漂い、その整った顔立ちをより一層ミステリアスで端正に見せている。切れ長の瞳が、由美をじっと見つめていた。その眼差しはあまりに深い。誰かを一途に見つめる時、それはとても情熱的に見える。由美はかつてそれに溺れた。ふわりと、上質なタバコの香りが漂う。雅彦が指に挟んだそれは、もうフィルター寸前まで短くなっていた。彼はそれを地面に投げ捨てず、数歩先のゴミ箱まで歩いて行き、火を押し消した。そういうところは教養のある、上品な男なのだ。もし、あの会話を自分の耳で聞いていなかったら。あんな卑劣なことを彼がするとは、永遠に信
Read more

第9話  

「違うの……お姉ちゃんを丸め込むために言っただけ。雅彦だって、仕事でお姉ちゃんとはよく会うでしょ。どういう人か、少しは知ってるはずよ」雅彦は由美の目の前で立ち止まった。「『お見合いする』と約束したのも、姉さんをあしらうため、か?」由美は頷いた。だが雅彦は彼女の顎を掴んだ。その力は強く、由美は思わず痛みに顔をしかめる。男の表情は消え、瞳は暗く沈んでいた。「由美は、随分と『いい子』じゃなくなったな」顎が彼に掴まれたままギリギリと痛む。由美はか細い声で訴えた。「雅彦……痛い」雅彦は手を緩める気配すらない。その整った切れ長の目を細めた。「……俺に嘘をつくな」この二年、由美は雅彦に絶対服従だった。だから、二人の間に問題など起きなかった。ほんの少しでも彼の意に沿わないと、彼はこうしてすぐに手荒な真似をする。やっぱり自分は馬鹿だったな。雅彦のこと、都合のいいようにしか見てなかったんだ。だから、自分が見たい「愛情」の中に浸っていただけ。あれは愛情なんかじゃない。もう、本当の愛情がどんなものなのかも、分からなくなってしまった。由美は痛みをこらえ、声だけはあくまでも柔らかく保った。彼に綻びを見せてはいけない。検査票はまだ回収できていない。雅彦が撮ったという動画も、どこに保存されているのか分からない。今すべてを明るみに出せば、損をするのは自分だけ。「嘘じゃないわ。ただ、お姉ちゃんに私たちの関係を知られるのが怖いの。もし、私の相手が雅彦だって知ったら、お姉ちゃんは絶対に、私を雅彦から引き離そうとする……」雅彦が由美の顎を掴んでいた指が、ようやく緩んだ。そして、さっきまで掴んでいた箇所を、今度は優しく撫でる。その声は冷ややかに、低く響いた。「すまない……由美に捨てられるんじゃないかと、不安になった」そのまま、男は彼女の後頭部を掴み、その硬い胸板に彼女の顔を押し付けた。由美は身じろぎもせず、しばらくして、静かに淡々と言った。「雅彦から離れるわけないじゃない……私、もう行かないと。そうじゃなきゃ、お姉ちゃん、本当に私を留学させちゃう」「送っていく」雅彦は彼女を離し、その手を引いて芳美館を出た。由美はもう一度だけ寝室を振り返った。例の検査票……一日でも早く回収しなけれ
Read more

第10話

そういえば、雅彦もこの博覧会のことを口にしていた。彼も行くはずだ。ということは、今日、芳美館に検査票を取りに行っても、彼と鉢合わせすることはないかもしれない。光希が身支度を終え、出かけようとした時、由美に言った。「そうだ、由美の車、貸して」由美はまずいと思った。雅彦も新エネルギー博覧会に行く。万が一、鉢合わせしたら……だが、姉に車も貸し渋るケチな妹にはなれない。「車の鍵、下駄箱の上にあるよ」「朝ごはん、デリバリー頼んでおいたから。起きたら食べなさい。じゃあ、行ってくる」光希が出て行った後、由美は急いで雅彦にメッセージを送った。【お姉ちゃんが私の車で、新エネルギー博覧会に行ったわ。雅彦も今日、行くんでしょ?絶対に秘密にしてね】このメッセージを送れば、雅彦はきっと、余計に博覧会に行きたくなるだろう。姉は彼が愛してやまない人なのだ。姉に復讐するため、あんな卑劣な手段まで使った。愛が深いほど、憎しみも深くなる。彼もきっと姉に会いたいに違いない。男というものは、最初に愛した女をなかなか忘れられないと聞く。そこまで考えて、由美はまた胸に苦いものがこみ上げてくるのを感じた。姉に嫉妬しているのではない。ただ、あまりにも簡単に雅彦の優しい罠に落ちた、自分の愚かさが憎いのだ。雅彦から返信が来た。【心配するな。由美に迷惑はかけない】朝食を終え、由美がマンションの部屋を出た時、涼やかな顔の雅彦がエレベーターホールでタバコを吸っている。彼女は一瞬固まり、目を瞬かせた。「……いつからいたの?」男はタバコの火を消し、こちらへ歩いてきた。「マンションの下で、お前の姉さんが出ていくのを見送ってから、上がってきた」こっそり、お姉ちゃんの姿を見に来たの?「ぼーっとして、どうした。中に入れてくれないのか?」「急いで出かけなきゃいけないから……」雅彦は彼女の言葉を唇で塞いだ……由美はもう彼に応えられなくなっていた。男はつまらなそうに唇を離すと、彼女の体をじっと見つめる。「うちの『いい子』ちゃんは、お仕置きが足りないようだな?」状況に応じて、甘い口説き文句を使い分けるのが上手い。深く愛していた頃は、それがたまらなく魅力的だった。悪ぶったかと思えば、とことん甘やかす。女は、そういう男に弱い
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status