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第5話

作者: 森ノ焔
雅彦の唇が由美のそれに触れようとした瞬間、彼女は顔を背けてそれを避けた。

彼の親密な素振りに嫌悪感を覚える。だが、今はまだ彼に合わせなければならない。

「今、生理中なの」

雅彦の表情が曇る。

「何を拗ねてる。俺が抱きたいだけだと思ってるのか?」

じゃあ何だって言うの?

まさか、愛してるとでも?

由美は心の中で嘲笑った。

男の深い瞳と整った顔立ちをぼんやりと見つめ、そのシャツの襟を掴む。白黒はっきりした大きな瞳が、無垢さと色っぽさをあわせ持っていた。

「だって……いつも私といる時、一番してるのはそういうことじゃない」

雅彦の顔は一瞬固まり、すぐに口の端を吊り上げた。

「あまり構ってやれなくて悪かった……こうしよう。お前の姉さんが帰ってきたら、数日スケジュールを空ける。旅行に行こう。場所は、由美が選んでいい。ん?」

実におだてるのが上手い。

以前の自分なら、多忙な彼が時間を作って旅行に連れて行ってくれると聞けば、有頂天になって喜んだことだろう。

だが今、冷静に考えれば、おかしなことばかりだ。

雅彦は大量なプレゼントを贈ることと、ベッドの上で激しく求め合う以外、ほとんどの時間を彼女と共有してこなかった。

そして、彼にとってプレゼントは最も安上がりなものだ。

だって、あの人には金が有り余っているのだから。

雅彦の電話が鳴った。

彼は由美を下ろし、スマホを取り出す。由美の視界の端に、画面で点滅する「皐月」の二文字が映った。

皐月って……あの「さつき」ね。

雅彦は一度電話を切る。だが、すぐにまた着信音が鳴った。

仕方なく、彼は通話ボタンを押す。

しばらくして、眉をひそめた。

「分かった。すぐ行く」

スマホをしまうと、雅彦は由美の頬にキスを落とす。

「生理中だろ。腹、痛いと心配だから、わざわざ寄り道して生姜入りの葛湯を持ってきた。ちゃんと食べるんだぞ。会議があるから、もう行く。いい子にしてろ、ん?」

由美は淡々と頷いた。

雅彦の姿がクローゼットから消える。

彼を信頼しきっていた。電話一本で慌ただしく去っていくことも、これまで何度となくあった。

彼のスマホの画面を、まともに見たことすらなかった。

なんて馬鹿だったんだろう。

遊び人の男が、一人の女だけで満足するはずがないのに。

もし少しでも注意していれば、この二年、雅彦には自分の他に皐月がいたことに気づけたはずだ。

もちろん、他の女もいたかもしれない。

自分は……救いようのない愚か者だ。

由美はバスルームへ行き、鏡に向かい、雅彦にキスされた頬をタオルでゴシゴシと擦った。

バスルームを出ると、テーブルの上に水晶の器が置かれているのが見えた。手に取ると、まだ温かい。

浅沼家の本邸からここまで、車で少なくとも三十分はかかる。

水晶の器に保温効果はないのに、まだかなり温かい。

雅彦はこういう細やかな演出が実に上手い。

これこそが、女の心をいとも簡単に掴む手口なのだ。

由美はもう、そんな優しさに未練はない。水晶の器ごと、ゴミ箱に叩き込んだ。

そして、アラームをセットしてから、一眠りした。目覚めると、すでに午後三時を回っている。

起き上がって身支度をしていると、スマホにメッセージが届いた。

雅彦からだ。

【代わりにブガッティを用意させた。ナンバーはお前の誕生日だ。鍵は玄関の宅配ボックスに入れてある。受け取っておけ】

本当に、気前がいいこと。

どうりで、彼と噂になった女たちが、雅彦に十点満点の評価をつけるわけだ。

でも、由美にとっては、最低評価以外あり得ない。

身支度を終えると、四時近くだった。

雅彦が贈るというのなら、受け取っておけばいい。金と喧嘩するなんて、馬鹿のすることだ。

鍵を手に駐車場へ行くと、ピンク色のブガッティが目に飛び込んできた。新品の塗装が、日光を浴びて輝いている。

由美はその車で空港へ向かい、到着出口で待っている。

十分も経たないうちに、人混みの中にすらりとした光希の姿を見つけた。

真っ直ぐな長い髪はきっちりと一つにまとめられ、艶やかな額が露わになっている。グレーがかったスモーキーなアイメイクと真っ赤な口紅が、彼女の冷艶な美しさを引き立てていた。

体にフィットしたカーキ色のスーツが、光希の敏腕ぶりを際立たせている。

細いハイヒールが軽快な音を響かせ、人混みを切り裂いていく。その歩幅は、オーラをまとった抜き身の刃そのものだ。

光希は由美の前で立ち止まり、スーツケースから手を放すと、赤い唇をほころばせ、由美に向かって両腕を広げる。

由美は鼻の奥がツンとなり、姉の胸に飛び込む。

その瞬間、溜め込んでいたすべての悔しさが堰を切って溢れ出した。

姉妹は深く抱きしめ合った。光希は、腕の中の妹が震えているのを感じ取る。

光希の表情が険しくなり、すぐに妹の両肩を掴んで体を引き離した。そこには、涙に濡れた由美の瞳があった。

「由美、どうしたの?彼氏にいじめられた?」

由美は首を横に振り、声を詰まらせながら言った。

「お姉ちゃんに、会いたかった」

「お正月に会ったばかりじゃない。まだ一ヶ月ちょっとよ。会いたくなったら、いつでも家に帰ってくればいいのに」

光希は由美の肩を抱き、もう片方の手でスーツケースを引きながら、空港の外へと歩き出した。

姉妹は、言葉を交わしながら歩いていく。

由美の車の前に着いた。光希は、由美がまた新しい車に乗り換えているのを見たが、特に何も言わなかった。

自分の可愛い妹は、おとなしそうに見えて、実はお金を稼ぐのが上手い。数千万円のスポーツカーを乗り換えることなど、何ら不思議ではない。それに、たとえ由美に稼ぎがなくても、篠井家にはそれくらいの金はある。

姉妹が車に乗り込もうとした時、なんと雅彦の姿が目に入った。

彼の隣には女が一人。由美は見たことがなかったが、その顔立ちから、インスタの「さつき」だとすぐに分かった。

光希は冷たく鼻を鳴らした。

「クズ男」

雅彦がふと顔を上げた瞬間、由美の視線と絡み合った。

光希はすぐに、隣の由美を諭すように言った。

「見たでしょ?今度から、あの男のことはもう聞かないようにね」

由美は視線を外し、雅彦を見なかったことにした。

男の端正な眉がわずかに寄せられた。

関口皐月(せきぐち さつき)が雅彦の腕に絡める。

「雅彦、お知り合いなの?」

由美はすでに車を発進させていた。バックミラー越しに、雅彦がこちらを向いたまま、微動だにせず立ち尽くしているのが見えた。

きっと、姉を見ているんだね。

車は遠ざかっていく。

バックミラーから、もう雅彦の姿は見えない。

「お姉ちゃん。あの人、隣にいた女の人……お姉ちゃんにそっくり」

光希の表情がわずかに強張ったが、すぐに笑みを作った。

「私だって、昔から校内一の美少女だったのよ。その女が私に似てるってことは、美人だってことでしょ。遊び人の男が美人を連れ歩くなんて、当たり前じゃない。まさかブスを選ぶとでも?」

姉は、雅彦に求婚されたことを一度も話してくれたことがなかった。

なぜなのか、由美には分からない。

だが、火を見るより明らかだ。雅彦の隣にいた皐月は、姉の身代わりなのだ。

そして自分は……身代わりであり、復讐の道具でもある。

想像に難くない。雅彦がどれほど深く姉を愛している。

心が血を流している。

自分の無力さをさらに深く憎んだ。

あの人を二度も愛してしまったなんて。

マンションに戻る。

光希は少し休んでから食事に行くと言い、七時に起こすよう由美に頼んだ。

そして、別の寝室へと消えた。

由美がソファに腰を下ろすと、スマホの通知音が二度、立て続けに鳴った。

ロック画面に、二件のメッセージ。一つは雅彦から、もう一つは皐月から。由美は、先に皐月のメッセージを開いた。

【今日、隣にいた女は誰?】

姉の姿を見て、皐月でさえ危機感を覚えたらしい。

由美は返信しなかった。

皐月をブロックしなかったのは、彼女が何かもっと多くの情報をもたらしてくれるかもしれない、と感じたからだ。

次に、雅彦とのトーク画面を開く。

【由美、今夜の約束を忘れるなよ?】

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