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第4話

作者: 森ノ焔
由美の心臓がズキズキと痛む。

この二年、雅彦を一途に愛し、周りが見えていなかった。だからこんなに惨めに騙されたんだ。

「日冴子、隠さないで教えて」

日冴子は仕方なく、知っていることをすべて由美に話した。

四年前、二十三歳だった雅彦は、あるバイクレースで光希に一目惚れした。

光希を探すため、東都市中をひっくり返す勢いだったという。

当時、光希はまだ十九歳。東都の大学に通っていた。

傲慢な雅彦が、光希を二年間追いかけ回した。海辺で盛大なプロポーズをするため、フランスから「ピンク・アバランチェ」のバラを空輸し、クルーザーをバラで埋め尽くした。

三時間にわたる花火ショーには、数千万円を投じたそうだ。

誰もが雅彦の求婚が成功すると思った。だが、光希は容赦なく拒絶した。

「あんたを愛することは永遠にないわ、諦めて。二度と付きまとわないで」と。

「犬を好きになることはあっても、あんたを好きになることは絶対にない」とまで言い放った。

二年間も彼と連絡を取り続けたのは、ただこの日のため。雅彦の顔に泥を塗り、数十年前に失われた篠井家の面子を取り戻すためだった。

それ以来、雅彦は人が変わったように、服を着替えるがごとく女を取り替えるようになった。

大学を卒業すると、光希は江都市に戻り、篠井グループに入社。浅沼家と篠井家の争いは、白熱化の一途を辿った。

由美は、姉がバイク好きで、多くの公道レースでトロフィーを手にしていたことを知っている。

だが、光希はそれにのめり込むことはなかった。将来、篠井グループを継ぐ自分が、単なる趣味に時間を費やすだけだったから。レースに出る目的も、有力な一族の御曹司たちと親交を結び、将来のビジネスに繋げるためだった。

篠井家には娘が二人きり。跡継ぎとして厳しくしつけられた光希を尻目に、妹の由美は温和な性格もあって、蝶よ花よと育てられた。

雅彦に近づくため、四年前、由美は姉のバイクをこっそり持ち出し、あるレースで雅彦に勝った。

それが姉にバレると、光希は激怒した。由美を厳しく叱りつけ、「バイクなんて、由美が触っていいものじゃない。危ないし、関わってる連中もろくなやつじゃないんだから。純粋で世間知らずな由美が傷つけられたらどうするの」と。

大好きな姉を怒らせたくなくて、それ以来、由美は二度とバイクに触れなかった。

由美は唇を噛んだ。

「どうして、そんなこと知ってるの?」

「彼氏が多いからね。何代前か忘れちゃったけど、元カレの一人が浅沼の親友だったの。そいつから聞いた。光希さんは、浅沼にとっては『高嶺の花』で、今でも忘れられない女なんだってさ。あんな振られ方しても、いまだに未練タラタラらしいよ」

由美はスマホを握りしめる。硬いケースが手のひらに食い込んで痛い。

光希は美しいだけでなく、カリスマ性があり、ビジネスの場では冷徹な判断を下す。若い女性起業家の中でも傑出している。彼女をモノにしたいと狙う政財界の大物は数知れない。

そんな姉が、雅彦の「手に入らない女」だというのも、無理もない。

由美は黙り込んだ。

日冴子が続ける。

「だからさ、篠井家のことは心配しなくていいの。光希さんがいるんだから。由美は由美らしく、『良家のお嬢様』をやってなさいって。無茶しちゃダメよ」

「……うん。わかった」

その後、二人は他愛のない話をして、電話を切った。

夜も更けてきた頃。由美がベッドでスマホをいじっていると、今日友達追加してきた相手がインスタを更新したのが目に入った。

【彼の誕生日。本当はプレゼントをあげる日なのに、逆に彼からプレゼントをもらっちゃった。幸せ~私たちにとって、素敵な夜になりますように~】

添付されていたのは、男が女に指輪をはめている写真。

女性のニックネームは「さつき」。

由美は自分の手を伸ばし、薬指のピンクダイヤモンドの指輪を見つめる。

「さつき」のインスタに載っていた指輪と、まったく同じものだ。

今日の昼、雅彦が人を寄越して大学に届けさせたものだった。

9.99カラットのピンクダイヤモンド。LAブランドが発表したばかりの新作で、各都道府県の専門店で一つしか扱われない限定品。

由美はそれを指から抜き取ると、ベッドサイドのテーブルに放り投げた。

「さつき」のインスタを遡って開いていく。

由美は息を呑んだ。

同じデザインのバッグ、靴、イヤリング、ブレスレット……

雅彦からの贈り物を大切にしてきた。それらを受け取った日付も、ほとんど覚えている。

驚くべきことに、そのすべてが「さつき」と同じ日だった!

彼女が今乗っているマセラティは、雅彦と初めて関係を持った翌日に贈られたものだ。

そして、「さつき」のインスタも、あの日、同じマセラティを受け取ったと投稿していた。

由美は「さつき」のプロフィールアイコンをタップする。

写真が拡大されると、思わず目を閉じた。

「さつき」の顔は、実の妹である自分よりも、姉の光希にそっくりだった!

名前までこんなに似ているなんて……

この瞬間、由美は初めて知った。これまで雅彦と噂になった女たちが、多かれ少なかれ、姉に似ているところがあったことを。

自分自身も含めて……

そして、あの「さつき」は、間違いなく一番のそっくりさんだ。

どうりで、雅彦が「さつき」と入籍するわけだ。

生涯かけても姉を手に入れられないなら、せめて、一番姉に似た女を手に入れる。

自分は……その「一番」になれなかった。

この二年間、愛し合っていた……いいえ、自分一人が一方的に想っていただけ。

体も、心もすべて彼に捧げた。

結果は完膚なきまでの惨敗。

由美は唇から血が滲むほど強く噛み締めた。

必死にこらえ、涙が落ちるのだけは許さない。

雅彦は涙を流すに値する男ではない。

翌日。

夜が明け始めた頃。

由美は起きるとすぐに、ブランド品買取専門店に連絡を入れた。

この二年間に雅彦から贈られたプレゼントを、すべて売り払うためだ。

あのマセラティも含めて。

合計で五千万円になった。

二年間で、雅彦は彼女に一億円を超える贈り物をしていた。

これには「芳美館」は含まれていない。

他の女が見れば、彼がどれほど自分を溺愛しているかと思うことだろう。

だが、今になって由美は気づいた。雅彦は一度も「愛してる」という言葉を口にしたことがなかった。

そして、彼が費やした金はすべて、一ヶ月半後に自分を破滅させるための投資だった。

業者がすべての品物を運び出すと、ウォークインクローゼットは一瞬にしてがらんどうになった。

由美はその中で呆然と立ち尽くしていた。

突然、背後から手が伸び、彼女の腰に回された。

背中が慣れ親しんだ温かい胸板に密着する。上品なシダーウッドの香りが、瞬く間に鼻腔を満たしている。

あまりに呆然としていて、雅彦が入ってきた足音にも気づかなかった。

「由美」

雅彦が低く名を呼び、彼女の首筋に顎をすり寄せる。

「会いたかった」

あの「さつき」のベッドから抜け出してきたばかりのくせに。

由美は吐き気をこらえ、雅彦の手を払い除けると、振り返って男の漆黒の瞳と向き合った。

その澄んだ瞳に浮かんだ冷たさは、一瞬で消えた。

雅彦は目を細め、それからウォークインクローゼットを見渡した。

がらんどうだ……

残っているのは、雑多な品物だけ。

男の眉が上がる。

「クローゼットの物はどうした?」

由美は穏やかな声で答える。

「急にいらないって思っちゃって。売っちゃったの。雅彦からのプレゼントもあったけど……怒った?」

雅彦は薄い唇をきつく結んだが、やがて淡い弧を描いた。

「まさか。由美が気に入らないなら、また新しいのを買ってやるだけだ」

雅彦は突然、由美を横抱きにする。子供を抱くように、力強い手のひらが、キュッと彼女の尻を支え、そのまま一度強く揉んだ。

深い眼差しで由美を見つめ、声が低く掠れる。

「一晩離れてただけで、もう我慢できない……」

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