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第2話

作者: 森ノ焔
「由美……」

雅彦がハンディライトを片手に、慌てた様子でテントに滑り込んでくる。由美の姿を認めると、長い腕を伸ばし、彼女の後頭部を掴んで胸に引き寄せる。

心地よい低音ボイスが、わずかに震えている。

「明かりが消えていた。由美は暗いのが苦手だろ、怖かった?」

上品なシダーウッドの香りが由美を包み込む。鼻の奥がツンとするが、雅彦を押し返し、冷たい声で言う。

「平気よ。もうすぐ生理だし、キャンプは冷えるから、先に帰りたい」

雅彦はテントのムードランプをつける。

暖かみのある淡い黄色の光。ロマンチックな雰囲気を引き立てるためのものが、今の由美の目には、ただの皮肉にしか映らない。

雅彦が深い眼差しを向ける。

「由美、大事な誕生日プレゼントがあるんじゃなかったのか?」

日付が変われば、雅彦の二十七歳の誕生日だ。

由美は望み通り妊娠している。

ついさっきまで、これこそが最高の誕生日プレゼントだと思っていた。

この二年、雅彦はベッドの上で彼女を喜ばせるのが実に上手かった。ピルで体を傷めるのを嫌い、自らパイプカットの手術まで受けたほどだ。

だが、できちゃった結婚に持ち込みたかった由美が、彼に頼み込んで元に戻す手術をしてもらった。

雅彦は、本当は二人の子供なんて欲しくない。それなのに、あんなにも真に迫って彼女を愛しているフリができたなんて!

今日診察してくれた医師には、妊娠初期はセックスを控えるようにと注意されていた。

診察を受けた時点で、すでに妊娠五週目。二人は毎晩のように肌を重ね、時には雅彦が一晩に何度も由美を求めることもあった。

それでも、お腹の赤ちゃんには影響がなかったようだ。

雅彦を満足させるため、たった今、リスクを冒して彼との情事に付き合ったばかりだ。

彼は約束通り、いつもよりずっと優しくしてくれた。

妊娠のことはまだ知らない。もし知ってたら、今夜は……血の海にでもなってたんだろうか。

フン。

由美は目の前の男を見つめる。あんなによく知っているはずなのに、今はまるで知らない人のようだ。

東都市一の名門・浅沼家の生まれで、容姿は一級品だ。

身長188センチ。整った目鼻立ちに、夜のように濃い漆黒の瞳。プレイボーイとしての悪名高さが、かえって彼に危うい色気を与え、女性たちを惹きつけてやまない。

だが残念なことに、その完璧な皮の中には、吐き気を催すような心が隠されている。

由美は今、雅彦に妊娠の事実を告げるつもりはない。

あれほど待ち望んでいた赤ちゃん。彼が望まないのなら、自分だって、もういらない。

今夜はこっそり来たのだから、帰りもこっそり帰るつもりだ。

他人に二人の関係を知られるのが怖くて、これまで一度も彼と公の場に出たことはなかった。

そのことで、雅彦は「俺を連れて歩くのが恥ずかしいんだ」と拗ねてみせ、巧みに彼女を言いくるめ、すっかりその心を掴んでしまった。

そんな自分を見て、彼はきっと陰で笑っていたのだろう。

「でも、すごく疲れちゃった。たぶん生理が近いせいかも。十二時まで待てそうにないの。プレゼントは明日にしてもいい?」

雅彦は眉をひそめる。

由美には分かっている。去年の彼の誕生日、自分は高熱がありながらも、深夜十二時まで起きていて、真っ先にプレゼントを渡してお祝いの言葉を告げた。

突然の心変わりを、雅彦は訝しむかもしれない。だが、怖くはない。婚約披露宴の日が来るまでは、彼はきっとどうにかして自分を繋ぎ止めようとするはずだ。

やはり由美の思った通り、雅彦はすぐに唇の端を上げて笑うと、溺愛するように彼女の鼻先をつつく。

「俺の配慮が足りなかったな。女の子の体はデリケートだ。外の湿気と寒さは体に悪い。送ってやるよ」

「ううん、大丈夫。みんなが待ってるでしょ」

雅彦は由美を抱きしめる。

「いつもこうやってコソコソして……お前に狂わされそうだ」

また、その口説き文句?

浅沼家の御曹司でなかったなら、今頃アカデミー賞でも獲ってたでしょうね。

由美は薄く笑う。

「あと一ヶ月半の辛抱よ。婚約の時に、ちゃんと公表したいから」

一ヶ月半後の婚約披露宴。雅彦もきっと楽しみにしているのだろう。

自分を破滅させ、姉に拒絶された復讐を果たし、そして篠井家をズタズタに引き裂くことを。

そんなこと、絶対にさせてたまるものか。

目には目を。彼を本気で自分に惚れさせ、そしてあの婚約披露宴で、彼を捨ててやる。

味わった屈辱は、すべてそっくりそのまま雅彦に返してやる。

雅彦は送ると言ったが、由美はそれを断る。

自分で車を運転してきている。車は雅彦から贈られた世界限定版のマセラティだ。

豪華な運転席に座り、由美は嘲るように口の端を吊り上げる。

この車は六千万円以上もする。雅彦は篠井家を潰すために、ずいぶんと大金をつぎ込んだものだ。

もっとも、遊び人の雅彦は昔から女には気前が良かった。彼と噂になった女たちで、別れた後に彼の陰口を叩いた者は一人もいない。むしろ、絶賛の嵐だ。

おそらく、雅彦を拒絶した女は、自分の姉だけなのだろう。

そして自分は、そんな女たちの中で最も惨めな一人だ。

彼と入籍したあの女は別として。

由美は、それが誰なのかを推測する気にもなれない。

もはや、自分には関係のないことだ。

由美はエンジンをかけ、アクセルを思い切り踏み込む。スポーツカーの甲高いエンジン音が、まるで獣の咆哮のように、静かな夜の闇を引き裂いていく。

車体はカーブをかすめ、見事なドリフトで走り去っていく。

雅彦と再会した時のことを思い出さずにはいられない……

きっとあれも、すべて彼の周到な計画だ。

胸を締め付けるようなこの痛みも、風を切るスピードとエンジンの轟音だけが、かろうじて紛らわせてくれる。

由美は「芳美館」まで車を飛ばし続ける。

門のプレートに刻まれた「芳美館」の三文字は、雅彦の直筆だ。

浮気性で多情な雅彦は、ビジネスで辣腕を振るうだけでなく才気煥発で、茶道、囲碁、書道、水墨画のどれもが卓越しており、無数の女たちを惹きつけてきた。

突然、由美のスマホが鳴る。

姉の光希からの電話だ。

由美は目の奥が熱くなるのを感じる。やはり姉は理性的だ。あれほど多くの女たちが雅彦に頭を狂わされる中で、姉だけが彼をゴミ同然にあしらっていた。

その時、ふと由美は下腹部に鈍い痛みを感じる。

一瞬動きを止め、電話に出る。

「由美、明日、投資の商談で東都市へ行くわ。便は午後の五時着。空港まで迎えに来て。夜、一緒にご飯食べましょう」

「わかった」

由美の声は少し詰まっている。

光希が心配そうな声色になる。

「風邪ひいたの?」

「ううん、ちょっと外で風に当たってたから、鼻が詰まってるだけ」

「もう遅いわよ。うろついてないで、早く帰って休みない。じゃあ明日ね、切るわよ」

「お姉ちゃん」

由美は光希を引き止める。

「何?」

「どうして、あんなに浅沼さんのことを嫌うの?」

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