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第3話

作者: 森ノ焔
電話の向こうは一瞬静まり、やがて光希の凛とした声が響いた。

「あの男のこと聞いてどうするの。種馬みたいなクズ、あなたの世界に関わらせるべき人間じゃないわ。東都で偶然見かけても、絶対に避けなさい。いい?」

とにかく、光希は雅彦を心底嫌っている。彼を褒める言葉など一つも出てこない。

電話を切り、由美は芳美館へ入る。下腹部の痛みが強くなった気がした。

バッグからエコー写真の検査票を取り出す。

二つの胎嚢が写っている。

この結果を見た時、彼女は泣きたいほど嬉しかった。

今は、別の意味で本当に泣きそうだ……

由美は検査票を置き、腹部の痛みをこらえながら荷物をまとめる。芳美館を出るためだ。

「由美」

雅彦が帰ってきた?

由美は慌てて検査票を掴み、ソファの下に滑り込ませた。

雅彦が寝室に入ってくる。ソファの傍らに立ち、スーツケースをそばに置いた由美を見た。

整った眉をひそめた。

「どこへ行くつもりだ?」

由美は雅彦をじっと見つめ、心配を装った落ち着いた声で言った。

「明日、お姉ちゃんが来るの」

姉という言葉に、雅彦の瞳に異様な光が一瞬よぎった。

今夜、彼の友人たちの話を聞かなければ、今の強張った目つきにも気づかなかったかもしれない。

雅彦は一歩踏み出し、由美を腕に抱き寄せる。

「荷造りは人を寄越させる。明日は空港まで送るから、今夜は行くな」

由美は雅彦を押し返す。その瞬間、下腹部に再びズキリと重い痛みが走った。彼女は眉をひそめ、無意識に腹部を押さえる。

雅彦はいつものように目敏い。

「腹が痛むのか?」

「たぶん、生理が来たみたい。ちょっとトイレに行ってくる」

由美は足早にバスルームへ向かった。

雅彦の黒い瞳をわずかに細めた。

そして、キッチンへと向かう。

バスルームで、由美は出血していることに気づいた。

やっぱり、医者の言うことを聞くべきだった。無茶しちゃダメだった。

でも、もうどうでもいい。たとえ双子だとしても、産むつもりはない。

バスルームの収納棚から新しい下着を取り出して着替え、ナプキンを当てた。そして、わざと血の付いた下着を、ゴミ箱の目立つ場所に捨てる。

雅彦は遊び人だが、ただのドラ息子ではない。常人離れした鋭さがある。直接見させなければ、生理が来たと信じないだろう。

妊娠したことだけは、絶対に知られてはならない。

バスルームを出ると、雅彦がトレーを持って入ってきた。

歩く仕草さえ、優雅で人を惹きつける。

本当に神に愛された存在だ。

雅彦の電話が鳴った。彼はトレーを置き、屈んで由美の髪を撫でる。

「電話に出てくる。由美は温かいうちに飲みな」

由美が生理になるたび、雅彦は自ら黒糖生姜湯を淹れてくれた。

その優しさに感動し、彼に夢中になっていったのだ。

残念ながら、もうこの男の本性は見抜いてしまった。

二度と心が揺らぐことはない。

由美は、ためらうことなく湯呑みの生姜湯を窓辺のヒヤシンスの植木鉢に捨てた。

ソファの下の検査票を取り出そうとしたその時、電話を終えた雅彦が戻ってきた。

彼女はスーツケースの取っ手を握る。

「雅彦、もう行くね」

伏し目がちで物腰の柔らかい様子は、いつもの「いい子」のまま。だが、その声には微かな冷たさがあり、以前のように別れを惜しむ響きはなかった。

雅彦は一瞬黙り、そして立ち上がった。

「荷物を持つよ」

男はスーツケースを受け取った。

由美はソファにちらりと目をやる。まつ毛が微かに震えた。

寝室の掃除は、いつも使用人には任せず自分でやっていた。雅彦が検査票に気づくことはないはずだ。

豪邸の外。

オープンカーの運転席に座る由美に、雅彦が声をかける。

「運転、気をつけて」

由美はゆっくりと車をバックさせ、屋敷を後にした。

住宅街を抜けると、速度を上げ、病院へと急いだ。

出血があった。診察の結果、医師は「大事には至っていませんが、流産防止の注射を打って帰ってください。家では絶対安静に」と、彼女の無謀さを厳しく窘めた。

由美の口調は断固としている。

「この子、いりません。今すぐ中絶手術はできますか?」

「正気ですか?双子ですよ、どれだけ望んでも授かれない人がいますよ。堕ろすなんて……」

双子を授かることがどれほど幸運なことか、由美とて分かっている。

でも、父親になるはずの男が、この子たちを望んでいない。

自分と篠井家を辱めるための手段としか、見ていない。

そんな男のために、どうして苦しい思いをして子供を産み、育てなければならないというのか。

医師の説得も、彼女の決意を揺らがせることはなく、なおも堕胎を望んでいる。

医師は仕方なさそうにため息をつく。

「どうしてもと言うなら……今日手術をしたら、一週間は安静にしてください。中絶は出産と同じで、体に大きな負担がかかりますので、いろいろと注意しないと……」

医師は中絶手術後の注意点を辛抱強く説明している。

明日は姉に会わなければならないので、今夜の手術は都合が悪い。

仕方なく、流産防止の注射を打つことを選んだ。

姉に会った後、すぐに子供を堕ろそう。

マンションに戻り、由美はバスルームへ直行し、シャワーの湯を勢いよく出した。

今夜はまだシャワーを浴びていない。体には雅彦だけの匂いが残っている。

雅彦は女を熟知しており、女を喜ばせる術にも長けていた。

付き合い始めてすぐの頃、由美がアフターピルを飲んでいるのを彼に見つかったことがある。

二度目に飲もうとした時、雅彦はその錠剤を彼女の口からキスで奪い取り、こう言った。

「ホルモン剤は体に悪い。もう二度と飲むな。俺、パイプカットしたから」

惜しげもなく注がれる寵愛に、彼女はこの二年、完全に溺れていた。

それが今となっては、吐き気しか催さない。

由美は便器に突っ伏し、胃液がこみ上げてくるまで吐き続けた。

シャワーは真夜中まで続いた。

全身がボディソープの香りに包まれても、自分が汚れてしまったと感じる。皮膚が擦り切れるほど洗っても、もう綺麗にはなれない気がした。

午前二時。

由美は、吉沢日冴子(よしざわ ひさこ)に電話をかけた。

「日冴子……どうしたら男を、私に夢中にさせられる?」

「由美?あんたを夢中にさせたい男なんて、昔から掃いて捨てるほどいるでしょ。何よ、今更」

由美の体はしなやかで、肌は発光するほど白い。腰まである黒髪のストレート。長くカールしたまつ毛が、その美しい瞳を一層際立たせ、物腰は柔らかく従順。まさに男たちの「大和撫子」だ。

「彼は……普通の男じゃないの」

日冴子はしばらく黙り込み、そしてゆっくりと言った。

「それって……浅沼雅彦のこと?」

日冴子と由美は幼馴染だ。由美が夢中になった男は、後にも先にも一人しかいない。

浅沼雅彦、その人だ。

「うん」

「とっくに好きじゃなくなったんじゃなかったの?」

少女時代、由美は雅彦に片想いしていた。それはもう夢中だった。雅彦がバイクレース好きだと知ると、おとなしい彼女が隠れてバイクの練習をしたほどだ。

だがある時、ぱったりと好きじゃなくなった。その理由を、今も日冴子に話していない。

「ただ彼を私に惚れさせたいだけ。私が彼を愛することはない」

「あんな女癖の悪い男、あんたが敵うわけないじゃない。最後はあんたが本気になって捨てられて、丸損だよ」

もう、とっくに捨てられてる。

これ以上、最悪なことがあるだろうか。

由美は唇を噛む。

「分かってる」

「じゃあ、理由を教えて」

日冴子と由美は幼馴染だが、界隈での評判は両極端だ。

由美は良家のお嬢様で、名門の令嬢。

対して日冴子は、反骨精神の塊みたいな悪姫だ。

そんな二人が、大の親友なのだ。

由美は感情を抑えつけ、絞り出す。

「……彼が、篠井家を潰そうとしてるから」

「篠井家を?無理でしょ。どうせ光希さんの返り討ちに遭うわよ。光希さんが一人いれば、あの男なんて瞬殺だって。あんたがハニートラップ仕掛ける必要ないわ」

「日冴子、それって……」

日冴子は失言に気づき、慌てて話題を変えた。

「ううん、何でもない。光希さんはビジネスじゃ凄腕なんだから、あの人がいれば篠井家は安泰だってこと」

由美は受話器を握りしめる。

「何か隠してる?」

日冴子は、きっと何か内情を知っている。

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