朝のムーア商店は、いつも通りだった。 カウンターに座り、テーブルに帳面を広げて品物と個数を確認する。明らかにバイトの職分を越えているが、この静けさは好きだ。 ここでは何も起きない――はずなのだが。「おはようございます、今大丈夫でしょうか?」 扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。 顔を上げると、そこに立っていたのはセリナさんだった。翡翠色の瞳に、光を反射する濡れ羽色の髪。その端正な顔立ちは、どこか張りつめたような気配をまとっている。手には封を解かれた書状を持っていた。 良かった、この人ならヤバい客ではない。今日はのんびりした一日になりそうだな。「フィンさん。このお店、除虫剤とか虫退治の魔導具っておいてあります?」 今日の彼女は、珍しく真剣な表情をしていた。 いきなりヤバい予感が膨れ上がる。「……えっと、虫除けですか?」 俺が帳簿を閉じて立ち上がると、彼女は申し訳なさそうに頷いた。「はい。実は……私の友人が困っていまして」「友人の方が?」「ええ。名門貴族・シルヴァーバーグ家で働いている友人なのですが、屋敷で"異臭"と"虫の大量発生"があって、その責任を問われているんです」「それは……大変ですね」「最初はギルドに相談することも考えたのですが、虫関係は敬遠される傾向がありますし、何より友人の立場を悪くしたくなくて……」 セリナさんの声が小さくなる。「それで、フィンさんなら何か解決策を知っているのではないかと思いまして」 セリナさんの顔は真剣だった。それは、ただの仕事の延長ではなく、"個人的な信頼"が込められている表情だった。「ムーア商店がそんな便利屋になった覚えはないがなぁ」 背後から、渋い声がした。「フィン、貴族相手の仕事なんぞ引き受ける気か?」 店の奥で帳簿を睨んでいたムーアさんが、顔をしかめる。「うちみたいな小さな商店に貴族絡みの依頼が来たら、ろくなことが起きん。たいてい、金は出さずに文句だけは貴族級ってやつだ」 たしかに、うちの店で虫除け薬を買っていく客は多い。だが、それはあくまで一般市民向けの話であって……。「ですが、これは個人的なお願いなんです。その家で仕事をしている女性がわたしの友人で、悲しそうなんです。ですから、依頼ではなくて――私からの、お願いで」 セリナさんの声は、静かで、でも揺るぎなかった。
Last Updated : 2025-11-26 Read more