All Chapters of ノクスレイン~香りの王国物語~: Chapter 21 - Chapter 30

45 Chapters

貴族屋敷と地味バイトⅠ

 朝のムーア商店は、いつも通りだった。 カウンターに座り、テーブルに帳面を広げて品物と個数を確認する。明らかにバイトの職分を越えているが、この静けさは好きだ。 ここでは何も起きない――はずなのだが。「おはようございます、今大丈夫でしょうか?」 扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。 顔を上げると、そこに立っていたのはセリナさんだった。翡翠色の瞳に、光を反射する濡れ羽色の髪。その端正な顔立ちは、どこか張りつめたような気配をまとっている。手には封を解かれた書状を持っていた。 良かった、この人ならヤバい客ではない。今日はのんびりした一日になりそうだな。「フィンさん。このお店、除虫剤とか虫退治の魔導具っておいてあります?」 今日の彼女は、珍しく真剣な表情をしていた。 いきなりヤバい予感が膨れ上がる。「……えっと、虫除けですか?」 俺が帳簿を閉じて立ち上がると、彼女は申し訳なさそうに頷いた。「はい。実は……私の友人が困っていまして」「友人の方が?」「ええ。名門貴族・シルヴァーバーグ家で働いている友人なのですが、屋敷で"異臭"と"虫の大量発生"があって、その責任を問われているんです」「それは……大変ですね」「最初はギルドに相談することも考えたのですが、虫関係は敬遠される傾向がありますし、何より友人の立場を悪くしたくなくて……」 セリナさんの声が小さくなる。「それで、フィンさんなら何か解決策を知っているのではないかと思いまして」 セリナさんの顔は真剣だった。それは、ただの仕事の延長ではなく、"個人的な信頼"が込められている表情だった。「ムーア商店がそんな便利屋になった覚えはないがなぁ」 背後から、渋い声がした。「フィン、貴族相手の仕事なんぞ引き受ける気か?」 店の奥で帳簿を睨んでいたムーアさんが、顔をしかめる。「うちみたいな小さな商店に貴族絡みの依頼が来たら、ろくなことが起きん。たいてい、金は出さずに文句だけは貴族級ってやつだ」 たしかに、うちの店で虫除け薬を買っていく客は多い。だが、それはあくまで一般市民向けの話であって……。「ですが、これは個人的なお願いなんです。その家で仕事をしている女性がわたしの友人で、悲しそうなんです。ですから、依頼ではなくて――私からの、お願いで」 セリナさんの声は、静かで、でも揺るぎなかった。
last updateLast Updated : 2025-11-26
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貴族屋敷と地味バイトⅡ

 クラリスさんの案内で屋敷内を探索していると、廊下で背後から人の気配を感じた。「クラリス、その方はどなたかな?」 静かな声だった。だが、それがかえって冷たい。「こちら、今回の害虫騒ぎを調べに来て頂いた、専門家の方でございます」 クラリスさんの声を聞きながら、俺は声の主に向かって振り返った。「ふむ、虫騒ぎの責任を取るため、といったところですか」 立っていたのは、銀灰色の髪をオールバックに撫でつけた老人だった。燕尾服を完璧に着こなし、切れ長の灰色の瞳で俺を値踏みするように見ている。 隙のない立ち姿。髪もひと筋たりとも乱れていない。「ヴェルナー・クライストと申します。当家の執事長でございます」 深々と頭を下げる。その動作すら、機械的な完璧さがあった。「……今回の件につきましては、白蟻による被害の可能性が濃厚と見ております」 俺が名乗る前から、そう口にした。「白蟻、ですか?」「ええ。こちらの北棟は、築年数も古く湿気も溜まりやすい構造ですので……。甘い臭いも、建材に染み込んだ樹脂が時間を経て変質したものでしょう」 早い。まるで、俺が質問する前から答えを用意していたみたいだ。 それに、クラリスさんが言ってた「数日前からの異臭」って話――建材の変質で、いきなりあんな香りが漂い始めるものか?「ふむ……なるほど」 一応、そう相槌を打っておく。 でも内心では、別の感情が渦巻いていた。(流れが……筋が通りすぎている) 完璧な受け答え、矛盾のない説明。でもそれが、むしろ怪しい。俺がここに何をしに来たのかを、先回りして制圧しに来たような――そんな不自然さを感じた。 ――そしてもう一つ。彼は俺のことを知っている。 何とも怪しい男だ。そして、淡い柑橘系のコロンが鼻をかすめた。上質で控えめ、執務服に似合う洗練された香りだ。 ……その奥に、ごく微か、べったりと甘い匂いが混じっていた。常人ならまず気づかないほど薄く、空気の皺の間に隠れるように漂っている。「それでは、詳しく調査をさせていただきます」 俺は軽く会釈した。「クライスト様、フィン様が香炉について……」 クラリスさんが口を開きかけたその時、クライストの表情がわずかに変わった。「香炉、ですか」「ええ、お部屋に置かれている香炉の配置が、とても興味深いので」 俺は穏やかに答える。「空気の
last updateLast Updated : 2025-11-27
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貴族屋敷と地味バイトⅢ

(逆に言えば……この香りを使って、虫を別の場所に誘導することも可能かもしれない) 俺は肩にかけた鞄から、小型の香煙炉を取り出した。回収した調香樹脂を仕込んで、犯人の仕掛けを逆利用してみよう。「クラリスさん、少し手伝ってもらえますか?」「は、はい!」 彼女と協力して香煙炉を設置し、火を灯す。じわりと甘く湿った香りが広がっていく。 しばらくすると、通気口のひとつから、小さな黒い影がぞろりと顔を覗かせた。「……来ました」 香りの通り道をつたって、虫たちが一列になって進んでいく。「……お見事です」 クラリスさんが呆けたように声を漏らす。 と、その時だった。「クライスト、これは一体何の騒ぎなのだ?」 低く響く声とともに現れたのは、深紅の紋章入りマントを纏った壮年の男性だった。 灰金の短髪、鋭い琥珀の瞳。威厳ある佇まいで、明らかに只者ではない。その後ろには、執事長・クライストが恭しく控えている。「ジグムント様!」 クラリスさんが慌てて深々と礼を取る。(この人がこの屋敷の当主か……確か、貴族名鑑で読まされたな) ジグムント・シルヴァーバーグ。シルヴァーバーグ侯爵家第十三代当主にして、王国でも指折りの名門の主。「お前は何者で、何をしているのだ」 ジグムント侯爵の鋭い問いかけに、俺は軽く会釈して答えた。「私はフィンと申します。ご依頼を受けて、この屋敷に発生した害虫を退治しておりました」「虫の件は聞いている。おかげでエレナを寮に入れることになったからな……」 侯爵の表情に、わずかに苦渋が浮かぶ。娘を屋敷から離さなければならなかった父親としての心境が、その一言ににじんでいた。 あのお嬢さん、愛されているんだな。「見たところ、どこぞの家の者と見えるが……社交界では見かけない顔だな」 ジグムント侯爵が俺の身なりを値踏みするように見る。「私は、市井の者でございます。貴族様のお屋敷に伺うのに失礼のないようにこのような身なりをしております」 その時、クライストが一歩前に出る。「旦那様、この者たちが勝手なことをしておりまして……屋敷のことは私の管轄でございます」 クライストの声には、わずかに焦りが混じっていた。「そうですか」 俺は視線で切りつけるように答えた。「なら、この虫の大量発生もあなたの責任ですね。特に、各部屋に配置された香炉に
last updateLast Updated : 2025-11-28
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「新しい同室者、ミリアと母への想いⅠ」

 目を開けた瞬間、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。 薄いクリーム色の漆喰に、きちんと整えられた木の梁。窓の向こうから射し込む朝日が、花模様のカーテンを透かして床にやさしい影を落としてる。 静かで、どこか甘い香りが漂ってた。(あー……知らない天井だ) 胸の奥がふわっとくすぐったくなる。前世では、こんな風に目覚めて胸が弾むことなんて一度もなかったのに。 ベッドの端に腰を下ろすと、足の裏にひんやりした床の感触。スピカ寮の部屋は屋敷よりずっと質素だけど、なんか落ち着く。 花とハーブを混ぜたような清らかな香りが、朝の空気に溶けて鼻先をくすぐってた。「お姉様っ、おはようございますっ!」 ぱたぱたって小さな足音と一緒に、扉を勢いよく開けて黒髪の小柄な少女がぱぁっと笑顔を咲かせる。「……お、おはようございますわ、ミリア」 ミリア・ノエル。私より一学年下の同室の子で、昨日からなぜか私を「お姉様」って呼んでくれる。(これって完全に妹キャラのフラグじゃん! 可愛すぎですわ)「ふふっ、よく眠れましたか? あ、リボンが少し曲がってますよ〜」 ミリアは嬉しそうに私の髪をそっと整えてくれる。鏡に映る自分は、まるで本当に妹に世話を焼かれてるお姉さんみたいで――思わず頬が緩んじゃった。(うわあ……妹に甘えられるって、こんなにあったかいものなんだ) 朝食を終えて、教科書を抱えて寮の玄関を出る。外の空気は少し冷たいけど清々しくて、朝露に濡れた花壇の花々からかすかな香りが立ち上ってる。「エレナ」 振り向くと、リュシアちゃんが玄関前に立ってた。銀青色の髪が朝日に透けて、マジで目を奪われるほど美しい。(うおー! ヒロインの登場シーンって感じですわ!)「おはようございますわ、リュシア様」「……一緒に行く?」 少しだけ迷った後、私は頷く。「ええ、ぜひご一緒させていただきますわ」 石畳を並んで歩く。初めての登校路なのに、隣にリュシアちゃんがいるだけで心強い感じ。「昨日は急に来て驚いたわ。でも……寮の暮らし、慣れそう?」「ええ、まだ少し寂しいですけれど……こうしてまたご一緒できて、安心しましたわ」 リュシアちゃんは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせて、それからほんのり目を細めた。その表情は、氷の姫君って呼ばれてた頃の彼女とは思えないほど、優しかった。(おお! 
last updateLast Updated : 2025-11-29
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「新しい同室者、ミリアと母への想いⅡ」

 ラウンジに、重たい沈黙が落ちた。夕日が傾いて、窓から差し込む光が赤く深く変わっていく。けれど、そのあたたかさはまるで感じられなかった。 リュシアちゃんは何も言わずに視線を本へと戻す。ページをめくる音だけが、やけに大きく響いた。(あああああ……またやってしまいましたわ……) 胸の奥がぎゅっと痛む。彼女の母親の話題に触れるなんて――何も知らないくせに。 前世でも、こういうことは何度もあった。空気が読めなくて、場を凍らせて、あとからひとりで落ち込む。(せっかく、少し仲良くなれたと思ったのに……好感度リセットどころかマイナスじゃん……) 唇を噛みしめる。目の奥がじんわり熱くなるのを、必死にこらえた。「お、お姉様……」 隣で、ミリアがそっと袖を引いた。彼女の瞳には、不安と心配が入り混じってる。「だ、大丈夫ですわ……」 小さく答えて、私は立ち上がる。足取りが少し震えてるのが、自分でもわかった。 扉の向こうの廊下は、もうすっかり夕闇に沈んでた。窓から差す橙の光が長い影を作って、まるで私の胸の中の後悔をなぞるみたいだった。(どうしたら、仲直りできるんだろう……)◆ 自室に戻ると、窓辺のカーテンが風にふわりと揺れてた。夕闇が部屋にしみ込んで、机の上の魔石ランプに火を入れても、心の奥の寂しさは照らせない。 ベッドの端に腰を下ろした瞬間、胸の奥からため息がこぼれた。(はあ……わたくし、なにやってんだろ……) リュシアちゃんの冷たい声が耳に残ってる。さっきまでの穏やかな空気が、ほんの一言で壊れちゃった。何も知らないくせに、彼女の大切な家族に触れるなんて――「お、お姉様……」 控えめな声に顔を上げると、ミリアが心配そうに立ってた。彼女は私の隣にそっと腰を下ろして、両手でスカートをぎゅっと握りしめてる。「わたし、見てました……リュシア様、すごく冷たくなって……」「……ええ。わたくしが、悪いんですの」 声が自然と震えた。ミリアは一瞬だけ迷ったように唇を噛んで、次の瞬間、私の手を小さく握った。「お姉様は、悪くありません……! お姉様は、優しいから……!」 その言葉が胸にじんわり染みていく。前世では、こんな風に誰かが私の失敗をかばってくれることなんて、一度もなかった。(ああ……ミリアって、本当に天使みたいな子だなあ)「……ミリア」 名前を呼ぶ
last updateLast Updated : 2025-11-30
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スキルホルダーと地味バイトⅠ

 王都の西の外れ、ちょっと埃っぽい路地裏に、その店はある。雑貨屋『ムーア商店』。魔道具、日用品、謎のジャム……なんでもござれの混沌空間だ。「今日も空気が埃っぽいな……」 俺は箒を手に、床に散ったコーヒー豆と格闘していた。床材の隙間に入り込んだやつは、なぜか世界の理に守られてるのか、絶対に浮いてこない。 外では近所の子供たちが朝から騒いでいる。この辺りの子は店の前で缶蹴りをするのが日課らしく、時々蹴飛ばされた缶がゴロゴロと転がる音が聞こえてくる。 いつもより早く品出しが終わったので、棚の並びを微調整していると、入り口の鈴が軽やかに鳴った。「おはようございます、フィンさん」 翡翠色の瞳に、光を反射する濡れ羽色の髪。その端正な顔立ちには、どこか張りつめたような気配をまとっている。手には封を解かれた書状を持っていた。 セリナさんは冒険者ギルドの受付嬢にして、ギルドの顔と呼ばれる人物。以前ちょっとした関わりがあって以来、よくうちに顔を出してくれる。「セリナさん。珍しいですね、こんな朝早くに」「ギルドで注文していたポーションの件でムーアさんに確認を……」「ありがとうございます。ムーアさんはまだ倉庫で寝てますから、起きたら伝えておきますね」「……それだけですか?」「はい?」「本当はフィンさんに会いたくて来たんですけど? この前の格好いいフィンさん、また見たいなって」 え? 何を言われてるのかよくわからない。 そういえば、貴族様の所に行く時、着替えた後セリナさん、随分俺のことみてたけど……。 うーん、女心は観察できないな。 考えていたら、セリナさんは少し恥ずかしそうに目を伏せた。「……それと、先日のクラリスの件で、お礼をと思いまして。これは差し入れです」「クラリスさん……そういえばあの後、シルヴァーバーグ侯爵家からお客さんがいらっしゃいましたよ」「クラリスですか?」「クラリスさんもいらっしゃいましたけど、その後数日後にエレナ嬢が。なんでもお友達にプレゼントを贈るとかって」「ふふ、ムーア雑貨店も貴族様御用達ですね」 微笑みながらセリナさんが手提げ袋を差し出す。近づいた時に、ふと優しい香りが漂った。白い花の香り――レイヴィスさんが調香してくれた、あの新しい香水だ。 それを受け取ろうとした、そのときだった。 外から「わっ!」という子供の
last updateLast Updated : 2025-12-01
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スキルホルダーと地味バイトⅡ

「それにしても私の後をついてらっしゃるなんて……」 セリナさんが困ったように……いや実際困ってるんだろうな。 小さくため息を漏らしたのを俺は聞き逃さなかった。「いや俺の〈天命追視〉がセリナさんがこの店に入るのを教えてくれたんで」 言葉に嘘の気配はない。 本当にセリナさんがここに来るのがわかってたのか。「で、あんたはセリナさんのなんなんだ?」 ジークはいきなり俺に指を差して叫んだ。 いや、人に指を指しちゃいけませんって習わなかったのかな?「あー、俺はただのバイトですよ。この店の」 俺の言葉に、ジークは急に興味をなくしたように俺から視線を外した。 ――と思いきや、ちらりと横目で俺を盗み見る。 どうやら、気にはなってるらしい。 軽く咳払いをして、ジークが口を開いた。「俺には、未来の断片が、時々、視えるんだ」「……便利そうですね」「まあな。戦闘でも重宝されてるし、最近ちょっと調子よくてさ」「それは何よりです」 俺はただ丁寧に返す。 こういう相手には、無反応が一番効く。 たぶん。「でもさ、なんとなく分かるんだよな。お前も視えてんだろ?」「……」 俺は一歩だけ後ろに下がり、ちょうどセリナさんの背が棚の角に接触しそうな位置に立ったのを見た。「セリナさん、そこ、危ないです」「え?」 次の瞬間、ジークが俺より先に手を伸ばし、セリナさんの肩を引いた。 ほぼ同時に、棚の上から小さな魔道具が、さっきまでセリナさんのいた位置に落ちてきた。「っと、セーフ。な? 見えてたんだよ、今の」 セリナさんは驚いたようにジークを見て、少し頬を赤らめる。「……ありがとうございます、フィンさん。やっぱり、すごいですね」 頬を染めて俺に礼を言うセリナさん。 いえ、違います。 こんな不安定な棚に丸っこい魔道具を置いてた店長のせいなんですよ。 ああ、怪我がなくて良かった。「は? 俺じゃなくて……?」 ジークが一瞬目を見開き、次の瞬間、ぐっと口を噤んだ。「え? 助けたのは俺だよね? なんでこんな地味男にお礼を?」「でも、フィンさんの警告があって、助かった訳ですし。もちろん、ジークさんもありがとうございました」 セリナさんの言葉にジークは眉をひそめる。 そしていやな目つきで俺をにらんできた。 これはやっかいごとの気配だな。「……未来、
last updateLast Updated : 2025-12-02
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スキルホルダーと地味バイトⅢ

 ジークはしばらく黙っていたが、突然くるりと踵を返し、カウンターの前へ向かった。「じゃあ、その接客勝負ってやつ、やってやるよ。今すぐに! この店に合った形で勝負してやる。俺の未来視スキル、ナメんなよ?」 ジークと俺は並んでカウンターに立った。 いや、対して広くないカウンターに男二人、しかも一人は鎧着てって。 狭っ! 俺は、この勝負を持ちかけたことを少しだけ後悔していた。 と、ちょうどそのとき、ドアが開いて客がひとり入ってきた。中年の職人風の男だ。 一見して、仕事帰りでないのはわかった。 靴裏には薄く湿った泥が付着し、その縁には干からびかけた水草の繊維。ズボンの膝には、ついさっき付いたばかりの水染み。 右手の爪には擦れて取れかけの銅の粉がこびりつき、指先には微かに緑色の粉末――香草の残りか。 湿地帯で早朝から作業してたってところかな。 初対面でも、これくらいは見てればわかる。「悪い、さ――」「錆び止め、三本。あと香草も。了解しました」 ジークが一歩前に出て、客が言葉にする前に、もう注文を口にしてる。「……銅材用ですね? だったら、こちらの棚の二段目と、香草はこっちです」 それなりに的を射た案内だった。棚の位置まで把握してるんだな。なるほど、この光景をあらかじめ見てたってことか。やっぱりすごいな、未来視スキル。〈天命追視〉っていったっけ。「いや、ジーク、それじゃない」 だが俺は、客の靴裏にこびりついた薄い泥と、その縁に細く伸びた水草の繊維、右手の指先に微かに付いた緑の粉末を見てた。 それに男のズボンの膝には、まだ湿った泥染みがある。朝一番で作業してたんだろうな。 湿地帯で早朝から作業してたなら、昨日の配合じゃ匂いがきつすぎる。「失礼しました。香草の種類が違うようです。今日のお仕事、湿地帯でしたか?」「ああ、そう。だから今日は防臭強めのやつがほしくてな」「でしたら、こちらのブレンドを。分量は通常の三割増しに調整しておきます」 職人は満足げにうなずいて、代金を置いて出ていった。「……え、なんで湿地ってわかったんだよ」 ジークがポツリと呟いた。彼の未来視には、この光景は見えてなかったってことか。 たぶん「注文された物」と「それを取る自分の動作」だけが見えてたんだろう。 その前の段階――つまり客がどこで働いてきて、どんな条
last updateLast Updated : 2025-12-04
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ハクアレポートⅡ

 私――ハクアは、いつものように向かいの屋上で双眼鏡を構えていた。 今日のムーア商店には、見覚えのある男が現れた。ジーク。〈天命追視〉のスキルホルダーとして、冒険者の間では名の知れた人物。 彼が店を訪れたギルドの受付嬢に接近する姿勢を見せ、フィンに何やら勝負を申し込んでいる。 (また面倒なことに巻き込まれているのね、あの男は) だが、私が本当に気になっているのは、今日のことではない。 一昨日――シルヴァーバーグの屋敷での出来事が、まだ頭から離れない。 ◆ あの日、フィンが屋敷の害虫駆除に向かった時、私は密かに後を追っていた。 彼がどのような手法を用いるのか、この目で確かめたかった。 そして目撃したのは――信じがたい光景だった。 屋敷に足を踏み入れた瞬間、フィンの表情が変わった。いつもの人当たりの良い店員の顔ではない。何かを探るような、研ぎ澄まされた集中力。 香炉の配置を一瞥しただけで、虫の誘導システムを完全に看破。 空気の流れ、香りの拡散パターン、建物の構造――全てを瞬時に分析し、仕掛けの全容を理解していた。 あれは――尋常ではない。 一般的な害虫駆除の知識程度では、あそこまでの分析は不可能だ。建築学、気象学、香料化学、そして何より――工作活動への深い理解がなければ、あの速度での看破はありえない。 そして、クライストとの対峙。 執事長の欺瞞を、観察だけで完全に暴き出した。表情の変化、視線の動き、無意識の仕草――全てを読み取り、証拠として積み上げていく手法は、まるで―― (尋問のプロフェッショナルのようだった) ◆ 私は過去の観察記録を改めて見直した。 『暁の剣』のパーティ記録。相方はカティア――『烈火の英雄』。 あの孤高の剣士が、たった一度だけ組んだパーティ。 相方は当時十代前半の少年。 なぜカティアほどの英雄が、少年を相方に選んだのか? 普通に考えれば、戦闘力不足の少年など足手まといにしかならない。だが、あの屋敷での技術を見れば―― あの観察眼の精度。瞬時の状況分析。専門知識の幅広さ。 これらは一般的な冒険者の経験では説明がつかない。 何か特殊な訓練を受けていたのか? それとも、もっと別の――一般には知られていない経歴があるのか? 調べれば調べるほど、新たな疑問が生まれる。 まるで意図的に、全ての痕跡が
last updateLast Updated : 2025-12-05
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「仲直りのための贈り物Ⅰ」

 その朝、私は窓辺に立ったまま、制服のリボンを結ぶ手が止まってる。 胸の奥に残った、ひやりとした重たさ。昨日の、あのラウンジの沈黙がまだ消えない。(……わたくし、またやらかしちゃいましたわ……) ほんの少しだけ距離が縮まったと思ったのに。氷みたいな声で「その話は、しないで」って言われたあの瞬間、心の中でバッドエンドの鐘が鳴った気がした。 そんな私を、ミリアは心配そうに見上げる。「お姉様……今日も一緒に頑張りましょうっ。リュシア様と当番ですよ!」 彼女の声は明るいけど、どこか励ますような響きがある。◆ 寮の掲示板前で、生活管理当番の張り紙を確認した。名前の並びは、もちろん昨日と同じ――『エレナ・シルヴァーバーグ リュシア・フェンリル』。(……ルート確定、ですわね?でも、今はむしろ試練イベントですの……!) ミリアと一緒に当番用の手袋をはめて、図書室へ向かう。並んで歩くリュシアちゃんの横顔は相変わらず美しくて、淡い朝の光に透けて見える銀青色の髪がふわりと揺れてる。 けれど、その視線は前だけを見てて、私に向くことはない。(ああ……冷たい。昨日までの距離が、一瞬で……) それでも今日は挽回しなくちゃ。当番中、私はとにかく彼女を観察して、何か糸口を掴もうと必死になる。◆ 図書室の返却棚を整理しながら、私はさりげなく話しかける。「リュシア様、この本……どこに並べればよいですの?」「……三類、魔導理論の棚」 淡々とした声。必要最低限の会話しか返ってこない。けれど、その指先は相変わらず丁寧で、まるでガラス細工を扱うみたいに一冊一冊を棚に収めてた。 私はその仕草を見ながら、心の中でいろいろ考える。(……贈り物、ですわよね。言葉で届かなくても、手に取って毎日使うものなら……)(しかも、香りが強すぎると逆効果。リュシアちゃんは派手な香りを避けるし、肌触りも大事……あとは、生活に自然に馴染むものを……) 気づいたら、頭の中で条件がどんどん並んでる。まるで誰かに説明するみたいに、"贈り物の条件"が具体的に。(ああ……これはもう、完全に"贈る相手"のことを考えている証拠ですわね……!) 乙女ゲームで言えば、この状態は好感度上昇フラグ準備段階。でも現実だと、ちょっとでも間違えれば地雷を踏む。……慎重にいかなくちゃ。 そんな感じで心の中で空回りし
last updateLast Updated : 2025-12-06
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