LOGINここは、香りの王国ノクスレイン。 魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。 この国に暮すふたりの日常。 観察眼にすぐれた地味なアルバイト、フィン。 現代日本から転生した記憶をもつ貴族令嬢エレナ。 二人の軌跡が交わる時、香りの王国王国を舞台とした物語が静かに動き出す。
View Moreここは、香りの王国ノクスレイン。
魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。王都ペルファリアの片隅。
石畳の道沿いに並ぶ雑多な店々の、そのまた裏路地にひっそりと佇む「ムーア雑貨店」 木製の看板に手描きの文字。軋む扉に、たまに鳴らないベル。 そして、そこに――店番として住み込みで働いている、一人の青年がいる。名を、フィン。
フィン・アルバ=スヴァイン。 肩までの黒髪を無造作に束ね、糸のような細い目で地味な顔。古着のようなエプロン姿で黙々と掃除をするその横顔は、どう見ても普通。 だが――彼には、誰にもない特技があった。それは、「観察力」
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、皮膚に触るもの、舌に触れるもの、そして香り。 空気のわずかなズレに気づく鋭さが、常に彼を、事件と、そして運命の渦へと引き込んでいくことになる――もっとも、今の彼にはそんなことはわからない。
むしろ今日も、いつも通りにこう呟く。「……さて、今日も暇だといいな」
そして――もう一つ。
この王国の、別の場所では。 王都北区、白壁の屋敷が立ち並ぶ貴族街。 その一角に構えるシルヴァーバーグ侯爵邸の一室で、一人の少女が目を覚ます。 蜂蜜色の髪に、青い瞳。 華やかなドレスに身を包んだその姿は、誰がどう見ても"完璧な令嬢"――のはずだった。 だが彼女には、誰にも言えない秘密がある。 前世の記憶。日本での孤独な死。 そして――香りから、人の感情を読み取る力。 名を、エレナ。 エレナ・シルヴァーバーグ。 そして、もう一つの名前は白石香澄。転生した貴族令嬢として、この世界で”今度こそ幸せに”と願いながら、
彼女もまた、運命の渦に巻き込まれていくことになる。 ――香りと観察。 二つの力が交わるとき、王国を舞台とした物語が静かに動き出す。領主館での三度目の訪問は、これまでよりも穏やかな空気に包まれていた。 応接間に入ったとき、ミラベルはすでに席についていた。 椅子の背もたれに小さく体を預け、ちょこんと座るその姿は、まるで大きな家具に埋もれているようだった。「こ、こんにちは……きょうも、ありがとう……ございます……」 小さく手を膝に揃え、控えめに頭を下げる。 声はか細く、けれど前よりもほんの少しだけ張りがあった。 俺は軽く会釈し、今日の課題──招待状の文面添削──に取りかかる。 所作も発声も、変わらず整っている。 けれどその眼差しには、前回までにはなかった余白があった。 言葉の端に、間の取り方に、少しだけ自然な揺れが混じるようになった。「この一文、ご尊家の皆様にもよろしくお伝えくださいという表現ですが……」 俺がそう言うと、ミラベルは袖口をきゅっと指先でつまみ、少し考えるようにして小さく笑った。「……やっぱり、少しかしこまりすぎてしまいます……よね」 その笑みは、初めて言われたから笑うものではなかった。 彼女の中で何かが確かに変わりはじめている。 添削の合間、ふとした沈黙が訪れる。 窓の外、庭の百合が風に揺れているのが見えた。 そのとき──ミラベルが、ぽつりと呟くように言った。「……王都って、どんなところなんですか?」 突然の問いだった。 だが、そこには軽い興味というよりも、ずっと昔から温めていた問いのような響きがあった。 俺は少し考えながら答えた。「ノクスレイン王国は香りの王国と呼ばれているのはご存じですよね? その王都たるペルファリアには様々な香りが流れています」 俺は既に懐かしくなっている王都を脳裏に思い浮かべ、その光景を語る。「通りには香水店が並んでいて、花や果実、木の樹脂にスパイス……流行の香りは季節ごとに変わるんですよ。春は柑橘、夏はハーブ、秋には温かい煙のような香りも流行ります」 ミラベルは目を伏せ、胸元のリボンをそっと撫でながら、くすりと微笑んだ。「……お母さまが、よくそんな話をしていました」 その声は、どこか遠くを見ているようだった。「王都の香りは、季節の舞踏会みたいに入れ替わるのよって……楽しそうに、何度も」 彼女は手元に置かれた白いハンカチを、ちいさな手でぎゅっと握った。「お母さまは、王都に住んでいたことがあるんです
領主館は町の南、段丘の上にあった。 高台に築かれたその屋敷は、外から見れば石造りの地味な建物だが、門を抜けた瞬間に空気が変わる。 芝は短く刈られ、敷石には靴跡ひとつなく、花壇には季節外れの百合が咲いていた。 整いすぎている。どこか、誰かが無理をしてまで整えているような気配。 門を通ったところで年配の家令が現れ、俺を迎えた。 痩身で無表情だが、所作はまさに貴族の屋敷にふさわしい品格を感じさせる。「冒険者ギルドから参りました、フィンと申します。本日のお約束の件で」 俺は軽く頭を下げながら、用意していた依頼状を差し出す。 家令は一礼のままそれを受け取り、目を通すでもなく懐にしまい込んだ。 彼は無言で一礼すると、静かに先導を始めた。 歩き出してすぐ、低い声でぽつりと呟くように言った。「……お嬢様は、少々変わったお方でして」 一拍の間を置いてから続けた。「……それゆえに、どうか、ご無礼があっても……」 それだけ言うと、家令はそれ以上何も語らなかった。 けれど、その一言に、屋敷の人間が彼女をどう見ているかが滲んでいた。 敬意と距離。その両方があるような声音だった。 俺はその背を追う。 途中、廊下の掃除をしていたらしい中年の女性が、視線を上げぬまま深く礼をした。 屋敷に仕える者の動きまで、徹底されている。 案内された応接間もまた、完璧だった。 机の脚に至るまで磨き込まれ、絵画は傾きなく額装されている。 座っていいのか不安になるほど整然とした空間。着席を促してから、一礼をして家令は下がってゆく。 入れ替わるようにメイドがお茶を運んできた。 しばしの時間がすぎる。 ──そして、扉が開いた。 現れたのは、まるでおそるおそる舞台に出てきた子猫のような気配をまとった人物だった。 淡い色合いのドレスに身を包み、細い首元には控えめなリボンの飾り。 肩より少し長く伸ばしたふわりとした亜麻色の髪。 歩みは慎重で、スカートの裾を踏まないよう気をつけている様子が微笑ましい。 顔立ちは愛らしく、どこかあどけなさが残る。 年齢は十五歳だったっけ。 その存在は、まるで守ってあげたくなるような、小動物めいた可憐さがあった。「は、初めまして……ミラベル・オルシエールと申します……」 声は震えるようにかすかで、喉の奥から押し出すような高音。
副支部長のヴァルターに連れられ、受付にたどり着く。 そこには茶髪の受付嬢とは別に、中年の女性事務員が書類整理をしていた。 ヴァルターが軽く顎を引くと、女性事務員が小さく頷いた。 ──あ、なるほど。この二人、阿吽の呼吸だ。 単純な上下関係じゃない。どちらかというと、共犯者みたいな。「では、よろしくお願いしますね、フィンさん」 「はい、頑張ってみます」 軽く俺の肩を叩いて、ヴァルターは奥に消えていく。 その背中を見送りながら、俺は思った。(まずは、この支部の空気に慣れることから始めよう。急いでも、ボロは出してくれなさそうだ)「レミィです、よろしくお願いいたします!」 「フィンです。色々教えてくださいね」 受付嬢のレミィさんに改めて挨拶されて、俺は大きく頷いた。レミィさんは、さっそく手元の書類を一つ俺の元によこす。「じゃあ、まずは軽い依頼からですね。今日の午後に一件、町の配達をお願いしてます」 ……流れるように仕事が振られた。うん、わかってたけどね。 初日は配達。 二日目は行商人の護衛任務の手配。 三日目には、魔物避けの結界符を届ける手伝いで、郊外の農場まで歩いた。 やってくる冒険者は目白押し。 冒険者ギルドの仕事というのは、つまるところ雇われの口利きだ。 魔物退治に薬草集め、護衛に猫探しまで──依頼の中身は多種多様。 だが根っこはどれも同じ。 困ってる誰かに代わって、それを片づけてほしいって話だ。 だからギルドは、冒険者の溜まり場でもあり、腕の貸し借りを仲立ちする場所でもある。 剣の腕があっても、求められてるのが薪割りなら話にならない。 必要なのは、適材適所。そして、それを見極める目。 それが俺の、表向きの役目ってわけだ。 仕事を進めるうち、何人もの冒険者と顔を合わせた。 怒鳴ってばかりの男。剣を磨くことしか考えてない女。ギルドの帳簿を盗み見ようとする若造。 善人も悪人も、平等に火薬のような空気をまとっていた。 町も、店も、通りも──どれも熱を持ちすぎている。 だからこそ、少しずつ見えてくるものがある。 俺は密かに調査を進めていた。 物資の搬入リスト、冒険者への支払い記録、業者との取引履歴──数字の裏に隠された痕跡を探す。 ヴァルターと商人たちの会話にも耳
王都ペルファリアから馬車でおよそ一ヶ月。 峠を越えた瞬間、乾いた風と一緒に、喧騒と土埃と──欲望のにおいが押し寄せてきた。 帝国との境界近く、王国の西端にある町、グランヘルデ。 もともとは砦の跡地にできた、寂れた辺境の村だったらしい。 けれど今は、町全体が膨れあがっていた。 地中から遺構らしきものが見つかった──それが全ての始まりだ。 未踏破、構造不明、魔物出没。 だが同時に、古代の魔導具、未知の鉱石、魔物素材── 資源と価値の塊が地中に眠っているとなれば、当然、欲に駆られた連中が集まる。 それは、王国史に幾度も刻まれてきた、ダンジョン・フロンティアの始まりだった。 通りには、肩をぶつけ合って歩く冒険者たち。 武具屋の前には魔物の素材が雑に吊るされ、簡易宿の玄関には今日潜る者の名簿が晒されている。 昼から賭けに興じる者、情報屋の小声に耳を傾ける者、買い込んだポーションを胸元に詰めていく者。 市場も、酒場も、裏通りの娼館も、どこも満員だ。 熱気はある。だが、それは生命力ではなく、何かもっと乾いた、切羽詰まった熱だ。 町の空気は、重く、鋭く、荒れている。 ここには、金と命と魔力を賭ける者しかいない。 ────さて、ここからは少しだけ本気を出していこう。 王都のようにのんびりした雰囲気でやっていては、トラブルを招くばかりだとも思うしね。 いつもは半分閉じている瞼をしっかりあけ、瞳を凝らす。 辺境にいる間は、これで行くかな。 ……疲れるけど。 ギルド支部は、町の北端、段丘の上に建っていた。 白い壁と青い屋根の仮設庁舎。王国式の意匠を模してはいるが、どこか無理がある。 建物の前には、王国の旗と、ギルドの青い紋章旗が並んで掲げられていた。 風に翻るそれらを見上げながら、俺は小さく息をついた。(さて……一ヶ月ぶりの仕事か。今度は、ちょっと違うけど) ハルデンから聞いた話は単純だった。 副支部長ヴァルター・グレインの不正疑惑。物資の横流し、予算の私物化、報告書の改竄。 ただし相手は元商人で、証拠隠滅は巧妙。正面から追及しても尻尾を掴ませない。 だから俺が来た。表向きは「人手不足解消のための応援職員」として。 実際は、地味に、静かに、観察して回る係として。 支部の中は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。 この時間なら