ノクスレイン~香りの王国物語~

ノクスレイン~香りの王国物語~

last updateLast Updated : 2025-12-26
By:  カクナノゾムUpdated just now
Language: Japanese
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 ここは、香りの王国ノクスレイン。  魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。 この国に暮すふたりの日常。 観察眼にすぐれた地味なアルバイト、フィン。 現代日本から転生した記憶をもつ貴族令嬢エレナ。 二人の軌跡が交わる時、香りの王国王国を舞台とした物語が静かに動き出す。

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Chapter 1

春の章【香りの国のふたり】

 ここは、香りの王国ノクスレイン。

 魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。

 王都ペルファリアの片隅。

 石畳の道沿いに並ぶ雑多な店々の、そのまた裏路地にひっそりと佇む「ムーア雑貨店」

 木製の看板に手描きの文字。軋む扉に、たまに鳴らないベル。

 そして、そこに――店番として住み込みで働いている、一人の青年がいる。

 名を、フィン。

 フィン・アルバ=スヴァイン。

 肩までの黒髪を無造作に束ね、糸のような細い目で地味な顔。古着のようなエプロン姿で黙々と掃除をするその横顔は、どう見ても普通。

 だが――彼には、誰にもない特技があった。

 それは、「観察力」

 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、皮膚に触るもの、舌に触れるもの、そして香り。

 空気のわずかなズレに気づく鋭さが、常に彼を、事件と、そして運命の渦へと引き込んでいくことになる――

 もっとも、今の彼にはそんなことはわからない。

 むしろ今日も、いつも通りにこう呟く。

「……さて、今日も暇だといいな」

 そして――もう一つ。

 この王国の、別の場所では。

 王都北区、白壁の屋敷が立ち並ぶ貴族街。

 その一角に構えるシルヴァーバーグ侯爵邸の一室で、一人の少女が目を覚ます。

 蜂蜜色の髪に、青い瞳。

 華やかなドレスに身を包んだその姿は、誰がどう見ても"完璧な令嬢"――のはずだった。

 だが彼女には、誰にも言えない秘密がある。

 前世の記憶。日本での孤独な死。

 そして――香りから、人の感情を読み取る力。

 名を、エレナ。

 エレナ・シルヴァーバーグ。

 そして、もう一つの名前は白石香澄。

 転生した貴族令嬢として、この世界で”今度こそ幸せに”と願いながら、

 彼女もまた、運命の渦に巻き込まれていくことになる。

 ――香りと観察。

 二つの力が交わるとき、王国を舞台とした物語が静かに動き出す。

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春の章【香りの国のふたり】
 ここは、香りの王国ノクスレイン。  魔力を帯びた香りが人々の暮らしを包み、花と香水と香煙とが交じりあうこの地では、空気そのものが、日々ゆるやかに魔法を織り上げている。 王都ペルファリアの片隅。  石畳の道沿いに並ぶ雑多な店々の、そのまた裏路地にひっそりと佇む「ムーア雑貨店」  木製の看板に手描きの文字。軋む扉に、たまに鳴らないベル。  そして、そこに――店番として住み込みで働いている、一人の青年がいる。 名を、フィン。  フィン・アルバ=スヴァイン。  肩までの黒髪を無造作に束ね、糸のような細い目で地味な顔。古着のようなエプロン姿で黙々と掃除をするその横顔は、どう見ても普通。  だが――彼には、誰にもない特技があった。 それは、「観察力」  目に見えるもの、耳に聞こえるもの、皮膚に触るもの、舌に触れるもの、そして香り。  空気のわずかなズレに気づく鋭さが、常に彼を、事件と、そして運命の渦へと引き込んでいくことになる―― もっとも、今の彼にはそんなことはわからない。  むしろ今日も、いつも通りにこう呟く。「……さて、今日も暇だといいな」 そして――もう一つ。  この王国の、別の場所では。    王都北区、白壁の屋敷が立ち並ぶ貴族街。  その一角に構えるシルヴァーバーグ侯爵邸の一室で、一人の少女が目を覚ます。  蜂蜜色の髪に、青い瞳。  華やかなドレスに身を包んだその姿は、誰がどう見ても"完璧な令嬢"――のはずだった。    だが彼女には、誰にも言えない秘密がある。  前世の記憶。日本での孤独な死。  そして――香りから、人の感情を読み取る力。    名を、エレナ。  エレナ・シルヴァーバーグ。  そして、もう一つの名前は白石香澄。 転生した貴族令嬢として、この世界で”今度こそ幸せに”と願いながら、  彼女もまた、運命の渦に巻き込まれていくことになる。    ――香りと観察。  二つの力が交わるとき、王国を舞台とした物語が静かに動き出す。
last updateLast Updated : 2025-11-08
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暗殺者と地味バイト
「なあフィン。今日だけでいいから、あの香水屋に顔出してくれや」 朝、店の扉を開けると同時に、店主のムーアさんがパンを片手に言い放った。「なんでまた俺が……」「ベルティエ香水店から臨時派遣依頼が来とる。香りに詳しいって紹介しといたぞ」 香りに詳しいって、俺が? 雑貨店アルバイトの俺が? まぁ、わからなくはない程度の知識をあるけどさ。「それ、単に鼻がいいってだけじゃ……」「細かいことはいいんだよ。鼻が利くなら十分だろう?」 ムーアさんは手をひらひらと振った。「お前はバイトなんだから、言うこと聞いてりゃいいんだ」 バイト。 異世界からの流入語で、この世界では「短期雇用労働者」を指す言葉らしい。 この世界では、そんな風に異世界からの知識や言葉が、あちこちから聞こえてくることがある。 ここは、王都四区・西側市街の外れ。 雑多な商店が集まる庶民的なエリアだ。 そんな場所でひっそり営業してるのが、俺がバイトしてる雑貨屋『ムーア商店』 店主のムーアさんは、気はいいけど金にはがめつい。 スキルは魔導具鑑定を持っているらしい。 壊れた魔導具に手を加えて"準新品"として売る。訳あり品は「今朝仕入れたばかり!」と胸を張って並べる。でも、なんだかんだでこの辺じゃ一番マシな店だ。 雨風はしのげるし、客に値切られても暴力沙汰にならないだけマシ。まあ、俺にとってはそれで十分なのかもしれない。 俺はフィン。そこでバイトしてる、ただの地味男。「……何の罪で売り飛ばされるんですか」「売り飛ばすって何だ。正当な商取引だ」 ムーアさんがにやりと笑みを浮かべる。「しかも今回は特別料金でな」「特別料金?」「派遣料が通常の三倍だった。ありがたい話だ」 俺は頭を抱えた。どうやら商品として値段まで付けられたらしい。しかも三倍って、俺にそんな価値があるとは思えないんだけど。「店長、俺って商品でしたっけ」「違うな。レンタル用品だ」「ひどい」 でも、まあ、それが俺の現実なんだろう。文句を言ったところで変わるわけじゃないし。◆ 王都中央通り。 華やかな高級商店や、貴族向けの専門店が建ち並ぶ王都でも一番賑やかな通りだ。 そこにそびえ立つは、香りの殿堂『ベルティエ香水店』 城下最大の香水専門店にして、貴族や大商人、時には王城までもが御用達とする格式を持つ。
last updateLast Updated : 2025-11-08
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記憶の香りと転生令嬢Ⅰ
 バッターンッ! 乾いた音が店内に響いた。扉の開閉音。しかも強め。  おまけに、聞き捨てならない声がついてきた。「ムーア商店の者! ここにあるかしらッ!!」 ……え? なにこの人。声でかすぎだろ。しかも語尾に星マークでもついてそうな勢いだし。 その瞬間、店内の空気が変わった。値切り交渉してたおばちゃんも、納品伝票を確認してた職人も、瓶入りの香油を棚から盗もうとしてた浮浪者——コラまでもが、一斉に動きを止めて入口に視線を向ける。 そして、見た。  扉の向こうに立っていたのは、太陽をそのまま形したような少女だった。 純白のフリルが爆発したような服。  蜂蜜色のカールヘアにつり目がちの整った顔立ち。  手にはレース扇子。  全身が「わたくしこそ貴族令嬢ですのよ!!」と言わんばかりの圧力を放っている。 ……うわぁ。  この店には似合わない、上流のお貴族様だ。  やっかいな予感しかしないよね。 でも、よく見ると——違和感がある。 俺の中で、何かが切り替わる。  その違和感に、俺の中に潜む観察眼が立ち上がる。「……」 手元のレース扇子、右手首の角度が2.4度傾いてる。握力も平均の1.7倍。慣れてない証拠だ。  呼吸のリズムが一定しない。3秒吸って、4秒吐いて、また2秒吸って——緊張してる。 口調も、動きも、なんか型にはめようとしてる。  頭の中に「こうあるべき貴族令嬢」のイメージがあって、それに合わせて演じてる。 瞬きの間隔が0.8秒。普通は1.2秒だ。明らかに意識的に調整してる。  貴族を装っている、というのとは違う。最近まで貴族ではなかった人間が、無理矢理貴族を演じている、というところかな? よくよく見ると、彼女の肉体の動作にブレがある。元から身についた動きと、無理矢理意識している動き。 ――そう、まるで1つの体に2つの魂が入っているような。    月に1度くらい現れる『異世界テンプレ病』の患者ってのがいる。  無駄にキメ顔で「この街を救うのは、俺しかいない!」とか叫ぶ自称勇者。 「追放されましたが、今は自由です」と意味深に笑う元聖騎士ニート。 街の人間は鼻で笑う。  「また変な奴が来たな」「頭のおかしい奴が増えてる」って。 ――だが、俺は知ってる。 自称勇者の場合は靴底の右足外側が1.2ミリ多く削れていた
last updateLast Updated : 2025-11-09
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記憶の香りと転生令嬢Ⅱ
 彼女は、少し驚いた顔をして——すぐ、また演技に戻った。「ふふ、あなたのような方に理解できるかしらね?」 見下すような、底意地の悪い表情を浮かべる貴族の少女。残念ながら似合ってない。 あー、これは『悪役令嬢』ってヤツだな。物語の悪役を真似した令嬢。  この世界に「悪役令嬢」なんて概念はない。それをここまで再現してる時点で、やっぱり異世界からの持ち込みだ。「……ただ、あの香りが……気になって仕方ないのよ」 急に、声のトーンが変わった。演技の仮面が、一瞬だけ剥がれたような。「甘くて、でも静かで……芯のある香りだったの。忘れられないの」 それは遠い何かを思い出しているような、そんな表情。「まるで、昔の……記憶みたいな……」 彼女は、ぽつりとそう呟いた。その瞬間、瞳の奥に迷いと緊張——そして、懐かしさが見えた。 また切り替わる。観察者としての俺。 そして彼女の視線は薄暗い棚の奥、誰の手にも届かない場所に置いてある小さな香水瓶を真っ直ぐに見ている。視線の軌道、0.7秒で一直線。迷いがない。 そこに置いてあるのはラフェルトNo.4旧型。この世界にはない、淡い花の香りの香水。 この香水、曰く付きなんだよな。そもそもこの国の香水じゃない。帝国の魔導院が作った、ある存在をあぶり出すための香り。 でも100%確実じゃなかったから、結果大変なことになったそうだ。転生者狩り、って呼ばれた事件。 記録にはもう、思い出したくもないほどの大惨事だったと公式に記されているのだから内容は推して知るべし。 で、この少女。鼻孔の動き、通常の2.3倍拡張してる。この香水への反応が異様だ。まさか店外から、開けてもいない瓶の僅かな残り香を嗅ぎ分けて来たのか? 感覚が鋭すぎる。これは……やっぱりスキル持ちだな。 ——我に返る。 俺は棚の奥から、空瓶になった旧型サンプルを手に取った。蓋は開いてない。それでも、ほんのわずかに瓶口から漂う香りの残滓を——彼女は確実に感じ取ってる。「ちょっと、これ……試してみますか?」 俺は瓶をそっと差し出した。彼女の瞳が、ゆっくりと瓶へ向く。瞳孔が1.4ミリ拡張した。蓋を開けてないのに、瞬間、彼女の目が見開かれる。「……これ、だわ」 確信のこもった声だった。まるで、記憶をなぞるような響き。「……お客様、香りの識別、かなり得意なんですね
last updateLast Updated : 2025-11-10
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「転生したら貴族令嬢でした!」
 ――時は少しさかのぼり、とある令嬢の物語が静かに幕を開ける。  彼女の名はエレナ・シルヴァーバーグ。  先ほどの出会いへとつながる、もう一つの物語が今、はじまる――。 ◇ 深い深い闇の中で、一つの魂が漂っていた。  蜂蜜色の髪をした少女の魂。かつてエレナ・シルヴァーバーグと呼ばれた存在。「もう……わたくしなんて、いないほうがいいんですわ」 その声は、闇の中でかすかに響く。「お母様も、わたくしのせいで……もう、なにもかも……」 愛した母を失った悲しみ。自分のせいで死なせてしまったという罪悪感。  すべてが重すぎて、もう生きていることさえ辛くて。 その魂は、肉体の奥底へとゆっくりと自分を沈めていく。  まるで深い湖の底へと落ちていくように。静かに、静かに。  そして——暗闇の向こうから、別の光がやってきた。 同じように傷つき、同じように孤独だった魂が。「お願い……今度こそ、幸せになりたい」 二つの魂が、闇の中で出会った瞬間——◆ 頭がずきずきと痛む。まるで長い間眠り続けていたような、重い眠気が体を包んでいる。 私、白石香澄は薄っすらと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天井。金色の装飾がきらきらと輝いて、まるでお城みたい。 ……あれ?  そして——なんだろう、この香り? 空気が違う。ただの空気じゃない。石鹸の香り、花の香り、かすかな香木の匂い、それから——悲しみ? 寂しさ? え? 匂いで感情がわかるって、何それ……?  今まで嗅覚なんてそんなに敏感じゃなかったのに、まるで香りが色とりどりに見えるみたい。これって一体……? 起き上がろうとして、愕然とする。私の腕が細い。すごく細くて、色白で、指先まで美しい。  そしてベッドの向こうには、これまた見たことのない豪華な調度品。 私、死んだはずじゃ……  そうだ。学校でのいじめが酷くて、家に引きこもって、病気になって、そして—— 慌てて鏡を見ると、そこに映っていたのは知らない顔。蜂蜜色の縦巻き髪に金色の瞳をした、驚くほど美しい少女。 誰これ……私?  でも、この顔。どこかで見たような……。 その時、断片的に記憶が流れ込んできた。豪華な屋敷、大きな庭、使用人たち、そして——香りの記憶。 母親の優しい声、花の香り、温かい手
last updateLast Updated : 2025-11-11
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「奇行姫、学園に現る」
 翌朝、ドレッサーの鏡に映る蜂蜜色の髪を見つめながら、私は深くため息をつく。  指先がひとりでにリボンを結び、襟元を整えていく。エレナの記憶が身体に染み付いてるんだね。「まあ、このお嬢様口調も、もう諦めることにしましたわ」 はい、また出た。でも昨日一日で慣れた。エレナの身体なんだもの、こういうものだと受け入れるしかない。 それより今日は待ちに待った学園デビュー! ゲーム『リュミアの恋する香り』の舞台、フレグラントール学園だ。 破滅フラグ回避のためにも、今日から本格的にヒロインムーブしなくちゃ。  廊下の向こうから、クラリスの足音が聞こえる。軽やかで、どこか弾んでるような音。「お嬢様、馬車の準備が整いましたわ」「ありがとう、クラリスさん。いつも本当に助かっていますわ」 クラリスの瞳がまた潤む。この子、涙腺が緩みっぱなしだけど大丈夫かしら。◆ 玄関先で待つ馬車は、朝日を受けて金色に輝いてる。御者のおじいさんが振り返り、深いしわに囲まれた目元を細める。「エレナお嬢様、今日もご機嫌麗しゅうございますな」「おはようございます。今日もよろしくお願いしますわ」 おじいさんの目が丸くなる。人が喜んでくれるのは、やっぱり嬉しいよね。◆ フレグラントール学園は、想像以上に美しかった。 白亜の尖塔がそびえ立ち、庭園の花々が朝露に濡れて輝いてる。そして何より——香りのシステムがすごい。ほのかなバラの香りに混じって、ラベンダー、ジャスミン、そして名前の分からない甘い香りが層をなして漂ってる。 馬車から降り立つと、周囲の視線が一斉に集まった。ひそひそと囁く声が風に乗って聞こえてくる。「あれがエレナ・シルヴァーバーグよ」「例の高飛車な……体調崩して休んでたんじゃなかった?」「近づかない方がいいって聞いたけれど」 なるほど、悪役令嬢としての初期設定だね。でも大丈夫! 善行ムーブで破滅フラグを回避してみせる。  校門で荷物を降ろしてくれた使用人さんに、私は自然に頭を下げる。「ありがとうございました。お疲れさまでした」 その瞬間、周囲が静まり返った。「え……今、お辞儀を?」「使用人に? エレナが?」「ありえない……」 使用人さんも青ざめ、慌てて深々と頭を下げて足早に去っていく。思った以上に反応が大きい。でもこれで注目を集めることはできたみ
last updateLast Updated : 2025-11-11
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「運命の香りと、観察するバイト」
 放課後のフレグラントール学園から続く道を、私はひとりで歩いていた。 今日は、クラリスが風邪で休み。馬車の手配も忘れていたので、学園から屋敷までの道を歩く羽目になった。けれど、不思議と悪くない気分だった。 こういうのも……主人公っぽくって、よくってよ。 道はやがて王都の西寄りへと続き、人通りもまばらになっていく。貴族が歩くには、少しばかり品のない街並み。小さな雑貨屋、露店、路地裏の猫たち。 それでも私は、そのまま歩みを止めなかった。風に乗って、香りが流れてきたから。 甘くて、静かで、でも芯のある香り。目を閉じると、記憶の奥に触れるような懐かしさがあった。 この香り、知ってる。 でも、思い出せない。どこで嗅いだのか、いつの記憶なのか。気づけば、足が勝手に動いていた。曲がり角をいくつか越え、木漏れ日の差す石畳を踏みしめる。 そして——ひとつの店の前に立っていた。 『ムーア商店』。店構えはくたびれていて、貴族令嬢が立ち寄るような雰囲気ではない。でも、間違いなかった。この扉の向こうに、あの香りがある。 やっぱり……この世界には、運命ってあるのね。 私は、ゆっくりと扉に手をかけた。 え? なにこの……ちょっと埃っぽい空気。 ドレスの裾に埃が絡みそうで、一瞬たじろぐ。でも、香りは確かにここから……。「ムーア商店の者! ここにあるかしらッ!!」 口から勝手に飛び出たセリフに、少しだけ後悔した。 あ、語尾ッ!! つけすぎた!? あるかしらって何よ、あるかしらって! 何があるのかさっぱりだわ! 周囲の視線が一斉に集まる。うぅ、なんかすっごく浮いてる……。でも、今さら引けない! だって、あの香りが……この中に! そのとき、店の奥から現れたひとりの青年が、箒を止めて顔を上げた。 髪がやや長めで、前髪が目にかかっている。無表情で、でもどこか達観しているような顔立ち。……あ、ちょっと好みかも。「……お客様、どのような香りをお探しで?」 声は低めで落ち着いていて、でもこちらを見つめる視線が、なぜか妙に鋭い。 うわ、この人……ここは雑貨屋なのに、何も言わないで私が香水を探しているって見抜いた!? あわてて令嬢モードに切り替える。「ふふ、あなたのような方に理解できるかしらね?」 うっわぁ! なにこのセリフ!? キメすぎた!? でも、演じるしかない。
last updateLast Updated : 2025-11-12
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勇者未満と地味バイトⅠ
◇あの令嬢がムーア商店を訪れてから数日。 フィンはいつものように、朝の日課を始めていた。◇ ムーア商店の朝は掃除から始まる。「……お前は何故そこに?」 俺の視線の先、コーヒー豆が床の隙間に挟まってる。  しかもちょうど箒が届かない位置に。  狙ったようにピタリと、床板の間にはまり込んでいる。 糸目でじーっと見つめながら、箒の先でつついてみる。  コロコロ。  逃げた。  さらに奥に転がって行きやがった。「……お前、わざとやってるだろ」 コーヒー豆に向かって真剣に文句を言ってる自分が情けない。  でも毎日毎日、同じ場所で同じことになるんだから、もはや豆の悪意すら感じるんだよね。 掃除していると、バッターーーーンッ! と勢いよく扉が開いた。  入ってきたのは少年。年の頃は10代半ば、髪は赤褐色。目立つのは背中の大剣だ。鞘がなく、刃がむき出しになってる。「何だ、朝っぱらから騒がしいな……」 店の奥で帳簿をつけていたムーア店長が顔を出す。小柄な体に分厚い前掛け、顎髭が目立つ。 俺に目配せを寄越すと、店内に入ってきた客を見て鼻を鳴らした。「あれはヤバい客っぽいな? フィン、気をつけろよ」「そりゃ、むき出しの剣を背負ってるんだからヤバいに決まってますよ」 俺の中で、何かが切り替わる。  細く閉じていた目を、ゆっくりと見開く。 ――少年を観察する。 シャツのサイズが合ってない。袖が手の甲まで覆い、ボタンが1つ飛んでる。右の靴は革製、左は布を巻いたサンダル。ちぐはぐな装いだ。 そして背中の剣。鈍色の刃が店内の光を反射してる。でも、妙に軽そうに揺れてる。 装備がバラバラで、仲間から受け取った装備に見える。が、今の彼に仲間がいる様子は見えないし。 それに少年の仕草を見てれば、だいたい想像がつく。背筋の伸ばし方、剣の構え方、どれも誰かの真似をしてる動作だった。 昔、強制学習で見た記憶がある……確かあれは、王国の記録にあった勇者アレクトだ。 そう、「勇者」を演じようとしてる感じ。  アレクトは戦いで死亡したと記録されている。ということは彼は勇者に憧れて、その度が過ぎてパーティから追放されたのかも知れない。 なら、元勇者と名乗るだろうね。「抜き身の剣を見せびらかしてるヤツぁ、大抵ろくでもないぞ?」 ムー
last updateLast Updated : 2025-11-13
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勇者未満と地味バイトⅡ
「……なるほど。じゃあその鞘、タダでいいです」「え?」「お、おいフィン!?」 ムーア店長が驚いた顔で俺を見る。どうせ売れない品だからいいじゃないですか。まったくこの人はがめつい。「うちの店、たまに在庫整理で『用途不明の革製筒状物体』が出てくるんです。誰も買わないし、かといって捨てるのも惜しい。ちょうどその一本です」「で、でも……」「代わりに、いつか何か買ってくれればってことで。約束手形みたいなものです」 少年の目が潤んだ。「それに――」 俺は少し声を落とした。「お兄さんのこと、また聞かせてください。どんな人だったのか、どんな冒険をしたのか。形見の剣と一緒に、そういう話も大切にしてもらえたら」 少年は言葉に詰まったようだった。しばらく黙っていたが、最後ににっかんだ顔でこう言った。「ありがとう。絶対に、絶対に返す。お金じゃなくても、何かで恩は返すから」 少年のはにかみ顔を見ながら、俺は素の言葉を返す。「おう。待ってるよ、"未来の勇者"さん」「ああ! 俺はまだ、勇者になる途中なんだからな!」 そう言って出て行った背中は——さっきより少しだけ、でも確実に勇者らしく見えた。  ◆ 「……また変な客だったな」 箒を手に、糸目に戻った目でぼんやりと店内を見回しながら、俺はぽつりと呟く。 でも今回は、なんとなく嫌じゃなかった。むしろ、ちょっとだけ応援したくなった。「あの子、泣いてたな」 入り口から外を見ていたムーア店長が声をかけてきた。「え?」「店を出る直前。ちょっとだけ涙ぐんでたぜ。きっと嬉しかったんだろうな」 そう言って、ムーア店長はにやりと太い笑みを浮かべた。「お前、いいとこあるじゃねぇか。この店に来た時はあんなだったのにな。あれから随分変わったもんだぜ」(……そうか。俺、無意識にそんなことを)
last updateLast Updated : 2025-11-14
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獣人と地味バイトⅠ
 朝のムーア商店は、今日もいつも通りの混沌だった。 干し魚の骨、玄関マットの下の羽根、そして床板の隙間に鎮座する常連——永遠のコーヒー豆。もう神棚にでも祀ったほうがいいかもしれない。「……そろそろ、まともな客が来てくれてもいいと思うんだが」 俺は祈るようにほうきを握る。この前から暗殺者、未来の勇者、悪役令嬢。今日こそは—— カラン……と、鈴の音。 その瞬間、空気が変わった。 やばい客——きた。 瞬間的に目を見開き、扉を開けてやってきた客を観察する。 血と薬草と鉄土の匂い。それが店内の湿気と混じって、鼻を刺すような刺激臭になっている。獣の気配。獣人だ——ただし、ただの獣人じゃない。 まず足音。扉を開ける前の3歩——左足を僅かに引きずっている。重心のかけ方から判断して、長距離歩行による筋肉疲労。期間は……足音のリズムと歩幅の変化から、最低でも14日以上の連続移動。 次に、扉を開けるときの手の位置。取っ手を掴む前に、0.2秒ほど手が止まった。これは警戒行動。しかも敵意ではなく、「身構える」タイプの警戒。追われているか、何かに怯えている。 そして決定的だったのは、扉が開いた瞬間の香り分析だった。 血の匂い——鉄分濃度から判断して、擦り傷程度。致命傷ではない。 薬草の匂い——ホンシンソウ、グレ根、それに……何かもう一つ。神経系に作用する系統の薬草。 鉄土の匂い——粒子の大きさと湿度から、南方山岳地帯特有の赤土。靴底に付着した量から計算すると、約600キロメートルの徒歩移動に相当する。 扉の奥から現れたのは、犬系の獣人だった。 茶色の短毛、垂れ耳、体格は中肉中背。年齢は20代前半と推定される。旅装束に近い粗末な外衣を身にまとっているが、問題はその状態だ。 肩には乾いた血痕——幅約3センチメートル、深さは浅い。布を通して付いた血の量から、軽い裂傷。 片目の周囲には古い傷跡——瘢痕の色と硬化具合から、約3年前の外傷。爪痕の形状から、同種族(獣人)との格闘による傷。 右手の指先——人間より長く鋭い爪。ただし、手入れが行き届いている。武器として使用するためではなく、細かい作業用に研いでいる証拠。 そして背に担いだ木箱からは、重苦しい威圧感が漂っている。中身は……重量から判断して5キログラム程度。形状は整っており、割れ物か精密な物体。 何がやば
last updateLast Updated : 2025-11-15
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