INICIAR SESIÓN「あの人の具合はどうでしょう?」
「驚く程順調に回復してますよ、もう大丈夫です」心配そうに尋ねる千鶴に、吉川は笑顔で答えた。
榊商店とは隣り合っているということもあり、あれから頻繁に主人の見舞いに来る千鶴と会話を交わす。
榊の回復力は本当に驚くしかなかった。甲斐甲斐しく主人の面倒を見る千鶴に目をやる。
千鶴は村の女たちと違う。笑うと唇の左が先に動き、人懐こさを感じさせる――村人たちの揃った笑顔にはない、素直な感情がそこにあった。彼女は数年前にこの村へ嫁ぎ、榊商店を夫と二人で切り盛りしてきたと聞く。まだ二十代の終わり。本来なら、都会で華やかに暮らしていてもおかしくない年頃だ。
千鶴の傷は浅く、その日のうちに帰宅できた。
だが榊の方は違った。肋骨の骨折と内出血——吉川の見立てでは半年は安静が必要な重傷のはずだった。ところが患者はみるみる回復していく。二週間で起き上がり、一ヶ月後には退院可能になった。
吉川には理解できなかった。村長に尋ねると、村ではよくあることだという。
「村に伝わる薬がありましてな」
その薬を見せて欲しいと頼んだが、断られた。
「先生がもっと村に馴染んでくれるか、大怪我でもしたらお渡ししますけぇの」
退院の日、夫婦は並んで深々と頭を下げた。
「先生がいなければ……私たちは……」
「わしらは……一生、忘れんけぇ……」二人の声は震えながらも確かな温もりを帯びていた。
吉川は静かに答えた。
「当然のことです。それが仕事ですから」
けれど心の奥では、久しく味わえなかった充実感が灯っていた。
助けられた命。失わずに済んだ家族。 ――そう思った。◆
しかし、それは長くは続かなかった。
一か月後の朝。 千鶴がひとりで診療所を訪れた。顔は青ざめ、目は赤く腫れていた。「……主人が、いなくなったんです」
昨夜までは隣に眠っていた夫が、朝には忽然と消えていたという。布団は乱れたまま、外には足跡すら残っていなかった。
村人たちは口を揃えた。
「山に行ったんじゃろう」「そのうち戻るけぇ」 皆、同じ形の笑顔を浮かべて。だが、榊は帰らなかった。
千鶴は店を一人で切り盛りしながら、夫の帰りを信じて待ち続けた。そして隣に住む医師の世話を、まるで家族のように焼くようになったのだった。
◆
記憶の靄が薄れていく。
吉川は試験管を机に置き、窓の外に視線を向けた。梓の姿はもう見えない。坂道の向こうに消えて、静寂だけが残っている。
東京から来た少女。母を亡くし、一人でこの村にやってきた。自分と同じように。
違うのは、彼女がまだ十七歳だということ。そして、これから起こることを何も知らないということ。
隣から、食器を洗う音が聞こえてくる。千鶴が朝食の後片付けをしているのだろう。いつものように、吉川の分も作って、食べられずに冷めるのを待っているに違いない。
扉を開けて外に出る。榊商店の入り口で、千鶴がエプロンを手で払っていた。
「あ、先生。診察は終わりましたか?」
「ええ。転校生の健康診断でした」
「そうですか。あの子、梓ちゃんでしたっけ。可愛らしい方ですね」
千鶴の笑顔は穏やかだった。いつものように、心配そうでもあり、安心したようでもある、複雑な表情。
「千鶴さん」
「はい?」
吉川は言いかけて、やめた。何を言おうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。
「いえ……いつも、ありがとうございます」
「何をおっしゃいます」
千鶴は困ったように首を振る。
「私の方こそ。先生がいらしてくださって……」
言葉を濁す。夫のことを思い出しているのだろう。あの人がいなくなってから、もう三か月になる。
吉川は千鶴の横顔を見つめた。まだ若い。本来なら、夫と一緒に店を切り盛りし、子供を育てて、普通の幸せな生活を送っているはずだった。
それが奪われたのは、村の何かによってなのか。それとも、単なる偶然だったのか。
診療所に戻り、カルテ棚の前に立つ。梓のカルテを新しく作らなければならない。名前を書き、生年月日を記入する。
血液検査の結果は、数日後に判明する。特に何もないとは思うが、何かあったら知らせなくては。
手を動かしながら、そう考えていると、千鶴が声をかけた。「そういえば、梓ちゃん、今年はお祭りの主人公じゃありません?」
いわれてカルテに目を落とすと、確かに。
今年の夏祭りの舞台に上がる年齢だ。「千鶴さん、カルテを盗み見しましたね?」
「……ごめんない、ちょっと目に入ってしまって」小さく舌を出して微笑む千鶴。年齢よりもずっと可愛らしく見える。まぁ、年齢を見てしまうくらい、何の問題もないが。とはいえ問題は問題だ、吉川は千鶴に注意をすると、彼女はしおらしく謝ったのだった。
「しかし……夏祭りですか」
吉川は千鶴の言葉に、去年の一幕を思い出していた。
◆
去年の夏祭りの日、吉川は人混みの後ろから、村の中央広場に設えられた祭壇を見ていた。
さして多くはない、この村中に住民が集まってきている。 笛と太鼓の音が、風にのって漂う。 昼の暑さはもう引き、夕暮れの風が山を撫でている。まるで舞台のような祭壇を見ると、村の子どもたちが広場へ向かっていた。
丁度大人と子供の中間、確かに一六や一七歳になると祭りの主役として儀式を務めることになるらしい五人の少年少女が、笑いながら手を振っている。白い着物に赤い帯。足もとは草履。
みんな誇らしげで、照れくさそうで、それでも嬉しそうだった。村人たちの顔も、今日ばかりは穏やかだった。
若い衆は提灯を持ち、女たちは花で飾った笹竹を立てる。 焚き火の煙と線香の香りが混じり合い、どこか懐かしい匂いがした。その風景を、吉川は好もしく思う。
この村の古めかしさも、迷信めいた信仰も、 こうして笑い声に溶けているうちは、ただの“風習”に過ぎなかった。祭壇には白布がかけられ、竹の杯が五つ並べられている。
その前に村長の清一が立ち、鈴を鳴らして祝詞をあげた。「これより、成人の儀を執り行う。神の恵みに感謝し、清らかなる神酒をもって我らの子らを祝す」
静寂。
火の粉がゆっくりと夜空に昇る。 その中を、清音が一歩進み出た。 白い袖が、ほの暗い焚き火の赤をはね返している。村の女たちが大きな酒杯を清一の前へ運んだ。
中には、どろりとした赤い液体が入っていた。 吉川は医師として、その色を見た瞬間、少し眉をひそめた。 だが、匂いは甘い。果実酒のようでもあり、薬酒のようでもある。清一が酒杯を両手で掲げ、
「神の血」と称して口をつけた。 そのあと、子どもたちがひとりずつ前に進み出て、それぞれの杯を受け取った。その仕草に、吉川は目を細めた。
見覚えのある娘だ。 彼女の中に、神だの巫女だのという言葉で測れない人間のあたたかさがある。最後に少年が杯を受け取った。
月明かりに照らされた横顔は、 どこか覚悟を秘めているように見えた。 唇に触れる赤。 ひとくち飲み、静かに目を閉じた。太鼓が鳴り、笛が重なり、夜が祭りに変わる。
女たちの唄が流れ、子どもたちが火の輪を囲んで踊る。 誰もが笑っていた。 神も、掟も、この瞬間だけは穏やかな祝福のように思えた。◆
「ああ、そうですね、確かにそろそろ夏祭りの季節ですか」
「きっと梓ちゃん、白い着物良く似合うでしょうね」
微笑んで千鶴がいう。
だが、吉川の胸の奥にはなぜか重いものが沈んでいた。梓の瞳に宿っていた硬いもの。あれは何だったのだろう。意志の強さか。それとも、何かへの恐れだったのか。
書き終えた梓のカルテに目をやる。既に名前を書き、生年月日を記入してあったカルテに、今日の診察内容をまとめる。
「さて――」
カルテを棚に整理すると、吉川は何気なく机の引き出しを開けた。
そこには、隅に一枚の名刺が押し込まれていた。数年前、繁華街の飲み屋で彼から受け取ったものだ。職業、名前、住所と電話番号だけが書かれたシンプルな名刺。その軽薄さとは裏腹に、紙の手触りはいつも重さを帯びている。引き出しを閉め、カルテに視線を戻す。
千鶴が淹れてくれたお茶を飲みながら、吉川は考えた。この村に来て半年。最初は静かで平和な場所だと思っていた。村人は親切で、自然は美しく、都市の喧騒から離れて医療に専念できる理想的な環境に見えた。
だが、時々感じる違和感。村人たちの笑顔が、どこか型にはまったように見える瞬間。子供たちの目の奥に宿る、年齢にそぐわない影。
そして、村のしきたり。吉川は窓の外を見た。午後の陽射しが、榊商店の看板を照らしている。千鶴の影が、店の奥で動いているのが見えた。
彼女は夫の帰りを信じて待っている。だが、もし彼が二度と戻らないとしたら。もし、この村に何か恐ろしい秘密が隠されているとしたら。
その時、自分は何ができるだろうか。
医師として。一人の人間として。そして、この村で生きていくよそ者として。胸の奥で、言葉が静かに形を取った。そして、梓の後ろ姿を思い浮かべながら、もう一つの言葉が加わった。
―――守らなければならないものがある。
夕暮れの診療所に、静寂が戻ってきた。だが、その静寂の奥に、何かが蠢いているような気配を、吉川は感じ取っていた。
◆◆◆ あとがき。吉川くんの視点から、村の日常を描きました。
まだ物語は静かに始まったばかりです。 千鶴さんは温かな人柄の女性として書いています。 吉川くんの眼鏡については……資料によって有無が曖昧で、悩みました。 どうか、お付き合いください。窓の外は蝉の声が満ち、陽は高く昇っていた。 だが診療所の中は、夜の残滓のように暗く淀んでいた。 千鶴は腕を押さえ、俯いたまま震えている。 その耳の奥には、まだあの少女の呻きが残響していた。 いや――それ以上に、得体の知れない声が微かに混じっていた。 吉川には聞こえない、千鶴だけの声。「……宋次さん?」 かすかな呟きが漏れる。それは失踪した千鶴の夫の名前だった。 それは彼女自身が驚くほど自然に口をついて出た。 処置室の静けさの中で、吉川は千鶴に包帯を巻き直す。 かなり深く噛まれたその傷は、止血をしても尚、血を滲ませている。「千鶴さん、どうかしましたか? 痛みますか?」 「い、いえ、今声が聞こえたような気がして」 「声?」 彼女の唇はまだ震えている。精神的な動揺が消えないのだろう。 包帯を巻きながら、今日の出来事を思い出す。 あの肉塊。高校の時に見た、あれと同じような、それは怪異。 そして起き上がる死体。 だが吉川がもっとも慄然とした出来事は、その後に起こった。 あの後すぐに、吉川は林田と森谷の家を順に訪ねた。 美穗と健太の両親に、確認と報告をしなくては。 それは当然の義務であり、職務であった。 いずれの親も変わらぬ笑顔で迎え入れ、そして同じ言葉を返した。「うちには、最初からそんな子はおらんとですわ」 あまりに自然な調子に、背筋が冷たくなる。 やはり皆、揃って記憶を失っている。 ――こんなことが現実にあり得るのか。 いや、自分自身、二人のことを忘れていたのだ。 自分のことを頼ってくれていた、あの二人の子供を。 こみあがるような怒りを、吉川は冷静な仮面を被り押し殺す。「……千鶴さん。今のことは……誰にも言わない方がいい」 「でも……」 「村人に知られれば、混乱になる。いや、きっと“何もなかったこと”にされる。だから記録に残す。今は、それだけでいい」 吉川の声は低く、乾いていた。 千鶴はうつむき、しばらく沈黙してから小さく頷いた。「……わかりました。先生と、わたしだけの……秘密に」 互いの視線が一瞬だけ重なった。 その裏に潜むのは恐怖か、信頼か――。 千鶴を送り出した後、吉川はおもむろに引き出しから
処置室の空気は焦げた甘い匂いで満ちていた。 炭のように黒く崩れた肉片が床に散らばり、まだ微かに燻っている。 吉川は息を荒げ、火傷した左腕を押さえた。皮膚が赤く爛れ、衣服に張りついている。「今のは一体……」 千鶴が唖然としたようすで呟く。 吉川は、机の縁に手をつき、深く息を吐いた。 左腕の火傷が酷く疼く。千鶴にお願いして、消毒と軟膏、そして湿潤療法での処理を終わらせ、包帯を巻いた。「ふぅ……」 治療を終わらせ、椅子に体を預けたその時。 窓の隙間から入ってきた風が、カルテ棚から一枚の紙を持ち上げた カルテはひらひらと舞い、机の上にたどり着く。「古い建物だから隙間風が――」 カルテの名前が目に入る。 ――森谷健太。 そうだ。 ――少年だったはずだ。確かに笑顔を見たことがある。 吉川は痛む腕に構うこともせず、カルテ棚を漁る。 目指していたものは、一番上に乗っていた。 ――林田美穂。 吉川は二つのカルテを並べ、穴が開くほどそれを見つめる。 森谷健太。 林田美穗。 その二つの名を並べた瞬間、喉がひきつるように動いた。 記憶が流れ込み、ようやく顔と名が重なる。 昨日まで確かにそこにいた子供たち。 診療所に二人でやってきた。そうだ、あの時は矢野さんもいた。 友人と並んで校庭を歩いていたはずだ。 畑の脇の道を歩いていた。診療所の前も、榊商店で並んでアイスを食べていた。「……なぜ……」 昨日まで机を並べていた子供たちが、いまここに遺体として搬送されている。 なぜ、自分は彼らを忘れていた? 突発性健忘症? こんなことがあり得るのか? 吉川は目を閉じ、震える息を吐いた。 記録だけが真実を証明している。思考が霧に覆われても、文字は裏切らない。 彼はカルテを握りしめ、立ち上がった。「行かなくては……確認を……」 吉川は声を絞り出すように言った。 眼鏡の奥で視線を鋭くし、火傷の痛みを無視して白衣の袖を整えた。 入院室――そこには少女の遺体が安置されている。 あれも記録しなければならない。忘れてはいけない。 廊下を歩く靴音が、異様に大きく響いた。 千鶴が後ろをついてくる。まだ足取りは震えていたが、視線だけは吉川の背を必死に追っていた。 入院室の戸を開ける。 千鶴が後ろに立ち、バーナーを抱えている。「先生
机に並んで座る三人の姿が、ふいに脳裏に浮かんだ。 放課後の図書室。窓から射す夕陽が机を赤く染め、本棚の影が長く伸びていた。 中央にいたのが自分だった。白衣を目指して医学や生物の本ばかりを手に取り、難しい専門用語に眉をひそめていた。髪は真面目に刈り込んでいたが額にかかることが多く、いつも指で払いのけていた。 片側には、古い民俗誌や怪談集を積み上げている彼がいた。くしゃりとした髪に、笑いかけるときだけ片目を細める癖がある。鉛筆を指でくるくる回し、紙に線を引く音がやけに楽しげに響いていた。自分が医学書の難解な図表と格闘している間、彼は軽やかに文字を追い、時折「へえ」「そうか」と小さく呟いていた。 もう一方には、彼女がいた。肩にかかる髪は柔らかく、光を受けると茶色がかって見えた。目元は涼しげで、笑うとえくぼが浮かぶ。いつもノートを広げ、特別な意味もなさそうにページをめくっていたが、その仕草を見ているだけで心が落ち着いた。 三人並んで座るその時間は、互いに多くを語らなくてもよかった。ページをめくる音と、鉛筆の走る音が重なり合い、それだけで胸が満たされていた。この静けさが、吉川には何よりも貴重だった。 「お前は医者になるだろ」 民俗誌の本を閉じて、彼が笑いながらこちらを見た。 「お前は書き続けるんだろ」 自分も思わず言い返した。冗談めいたやりとりだったのに、不思議とどちらにも確かさがあった。 「私だってそうよ。いつかプロの小説家になるんだから」 彼女が少し誇らしげに言った。 二人の会話を聞きながら、吉川は妙な居心地の悪さを感じていた。彼らには「創作」という共通点がある。書くことで繋がっている。一方、自分が目指すのは医師という、どこか孤独な道だった。 彼女は、そんな吉川の表情を見て、ふっと微笑みを浮かべた。その笑顔の奥に、時折影が差すのを、吉川は見逃さなかった。まるで三人の未来の分かれ道を、先に知っているかのように。 窓の外からは運動部の掛け声が遠くに届いていた。けれどこの机の上に並んだ影は、夕陽の赤に溶けあい、三人だけの世界を作っていた。◆ 夏休みの午後、自転車をこぐ足が熱を帯びていた。 話の始まりは、彼が町外れにある廃神社の噂をどこからか仕入れてきたことからだった。 男二人で、ゆっくり一晩話そう、と肝試しも兼ねてキャンプ、というか野宿を
処置室に安置された遺体を前に、吉川は白衣の袖を整えた。 戸口のあたりにはまだ村人たちが群れており、笑顔のままこちらを見守っている。視線の重さが、器具の音よりも胸を圧迫していた。「……ここから先は私の領分です。皆さんはお帰りください」 努めて平静な声で告げる。 ざわめきは起こらなかった。ただ、一人が頷き、また一人が頷き、笑顔のまま戸口から外へ引いていく。足音も声もなく、列をなすように退いてゆく光景に、吉川は背筋を冷たいものが走るのを感じた。 ただ一人、清一だけが残った。 白髪交じりの頭を少し傾け、口元に笑みを貼りつけたまま、処置室の奥へと視線を向けている。「先生。わしは、ここにおった方が……」 言葉は柔らかかった。だが眼差しには、執拗な光が潜んでいた。 吉川は眼鏡の奥で視線を受け止め、低く返した。「村長。これは医者の仕事です。外の方がよろしいでしょう」 一瞬だけ、清一の笑みが深く刻まれたように見えた。だが反論はなく、静かに踵を返す。 戸口から去り際に、振り向きもせずただ黙って。 戸が閉じる。 残されたのは吉川と千鶴、そして処置室の中央に横たわる無惨な躰だけだった。 処置室の空気が落ち着くと、吉川は息を吐き、机の引き出しからカメラを取り出した。 記録用のデジカメ。大学病院時代から癖のように携帯している。 この村には症例記録のためにと持ち込んだものだった。 脳内でもう一人の吉川が声を上げる。手軽にスマホで撮影すればいいんじゃないか? が、次の瞬間その声はかき消された。 スマホ? スマホって何だ? ……訳のわからない妄想に付き合っている暇はない。今はこの目の前の現実を記録しなくては。「千鶴さん、照明をもう少し強く……窓も開けて光を入れてください」 千鶴が慌ただしく応じる。窓を引くと冷たい朝の空気が流れ込み、鉄と血の臭気を攪拌した。白布を押さえながら立つ千鶴の顔は、強ばりきっていた。 吉川はカメラを構え、ファインダーを覗いた。 ――少年の躰。 皮膚は裂け、腹腔は空洞のように見える。光が差し込み、影が深く沈んだ。 シャッターを切るたび、乾いた音が静寂を裂く。 カシャン。 肉と血の映像が、冷たいガラスの奥に焼き付けられていく。 全身を数枚。顔、裂け目、四肢の欠損。 医学的には必要不可欠な記録だが、レンズを通して覗く
息が切れるのも構わず、吉川は村の道を駆けていた。 朝霧がまだ地を這い、畦道の水面を白く曇らせている。遠くで鶏が鳴き、集落はまだ目覚めきっていない。だが彼の胸は、喉を掴まれるような焦燥で焼けついていた。「先生、待ってください……!」 後ろから千鶴の声が追う。裾をかき寄せ、転びそうになりながらも、必死に足を運んでいた。 彼女の顔は青ざめ、汗で乱れた髪が頬に張りついている。普段は静かな笑みを絶やさぬ千鶴が、今は怯えを隠そうともしなかった。あの時、佐藤家で千鶴が報告してくれた言葉を思い出す。(診療所に……し、死体が運び込まれました!) その声は震えていた。◆ 診療所の前には、すでに村の男衆が集まっていた。誰も声を荒げず、ただ口元に同じ笑みを貼りつけ、互いに頷き合っている。その中央に立つのは村長・清一。背筋を伸ばし、白髪交じりの頭を朝の光に光らせ、まるで儀式の進行役のように静かに構えていた。 地面には古びた戸板が置かれ、その上に二つの躰が並べられていた。 少年と少女――そうとしか言えない背丈と骨格。辛うじて服が体に張り付いている。皮膚は内側から裂け、腹も胸も四肢も、肉の継ぎ目という継ぎ目に亀裂が走っている。外から囓られただけでははなく、臓腑から圧を受け爆ぜたような裂開もある。少年の遺体は左手すら肩から先がなかった。 血液はほとんど残っておらず、床を汚すはずの赤はどこにもない。鼻を突くのは鉄の臭気だけ。「……山の中で見つかりましてな」 清一の声は低く穏やかだった。「猟師衆が知らせてきて、こうして運ばせてもろうた」「……朝方な、山鳥を撃ちに川ん方へ出とりましてな」 肩幅の広い庄司が口を開いた。銃袋を背に、片手を腰に当てながら淡々と告げる。「道路が血まみれでのう、鼻が曲がるような匂いしとったけぇ。そしたら野犬どもが群れとってな……死体を食い破っとったんじゃ。見ての通り、ひどいもんで」 吉川は戸板を見つめた。 顔の皮膚は裂け、骨がむき出しになっている。だが断片的な形は、知っている。診療所で診察に来たあの眼差し。 ――誰だ。名前が出てこない。 いや、気のせいなのか? 記憶にある、と思い込んでいるだけなのだろうか。 喉が震え、思考が霧に覆われる。眼鏡の奥で必死に目を凝らした。少年と少女の面影は確かにそこにあるはずなのに、言葉として結べない。
夜、布団に入ったあと。 寝息の落ち着いた陽一を横に、沙織は勇気を振り絞った。「俊夫さん……やっぱり、一度診てもらったほうがいいと思うの」「なんだと?」 俊夫が身を起こし、低い声で繰り返す。「俺を疑ってるのか」「違うの、ただ心配で……」「俺は元気になったんだ。お前も喜べばいい」 笑みを浮かべながらも、声は荒々しく、瞳の奥にぎらりと光が走った。 沙織は胸が縮み、言葉を失う。疑ってはいけない。否定すれば、もっと遠くへ行ってしまう。そんな恐怖が喉を塞いだ。 隣で陽一が寝返りを打ち、小さな寝息を立てている。家族を守るはずの家の中で、沙織だけが冷たい孤独に閉ざされていた。 ◆ その夜遅く――突然、俊夫が暴れ始めた。 赤く沈む陽が山の端を染め、影を長く伸ばしていた夕暮れから数時間。沙織が台所で夕食の片付けをしていると、居間から異様な音がした。 何かが畳を引っ掻く音。そして、低い呻き声。「俊夫さん?」 駆けつけると、俊夫が床に膝をつき、全身を震わせていた。顔は赤黒く火照り、荒い息が喉を震わせている。「大丈夫……?」 近づこうとした瞬間――「うあああああッ!」 俊夫が跳ね起き、喉の奥から獣の咆哮を上げた。畳を裂く音、柱を揺らすほどの力。 赤く充血した眼がぎらりと光り、瞳孔が縦に裂けかける。 汗に濡れた胸板が脈打ち、全身の筋肉が浮き上がる。「俊夫さん!」 沙織は叫んだが、その時すでに玄関が激しく叩かれていた。「奥さん! 大変なことになっとるな! 大丈夫じゃから!」 メキメキと音を立てて、戸が無理矢理開かれると、男衆が十人以上、総出で駆けつけていた。まるで俊夫の暴発を予期していたかのような素早さだった。 その群れの後ろに、村長が――虚木清一が立っていた。 日に焼けた顔に穏やかな笑み。松明の火がその輪郭を照らす。 ――そして、その隣に佇む少女は誰だろう? まだ少女のはずなのに、村長の傍らに立つ姿は自然すぎた。 白い首筋をまっすぐに伸ばし、沈黙の中に不思議な威厳を帯びている。 周囲の大人たちが彼女を一目置くように距離を保っているのを見て、沙織の胸に違和感が走った。 なぜ、この子が――。「心配せんでええ、すぐ良うなるけぇ」「よう働きすぎただけじゃ」 口々に同じ言葉を並べながら、全員が笑顔を浮かべていた。 その揃いすぎ