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第2章 そして現在

last update publish date: 2025-11-18 03:08:13

「あの人の具合はどうでしょう?」

「驚く程順調に回復してますよ、もう大丈夫です」

 心配そうに尋ねる千鶴に、吉川は笑顔で答えた。

 榊商店とは隣り合っているということもあり、あれから頻繁に主人の見舞いに来る千鶴と会話を交わす。

 榊の回復力は本当に驚くしかなかった。

 甲斐甲斐しく主人の面倒を見る千鶴に目をやる。

 千鶴は村の女たちと違う。笑うと唇の左が先に動き、人懐こさを感じさせる――村人たちの揃った笑顔にはない、素直な感情がそこにあった。

 彼女は数年前にこの村へ嫁ぎ、榊商店を夫と二人で切り盛りしてきたと聞く。まだ二十代の終わり。本来なら、都会で華やかに暮らしていてもおかしくない年頃だ。

 千鶴の傷は浅く、その日のうちに帰宅できた。

 だが榊の方は違った。肋骨の骨折と内出血——吉川の見立てでは半年は安静が必要な重傷のはずだった。

 ところが患者はみるみる回復していく。二週間で起き上がり、一ヶ月後には退院可能になった。

 吉川には理解できなかった。村長に尋ねると、村ではよくあることだという。

「村に伝わる薬がありましてな」

 その薬を見せて欲しいと頼んだが、断られた。

「先生がもっと村に馴染んでくれるか、大怪我でもしたらお渡ししますけぇの」

 退院の日、夫婦は並んで深々と頭を下げた。

「先生がいなければ……私たちは……」

「わしらは……一生、忘れんけぇ……」

 二人の声は震えながらも確かな温もりを帯びていた。

 吉川は静かに答えた。

「当然のことです。それが仕事ですから」

 けれど心の奥では、久しく味わえなかった充実感が灯っていた。

 助けられた命。失わずに済んだ家族。

 ――そう思った。

 しかし、それは長くは続かなかった。

 一か月後の朝。

 千鶴がひとりで診療所を訪れた。顔は青ざめ、目は赤く腫れていた。

「……主人が、いなくなったんです」

 昨夜までは隣に眠っていた夫が、朝には忽然と消えていたという。布団は乱れたまま、外には足跡すら残っていなかった。

 村人たちは口を揃えた。

「山に行ったんじゃろう」「そのうち戻るけぇ」

 皆、同じ形の笑顔を浮かべて。

 だが、榊は帰らなかった。

 千鶴は店を一人で切り盛りしながら、夫の帰りを信じて待ち続けた。

 そして隣に住む医師の世話を、まるで家族のように焼くようになったのだった。

 記憶の靄が薄れていく。

 吉川は試験管を机に置き、窓の外に視線を向けた。梓の姿はもう見えない。坂道の向こうに消えて、静寂だけが残っている。

 東京から来た少女。母を亡くし、一人でこの村にやってきた。自分と同じように。

 違うのは、彼女がまだ十七歳だということ。そして、これから起こることを何も知らないということ。

 隣から、食器を洗う音が聞こえてくる。千鶴が朝食の後片付けをしているのだろう。いつものように、吉川の分も作って、食べられずに冷めるのを待っているに違いない。

 扉を開けて外に出る。榊商店の入り口で、千鶴がエプロンを手で払っていた。

「あ、先生。診察は終わりましたか?」

「ええ。転校生の健康診断でした」

「そうですか。あの子、梓ちゃんでしたっけ。可愛らしい方ですね」

 千鶴の笑顔は穏やかだった。いつものように、心配そうでもあり、安心したようでもある、複雑な表情。

「千鶴さん」

「はい?」

 吉川は言いかけて、やめた。何を言おうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。

「いえ……いつも、ありがとうございます」

「何をおっしゃいます」

 千鶴は困ったように首を振る。

「私の方こそ。先生がいらしてくださって……」

 言葉を濁す。夫のことを思い出しているのだろう。あの人がいなくなってから、もう三か月になる。

 吉川は千鶴の横顔を見つめた。まだ若い。本来なら、夫と一緒に店を切り盛りし、子供を育てて、普通の幸せな生活を送っているはずだった。

 それが奪われたのは、村の何かによってなのか。それとも、単なる偶然だったのか。

 診療所に戻り、カルテ棚の前に立つ。梓のカルテを新しく作らなければならない。名前を書き、生年月日を記入する。

 血液検査の結果は、数日後に判明する。特に何もないとは思うが、何かあったら知らせなくては。

 手を動かしながら、そう考えていると、千鶴が声をかけた。

「そういえば、梓ちゃん、今年はお祭りの主人公じゃありません?」

 いわれてカルテに目を落とすと、確かに。

 今年の夏祭りの舞台に上がる年齢だ。

「千鶴さん、カルテを盗み見しましたね?」

「……ごめんない、ちょっと目に入ってしまって」

 小さく舌を出して微笑む千鶴。年齢よりもずっと可愛らしく見える。まぁ、年齢を見てしまうくらい、何の問題もないが。とはいえ問題は問題だ、吉川は千鶴に注意をすると、彼女はしおらしく謝ったのだった。

「しかし……夏祭りですか」

 吉川は千鶴の言葉に、去年の一幕を思い出していた。

 去年の夏祭りの日、吉川は人混みの後ろから、村の中央広場に設えられた祭壇を見ていた。

 さして多くはない、この村中に住民が集まってきている。

 笛と太鼓の音が、風にのって漂う。

 昼の暑さはもう引き、夕暮れの風が山を撫でている。

 まるで舞台のような祭壇を見ると、村の子どもたちが広場へ向かっていた。

 丁度大人と子供の中間、確かに一六や一七歳になると祭りの主役として儀式を務めることになるらしい五人の少年少女が、笑いながら手を振っている。

 白い着物に赤い帯。足もとは草履。

 みんな誇らしげで、照れくさそうで、それでも嬉しそうだった。

 村人たちの顔も、今日ばかりは穏やかだった。

 若い衆は提灯を持ち、女たちは花で飾った笹竹を立てる。

 焚き火の煙と線香の香りが混じり合い、どこか懐かしい匂いがした。

 その風景を、吉川は好もしく思う。

 この村の古めかしさも、迷信めいた信仰も、

 こうして笑い声に溶けているうちは、ただの“風習”に過ぎなかった。

 祭壇には白布がかけられ、竹の杯が五つ並べられている。

 その前に村長の清一が立ち、鈴を鳴らして祝詞をあげた。

「これより、成人の儀を執り行う。神の恵みに感謝し、清らかなる神酒をもって我らの子らを祝す」

 静寂。

 火の粉がゆっくりと夜空に昇る。

 その中を、清音が一歩進み出た。

 白い袖が、ほの暗い焚き火の赤をはね返している。

 村の女たちが大きな酒杯を清一の前へ運んだ。

 中には、どろりとした赤い液体が入っていた。

 吉川は医師として、その色を見た瞬間、少し眉をひそめた。

 だが、匂いは甘い。果実酒のようでもあり、薬酒のようでもある。

 清一が酒杯を両手で掲げ、

 「神の血」と称して口をつけた。

 そのあと、子どもたちがひとりずつ前に進み出て、それぞれの杯を受け取った。

 その仕草に、吉川は目を細めた。

 見覚えのある娘だ。

 彼女の中に、神だの巫女だのという言葉で測れない人間のあたたかさがある。

 最後に少年が杯を受け取った。

 月明かりに照らされた横顔は、

 どこか覚悟を秘めているように見えた。

 唇に触れる赤。

 ひとくち飲み、静かに目を閉じた。

 太鼓が鳴り、笛が重なり、夜が祭りに変わる。

 女たちの唄が流れ、子どもたちが火の輪を囲んで踊る。

 誰もが笑っていた。

 神も、掟も、この瞬間だけは穏やかな祝福のように思えた。

「ああ、そうですね、確かにそろそろ夏祭りの季節ですか」

「きっと梓ちゃん、白い着物良く似合うでしょうね」

 微笑んで千鶴がいう。

 だが、吉川の胸の奥にはなぜか重いものが沈んでいた。

 梓の瞳に宿っていた硬いもの。あれは何だったのだろう。意志の強さか。それとも、何かへの恐れだったのか。

 書き終えた梓のカルテに目をやる。既に名前を書き、生年月日を記入してあったカルテに、今日の診察内容をまとめる。

「さて――」

 カルテを棚に整理すると、吉川は何気なく机の引き出しを開けた。

 そこには、隅に一枚の名刺が押し込まれていた。数年前、繁華街の飲み屋で彼から受け取ったものだ。職業、名前、住所と電話番号だけが書かれたシンプルな名刺。その軽薄さとは裏腹に、紙の手触りはいつも重さを帯びている。

 引き出しを閉め、カルテに視線を戻す。

 千鶴が淹れてくれたお茶を飲みながら、吉川は考えた。

 この村に来て半年。最初は静かで平和な場所だと思っていた。村人は親切で、自然は美しく、都市の喧騒から離れて医療に専念できる理想的な環境に見えた。

 だが、時々感じる違和感。村人たちの笑顔が、どこか型にはまったように見える瞬間。子供たちの目の奥に宿る、年齢にそぐわない影。

 そして、村のしきたり。

 吉川は窓の外を見た。午後の陽射しが、榊商店の看板を照らしている。千鶴の影が、店の奥で動いているのが見えた。

 彼女は夫の帰りを信じて待っている。だが、もし彼が二度と戻らないとしたら。もし、この村に何か恐ろしい秘密が隠されているとしたら。

 その時、自分は何ができるだろうか。

 医師として。一人の人間として。そして、この村で生きていくよそ者として。

 胸の奥で、言葉が静かに形を取った。そして、梓の後ろ姿を思い浮かべながら、もう一つの言葉が加わった。

 ―――守らなければならないものがある。

 夕暮れの診療所に、静寂が戻ってきた。だが、その静寂の奥に、何かが蠢いているような気配を、吉川は感じ取っていた。

◆◆◆

あとがき。

吉川くんの視点から、村の日常を描きました。

まだ物語は静かに始まったばかりです。

千鶴さんは温かな人柄の女性として書いています。

吉川くんの眼鏡については……資料によって有無が曖昧で、悩みました。

どうか、お付き合いください。

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