この世界――アルスヴェリアには、とある勇者の伽噺話がある。 それは遥か昔から伝えられてきた古いものだ。 辺境のリオネルディアの村に住む青年のセリュオスは、その御伽話が子どもの頃から大好きだった。 勇者になった者が共に戦う仲間を集めて、人間たちを苦しめる魔王を倒すどこにでもあるような伝承。 でも、その勇者には普通と違う点が一つだけあった。 それは時を越えて魔王と戦い続ける勇者だったのだ。 いつか自分も勇者になって魔王を倒すことができたら――。 だが、そんなことは決してあり得ない。 自分はただのしがない鍛冶師の息子なのだから。 将来、自分も同じように金槌を振るって、村の者たちの役に立つ道具を作り続けるのだ。 その日の夜は、不思議な静けさに包まれていた。 昼間まで子供たちの笑い声が響いていた小道も、家畜の鳴き声で賑やかだった厩舎も、息を潜めるように黙り込んでいる。 冷えた風が木立をざわめかせ、まるで森そのものが何かを警告しているかのようだった。「どうも胸騒ぎがする……」 村長が広場に立ち、そう呟いた時だった。 闇の中から、かすかな呻き声のようなものが聞こえてきた。 血の匂いが風に混じり、やがて大地を震わせる重い足音が忍び寄ってくる。 村人たちは一斉に身を寄せ合い、灯火を掲げて森の入り口を見つめた。 やがて木々を押しのけるように現れたのは、黒き巨狼――ルゥン・ヴォルフ。 月明かりに照らされたその毛並みは墨のように黒く、身体を走る赤い紋様が脈打つたびに瘴気のようなものが溢れ出していた。 目は血のように赤く光り、口から滴る涎は地面を焦がす。「……で、出た…! 魔王軍の尖兵だ!」 誰かが叫んだ瞬間、村に戦慄が走った。 老人は膝をつき、女たちは我が子を抱きしめ、若者たちでさえ足を竦ませて動けないでいる。 ルゥン・ヴォルフ――かつて戦乱の時代に幾つもの村々を滅ぼした災厄の獣。 その背に刻まれた黒い印は、まさに魔王軍の使いである証だと言われている。 すると、セリュオスの義父であるオルフェンが果敢に前へ進み出た。 「義父さん……?」
Last Updated : 2025-11-13 Read more