「枝織、あなたは本当にこの契約書にサインするの?よく考えなさい。一度サインしたら、あなたは国外にいるこのALS(筋萎縮性側索硬化症)患者さんの専属医になるのよ。七日後にはすぐ出発で、この数年間は帰国できない」先輩である宮本綾香(みやもと あやか)は、理解に苦しむというように和泉枝織(いずみ しおり)を見つめ、その瞳には失望が満ちていた。「それに、たった今聞いたわ。成景がALSと診断されたって。あなたはこの分野のトップクラスの人材であり、何より彼の妻でしょう。こんな時に彼のそばにいないで、国外へ行くなんて。少し薄情すぎるとは思わない?」綾香の鋭い視線が枝織の心臓に突き刺さった。全身が麻痺するほど痛かった。だが、枝織は唇を歪め、嘲りに満ちた笑みを浮かべた。そして、枝織はきっぱりと契約書に署名し、綾香に別れを告げて家に戻った。なんて馬鹿げた話だろう。おそらく世間の誰もが枝織を恩知らずだと思うに違いない。最も親しい先輩ですら理解できないのだから。なにしろ、神谷成景(かみや しげかげ)がどれほど枝織によくしていたかは誰もが知るところだった。海東市で女に湯水のように金を使う御曹司が枝織のために改心したのだ。病院で一度見かけただけで、猛烈なアプローチが始まった。枝織が勤めている病院と所属研究所の労働環境を改善するために巨額の資金を投じただけでなく、ALS患者のために「枝織」と名付けた慈善基金を設立し、毎年少なくとも二十億円を投じている。それもひとえに功徳を積み、最愛の人が現世のみならず来世までも平穏無事であることを願っての行いだった。当時、愛を信じていなかった枝織も成景によって徐々に心を解かされていった。決定打となったのは病院で起きたある騒動だった。枝織をかばった成景は騒ぎの渦中にいた男に三度刺され、血まみれになったが、意識を取り戻した第一声で「怪我はないか?」と彼女に尋ねた。その瞬間、枝織の心は完全に掴まれた。二人はついに結ばれ、結婚という門出を迎えた。結婚後も、二人は理想の夫婦という言葉をまさに体現したかのようであり、誰もが神に祝福された運命の二人だと信じて疑わなかった。ある年の枝織の誕生日、成景は彼女の写真を街中の広告スクリーンに映し出し、無数の羨望の声を集めた。「来世で神谷社長みたいな人と結婚
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