月の下で、すれ違うふたり のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

25 チャプター

第11話

あの日、美咲が輸血に連れて行かれて以来、彼女はまったく姿を見せなくなった。澪は、「きっとどこか旅行に行ったんだよ。あんなに大金を手にしたんだもん、浮かれて遊び歩いてるに決まってる」と言っていた。けれど、蓮は美咲がそんなふうに遊び好きな人間だと思ったことは一度もない。この三年間、彼女は家にこもりきりで、外に出ることもほとんどなかった。だが――彼女が金に執着することだけは否定できない。深夜、蓮はリビングの大きな窓の前に立ち、何度もスマホを手にしては、美咲の番号を開いてしまう。だが、発信ボタンを押す直前になると、いつもためらってしまう。――何を話せばいい?美咲が一番出たくないのは、自分からの電話だろう。そのとき、バスルームから水の音が止み、女の手が背後から蓮の目を覆い、耳元で甘える。「ねえ、私が誰だか当ててみて?」もちろん、誰かは分かっている。妊娠してまで自分に気に入られようと、澪は必死だ。けれど今の蓮は、そんな気分じゃなかった。「やめてくれ」蓮は、澪の手を無造作に払いのける。その背中を見て、澪は悔しさに奥歯を噛みしめる。この子どもは、蓮との間にできるよう細工した末に手に入れたものだった。実は、蓮は澪と関係を持つたびに必ず避妊していたが、美咲とは違っていた。子どもができれば、蓮は自分をもっと大切にしてくれると思っていた。だが、妊娠を告げて最初の数日こそ喜んだものの、美咲がいなくなってからの蓮は、どこか抜け殻のようだ。美咲。その名前を思い浮かべただけで、澪の顔に勝ち誇ったような色が浮かぶ。――きっと、もう死んでいるだろう。澪は蓮の前にしゃがみこみ、上目遣いで可愛く甘える。「ねえ、蓮さん。覚えてる?あの日、私があなたを助けたとき、何を約束してくれたか。私が何を頼んでも、必ず叶えてくれるって言ったよね」蓮は、こめかみを押さえながら、うんざりしたようにため息をつく。「覚えてるよ。あの日、澪が美咲に献血させてくれって言ったときも、俺はお前の願いを聞いてやったじゃないか」蓮は、あの「恩」を一生忘れるつもりはない。あのとき命を救ってくれたのは澪だった。それに比べ、美咲は自分が拉致された直後、すぐに自分を捨てて櫻木の元へ行った。このことを思い出すたび、蓮の心には今でも鋭い痛みが
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第12話

蓮は最初こそ澪の言葉を半信半疑で聞いていたが、今はもう認めざるを得なかった。美咲は、明らかに自分を避けている。やましいことがなければ、なぜ電話にも出ようとしないのか。――まさか、本当に櫻木と一緒になる気なのか。蓮は、手にしていたスマホを今にも壊しそうなほど強く握りしめている。しばらく車の中で無言のまま座り込み、やがて秘書に電話をかける。「櫻木が出所してからのこの半月、何をしていたか調べてくれ」翌朝、秘書が報告にやってくる。「櫻木悠真は新しく会社を設立しました。再起をかけると言ってます」「新しい会社?」蓮は奥歯を噛みしめる。七年も刑務所にいたくせに、どこから会社を作る金なんて出てきた?「資本金はいくらだ?」「二億円です」蓮の顔色がさらに険しくなる。秘書も思わず身構える。「社長、どうしましょう?」蓮は机を指で叩き、ふと冷たい笑みを浮かべる。「俺の宿敵が新しい会社を作るんだ。開業祝いを贈らない手はないな」「どういうことでしょう?」「奴に自分から頭を下げに来させてやるよ」「かしこまりました、すぐに手配します!」秘書が出ていき、蓮は一人でオフィスに残る。しばらくして、突然立ち上がり、机の上の書類をすべて床に叩き落とす。二億円。あの日、美咲が突然あれだけの金額を要求した理由は――やっぱり元恋人を助けるためだったのか。「美咲、お前を俺のもとに戻す方法なんて、いくらでもある!」数日後、蓮が会議中の会議室。突然ドアが激しく開け放たれ、悠真が怒りに任せて飛び込んでくる。「神谷、お前にどんな権利があって俺の会社を封鎖するんだ!」悠真が蓮に殴りかかろうと拳を振り上げたが、近づく前に蓮のそばにいた大柄なボディーガードたちに押さえつけられる。蓮はその場にいる全員に淡々と告げる。「みんな、出て行ってくれ」出席者たちはすぐに静かに部屋を出ていき、会議室にはわずか数人だけが残る。蓮はさらにボディーガードたちにも下がるよう命じた。今日はもう、他人の手を借りるつもりはない。長年の因縁に、自分の手で決着をつけるつもりだった。悠真が蓮に飛びかかり、その胸ぐらをつかむ。「神谷、七年前にすべて終わったはずだろ。なんでまた俺に絡んでくる!」「なんで?」蓮は冷たく笑い、悠真を突き放す。
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第13話

蓮は、全身が固まってしまい、しばらくしてようやく電話の向こうに返事を返す。「何をバカなこと言ってるんだ。美咲が何かあるはずないだろ」執事はおそるおそる、知っていることをすべて話し始める。「奥様は、ずっと帰ってきていません。心配になって、家の者に奥様の部屋を調べさせたんです。すると、奥様が置いていったものの中に、病院の検査報告書が見つかりまして……」「それで?何が書いてあった?」蓮が苛立って急かすと、執事が続ける。「報告書には、脳の損傷が重く、余命は一か月と書いてありました!その報告書の日付はちょうど一か月前で、今がまさに一か月後なんです。しかも奥様は、何の前触れもなく突然姿を消されました……」執事がその後も何か言っているが、蓮にはもう何も聞こえない。耳鳴りがして、頭の中が一瞬真っ白になる。重い損傷……美咲は、普段と何も変わらなく見えたのに、どうしてそんなケガを負っていたんだ?いつケガしたんだ?この三年間、確かに彼女をひどく扱ってきたが、身体に傷を負わせた覚えはなかった。じゃあ、そのケガは――蓮の頭の中は混乱でいっぱいになり、「もしかしたら本当に美咲に何かあったのかもしれません」という執事の言葉が何度も耳に響く。蓮は立っているのがやっとで、壁にもたれてようやく体を支えている。悠真はその様子を見て、胸騒ぎを覚える。「何があった?まさか美咲が……」「お前には関係ない!」蓮は怒鳴り、悠真の言葉をさえぎって、そのまま壁に押しつけた。「いいか、櫻木。もし美咲に何かあったとしても、それは俺だけの問題だ。お前は二度と近づくな!」悠真はその言葉に怒ることもなく、むしろ苦しげに笑った。「その通りだよ。もう俺には関係ない……ただ、償いたいんだ。それじゃダメか?」償い……「償いって、何のことだ?」悠真は血の気の失せた顔で、ゆっくりと口を開く。「七年前、彼女を巻き込んだ罪を償いたかったんだ。もしあのとき、俺がお前を拉致するよう仕向けなければ、美咲が助けに来て、屋上から突き落とされて治らない病を抱えることもなかった……」蓮は、自分の耳を疑うほど衝撃的な言葉を聞いた。悠真は「七年前、蓮を救ったのは美咲だ」と言う――そんなはずがない。あのとき自分を救ったのは、澪のはずだった。
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第14話

蓮は会議室を飛び出した。秘書や部下が彼の異様な様子に驚くが、誰も止めることができない。そのまま階段を駆け下り、車に飛び乗ると、アクセルを踏み込んで病院へ向かう。病院に着くと、すぐに曽根先生を探し出した。「美咲はどこだ!」曽根先生は手術を終えたばかりで、疲れ切った顔で首を振る。「神谷さん……お悔やみ申し上げます」「お悔やみ?美咲はどこにいる!生きているなら会わせてくれ、死んでいるなら遺体を見せろ、はっきり説明しろ!」蓮は目を真っ赤にして、今にも人を食いちぎりそうな勢いで叫んだ。しかし、曽根先生はただ眉をひそめて答える。「神谷さん、あなたが美咲さんのことを本当に大切にしていたのなら、彼女は自分の最期を病院なんかに託したりしなかったでしょう。美咲さんは、もう半月前に亡くなりました」「亡くなった」というたった二文字が、爆弾のように蓮の胸に重く突き刺さる。彼の心は、ぐちゃぐちゃに潰れてしまったような痛みに満ちていく。たった半月前まで元気に生きていた美咲が、今はもうこの世にいないなんて――彼女は蓮がこの世で一番愛してる女なのに。「そんなはずない……」蓮は首を振って事実を受け入れようとしない。「彼女がそそのかして、お前に嘘をつかせたんだろ?あの女は金が何より好きだ。どうせ俺からもっと金を取ろうとして隠れてるだけなんじゃないのか?いいか、彼女に伝えろ。出てくるなら、二十億でも……いや、二百億でも、二千億でも出す。神谷家のすべてをやる。もう冗談はやめてくれ。頼むから、出てくるように伝えてくれ……」「神谷さん、美咲さんも私も、そんな冗談を言う人間じゃありません。命にかかわることを冗談にする人なんていません」曽根先生は力なく首を振る。「美咲……美咲、お願いだ、出てきてくれ……」蓮はその場に崩れ落ち、地面にひざまずいて美咲の名を叫ぶ。涙がとめどなくあふれてくる。美咲――どうして、こんなにも冷たく俺を拒むんだ?どうして、こんなふうに俺の前から消えてしまうんだ?七年前も一度俺を騙したくせに、今度は死ぬことまで隠して……そこまでして、俺を突き放したいのか?蓮は胸が締めつけられて、息ができなくなりそうだった。曽根先生は、蓮が崩れ落ちていく姿を見て、一瞬だけ同情の色を浮かべる。けれど、
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第15話

「どうしてか、分からないのか?」蓮の声には底知れぬ怒りがこもり、表情もぞっとするほど冷ややかだった。澪は一瞬、呆然と立ち尽くす。蓮が何を考えているのか分からないまま、ふいに思い当たることがあったのか、目に憎しみが浮かび始める。「分かった、きっとお姉ちゃんだ!何か言ったんでしょう?蓮さん、どうして信じるの?あの人はあなたを裏切った。全然愛してなんかいない!七年前にあなたが拉致された時、私が助けたのよ!あの人は、真っ先にあなたを見捨てたんだよ……」澪はその話を自分を守る切り札にするつもりだった。だが、それは蓮にとって踏み込んではいけない地雷だった。触れずにいればまだよかったものを、口にした途端、蓮の怒りは一気に吹き上がる。蓮は心の底から嫌悪した。よくそんなことが言えるな。どんな顔で、まだそんな言葉を口にできるんだ。蓮の目に、血を思わせる赤い光がじわりとにじむ。そして迷いなく腕を振り上げ、澪の顔めがけて拳を叩きつけた。「澪、ふざけるな!」蓮の拳はちょうど澪の鼻を打ち抜き、彼女は悲鳴をあげて床に倒れ込む。あまりの衝撃に、泣くことすらできない。「蓮さん、一体どうしたの……」薬でも間違えて飲んだの?どうして私にこんなことをするの――澪は蓮をじっと見つめながら、這うようにして彼の足元にすがりつき、涙でぼやけた目で見上げる。「蓮さん、お姉ちゃんが何を言ったの?教えてよ……どんなことでも、全部ちゃんと説明できるから!お願い、あの人の話を信じないで!」ここまで来ても、澪はまだ事実をねじ曲げようとする。それを見ている蓮は、奇妙なほど冷静だった。むしろ、笑い出したくなるくらいだ。どうして自分は、こんな嘘ばかりつく女に何年も騙されてきたのか。どうして、美咲にあんなにも酷い仕打ちをしてしまったのか。美咲――俺の美咲。その名前を思い出すだけで、胸の奥にナイフが突き刺さるような痛みが走る。蓮は絶望のまま目を閉じ、そしてゆっくりと瞳を開けると、そこに残っていたのは感情をすべて消し去った残酷さだけだった。「澪、これが最後のチャンスだ。美咲の妹として、ここで全部白状しろ。今まで美咲にしてきたことを、全部だ。今ここで認めれば、少しは楽にしてやる。だが、それができないなら容赦はしない」澪は、蓮の本気度がど
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第16話

蓮は、美咲と過ごした家へ戻った。結婚してこの三年間、自分がこの家にいた時間は、思えば驚くほど少なかった。美咲が帰ってきたばかりの頃は、雷の夜になるとどうしても帰りたくなったものだ。けれど、その気持ちを無理やり押し殺してきた。いつの間にか、美咲が一人で寒い部屋で眠れるかどうかなんて、まったく気にしなくなっていた。彼女がどう過ごしているか、心配することすらしなくなった。自分の中の憎しみが、ふたりの関係をすっかり変えてしまっていた。蓮は美咲の部屋に入り、クローゼットの中の金庫を見つける。いったい何が入っているのか、無性に気になった。パスワードを試すが、美咲の誕生日も、思いつくかぎりの記念日も、すべて違っていた。最後に、試しに自分の誕生日を入れると――金庫が開いた。美咲は、蓮の誕生日を金庫の暗証番号にしていたのだ。驚く間もなく、蓮の目に飛び込んできたのは――古びたマフラーだった。鼻の奥がつんと痛くなり、涙が込み上げる。それは何年も前の冬、蓮が半年かけてお金を貯め、美咲に贈ったブランド物のマフラー。彼女に初めて贈ったプレゼントだった。あれだけ長い年月が過ぎ、あんなに狂ったように彼女を傷つけてきたのに――美咲は、ずっとこのマフラーを大切にしまっていた。自分は、最低の男だ。心の底から、どうしようもないクズだ。美咲が本当に裏切っていたとしても、男ならもっと広い心で受け入れることもできたはずだ。どうしてあの頃の憎しみやしがらみを、手放せなかったんだろう。あの時、彼女に優しくできていれば――せめて最後の数年だけでも、幸せに過ごさせてあげられたはずなのに。その機会を自分で壊してしまった。蓮の涙は止まらず、マフラーを濡らしていく。そっと拭おうとするが、最後には顔をマフラーに埋めて、美咲のぬくもりを感じようとする。けれど――時間が経ちすぎていて、もう何ひとつ、彼女の気配は残っていなかった。美咲は、こうして静かに世界から消えてしまった。何も、何ひとつ、残さないまま。蓮はその部屋で三日三晩、食事も取らず、眠ることもできず、ただ天井を見つめて呆然と過ごした。そんなとき、ボディーガードから一本の電話が入った。澪が意識を取り戻したらしい。落下の衝撃で流産し、全身はもう麻痺して動かない――そう報告してきた。「
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第17話

美咲がこの世を去ってから半年、悠真はひとり海辺へ向かった。あの日、蓮のオフィスで嫌な予感がして、必死で情報を集め、ようやく美咲がかかっていた病院と主治医――曽根先生を突き止めた。曽根先生は、「彼女の遺灰は海に撒いた」と教えてくれた。悠真は悲しみに暮れながら、どの海かを尋ね、花束を持ってそこへ行った。白い花を浜辺に置き、膝をついて海の向こうに手を合わせ、心から懺悔する。やがて潮が満ちてきて、花束は波にさらわれ、ゆっくりと海に消えていった。どうか、美咲の魂がこの花を受け取ってくれますように――心からの悔いを、どうか聞いてほしい。悠真は会社へ戻り、入り口で秘書が駆け寄ってくる。「社長、面接の方がオフィスでお待ちです。もう一時間も待ってます」会社が再建できたのは奇跡だった。前回、蓮に潰されたあの会社をどうにか立て直したものの、経歴のせいで人材が集まらない。「わかった、すぐ行く」悠真がドアを開けると、そこにいたのは華奢で顔色の悪い女の子だった。彼女は慌てて立ち上がり、挨拶しようとした瞬間、不思議なほど驚いた表情を見せる。悠真は特に考えもせず、デスクの向こう側に座った。女の子の履歴書を手に取り、思わず眉をひそめる。高校中退、その後は三年も五年も空白がある。以前の自分なら、こんな経歴の応募者は最初から相手にしなかっただろう。けれど今は、がらんとしたオフィスの現実を見て、期待値を下げるしかないと自分に言い聞かせていた。「どうしてうちを受けようと思ったの?」ごく普通の質問を投げかける。彼女は目を伏せて答える。「ほかの会社は、どこも面接すらしてくれなくて……」彼女は素直で、表情もどこか幼く、全体的に清潔感のある雰囲気だった。けれど、その腕にはいくつもタトゥーが刻まれていて、見た目のイメージとはまったくかけ離れている。そのギャップが、なおさら目についた。「学歴だけが理由?」「それだけじゃなくて……心臓移植の経験があるんです。それを言うと、どの会社も責任問題を気にして雇ってくれません」なるほど――空白の期間の理由も、これで説明がついた。悠真は眉をひそめたまま、何も言わない。彼女はそっと顔を上げ、ちらりと悠真を見る。その目に、驚きと戸惑いがよぎる。「私、やっぱり向いてないかも……お
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第18話

美咲が亡くなってから二年、蓮はふたたび病院を訪れた。澪の身体からはもう包帯がすべて外されている。見る影もないほど痩せ細り、ベッドで虚ろな目を前に向けているだけだった。この一年間、澪の壊れた身体は医学実験に使われ続けた。採血、試薬……それですらまだ「軽い」部類。死の淵まで何度も追い込まれ、もう解放されるかと思えば、必ずまた現実に引き戻された。すべての元凶は、他でもない蓮だった。「簡単には死なせない。美咲が味わった苦しみの、何千倍、何万倍も味わわせてやる」そう言い放った蓮は、実際にそれをやってのけた。「今日は美咲と出会った記念日なんだ。こんな特別な日に、どんな贈り物をすればいいと思う?」蓮は澪の向かいのソファに座り、冷たい笑みを浮かべて彼女を見下ろす。蓮は――まぎれもなく異常だった。徹底的に、救いようのないほど狂っている。この整った顔の下に潜んでいたのは、背筋が冷えるほど冷酷で歪んだ心だ。この一年で、澪は嫌というほどそれを思い知った。これまで、自分こそ冷血で残酷だと思っていた。だが蓮のやり方を実際に体験してみれば、自分など足元にも及ばない。かつては必死で生きたいともがいていた。けれど今は、死ぬことだけが救いだと思うようになっている。そんな絶望の底で、澪の口元にゆっくりと、歪んだ笑みが浮かんだ。「蓮さん、そんなふうに私に復讐したって、心はちっとも楽にならないでしょう?なぜか分かる?お姉ちゃんを一番深く傷つけたのは、私じゃなくて……あなただよ。いくら愛してると言い張ったって、結局あなたがぶつけているのは私への怒りだけ。本当に後悔してるなら、彼女の後を追って海にでも飛び込んだら?」澪は、もう何も恐れないように、笑い出した。その笑いは、病室に響くほど大きく、乱れていて、狂気すら帯びていた。――効いた。彼女の言葉が、確実に蓮の何かを刺したのだ。次の瞬間、蓮が飛びかかってきた。その手が澪の喉を強く締め上げる。目は血のように赤く、今にも殺す勢いだった。「このクズ……黙れ。今すぐその口を閉じろ。でないと、どんな死に方になるか分かってるだろうが……」「黙るのはそっちでしょ!蓮さん、毎日『死ね』って言ってくるくせに、なんで私はまだ生きてるの?あなたの美咲なんて、とっくに生まれ変わってるんじゃない?蓮
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第19話

蓮は車を走らせ、美咲のために用意した墓地へ向かった。彼女には本当の墓はなかったが、どうしても思いが断ち切れず、蓮は自分で墓地を買い、美咲の名を刻んだ墓を立てていた。この二年間、何度となくそこに足を運び、墓に刻まれた美咲の名前を前に、一日中ぼんやりと座り込むこともあった。ときには話しかけ、ときにはただ、時が過ぎるのを待つだけの日もあった。今日は――二人が「出会った記念日」だ。蓮は車を商業施設の前で止めさせる。ふと、あのブランドの店が目に留まる。あれはかつて美咲に贈った、初めてのマフラーのブランドだった。なぜだか、今日は何か贈り物をしたくなった。きっと美咲も喜ぶ気がした。蓮が店に入ると、店員はその身なりから彼を二階のVIPルームへと案内した。……一方そのころ――美咲はスマホのメッセージを眺めていた。送り主は、今の勤め先の上司・悠真だった。【女のお客さんにプレゼントを贈りたい。俺は女性物は分からないから、商業施設で適当に選んできてくれ。お金は後で精算する】美咲はスマホをしまい、そのまま目の前の高級ブランド店に入る。「すみません、20代の女性へのプレゼントを探していて……おすすめ、ありますか?」店員は手際よく予算を聞き、次々と商品を見せてくれる。だが、美咲の目は店の片隅のショーケースに釘付けになった。そこに並んでいたのは――見覚えのあるマフラー。あの日、蓮が贈ってくれた、あのデザインと全く同じものだった。店員も気づいて、微笑みながら説明する。「こちらは記念モデルで、十年前の発売時とまったく同じデザインです。今年、限定で数本だけ復刻されたんですよ。お気に召しましたか?」美咲は返事に困る。言葉が出ないまま、じっとマフラーを見つめていた。ちょうどそのとき、背後の階段から男の声が響く。「そのマフラー、見せてもらえますか?」その声を聞いた瞬間、美咲の全身がこわばった。蓮だった――蓮が早足で階段を降りてきて、角のマフラーを見つめている。「これ……昔のモデルじゃないか?どうしてまた店頭に?」店員は笑顔で説明を繰り返すが、最後に付け加えた。「でも、こちらはラスト一点でして……この女性のお客様が最初に目を留められました」蓮はそのとき、ようやく隣にいる女性に気づく。痩せた小柄な女性――美
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第20話

かなり歩いて、あの店がだいぶ遠くなってからようやく美咲は足を止めた。そっと振り返り、遠くの店先をのぞき込む。――けれど、もう蓮の姿はどこにもない。美咲はゆっくり視線を戻した。胸の奥に湧き上がるこの感情が、何なのか自分でもよく分からなかった。少し歩いたところで、スマホが鳴る。画面には【お母さん】の文字。正確に言えば、陽菜の母親だ。この二年で、美咲もすっかり「娘」としてこの家族を大切に思うようになっていた。「陽菜、今どこにいるの?お父さんが大変なのよ!」「どうしたの?お母さん、落ち着いて話して……」「落ち着いてなんていられないわよ。お父さんが闇金の連中に斬りつけられたの!今、病院で手術中なの!」美咲はしばらく呆然としたが、すぐに我に返り、「すぐに病院へ行くから待ってて」と電話を切った。病院に駆けつけると、母親は泣きながら説明する。この数年、心臓移植の手術費を工面するために、やむを得ず高利貸しから金を借りていたという。元本は4000万ほどだったのに、利息が膨らみ、いまや二億円になっている。「ひどすぎる……お父さんが抗議したら、あいつらすぐに包丁を振り回して……」母は泣きじゃくるばかり。美咲は、闇金相手に理屈が通じないことをよく知っていた。今、一番大事なのは――とにかくお金を工面して返すこと。やつらはこれまでも何度も家に押しかけ、壁にペンキをぶちまけたりした。そして今回は、とうとう本気で人を斬りつけてきたのだ。とはいえ、二億円もの大金などどこから捻出すればいいのか――そのとき、美咲の頭にひらめきが走った。あのとき、蓮からもらった二億円。手をつけずに口座に残してあった。それが入ったキャッシュカードは、いまも家の金庫にある。ただ、今は陽菜として生きている。あの家に戻るにはリスクがある……美咲は、行き場を失ったように途方に暮れる「陽菜の両親」を見て、心の中で決めた。一度、家に戻ろう。借金は両親が闇金から借りたものだ。けれど、その借金がきっかけで自分は生き返ることができた。だから、この借金はどうしても自分が返す。翌日、美咲は仕事用のプレゼントを買いに出かけ、会社に戻った。「一日中かかったの?そんなにギフト選びは難しかった?」悠真は顔も上げずに皮肉を言うが、美咲は何も言わずやり過ごした。家族の
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