Semua Bab 知らないまま、愛してた: Bab 121 - Bab 130

270 Bab

5-20

「蓮司さん。合羽橋にきましたが、川に行きますか? それとも池に行きますか?」到着して早々、桔梗が真顔でそんなことを言うものだから、一瞬だけ思考が止まった。だがすぐに、その問いがさっきまでの会話の延長だと気づく。移動中、ずっと“河童は川にいるのか池にいるのか”という話をしていたのだ。河童といえば川、という印象は強いが、「河童の川流れ」ということわざがある以上、流れのある場所にいるのは逆に不自然ではないか、むしろ流れのない池のほうが生息に適しているのではないか、などと、どうでもいいようでいて妙に真剣な議論を重ねた結果、結局どちらとも言い切れないという曖昧な結論に落ち着いたばかりだった。「……とりあえず、隅田川のほうに向かって歩くか」適当な折衷案を口にすると、桔梗は小さく頷き、すぐにスマートフォンの地図アプリへ視線を落とした。その数秒後、何かに気づいたように「あ」と声を漏らし、こちらへ画面を差し出してくる。「ここ……見てください」指先が示していたのは【曹源寺】という寺の名前だった。そういえば、ここに来るまでの道中、合羽橋の由来として河童の伝説があるという案内板を見かけた記憶がある。この寺には“かっぱ大明神”なるものが祀られているらしい。「……川でも池でもなく、寺か」「はい。河童がいるなら、こういう場所にいてもおかしくないかと」妙に納得したような顔で言うものだから、思わず笑いそうになる。確かに、どこにいてもおかしくない存在だと考えれば、寺にいても不思議ではないのかもしれない。「近いな。寄っていくか」そう決めて歩き出す。合羽橋道具街の喧騒から少し外れた場所にあるその寺は、観光地の近くにありながら、どこか落ち着いた空気をまとっていた。「蓮司さんは、この辺りに来たことはあるんですか?」「いや、この辺りはないな。浅草や上野なら仕事で来ることはあるが」視察や会食、そういった目的で訪れる場所は限られている。こうして何の予定もなく歩くのは、ほとんど初めてだった。「落ち着いた雰囲気のお店が多いですね」桔梗が門の向こうに見える通りを眺めながら呟く。その横顔が、柔らかな光に包まれて一枚の絵のように見えた。無意識にスマートフォンを取り出し、シャッターを切る。画面を確認すると、思った通り、いやそれ以上に綺麗に収まっていた。「蓮司さんって、写真を撮るのが好き
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5-21

「……代わりに撮ろうか?」そう言って手を差し出すと、桔梗は小さく首を振った。「蓮司さんのスマホで撮ってください」静かな声だったが、その言葉には迷いがなかった。「私のスマホ、カメラは壊れているみたいで……上手に写真は撮れないし、撮っても、いつの間にか消えているんです」その何気ない説明が、胸の奥に沈んでいた不安を掬い上げるように響く。俺はそれを表に出さないよう、わずかに視線を逸らしながら、桔梗の視線の先にあるものへとカメラを向けた。構図を整え、光の向きを確かめる。ほんの数秒の作業なのに、やけに時間が引き延ばされたように感じる。指先に意識を集中させ、いつもは気にしないのに、指が映りこまないように注意しながらシャッターボタンを押した。「ちゃんと撮れましたか?」少し不安そうに覗き込んでくる桔梗に、「ああ、よく撮れている」と答えると、彼女はほっと息をついたように微笑む。その表情を見た瞬間、胸のざらつきがわずかに和らぐ。写真がうまく撮れないことと、記憶が残るかどうかは本来無関係なはずだ。ただの技術の問題でしかない。データが消えるのだって、操作ミスや設定のせいかもしれない。それだけのことだ、と頭では理解している。それでも、どこかで納得しきれない自分がいる。だからこそ、俺は無意識にシャッターを切る回数を増やしていた。桔梗が立つ場所、振り向く瞬間、何かを見つけて目を細める横顔。その一つひとつを、確かめるように切り取っていく。「桔梗」名前を呼びながらスマホを構えると、彼女はすぐに気づいて、ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。その自然さが、かえって胸に痛い。最初は、もし桔梗がこの日々を忘れてしまっても、自分が覚えていればいいと思っていた。だが今は違う。できることなら、桔梗自身の中に、この時間を残してほしい。自分勝手な願いだと分かっている。それでも、彼女の中に、今の俺が、ほんの欠片でもいいから残っていてほしいと思ってしまう。「蓮司さん」呼ばれて顔を上げると、桔梗はなぜか両手で何かを抱えていた。「なんだ、それ?」思わず笑いが漏れる。彼女が手にしていたのは、ずっしりとした土鍋だった。観光地の雑貨店らしく、店先には様々な調理器具が並んでいる。その中からわざわざそれを選んできたらしい。「絶対に失敗しない炊飯土鍋、だそうです」誇らしげに見せてくるが、書かれているキ
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5-22 side桔梗

「綾乃さん、しつこいね」朋美さんが呆れたように肩をすくめたその一言に、思わず頷きそうになって、私は慌てて視線を落とした。けれど胸の内では同意している。理由ははっきりしていた。机の上に置かれた、厚手の上質な封筒。差出人には【姫川綾乃】。中身は、彼女が主催する音楽サロンへの招待状だった。金の箔押しが施されたそれは、見た目だけならば格式ある催しへの正式な案内にしか見えない。けれど、これが単なる好意や親交の証ではないことくらい、流石に分かる。「友だちになりましょう」――初対面の第一声、彼女が浮かべた笑みと声音を思い出す。その言葉を額面通りに受け取るほど、私はもう無邪気ではいられない。.スマホを開いて連絡先を眺める。私になった頃、そこに並ぶ名前は少なかった。桐谷家の親戚を除けば、乃蒼と佳孝君くらい。『私』には彼らしか友だちがいなかったということになるが、一般的な意味での親密さとは少し違う友だちだと思う。カップルの傍で一人だったのだから、当然かもしれないけれど。けれど、それを寂しいとは思っていなかった。むしろ、必要以上に人と関わらずに済むその静けさが、自分には合っていると思っていたからだ。だが、『桐谷蓮司の妻』になってから、スマホの連絡先が増えた気がする。明らかに、人が寄ってくるようになった。話しかけられる機会も、誘いを受けることも増えた。その理由が自分自身ではなく肩書きにあることは分かっているが、大人になってからの人付き合いのきっかけなど、そんなものなのかもしれないとも思っている。だから私は、すべてを拒絶するつもりはなかった。中には好意的な人もいるし、穏やかに接してくれる人もいる。そういう人たちとの関係を、自分の偏見で閉ざしてしまうのはもったいない。けれど―――開口一番で「友だちになりましょう」と言ってくる人たちだけは、どうしても距離を感じてしまう。距離の詰め方が急すぎる。違和感がある。いや、違う。違和感の正体はもっと単純だ。そういう人たちは決まって、蓮司さんを見ている。姫川さんも、間違いなくその一人。つまり、これまで私に「友だちになりましょう」と言ってきた人たちは私を見ていない。『桐谷蓮司の妻』とだけ。彼らの視線を見れば分かる。表面上は柔らかく微笑んでいても、その奥には別の意図がある。『桐谷蓮司の妻』の座から私を降ろすこと。仲良くする気など、最
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5-23

「はあ?」朋美さんの口から飛び出したのは、遠慮も含みもない、心底からの驚きそのものだった。思わず肩がびくりと跳ねるほどの勢いで、私は一瞬だけ言葉を失う。その反応だけで十分だった。蓮司さんが姫川さんを待っていた、というあの人の言葉は事実ではない。そう断言できるだけの説得力があった。けれど同時に、胸の奥に別の引っかかりが残る。では、なぜ姫川さんはそんな認識を持っているのか。どうしてそこまで思い込めるのか。「どうしてそう思っちゃったの?」「蓮司さんは三十歳を過ぎても独身でいらっしゃったので」自分でも少し遠慮がちだと思いながらそう言うと、朋美さんは「うーん」と困ったように眉を寄せた。「三十歳で結婚していなくても珍しくはないと思うけど……」一般論としてはそうだろう。けれど、蓮司さんは“ただの三十歳の男性”ではない。桐谷グループの後継者であり、その立場と影響力を考えれば、縁談の話が途切れることはなかったはずだ。むしろ、放っておいても周囲が勝手に整えてくる類の存在だと思う。「まあ、お兄の立場を思えば桔梗さんがそう考えるのも分かるかな」朋美さんは少しだけ納得したように頷いた。「でしょう?」思わず身を乗り出してしまう。そう、あの容姿と立場。本人の意思とは関係なく、女性のほうから近づいてくる状況はいくらでもあったはずだ。それなのに、三十を過ぎても特定の相手がいない。それは“待っていた”と解釈されても仕方がないのではないか、と。「それはね」朋美さんが、少しだけ意地悪そうに口角を上げる。「お兄は結婚しなかったんじゃなくて、結婚できなかっただけだから」一瞬、言葉の意味が理解できなかった。「……蓮司さんに限ってそんな!」思わず否定が口をつく。蓮司さんが“できない”なんて、そんなはずがない。「うん、予想通りの反応。親戚と一緒にお兄の推し活してる桔梗さんなら、絶対そう言うと思った」からかうような声音に、頬が少しだけ熱くなる。推し活……否定できない自分がいるのが悔しい。「でも、本当のことだよ」朋美さんは少し真面目な顔に戻る。「だって、お兄の傍にはいつも吉川凛花がいたから」その名前に、私は息を止めた。吉川凛花。聞いたことがないわけではない。何しろ彼女は蓮司さんの元婚約者だ。桐谷家と吉川家は、元を辿れば同じ血筋に行き着く。初代同士が兄弟で、義を大事にす
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5-24

「お兄が十八歳のとき、桐谷家から正式に吉川凛花とお兄の婚約はないと明確に拒絶の態度を示したわ」朋美さんは当時を思い出すように、少し遠い目をした。「それでも吉川凛花は諦めなかった。ほとんど意地だね」「……意地?」「お兄と結婚するんだって周りに言って、お兄ともいい関係だと臭わせて、外堀を埋めていたの。否定しても“照れてるだけ”って受け取られるような、厄介なやり方でね」淡々と語られるその手法は、どこかで見聞きした社交界の駆け引きそのものだった。それよりも気になるのは蓮司さんの反応だ。「蓮司さんは?」と問いかけると、朋美さんは肩をすくめる。「特に気にしてなかったかな。桐谷家としてはきっぱり断っているし、お兄自身も、いずれ親が見合いを持ってくるだろうくらいにしか考えていなかった。実際に話はいくつも来ていたしね」その言葉に、私は首を傾げる。数がきていたのに、それらのお見合いが成立していないということは。「吉川凛花が相変わらずお兄に張りついて、幼馴染ビームをかましていたわけ」「幼馴染ビーム?」聞きなれない言葉に説明を求めると、朋美さんは苦笑した。「蓮司さんのことを一番よく知っているのは私、昔からずっと一緒にいたのは私、あなたは何も知らないでしょ? ……っていう、あの手の牽制よ」その説明に、胸の奥に引っかかっていた記憶が形を持つ。武美さんと蓮司さんが並んでいたとき、私の中に芽生えた言葉にできない違和感―――あれか。「なるほど」と頷くと、朋美さんは続けた。「吉川凛花付きのお兄、って印象が定着してしまってね。“あの人がいるなら無理”って見合い話は全部破談。お兄もそこでやっと、自分が楽をしようとして吉川凛花を盾に使っていたことの代償に気づいたのよ」その言葉に、思わず「ああ……」と声が漏れる。短期的には有効でも、長期的には自分を縛る鎖になる―――その典型のような話だった。「最初はね、お兄も吉川凛花の“迎撃力”に助けられていたの。近づいてくる女性を彼女が追い払ってくれるから。でもね、それが長く続くとどうなると思う? “吉川凛花だけが許された存在”って周囲が誤解するのよ」朋美さんはそこで言葉を切り、少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。「それで……」「それで?」私が促すと、朋美さんは一瞬だけ躊躇し、観念したようにため息をついた。「それで……吉川凛花以外の
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「教えてくれてありがとう、朋美さん。音楽サロンへの招待はお断りすることにするわ」そう告げると、朋美さんは意外そうに首を傾げた。「え? そこは行く流れじゃないの? 話を聞いた上でなら、桔梗さんが完全に優位に立てると思って説明したんだけど」その言葉には善意しかないのが分かる。私の背中を押そうとしてくれているのだ。でも私はゆっくりと首を横に振った。「応援してくれるのは嬉しいわ。でも、私に戦う気はないの」言葉にしながら、自分の中の考えがよりはっきりと輪郭を持っていくのを感じる。姫川さんがまだ蓮司さんに想いを残していて、だからこそ私という存在を測ろうとしているのなら―――私はそれに応じたと思う。正面から向き合い、納得してもらい、恋心に区切りをつけてもらう。それは妻としての小さな、けれど確かな願い。自分の夫に向けられる感情を少しでも減らしたいという、決して広いとは言えない心。それでも、そういう感情は否定できない。けれど、姫川さんの場合は違う。「あの方が欲しいのは“蓮司さん”ではなく、“蓮司さんの妻という立場”なでしょう?」朋美さんが黙って頷く。「プロのバイオリニストをやめた理由にするために、桐谷蓮司の妻になる必要がある。だから、今その席に座っている私が邪魔なだけ」言葉にしてしまえば、とても単純な構図。この場合、個人としての私の評価は存在しない。好かれることもなければ、嫌われることすら本質ではない。ただ“そこにいるかどうか”だけが問題になる。「だからね、私が音楽サロンに行こうが行くまいが、あの方にとってはどちらでもいいのよ。来れば“よく来たわね”、来なければ“よくも来なかったわね”。どちらにしても、敵意ある反応が返ってくる」自分で言っていて少し可笑しくなり、思わず小さく笑ってしまう。「それなら、わざわざ時間を使って会いに行く必要はないでしょう?」あまりにも簡単な結論だった。わざわざ相手の用意した舞台に上がる必要はない。向こうから現れるのだから。実際、ここ最近の出来事がそれを証明している。出かける先々で“偶然”のように現れる姫川さん。その頻度は偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎていた。蓮司さんは盗聴器の存在まで疑って専門業者に調査を依頼したけれど、結果は白。となれば、考えられるのはもっと単純な話――誰かが情報を流しているのだろう。愉快犯か、それとも
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「桔梗!」よく通る、懐かしさを含んだ声に名前を呼ばれて顔を上げると、そこに立っていたのは西園寺のお祖父様だった。胸の奥がふっとほどけるような感覚に包まれる。お母様の実家である西園寺家は、かつて花嶺家との関係を断っていたと聞いている。そのため、私が入院していたことも長らく知らされていなかった。お祖父様たちをよく知る和美お祖母様が間に入ってくださり、ようやく再会が叶った。お祖父様たちには記憶喪失のことを伝えるつもりはなかった。余計な心配をかけたくなかったし、何より自分自身がそれをどう受け止めていいのか分からなかったからだ。けれど、お祖父様たちはすぐに気づいた。ほんの些細な仕草や言葉の選び方、そういったものの違いを見逃さなかったのだという。その観察眼には、正直驚かされたし、『私』をよく見ていてくれたのだと嬉しくなった。事情を説明したとき、お祖父様たちは一瞬だけ言葉を失い、複雑な表情を浮かべた。その表情には、悲しみや戸惑い、そしてどうにもならない現実への諦めのようなものが入り混じっていた。それでも最終的に私たちは、「過ぎたこと」として受け止めることにした。取り戻せないものに執着するよりも、これから積み重ねていく時間を大切にしようと。.そうして始まった新しい関係は、思っていたよりもずっと穏やかで、心地よいものだった。今では、この桐谷グループのホテルでこうしてお茶をする時間が、定期的な楽しみになっている。「お祖父様、お祖母様。ご無沙汰しております」丁寧に頭を下げると、お祖母様が「あらあら、まあまあ」と嬉しそうに目を細めた。その柔らかな表情を見るだけで、こちらの緊張も自然とほどけていく。「すっかり桐谷家の若奥様ね。とてもよくしていただいているみたいで、安心したわ」その言葉に、少しだけ照れくさくなりながら向かいの席に腰を下ろす。自然と背筋が伸びるのは、この場所の空気と、お二人に対する敬意のせいだろう。「体調を崩されたと聞きましたが、もう大丈夫なのですか?」そう尋ねると、お祖母様は軽く肩をすくめて笑った。「この年になれば、どこかしらガタが来るものよ。それなのにこの人ったら大騒ぎして。本当に大したことはないのに」「仕方がなかろう、心配なのだから」お祖父様が少し拗ねたようにそっぽを向く。そのやり取りがあまりにも微笑ましくて、思わず頬が緩んだ。長い時間を共
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5-27

「そう言えば、最近明子に会ったかい?」「明子叔母様ですか? いいえ、お会いしていません」そう答えた瞬間、お祖父様が露骨に安堵の息をついたのが分かり、思わず小さく瞬きをした。「いやね、実は出がけに明子と会ってね。どこに行くのかと聞かれたから桔梗に会いに行くと言ったんだよ。そうしたら自分も行きたいと言い出してな……」その言い方にはどこか困惑が滲んでいて、普段の落ち着いたお祖父様らしからぬ様子に違和感を覚える。「あの子がそんなことを言うなんておかしいと思って理由を聞いたら、あなたに話したいことがあるからって言うの。それなら私から伝えると言ったのだけど、自分で言うの一点張りでね」お祖母様が補足するように続ける。その口調もまた、どこか歯切れが悪い。……おかしい。二人とも、明子叔母様の行動を「姪への挨拶」で片付けていない。それどころか、明確に警戒しているように見える。「お祖母様、なぜ明子叔母様が私に会いたいというのは変なのですか?」率直に問いかけると、お祖母様は一瞬だけ後悔するような表情を浮かべた。そしてお祖父様と目を合わせ、小さく息を吐く。その仕草だけで、これから語られることが軽い話ではないと分かってしまう。「……隠しても仕方ないわね」お祖母様は静かにそう言ってから、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。「明美と明子は、とても仲の良い姉妹だったの。でもね、ある日、明子の夫だった橋本哲也が明美に襲い掛かったことがあって……」その言葉に、思考が一瞬止まる。あまりの衝撃で、意味を理解するのにわずかな時間がかかった。「その日は屋敷に親戚が集まっていてね。だから明美の助けを求める声にすぐ応じることができたのだけど……橋本哲也は取り押さえられながらも、あんな不誠実な花嶺辰治とは別れろ、明子とは別れるから自分と一緒になろうと、そう叫んだのよ」絶句、という言葉では足りないほどの衝撃だった。喉がひどく乾いて、何か言おうとしても声が出ない。「勿論、私たちは何を言っているのかと問い質したわ。あの人は酔っていたから、何も考えずに全部話してしまったの。高校の頃から明美が好きだったこと、でも明美には婚約者がいたから似ている明子で我慢したこと……」お祖母様の声は静かだったが、その中に含まれる嫌悪と怒りは隠しきれていなかった。「そんな暴言に一番怒ったのは明美だったわ」「
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私はお祖父様たちの話を遮ることなく、ただ静かに耳を傾けていた。そのほうがいいと、直感的に思ったからだ。二人の声には、長い年月の中で積もった後悔が滲んでいて、それを言葉にすることで少しでも軽くしようとしているように感じられた。ここで私が何かを挟めば、その流れを止めてしまう気がしたし、なにより、これは私が知っておいたほうがいい過去のような気がした。.お祖父様の後悔は、渡仏して間もなく橋本哲也の事業が傾き始めたことに端を発しているという。美術品の世界は華やかに見えて、その実、非常に不安定だ。流行によって評価額は簡単に上下し、価値が保証されるものではない。橋本哲也はその波を読み違え、あるいは読み切れず、投資に失敗し続けた。気づけば借金を抱えるまでに追い込まれていたらしい。「あの時期の渡仏は、タイミングが悪かったのだろうな」お祖父様は低くそう言った。お母様や明子叔母様を責める気持ちはないと前置きしながらも、橋本哲也の間違ったその選択の引き金になったのが明子叔母様であったのだとお祖父様は感じているようだった。そのため、西園寺家からは二人がある程度余裕を持って生活できるだけの資金援助が行われていたという。援助というよりは、見守るための手当てに近かったのかもしれない。橋本哲也は、そこから立て直した。優秀な人物ではあるのだろう。少しずつ成功を重ね、顧客を獲得し、事業はやがて安定の兆しを見せ始めた。だからこそ、その後に起きた出来事は、あまりにも唐突で、理解し難いものだった。「安定してきた頃だった。突然な、離婚を切り出したんだ」お祖父様の声がわずかに沈む。「理由は……分からないのよ」お祖母様が引き取るように言う。「明子は何も話さなかったし、あちらからも説明はなかった。ただ……帰国したとき、あの子は身重だったの」私は思わず息を呑んだ。「橋本哲也は、その子は自分の子ではないと言ったそうだ。明子も、それを否定しなかった」その一言で、状況はほぼ明らかだった。言葉にされずとも、お祖父様たちが何を考えたのかは想像できる。明子叔母様が、別の男性との間に子どもを宿した―――そう受け取られても仕方のない状況だったのだろう。けれど、それが真実なのかどうかは、誰にも分からない。本人が何も語らない以上、推測の域を出ないのだから。「……あの子なりに、何かあったのだと思うわ」お
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【第六章】

「桔梗さん」玄関の引き戸を開けた瞬間、名前を呼ばれて思わず足を止めた。声の主は朋美さん。その背後には、彼女と同じくらいの年頃の女の子が二人、少し緊張した面持ちで立っている。初対面の人だとすぐに分かる、遠慮がちな視線と、けれどどこか期待を含んだ表情。私は靴を脱ぎながら軽く頭を下げ、「はじめまして」と挨拶を返した。「桔梗さん! ぜひ中の人になって!」朋美さんが勢いよく一歩前に出てきたけれど―――中の人?聞き慣れない言葉に、思わず瞬きが増える。中の人とは、あの、祭りなどで見かける着ぐるみの中に入る人のことだろうか。まさか、あれを着てほしいと言われているのだろうか。朋美さんは慌てて手を振り、「違う違う、着ぐるみじゃないから」と言いながら、事情を説明し始めた。.朋美さんの後ろにいる二人は朋美さんと同じ大学の後輩で、動画クリエイターを目指しているらしい……クリエーター?撮影や編集、さらにはSNS運用などの技術を身につけたいが、肝心の撮影素材が決まらず困っているのだという。聞き慣れない言葉が次々と出てきて、正直なところ七割ほどは理解できなかったけれど、彼女たちの真剣さだけは伝わってきた。「つまり?」と問い返すと、朋美さんは簡潔にまとめてくれる。「桔梗さんの動画を撮って、配信したいの」「動画って、ビデオのこと?」と私が聞き返すと、三人の間に一瞬の静寂が落ちた。「……桔梗さん、ときどき作り方をスマホで見たっていう料理を作ってくれるよね」「ああ、あの動いている映像のことね」と頷くと、今度は彼女たちが驚く番だった。「え、どうやって見てるの?」「目で?」「違う。アプリとか……どうやって検索しているの?」「アプリって、スマホの画面にボタンみたいに沢山ならんでいるアレでしょう? 見れば分かるようになっているじゃない」「……え、何で見ているの?」「目……じゃないのよね、この場合は……蓮司さんのスマホ?」「何で疑問形?」「もっと大きい画面で見ることもあるから」「ああ、タブレット……それで?」「ビデオを蓮司さんが見せてくれて、『これ食べたい』って言われるからそれを作っているのだけれど……変かしら」「その見ているやつって、動いている?」「ええ、動いているわ」「それが動画」「ビデオじゃなくて動画というのね」と感心すると、三人が揃って唖然とした顔にな
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