All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 131 - Chapter 140

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131

「蓮司君」準アトリエを出て、外で庭を眺めていたら、石川先生に呼ばれた。「なぜ、こんなところに?」「トイレの場所が分からなかったので」石川先生に時間が必要だった理由を、俺の理由にする。目元にまだ残る湿り気にも、気づかない振りをする。「君の用事がまだだったね。今度は、こっちでコーヒーを飲みながら話そうか」「そうですね」あの霊廟のようなアトリエにまた足を踏み入れることにためらいがあったので、俺は石川先生の提案を二つ返事で受け入れた。 通いの家政婦だという初老の女性が部屋を出ると、その場は静寂が満ちた。開け放たれた窓から見える庭の景色。机の上で立ちのぼるコーヒーの湯気。時間が流れていることは確かだが、話の切り口に俺は躊躇してしまう。「今日、石川先生を訪ねたのは、写真について相談があったからです」「……写真?」石川先生の目が、警戒したものになる。「写真をお見せする前に、俺がこの写真を手に入れた経緯を説明します」石川先生が静かに頷く。「この写真は、俺の元婚約者である吉川凛花が”脅迫材料”として俺のもとに持ってきました」「脅迫とは……物騒だね」「ええ、物騒でしたのできちんと処理しました。ご安心ください」「桔梗さんと誠司くんに害がなければいいよ」
last updateLast Updated : 2026-02-15
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132

戻ってきた石川先生は、大きな箱を手に持っていた。石川先生は、箱を俺の前に置いた。覗き込むと、中に入っているのは……和紙?「見ても?」そのために持ってきたのだろうけれど、俺は一応石川先生に確認をとった。石川先生が頷いたので、俺は一枚を手に取って広げる。そこに描かれていたのは、衣を持たない女だった。露骨な裸体ではない。ラフなデッサンのように、線も極端に少ない。陰影もわずか。色は、隅に少しだけ。色を乗せて、後悔してやめてしまったようだ。制作の途中。でも、この絵は完成することはないだろう。中途半端。それなのに、目を逸らせない迫力がある。色をのせていないのに、女の肌には質感がある。触れたら、温度を感じそうで、まるで呼吸をしているようにも見える。そして――。「この構図……」絵の構図は、俺のスマホが映している写真と同じものだった。 「明美の結婚式の後、僕はパリに戻った」「……パリ」パリは、白洲典正の画廊がある都市。白洲典正の経歴と、石川先生の経歴を合わせれば、この頃には白洲典正の画廊は欧州でそれなりの評価を得ていたはずだ。「僕の住んでいたアパルトマンは画家の卵たちの集まりが大勢暮らす場所で、あちこちから絵の具や溶剤の臭いが漂ってきた。明美を抱いたときから沸々としていた描きたいという思いがそこで爆発した」石川先生は、遠い目をする。「僕は、明美の絵を描き続けた。何日もろくに眠らず、十年以上前の明美の顔も思
last updateLast Updated : 2026-02-15
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蓮司さんと石川先生って、こんなに仲がよかったかしら?「石川先生、コーヒーにミルクは?」蓮司さんが、石川先生にミルクと砂糖を乗せたトレーを近づける。「ありがとう、いただくよ。いやあ、桔梗さんの淹れるコーヒーはやっぱり美味しいね」……石川先生、まだ飲んでもいないのに。この様子……。「お二人は、一体何をやらかしたんですか?」「「え?」」蓮司さんと石川先生がビクッと震える。この二人……なんか、似ているわ。「……蓮司さん?」「違う! 俺は、何もやっていない」”俺は”。「石川先生……?」石川先生は私から目を逸らし、また私を見て、また目を逸らした。「僕の話に、桔梗さんはショックを受けると思う」それが嫌で、言いよどんでいたみたい。でも、話すしかないのだから、早く話してほしいと思う。言い出しにくい、のかしら。それなら……。「石川先生とお母様に、なにかしらの関係があったということですか?」「……どうして」どうしてって……。「先生、時々私のことを”明美”って呼ぶので」「……え? そうなの?」私は頷く。「無意識に間違えたって感じでしたので、あえて訂正する必要はないかなって。それに……」「”それに”?」「先生の”明美”って呼ぶ声音が……」思わず、蓮司さんを見てしまった。蓮司さんが、首を傾げる。「蓮司さんが、私を呼ぶ声の感じと似ていたので……そう、だったのかなって」「「……なるほど」」二人の声が、ハモる。二人とも、照れ臭そうに口元を手で覆って……本当に似ているわ。母と娘って、男性の好みが似るのかしら。「桔梗さん……その……明美、さんの……浮気を……僕を……」石川先生の言いたいことを、推察してみる。
last updateLast Updated : 2026-02-16
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「こんな写真が……どうして……」「それについては、私の責任だ。諸事情は端折らせてもらうが、この写真を撮ったのは僕なんだ」……石川先生が?「絵を描くための資料、誓ってそのために撮ったんだ」「……そう、ですか」その状況が、お母様と石川先生の中でどうだったのかは分からないから、私からは何とも言いようがない。仮に恋人たちの……刺激を求めるための行為だとしても、だ。……落ち着こう。「この写真を、どうして吉川凛花さんが持っていたのかは分かっているのですか?」「この写真は、以前石川先生が暮らしていたパリのアパルトマンから、他の絵と共に盗まれたんだ」「盗まれた……」吉川凛花さんが、盗んだ?……いえ、時期があわない。なにかの特番で、石川先生が日本にアトリエを構えて二十年以上たっていると聞いている。パリのアパルトマンで暮していたのは、二十年以上前となる。吉川凛花さんは、まだ子どもだ。「犯人は、分かっているのですか?」石川先生は、蓮司さんをチラッと見る。蓮司さんは、石川先生に頷き返す。「桔梗、俺たちは石川先生のアパルトマンに盗みに入ったのは白洲典正だと思っている」……白洲、典正?「なんで、あの人が……?」白洲典正のことを思い出すと、襲われかかったことが思い浮かんで、私の息が乱れる。体が震える。蓮司さんが立って、私の隣に来てくれた。肩を抱き寄せられて、蓮司さんのぬくもりと、匂いに、ホッとする。「……思っているということは、証拠はないということですか?」思ったよりも、落ち着いた声がでた。蓮司さんも、それに気づいたのだろう。私を抱き寄せてくれる手の力が緩む。「大分昔のことだし、当時のアパートはセキュリティらしいセキュリティがなかったから、警察も自業自得って感じであまりまともな捜査はしてくれなかったんだ」「吉川凛花が俺にこの写真を見せなければ、白洲典正に盗まれたのかもしれないという仮説すら立てられなかった」吉川凛花さん……。なぜ、は分かる。この写真を使って、私を貶めるか、私を貶めると脅して蓮司さんを手に入れようとしたのだろう。吉川さんが、いま置かれている自分の状況に納得していないことは聞いていた。一度蓮司さんが手に入りかけた分、私への憎しみは相当なものだろうから注意するよう、お義母様から言われてもいる。私、もしくは蓮司さ
last updateLast Updated : 2026-02-16
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「桔梗にはショックな話が続く……悪い」謝るということは、聞いておきべきことということだろう。「話して、ください」「吉川凛花と俺の婚約だが、表向きはいろいろ理由を述べたが、実際のところは俺は吉川凛花に責任を取るために婚約したんだ」「責任を取るって……」それって、つまり……。「違う、俺と吉川凛花に体の関係はない。ただ、俺は……あの夜、薬を飲まされたあの夜に、乱暴したのは吉川凛花だと、吉川凛花から聞かされたんだ」 !「なんで……」「吉川凛花は……あの夜、ホテルにきて“花宮”と名乗り、俺のいる部屋番号を告げられた桔梗の鞄にICレコーダーを仕込んだんだ」「IC、レコーダー……」それって、あのときの行為が……。 ヒュウッ「ぐうっ……」「桔梗っ!」息が詰まり、次いで襲ってきた吐き気に体が丸まると、蓮司さんが背中を撫でてくれた。「げえ……っほ」「桔梗……吐いたほうがいいか?」「いえ……このまま、撫でていて……」蓮司さんに縋るように、体を支えてくれる蓮司さんの腕をぎゅうっと掴む。痕になってしまうかもしれない。そう思うのに、力を弱めることができない……。 深呼吸を繰り返し、少し胃が落ち着いたところで、蓮司さんに続きを促した。蓮司さんは躊躇したようだったが、一つ深呼吸すると話を続けた。「桔梗が武司を見たことをキッカケに、あれが俺だと知って倒れたことで、俺は吉川凛花の嘘が分かり、吉川
last updateLast Updated : 2026-02-17
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「四連花の五枚目……それを、写真とともに盗んだのが、白洲典正と考えているのですね」心理的に重い時間を過ごして、戻ってきた石川先生から全ての説明を聞いた。ここでようやく、一息がつけた。「なぜ、四連花は無事だったのです?」「偶然だが、そのとき四連花は他国の美術館で展示されることになっていて、通関だか何だかの手続きで僕の手元にはなかったんだ」なるほど……。「石川先生は五枚目を公開するつもりはなかったから、アパルトマンにあったのですね」「そうだ。その泥棒が、白洲典正なら、写真を持っていてもおかしくないし、おそらく絵も白洲典正が持っているだろう」確率は高いが、あくまでも確率。これでは、警察は動いてはくれないだろう。「そこで考えたんだが……桔梗さん、君の絵を描かせてくれないだろうか」え?「私?」え?「嫌です! 困ります……そんな、恥ずかしい……」あんな格好の絵を?その、モデルに?私が?「そ、そうか……蓮司君の説得には骨が折れると思ったし、実際にかなり骨が折れたのだが……」それって……。「蓮司さんは、私の、その……」……えっと、美術用語で……そうっ!「裸婦画に、裸婦画なのに、蓮司さんは賛成したってことですか?」「……ラフ?」詰め寄ると、蓮司さんが『?』という顔をした。そして、ハッと何かに気づいた顔をする。一緒に、石川先生も。……本当に、この二人って、似ているわね!「違う、誤解だ
last updateLast Updated : 2026-02-17
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「石川先生」ずっと黙っていた蓮司さんが、不意に口を開いた。「どうしたんだい?」そんな蓮司さんの声に、何かを感じたのだろう、石川先生がどうしたのか尋ねる。「自分の絵の価値を守るため、六枚目を破壊しようとするのでは?」「それは、可能性があるだろうね」石川先生は頷いた。あっさりとした肯定に、驚いてしまう。「彼は五枚目に執着している。絵に描かれた女の時間を、あの一瞬を永遠に閉じ込めたつもりでいる。だから、更新を許さないだろう」石川先生は、ニッコリ笑う。「でも、自分が六枚目を手に入れられるなら別の話だろう」「六枚目を、手に入れる?」「六枚目はオークションにかける。文化の国外への流出を防ぐという理由付けをすれば、落札は現地でのみ、あと参加者を日本国籍の者に限定して行うことくらいできる」「現地で、ということは事実上の渡航制限が出ている白洲典正は参加できません」「だから、条件を提示して、白洲が条件を満たした場合は日本への渡航を認めてあげればいい」「条件?」「五枚目を持ってくること。先に、吉川凛花さんが持ってきたこの写真を使い、白洲に僕の絵を持っているんじゃないかと問い合わせてみる」「当然、否定しますね」「そうだね。でも、否定されても構わないんだ。僕がそう思っていることを白洲に教えればいい」その状況で、新たな六枚目の公開。でも、白洲典正には渡航制限が出ている。オークションに参加できない。六枚目を見ることもできない。「ここで僕が囁けばいい。桐谷家に口利きをしてあげる、とね。僕と桔梗さんが懇意にしていることは有名な話だから、信じるだろう」「その条件が、五枚目……持ってきますか?」「持ってくるよ、絶対にね。六枚目に、公開前にプライベートで対面することを許可する……それをつければ、必ず持ってくるだろう」蓮司さんが眉を寄せた
last updateLast Updated : 2026-02-18
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閉館後の美術館は、昼間とはまるで別の建物だった。「桐谷蓮司様ですね」影になった部分から、美術館の制服を着たスタッフが滑り出てくる。「どうぞ、こちらへ」外で待つという護衛たちとは入口で別れ、スタッフの案内で建物の西翼に向かった。「お連れ様は中でお待ちです。ここからは、お一人でお進みください」スタッフは、音もなくまた影に沈んだ。俺以外の人の気配が消えた途端、美術館の無機質な空間は息を潜めたように、緊張感のある雰囲気が漂いはじめる。いや、緊張しているのは俺か。 ギッ重い扉を開けると、蝶番の軋む音がした。一歩踏み出すと、静まり返った空間に革靴の重い靴音だけが響いた。靴の重さを意識しながら先に進むと、思わず足が止まった。ガラス扉の向こうで、照明を落とした展示室の入口が、夜の水面から見えるように、暗く沈んで見えた。胸の奥が、わずかに鳴った。――いた。暗い水の中で、咲いている花のようだ。桔梗の僅かな動きに合わせて、ふわりとドレスの裾がひらめく。花のようかと思ったが、長い鰭をもった魚のようだ。ガラス扉が、水槽の壁のように見えるからか。まるで生きもののように、淡い生成りのドレスはひらひらと舞う。それは、華やかというより静かなもの。煌めきも、装飾品の派手さもないのに、桔梗はきらきらしている。化粧は、シンプル。髪もまとめただけ。その最小限の装いが、これほどまでに“美”を際立てるとは。自分の美しさを、桔梗は分かっているのだろうか。俯いていた桔梗が視線を上げた瞬間、俺と目が合った。 カツンッ桔梗のヒールが床を叩いた音が、ガラスの扉越しに聞こえた。ガラス扉を開けると、空気がまた変わる。ほんのりと、熟成された果実のような、深みと奥行きのある上品な香り。深く吸い込む
last updateLast Updated : 2026-02-18
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四枚の絵の前をゆっくりと歩く。桔梗とは、歩幅を合わす必要はもうない。互いに一定の距離を保ったまま、自然に同じ速度になっている。俺たちの間に、会話はない。でも、沈黙は重くない。空気を共有しながら、俺たちは部屋の端についた。扉はない。ただ、次の部屋への入口が開いている。どうぞ、と誘うような開き方ではない。ぽっかりと、突き落とすような開き方で、自然と緊張が積もる。喉ぼとけを一度上下させて、一歩踏み出す。続きの部屋は、何もない。照明が落ち、ただ通路だけが続いている。隣の桔梗が、わずかに息を潜めた。「……ここ、やっぱり変ですね」俺の腕を桔梗が軽く引っ張る。止まってほしいという合図に足を止めると、腕に桔梗の重みがかかる。桔梗を見ると、訝し気に自分のハイヒールの靴の裏を見ていた。気持ちは分かる。俺も、足の裏の感触に違和感がある。「変なものを踏んだような感覚がします」「わざとだろうな」特殊な床材なのか、足音が吸われる。壁も床も暗く、距離感が曖昧になっていく。さっきまで見ていた四連花が、その部屋が遠くにいく。あれが、急に“過去”になった気がした。「ここが、五枚目の場所、なんでしょうね」「だろうな」歩いた感覚はなくても、歩いている。一歩踏み出せば、視線の先にあった仄かな照明は、俺の後ろに流れていく。俺の腕を掴む桔梗の手に、力が籠った。「怖いか?」「……少し……多分、ここにいる母が、私には理解できないからだと思います」「やはり、浮気していたことが……引っかかるか?」「そうではなく……私にとって、母は母なので、女の部分に違和感を感じてしまうのです」……女の部分、か。なるほど……俺がいま感じているこの忌避感めいたのは、桔
last updateLast Updated : 2026-02-19
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140

夢心地のまま美術館を出ると、夜の街の喧騒に包まれた。でも、俺はその音を感じられなかった。感じるのは、繋いでいる桔梗の手だけ。美術館スタッフから、うちの者が預けていた車の鍵を受け取り、エントランスに停められていた車まで桔梗をエスコートする。桔梗はまだ夢心地なのか、足取りはしっかりしているものの、俺の後をついてきているだけの感は否めなかった。 バタンッ車のドアが閉める音が、やけに大きく聞こえた。俺は、助手席に座らせた桔梗を見る。白いふわふわしたスカートが桔梗を包み込んでいるからか、白い大きな花束のようだ。運転席に座ると、俺は桔梗を見る。桔梗も、俺を見ていた。でも、まだ夢心地。どこか現実から半歩だけ遠いような、ふわふわとした顔をしている。「……帰るか?」言いながら、自分の声が少し低いことに気づく。質問しておきながら、桔梗の答えを求めていないことに気づく。いや、違う。桔梗の答えが分かっているから、聞けた。ふわふわとした顔の中に、熟成された女の色香があったから。「……帰りたく、ないです」桔梗の声は、小さかった。でも迷いはなかった。行き先は、決まった。車のエンジンをかける。体を揺らす重低音に、助手席の桔梗がビクッと震えたのを感じる。でも、それには触れない。サイドブレーキを解除して、アクセルペダルを踏んで、ハンドルを切る。いつもと同じ流れ。でも、今この瞬間だけは絶対にミスできないという緊張感で、手順を確認しながら車を発進させる。車は走り出す。自宅とは逆方向へ。桔梗は何も聞かなかった。どこへ行くのかも。理由が、分かったからだろう。静かに、助手席に座っている。でも、桔梗から漂う緊張感。心臓の音が聞こえてきそうだ。でも、それを指摘しない。揶揄うなど、もってのほか。この絶妙なバランスの上で成り立っている雰囲気は、些細な言葉で壊れてしまいそうだった。   *  「……ここ……」目的地が分かったところで、桔梗がか細い声をあげた。その声に、恐怖を感じ取ったが、俺は必死で気づかない振りをする。ここは、俺が桔梗に……桔梗と、取り返しのつかない一夜を過ごした場所。桔梗にとっては、忌まわしくて堪らない場所。俺にとっても愉快な記憶ではないため、俺たちは意識してここを話題にすることも避けてきた。でも、今夜、俺
last updateLast Updated : 2026-02-19
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