All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 131 - Chapter 140

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6-2

「それでお兄が嫁自慢するために、そのお弁当を毎週SNSに載せ始めたの」「初耳なのだけど? SNSの使い方を知りたかったのに、蓮司さんは知っていたんじゃない」「……それはさておき。そしたらうちの両親の対抗心がさく裂して、自分たちもSNSで嫁自慢を始めたの。そうなったら周りも『私も』ってなって、気づけばちょっとした流行みたいになっちゃって」「……みんなSNSをやっているの?」「え、まあ、うん……それはさておき、ね」一人納得した朋美さんによると、この音楽記号のような変なマークがついた【桔梗さんの手作り】って文字に触ると、同じ【桔梗さんの手作り】ってタイトル……みたいのがついた投稿が見られるらしい。この青い文字ってそういう意味だったのね。「どうしてみんな【桔梗さんの手作り】ってつけているの?」「作ってもらいたい料理があったとき、リクエストしやすいから」あっさりとした答えが返ってきた。言われてみれば、最近は「あれ、あれ」と曖昧に頼まれることが減り、「これこれ」ってスマホを見せられることが多かったかも。送られてきた写真を見ていたんだと思ったんだけど……SNS。「私、何も知らなかったのだけど」と呟くと、朋美さんは少しだけ申し訳なさそうに笑う。「裏でこそこそ結託してるって思われたくなかったし、何よりも、すっごく食い意地が張っているみたいじゃない、私たち」その言葉に、思わず小さく息をつく―――SNSがなくても、十分にそう思っていた。胸の内でそう呟きながら、改めて目の前の三人を見る。期待に満ちた視線と、少しの緊張、そしてどこか楽しそうな空気。どうやら私の知らないところで、私の作る料理は誰かにとって自慢したいものになっていたらしい。中の人という言葉の意味はまだ完全には理解しきれていないけれど。 .「私たち、動画の編集とか配信はできるんです。でも、肝心の“中身”が足りなくて……。撮影内容に困っていたら、朋美さんが『うちの義姉さんの料理すっごく美味しいから、本人も超美人で絶対に人気出るから』と言ってくださって。それで、もしよければ一緒に動画作っていただけませんか?」そう言って頭を下げた二人の様子は真剣そのもので、軽い気持ちで頼んでいるわけではないのが伝わってくる。私は思わず視線を朋美さんへと向けた。「だって、桔梗さん、料理はすっごく上手なのに、写真は
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6-3

姫川さんのSNSには、蓮司さんの名前は出てはいないものの、そう思わせる人が彼女の恋人として登場している。『彼』との外出や、『彼』からのプレゼントなど、それが嘘であることは私も分かっている。でも、それに対するコメントは嘘ではない。蓮司さんとお似合いだと他の女性が言われているのを見るのは、どうしても胸の奥がざわついてしまう。自分でも子どもじみているとは思う。見なければいいとも思う。それでも、見てしまうし、気になってしまう。その気持ちに押されるようにして、私はSNSに挑戦してみようとしたのだ。何か自分の得意を生かせないかと考え、思いついたのが料理の写真を載せることだった。けれど現実は甘くない。いざ撮影してみると、写真が上手に撮れない。動画にも挑戦してみたけれど、慣れない三脚の扱いに戸惑い、角度を調整しようとした拍子にバランスを崩し、倒れた衝撃でスマホがそのままボウルの中の生クリームに突っ込むという惨事に見舞われた。白いクリームに半分埋もれた黒い機械の姿は、あまりにも場違いで、しばらく現実を受け入れられなかったほどだ。あのときの衝撃と絶望感は、思い出すだけで顔が熱くなる。自分でも無謀だと思ったから、誰にも言わずこっそりやっていたのに―――どうしてそれが知られているのだろう。「互いの才能を生かせればWin-Winだと思うんだよね」朋美さんは軽やかに言う。その言葉に、後輩の二人も何度も頷いている。「それで……」と続きを促され、私は少しだけ考え込む。確かに、彼女たちの言うことには理がある。私には料理という強みがあって、彼女たちには撮影や編集の技術がある。それを組み合わせれば、確かに良いものができるのかもしれない。頭では理解できるし、ありがたい申し出だとも思う。けれど―――胸のどこかで引っかかるものがある。まるで当然のように「桔梗さんは機械が苦手だから」という前提で話が進んでいる気がするのだ。私はそこまで機械に弱いのだろうか。確かにスマホを自在に使いこなしているとは言えないし、専門的な用語もよく分からない。けれど、それは誰だって最初は同じなのではないだろうか。そう思いながらも、先ほどの生クリーム事件が脳裏をよぎり、反論する自信が少しずつしぼんでいく。「……私、機械音痴なのかしら」ぽつりと漏らした呟きに、三人が一瞬きょとんとしたあと、ほぼ同時に「うん」と頷いた
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6-4

「ホワイトバランス合わせます」軽やかに告げられたその言葉に、私は一瞬だけ瞬きをした。……ホワイトバランス? 聞き返そうと口を開きかけて、けれどすぐに閉じる。周囲を見渡せば、誰一人として疑問に思っている様子はなく、むしろ“それくらいは当然”とでも言いたげな空気が流れている。ここで尋ねれば、自分がどれほど機械に疎いかを改めて露呈するだけな気がして、私は何も知らないふりをして頷いた。「桔梗さん、立ち位置が違います。バリのところにお願いします」……ばり? 一瞬、頭の中に浮かんだのは南の島の名前だったけれど、さすがに違うだろう。「一歩だけ、右にお願いします」ああ、位置のことらしいと理解して、私は言われた通りに一歩動く。「逆です」ぴたりと止まったまま、思わず自分の足元を見る。確かに右に動いたはずなのに、どうして逆なのだろう。「モニターの中央に立ってください」と続けられて、ますます混乱する。モニターとはどれだろう。いや、そもそもどこを基準に中央なのか。「モニターはこれです」と指し示された先には、先ほどから見慣れないと思っていた画面があった。ああ、あれがそうなのかと納得しながらも、「中央に」という言葉に再び戸惑う。「私、いま右側にいますよね?」と確認すると、「画面だと逆になるんですよ」とあっさり返される。……なるほど? 分かったような、分からないような感覚のまま、とりあえず指示に従って動くしかない。「あ、モモ、そこだと影が入る」「はーい。桔梗さん、半歩戻ってもらっていいですか?」戻る、と言われて一歩引く。「あ、戻り過ぎです。半歩で」半歩、と言われても、普段の生活で半歩という単位を意識することなどほとんどない。私は少しだけ足を前に出し直しながら、これで半分なのか、それともまだ多いのかと考える。それとも、私だけがこんなところで戸惑っているのだろうか。「じゃあ、テスト撮りしますね」「一回、手元からいきましょう。桔梗さん、適当に動いてください」適当――この世で最も曖昧で、そして最も難しい指示ではないだろうか。何をすれば正解なのか分からないまま、とりあえず右に左にと身体を動かし、少しだけずれていたエプロンを整えてみる。「いいですね」「うん、とても自然です」二人の言葉に、思わず内心で首を傾げる。今のどこが良かったのだろう。けれど、考えすぎな
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6-5

「もうちょっと斜めでお願いします」軽やかに飛んできた指示に、私は一瞬だけ動きを止めた。……斜め。斜めとは、どの方向に、どの程度なのだろう。「逆です」間髪入れずに返されて、思わず自分の立ち位置を見下ろす。逆とは、上下なのか、それとも左右なのか。そもそも今の私はどちらに傾いていたのかすら分からないまま、なんとなく身体を動かしてみるが、正解に近づいている気配はない。私が戸惑っている間にも、相沢さんと水野さんの会話は淀みなく進んでいく。「ISOもう少し下げようか」「そうだね、このままだと粒立ちそう」「音、大丈夫?」「必要ならあとでアテレコかな」――二人とも、何語を話しているのだろう。耳には日本語として届いているはずなのに、意味だけがするりと抜け落ちていく。専門用語というものは、どうしてこうも壁のように立ちはだかるのかと、内心でため息をついた。けれど、このまま黙っていては、私は永遠に“なんとなく動いている人”のままになってしまう気がした。「すみません」思い切って声をかけると、二人はぴたりと動きを止め、同時にこちらを振り向いた。作業の流れを止めてしまったことに少し申し訳なさを覚えながらも、私は小さく息を吸う。「あの、ちゃんとできてますか?」自分でも驚くほど素直な問いだった。二人は一瞬きょとんとしたあと、顔を見合わせ、そしてまた私を見る。「大丈夫です」「すごく初めて感があっていいです」――それは、大丈夫なのだろうか。安心していいのかどうか判断に迷う言葉に、私は曖昧に頷く。「視聴者さん、絶対に好きなやつですから」「こんな面白いとは思わなくて、メイキング映像も作る予定です」「分からなくて困った感じがよかったですよ」どうやら、私が困っていること自体が“良い”らしい。けれど、いまも現在進行形で困っているのだけれど、それについて助けてもらえる気配はあまりない。むしろ、そのままでいてほしいと思われているような空気すらある。「はい、それでは本番です!」ぱん、と相沢さんが手を叩いた音に、場の空気が一段階引き締まる。心の準備をする暇もなく、「桔梗さん。今日は何を作ってくださるんですか?」と問いかけられる。「えっと……家族にいつも作っているお弁当を作ろうと思います」そう答える。「いいですよ!」「自然体で!」「笑顔で!」「カメラを忘れて
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6-6

撮影した動画が配信されてしばらく経ったある日、「コメントが届いた」と水野さんたちから紙に印刷されたものを手渡された。隣でそれを見ていた蓮司さんは「紙だよな」と納得したように笑っていた。ハイテク機械オンチである気はするど、データが読めないわけではない。でも、わざわざ印刷してくれたのは、そういう理由なのかと思っていたら。「形に残るほうが実感あるからな」蓮司さんに彼女たちの気遣いだと軽く言われた。確かに、手に持った紙は少しだけ重みがあって、誰かの言葉が自分の元まで届いたのだという実感を伴った。白い紙に並んでいたのは、見知らぬ誰かたちの率直な感想だった。【撮影はわちゃわちゃしているのに、完成した料理が完璧で笑えた】思わず頬が熱くなる。あの撮影の混乱ぶりを思い出せば、笑われるのも無理はない。カメラの位置がずれているだの、音が入っていないだの、やり直しの連続で、正直なところ料理どころではなかった。それでも最終的に形になっていたのなら、それはきっと編集の力だろう。【レシピ試した。十分で完成したのに、旦那に今日は手が込んでるって言われた】その一文には、じんわりと胸が温かくなる。誰かの食卓に、自分の作ったレシピが並んでいる。想像しただけで、少し誇らしい気持ちになる。【すごく美味しそう。毎日これを食べられる家族が羨ましい】そこまで言われると、さすがに照れてしまうけれど——。「そうだ、羨ましがれ!」コメントの話をしていたら、朋美さんがそう言った。何かを咀嚼するくぐもった声。振り向くと、朋美さんがにやりと笑いながら、お弁当用に作っておいたばかりのだし巻き卵をつまみ食いしている。しかも、片手にはスマホ。コメントを覗き込みながら、もう片方の手で卵を摘まんで口に運ぶという、なかなかの自由さだ。ダブルでお行儀が悪い。「……せめてどちらかにしない?」呆れ半分で言うものの、朋美さんは気にする様子もない。むしろ「だって美味しいんだもん」と開き直っている。仕方がないので、私は静かにフライパンの中のだし巻き卵を見やった。数を数える。……ひとつ足りない。いや、もうひとつ減った。「それ、蓮司さんたちのお弁当用」「大丈夫大丈夫。ちょっと少なくてもバレないって」「半分になればバレるわ」きっぱり言い切りながら、私は心の中でそっと手を合わせた。ごめんなさい、武司さん。今日のお
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6-7

スタジオに足を踏み入れた瞬間、いつもと違う空気に思わず足が止まった。照明の位置が微妙に変わっているせいか、あるいは単純に機材の数が増えているせいか、空間全体が少しだけ狭く感じる。見慣れてきたはずの場所なのに、今日はやけにごちゃごちゃして見えた。「……なんだか増えていませんか?」思わずそう呟くと、「あ、分かります?」と水野さんが笑いながら振り返る。その視線の先には、黒くてつまみがいくつも並んだ、いかにも機械らしい存在感を放つ機材が鎮座していた。無骨で、けれどどこか頼もしそうなそれを、私はまじまじと見つめる。「この、黒い機械は何かしら?」恐る恐る尋ねると、水野さんはあっさりと答えた。「それはミキサーです」「へえ……ミキサー」料理で使うあのミキサーしか思い浮かばなくて、私はしげしげと機械を眺める。刃は中にあるのか、見当たらない。けれど“ミキサー”だ。料理番組にも「カットしたものがこちら」と出てくる。「これ、どこから入れるんですか?」「え、何を?」「野菜とか……ごめんなさい、違いますね」言いながら自分でも間違いに気づいて、そっと視線を逸らす。「多分、違いましたね」水野さんが苦笑する。その後ろから、堪えきれないような笑い声が弾けた。「ふふっ、さすが桔梗さん……」聞き覚えのある声に振り向くと、そこには肩を震わせて笑う武美さんの姿があった。「もしかして……」「うん、今日は私も出演することになったの。声だけだけど、よろしくね」そう言って軽く手を振る武美さんに、私は思わず背筋を伸ばす。「そうなんですね。それなら、少し特別感を出しましょう」「いいね、初回限定プレミアって感じでお願い」軽口を交わしながらも、どこか楽しげな空気がスタジオに広がる。こうして誰かが増えるだけで、場の温度が少し変わるのが不思議。やがて準備が整い、撮影が始まる。カメラが回っているとはいえ、基本的には後で水野さんが編集してくれるため、細かいことは気にせずいつも通りに作っていいと言われている。その“いつも通り”が、私にとっては一番やりやすい。「相変わらず手際がいいよね。桔梗さん、いつも作るとき何を考えてるの?」背後から武美さんの声が飛んでくる。包丁を動かしながら、私は少しだけ考えてから答えた。「今日は何分で作り終えるぞ、でしょうか」その瞬間、武美さんが「ぷはっ」
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6-8

結婚した当初のことを思い返すと、今でも少しだけ頬が熱くなる。蓮司さんが武美さんとばかり外出していた時期があって、そのたびに胸の奥がざわついて、どうしようもなく落ち着かなかった。あの頃の私は、自分でも驚くほど素直に嫉妬していたのだと思う。けれど、今となってはそれも懐かしく、そして少し恥ずかしい思い出だ。その後、武美さんから直接話を聞く機会があった。実は彼女にはすでにパートナーがいて、いわゆる結婚しているような関係なのだという。法律上の扱いは日本では独身になるらしいけれど、彼女自身ははっきりと「精神的には既婚者だから」と言い切った。そのうえで、「蓮司とは何もないから安心して」と、まるでこちらの心の内を見透かしたかのように熱弁してくれたのだ。さらに、「もし嫌なら、蓮司とは縁を切るから、私とは仲良くしてほしい」と真顔で言われたときには、さすがに笑ってしまった。そこまで言い切れる人なのだと分かった瞬間、妙なわだかまりはすっと消えてしまったのを覚えている。武美さんとそのパートナーは、現在スウェーデンで暮らしている。以前教えてもらった住所は「Vinterdal slott」。直訳すれば“冬の谷の城”という意味になるらしく、その響きから私は勝手に、石造りの城に雪が積もる光景を想像している。そんなお城に住む人がどんな方かは分からないけれど、武美さんの雰囲気からして幸せだと言うことは分かる。パートナーについては気になるけれど、聞いてはいない。武美さんも英家の人たちも詳しく語ろうとはしないし、知らなければいけないことでもないから私はそれを無理に聞こうとは思わない。こういうことは、他人が踏み込むべき領域ではない。何より、それを知らなくても武美さんという人の魅力が損なわれることはまったくない。むしろ、私にとって彼女は文句のつけようがないほど尊敬できる人物。医師免許を持つ武美さんは、長年にわたって難民キャンプで医療活動を続けてきたという。そこで出会ったのが、同じく医師である現在のパートナーだとまで聞いている。スウェーデンは難民支援に積極的な国であり、二人は今、その“城”で多くの難民孤児を育てているらしい。だが、国からの支援はあるものの、それだけで十分というわけではなく、日々の生活には想像以上に多くの物資が必要になるのだという。そのため、武美さんは定期的に日本へ来ては、必要な
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6-9 side蓮司

「桔梗の動画チャンネルがすごいことになっている」思わず低い声が出たのは、これが世間話の範疇でないから。俺の言葉は、やけに乾いた響きを持って部屋に落ちる。普段の武司なら軽口の一つでも飛ばすところだが、今はそんな余裕がないらしい。「登録者数の伸びもあれだけど、これ時価にしたらいくらになるのかな」そう言いながら武司はパソコンの画面と手元のタブレットを交互に見比べている。その顔は、明らかに青ざめていた。きっと、同じものを見ている俺の顔も似たような色をしているのだろう。「いずれ人間国宝といわれている石川明梗初のデジタルアートが、個人の動画サイトのプロフィール画像って、おいおいおい、蓮司、知らなかったのか?」半ば呆れたように、半ば信じられないといった調子で言われる。「知らなかった」短く答えたが、正確には“分からなかった”というほうが近い。「桔梗からは石川先生が丸を描いてくれたとは聞いていたが、まさかアイコン画像とは思わなかった」「丸……確かに、丸だな。これは丸だ。蓮司、それを聞いてなんだと思ったんだ?」「よくできました的な、花丸みたいなものかと」そう言うと、武司は深々とため息をついた。「……お前も大概だな」自覚はある。だが、まさかあの“丸”が、そんな価値を持つものだとは想像できるはずもない。武司が操作した画面に、例の動画が再生される。石川明梗が出演した回だ。落ち着いた口調で語られる言葉の一つ一つに、どこか独特の重みがある。『桔梗さんの活動を見て、私も美術界の若者を後押しすることにしたんだよ。今までは奨学制度の設立とかに協力していたけれど、絵画教室や美術学校に絵の具を寄付することにしたんだ。全部のってわけにはいかないからくじ引き的な感覚で、当たったらラッキーくらいに感じてくれるといいな』画面の中の桔梗が、少し驚いたように目を瞬かせる。『それは面白そうですね』『そうだろう? 画材も高いからね。私たちの時代は鉛筆も短くなったら紙を巻いて最後まで使っていたよ』さらりと語られる過去に、積み重ねてきた年月の重さが滲んでいる―――が。次の瞬間、石川は手近にあった藁半紙のような紙を取り、何気ない手つきで鉛筆を走らせた。まるで手持無沙汰の落書きのように、さらさらと線が重なっていく。それだけなのに、そこに現れたのは確かに桔梗だった。『やっぱりお上手です
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6-10

会議室に入ると、すでに桔梗たちが席についていた。ガラス張りの壁越しに差し込む午後の光が、無機質なテーブルの上に柔らかく広がっている。その中で、見慣れたはずの姿がふと目に入った瞬間、胸の奥にわずかな違和感――いや、新鮮さのようなものが生まれた。「蓮司さん」ほんの数時間前、自宅の玄関で見送られたばかりだというのに、こうして会社という場で顔を合わせるだけで、どこか別人のように見えるのだから不思議だ。場所が変わるだけで、人の印象はここまで変わるものなのかと、妙に感心してしまう。「よく来たな。ここまで何も問題はなかったか?」「いつも蓮司さんが出勤している道ではないですか。長谷川さんも一緒ですし、大丈夫ですよ」いつもより少しだけ柔らかい声でそう尋ねると、桔梗はあっさりと答えた。確かに、その通りだ。心配しすぎかもしれないが、こうして確認せずにはいられないのは桔梗が大事だからだ。「それなら良かった。君たちも、よく来てくれたな」視線を横に移すと、相沢陽菜乃と水野百花が少し緊張した面持ちで座っている。初回の撮影以来の顔合わせ、というわけではない。桔梗には内緒だが、俺はすでに二人と何度か会っている。理由は一つ、あの石川明梗が描いた桔梗の絵を、確実に受け取るためだった。本来ならば宅配でも済む話だったのかもしれないが、あの価値を知ってしまった以上、軽々しく扱う気にはなれなかった。結果として、俺が呼び出した形になってしまい、二人には随分と慌てさせてしまったが――思い出すのは、あのときの必死な弁解だ。  『すみません、すみません、出来心でついっ!』  『石川先生が、捨てるのもなんだからチャリティ的な意味合いでオークションに出してみたら? と仰ったので……』  『“一万円くらいになるといいね”って軽く仰っていたのに、まさか百二十万円になるなんて……』あのときの二人の顔は、今でもはっきり覚えている。半ば泣きそうでありながら、その額で落札した俺を責めるような表情だった。無理もない。彼女たちからすれば、出すほうも出すほう、買うほうも買うほうと言いたかったのだろう。だが、美術品の価値など所詮はそんなものだ。いいと思った人間が、その価値に見合うと信じた金を出す。それだけの話だ。そして俺は、桔梗の絵を自分の仕事場の壁に飾ることができている現状に、心の底から満足している。·「
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6-11

「折々舎、いい名前じゃないか」武司が感心したように呟きながら、先ほどまで挨拶に来ていた相沢と水野の名刺を指先でつまみ上げる。白地に落ち着いた書体で刷られたその名刺は、余計な装飾がない分だけ、かえって強い印象を残すものだった。「四季折々、日常の一瞬を切り取る時間を提供する、か……悪くないどころか、かなりいい」名刺に添えられていた説明文を読み上げながら、武司は満足そうに頷く。「そうだな」俺も同意する。若い二人が、自分たちで考え、選び、形にした名前だと思うと、それだけで価値があるように思えた。ただ同時に、どこかくすぐったいような感覚もある。成長を喜ぶ気持ちの奥に、ほんのわずかに混じる感情――それが何なのかを言葉にするのは難しいが、あえて言うならば、自分たちが“見送る側”に回りつつあるという実感だろうか。「俺たちもオッサンになったなあ」ぽつりと漏らした武司の言葉に、「そうだな」と苦笑交じりに返す。ついこの前まで、自分たちはまだ若い側にいるつもりでいた。だが、それはあくまで“つもり”でしかなかったのかもしれない。気づけば後進ができ、こうして相談を受け、助言をする立場になっている。「お前なんて、二歳の子どもがいる父親だしな」「“なんて”とは、なんだ」軽口に軽口で返しながらも、内心ではその言葉を否定しきれない自分がいる。·先日、誠司が二歳になった。まだ幼いながらも、言葉はずいぶんと増え、簡単な会話なら成立するようになってきた。仕事から帰ると、膝の上にあの子を乗せてその日の出来事を聞く時間が、俺の日課になっている。「きょう、なにした?」と聞けば、たどたどしい言葉で一生懸命に説明してくれる。その様子を見ているだけで、疲れなど簡単に吹き飛んでしまう。隣に桔梗がいて、静かに微笑んでいる光景まで揃えば、それ以上の癒しはない。「独身の年を重ねるスピードが半分になるわけじゃないだろうが」「まあ、そうだけど……気分?」武司は肩をすくめる。「気分」の一言で片付けられるあたり、こいつらしいとも思う。「気分と言えば」と言いながら、武司は名刺の社名部分を指でなぞった。「この字って……」「ああ、そうだ。人間国宝の玄峯先生が書いた」その答えに、「やっぱりな」と頷く武司の反応は、石川明梗のときほど大きくはない。石川明梗の場合は“初のデジタルア
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