All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 1 - Chapter 10

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1-2

「まさか……あそこまでするなんてね……」乾いた呟きが、自分の耳にさえ他人事のように響く。あの夜に起きたすべては、偶然でも不運でもなかった。継母である玲子さんと、その娘である異母妹の桜子――中途半端に繋がった家族によって、最初から最後まで綿密に仕組まれていたものだったのだと、今なら分かる。だが、その事実を理解できたのは、すべてを失った後だった。あのときの私は、まだ疑うことを知らなかったし、疑うべき相手が誰なのかも知らなかった。.*.あの夜、私をホテルへ呼び出したのは玲子さんだった。父たちはそのホテルで開かれていたパーティーに参加。三人だけで。場の空気は華やかで、私には縁のない世界だった。午後十時を回った頃、玲子から連絡が入る。  『桜子が酔ったから、部屋に来て介抱しなさい』―――命令のような口調だった。断るという選択肢は最初から存在しない。私はただ「分かりました」と応じるしかなかった。向かうホテルは、名前を聞いただけで緊張してしまうような格式の高さを持っていた。場違いにならないようにと、私は桜子から半ば押しつけられたワンピースに袖を通した。「好みじゃないからあげる」と言われたそれは、確かに私の趣味ではなかったが、普段の自分よりも少しだけ華やかに見える服。アクセサリーは何も持っていないから、せめてといつもより少し濃いメイクを施す。鏡に映る自分は、見慣れた自分とは少し違って見えた。こんな状況でなければ、素直にお洒落を楽しめたのかもしれない―――そんな場違いな感情が、ほんの一瞬だけ胸をよぎった。.フロントで「花嶺です」と名乗ると、何の確認もなく部屋番号を告げられた。その対応の滑らかさに、改めてここが自分の知らない世界なのだと実感する。告げられた部屋は高層階にあり、エレベータを降りて廊下に出た瞬間、その静けさと空間の広さに息を呑んだ。部屋と部屋の間隔が広く、まるで一つひとつが独立した空間のように感じられる。おそらくスイートルームだろうと察しながら、私は内心で苦いものを噛みしめていた。花嶺家は、父の代になってから明らかに傾いている。表向きには取り繕っているものの、実際には家計のやりくりをしているのは私だから知っていた。同じく知っているはずなのに、父も玲子さんも平然と贅沢を重ねる。その矛盾に慣れてしまっている自分が、少しだけ嫌だった。
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1-3

一難去ってまた一難――その言葉は、あの夜の私のために用意されていたのだと、今ならはっきり分かる。. * .あの部屋から逃げ出し、夜の街に放り出されたとき、肺に入ってきた外気がやけに冷たくて、現実に引き戻された気がした。震える手でタクシーを止め、行き先を告げる声は自分でも驚くほど平坦だった。運転手は何も聞かず、ただ静かに車を走らせる。バックミラー越しに一度だけ目が合った気がしたが、すぐに視線を逸らされた。それは無関心だったのか、それとも見て見ぬふりをされたのか。当時の私には判断する余裕もなかった。ただ、誰にも触れられず、誰にも問われずに家まで辿り着けたことだけが、かろうじて残った安堵だった。.玄関をくぐったとき、ようやく終わったのだと、そう思い込もうとした。すべてを忘れる。なかったことにする。そのためには、いつも通りの自分に戻るしかない。そう言い聞かせながら、自室へ向かう廊下を歩き出した―――そのときだった。  『遅かったわね、旦那様がお待ちよ』低く、抑えた声が前方から落ちてきた。顔を上げると、そこには玲子さんと桜子が、まるで舞台の幕開けを待っていたかのように立っていた。逃げ場はないと、瞬時に理解する。偶然ではない。待ち構えていたのだ。この瞬間を。私が帰ってくることも、この姿で現れることも、すべて分かっていたのだろう。二人は何も知らないふりをしているが、その目の奥には確かな確信があった。何があったのかを知っている者の目だった。―――当然だ。あの夜を仕組んだのは、あの二人。私は何かを言おうとしたが、声は喉の奥で絡まり、形にならなかった。その隙を逃さず、二人は両側から腕を掴み、抵抗する間もなく引きずるようにして歩き出す。床に靴底が擦れる音だけがやけに大きく響いた。廊下の途中、窓ガラスに自分の姿が映り込む。思わず目を逸らしかけて、けれど逸らしきれなかった。そこにいたのは、見慣れたはずの自分とは似ても似つかない何かだった。髪は乱れ、化粧は涙と汗で崩れ落ち、ワンピースは皺だらけで、ところどころが歪んでいる。まるで別人のようなその姿に、思わず息を呑んだ。こんな状態でタクシーに乗り、ここまで帰ってきたのかと、場違いなことを考える。よくもまあ、何も言われずに乗せてもらえたものだ――そんな現実逃避めいた思考が、かろうじて心を保たせていた
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1-4

父は婚約破棄に際して慰謝料を支払うと申し出たが、柾はそれを静かに拒んだ。その代わりに口にしたのは、桜子との婚約という、あまりにも露骨で、あまりにも都合のいい願いだった。場の空気が一瞬だけ凍りついたように感じたのは、きっと気のせいではない。だが、その沈黙はすぐに解けた。玲子さんは驚く素振りすら見せず、むしろ「それが当然である」と言わんばかりに穏やかに頷き、桜子はわずかに視線を伏せながらも、隠しきれない期待をその表情に滲ませていた。すべては既定路線だったのだと、そのときの私はまだ完全には理解できていなかったが、空気の流れだけは確かに感じ取っていた。.柾さんは由緒ある錦野家の長男であり、その家名が持つ重みは、今の花嶺家にとってはもはや抗いようのない現実だった。もともと両家には古くからの付き合いがあり、私と柾さんの婚約も錦野家側からの打診によって成立したもの。形式的には対等な縁談だったのかもしれないが、その実、当時の花嶺家にはそれを断る余地などなかったはずだ。祖父が存命だった頃であれば、まだ違ったのだろう。先見の明に優れ、家を堅実に守ってきた祖父であれば、柾さんという人物の本質や、その背後にある思惑にも気づけたのかもしれなかった。だが祖父は既に亡く、その後を継いだ父には当主としての器量が決定的に欠けていた。家業は年々傾き、帳簿を握る私の手元には常に赤字の影がちらついていた。祖母もまた祖父を追うようにこの世を去り、かつての花嶺家の面影は急速に失われていった。母がぽつりと漏らした「お二人に家が壊れていくところを見せずに済んでよかった」という言葉を、あのときの私は理解しきれなかった。だが、今なら分かる。今の花嶺家は、錦野家という後ろ盾があるからこそ、かろうじて体裁を保っているに過ぎない。その事実を、柾はどこまで理解していたのだろうか。おそらく、ほとんど知らなかったのではないかと思う。だからこそ、あれほど軽やかに「代わりに桜子を」と言えたのだろう。もし花嶺家が崖っぷちに立たされていることを知っていれば、あの提案はもっと別の形を取っていたはず。あるいは、最初から別の手段で同じ結果を導こうとしたかもしれなかった。だが、父はその申し出をほとんど逡巡することなく受け入れた。そこにあったのは家の存続を守るための冷静な判断だったのか、それともただ
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1-5

婚約破棄の後、私は父に謹慎を命じられた。表向きの理由は「世間体」と「反省」だったが、実際には外聞と、母の実家である西園寺家の目を気にした、いかにも父らしい保身の判断だった。あの夜のことがどこかに漏れれば、花嶺家の体面は簡単に崩れる。だから私を閉じ込め、存在ごと静めてしまう。それが一番手っ取り早いと考えたのだろう。.部屋に押し込められた最初の数日は、時間の感覚が曖昧だった。カーテンの隙間から差し込む光で朝と夜を判断し、与えられた食事を機械的に口に運ぶだけの日々。そのことをいま思い返すと、何度も頭をよぎるのは「病院に行くべきだった」という後悔。あのとき、どうにかして足を動かし、アフターピルを処方してもらっていれば、少なくとも今の状況だけは避けられたのかもしれない。だが現実の私は、そんな判断すらできなかった。あの夜の記憶を思い出さないことに必死で、ただ「なかったことにする」ために、思考そのものを止めていたからだ。それはあまりにも致命的な逃避だったが、当時の私にはそれが限界だった。結局、過去を変えることはできない。「あのときこうしていれば」という思考は、何も生まない無駄な繰り返しに過ぎない。.謹慎期間は明確に区切られてはいなかったが、長くは続かないと分かっていた。あの三人は、日常のほとんどを私に依存していたからだ。「無料で使える便利な家政婦」――そう笑っていたのは、玲子さんと桜子だった。けれど、その言葉の裏にある現実には気づいていなかった。私がいなければ、家は回らない。実際、数日も経たないうちに、家の中は目に見えて乱れ始めた。食事の時間はずれ、掃除は行き届かず、父の仕事に必要な書類の整理も滞る。彼らは家事というものを「そんなこと」と軽んじていたが、その「そんなこと」さえ自分たちでは満足にこなせないのだと、ようやく思い知らされたのだろう。結局、謹慎は形だけのものとなり、私は再び日常へと引き戻された。家計を管理し、父の仕事を手伝い、玲子さんの代わりに付き合いのある夫人たちへ手紙を書き、桜子の代わりにお茶会の準備を整える。やるべきことは以前と何一つ変わらない。ただ一つ違っていたのは、私の内側だった。あの夜を境に、何かが決定的に失われたのだと思う。怒りも、悲しみも、羞恥も、すべてが遠くなり、ただ目の前の作業を処理するための器だけが残ったような感
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1-6

家を出てすぐ、玲子さんから渡された小切手は、迷うことなく現金に換えた。躊躇する理由はなかったし、ためらっている余裕もなかった。小切手は、口座に残高があって初めて意味を持つ紙切れ。ためらっている間に資金が消えれば、それで終わる。だから私は、家を出てすぐに換金の手続きを済ませた。あの家での私は、家計も資産管理もすべて任されていた。換金の手際の良さは、長年あの家の金を扱ってきた経験の賜物だったのだと思うと、少しだけ皮肉だった。.父も玲子さんも面倒なことを嫌い、数字を見ることすら避けてきたから、その皺寄せはすべて私に回っていた。だからこそ、私は知っている。あの二人の口座にどれだけの金があり、どれだけの支出が重なっているのかを。私が玲子さんに要求した金額は、衝動で決めたものではない。あの夜、玲子さんが身につけていたドレスと宝飾品――それらをすべて合わせた額だ。彼女が鏡の前で「このくらいのお金」と軽く笑いながら身にまとっていた、それと同じ重みを、私はそのまま小切手に乗せた。だから、あのとき玲子さんがほとんど迷いなくサインしたのも理解できる。彼女にとっては、あれはあくまで「このくらい」の範囲でしかなかったのだろう。だが、その「このくらい」を捻出するために、私がどれほど帳簿とにらめっこをし、削れる支出を探し、頭を下げ、やりくりを重ねてきたのか―――彼女は一度たりとも考えたことがない。あの家にとって、その額は決して軽いものではない。むしろ、綱渡りのように保っていた家計にとっては致命的な一撃に近い。それでも私は躊躇しなかった。あれは対価ではない。清算だと、自分の中で位置づけていたからだ。.あれから二ヶ月たった。あの口座の残高がゼロになっていることには、さすがに気づいているはずだ。いつ気づいただろうかと、ふと考える。クレジットカードが弾かれた瞬間か、それとも支払いの督促状が届いたときか。あるいは、何気なく通帳を開いたときに、初めて現実を突きつけられたのかもしれない。そのとき、あの三人がどんな顔をしたのか―――想像すると、わずかに皮肉な感情が胸をかすめる。見られなかったことを、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまう自分がいる。.手に入れた資金で、まずは生活の拠点を確保した。選んだのは、家具や最低限の設備が整っているウィークリーマンションだった。長期的
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1-7

『花嶺桔梗』という名前には、ずいぶんと都合のいい虚飾が貼り付けられている。都内の名門お嬢様学校に通い、そのまま都内の短大へ進み、卒業後は優雅に遊び暮らしている―――そんな筋書きが、いつの間にか出来上がっていた。けれど、そのどれもが事実ではない。真実は、もっと地味で、もっと現実的で、そして誰にも顧みられないものだった。確かに、私はあの学校に通うはずだった。母親の母校なので、通いたくもあった。だが「資金が足りない」という理由でその希望は叶えられず、代わりに私は県立高校へと進むことになった。進路を決める場面で、私の意思が問われたことは一度もない。  『大学に行きたいなら自分で行け』父にはそう言われ、私は母の遺したわずかな遺産と奨学金を頼りに、地方の国立大学へ進学。華やかさとは無縁の選択だったが、不思議と後悔はなかった。大学を指定されなかったからか。自分で選んだという感覚が、そこには確かにあった。もっとも、家族の世話という役割から解放されたことが大きい。思い返せば、年中無休で家のことを担っていたのは、中学生の頃から変わらない。朝食の準備、洗濯、掃除、買い出し、父の仕事の補助、玲子さんの代わりの雑務、桜子の気まぐれな要求の処理―――それらは日常として当たり前に存在していた。でも、大学を卒業すればまた元に戻る。それは解かっていたから、大学生活で多少自由な時間を得ても、それを「楽だ」と感じるだけで、「自由だ」とは思えなかった。.華乃と出会ったことが、大学に行った一番の財産だ。同じ学部で、同じ学生専用アパートの隣室。最初はただの隣人だったが、生活のリズムや価値観が妙に噛み合い、自然と会話が増えていった。やがて利害が一致し、後半の二年間はルームシェアという形で共同生活を送ることになる。あの頃の生活は、振り返れば不思議なほど穏やかだった。互いに干渉しすぎず、必要なときには支え合う。そんな関係が、私にとってどれほど救いになっていたのか、当時は自覚していなかった。華乃は母一人に育てられた。彼女の母親が、仕事と家事と育児に追われる姿を間近で見てきた経験が、彼女の価値観を形作っている。家事は誰か一人が背負うものではなく、仕組みとして外部化できるものだと考え、その発想から彼女は大学在学中に準備を始め、卒業と同時に『コンシェルジュ・ド・ハウス』を立ち上げた。家事
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【第二章:東国美香】

「おはよう」朝の静けさをやわらかく破る声に、私は手を止めずに軽く顔を上げた。ちょうど朝食の仕上げに取りかかっていたところで、キッチンには焼き上がるパンの香ばしい匂いと、出汁のほのかな香りが混じり合っている。リビングの扉を開けて入ってきたのは、この家の主人である菊乃井和美様だった。七十を過ぎていると聞いているが、その姿からは年齢を感じさせる衰えはほとんど見えない。背筋はすっと伸び、足取りも軽やかで、無駄のない動きには長年積み重ねられてきた品格が滲んでいる。最近体調を崩されたために家政婦を雇ったと聞いてはいるが、少なくとも朝のこの時間帯に限って言えば、その必要性を疑ってしまうほどに凛としている。「美香さん、コーヒーをいただける?」穏やかでありながらもよく通る声が、室内に落ちる。私は「かしこまりました」と応じながら、改めて自分の名を胸の中でなぞる。東国美香――ここでの私の名前だ。本来の名前を捨てると決めたとき、もっと奇抜なものにすれば面白いと華乃は冗談めかして言っていたが、あまりに現実離れした名を名乗る気にはなれなかった。過去を切り離すための仮面であっても、それが自分から浮いてしまっては意味がない。だから私は、どこにでもありそうで、それでいて自分に馴染む名前を選んだ。.和美様が椅子に腰を下ろしたのを確認してから、私はコーヒーの準備に取りかかる。豆を挽く音が静かに響き、やがて立ちのぼる香りが空間を満たしていく。和美様はイギリス人の父を持つハーフで、もともとは紅茶を好まれていたと聞いているが、十年ほど前に亡くなられたご主人の影響でコーヒー党に変わられたらしい。そうした小さな嗜好の変化の中にも、誰かと過ごした時間の名残が残っているのだと思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなる。「いい匂いね」その言葉とともに、和美様の表情がふっと緩んだ。普段の彼女は、端正な顔立ちも相まって厳かな貴婦人といった印象が強い。けれど、こうして何気ない瞬間に見せる柔らかな笑みは、その印象を一瞬で覆すほどに温かい。いわゆる“ギャップ”というものなのだろうか――そんな言葉が頭をよぎるが、それを軽々しく当てはめるのがためらわれるほど、その変化は自然で、そして魅力的だった。コーヒーをカップに注ぎ、トレイに載せて運ぼうとしたそのと
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2-2

「ドラマを見てたらパンが美味しそうで、ランニングついでに買ってくるかなってパン屋を検索していたの。でもね、見れば見るほど思ったのよ。美香さんの作るパンのほうが絶対に美味しいって。気づいたらもう、口の中が完全に美香さんの手作りパン状態だったの」勢いよく言い切る朋美様に、思わず小さく笑みがこぼれそうになる。その表現は少し大げさで、けれどどこか真っ直ぐで、聞いているこちらまで温かい気持ちになるものだった。「気持ちは分からなくもないわ。美香さんのお手製のパンは本当に美味しいもの」和美様も穏やかに頷き、カップを手に取りながら同意する。その声音には誇張はなく、ただ事実として認めている落ち着きがあった。「だよね。美香さんのパンに比べたら、他のなんて『ハン』か『バン』よ。何かが足りないか、もしくは何かが余計」朋美様の独特な言い回しに、和美様の口元がわずかに緩む。「美味い例えだわ」くすりと小さく笑うその様子は、普段の厳かな印象とはまた違い、年齢を忘れさせる柔らかさがあった。.二人のやり取りを聞きながら、私はトースターから取り出したパンを皿に並べる。こんなふうに自分の作ったものを自然に褒めてもらえることに、いまだに少しだけ戸惑いがある。かつては、どれだけ手間をかけても当然のように受け取られ、少しでも気に入らなければ文句を言われるのが当たり前だった。評価されることも、感謝されることも、そこにはなかった。だからこそ、今こうして交わされる何気ない言葉一つひとつが、静かに胸に染みていく。「余計な手間というならば、お祖母様もじゃない」朋美様がふと思い出したように言葉を重ねる。「なにが?」和美様が首を傾げる。「アイロン掛けされた新聞よ! こんなの美香さんが来るまで見たことなかった」その指摘に、和美様は「そうね」と軽く笑みを浮かべる。「こうすると読むときにインクが手につかないし、紙が乾いてパリッとした質感になるの。イギリスでは当たり前のことよ、と言いたいところだけれど、もう昔の話ね。私が最後に見たのも、お祖父様のお屋敷でだったわ」「お祖母様のお祖父様って、何時代の話よ」朋美様が半ば呆れたように言いながら、今度は私へと視線を向ける。「美香さん、面倒じゃない? 私、朝からアイロン掛けとか絶対に嫌なんだけど」その問いに、私は手を止めることなく首を横に振った。
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2-3

「蓮司が来ているの?」和美様の問いかけに、私は一瞬だけ言葉を選び、それから静かに頷いた。蓮司様――和美様のお孫様であり、朋美様のお兄様にあたる方だ。ご兄妹のお母様は和美様のご息女で、名家である桐谷家に嫁ぎ、次期当主夫人としての立場にある。桐谷家は旧財閥の流れを汲む家系で、現在もなお政財界に強い影響力を持ち続けている。その中で、現当主であるご祖父様が健在である以上、長男である蓮司様は「次の次」の当主という位置づけになる。けれど、その立場に甘んじているわけではなく、桐谷グループにおいて専務という重責を担い、日々遅くまで働いていると聞いている。同じ「御曹司」という括りで語られることもあるが、その実態は大きく異なる。まだ祖父が現役だからと、社交という名目で遊び歩いていた――もとい、華やかな場に顔を出してばかりいた柾さんとは、比べることすら失礼に思えるほどだ。……いけない。また思い出してしまった。頭の中に浮かびかけた言葉を、私はそっと押し込める。ここで過去を引きずる必要はないし、何より、この家の空気を濁す理由にはならない。.「蓮司様は、昨夜の十二時少し前にいらっしゃいました。お二人を起こしたくないと仰られていましたので、お声がけは控えさせていただきましたが……」そう説明しながら、内心では少しだけ迷いが残る。起こすべきだったのか、それともあの判断でよかったのか。花嶺家では、深夜に起こせば叱責された。しかし、家によって「当然」とされる基準は異なる。菊乃井家の別邸――この家の主人は和美様だ。菊乃井家の本邸はすでに息子夫婦へと譲られている。和美様はここで「気楽な隠居暮らし」とご自身では仰っているが、その実、家の中には確かな秩序と配慮が行き届いている。私が派遣されたのも、体調を崩された和美様を気遣い、夜間に何かあった場合に備えるためだった。以前は通いの家政婦がいらしたそうだが、状況に応じて柔軟に体制を変えられた。この判断にも、この家の堅実さが表れているように思えた。.「いいえ、美香さんの判断で問題ないわ。起こされても、どうせまた眠るだけだもの」和美様はあっさりとそう言い、軽く笑みを浮かべる。その言葉に、胸の奥がわずかに軽くなる。「美香さん、今後も同じようなことがあったら……夜十時を過ぎたら、うちのことは何もしなくていいわ」「でも……」思わず言葉を返し
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