《知らないまま、愛してた》全部章節:第 261 章 - 第 270 章

274 章節

外伝1-24

【誠司視点】「ターシャにとって、高校卒業はいいことだと私は思うわ」「母さん?」「高校の場合、学校生活が世界のほぼ全てで、噂や嫉妬が生まれやすいのよ」困ったように母さんがため息を吐く。「価値観が似た者同士が集まりやすいから、序列も生まれやすいわ」 大学生になれば、自分の居場所が学部・サークル・バイトなど複数に分散する。大学によっては全国から人が集まるため、価値観が多様になる。「校則もなくなるから、髪色とかも自由になるし、ターシャの見た目とかも悪目立ちしなくなるわ。それに、誰と誰が付き合っているなんて噂も高校生ほど強く影響しないし」母さんは、言葉をいったん区切る。「世界が広がれば広がるほど、違うことなんか気にならなくなる。だから、ターシャにとっては世界が広ければ広いほうがいいと私や華乃は思ったの」「それが、折々舎にターシャを紹介した理由?」「そうよ。華乃たちはナターシャが周りの目を気にしすぎてしまっていることを、とても心配していたから」「それは、俺のせい?」「そうじゃないとは、言わないわね」母さんは笑って認める。「恋愛は戦いだし、桐谷家のことを考えると利権がどうしても絡んできてしまうわ。あなたの恋愛は『子どもの恋愛』ではすまないの」父さんが頷く。「何人か彼女を適当に作っておけば別だったが、誠司の場合はそういう相手がゼロ。おかげでナターシャはよけい目立つからな」「……父さん」何でそういうこと言うの?母さんの目が怖いの、気づいていないの?父さん、学生時代は適当に遊んでいたみたいな発言しちゃっていることに気づいていないの?「先のことを考えれば、いい加減なお付き合いをしていないことはとてもいいことじゃない」「……桔梗」失言に気づいた父さん。もう遅い。「誠司は偉いわ」母さんが、笑いながら俺のコップに水を足す。「元カノがいるとね……『元カノです』って言ってくる女性と火花を散らし合わなければいけないもの」「き、桔梗?」母さんは笑いながら、目は全く笑っていないけれど、父さんのグラスに水を注ぐ。ドバドバと零しそうな勢いなのに、表面張力で盛り上がった絶妙なところで止めるテクニックがすごい。「どうぞ、お水です」「あ、ありがとう」「いいえ。連日、夜遅くまでお仕事、お疲れ様です。明日も、また遅くまで、お仕事なんですよねぇ」
last update最後更新 : 2026-03-21
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外伝1-25

【桔梗視点】寝室の灯りは、いつもより少しだけ暗くしていた。柔らかいオレンジ色の光が、ベッドサイドの壁に淡く揺れている。 蓮司さんは、シャツのボタンを外しながら、私のほうをちらりと見た。「桔梗、何を考えている?」「……え?」「ずっと、静かだから……何か考えているなって」その言葉に、私は苦笑する。 静かにしていたつもりはないのに、蓮司さんにはすぐ分かってしまう。蓮司さん自身が私を気にかけてくれるから。気にかけてもらえるのが嬉しくて、黙っていたのだろうか。違う。言い難い相談をするから、蓮司さんから聞いてほしかった。きっかけが欲しかった。「……誠司のこと、考えてたの」蓮司さんは、ベッドに腰を下ろし、私の隣に座った。 そして、肩を抱き寄せる。その仕草が昔から変わらなくて、少しだけ安心する。「ナターシャとのことか?」私は頷いた。「ええ。あの二人、これから……どうなるのかって」言葉にすると、胸の奥がじんと痛んだ。もうすぐ成人する息子の恋愛を心配するなんて、過保護だと笑われるかもしれない。でも、私は母親だし。誠司の場合は、子どもではなくなるこれからの恋愛のほうが心配。 「誠司の恋はナターシャの負担になる。それを誠司も理解しているわ」「まあな」私がそう言うと、蓮司さんは頷いた。短い返事だけど、その声は、どこか優しくて、どこか遠い。「これから先は、いやでも誠司を大人の事情に巻き込んでいくことになる……このままなら、芋づる式でナターシャも巻き込むことになるだろう」蓮司さんが優しく、父親の顔で笑う。「昔から、誠司はナターシャのことになると嘘が上手につけない」「そうね……声のトーンから違うもの」私が笑うと、蓮司さんも少しだけ笑った。でも、その笑みはすぐに消えた。「だから……問題だ」その言葉に、私は胸の奥がざわついた。「……やっぱり?」「桐谷家は良くも悪くもしがらみが多い。俺のときの、吉川凛花のように、無視できない存在というのはいる。誠司は自由に恋愛していいと言いたいが……現実はそう簡単な話にはできない」蓮司さんの声は静かで、重い。私は、シーツの端を指でつまみながら、ゆっくりと口を開いた。「恋愛結婚は……難しいかしら」「できる、できないで言えば、“できる”。でも……幸せかは、分からない」蓮司さんが私を
last update最後更新 : 2026-03-22
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外伝1-26

【蓮司視点】目が覚めたとき、真っ先に目に入ったのはカーテンの隙間から差し込む朝の光。朝日は寝室を淡く照らしているが、昨夜の余韻はまだ体のどこかに残っている。 腕の中では、桔梗が静かに眠っている。いつもは早起きの桔梗だが、昨夜はよほど疲れたのだろう。いや、疲れさせたのは俺だけど。……子どもたちがそろそろ起きる時間だが……まあ、いいか。いい年になって、仕事で夜の時間が忙殺されることもあって、桔梗と抱き合う頻度は減った。だが、こういう桔梗が起きられない朝がないわけではない。三人の子どもたちは勘がいい。状況に合わせて行動ができる子たちだから、長谷川あたりにねだって朝食を準備するだろう。だから、大丈夫だ。桔梗を起こす必要はない。うん。.桔梗の髪が俺の胸元にかかり、微かに汗の匂いが混じったシャンプーの香りがする。 俺の知る、桔梗の匂い。この匂いを吸い込むたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。桔梗がいてくれるから、俺は強くいられる。そんな当たり前のことを、昨夜あらためて思い知らされた。「……ん」桔梗がゆっくりと身じろぎし、薄く目を開けた。「……蓮司さん」寝起きの声は、いつもより少し柔らかい。 昨夜の名残が、その声の奥にまだ漂っている。掠れた声はとても甘く、蠱惑的だ。「おはよう、桔梗」抱き寄せると、何も身につけていない互いの肌が密着し、桔梗は少しだけ頬を染めた。 その反応が可愛くて、思わず笑ってしまう。夫婦になって長いし、子どもだって三人もいる。行為には慣れているのに、こういう雰囲気にはいまだ慣れずに肌を赤く染める。「……そんなに見ないでください」「見たくなるに決まっているだろう。昨夜あれだけ可愛かったんだから」桔梗は枕に紅くなった顔を埋めた。 その仕草がまた可愛らしく、実に愛おしい。·しばらく、言葉もなく寄り添っていた。 朝の静けさの中で、互いの呼吸だけが重なる。桔梗がぽつりと呟いた。「……誠司、起きてるかしら」朝になっても、息子のことが頭から離れないらしい。 桔梗の顔に、母親の表情がちらつく。「起きてるだろうな」「そうですよね……」桔梗は胸の上で指を組み、天井を見つめた。「心配、か?」「……過保護ですよね」「心配するなとは言わない。俺だって心配だ」桔梗が俺を見る。 そ
last update最後更新 : 2026-03-23
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外伝2-1

【ナターシャ視点】いつも通り朝起きて、学校に行く準備をした。いつも通りの時間、私はリビングに向かう。ドアの前に立って、しばらくドアを開けることができなかった。廊下でこうして立ち尽くしていても意味がない。それは分かっているけれど、ドアを開ける勇気が出ない。.ドアにはまったガラス越しに、カノンとヨッシーの姿が見える。いつものようにソファに並んで座って、ニュースを見ている。いつも通りの風景に胸の奥がぎゅっと痛んだ。言わなきゃいけない。 でも、『いつも』のこと囲まれると、言いたくないって怖気づく。私が選びたいと思う道は、私の大切なあの二人に嫌な思いをさせてしまう。ゲイであることを隠して生きてきた二人。その生活を私が壊してしまう。私の大切な家族で、命の恩人とも言える人たちなのに……。それでも、誠司の隣に立ちたい。誠司の隣を、誰にも渡したくない。それなら、私はもう隠れていられない。深呼吸をして、リビングへのドアを開けた。.「おはよう」先に私が入ってきたことに先に気づいたのはヨッシー。「おはよう……どうしたの?」私がいつもと違うことに先に気づいたのはカノン。「……話したいことがあるの」二人が同時に、私に体ごと向く。なんでも聞くって、そう言っている優しい目だ。 その優しさに、胸が痛む。 「どうした、ナターシャ?」  「学校で何かあった?」私は首を振った。 そして、ゆっくりとソファの前に立つ。「……私、あの配信している動画で顔を出したいの」カノンとヨッシーが目を瞠った。そうだよね。目立つことは、私が頑なに拒否していたこと。ヨッシーの眉間に皺が寄った。やっぱり嫌そう……。「折々舎から、そうしたいって言われたのか?」「え?」……あ。……そうか。それで、そんな顔……。「違う。折々舎からは何も言われていない。顔を出すのは、私が決めたの」 「ナターシャが、一人で?」私は頷いた。「うん。これまでみたいに、手元だけじゃなくて……ちゃんと、私自身が前に出たいの」リビングの空気が少しだけ張りつめた。.「理由を聞いてもいいか?」 ヨッシーの声は、いつも通り穏やかだった。「私、誠司のことが好きなの」私は、胸の奥に溜め込んでいた言葉を、ひとつずつ吐き出す。「私……誠司の隣に立ちたいの。誠司の隣に立つ
last update最後更新 : 2026-03-24
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外伝2-2

折々舎の会議室は、無機質なほど整っていた。白い壁。長机。余計な装飾は一切ない。ガラス張りの窓から入る光だけが、やけに明るい。その空間に座っていると、自分の輪郭がはっきりしていく気がする。どんどん逃げ場がなくなっていくことに、恐怖を感じないわけではない。でも、私は逃げないと決めた。. * .「本日はお越しいただき、ありがとうございます」正面に座るのは、折々舎の社長である相沢陽菜乃さんと水野百花さん。桔梗おば様の動画作成・配信をきっかけに起業した二人を、私は幼いころから知っている。本来なら、無名の私の契約に社長二人が同席することはない。「桔梗が何かしてくれたみたいだね」カノンがこっそりと呟いたことに、私は頷いた。相沢さんと水野さんのほかに、知らないスーツ姿の男性——法務担当者だと自己紹介された。法務担当と聞いて、緊張が増す。私の右隣にはカノン。左隣にはヨッシー。二人とも、いつも通りの穏やかな顔をしているのに、空気が違う。特にヨッシーが、違う。カノンはいつも通り保護者だけど、弁護士のヨッシーは私の法務担当者だ。大丈夫。それだけで、背筋が伸びた。「本日は、ナターシャさんの出演形態の変更に伴い、契約内容の確認と、リスクについての説明をさせていただきます」机の上に、分厚い書類が置かれた。その音が、やけに重く響いた。「まず前提として——ナターシャさんは未成年です。そのため、出演契約は保護者の同意を必須とします」法務担当の人が感情を交えず、淡々と説明する。「加えて、顔出しでの出演となる場合、これまでとは比較にならないリスクが発生します」リスク。その言葉に、私は、膝の上で手を握りしめた。「具体的には——個人情報の特定、SNS上での誹謗中傷、ストーキング行為、無断転載・二次利用などです」言葉が一つずつ、現実として落ちてくる。「また、ナターシャさんのご家族に関する情報も、いろいろ探られる可能性があります」一瞬だけ、視線が揺れた。でも、逸らさない。「……はい」私が頷くと、法務担当の男性は続けた。「当社としても、コメント管理や通報対応など、可能な範囲での対策は行います。ただし——すべてを防ぐことはできません」彼は、はっきりと言い切った。守ってくれる、とは言わない。その代わりに、“どこまで守れないか”を明示する
last update最後更新 : 2026-03-25
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外伝2-3

【ナターシャ視点】家を出るときから、少しだけ空気が違う気がしていた。気のせいかもしれない。でも……。.駅に向かう途中で、何人かに見られた気がして、足がほんの少しだけ速くなった。スマホは、朝から通知が鳴りやまなかった。確認していない。気持ちが揺らいでしまうかもしれないから。.いつも通り、右から二番目の改札を抜けて、ホームに向かう。いつもと同じ、まだ人の少ない朝の時間帯の、いつもと同じ電車。いつもと同じ車両に乗る。人は少ない。なのに、落ち着かない。視線が、刺さる気がする。——気づかれてる?いや、まだ、分からない。初めて顔を出した動画が公開されたのは、昨日の夜。まだ10時間も経っていない。そこまで広がる?でも——。(……ありえる)石川先生のことが頭をよぎる。石川先生は、技法に拘らずCGとかもやっているから、若い人にも注目されている人間国宝。もともと、あの浮世絵の動画も石川先生の絵の浮世絵化って感じで人気があった。誰がやっているのかって、探るようなコメントも多かった。それに顔を出したんだ。目立つ条件は揃っている。電車の窓に映る自分の顔をほんの一瞬だけ見た。昨日と同じ顔。なのに、まるで違う人間みたいだった。.学校に着く。校門をくぐる、その一歩がやけに重い。「……おはよ」すれ違う、学年も名前も知らない、顔しか知らない人に声をかけられた。毎朝、この時間に登校する人は少ない。ましてや、部活で早いわけではない私は、ある意味目立っていたと思う。でも、挨拶をされたのは初めて。“おはよう”。ありきたりの挨拶。でも、目が違う。一瞬、何かを確認するように、じっと見られた。「……おはよう、ございます」三年生かもしれないと思って、敬語にしておく。でも、返す声が、少しだけ硬くなってしまった。下駄箱で靴を履き替えるときも、背後に気配を感じた。ひそひそとした声。小さな笑い声。向けられている、気がする。教室の扉の前で、一度立ち止まった。ドアの向こうから、ざわざわとした声が聞こえる。いつもは、人がいないのに。なぜ、今日はこんな早くに?深呼吸。教室のドアを開けた。一瞬で、静かになった。さっきまでのざわめきが、嘘みたいに消えた。その代わりに、集まる視線。全員が、私を見ている。「……おはよう」
last update最後更新 : 2026-03-26
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外伝2-4

【ナターシャ視点】「やりたいことやってるだけでしょ?」軽い口調。でも、場を制する力がある。「……そうだけど」斜め前の子が、彼女の雰囲気に臆する。「ならさ、それでいいじゃん。騒ぎすぎだよ」その一言で、ざわつきが少し収まった。助けてくれた?そう思った瞬間——。「でもさ」彼女は、私をまっすぐ見た。「これから大変だよね」表情は、笑っている。でも、その目は笑っていない。「こういう目立った活動って、桐谷先輩の迷惑になるんじゃない?」そうなのか。彼女は誠司が……。——これは、試されている。私は、視線を逸らさなかった。「うん、そうかも」「へえ、分かっているんだ」少しだけ、興味を持ったような顔。「でも誠司のお母さんも動画配信をしていて、この動画も、その繋がりだったから……私が何をしたって、あまり変わらないと思う」「……コネ、じゃん」その言葉には棘があった。棘を隠していなかった。でも、完全な敵意ではない。私の変化に戸惑っている。距離を測りかねている。声に出したのが彼女というだけで、これは周りの人たちも同じだろう。「コネだよ。それでも、やると決めたから頑張っているの」.休み時間。覚悟を決めてスマホを開くと、通知が爆発していた。コメント……すごい数。DMも、来ている。見知らぬアカウントから……ブロックするべき?コメントは、すごいと褒める言葉。何人なのか、女子高生なのかと、好奇心を満たしたい欲のあるコメントもある。あと——もちろん、悪意も。【コネでしょ? だって、下手くそだもん。超素人】【顔いいからって調子乗ってるんじゃない?】【この顔で、日本の伝統とか語らないでほしい】指が、一瞬止まる。でも、スクロールする。逃げない。見て、これが私が選んだ道なのだと理解しなくちゃ。.「ナターシャさん」名前を呼ばれて、顔を上げた。さっきの女子が、机に寄りかかっていた。「さっき動画、また見たんだけど……ううん、ちゃんと見たんだ、初めて」「……うん」「ごめん……頑張っている人に、嫌なこと言った。普通にすごかったよ」意外な言葉に、少しだけ目を見開く。「技術とかは分からないけど、顔が本気だった」「そう、だった?」「うん。私も、陸上しているから、少しだけど分かる」……評価、された。さっ
last update最後更新 : 2026-03-27
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外伝2-5

【誠司視点】「桐谷! お前の幼馴染の二年生の、えっと、花岡ナターシャだっけ。あの動画すげえな」……これでもう、何度目だろう。ターシャが出る新しい動画が公開されたのは、昨夜のことだった。昨夜、公開と同時にその動画を見ようとした。でも、見れなかった。ターシャの顔を見てから、その顔に後悔がなければ、見ようと決めた。朝食の席は、その話になると分かっていた。だから、母さんにそう言っておいたら、母さんは俺の部屋に朝食を届けてくれた。手間をかけさせてしまったと謝る前に、俺に動画を見せようとする茉白と莉乃を止めらそうにないからと逆に謝られてしまった。妹たちと顔を合わせないように、部活を理由にして先に出かけた。家は母さんの根回しのおかげで静かだった。でも、学校は賑やか。校門をくぐった瞬間から、違和感があった。騒めき。興奮。いつも無機質な校舎が、まるで生きもののように活気づいていた。.「花岡ナターシャだ」誰かの呟きに、それを震源地として人が一斉に動く。彼らの視線を辿るとターシャがいた。二年生のタイをつけた女の子たちと話している。その顔は……うん。「桐谷?」「トイレ」.トイレに行く振りをして、階段を上にのぼる。屋上には、生徒は勝手に出られない。その手前、非常口の真下、一畳ほどのスペースに座る。(……これか)スマホを操作して、動画を開く。再生ボタンを押そうとして、指がほんのわずか手前で止まった。躊躇う。怖い?——いや、ここで俺が止まってはいけない。ターシャは、先に進んだ。再生ボタンを押す。スマホの画面が切り替わる。最初に映ったのは、ナターシャの手元。見慣れている映像にホッとした、そのあと、ゆっくりと画面が上にいく。そして——ターシャの顔が、映った。息が、止まる。幼い頃から知っている顔だ。版を擦っているところも、何度も見てきた。映像でも。生でも。いろいろな顔も見てきた。真剣な顔。色に納得できないのか、不満そうなこと。できないこと、に不貞腐れた顔。どんな顔も、全部知っているはず。それなのに、画面越しに見るターシャの顔は、まるで別人みたいだった。キレイ。そして、格好いい。格好いいんだ、その覚悟を決めた表情が。覚悟の、その先を見る真剣な目が……目が、離せない。「……そうか」小さく、息が
last update最後更新 : 2026-03-28
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外伝2-6

【誠司視点】動画は、俺の迷いなんてそっちの気で進んでいく。摺りの工程が淡々と進む。必要な道具を選ぶ手には迷いがなく、瞬く間に色が重なっていく。色と色の境の、細く紙に乗る線だけが白い。あとは色、色、色。見慣れているはずのターシャの技術は、ターシャ越しの映像だと違って見える。……すごいな。率直に、そう思った。贔屓目じゃなく、これは、評価されると思ったら国内だけじゃない。——海外でも評価される。簡単に、想像はつく。石川明梗。ターシャの動画に、人間国宝で海外でも知名度の高い石川先生の名前が付く時点で、ターシャの動画は立ち位置が違う。スケールが、最初から世界を見ている。日本国内の話じゃ済まない話だ。「……やめろよ」つぶやきが、無意識に溢れたと気づいたのは、狭い非常口に反響した自分の声。眉が、眉間による。想像が、勝手に先に進んでいく。海外メディアの注目。インタビュー。コラボレーションのオファー。ターシャの名前が広がる。顔が知られる。ターシャという存在が、世界に根付いていく。ターシャは、頑固だ。進むと決めたら、進む。(……その中で、あいつは)ターシャが、傷つくことはある。言葉は、評価のためだけのものではない。嫉妬や抗議。評価される分だけ、ターシャは理不尽に叩かれる。持ち上げられる分だけ、落とされる。ターシャは、強いけど、無敵じゃない。「……くそ」スマホを握る手に、力が入る。俺はターシャを守りたい。これは、昔からなんにも変わらない。今すぐにでも、この全てを遮断して、ターシャをかっさらって、俺だけの、俺しか知らない場所に隠してしまいたい。 誰の目にも触れない場所にターシャを閉じ込める。ターシャのことは、俺だけが知っていればいい。——そんな衝動。ああ、俺は父さんと同じだ。母さんは、常に父さんの庇護下にある。父さんが傍にいなくても、護衛の長谷川さんとか、親戚の誰かとか、父さんの影響力の中にいる。それでいいらしく、笑っている母さん。それでいいと思ってもらうため、母さんが望む環境をせっせと作っている父さん。二人は、二人そろってそれでいいと思っているからできる関係。でも、俺たちは違う。それは、できない。ターシャが、望んでいない。ターシャは、自らの意思で、世界に向けて一歩を踏み出した。ここ
last update最後更新 : 2026-03-29
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外伝2-7

ナターシャが遠くなる。そんな予感と、なんとなくの確信。俺が、自分でも、かなり驚くくらい自然に出た。ああ、これは、当たる。ナターシャは、遠い存在になる。距離の話、ではない。物理的な話、でもない。手の届く範囲から、手が触れられるところから、離れていく、外れていく。そして、一年後は?今はまだ、同じ学校に通って、同じ時間を過ごしている。でも、いずれ、別々になる。違う世界の中で、生きるようになる。そのとき、自分は——隣に、いられるか?胸の奥が、鈍く痛む。情けない、と思った。俺のほうが、一歳上というだけ。先に大学生になるだけ。痛感させられた。ナターシャは、俺の隣に立つために前に出たのかもしれない。でも、その結果は、恐らく……もしかしたら、ナターシャは俺では足りなくなるかもしれない。俺は、その結果を怖がっている。「……ほんと、ダサいな」苦笑が漏れる。苦笑が反響して、俺の自嘲的な笑いが、世間が俺を嘲笑う声に聞こえる。「ダッサいし……小さい!」ダサいことは、本当に思っていること。これが俺の本音だ。俺の、今の、限界なのだろう。でも、できるだろう?俺は、ナターシャを手放したくない。ナターシャを、誰にも渡したくない。ナターシャの隣は、自分のものだと、俺が、そう思わないでどうする。思っていたんだ、なんてあとから言っても意味はない。それこそ、ダッサい。いまさらって、取り返しのつかない事態になってから、「実は」なんて言っても遅い。ナターシャは俺のものだと、言い続けなければ意味がない。身の程知らずだと言われようと、言ってやる。それに、いま、身の程知らずとどれだけ嘲笑われようと、それを黙らせられるだけの力をこれからつければいい。親の七光り?それなら、それ以上に光って見せればいい。父さんと母さんを目標にして、その一歩先にいけばいい。目標が明確ならば、それだけやりやすいってものだ。いま、いまの俺では届かなくなるから手を引っ込めるなんて、自分が傷つきたくないだけ。それじゃ、ダメだ。小さくなるな。ナターシャは、自分の人生を生きるために、出た。そこに、ナターシャの行く先に、俺がいけばいい。遅れたなら、走ればいい。そのとき、そこに、自分がいるために。順番を間違えるな。「ふう……」スマホの画面は、もう違う動画を映
last update最後更新 : 2026-03-30
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