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4-36

「なんだ、この絵……お前が描いたのか?」思わず口をついた俺の言葉に、画集を見ていた朋美は露骨に眉をひそめ、ため息まで添えて呆れた顔をした。「そんなわけないでしょ。石川明梗の作品。彼の代表作で、人間国宝にまで推す声が出た『四連花』よ」朋美がページを指先で軽く叩く。その仕草には説明以上の熱があり、しまったと思った。朋美は美大生だ。色や構図の話を始めれば止まらないタイプで、正直なところ、俺にはその半分も理解できていない。美術に関しては、教科書で習った程度の知識しか持ち合わせていない。良し悪しの基準が時代や評価者によって変わるという話も、理屈としては分かるが、どうにも腑に落ちない部分がある。時代で変わるくせに、名画と呼ばれるものはなぜ今も名画なのか。結局は誰かの価値観のに振り回されているのではないかと考えてしまう。一度それを朋美に言ったら「屁理屈」で片づけられた。そんな俺でも、画面に視線を戻したときには言葉がこぼれた。「……きれいな絵だな」その一言に、朋美は待っていたと言わんばかりに口角を上げた。「ほらね、お兄でもそう言うと思った」得意げな声音が少し癪に障る言い方だ。「それでね、石川明梗先生に会ってみたいんだ」「なぜそれを俺に言う?」即座に返すと、朋美は当然のように肩をすくめた。「桔梗さん、今度石川先生にお会いするでしょ?」桔梗と石川先生。もしかしてあの医師が石川明梗なのかと朋美に確認すれば、そうだと言われた。「それなら、桔梗に一緒に連れていってくれと言えばいいだけだろう」「そんなことしたら“ミーハーな子”だって桔梗さんに思われるじゃない?」「いや、ちょっと待て……」「これを機に、お兄が妹想いだって桔梗さんは思うはず。ここで私のお願いを無視して、私が狭量だと桔梗さんに愚痴ったらお兄の株は急降下するからね」俺はこめかみを押さえながら、ため息を飲み込んだ。面倒臭い。桔梗のことだから朋美が頼めば同好の士として歓迎するだけだろう。俺の株は関係ないのではないか?.案の定、桔梗は二つ返事で了承し、朋美からは感謝の形で石川明梗の画集が渡された。あくまでも貸すのだと十回くらい念を押された。嵐が去ったあと、気になって検索窓に「石川明梗」と打ち込む。表示された結果を開いた瞬間、やはりあの石川だった。祖母の知人の医者という断片的な情報しか
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【第五章】

桔梗を抱いたあの日から、俺の生活は確かに、だが音もなく変わっていった。劇的な出来事がるわけではない。ただ、同じ時間を過ごしているはずなのに、世界の色合いが少しずつ柔らかく、温かくなっていくような、そんな変化だった。なかでも最も変わったのは、朝という時間の意味だろう。目覚めた瞬間、隣にある桔梗の体温を感じる。それだけで、胸の奥に満ちる静かな充足がある。まだ眠りの名残を残したままの彼女を腕に引き寄せ、その柔らかな重みと温もりを確かめながら、再びまどろみに落ちていく。そんな何気ない行為が、いつの間にか当たり前の日課になっていた。桔梗がいて、誠司がいて、何気ない会話や食事や沈黙さえも、以前より豊かに感じられる。欠けていた何かが埋まったというより、もともとあったものの価値にようやく気づいた、そんな感覚に近い。夜になれば、自然と互いの距離は近づいていく。体温を分け合うその時間は、決して「夫婦だから」という義務感から生まれるものではない。むしろ、意識する前に身体が求めているような、ごく自然な流れの中で始まる。言葉で誘うこともあれば、視線や触れ方だけで通じ合うこともある。そこにあるのは単なる欲望の発露ではなく、言葉にできない感情を肌越しに伝え合うような、静かで深い交感だ。触れ合うことでしか伝えられないものが確かにあって、互いに求め、応え、時にはわずかにすれ違いながらも、また寄り添う。その繰り返しのなかで、俺たちは少しずつ“夫婦”という形を自分たちなりに作り上げているのだと思う。.桔梗が見せる表情は実に多彩だ。昼間の彼女は凛としていて、どこか近寄りがたいほど整った気配を纏っている。だが夜、ふとした瞬間に見せる顔はまるで別人のようだ。潤んだ瞳、抑えきれない吐息、甘くほどけた声。それらは誰にも見せることのない、俺だけに許された桔梗であり、その事実が胸の奥に静かな独占欲を灯す。……ああ、そうか。四連花という作品に対して、どこか引っかかりを覚えていた理由が、ようやく腑に落ちた気がした。あの絵は確かに美しい。構図も色彩も、表現として完成されている。だが、その美しさはどこか整いすぎていて、人の内面を描いたと言われるには、あまりにも澄みすぎているのだ。女も、そして男も、本来そんなに整然とした存在ではない。欲望も矛盾も、時には醜ささえ抱えている。だからこそ人間は奥行き
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5-2

  『いやあああああああっ!!』耳をつんざくような悲鳴が、唐突に脳裏へと蘇る。あの日、桔梗が見せた恐怖に染まりきった表情と、その奥底から絞り出された叫びが、まるで今この瞬間に響いているかのように鮮明だった。「桔梗っ!」反射的に名前を呼ぶ。だがその声は、幸福に満ちていたはずの夢を無残に引き裂く引き金でもあった。さっきまで確かにそこにあった、穏やかで温かな時間が、音を立てて崩れ去っていく。  『蓮司さん』桔梗が優しく名を呼ぶ声が、かすかに残響のように胸に残る。記憶を失ってなお変わらない、俺の好きな声。女性にしては少し低く、どこか落ち着いた響きを持つその声は、耳に届くだけで心を静めてくれる。  『好きです』俺の腕の中で、照れくさそうに、それでも逃げずに小さく紡がれるその言葉。まるで秘密を分け合うかのような囁きが、何よりも愛おしかった。それが―――再び、あの悲鳴に上書きされる。  『いやあああああああっ!!』「桔梗っ! 待って……」咄嗟に手を伸ばし、両肩を掴んで引き止める。だが次の瞬間、「え?」と返ってきた戸惑いの声に、こちらの動きが止まった。抵抗するでも、怯えるでもない、ただ純粋に不思議がっている声だったからだ。「蓮司さん?」いつも通りの呼び方。いつも通りの落ち着いた響き。俺の手が肩に触れていることすら気にしていないような、穏やかな表情。さっきまで脳裏を支配していた恐怖の残滓と、目の前の現実との落差に、思考が追いつかない。これは……どういうことだ。「こいつのこと……」言葉が途切れがちになる。「えっと……英武司さん、ですよね?」あまりにもあっさりとした答えだった。「ああ」と短く肯定しながらも、内心では理解が追いついていない。どうして平然としていられる。あのときの悲鳴は、確かに武司に向けられたものだったはずだ。「ご親族の皆様のお話によく出ていらっしゃいますし、何より英家のご当主に御声がよく似ていらっしゃるので」淡々とした説明。英家の当主である春樹小父さんと武司は、顔立ちは似ていないが声質は驚くほど近い。その点から結びつけたのだろう。「……大丈夫か?」思わず問いかける。「あの、大丈夫とは、何がです?」心底不思議そうに首を傾げる桔梗。その反応に、全身から一気に力が抜けた。膝から崩れ落ちそう
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5-3

「「良かった……」」母さんが手配した車に桔梗を乗せ、走り去っていくテールランプを見送った直後、俺と武司は互いに顔を見合わせる余裕すらなく、その場にしゃがみ込んでしまった。周囲に人目があることは分かっていたが、そんな体裁を気にしていられるほど、今の俺たちに余力は残っていなかった。膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込み、ようやく肺の奥に溜まっていた息を吐き出す。全身の力が抜けるとはこういうことを言うのだろう。指先から肩、背中に至るまで、張り詰めていた緊張が一気にほどけていくのが分かる。「気を使わせて悪かったな」掠れた声でそう言うと、隣で同じように肩を落としていた武司が、軽く首を振った。「いや、これは結果論だろ。それに俺が桔梗さんの記憶のトリガーの一つであることには変わりない。できるだけ距離は取るよ」言葉は冷静だが、その横顔にはわずかに苦笑が見える。今回の件で「もう大丈夫」と思いたいところもあるが、安心しきるのに不安があるようだ。それは俺だって同じだ。もしさっき、ほんの少しでも歯車が狂っていたら、あの日と同じことが起きていたかもしれない。そう思うと、今さらながら背筋に冷たいものが走る。「そうか、すまな……」「だから、たまに、たま〜にでいいから桔梗さんに弁当を作ってもらってくれ」間の抜けたような要望に、一瞬思考が止まる。緊張と安堵の落差に脳が追いつかないのか、それとも単純に予想外すぎたのか、うまく反応できない。「……は?」ようやく出たのはそんな間の抜けた声だった。だが次の瞬間、妙に納得してしまう自分がいるのが悔しい。流石は桐谷一族というべきか、極限状態をくぐり抜けた直後でも、思考の行き着く先が食なのはある意味で一貫している。これは桔梗が命名した通りだ。彼女は遠慮がちに「食に対して情熱的」と表現してくれているが、実態はもう少し単純で、率直に言えば食い意地が張っているというやつだ。ただし、それ自体は悪いことではない。問題は、その情熱に対して技術が致命的に伴っていないことにある。俺たちは揃いも揃って、料理の才能が壊滅的に欠如している。包丁の持ち方からして怪しく、火加減という概念は理解しているつもりでも実践になると途端に破綻する。美味しいものを作れないどころか、再現すらできない。インスタントラーメンでさえ、説明通りに作るだけなのに何故か味が安定しない。
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5-4 side桔梗

蓮司さんに抱かれたあの日から、私の生活は静かに、けれど確実に変わっていった。大きく何かが壊れたり、新しい何かが始まったという劇的な変化ではない。ただ、同じ一日を過ごしているはずなのに、胸の奥に灯る感情の質がまるで違う。朝、目が覚めると隣に蓮司さんがいる。その事実が、こんなにも心を満たすものだとは思わなかった。眠っている横顔に、そっと手を伸ばせば届く距離。規則正しい呼吸に合わせてわずかに上下する胸元を見つめながら、触れてもいいのだと許されていることの嬉しさには、いまだ少しだけ戸惑いが混じる。カーテンの隙間から差し込む柔らかな光に、そろそろ起きる時間だと頭では理解していても、私の肩を引き寄せる蓮司さんの腕から抜け出す気にはなれない。温かいの腕に包まれたまま、もう一度まどろみに沈む時間。それが今では、私の一日の始まりとして欠かせないものになっていた。·夜になれば、互いの体温を分け合う時間も訪れる。結婚してからも長い間、そんな雰囲気すらなかったから、蓮司さんはそういったことにあまり意欲がない方なのだと思っていた。けれど実際は違っていた。思っていたよりもずっと自然に、そして思っていたよりも頻繁に、私を求めてくれる。求められること自体は嬉しい。けれど同時に、こんなにも求め合うものなのかと戸惑う気持ちも、正直なところはある。あと……蓮司さんは、少しだけ意地悪になった気がする。特に、夜はそれを強く感じる。行為の始まりは、言葉がなくても気配で分かる。それでも蓮司さんは、あえて言葉にする。私がそれを恥ずかしがると知っているからだ。恥じらう姿を見て楽しむなんて、意地が悪いと思う。けれど、その意地悪さの奥で、私が本当に望んでいるのかを探っている。だから、あの意地悪に応えたいと思うようになった。恥ずかしいという気持ちは決して消えないけれど、そ応えたいと思った瞬間には、私の体は準備を始めている。その変化に気づくたびに驚くけれど、少しだけ誇らしくも感じる。最初は戸惑いばかりだった。はしたないという思いが先に立ち、蓮司さんと目を合わせることすらできなかった。自分のなかに性欲があることをなかなか受け入れられなかった。性欲については、穢らわしく、暴力的だと思っていたから。その価値観は簡単には消えなかった。けれど蓮司さんは、そんな私を否定しなかった。恥ずかしがる私も、戸
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5-5

「桔梗さん」名前を呼ばれて、私ははっと我に返った。つい先ほどまで意識の奥に沈めていた思考が、一気に現実へと引き戻される。顔を上げると、こちらを見ていたのは石川先生と朋美さんだった。二人と一緒に過ごしている最中だというのに、気づけば蓮司さんのことを考えていたなんて、自分でも呆れてしまう。「桔梗さん、いまお兄のことを考えているでしょう」「え?」思わず間の抜けた声が出る。朋美さんは口元をにやりと歪め、いたずらっ子のような視線で私を見つめていた。「色っぽーい顔をしてるから、すぐに分かるよ。ね、石川先生」「朋美さん!」図星を突かれた恥ずかしさに、頬が一気に熱を帯びる。そんな私の反応が面白いのか、朋美さんは楽しそうに笑い声を上げ、石川先生に同意を求めた。「そうですね。いやはや、若い人と過ごす時間はとてもいい刺激をもらえますよ」石川先生は穏やかに目を細めながら、どこか含みのある言い方で頷く。その声音にはからかいの色は薄いが、完全に否定もしていないあたり、余計に恥ずかしさが増してしまう。.石川先生とは、あの日助けていただいたお礼をして以来、こうして時折お会いするようになった。絵画についての知識は、私にとってはまだ詰め込んだだけのものに過ぎないが、先生のお話はそこに息遣いを与えてくれるようで、とても分かりやすく、そして興味深い。言葉一つひとつに実感が宿っていて、ただ覚えるだけでは得られない理解へと導いてくれる。今日は朋美さんも一緒だ。先日の一件以来、蓮司さんは目に見えて過保護になった。私が一人で外出することはほとんど許されず、誰かと会う場合でも場所は限られている。桐谷グループのホテルのラウンジか、あるいは誰かが同伴している場合に限って喫茶ルーム。それが今の私に許された外出の形だった。心配をかけてしまった自覚はあるし、何より私自身もあのような出来事を二度と経験したくはない。蓮司さんの心配を息苦しくないかとお義母様は心配してくださったが、蓮司さんの気遣いを窮屈だとは思わない。むしろ守られているという安心感の方が大きかった。.「それにしても、これはとても面白いですね。感情のない線を描くのはとても難しいのに、これはすぐに描ける」石川先生は、朋美さんが持っていたタブレットを満足げに机へと置いた。画面には女性の姿が描かれている。線は滑らかで迷いがなく、無駄
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5-6

「……あの四連花は、美し過ぎてしまって、私にはその美しさがどこか遠く感じられてしまいました……あの、本当に申し訳ありません」言葉を選びながら、けれど最後は小さく頭を下げてしまう。美術について深く学んできたわけでもない私が、第一線で活躍されている方の作品に対して意見を述べるなど、本来であれば差し出がましいことだと分かっている。それでも、胸の内に残った違和感は偽りのないものだった。四連花は確かに美しい。誰が見てもそう感じるであろう完成度と、息を呑むほど整えられた画面。その中に描かれた女性たちは、清らかで、静謐で、どこか俗世から切り離された存在のように見えた。でも「女性」という概念だけを抽出して、穢れも揺らぎも取り除いたかのような、そんな印象。だからこそ、私はそこに距離を感じてしまったのだと思う。あの女性たちからは、「性」を感じることができなかった。性という言葉に含まれるものは、単なる肉体的な要素だけではない。欲や衝動、誰かに触れたいと願う心、そういったものも含まれているのだと、蓮司さんと過ごす夜の時間が教えてくれた。欲があるからこそ、人は他者に近づきたいと願い、触れ合い、時には混ざり合うようにして互いの存在を確かめようとする。そうした人間の持つ生々しさが、私には自然なものに思えるようになっていた。だからこそ、あの絵に描かれた女性たちの、あまりにも整い過ぎた美しさが、かえって現実から遠ざかって見えたのだ。もしあれが、遠い過去の画家による理想像だと言われれば、そういう価値観の時代だからと納得できる。だが石川先生の描かれたものだと思うと、どうしても違和感が残る。なぜなら私は、あの美術展で、先生の別の作品を見てしまっているからだ。誘うような視線、濡れた肌の質感、力強くもどこか艶めいた線。そこには確かに、人間としての女が存在していた。欲も、迷いも、熱も含んだ、生きている女性。その印象が強く残っているからこそ、四連花との落差に戸惑ってしまう。「僕が描いた風には見えない?」静かな問いかけに、言葉が詰まる。「それは……」どう答えるべきか迷う私を見て、石川先生は小さく笑った。「ある意味では当たっているよ。あの絵を描いたときの僕と、いまの僕はまったくの別人だしね。それに、あのときの無垢な少女は、いまは女になった。いまの僕にとっては、“女”の彼女の方が何よりも
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5-7

「桔梗」名前を呼ばれたのは、ホテルの正面エントランスにいるときだった。夜気はまだ冷たく、ガラス張りの自動ドアの向こうから漏れてくる暖かな光との境界に立ちながら、私は朋美さんと並んで立っていた。桐谷家からの迎えの車が渋滞に巻き込まれていると連絡が入り、このまま外で待つか、それとも一度中に戻るかを相談していた最中だった。その声に振り返りながら、最初に浮かんだのは単純な疑問だった。―――誰だっけ?記憶にない人だけど、名前で呼ばれたということはかつての『私』の知り合いだろうか。「錦野さん」隣で朋美さんが彼の名を呼び、『私』の周りにいた人たち、覚えておいたほうがいいと纏められた短いリストのうちの一人だと気づいた。錦野柾。『私』の婚約者だった人。その情報だけが、他人事のように頭の中に浮かんだ。·「久しぶりだね、桔梗」親しげに微笑みかけてくるその顔を、私はどこか距離を置いた気持ちで見ていた。実質、距離がある。私の始まりは病室で、それ以降は彼とは接点がない。私は結婚し、目の前の彼についても、「かつて婚約していた相手」という事実以上の実感はない。整った顔立ちしているとは思う。だがどこか軽薄さが滲んでいて、華やかさがそのまま軽さに繋がっているように見える。そんな印象だからか、私の中に好意めいたものはない。そもそも―――この『元婚約者』のはずの人の視線に違和感があった。「桔梗さん?」ふいに呼ばれて、はっとする。隣を見ると、朋美さんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。思ったより長く、ぼんやりとしてしまっていたらしい。彼女の手はわずかに震えていて、顔色も優れない。この優しい人に余計な心配をさせてしまったみたい。「大丈夫?」問いかけると同時に、朋美さんはちらりと錦野さんを見た。その一瞬の視線だけで十分だった。つまり、この人との関係は、他人が心配するようなものだったのだ。「ごめんなさい、少し疲れてしまったみたい。早く車が来るといいわね」そう言うと、朋美さんはじっと私の顔を見つめた。その視線は、どこか蓮司さんに似ている。相手の内側を確かめるような、真っ直ぐで誤魔化しを許さない目。「大丈夫」そう微笑んでも、すぐには納得してくれなかった。それでもしばらく見つめた後、ようやく本当に問題がないと判断したのか、わずかに表情を緩める。「おい、桔梗! 無視する
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5-8

「桔梗さん、大丈夫?」「朋美お嬢様。ここは冷えますので、若奥様を中へ……ご一緒の方もどうぞ。お話できるように手配いたします」丁寧な声が耳に届く。その気遣いはありがたく、対応としても申し分ないものだと分かっている。それでも――これ以上ここに留まりたくないという思いが、胸の奥から強く湧き上がっていた。この人と同じ空間にいることが、どうしようもなく落ち着かない。理由ははっきりしない。けれど、体の奥がはっきりと拒絶している。恐怖に近いもの。関わってはいけないと、本能が警鐘を鳴らしているようだった。「……中へ、戻りましょう」朋美さんはすぐに頷き、私の腕を支えるようにして歩き出した。その優しさに感謝を、しっかり支えられていことに安心を感じながらも、足が震えていた。怖い――ただその感情だけが、はっきりと胸にある。「いいえ、私たちは……」そう言いかけた瞬間、「それはいい考えだ。君、案内してくれ」と、言葉を遮るように錦野さんが口を挟んだ。「錦野さん……」思わず低い声が出た。この人がホテルのスタッフを見る目、私を見る目と同じ見下した視線に怒りが湧いた。『私』の境遇について私は知らない。だからこそ、その扱いはおかしいと感じる程度のもの。でも、いまは違う。ホテルのスタッフの気遣いは、あくまでも桐谷家の人間である私たちに向けられたものだ。それは蓮司さんやお義父様たちが彼らに敬意を抱かれる態度を見せてきたからに他ならない。それを当然のように享受し、さらに傅かれて当たり前だとするその態度。蓮司さんたちが培ってきた敬意を見下すその態度に怒りが湧く。ホテルのスタッフたちはもちろん、蓮司さんたちの仕事を見下すようなことは許さない。「いいえ」朋美さんの気遣う視線を感じたけれど、縋り付いていてはいけない。背筋を伸ばし、笑顔を心がける。「お気遣いありがとうございます」錦野さんは視界に入れず、ホテルのスタッフだけを見る。「そろそろ迎えの車も来るでしょう。中に入らなくても大丈夫ですので、皆さん、お仕事に戻ってください。いつもありがとうございます」落ち着いた声でそう告げると、彼らは一瞬の戸惑いはあったもののすぐに状況を理解したようで、安堵した表情を浮かべたあと、軽く一礼して下がっていった。その背中を見送りながら、場の主導権を取り戻したことに小さく息をつ
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5-9

「もしかして、君との婚約を破棄して桜子と婚約しようとしたことを怒ってるのか?」軽い調子で投げられた言葉は、虚を突かれたものだった。欠片も思っていないことだったから。次いで、呆れた。そういう怒りをまだ私に抱かれているという自信はどこから来るのかという、純粋な呆れ。どちらにせよ、感情が大きく揺れるわけでもない。ただ、彼にとっての『私』を再認識し、腑に落ちる思いがしただけ。彼は「怒ってるのか?」と笑いながら言った。『私』との婚約を破棄して異母妹に乗り換えたことが彼にとってどの程度の重さだったのかを雄弁に物語っている。彼の中では、笑い話にできてしまうことだったということ。·「それとも、クラブとかパーティーに君を誘わず桜子を連れていったことを怒っているのか?」また同じように、笑いながら問いかけてくる。その軽さに胸の奥が冷えると同時に私の再認識が間違いないことを確信した。『私』はこの人が好きではなかった。この人の口から出る言葉、その端々に滲む無神経さには嫌悪感さえある。「仕方がないだろう。桜子が君に虐められたって泣きついてきてさ。俺としては婚約者の君の尻拭いだったんだよ。分かってるって、慰めているうちに桜子とそういう関係になったのは悪いと思っているさ」……なんなの、この人。この人のことをすっかり忘れて、思い出しもしなかった私が思うことではないけれど、無神経を通り越して非常識すぎる。なんで婚約期間に異母妹と懇ろな関係になったことを私に言えるのか。罪悪感は見られない。軽く肩を竦めながら、なんでもないことのように言っている。寧ろ自分は仕方なくそうしたのだと、言い訳に『私』を出して「お前のため」とでも言いたげだ。それにしても、この人は。「関係を持ったのは大学を卒業してすぐで、桜子は初めてだったしさ。だから婚約者を桜子に、って」―――口が軽い。軽すぎる。こちらが聞いてもいないことまで、情報を垂れ流している。表情を見れば自慢話のつもりなのだろうけれど、婚約期間中に裏切ったことは自慢にならない。愚行。慰める必要があったとしても体の関係は必要ない。「でも、それはお互い様だろう? 蓮司さんと君は……」……え?「錦野さん!」鋭い声が割り込んだ。驚いてそちらを見ると、朋美さんが険しい表情で錦野さんを睨んでいる。その顔は、先ほどまでの柔らかな雰囲気とはまるで別人
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