All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 101 - Chapter 110

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4-36

「なんだ、この絵……お前が描いたのか?」 俺の問いに、画集を突きつけていた朋美は、あからさまに呆れた顔をした。「そんなわけないでしょ。石川明梗の作品。彼の代表作で、人間国宝にまで推す声が出た『四連花』よ」朋美は美大生だ。対して俺は、絵に関しては最低限の教養しかない。良し悪しの基準が最終的に時代の空気や好みに左右されるという説明が、どうにも腹落ちしない。古典的な名画や有名な画家の名前ならまだしも、現代の美術となると途端に知識が抜け落ちる。ただ、画面に視線を戻したとき、思わず口をついた。「……きれいな絵だな」「お兄ならそう言うと思った」朋美は得意げに笑い、「それでね、この石川明梗先生に会ってみたいんだ」「なぜそれを俺に言う?」「桔梗さん、石川先生のお知り合いでしょ?」その一言で、記憶の糸が引っ張られる。桔梗と“石川”という組み合わせで思い浮かぶのは一人しかいない。あの事件のとき、白州典正から桔梗を救い出した医師、石川。「分かってるよ。桔梗さんに頼めばいいって言いたいんでしょ? でもね、そんなことしたら“ミーハーな子”だって思われるじゃない?」「いや、ちょっと待て……」「お兄が桔梗さんに軽蔑されるのと、私がどう思われるかって関係ある?」……会話の構造が歪んでいる。理屈ではなく感情の優先順位が完全に逆転している。 *石川明梗。検索結果を開いた瞬間、それが“あの石川”であることはすぐに分かった。祖母の知人という事実があったため深く調べていなかったが、背景は想像以上に重層的だった。石川家は都内で複数の病院を経営する医療一族。その中で彼は三男。祖父は人間国宝の日本画家という芸術的血統を持ち、医師の道を期待されながらも幼少期から絵に執着していたという。最終的には医師の道を選びつつも美術への憧れを捨てきれず、家族を説得して単身ヨーロッパへ渡り、美術を学んだ。その後、日本画へ回帰し、祖父の系譜に連なる師匠筋に弟子入りした――異端と正統が同居する経歴だ。モニターに表示された『四連花』を見つめる。四枚の花弁のような構図の中に、一人の女性像が描かれている。彼女は“理想の女性”とも、“夢の女”とも呼ばれている。しかし俺には、それが単なる空想とは思えなかった。むしろ、どこかに実在している誰かを、極限まで抽象化した結果のように見える。筆致は細いのに揺らぎがない。線
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【第五章】

桔梗を抱いたあの日から、俺の生活は確かに、だが音もなく変わっていった。劇的な出来事がるわけではない。ただ、同じ時間を過ごしているはずなのに、世界の色合いが少しずつ柔らかく、温かくなっていくような、そんな変化だった。なかでも最も変わったのは、朝という時間の意味だろう。目覚めた瞬間、隣にある桔梗の体温を感じる。それだけで、胸の奥に満ちる静かな充足がある。まだ眠りの名残を残したままの彼女を腕に引き寄せ、その柔らかな重みと温もりを確かめながら、再びまどろみに落ちていく。そんな何気ない行為が、いつの間にか当たり前の日課になっていた。桔梗がいて、誠司がいて、何気ない会話や食事や沈黙さえも、以前より豊かに感じられる。欠けていた何かが埋まったというより、もともとあったものの価値にようやく気づいた、そんな感覚に近い。夜になれば、自然と互いの距離は近づいていく。体温を分け合うその時間は、決して「夫婦だから」という義務感から生まれるものではない。むしろ、意識する前に身体が求めているような、ごく自然な流れの中で始まる。言葉で誘うこともあれば、視線や触れ方だけで通じ合うこともある。そこにあるのは単なる欲望の発露ではなく、言葉にできない感情を肌越しに伝え合うような、静かで深い交感だ。触れ合うことでしか伝えられないものが確かにあって、互いに求め、応え、時にはわずかにすれ違いながらも、また寄り添う。その繰り返しのなかで、俺たちは少しずつ“夫婦”という形を自分たちなりに作り上げているのだと思う。.桔梗が見せる表情は実に多彩だ。昼間の彼女は凛としていて、どこか近寄りがたいほど整った気配を纏っている。だが夜、ふとした瞬間に見せる顔はまるで別人のようだ。潤んだ瞳、抑えきれない吐息、甘くほどけた声。それらは誰にも見せることのない、俺だけに許された桔梗であり、その事実が胸の奥に静かな独占欲を灯す。……ああ、そうか。四連花という作品に対して、どこか引っかかりを覚えていた理由が、ようやく腑に落ちた気がした。あの絵は確かに美しい。構図も色彩も、表現として完成されている。だが、その美しさはどこか整いすぎていて、人の内面を描いたと言われるには、あまりにも澄みすぎているのだ。女も、そして男も、本来そんなに整然とした存在ではない。欲望も矛盾も、時には醜ささえ抱えている。だからこそ人間は奥行き
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5-2

  『いやあああああああっ!!』耳をつんざくような悲鳴が、唐突に脳裏へと蘇る。あの日、桔梗が見せた恐怖に染まりきった表情と、その奥底から絞り出された叫びが、まるで今この瞬間に響いているかのように鮮明だった。「桔梗っ!」反射的に名前を呼ぶ。だがその声は、幸福に満ちていたはずの夢を無残に引き裂く引き金でもあった。さっきまで確かにそこにあった、穏やかで温かな時間が、音を立てて崩れ去っていく。  『蓮司さん』桔梗が優しく名を呼ぶ声が、かすかに残響のように胸に残る。記憶を失ってなお変わらない、俺の好きな声。女性にしては少し低く、どこか落ち着いた響きを持つその声は、耳に届くだけで心を静めてくれる。  『好きです』俺の腕の中で、照れくさそうに、それでも逃げずに小さく紡がれるその言葉。まるで秘密を分け合うかのような囁きが、何よりも愛おしかった。それが―――再び、あの悲鳴に上書きされる。  『いやあああああああっ!!』「桔梗っ! 待って……」咄嗟に手を伸ばし、両肩を掴んで引き止める。だが次の瞬間、「え?」と返ってきた戸惑いの声に、こちらの動きが止まった。抵抗するでも、怯えるでもない、ただ純粋に不思議がっている声だったからだ。「蓮司さん?」いつも通りの呼び方。いつも通りの落ち着いた響き。俺の手が肩に触れていることすら気にしていないような、穏やかな表情。さっきまで脳裏を支配していた恐怖の残滓と、目の前の現実との落差に、思考が追いつかない。これは……どういうことだ。「こいつのこと……」言葉が途切れがちになる。「えっと……英武司さん、ですよね?」あまりにもあっさりとした答えだった。「ああ」と短く肯定しながらも、内心では理解が追いついていない。どうして平然としていられる。あのときの悲鳴は、確かに武司に向けられたものだったはずだ。「ご親族の皆様のお話によく出ていらっしゃいますし、何より英家のご当主に御声がよく似ていらっしゃるので」淡々とした説明。英家の当主である春樹小父さんと武司は、顔立ちは似ていないが声質は驚くほど近い。その点から結びつけたのだろう。「……大丈夫か?」思わず問いかける。「あの、大丈夫とは、何がです?」心底不思議そうに首を傾げる桔梗。その反応に、全身から一気に力が抜けた。膝から崩れ落ちそう
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5-3

「「良かった……」」母さんが手配した車に桔梗を乗せ、走り去っていくテールランプを見送った直後、俺と武司は互いに顔を見合わせる余裕すらなく、その場にしゃがみ込んでしまった。周囲に人目があることは分かっていたが、そんな体裁を気にしていられるほど、今の俺たちに余力は残っていなかった。膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込み、ようやく肺の奥に溜まっていた息を吐き出す。全身の力が抜けるとはこういうことを言うのだろう。指先から肩、背中に至るまで、張り詰めていた緊張が一気にほどけていくのが分かる。「気を使わせて悪かったな」掠れた声でそう言うと、隣で同じように肩を落としていた武司が、軽く首を振った。「いや、これは結果論だろ。それに俺が桔梗さんの記憶のトリガーの一つであることには変わりない。できるだけ距離は取るよ」言葉は冷静だが、その横顔にはわずかに苦笑が見える。今回の件で「もう大丈夫」と思いたいところもあるが、安心しきるのに不安があるようだ。それは俺だって同じだ。もしさっき、ほんの少しでも歯車が狂っていたら、あの日と同じことが起きていたかもしれない。そう思うと、今さらながら背筋に冷たいものが走る。「そうか、すまな……」「だから、たまに、たま〜にでいいから桔梗さんに弁当を作ってもらってくれ」間の抜けたような要望に、一瞬思考が止まる。緊張と安堵の落差に脳が追いつかないのか、それとも単純に予想外すぎたのか、うまく反応できない。「……は?」ようやく出たのはそんな間の抜けた声だった。だが次の瞬間、妙に納得してしまう自分がいるのが悔しい。流石は桐谷一族というべきか、極限状態をくぐり抜けた直後でも、思考の行き着く先が食なのはある意味で一貫している。これは桔梗が命名した通りだ。彼女は遠慮がちに「食に対して情熱的」と表現してくれているが、実態はもう少し単純で、率直に言えば食い意地が張っているというやつだ。ただし、それ自体は悪いことではない。問題は、その情熱に対して技術が致命的に伴っていないことにある。俺たちは揃いも揃って、料理の才能が壊滅的に欠如している。包丁の持ち方からして怪しく、火加減という概念は理解しているつもりでも実践になると途端に破綻する。美味しいものを作れないどころか、再現すらできない。インスタントラーメンでさえ、説明通りに作るだけなのに何故か味が安定しない。
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5-4

蓮司さんに抱かれたあの日から、私の生活は静かに、けれど確実に変わっていった。大きく何かが壊れたり、新しい何かが始まったという劇的な変化ではない。ただ、同じ一日を過ごしているはずなのに、胸の奥に灯る感情の質がまるで違う。朝、目が覚めると隣に蓮司さんがいる。その事実が、こんなにも心を満たすものだとは思わなかった。眠っている横顔に、そっと手を伸ばせば届く距離。規則正しい呼吸に合わせてわずかに上下する胸元を見つめながら、触れてもいいのだと許されていることに、いまだに少しだけ戸惑いと嬉しさが混じる。カーテンの隙間から差し込む柔らかな光に、そろそろ起きる時間だと頭では理解していても、蓮司さんは目を閉じたまま私の肩を引き寄せる。その腕に包まれたまま、もう一度まどろみに沈む時間。それが今では、私の一日の始まりとして欠かせないものになっていた。夜になれば、互いの体温を分け合う時間も訪れる。結婚してからも長い間、そんな雰囲気すらなかったから、蓮司さんはそういったことにあまり意欲がない方なのだと思っていた。けれど実際は違っていた。思っていたよりもずっと自然に、そして思っていたよりも頻繁に、私を求めてくれる。求められること自体は嬉しい。けれど同時に、こんなにも求め合うものなのかと戸惑う気持ちも、正直なところまだ残っている。蓮司さんは、少しだけ意地悪になった気がする。夜の始まりは、言葉がなくても気配で分かる。それでも蓮司さんは、あえて言葉にする。私がそれを恥ずかしがると知っているからだ。恥じらう姿を見て楽しむなんて、意地が悪いと思う。けれど、その意地悪さの奥にあるのが、私を大切に思ってくれている気持ちだと、今は分かる。私もまた、応えたいと思うようになっている。恥ずかしいという気持ちは決して消えないけれど、それでも応えたいと思った瞬間から、私の体は自然と準備を始めてしまう。その変化に気づくたびに、少し驚き、少しだけ誇らしくも感じる。最初は戸惑いばかりだった。はしたないという思いが先に立ち、蓮司さんと目を合わせることすらできなかった。女が性欲を持ち、それを望むことは慎むべきだと教えられてきた。その価値観は簡単には消えなかった。けれど蓮司さんは、そんな私を否定しなかった。恥ずかしがる私も、戸惑う私も、そのまま受け入れてくれた。そしてそれを「嬉しい」と言ってくれた。その言葉に、どれだけ救われたか分か
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5-5

「桔梗さん」名前を呼ばれて、私ははっと我に返った。つい先ほどまで意識の奥に沈めていた思考が、一気に現実へと引き戻される。顔を上げると、こちらを見ていたのは石川先生と朋美さんだった。二人と一緒に過ごしている最中だというのに、気づけば蓮司さんのことを考えていたなんて、自分でも呆れてしまう。「桔梗さん、いまお兄のことを考えているでしょう」「え?」思わず間の抜けた声が出る。朋美さんは口元をにやりと歪め、いたずらっ子のような視線で私を見つめていた。「色っぽーい顔をしてるから、すぐに分かるよ。ね、石川先生」「朋美さん!」図星を突かれた恥ずかしさに、頬が一気に熱を帯びる。そんな私の反応が面白いのか、朋美さんは楽しそうに笑い声を上げ、石川先生に同意を求めた。「そうですね。いやはや、若い人と過ごす時間はとてもいい刺激をもらえますよ」石川先生は穏やかに目を細めながら、どこか含みのある言い方で頷く。その声音にはからかいの色は薄いが、完全に否定もしていないあたり、余計に恥ずかしさが増してしまう。.石川先生とは、あの日助けていただいたお礼をして以来、こうして時折お会いするようになった。絵画についての知識は、私にとってはまだ詰め込んだだけのものに過ぎないが、先生のお話はそこに息遣いを与えてくれるようで、とても分かりやすく、そして興味深い。言葉一つひとつに実感が宿っていて、ただ覚えるだけでは得られない理解へと導いてくれる。今日は朋美さんも一緒だ。先日の一件以来、蓮司さんは目に見えて過保護になった。私が一人で外出することはほとんど許されず、誰かと会う場合でも場所は限られている。桐谷グループのホテルのラウンジか、あるいは誰かが同伴している場合に限って喫茶ルーム。それが今の私に許された外出の形だった。心配をかけてしまった自覚はあるし、何より私自身もあのような出来事を二度と経験したくはない。蓮司さんの心配を息苦しくないかとお義母様は心配してくださったが、蓮司さんの気遣いを窮屈だとは思わない。むしろ守られているという安心感の方が大きかった。.「それにしても、これはとても面白いですね。感情のない線を描くのはとても難しいのに、これはすぐに描ける」石川先生は、朋美さんが持っていたタブレットを満足げに机へと置いた。画面には女性の姿が描かれている。線は滑らかで迷いがなく、無駄
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5-6

「……あの四連花は、美し過ぎてしまって、私にはその美しさがどこか遠く感じられてしまいました……あの、本当に申し訳ありません」言葉を選びながら、けれど最後は小さく頭を下げてしまう。美術について深く学んできたわけでもない私が、第一線で活躍されている方の作品に対して意見を述べるなど、本来であれば差し出がましいことだと分かっている。それでも、胸の内に残った違和感は偽りのないものだった。四連花は確かに美しい。誰が見てもそう感じるであろう完成度と、息を呑むほど整えられた画面。その中に描かれた女性たちは、清らかで、静謐で、どこか俗世から切り離された存在のように見えた。まるで「女性」という概念だけを抽出して、穢れも揺らぎも取り除いたかのような、そんな印象だった。けれどだからこそ、私はそこに距離を感じてしまったのだと思う。あの女性たちからは、「性」を感じることができなかった。性という言葉に含まれるものは、単なる肉体的な要素だけではない。欲や衝動、誰かに触れたいと願う心、そういったものも含まれているのだと、蓮司さんと過ごす夜の時間が教えてくれた。欲があるからこそ、人は他者に近づきたいと願い、触れ合い、時には混ざり合うようにして互いの存在を確かめようとする。そうした人間の持つ生々しさが、私には自然なものに思えるようになっていた。だからこそ、あの絵に描かれた女性たちの、あまりにも整い過ぎた美しさが、かえって現実から遠ざかって見えたのだ。もしあれが、遠い過去の画家による理想像だと言われれば納得できる。だが石川先生の描かれたものだと思うと、どうしても違和感が残る。なぜなら私は、あの美術展で、先生の別の作品を見てしまっているからだ。誘うような視線、濡れた肌の質感、力強くもどこか艶めいた線。そこには確かに、人間としての女が存在していた。欲も、迷いも、熱も含んだ、生きている女性。その印象が強く残っているからこそ、四連花との落差に戸惑ってしまったのだ。「僕が描いた風には見えない?」静かな問いかけに、言葉が詰まる。「それは……」どう答えるべきか迷う私を見て、石川先生は小さく笑った。「ある意味では当たっているよ。あの絵を描いたときの僕と、いまの僕はまったくの別人だしね。それに、あのときの無垢な少女は、いまは女になった。いまの僕にとっては、その“女”である彼女の方が何よりも美しい。だからもう、あんな彼女は描
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5-7

「桔梗」名前を呼ばれたのは、ホテルの正面エントランスだった。夜気はまだ冷たく、ガラス張りの自動ドアの向こうから漏れてくる暖かな光との境界に立ちながら、私は朋美さんと並んで足を止めていた。桐谷家からの迎えの車が渋滞に巻き込まれていると連絡が入り、このまま外で待つか、それとも一度中に戻るかを相談していた最中だった。その声に振り返りながら、最初に浮かんだのは単純な疑問だった。――誰だっけ? 自分でも驚くほど自然に、そう思ってしまったのだ。「錦野さん」隣で朋美さんが彼の名を呼び、そこでようやく記憶の断片が繋がる。錦野柾。『私』の婚約者だった人。その情報だけが、他人事のように頭の中に浮かんだ。*「久しぶりだね、桔梗」親しげに微笑みかけてくるその顔を、私はどこか距離を置いた気持ちで見ていた。私の始まりは病室だ。目を覚まし、状況を説明され、自分が妊娠していると知ったあの瞬間から、いまの私は始まっている。だから目の前の彼についても、「かつて婚約していた相手」という事実以上の実感はない。整った顔立ちではある。だがどこか軽薄さが滲んでいて、華やかさがそのまま軽さに繋がっているように見える。その印象が、どうしても私の中で好意に変わることはなかった。そして何より――この人の視線に、わずかな違和感があった。「桔梗さん」ふいに呼ばれて、はっとする。隣を見ると、朋美さんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。思ったより長く、ぼんやりとしてしまっていたらしい。彼女の手はわずかに震えていて、顔色も優れない。優しい人だ。私のことで、余計な心配をさせてしまったのだろう。「大丈夫?」問いかけると、朋美さんはちらりと錦野柾を見る。その一瞬の視線だけで十分だった。――この人との関係は、他人が心配するようなものだったのだと理解する。記録の上では婚約者だったはずなのに、その前提がどこか不安定に感じられる。「ごめんなさい、少し疲れてしまったみたい。早く車が来るといいわね」そう言うと、朋美さんはじっと私の顔を見つめた。その視線は、どこか蓮司さんに似ている。相手の内側を確かめるような、真っ直ぐで誤魔化しを許さない目。「大丈夫」そう微笑んでも、すぐには納得してくれなかった。それでもしばらく見つめた後、ようやく本当に問題がないと判断したのか、わずかに表情を緩める。「おい、桔梗! 無視すんなよ!」その声に、胸の奥がひやりと冷えた
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5-8

「桔梗さん、大丈夫?」「朋美お嬢様。ここは冷えますので、若奥様を中へ……お話もそちらで」丁寧な声が耳に届く。その気遣いはありがたく、対応としても申し分ないものだと分かっている。それでも――これ以上ここに留まりたくないという思いが、胸の奥から強く湧き上がっていた。錦野柾と同じ空間にいることが、どうしようもなく落ち着かない。理由ははっきりしない。けれど、体の奥がはっきりと拒絶している。関わってはいけないと、本能が警鐘を鳴らしているようだった。「……中へ、戻りましょう」自分でも驚くほど弱々しい声が出た。それでも朋美さんはすぐに頷き、私の腕を支えるようにして歩き出してくれる。その優しさに少しだけ安心しながらも、背後に残された視線を振り返ることはできなかった。怖い――ただその感情だけが、はっきりと胸に残っている。「いいえ、私たちは……」そう言いかけた瞬間、「それはいい考えだ。君、案内してくれ」と、言葉を遮るように錦野柾が口を挟んだ。「錦野さん……」思わず声が低くなる。ホテルのスタッフの気遣いは、あくまでこちらに向けられたものだ。それを当然のように横取りするその態度に、じわりと苛立ちが滲む。彼の言葉には、こちらを気遣う色は薄く、むしろ桐谷家に対する形式的な敬意だけが見えていた。それを自分のもののように扱われることが、どうしても受け入れられない。「いいえ。そろそろ車が来るでしょうから、中に入らなくても大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」落ち着いた声でそう告げると、スタッフは一瞬戸惑ったものの、すぐに状況を理解したようで安堵した表情を浮かべ、軽く一礼して下がっていった。その背中を見送りながら、場の主導権を取り戻したことに小さく息をつく。「話があるんだぞ」苛立ちを隠そうともしない声音が飛んでくる。「お話でしたら、ここで伺います」即座にそう返すと、わずかな沈黙が落ちた。再会を懐かしむような関係性が、果たして『私』とこの人の間にあったのだろうかと考える。けれど、どうしてもその想像ができない。記憶がないからではなく、もっと感覚的な拒否のようなものがある。……なさそうだ、と、直感が告げていた。「なんだ、その目」錦野柾の顔に、あからさまな苛立ちが浮かぶ。私が素直に従わないことが気に入らないのだろう。その反応を見て、逆に確信に近いものを覚える。彼にとって『私』とは、自分の言葉に従う存在
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5-9

「もしかして、君との婚約を破棄して桜子と婚約しようとしたことを怒ってるのか?」軽い調子で投げられたその言葉に、私は一瞬だけ思考が止まった。――そうだったの? と、まるで他人事のように驚く。けれどその驚きは怒りや悲しみから来るものではなく、ただ事実を知らされたことへの遅すぎる反応に過ぎなかった。今さら知ったところで感情が大きく揺れるわけでもない。ただ、ああ、そういうことだったのだと、どこか腑に落ちる感覚だけが残る。錦野さんは「怒ってる」と笑いながら言った。その笑い方は、当時の出来事が彼にとってどの程度の重さだったのかを雄弁に物語っている。本来なら怒って当然の状況だったのだろう。けれど彼の中では、私がそれを受け流して当然で、むしろ笑い話にできる程度の出来事だったということだ。その温度差だけで、どんな関係だったのかは十分に想像がついた。「それとも、クラブとかパーティーに君を誘わず桜子を連れていったことを怒っているのか?」また同じように、笑いながら問いかけてくる。その軽さに、胸の奥がひやりと冷える。やはり――『私』はこの人を好きではなかったのだろう。そうでなければ、この言葉の端々に滲む無神経さに、こんなにも拒絶感を覚えるはずがない。「仕方がないだろう。桜子が君に虐められたって泣きついてきてさ。俺としては婚約者の君の尻拭いだったんだよ。分かってるって、慰めているうちに桜子とそういう関係になったのは悪いと思っているさ」軽く肩をすくめながら言うその態度に、言葉を失う。「悪いと思っている」と言いながら、そこに罪悪感の色はほとんど見えない。むしろ、自分は仕方なくそうしたのだとでも言いたげな響きがある。それにしても、この人は……。「関係を持ったのは大学を卒業してすぐで、桜子は初めてだったしさ。だから婚約者を桜子に、って」――口が軽い。思わずそう感じる。こちらが聞いてもいないことまで、まるで自慢話でもするかのように次々と口にする。その無遠慮さに、内心でため息が漏れた。「でもそれはお互い様だろう? 蓮司さんと君は……」「錦野さん!」鋭い声が割り込んだ。驚いてそちらを見ると、朋美さんが険しい表情で錦野さんを睨んでいる。その顔は、先ほどまでの柔らかな雰囲気とはまるで別人のようだった。……どうして、そんな顔を? 彼の言葉の続きを頭の中でなぞる。蓮司さんと、私が――。ああ、そうか。「ごめんなさい」
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