Semua Bab 知らないまま、愛してた: Bab 111 - Bab 120

270 Bab

5-10

「桔梗」その声に、びくりと肩が揺れた。振り返るよりも早く、勢いよく開かれた扉の音が耳に届く。子ども部屋に飛び込むように入ってきた蓮司さんの姿に、私は目を見開いた。「蓮司さん、どうしました? お仕事は?」思わずそう問いかける。ラグの上で遊んでいた誠司がぱっと顔を上げ、嬉しそうに声を上げた。大好きな父親の突然の登場に、全身で喜びを表しているのが分かる。その無邪気さに一瞬だけ空気が和らぐが、蓮司さんの表情はそれどころではなかった。「錦野柾が桔梗に接触したと聞いて……大丈夫か?」真っ直ぐに向けられる視線。その奥にある焦りと不安に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。大丈夫か、と問われても、どこからどこまでを指しているのか分からない。ただ、あの場で感じた不快感や恐怖を思い出すと、完全に平気だったとは言えない気もする。「足元がふらついたと聞いている。いまの気分は? 気持ち悪かったり、頭が痛かったりしないか?」まるで医者のように矢継ぎ早に問いかけるその様子に、思わず小さく笑みがこぼれる。こんなにも分かりやすく心配してくれる人がいる。その事実が、どうしようもなく嬉しかったからだ。「ふふっ」自分でも抑えきれない笑いが漏れる。夜ではないし、誠司もいる。だから普段のような甘い空気ではない。それでも、胸の奥に生まれたこの温かい感情は、自然と体を動かしていた。私はラグの上に寝転がっていた誠司を抱き上げ、そのまま蓮司さんの胸に飛び込む。しっかりとした胸板に頬が触れる。硬くて、温かくて、安心できる場所。ふわりと香るミント系の爽やかな匂いに、思わず深く息を吸い込む。……ウッド系の香りも似合いそう、なんて場違いなことまで考えてしまう。「桔梗?」突然の行動に戸惑った声。それでも次の瞬間には、蓮司さんの腕が私たちを包み込むように背中で交差する。その自然な動きに、言葉以上の愛情を感じて、また胸が高鳴った。「心配してくださってありがとうございます。大丈夫でしたけれど、蓮司さんが来てくださって、もっと大丈夫になりました」顔を上げてそう言うと、蓮司さんはじっと私の表情を見つめる。まるで本当に大丈夫かどうか、嘘がないかを確かめるように。「……よかったよ」吐き出されたその言葉は、肺の中の空気をすべて吐き切ったかのような、心の底からの安堵を含んでいた。その声音に、彼がどれほど心
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5-11

「姫川綾乃さん、か」ぽつりと呟いて、仕事に戻る蓮司さんを見送ってから手に取った雑誌を、開くことなくテーブルへと置いた。バサッ、と紙が打ちつけられる乾いた音。どうやら無意識のうちに力が入っていたらしい。雑誌に八つ当たりをするなんて、みっともない――そう思いながらも、胸の奥に生まれた小さなざわめきを完全には否定できなかった。誌面に載っているのは、端正な横顔の女性。柔らかな光を受けてヴァイオリンを構えるその姿は、まるで一枚の絵画のように完成されている。姫川綾乃さん。世界的に著名なヴァイオリニストである児玉謙次に才能を見出され、若くして海外へ渡り、オーストリアやプラハの音楽学院で研鑽を積んだ人物。卒業後は現地のオーケストラでコンサートマスターを務めるなど、輝かしい経歴を重ねてきた女性だ。写真の中の彼女は、自信と気品をまとい、どこか近寄りがたいほどに洗練されている。三十歳。そう書かれたプロフィールの一文が、妙に印象に残る。蓮司さんと同じ年齢だという事実に、なぜか意識が引き寄せられるのは二人が同級生だったこともある。「子どもも欲しいし、そろそろ結婚してあげようと思って日本に帰ってきたら、もう結婚していたから残念だったわ」先日、帰国の挨拶だと言って桐谷家に来た彼女。軽やかに笑いながら彼女はそう言った。まるで冗談のようでいて、どこか本気の色も混じっているような言い方だった。その場の空気は和やかで、誰もその言葉を深刻には受け取っていなかった。私も、そのときはただ曖昧に微笑んでやり過ごしただけだった。けれど、こうして一人になって思い返すと、その言葉の重みがじわじわと輪郭を持ってくる。「責任感のある人よね、蓮司は」そう続けた彼女の声音には、過去を知る者だけが持つ親しみがあった。まるで今でもよく理解していると言わんばかりの距離感。その自然さが、かえって胸に引っかかる。蓮司さんと姫川さんのお付き合いは、蓮司さんのほうからの告白だったらしい。そう教えてくれたのは姫川さんは誇らしげだった。けれど若かった彼女はヴァイオリニストとしての夢を諦めきれず、自ら別れを切り出したのだという。その話し方はとても丁寧で、まるで事実を正確に伝えようとするかのようだった。そこに未練があるのかどうかは分からない。ただ、過去を大切に扱っていることだけは伝わってきた。そして、その後の話も
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5-12 side蓮司

錦野柾、姫川綾乃。どうしてこうも立て続けに面倒な名前が浮上してくるのかと、俺は思わず武司に愚痴をこぼした。ここ数日の出来事を振り返るだけで頭が重くなる。静かだったはずの日常に、わざわざ波紋を投げ込むように過去の人物が現れる。しかも一人ではない。まるで順番待ちでもしていたかのように、タイミングを見計らって現れてくるのだから性質が悪い。「蓮司の人生が恋愛小説だからじゃないか?」武司はあっけらかんと言い放ったが……思わず言葉を失う。「俺はお前と違って恋愛お花畑の住民じゃないんだぞ」反射的に返すと、武司は肩をすくめて笑った。「俺もそう思っていたけどな。今のお前は完全に恋愛お花畑への移住民だ。桔梗さんといるときの蓮司は、背景にハート模様で花が咲き乱れてるからな」……否定できないのが悔しい。自覚がないわけではないから。桔梗といるとき、無意識に気が緩んでいることくらい分かっている。ただ、それを他人にここまで的確に言語化されると、さすがに居心地が悪い。「恋愛小説の男主人公の宿命だよ」武司は慰めるように、ぽんと俺の肩を叩いた。「新キャラが出ないと読者が飽きるからな」……俺の人生は誰かの娯楽じゃない。思わず眉をひそめるが、武司は気にした様子もなく続ける。「有名税みたいなもんだと思っておけ。それに実害は出てないんだろ?」そう言われると、強く否定もできなかった。·桔梗が錦野に会ったとき、頭を押さえたあとふらついたという報告には、正直肝が冷えた。病院で花嶺辰治にあったとき、桔梗が頭が痛いと言って失神したことを思い出した。今回は立ち眩みで、大事をみて主治医を呼んだが、特に異常は見当たらなかった。その後の様子を見ても体調に異常は見られず、桔梗自身は貧血か何かだろうと笑っていた。少なくとも今すぐ何かが起こる状況ではないが……。「とりあえず姫川綾乃のことは放っておけばいいんじゃないか?」武司の声に、現実に戻る。「いろいろ桔梗さんにちょっかい出してるみたいだけど、桔梗さんは気にしてないようだぞ」武司の言葉に、ふと桔梗の様子を思い出す。確かに、彼女は妙に落ち着いていた。あれだけ露骨な話を振られても、大きく感情を乱すことはなかった。「一応、元恋人とは仲良くするなとは言われた」「一応、だろ? しかも楽しそうに笑いながらじゃないのか?」……その通りだ。「
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5-13

「冗談はさておき、錦野のことは……どうする?」錦野の計画、武司命名の『花魁計画』に対して俺は何も言わなかった。それから日に何度も錦野から連絡が来ていたが、全て取り次がせなかった。それに焦れて、錦野は桔梗に会いにいった。桔梗を盾にすれば俺が会う。その目論見通り、俺は錦野に会ったのだが……。「正直、拍子抜けした」錦野が凜花から盗んだ音声データは、ただ一点、桔梗に知られることを除けば俺にとって脅威ではない。桔梗の名さえでなければ警察に提出しても構わないほどだが、錦野も馬鹿ではないので、それをすれば脅迫罪など自分のほうが罪に問われると分かっているだろう。なにしろ、錦野自身もあの音声をそういった趣向のあるプレイだと思っていたのだから。·俺と武司は、あの音声を桔梗に聞かせることで、彼女の記憶を刺激する――それが錦野の狙いだと考えていた。あの日のことを思い出させる可能性。それだけは、何としても避けなければならない。だからこそ、あの音声の存在自体が脅威だった。だが実際は、錦野はあの音声を使って、俺と桔梗の評判を落とそうとしていた。倒錯的なプレイを楽しむ男女であると言って。「……本当にくだらない」「だが、これ以上無視すると何をしでかすか分からないぞ」「かといって、脅しに乗るわけにはいかない」自分に言い聞かせるように口にする。錦野は、要求を呑めば音声データは渡すしコピーも残さないと言った。だが、そんな言葉を信用できるはずがない。一度でも応じれば、それで終わりではない。むしろ次の脅しの種を自ら差し出すようなものだ。さらに言えば、今回の件を通じて、あの音声がどれほど価値のある“材料”なのかを、あいつ自身に気づかせてしまう可能性すらある。そうなれば、状況はより悪化するだけだ。·「しかし、錦野も何を考えてるんだか……あんな趣味があったとはな」武司が呆れたように息を吐く。錦野が願っているのは、己の歪んだ理想の実現。完璧な妻と、完璧な愛人を持つことで、男としての完成形に至る――そんな馬鹿げた考えだった。普通なら笑い飛ばして終わりだ。だが厄介なことに、錦野は本気でそれを追い求めている。あいつが理想とする“完璧な愛人”の像は、さらに現実離れしている。それはかつて遊郭で頂点に立っていた花魁のような存在。美しく、教養があり、振る舞いにも隙がなく、そして男を魅了す
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5-14

錦野が考えたことは、自分の愛人を“共有する”という発想だった。聞いた瞬間、思考が一瞬止まるほどには歪んでいる。あくまでも「自分の所有物」であるという前提を崩さないまま、男たちを集め、その愛人を披露し、競わせる。そして最も高額を提示した者に“愛人を抱く権利”を与える。ただの醜悪な欲望の見世物、下劣なオークション。愛人に満足した男たちの賞賛は、そのまま愛人の価値へと転換される。愛人の価値が高まれば、錦野には金が流れ込み、同時に「そんな女を所有している男」としての優越感を得られる。羨望と嫉妬を浴びることで、彼自身の承認欲求も満たされる仕組みだ。すべてが自分の欲のために設計された、歪みきった循環。潔癖症を自称する男が、その実こんな腐臭を放つ構想に陶酔しているという事実に、吐き気すら覚える。錦野はそれを「紳士的な同盟」と呼んでいたが、実態はただ同じ嗜好を共有する連中を束ねているだけの、下劣な集まりに過ぎない。さらに厄介なのは、この仕組みに合理性を見出している点だった。一人の“完璧な愛人”を育て上げるには莫大な資金がかかる。しかし共有という形を取れば、その負担は分散される。浮いた資金で別のタイプの愛人を用意し、同盟の規模を拡大する。やがては多様な“商品”を抱えることで市場を支配し、影響力を強めていく――錦野はそう語っていた。まるでそれが社会的価値を持つ事業であるかのように。だが実際には、男たちに違法な行為をさせ、その証拠を握って縛り付け、逃げ場を奪いながら金を搾り取るだけの構図だ。倫理も法も切り捨てた、ただの搾取システムでしかない。·その構想の中核として、錦野は浅草・千束エリアの物件を求めていた。その場所もまた象徴。そこは、かつて江戸で最も有名な花街であった吉原遊郭の跡地。その歴史を“再現”するのだと、錦野は歪んだ笑みを浮かべていた。そんなもの、文化の継承でも何でもない。ただ過去の制度を都合よく切り取り、自分の欲望に都合よく塗り替えようとしているだけ。現実はそう甘くない。観光資源としての価値とインバウンド需要の高まりで、あの一帯の地価は急騰している。錦野の資金力では到底手が届かない。だが俺には届く。だから錦野は俺に会いにきた。錦野の要求額は、俺には用意できるもので、負担ではあるが、あの音声データの代償と思えば安い。ただ払うことで錦野の共犯になってしまう
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5-15

「ついでに桔梗さんの異母妹の“ざまあ”ができる」「花嶺桜子、か」軽く吐き出した言葉のわりに、その響きは自分でも驚くほど冷えていた。錦野と花嶺桜子が置かれる環境は、桔梗が表に出たことで変わった。これまでは婚約者が変わって当然と錦野を理解し、花嶺桜子は花嶺家の真のご令嬢と持ち上げられていたが、いまでは浮気男と略奪女のレッテルが貼られている。しかし、それでも臆することなく二人は揃って人前に姿を現している。むしろ、わざと見せつけるように、あちこちの場に二人で顔を出し続けており、その様子を見た人間の中には、妙な情を抱く者もいるらしく、「いっそ婚約してしまえばいいのに」と、無責任な期待を口にする声も少なくないという。だが錦野は、そのたびに決まって「一族に反対されているから難しい」と、いかにも理性的な理由を添えてかわしている。しかし、内情を知ってしまった今では、それが単なる建前であることは明らかだった。いずれ錦野は妻を持つだろう。だがそれは花嶺桜子ではなく別の誰か。おそらく錦野家が用意した女性で、錦野は仕方がないといった風に妻を持つだろう。錦野にとって花嶺桜子は伴侶ではなく愛人、つまり“作品”だ。自分の理想に近づけるために手をかけ、磨き、完成させたのちに他者へ誇示するための存在だから、錦野は各所へ連れ回している。披露し、見せつけ、評価させるために。つまり、すでに花嶺桜子の“愛人化”は始まっている。都内の高級ホテルのスイートルームで定期的に錦野が開かれているパーティー。以前はただの社交の場、あるいは金持ちの道楽だと軽く見ていた。だが実態は違う。あれは選別の場であり、同時に“共犯者”を増やすための装置だった。パーティー参加者は全員が高額の費用を支払っている。しかも招待制で、一度参加した者には次の招待が届くが、その際には新規の男を一人連れてくることが条件となっている。閉じた円環を広げながら、逃げ場のない関係を築いていく仕組みだ。俺は知り合いを通じて調査員を潜り込ませた。条件は彼を『紳士的な同盟』から抜け出させること。そうして得た情報は、想像以上に生々しかった。最初は本当に普通のパーティーだという。上質な酒、洗練された会話、品のある音楽。だが酒が回り、場の空気が緩んだ頃、初参加の男だけが呼び出される。そこで初めて告げられるのだ。「これから花嶺桜子のオークション
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5-16

ただ花嶺桜子の排除については賛成だが、実行に移す前にどうしても拭いきれない問題があった。それは取るに足らないはずの違和感であり、しかし思考の奥に刺さったまま抜けない小さな棘のようなものだった。·桔梗と結婚した後、まだ武美や秘書を連れて公の場に出ていたとき、付き合いで武美と共に出席したあるパーティーで花嶺桜子と顔を合わせたことがある。事前に聞いていた彼女の評判は、自己愛が強く、他者の視線を糧にするような女だというものだった。実際に目にした彼女の振る舞いは、その評価を裏切るものではなかった。視線を集める立ち位置を自然に選び、誰にどう見られているかを計算しながら笑い、話し、場の中心に居続ける。その姿には、訓練された演者のような隙のなさすらあった。だが、その中で一つだけ、どうしても腑に落ちない行動があった。  『妹です、って顔して近づいてくると思ったのに』隣で武美も同じ違和感を口にした。あの場で自分の価値を引き上げるなら、俺に近づき“義妹”という関係性を利用するのは極めて合理的な手段だったはずだ。俺の名前は、良くも悪くも一定の影響力を持つ。花嶺桜子にとって、それは確実に自分の格を底上げするカードになる。それなのに彼女は近づいてこなかった。それどころか、明確に距離を取った。いや、あれは単なる回避ではない。逃げていた。視線が合いかけた瞬間、顔を強張らせ、まるで見てはいけないものを見たかのように逸らし、背を向けるようにして離れていった。その反応は、明らかに異常だった。あれは恐怖。しかし、あそこまで露骨な恐怖を向けられる理由に、心当たりはほとんどない。だから、可能性があるのは桔梗に関すること。桔梗に対して何かを、例えば虐めるなどしていたから、その報復を恐れている可能性。だが当時の状況を考えれば、それも説得力に欠ける。周囲の認識では、俺は武美に執着していて、桔梗との結婚は彼女が妊娠していたから、体裁のためのものに過ぎないと思われていた。つまり、桔梗のために動く男には見えていなかったはずで、あそこまで怯える理由にはならない。  『蓮司の無表情が怖かったんじゃない?』武美は軽くそう言ったが、それも違う。桔梗と結婚する前に顔を合わせたときの花嶺桜子は、むしろ距離を詰めてくるタイプだった。必要以上に親しげで、踏み込みすぎるほどだった記憶がある。だから単純に俺個人を
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5-17

「蓮司、偶然ね」その声を聞いた瞬間、思考より先にわずかな苛立ちが胸の奥に沈んだ。偶然―――その言葉を、これで何度聞いただろうか。今日も俺の出かけた先に綾乃がいた。まるで時間と場所を正確に計算したかのように、俺が足を踏み入れた場所に、あるいはほんの数分後に、自然な顔をして現れる。その頻度は偶然で片付けるにはあまりにも多すぎた。さすがに不審に思い、俺は一度専門業者に依頼して自宅や車内、持ち物に至るまで徹底的に調べさせた。しかし、盗聴器や追跡装置の類は一切見つからない。一度や二度ならまだしも、こうも頻繁にあるなら決して偶然ではない。それなのに「どうやって」が分からず、気持ちが悪い。「何してるの?」「妻とデート」短く答える。この質問自体に意味はない。ここは女物の服を扱う店。「妻と」もしくは「妻のため」以外の理由があるはずがない。しかも、ただ店にいるだけではない。使用中の試着室の真正面。そこに置かれたソファに腰掛け、どう見ても“待っている”のだ。「やっだあ、蓮司って女性の買い物に付き合うタイプじゃないじゃない」軽やかな声色。だがその言葉の裏には、どこか探るような響きが混じっている。「桔梗の買い物には喜んで付き合っている」即答した。付き合うどころか、むしろ率先しているのだが、そこまで説明する義理はない。この時間は俺にとっての楽しい時間。桔梗は物欲が強いほうではない。必要最低限で満足してしまう性質だ。だからこそ、こうして店に連れてきて、選択肢を目の前に並べる。それでも、なかなか自分からは手を伸ばさない。それでも遠慮がちに触れていた服を「似合う」と言えば桔梗の顔は少しだけ緩み、「試してみるか」と促せば素直に頷く。その反応が分かりやすくて、可愛くて、ずっと見ていられる。さらに、俺が選んだ服を着て、少し照れたようにカーテンの向こうから出てくる。その瞬間を最初に見られるのが自分だという事実だけで、十分に価値がある。だからこれは面倒でも義務でもない。純粋に、楽しんでいる時間だ。だがそんなことを、綾乃に説明する必要はないし、する気もない。そもそも綾乃は、俺の話をまともに聞いていない。いつもそうだ。会話になっていない。こちらの返事を自分の興味のある方向に解釈し、会話をねじ曲げていく。「へえ、意外。そういう顔もするんだ」くすりと笑いながら、視線だけは試着室
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5-18

「せっかくだし、一緒にご飯に行きましょうよ。もちろん桔梗さんも一緒にね」やはりな、という感想しか出てこない。妻とのデート中だと分かっていて、なぜ第三者が食事に割り込もうとするのか。その上で“もちろん桔梗さんも”という言い方。主語はあくまで自分で、桔梗は付属物のように扱われている。図々しいという言葉では足りない。だが綾乃にとってはそれが普通なのだろう。彼女の判断基準は常に「自分がどうしたいか」で完結していて、他人の都合や関係性は後から付け足されるものに過ぎない。「妻とのデートの邪魔はしないでくれ。そもそも、この店はいま俺が貸し切りにしていたはず。どうやって入った?」あえて平坦な声で問うと、綾乃は肩をすくめて笑った。その仕草すら計算されたものに見えるから始末が悪い。視線を彼女の後ろへ滑らせる。入口付近で恐縮したように立っている女性スタッフが、明らかに視線を逸らした。事情はほぼ察した。「私もここの顧客だもの」さらりと言い切る声音に悪びれた様子はない。「あれ? それを知っていたから、ここに来たんじゃないの?」試すような視線。こちらの反応を観察しているのが透けて見える。「そんなわけがないだろう」即答する。間を与えれば余計な解釈を差し込まれるだけだ。「えー、私と桔梗さんって似ているじゃない? だから、蓮司はここに桔梗さんを連れてきてあげたんじゃないのかなー、って思ったのに」わざとらしく声量を上げる。試着室の方向を意識しているのが分かる。聞かせるための言葉。意図は明白だ。桔梗に俺が綾乃に未練があるのではという疑念を植え付ける。あるいは、こちらの反応を引き出して材料にする。そのどちらか。恋愛小説で散々見た手口だが、現実でやられるとここまで露骨なのかと逆に感心する。「全然似ていないだろう」間髪入れずに切り捨てる。曖昧にする余地は残さない。「全くもって、どこも似ていない」言い切ることで、余計な余白を消す。綾乃の眉がわずかに動いた。「それならどうしてここに来たの?」「桔梗がここの服を気に入ったから」事実をそのまま述べる。厳密には“気に入った様子だった”という程度だが、それで十分だ。「おねだりされたんだ」「そんなわけないだろう」即否定。桔梗はそんなことをしないし、する必要もない。「ただそんな気がしたから、俺も似合うと思ったし、だから連れてき
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5-19

「これに決めました」そう言って桔梗が見せたのは、深い緑色のワンピースだった。落ち着いた色味で、彼女の白い肌をより引き立てている。よく似合っていが同時に、違和感がある。ここに来て最初に彼女の目が長く留まっていたのは、別の一着だった―――そう、いまスタッフが試着室から出している柔らそうな生成りのワンピース。手に取って、少し迷うように眺めて、それから試着室に持っていったはずだ。「桔梗、他にはないか?」サイズの微調整をするからと、着てきた服に戻った桔梗に問いかける。桔梗の視線がほんの一瞬だけ生成りのワンピースへと滑った。やはり、あれだ。俺は迷わず桔梗が選んだ緑のワンピースと、スタッフが持っている生成りのワンピースを指さす。「二つ買おう」自然な流れで会計を頼むと、桔梗が小さく目を見開く。「蓮司さん……」「気にするな。気に入るものとの出会いは貴重だ」それ以上は言わない。理由を重ねれば遠慮されるだけだと分かっているからだ。「えー、その二つしか買わないの? 桔梗さんに似合う服、いっぱいあると思うのに」横から割り込むように綾乃の声が入る。さっきまでの涙はどこへやら、すでに普段通りの調子に戻っている。切り替えの早さには感心するが、だからといって評価が上がるわけではない。「蓮司もケチケチしないの。私のときは沢山買ってくれたじゃない」あのな、と言い返しかけたところで、桔梗が一歩前に出た。「私には私の買い物の仕方がありますので」柔らかい声音だが、はっきりとした拒絶だった。「私はきちんと選んだ服を買うのが好きなのです。お気遣いは結構ですわ」言葉の端々に無理はない。自然で、それでいて芯が通っている。「まあ……あなたは、そうかもね」綾乃の視線が、今桔梗が着ている服へと向けられる。観察するような、値踏みするような目。「それ、何度か着てるでしょ」言外に“新しくない”と含ませる声音。確かにこの服は何度か見ている。だが手入れが行き届いているせいで、他の新品と並んでも遜色はない。「まあ、何度か着ないと勿体ないものね」どこか憐れむような響き。だが、その言葉に対して桔梗は穏やかに微笑んだ。「はい、着ております。この服で蓮司さんとデートをするのは二回目ですから」ふわりと、空気が和らぐ。「思い出を作って、きれいに洗濯をして、丁寧にアイロンをかけて……アイロンかけな
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