All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 111 - Chapter 120

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5-10

「桔梗」その声に、びくりと肩が揺れた。振り返るよりも早く、勢いよく開かれた扉の音が耳に届く。子ども部屋に飛び込むように入ってきた蓮司さんの姿に、私は目を見開いた。「蓮司さん、どうしました? お仕事は?」思わずそう問いかけると、ラグの上で遊んでいた誠司がぱっと顔を上げ、嬉しそうに声を上げる。大好きな父親の突然の登場に、全身で喜びを表しているのが分かる。その無邪気さに一瞬だけ空気が和らぐが、蓮司さんの表情はそれどころではなかった。「錦野柾が桔梗に接触したと聞いて……大丈夫か?」真っ直ぐに向けられる視線。その奥にある焦りと不安に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。大丈夫か、と問われても、どこからどこまでを指しているのか分からない。ただ、あの場で感じた不快感や恐怖を思い出すと、完全に平気だったとは言えない気もする。「足元がふらついたと聞いている。いまの気分は? 気持ち悪かったり、頭が痛かったりしないか?」まるで医者のように矢継ぎ早に問いかけるその様子に、思わず小さく笑みがこぼれる。こんなにも分かりやすく心配してくれる人がいる。その事実が、どうしようもなく嬉しかったからだ。「ふふっ」自分でも抑えきれない笑いが漏れる。夜ではないし、誠司もいる。だから普段のような甘い空気ではない。それでも、胸の奥に生まれたこの温かい感情は、自然と体を動かしていた。私はラグの上に寝転がっていた誠司を抱き上げ、そのまま蓮司さんの胸に飛び込む。しっかりとした胸板に頬が触れる。硬くて、温かくて、安心できる場所。ふわりと香るミント系の爽やかな匂いに、思わず深く息を吸い込む。……ウッド系の香りも似合いそう、なんて場違いなことまで考えてしまう。「桔梗?」突然の行動に戸惑った声。それでも次の瞬間には、蓮司さんの腕が私たちを包み込むように背中で交差する。その自然な動きに、言葉以上の愛情を感じて、また胸が高鳴った。「心配してくださってありがとうございます。大丈夫でしたけれど、蓮司さんが来てくださって、もっと大丈夫になりました」顔を上げてそう言うと、蓮司さんはじっと私の表情を見つめる。まるで本当に大丈夫かどうか、嘘がないかを確かめるように。「……よかったよ」吐き出されたその言葉は、肺の中の空気をすべて吐き切ったかのような、心の底からの安堵を含んでいた。その声音に、彼がどれほど心配していたのかが伝わってくる。そこまで思
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5-11

「姫川綾乃さん。か」ぽつりと呟いて、私は手にしていた雑誌をテーブルへと置いた。思いのほか強い音がして、自分でも少し驚く。バサッ、と紙が打ちつけられる乾いた音。どうやら無意識のうちに力が入っていたらしい。雑誌に八つ当たりをするなんて、みっともない――そう思いながらも、胸の奥に生まれた小さなざわめきを完全には否定できなかった。誌面に載っているのは、端正な横顔の女性。柔らかな光を受けてヴァイオリンを構えるその姿は、まるで一枚の絵画のように完成されている。姫川綾乃さん。世界的に著名なヴァイオリニストである児玉謙次に才能を見出され、若くして海外へ渡り、オーストリアやプラハの音楽学院で研鑽を積んだ人物。卒業後は現地のオーケストラでコンサートマスターを務めるなど、輝かしい経歴を重ねてきた女性だ。写真の中の彼女は、自信と気品をまとい、どこか近寄りがたいほどに洗練されている。同じ三十歳。そう書かれたプロフィールの一文が、妙に印象に残る。私とではなく、蓮司さんと同じ年齢だという事実に、なぜか意識が引き寄せられた。「子どもも欲しいし、そろそろ結婚してあげようと思って日本に帰ってきたら、もう結婚していたから残念だったわ」あのとき、軽やかに笑いながら彼女はそう言った。まるで冗談のようでいて、どこか本気の色も混じっているような言い方だった。その場の空気は和やかで、誰もその言葉を深刻には受け取っていなかった。私も、そのときはただ曖昧に微笑んでやり過ごしただけだった。けれど、こうして一人になって思い返すと、その言葉の重みがじわじわと輪郭を持ってくる。「責任感のある人よね、蓮司は」そう続けた彼女の声音には、過去を知る者だけが持つ親しみがあった。まるで今でもよく理解していると言わんばかりの距離感。その自然さが、かえって胸に引っかかる。蓮司さんと姫川綾乃さんのお付き合いは、蓮司さんのほうからの告白だったらしい。そう教えてくれたのは、他でもない本人だった。けれど若かった彼女は、ヴァイオリニストとしての夢を諦めきれず、自ら別れを切り出したのだという。その話し方はとても丁寧で、まるで事実を正確に伝えようとするかのようだった。そこに未練があるのかどうかは分からない。ただ、過去を大切に扱っていることだけは伝わってきた。そして、その後の話もまた、別の誰かから聞かされた。あの場で彼女の隣にいた友人が、親切にも教えてく
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5-12 side蓮司

錦野柾に姫川綾乃。どうしてこうも立て続けに面倒な名前が浮上してくるのかと、俺は思わず武司に愚痴をこぼした。ここ数日の出来事を振り返るだけで頭が重くなる。静かだったはずの日常に、わざわざ波紋を投げ込むように過去の人物が現れる。しかも一人ではない。まるで順番待ちでもしていたかのように、タイミングを見計らって現れてくるのだから性質が悪い。「蓮司の人生が恋愛小説だからじゃないか?」武司はあっけらかんと言い放った。……思わず言葉を失う。「俺はお前と違って恋愛お花畑の住民じゃないんだぞ」反射的に返すと、武司は肩をすくめて笑った。「俺もそう思っていたけどな。今のお前は完全に恋愛お花畑への移住民だ。桔梗さんといるときの蓮司は、背景にハート模様で花が咲き乱れてるからな」……否定できないのが悔しい。自覚がないわけではない。桔梗といるとき、無意識に気が緩んでいることくらい分かっている。ただ、それを他人にここまで的確に言語化されると、さすがに居心地が悪い。「恋愛小説の男主人公の宿命だよ」武司は慰めるように、ぽんと俺の肩を叩いた。「新キャラが出ないと読者が飽きるからな」……俺の人生は誰かの娯楽じゃない。思わず眉をひそめるが、武司は気にした様子もなく続ける。「有名税みたいなもんだと思っておけ。それに実害は出てないんだろ?」そう言われると、強く否定もできなかった。「まあ……」桔梗の立ち眩みは結局、疲労によるものだったらしい。錦野柾が直接的な原因ではなかったし、その後の様子を見ても体調に異常は見られなかった。あの場で感じた不安は完全に消えたわけではないが、少なくとも今すぐ何かが起こる状況ではない。「とりあえず姫川綾乃のことは放っておけばいいんじゃないか? いろいろ桔梗さんにちょっかい出してるみたいだけど、桔梗さんは気にしてないぞ」武司の言葉に、ふと桔梗の様子を思い出す。確かに、彼女は妙に落ち着いていた。あれだけ露骨な話を振られても、大きく感情を乱すことはなかった。「一応、元恋人とは仲良くするなとは言われた」「一応、だろ? しかも楽しそうに笑いながらじゃないのか?」……その通りだ。「おい、まさかとは思うが、嫉妬されたいとか思ってないだろうな?」武司が呆れたようにこちらを見る。「武美のときで懲りたんじゃないのか?」……懲りた。あれは本当に、心の底から反省した出来事だった。俺と武美の関係を桔梗が誤解し
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5-13

「冗談はさておき、錦野柾が桔梗さんに会いにきたと報告を受けたときは、さすがに焦ったな」武司が肩をすくめながらそう言った。その声音には軽さも混じっているが、実際に感じた緊張は俺も同じだ。あの男の名前が出た瞬間、胸の奥に冷たいものが走ったのは否定できない。「……ああ」短く返しながら、あのときのやり取りを思い出す。錦野柾が俺に接触してきた目的は、単純でいて厄介だった。脅しだ。凛花から盗んだという音声データを盾に、要求を呑めと迫ってきた。あまりにも陳腐で、だからこそ現実的な手口。だが問題は、その中身と、あの男の思考だ。俺たちは当然、最悪のケースを想定していた。あの音声を桔梗に聞かせることで、彼女の記憶を刺激する――それが錦野柾の狙いだと考えていた。あの日のことを思い出させる可能性。それだけは、何としても避けなければならない。だからこそ、あの音声の存在自体が脅威だった。だが実際の錦野柾の動きは、俺たちの予想とは微妙にずれていた。あいつはあの音声を使って、俺と桔梗の評判を落とそうとしていた。あたかも歪んだ関係を楽しむ男女であるかのように仕立て上げる――そんな低俗な方向に思考が向いていたのだ。「……本当に、くだらない」思わず呟く。桔梗に会いたがっていた理由もまた、虫唾が走るほど単純だった。俺よりも桔梗のほうが揺さぶりやすいと考えた、それだけだ。だが実際には桔梗の周囲は厳重で、簡単には近づけない。だから仕方なく俺に接触し、こちらが即座に要求を呑まなかったことで、次の手として桔梗本人に接触して揺さぶりをかけようとした――おそらく、そういう流れだ。「脅しに乗るわけにはいかないな」自分に言い聞かせるように口にする。錦野柾は、要求を呑めば音声データは渡すしコピーも残さないと言った。だが、そんな言葉を信用できるはずがない。一度でも応じれば、それで終わりではない。むしろ次の脅しの種を自ら差し出すようなものだ。さらに言えば、今回の件を通じて、あの音声がどれほど価値のある“材料”なのかを、あいつ自身に気づかせてしまう可能性すらある。そうなれば、状況はより悪化するだけだ。だから――乗れない。「錦野柾も、何を考えてるんだかな」武司が呆れたように息を吐く。その視線の先にあるのは、あの男の歪んだ理想だ。完璧な妻と、完璧な愛人を持つことで、男としての完成形に至る――そんな馬鹿げた考え。普通なら笑い飛ばして終
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73

錦野柾が考えたことは、自分の愛人を共有することだった。 男を集め、愛人を自慢し、オークション。最も高額を提示した男に愛人を抱かせてやる。 満足した男たちの賞賛が愛人の価値を高め、価値の高い愛人は錦野柾に金と、そんな愛人を持っていることを羨ましがる男たちの嫉妬混じりの称賛を浴びる。 全て己の欲のための愛人共有。潔癖症のくせをして、錦野柾自身がクソみたいな野郎だ。錦野柾は悦に入って「紳士的な同盟」と言っていたが、ただ性的な“兄弟”を持つだけの下種な行為。 これは他にもメリットがあるやり方だと、錦野柾は俺に   言った。 完璧な愛人を一人作るのにかなり金がかかるが、愛人を共有すれば錦野柾の負担は大幅に減り、錦野柾はまた違うタイプの愛人を育てて同盟の規模を大きくしていく。やがて日本経済は同盟を軸に成長していく。 錦野柾はまるで高尚な行い、神聖な使命のように語っていたが、要は男たちに買春という犯罪行為をさせて、それをネタに脅して逃げられなくし、金を搾り取って己の欲を満たそうとしているだけだ。 錦野柾はこのために浅草・千束エリアの物件を欲しがった。 浅草・千束エリアと限定したのは、あの辺りに江戸で最も有名な花街・吉原遊郭があった土地だったから。 遊郭文化を蘇らせるのだと、歪んだ笑みを浮かべていた。 あの辺りは観光資源とインバウンドが見込まれて土地の価格は急騰、錦野柾には買えない。 でも俺には買える。 錦野柾の要求は俺にとって多少負担だが無理な要求ではない。 あの音声の脅威を考えればもっと無茶な要求でも応えようと思う。 でもここで要求を叶えたら、錦野柾はさらに要求してくるに違いない。 だから応えるわけにはいかない。 でもそうするとあの音声データを錦野柾がどうするかが分からない。 ああ、もう、いっそ――。 「どこかにクズを捨てる場所はないか?」 桔梗の目に入らない場所。 桔梗の耳に届かない遠い場所。 今回みたいに不意打ちができないように監視しやすい場所。 そんな便利な場所――。 「ああ、ある。いいところがあるぞ」 しばらくして返ってきた武司の言葉に俺は驚き目を見張った。 「どこだ?」 そんな都合のいい場所。 「ちょうどいいクズ箱があるじゃないか」 「あ……」 忘れたかったから忘れていた。 ……確かにちょうどいいクズ箱だ。
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74

錦野柾と花嶺桜子は、周りにいろいろ言われている今でも、二人で一緒にあちこちに顔を出している。その様子に絆された者らは「婚約しては?」と言っているようだが、錦野柾は「一族に反対されているからできない」と答えている。しかし、実際のところ、錦野柾には花嶺桜子と結婚する気などない。花嶺桜子を錦野柾の理想とする愛人にするため、錦野柾はあちこちに花嶺桜子を連れていっているだけだ。妻を持たずに先に愛人というのが変な図式で、そんな愛人いる男のもとに妻として完璧な女が嫁ぐとは思えないが、錦野柾本人は真剣だ。すでに、花嶺桜子の愛人化は始まっている。 錦野柾は、都内のホテルのスイートで定期的にパーティーを催している。錦野柾の遊郭の夢を知るまでは、錦野柾をただのパーティー好きだと思っていた。錦野柾を見誤っていた。一見すると、錦野柾が友人を招いているパーティー。しかし、実際は高額の参加費を払って彼らは錦野柾のパーティーに参加していた。パーティーの招待状は過去に参加した者に送られ、参加したいならばまだ招待されたことのない男を連れてこなければいけない。俺は知り合いに頼み、錦野柾の紳士的な同盟から助けるという条件で、調査員を潜入させた。調査員の証言によると、最初はごく普通のパーティーだったという。ほどよく酒がまわったところで初参加者は自分をこのパーティーに誘った男からこれから花嶺桜子のオークションが始まることを知らされる。参加するなら、女を同伴してきた場合は先に帰らせること。参加しないなら、帰れと言われる。このパーティーの初参加者は、誘ってきた者に家や仕事の都合で逆らえずにきた男たちが多い。抵抗感があっても参加せざるを得ないため、男たちのほとんどがオークションに参加するという。女たちが全員帰り、花嶺桜子だけが残る異様な雰囲気の中で、オークションが始まる。そして、その中で最も高値を提示した男は花嶺桜子と共に別室に消える。そのあとは、その場に残ってもいいし、帰ってもいい。ただ、オークションに参加したという事実をネタに口留めされている。 ここまで、分かった。花嶺桜子という、具体的な被害者もいる。それでも錦野柾をどうやって追い払うかのほうが重要で、「止めさせなければ」とは思えない。桔梗のほうが花嶺桜子よりも大切だからだ。正義のヒーローになどなること
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5-16

ただ花嶺桜子の排除については賛成だが、実行に移す前にどうしても拭いきれない問題があった。それは取るに足らないはずの違和感であり、しかし思考の奥に刺さったまま抜けない小さな棘のようなものだった。桔梗と結婚した後、まだ武美との関係が完全には切れていなかった頃、付き合いで出席したあるパーティーで花嶺桜子と顔を合わせたことがある。事前に聞いていた彼女の評判は、自己愛が強く、他者の視線を糧にするような女だというものだった。実際に目にした彼女の振る舞いは、その評価を裏切るものではなかった。視線を集める立ち位置を自然に選び、誰にどう見られているかを計算しながら笑い、話し、場の中心に居続ける。その姿には、訓練された演者のような隙のなさすらあった。だが、その中で一つだけ、どうしても腑に落ちない行動があった。――妹です、って顔して近づいてくると思ったのに。隣で武美も同じ違和感を口にした。あの場で自分の価値を引き上げるなら、俺に近づき“義妹”という関係性を利用するのは極めて合理的な手段だったはずだ。俺の名前は、良くも悪くも一定の影響力を持つ。花嶺桜子にとって、それは確実に自分の格を底上げするカードになる。それなのに彼女は近づいてこなかった。それどころか、明確に距離を取った。いや、あれは単なる回避ではない。逃げていた。視線が合いかけた瞬間、顔を強張らせ、まるで見てはいけないものを見たかのように逸らし、背を向けるようにして離れていった。その反応は、明らかに異常だった。恐怖。あそこまで露骨な恐怖を向けられる理由に、心当たりはほとんどない。強いて挙げるなら、桔梗に対して何かをしていて、その報復を恐れている可能性だ。だが当時の状況を考えれば、それも説得力に欠ける。周囲の認識では、俺は武美に執着していて、桔梗との結婚は体裁のためのものに過ぎないと思われていた。桔梗のために動く男には見えていなかったはずだ。そこまで怯える理由にはならない。――蓮司の無表情が怖かったんじゃない?武美は軽くそう言ったが、それも違う。桔梗と結婚する前に顔を合わせたときの花嶺桜子は、むしろ距離を詰めてくるタイプだった。必要以上に親しげで、踏み込みすぎるほどだった記憶がある。だから単純に俺個人を恐れているという線は成り立たない。あのときの怯えは、“知られているかもしれない”という種類のものだった。つまり、俺が知れば確実に怒る何
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75

「蓮司、何しているの?」 今日も俺の出かけた先に綾乃がいた。毎回目的地にいたり、来たりで、俺は盗聴器の存在を疑い、専門業者に調査を依頼した。その結果、盗聴器はなかった。それなのに、綾乃はここにいる。 「妻とデート」女物の服を扱う店で、それ以外の理由があるか。しかも、桔梗に似合う華奢な靴が置いてある試着室、その真正面のソファに座って“待っている”のだ。それしかない。「やっだあ、蓮司って女性の買い物に付き合うタイプじゃないじゃない」「桔梗の買い物には喜んで付き合っている」付き合うどころか、むしろ率先している。桔梗は物欲があまりない。だから、こうやって店に連れてこないといけない。ここだけ切り取れば俺が面倒がっているように聞こえるかもしれない。しかし、俺は楽しんでいる。俺が連れてくれば、連れてきてもらったのだからと桔梗は服を手にし、好みを把握して好きそうなものを勧めてみれば、俺が見立ててくれたからと言って、嬉しそうに試着室にいく。桔梗に似合い、なおかつ俺の好みの服を着て、それを一番に見られるのだから、楽しくないわけがない。しかし、それを綾乃にいう義理はない。綾乃は俺の話など、聞いていない。いつだって自分の話。 「このあとどこに行くの? 食事?」「合羽橋」「“カッパ”? あの妖怪のカッパを見にいくの?」妖怪のはずなのに、綾乃はその辺にいそうな言い方をする。カッパ……。カッパ、どこにいるんだ?川か?池か?いや、そのカッパではないのだから、いまそれは考えることではない。 「ああ、そうだ」説明する義理はないし、面倒なので適当に流すことにした。カッパうんぬんを肯定するのは回答としていい加減過ぎるが、構わない。どうせ、綾乃は話を聞いていない。 「せっかくだし、一緒にご飯に行きましょうよ。もちろん桔梗さんも一緒にね」やはりな。妻とのデート中だというのに、なぜ食事に誘う。しかも、桔梗がおまけ扱い。図々しい、非常識だ。でも、綾乃はそんなことを気にしていない。綾乃の問題はいつも「自分がどうしたいのか」で、こちらの都合はお構いなし。だから、いまここにいる。 「いま、この店は俺が貸し切りにしている。どうやって入った?」綾乃の後ろ、恐らく綾乃を店に入れたであろう女性スタッフを睨むと、女性スタッフは体を小さ
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76

「これに決めました」桔梗が選んだものは、深い緑色のワンピース。これも似合うとは思ったが、ここにきて最初に目に留めたのは違うワンピースのはずだが?もちろん、俺はそれを勧めたを「それだけでいいのか?」桔梗の目が一瞬だけ、その生成りのワンピースに留まる。うん、あのワンピースだ。俺は桔梗が選んだワンピース、そして生成りのワンピースの二着をスタッフに預け、会計を頼んだ。  「えー、その二つしか買わないの? 桔梗さんに似合う服、いっぱいあると思うのに」似合う服があることには同意するが……泣き真似はどうした?「蓮司もケチケチしないの。私のときは沢山買ってくれたじゃない」あのな……。「私には私の買い物の仕方があるので」俺が反論しようとしたのを、桔梗が自然に前に出る形で遮った。「私はきちんと選んだ服を買うのが好きなので、お気遣いは結構です」「まあ……あなたは、そうかもね」綾乃の目が、いま桔梗がきている服に留まる。その目は、何度か着てるものだと言っている。何度かこの服を着た桔梗を見ているから綾乃のそれは間違っているが、綺麗にアイロン掛けはれた服は、周りの服と比べて違いはよく分からない。「まあ、何度か着ないと勿体ないものね」可哀そうなものでも見るような綾乃の目と言葉に怒りがこみ上げたが、その怒りは桔梗の笑顔で霧散した。「この服で蓮司さんとデートをするのは二回目です。蓮司さんと思い出を作って、きれいに洗濯をして、上手にアイロンを掛けて、私の技術もなかなかだなって悦に入りながら服をしまうことが私は好きなのです」そのときを思い出したのか、桔梗がふわっと笑う。その笑顔はきれいで、俺も、店のオーナーも、綾乃でさえ見惚れた。「またこの服を取り出したときは、今日のことを思い出しながら着ます。そしてまた、思い出が増える。私はそうやって、楽しむのが性に合っていますの」ね、と微笑みかける桔梗に愛おしさが増す。「俺もこのネクタイには思い出が沢山あるからな」桔梗が作ってくれたネクタイ。俺の渡した金で俺へのプレゼントを買うのはなにか変だからと、桔梗が手ずから作ってくれた、これは世界で一つだけのネクタイ。「俺もこのネクタイみたいに、君に手作りの物が贈れればよかったのだがな」俺の言葉に店のオーナーが笑う。「私たちの存在意義を奪わないでくださいませ」オー
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77

「蓮司さん。合羽橋にきましたが、川に行きますか? それとも池に行きますか?」「隅田川のほうに向かって歩くか」移動しながらカッパは川にいるのか池にいるのかという話をしていて、カッパの川流れということわざがあるのだから流れのない池にいるのではないかという結論になったところで合羽橋に到着。俺の提案に地図アプリを見ていた桔梗が“あ”という顔をして、スマホの画面を見せて【曹源寺】という寺を指さした。ここに来るまでに見かけた合羽橋の河童伝説の場所。この寺にはかっぱ大明神がいるらしい。合羽橋道具街の近くにあるということで、立ち寄ることにした。 「蓮司さんはこの辺りにきたことはあるんですか?」「この辺りはないな。浅草や上野ならビジネスや視察で行くこともあるけれど」「落ち着いた隠れ家的雰囲気のお店も多いですね」そう言って門から店を見る桔梗の姿が一枚の絵のようで、俺はスマホを取り出して写真を撮る。写真を確認して、キレイに撮れたことに満足する。 「蓮司さんって写真を撮るのが好きですよね」桔梗のその言葉に少しだけ躊躇する。写真を撮るようになったきっかけは恐怖だから。いつか桔梗があの日を思い出したらこういう日々はなくなる。せめて思い出だけという気持ちで写真を撮るようになった。それまでは視察のメモ代わりに写真を撮るくらいだったけれど、いまの俺の写真フォルダは桔梗と誠司で溢れている。  「ん?」シャッター音がしたので桔梗を見れば、桔梗は“撮れた”と満足気な顔。俺を撮ったのか……まあ、上手く撮れていないだろうな。桔梗は写真を撮るのが下手だ。オートフォーカスのはずなのに焦点が合っていなかったり、手振れ補正をONにしているのに酷くぶれていたり。手先が器用なのに不思議だなと思うが、こういう苦手があるところは実に可愛
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