All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 141 - Chapter 150

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6-12

「二歳、か」小さなベッドの中で、両手を万歳するように上げて眠る誠司を見下ろしながら、俺はそっとその頬に触れた。指先に伝わる柔らかさは、赤ん坊の頃から何一つ変わっていないようでいて、それでも確かに違っている。ほんの少し引き締まったような輪郭、呼吸のリズムの安定、寝返りの打ち方――些細な変化の積み重ねが、この子が確実に成長していることを教えてくれる。二歳の誕生日を迎える少し前から、誠司の言葉は急に増えた。「じぶんで!」「ぼくが!」と、拙いながらもはっきりと意思を主張するようになり、そのたびに驚かされる。ついこの前まで、こちらの顔を見て笑うだけだった存在が、今は自分の世界を広げようとしている。その変化は嬉しくもあり、同時に少しだけ寂しくもある。俺の手を振りほどいて駆け出していく小さな背中は、眩しいほどに力強い。だがその足取りはまだ不安定で、転びそうになった瞬間には、無意識にこちらへと手を伸ばしてくる。その仕草がたまらなく愛おしい。誠司の毎日は、きっと発見と挑戦の連続なのだろう。昨日できなかったことが今日できるようになり、知らなかったものを一つずつ知っていく。その積み重ねが、彼の世界を形作っていく。……そう考えると、俺の毎日もまた、発見と向き合いの連続なのかもしれない。·「蓮司さん」背後からかけられた声に振り返る。子供部屋の入口に立っているのは桔梗だ。穏やかな表情でこちらを見つめるその姿に、胸の奥が静かに揺れる。違う。俺は挑戦などしていない。向き合うべきことから、目を逸らしている。でも、目を逸らさずにはいられない。「桔梗」名前を呼ぶと、彼女はわずかに首を傾げて微笑んだ。その仕草ひとつで、心が満たされていくのが分かる。愛おしい。本気でそう思う。これが愛でないのなら、他のどんな感情も、言葉さえもいらないと思えるほどに、桔梗が愛しい。だからこそ、失いたくない。この穏やかな日常を、この温もりを。「蓮司さん」少し甘えるような声で呼ばれ、距離が近づく。桔梗の指先が俺の袖を掴み、そのまま自然に体を寄せてくる。彼女もまた、俺を求めてくれているのだと分かる。その事実が、どうしようもなく心を揺さぶる。触れ合うだけで理性が揺らぐ。目の前にいる彼女を抱きしめたいという衝動が、抑えきれないほど強くなる。だが同時に、その衝動の裏にあるものから目を背け
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6-13 side桔梗

「そろそろ二人目かしら」この何気ない一言が、こんなにも長く胸の内に残るようになったのは、いつ頃からだっただろう。最近では「二人目」という言葉だけが、他の言葉よりほんの少し輪郭を強めて、耳に届くたびに重みを伴って沈んでくる気がする。言ってくる人たちに悪意がないことは分かっている。むしろその逆で、好意や祝福、温かい気持ちの延長線上にある言葉だということも理解している。夫婦仲が良さそうだからこそ自然に出てくる感想であって、疑いでも詮索でもなく、ましてや下卑た揶揄いなどでは決してない。ただ、幸せそうだから、もう一歩先もきっと同じように幸せだろうと信じて疑わない、そんな軽やかな一言に過ぎないのだ。それでも、その言葉を受け取るたびに、胸の奥がほんのわずかに波立つ。自分でも説明しきれない、けれど確かにそこにある小さな揺らぎ。·夫婦仲を認められること自体は、素直に嬉しい。素敵な旦那様ですね、と言われれば、私は迷いなく「はい」と答えられるし、蓮司さんもまた、私のことを同じように言われたとき、ためらいなく頷いてくれる人だ。互いにそう思い合えている関係は、きっと多くの人から見れば恵まれている部類に入るのだろう。そして、蓮司さんは私にとって夫であり、何よりも愛おしい人だ。その人との間にもう一人、子どもが欲しいと思うことは、決して間違いではないはずだし、自然な願いですらあると思う。経済的な余裕もある。生活の基盤も整っている。家族としての形も、穏やかに回っている。それなのに、どうしてだろうか。蓮司さんは「二人目」を望んでいないように、私には感じられてしまう。はっきりと拒否されたわけではないし、言葉にして否定されたこともない。そもそも私自身が、真正面から「二人目を」と切り出したことがないのだから、互いに踏み込んでいないという意味では、お相子と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。それでも、その曖昧さの中に、どうしても拭えない違和感がある。「二人目」という話題に触れたときだけ、私たちの間に薄い膜のようなものが現れる気がするのだ。目には見えないのに、確かにそこにあって、指先で触れようとすると静かに距離を取られるような感覚。拒絶されていると断言できるほど強いものではない。けれど、踏み込めば壊れてしまいそうで、だからこそ踏み込めない距離がそこにある。そのせいで、この
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6-14

夜の営みがまったくないわけではない。以前に比べれば頻度は少し落ち着いたのかもしれないが、途絶えているわけではないし、それによって寂しさを覚えることもない。むしろ、触れ合う時間そのものは穏やかで、優しさに満ちているとさえ言える。私から誘うこともあれば、蓮司さんのほうからそっと手を伸ばしてきて、そのまま自然に始まることもある。ただ、以前と比べて自分から誘う回数が増えているような気がしているのも事実だ。それでも、蓮司さんが嫌々応じているとか、仕方なく付き合っているという印象は――ない、と思う。けれど、その「思う」に確信が持てない自分がいることに気づいたとき、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。もしかしたら、私が気づいていないだけなのかもしれない。そう考え始めると、すべてが曖昧になっていく。表情の一瞬の揺れや、触れ方のわずかな違い、言葉の間にある沈黙――それらが意味を持っているのではないかと疑い始めると、もう何も分からなくなる。……ああ、そうか。私は分からないのだ。蓮司さんが、いま何を見ているのかが。私と蓮司さんは別々の人間で、それぞれに違う価値観と視点を持っている。だから常に同じ景色を見ていられるわけではないということは、頭では理解しているし、これまでもそうやって過ごしてきた。それでも、これまでは違う景色を見ていると気づいたとき、私は迷わず彼の肩に手を伸ばし、「ねえ、これ見て」と声をかけることができた。そうやって同じものを共有しようとすることに、何の躊躇いもなかったし、それが当たり前だった。でも、今は違う。もし肩に触れた瞬間、「見て」と言うより先に「ごめん」と言われてしまったら――そんな想像が頭をよぎる。そのたった一瞬の想像が、驚くほど強く私の手を止める。実際にそんなことが起きたわけではないのに、起きるかもしれないという可能性だけで、私は動けなくなる。だから、手を伸ばせない。声もかけられない。ただ、同じ部屋にいながら、少しだけ離れた場所に立っているような感覚のまま、時間が過ぎていく。この感情を、私はなぜか誰にも相談できずにいる。普段なら、悩みがあれば真っ先に話を聞いてくださるお義母様や朋美さんにさえ、このことだけはどうしても切り出せない。それどころか、「二人目」という話題に触れたとき、あの二人からもどこか蓮司さんから感じるものに似たよう
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6-15

「……妊娠、した?」そんな言葉が、ここ数日ずっと胸の奥で小さく浮かんでは沈んでいる。確信があるわけではない。なによりも、蓮司さんはいつも避妊している。でも、失敗がないわけではない。だから……。誰かに言われたわけでも、検査をしたわけでもない。それでも、体の些細な変化がひとつひとつ積み重なって、否応なしにその可能性を意識させてくる。朝、目が覚めた瞬間から胃の奥がむかむかする。空腹だからだろうかと最初は思った。けれど、これまで空腹でここまで気分が悪くなることはなかったはずだ。むしろ、空腹のときほど頭は冴えていたくらいなのに、今は違う。何も口にしていないのに、喉の奥にこみ上げてくるような不快感があって、思わず眉をひそめてしまう。しかも、それは一度きりではなく、ここ数日、決まって朝になると訪れる。偶然にしては出来すぎているように思えてしまう。さらに妙なのは食欲だ。きちんと三食食べているはずなのに、すぐに空腹を感じる。もう少しだけ、とつい手を伸ばしてしまう自分がいる。これまでなら満足していた量では足りない。これらは、気に留める必要ない変化かもしれない。でも、ほんの少しの違いのはずなのに、その違いが妙に気になってしまう。これも、妊娠しているから――そう考えた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。期待なのか、それとも不安なのか、自分でも分からない。ただ、どちらでもあるような気がして、余計に落ち着かない。そして、追い打ちをかけるように、好きだったはずのコーヒーの香りが鼻につくようになった。あの香ばしくて落ち着く香りが、今はどこか刺激的で、思わず顔を背けてしまう。ついこの前まで、その香りに癒やされていたのに。こんなにも急に変わるものなのだろうか。それとも、ただ自分がそう思い込んでいるだけなのだろうか。妊娠したかもしれないと考え始めると、どんな小さな違和感もすべてが「それらしく」見えてくる。胸が張っているような気がする。少し触れただけでも敏感に痛む気がする。眠っても眠っても眠気が抜けず、体が重だるい。すべてが曖昧な「気がする」なのに、その曖昧さが積み重なるほどに、確信めいたものへと変わっていきそうで怖い。確実な判断材料になるはずの生理は、まだ来ていない。ただし、予定日からまだ三日。これくらいの遅れは珍しくないと頭では分かっている。これまでだって数日のズレは何度も
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6-16

「大丈夫か?」そう問われて、一瞬、言葉に詰まる。何が大丈夫で、何が大丈夫ではないのか、自分でも分からなくなるほど、頭の中がぼやけていた。「えっと……何が、ですか?」口から出た言葉は、自分でも呆れるほど間の抜けたものだった。何が、なんて。状況を見れば分かるはずなのに、うまく現実に意識が追いつかない。「大きな音がしたから」「あ……」視界の端に、割れたカップが映り込む。白い陶器の破片が床に散らばっていて、その無残な様子が、ようやく現実を引き寄せてくる。「ケガは?」ケガ――その言葉を頭の中で反芻する。ケガなんてしていない、そう思って「大丈夫です」と言おうとした瞬間、指先に遅れて痛みが走った。「あ……っ!」思わず声が漏れる。破片に触れてしまったらしい指先から、じわりと血が滲んでいた。鮮やかな赤。あまりにもはっきりとした色なのに、その痛みがどこか遠い。まるで自分の体ではないような、薄膜一枚隔てた向こう側で起きている出来事のように感じられる。「桔梗、触るな」低く抑えた声が耳に届いた瞬間、体がふわりと浮き上がった。驚く間もなく抱き上げられ、そのままカウンターの上に座らされる。視線が急に高くなって、足が宙に浮く感覚が落ち着かない。行儀が悪い、と思うのに、その感覚さえ現実味を帯びていない。「すぐ手当てするから」「手当て……?」自分の声が、ひどく遠くから聞こえる。言葉の意味が頭の中に落ちてくるまで、わずかな時間が必要だった。「桔梗? 本当にどうした?」どうした――そう問われて、答えようと視線を落とす。自分の指先。そこから滲む血。赤い血。はっきりと、鮮やかな赤。なのに、頭の奥に浮かび上がるのは、別の色だった。もっと暗い色。黒に近い、鈍く濁った色。……太腿に残っていた血。あのとき、ところどころに付着していた、あの黒ずんだ血。じんわりと広がる、鈍い痛み。傷はないのに、確かにそこにあった痛みと痕跡。――あれは、初めてを奪われた証。私は……。「……桔梗?」名前を呼ばれる。その声が、遠くからこちらを引き戻そうとする。けれど、同時に、もう一つの声が重なる。耳の奥で、はっきりと響く声。    『美香さん』優しく、柔らかく、心配する響き。  『煩い』冷たく、押し潰すような響き。「……ひっ」喉の奥から、掠れた音が漏れる。目の前にいる人は、同
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6-17

「……朝だ」薄く差し込む光に照らされて、カーテンの縁が淡く光っている。その揺らぎをぼんやりと眺めたあと、私はごろりと体を転がして、部屋の中を見渡した。ここは、桐谷家に来た当初に与えられた私の部屋。今では懐かしさすら覚えるこの場所に、再び戻ってきている。妊娠が分かってから三ヶ月。その間ずっと、私は夫婦の寝室ではなく、この部屋で寝起きしている。理由は簡単だ。蓮司さんが「体をゆっくり休めたほうがいいから」と言って、自分の部屋で眠るようになったから。最初は、私だけが夫婦の部屋に残る形になった。けれど、あの広いベッドに一人で横たわると、どうしても取り残されたような感覚が拭えなかった。だから、「こんなに大きな寝具を一人で使うのは勿体ない」とか、「洗濯物が増えるのは大変」とか、もっともらしい理由を並べて、私はこの部屋へ戻ってきた。本当の理由を、言葉にすることはなかったけれど。·廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。その音を聞くだけで、誰か分かる。「パーパ、はーやーくー」「誠司、ママはまだ寝てるから」誠司の弾んだ声のあと、蓮司さんの声が少し低く、静かに響く。「だいじょーぶ」その言葉には、絶対に怒られないという確信が滲んでいて、思わず頬が緩む。「ママ、おはよう。おきてー……おきてるー!」勢いよく扉が開き、顔を覗かせた誠司が、私が起きていることに気づいてぱっと表情を輝かせる。そのまま小さな足で駆け寄ってくる様子は、少し前までの不安定さが嘘のようにしっかりしてきていて、成長を感じさせる。「あーちゃん、おはよう」そう言って、誠司は私ではなく、私のお腹に向かって挨拶をした。なるほど、この子はこれがしたくてここまで来たのか、と自然に理解する。もにゅ、とお腹の奥が小さく動いた気がした。「おきてるー?」じっと見つめる誠司に、思わず微笑む。「起きてるみたいよ」「そーなのねー」どこか大人びた言い回しに、思わず首を傾げる。誰の真似だろう。少しちぐはぐなその口調も含めて、誠司は楽しそうに笑いながら、私のお腹をぽんぽんと軽く叩いた。その無邪気さに頬が緩む反面、やはり少しだけひやりとする。「誠司、桔梗のお腹を叩くのはやめなさい。赤ちゃんが吃驚するぞ」蓮司さんが穏やかながらもはっきりとした口調で言う。「びっくりさせてないよー」「誠司だって
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6-18

あの日、キッチンで倒れた私は、気がつけばベッドの上で目を覚ましていた。白い天井が視界に入り、しばらくのあいだ、自分がどこにいるのかも分からずにぼんやりとそれを見つめていたのを覚えている。体は重く、けれど痛みはなく、ただ現実に戻ってきたという感覚だけが遅れてじわじわと広がっていった。そしてその瞬間、不思議なほど自然に、失っていたはずの記憶が戻っていることに気づいた。唐突に押し寄せてくるのではなく、まるで丁寧に整理された書類を一枚ずつ手渡されるように、過去の出来事が静かに所定の位置へと収まっていく。混乱はなかった。むしろ、あまりにも整然としていて、これまで空白だった時間が最初から存在していたかのような錯覚すら覚えた。過去と現在は混ざり合うことなく、それぞれがあるべき場所にあり、私はそれをただ受け入れるだけでよかった。どうしてこうなったのかも、説明されなくても理解できていた。そして同時に、これから自分がどうしたいのかも、驚くほどはっきりしていた。私は――「これまで通り」を望んだ。蓮司さんとの「新たな関係」を築くことを、心が頑なに拒んでいた。変わることが怖い。変わってしまった先にあるものを、私はきっと受け止めきれないと分かっていた。だから私は、これまで通りでいたいと思った。蓮司さんの妻であり続けたい。この家族の一員として、変わらない日常の中に身を置いていたい。その願いがどれほど身勝手で、どれほど危うい均衡の上に成り立っているのかも理解している。それでも、手放すことができなかった。手放してしまえば、きっとすべてが崩れてしまう気がしたからだ。あの穏やかな日常も、誠司の笑顔も、蓮司さんの隣にいる自分の居場所も、何もかもが音を立てて壊れてしまう気がして、怖かった。だから私は、知らないふりをすることを選んだ。知っているのに、知らないままでいるという選択を。そこには確かに、トラウマと呼べるものがある。あの夜の記憶が戻ってから、再び暗闇が苦手になった。灯りのない場所に一人でいると、理由もなく心臓が早鐘を打ち、胸の奥に得体の知れない恐怖が膨らんでいく。あれが蓮司さんだったのだと頭では理解している。それでも、その事実が恐怖を打ち消してくれるわけではない。むしろ脳はそれを切り分けてしまう。「それはそれ」「これはこれ」と、まるで別の出来事のように扱ってしまうのだ。
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6-19

そして皮肉なことに、現状はまるで私の望みどおりに進んでいる。蓮司さんは今も変わらず、私のそばにいる。離れていない。逃げてもいない。ただ、以前とは違う形で、静かに隣に立っている。私が妊娠しているという事情も大きいのだろう。夫として、そして子どもの父親としての責任を、蓮司さんは誠実に果たそうとしている。その姿は、疑いようもなく真っ直ぐで、だからこそ余計に胸が締めつけられる。けれど、その距離は確かに変わった。物理的には近くにいるのに、心のどこかに透明な膜のようなものが張られている気がする。手を伸ばせば届くはずなのに、触れた瞬間にすり抜けてしまいそうな、そんな頼りない距離感。その距離に、私は気づかないふりをしながらも、確かに救われている部分がある。近づかれすぎないことで、守られている。知られずに済むから。私の中に巣くう、あの醜い「悪魔」を。あのときの自分。彼を手に入れるためなら、どんな言葉でも使おうとした自分。その存在を知られずに済む距離が、いまのこの関係にはある。だから私は、その距離を壊せないでいる。壊したくないとさえ思ってしまう。けれど同時に、蓮司さんが抱いているであろう誤解にも、はっきりと気づいている。彼はきっと、私が彼を恐れているのだと思っている。あながち間違いではない。恐怖がまったくないと言えば嘘になる。あの夜の記憶は、確かに私の中に残っていて、ふとした瞬間に影のように現れる。けれど、それがすべてではない。怖いのは、蓮司さんそのものではない。あのときの出来事と、そこに至るまでの自分の感情と、そしてその後に自分が選んだ選択、そのすべてが絡み合って、恐怖という形をとっているだけだ。それを説明すればいい。そうすれば、きっとこの歪んだ距離も少しは変わるはずだ。分かっているのに、それができない。本当の理由を話すということは、自分の中の一番見せたくない部分をさらけ出すことになるから。あのとき、彼を繋ぎ止めるために、どんなことを考えたのか。どれほど身勝手で、どれほど汚れた思考だったのか。それを言葉にした瞬間、きっと何かが壊れてしまう。蓮司さんの中の「私」が壊れる。軽蔑されるかもしれない。失望されるかもしれない。「そんな女だとは思わなかった」と言われるかもしれない。そして何より、その評価はきっと正しい。私自身が、そう思っているのだから。だか
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6-20 side蓮司

桔梗がすべての記憶を取り戻してからというもの、俺たちはどこか足場の悪い場所を歩くみたいに、ぎこちない日々を重ねている。言葉は交わせる、笑顔も作れる、けれどその一つひとつに、以前にはなかった微かな“ためらい”が混じるようになった。·キッチンで倒れた桔梗が目を覚ました瞬間、その瞳に宿った静かな決意を見て、桔梗が「このままでいること」を選択をしたことを理解した。理解して――このままでいていいと、安堵した。俺たちの間には誠司がいる。桔梗は、あの夜の男が俺だと知る前から子どもを産む選択をしていた。産むと決めた理由は、いまだに分からない。ただひとつ確かなのは、俺の気持ち。彼女にあの夜の記憶がないと知って、俺は彼女を妻に迎えることに決めた。あのとき、俺は何を思っていたのか。桔梗を守るため? 子どもを守るため? ――違う。そんな綺麗な言葉で飾れるようなものではない。俺はただ、桔梗が欲しかった。それだけだ。記憶を失っているあの状態は、俺にとって都合が良すぎた。千載一遇の機会だと思った。最低だ。だが事実として、俺はその状況を利用した。愛していたから? いや、それも違うな。愛していたからこそ、奪ったんだ。正攻法では手に入らないから、歪んだ形で掴み取った。それが俺のやったことだ。そして何も知らない桔梗は、俺を受け入れ、俺を愛してくれた。あの時間は、嘘だったのかと問われれば、俺は否定する。あのときの桔梗の気持ちは本物だった。だが、その土台が歪んでいた。目と耳を塞がれたような中で生まれた桔梗の愛は、根本的に歪みを孕んでいた。俺はそれを知りながら、彼女を抱いた。避妊にも失敗し、彼女を妊娠させた。……いや、違う。桔梗は“させられた”とは考えないだろう。彼女はそういう人間じゃない。きっと、もしかしたらあの夜でさえ、自分にも責任があると言う。そう、全ては責任感。何も知らなかったとはいえ、受け入れたのは自分だと。そうやって自分を納得させるだろう。それがどれほど残酷なことか、分かっていても。責任、という言葉で感情は測れるのか。責任で、生まれてくる子どもは幸せになれるのか。そんな問いを、今さら考えたところで意味はない。誠司がいる。そして、桔梗の腹の中にも、もうひとつの命がある。俺にできるのは、父親として全力で愛することだけだ。金も環境も用意できる。何不自由
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6-21

「怖気づいてんのは……振られたくないから、か?」「当たり前だろう」 「だから怖気づいて二の足を踏むって……これだから自分から告白したことのないモテ男はっ!」「……は?」突然の非難に思わず間の抜けた声が出ると、武司はさらに勢いを増した。「フラれたくないなんてな、そんなの思春期に経験してんだよっ! そして俺らぐらいの年齢はな、フラレてもいいから告白しようってくらいフラレ慣れてるもんなんだよ」言い切るその顔は妙に真剣で、軽口にしては重みがあった。それは……と口ごもる俺に、武司は腕を組んで睨みつけてくる。「武司もか?」何気なく返した一言に、武司の目がかっと見開かれた。あ、これはまずい、と直感する間もなく、「当たり前だろ!」と机を叩かんばかりの勢いで返される。「俺の場合、もっとひどいからな! フラれるときは大体こうだ、『武司君も悪くないんだけどぉ、蓮司君のほうがいいのぉ』ってな! それでもお前の隣にいる俺、どう思う? 馬鹿だろ?」自嘲気味に笑うその姿に、軽く返すべきではないと悟る。「いや、そう言うな。武司がいてくれて、俺はいつも助かっている」「ああもう、この流れだよ!」額に手を当てて天井を仰ぐ武司を見て、正直どう反応すべきか分からなくなる。……本当に何があったんだ、こいつ。「お前、何も分かってないな」「……多分?」「恋愛小説のどこを読んだんだよ。ここはな、『大丈夫だよ、武司にもいい出会いがあるさ』って励ますところなんだよ」「ああ、まあ……そうだな。でもその台詞、無責任すぎないか?」俺が首を傾げると、武司は即座に頷いた。「無責任だよ。真面目に考えてねえからな。うだうだしてる主人公にイラついて、早く白黒つけろって背中を蹴飛ばしてるだけだ」「そのあと心配とかは?」「ねえよ。テレビの前でポテトチップス食いながらドラマ見てる気分だ。上手くいけば『やったな!』って祝って、ダメなら『まあ、ドンマイ』って慰める準備するだけ」おい、と呆れるが、武司は構わず続ける。「で、お前はどうせ、『桔梗は仕方なく今の生活を受け入れてる』とか考えてんだろ?」「長い付き合いは伊達じゃないな」「いやいや、こんなの長さ関係ねえよ。そもそもな、俺はお前がこんなに女に本気になるなんて思ってなかったんだよ。適当に家のために結婚して、子ども二、三人作って、仕事に生きてその
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