All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 151 - Chapter 160

164 Chapters

151

『いま診察が終わり、インフルエンザだと確認取れました。重症化はしていませんし、抗生物質を飲めば比較的すぐに熱は下がるようです。茉白は大丈夫ですか?』「まだ寝ているよ」―― やっぱり自分がいないと駄目なんだなって思いたかったりするわけよ。不意に、母さんの言葉が浮かぶ。「桔梗から電話がもらえてよかった。さっきまで、俺一人で大丈夫かと思っていたからな」『蓮司さんも、そんなことがあるんですね』「当たり前だ。いかにいつも桔梗に頼っていたのかを思い出したよ」『急いで、帰りますね』「ああ、待ってる」電話を切って、大きく息を吐く。顔が熱い……もしかして、誠司のインフルエンザがうつったか? .「マ、マ」茉白の声にベッドを覗き込めば、茉白が目を覚ましていた。ドクンッと心臓が大きく鳴る。「パ、パ」茉白がにこっと笑い、手を伸ばすから、俺も手を伸ばして自分の指を握らせる。最初は俺の手を振り回して楽しそうだったが、次第に茉白の顔から笑みが消える。「ママ?」その問いに、一瞬だけ言葉を探す。しかし、うまいこと子ども向けの理由が出てこない。「今日は誠司が体調が悪いから、ママは誠司のところにいる」茉白が首を傾げる。違う、この説明ではない。理由は要らない。もっと、分かりやすく、茉白に合わせた言葉で……。「ママは、お兄ちゃんと一緒にいる」「にに」「ああ、お兄ちゃんのところにいる」「にに?」今度は、なんだろう。誠司がどこにいるか、か?「お兄ちゃんは病院にいる」茉白の動きが止まる。顔がぐしゃりと歪む。まずい、泣く。「やー」「茉白、大丈夫だ。お兄ちゃんはすぐに帰ってくるから」「にに、やー。まま」言っている言葉は聞き取れるのに、茉白の要望が分からない。「ごめん、茉白」抱き上げると、泣き止まないものの、泣く声は小さくなる。茉白を腕の中に引き寄せる。小さな体は、思っていたよりも軽く、温かい。桔梗は、これを毎晩やってきたのか。俺が仕事で遅くなった夜も。出張でいなかった夜も。―― 大丈夫です。桔梗は、大丈夫だと思っていた。でも、桔梗だって母親をやるのは初めてだ。こうやって、大丈夫になっていったんだ。「ママ……」茉白は桔梗を呼ぶ。どうすればいい?分からない。解決策がないことに、焦る。桔梗ならどうする?桔梗なら
last updateLast Updated : 2026-02-25
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第152話 ―第4章―

朝七時半。まだ通学路に制服の波が生まれる前、私は校門をくぐる。吐く息に、桜の花の香りがまとわりつく。匂いの元を辿れば、桜の樹を淡く色づかせたの花が揺れていた。高校二年生。一年生のときに感じた緊張感はなく、勝手知ったるという環境で始まる春。まだ誰もいない昇降口。使い始めてほんの数日の下駄箱は、まだ場所探しからだけれど、上履きに履き替えれば今まで通り。廊下の規則正しく並んだ蛍光灯が私を迎える。人気のない、無機質な校舎。反響する足音。夜を超えて温もりを失っていた廊下はひんやりと冷たく、ほとんどの教室の扉がぴたりと閉まっている。教室の扉を開ける。無人の空間。嫌いじゃない、むしろ好き。三十六個の机と椅子が整然と並び、黒板には昨日の名残のチョークの粉が薄く残っている。窓際の自分の席に鞄を置き、上着を背もたれにかける。持ってきた本を開く。ページをめくる音を聞きながら、物語の中に潜り込む。私の輪郭が曖昧になる。花岡ナターシャという名前。ロシア系の顔立ち。異国の風情を色濃く纏っているくせに、私には日本の記憶しかない。淡い青色の瞳。光の加減で金にも灰にも見える銀色の髪。両親は日本人、でも血の繋がりがない二人と私の容姿は似ていない。書類の上では、私は日本人。血の記録は、どこか別の土地に置き忘れてきてしまっている。 .キーンコーンカーンコーン予鈴が鳴った。私は栞を挟み、本を閉じる。クラスメイトたち駆け込み乗車のように、次々と教室に流れ込んでくる。賑やかな声。椅子を引く音。スマホの通知音。それらが混ざった雑踏の中にいるのに、私にはそれが水の中で聞こえる音のような異音に聞こえる。「花岡さん、おはよう」
last updateLast Updated : 2026-02-28
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第153話

放課後のチャイムが鳴るより少し前から、指先が落ち着かなくなる。私の心はもう、違う場所へと向かっている。教室ではいつも通り振る舞う。誰とも目を合わせず、静かに教科書を閉じる。机の中に残したものがないかだけを確かめて、鞄を持つ。誰かと帰る約束はない。私は帰宅部で、そして毎日寄り道をする。.ラッシュ前の電車に揺られながら、窓に映る自分の横顔を見る。日本人の両親とは似ていない顔。赤ちゃんのとき紛争地の難民キャンプで保護され、二歳になる頃に日本に来たとは聞かされているけれど、その頃のことは何も覚えてはいない。ただ、ときどき夢に出てくるのは、色のない世界。灰色の空は音がしない。乾ききった淡い色の地面は、街の香りを伝えてこない。吹く風だけが時間の流れを感じさせる、静かな世界。 . パーックラクションの音があちこちからする喧騒を抜け、一本細い路地へ入る。信号の電子音。すり抜けていくバイクの排気音。歩道から聞こえる、誰かの笑い声。そんな東京の音が消える。さっきまで包まれていたのに、ここに来ると一枚の薄い膜を通した遠くに聞こえる。相変わらず、都心にあるは思えない場所。黒塗りの木の門の前に立つと、世界が遠のく。そこにあるのに、手を伸ばそうとさえ思えないほど遠くにあるような感じ。木の門は、威圧的でもないけれど、来る者を選別する厳しさを感じる。威圧感なら、無機質な金属の門を持つ知り合いの屋敷のほうがある。でも、磨き込まれた艶のある欅の扉。ほぼ毎日触れている扉だけれど、ほぼ毎日触れていいのかって躊躇いを感じている。扉が刻んできた長い年月を感じる。そこに、私が刻まれていいのかって思ってしまう。 ギイッまるでそれを知っていたように、引き戸ほうから開く。「いらっしゃい」穏やかな声で迎えるのは、日本画家の巨匠、最近人間国宝になった石川明梗先生。金箔の上に静寂を描き、余白に時間を閉じ込める人。石川先生の作品を初めて見たとき、私は胸の奥の大切な場所をぎゅっと強く掴まれた気がした。「待っていたよ」でも、いま私がここに通っている理由は、彼の日本画そのものではない。 .まだ木の香りがする、築数年の制作室。日本画家のアトリエというのには異質で、武骨な3Dプリンター。黒い筐体は規則的なモーター音を立てながら、透明な樹脂を積層してい
last updateLast Updated : 2026-03-01
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第154話

「迎えがきたようだね」石川先生の声がしたけれど、私は顔をあげなかった。ここでやめることを誰も、迎えにきてくれた人も望んではいない。版から和紙を剥がす瞬間は、いつも緊張する。摺師という職人の長年の経験と感覚が凝縮されているこの行動を、私なんかがと思う気持ちは拭えない。邪道だ。邪道がいい。深呼吸して、和紙の端に手を伸ばす。音が消える。風が止まる。まるで祈りのような静けさに包まれながら、和紙に指で触れる。摺り終えた和紙は、湿り気を帯びたまま、版にぴたりと吸いつくように貼りついている。息をひそめ、両手の指先で和紙の端をそっとつまむ。力を入れすぎてはいけない。繊細な繊維が裂けてしまう。でも、ちゃんと力をいれなければいけない。力が緩ければ、版に残された絵具が滲んでしまう。小学生の時の授業言われたことも、桔梗ママが紹介してくれたプロの摺師も、言ったことは同じ。でも、摺師のプロの言葉は重みが違う。この一瞬に全てを賭ける。絶妙な力加減を心がける。紙の繊維が空気を含むように、ゆっくりと、丁寧に剥がすことだけを考える。紙が版木から離れるにつれ、摺り上がった絵が徐々に姿を現す。色の重なり、線の冴え、紙の白が映える余白——すべてが一瞬で、目の前に立ち上がる。これが、私のつけた色。全体を見渡し、わずかなズレや滲みに思わず眉が寄る。未熟。でも、この未熟ささえも石川先生は望んでいる。完成してほしくないから。私の未熟ささえも未来への余地にしてしまうのだ。 .「ナータ」深く呼吸をし、胸の中の空気がいつも通りになったところで、工房の戸口から声をかけられた。母屋からの光が差し込み、逆光の中にたたずむ姿はすっかり一人の青年。私より一つ年上の幼馴染、桐谷誠司は制服の裾を風に揺らしている。絵になる人だなって思う。あいにくと私に絵を描く才能はないけれど、石川先生は誠司をモデルに何枚か絵を描いている。「ちょっと待って」私は和紙を両手でそっと持ちかえると、乾燥棚にかける。これで、完全にお終い。ふうっと小さく息を吐いた。達成感と、未熟な点への悔しさ。それがわずかな名残惜しさになって胸をよぎる。「終わったか?」その一言に、ふっと笑った。版から紙が離れてしまえば、これ以上もうどうすることもできない。終わり。「うん」誠司は何も言わ
last updateLast Updated : 2026-03-01
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第155話

廊下の窓から差し込む春の光が白いと感じながら、俺は廊下を歩く。「桐谷先輩」覚えはない子だけれど、先輩というのだから二年生以下。そんなことを考えながらにこりと笑って見せれば、きゃあっと声が上がる。「相変わらずモテるよな」「ありがとう」下手な謙遜は余計な角が立ち、面倒な敵を増やす。父さんからのアドバイスを受け入れて、誉め言葉は馬鹿みたいになんでも素直に受けとる。父さんに言わせると、武司小父さんを目指せばいいらしい。確かに、武司小父さんは俺から見ても“いい人”だ。いい人すぎて意中の女性からは「いいお友だちでいましょう」と言われ続けたらしいが、いまは亡き和美お祖母様の最後の慈悲とやらでいまはいい奥さんがいる。武司小父さんの『いい奥さん』の基準は、父さんに夢中でも文句を言わない人。そんな奇特な人が、いまの奥さんの百花さん。旧姓:水野百花さんは、動画制作会社「折々社」の社長の一人で、母さんが大好きな人。俺の両親を巻き込んで何をやっているんだろうと思うけれど、父さんに言わせると武司さんと百花さんはなんだかんだとベクトルの向きがあっているらしい。.「それにしても、なんでこの階段を上っているんだ?」「運動不足の解消」この春から高三、三年の教室は三階の端。そしてここは二階の中央に向かう階段。下駄箱から自分の教室に行く階段もあるのに、俺はわざわざここを歩いている。わざわざ、だ。でも、何でもない振りをして階段を上る。用事はない。ただ、そこを通るだけだから言い訳は『運動』で十分。.二階の廊下はざわついている。昼休みが始まったばかりの緩い空気。教室の扉は開け放たれ、笑い声が溢れている。その中で――ひときわ光を集めている存在がいる。花岡ナターシャ。金に近い淡いブロンドの髪。透き通るような白い肌。淡青色の瞳。日本の学校の制服は没個性で、誰でも同じ感じに見せるのに、ナターシャは目立つ。だからこそ、浮いている。「モデルみたい」春は“はじめまして”の季節。“はじめまして”って合言葉があるから、普段声をかけられなかった子にも声をかけられるビッグチャンスの季節。俺は笑みを深める。ナターシャの姿に頬を染める奴らに対する苛立ちを必死に隠す。「でもさ、ちょっと近寄りづらくない?」小声のはずの言葉は、廊下ではよく響く。俺は足を止
last updateLast Updated : 2026-03-02
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第156話

「また二年生を見ているんだね」不意にかけられたクラスメイトの女子の声に、俺は内心ビクッとしつつも、それを笑顔のうちに隠す。「目立つからね」不意に目が追ってしまう。その言い訳に、ナターシャの目立つ容姿はとてもいい言い訳になる。「きれいな子だよね」「そうだね」俺に声をかけてきた子が、「そんなことはない」と俺が否定することを期待していることには気づいているけれど、否定する必要はない。ナターシャはきれいだ。モデルのようだと騒めかせるくらい、十人が十人「きれい」だという。だから、俺は否定する必要がない。「でも、ちょっと変わっているみたい」「そうなんだ」彼女の言葉に、「そうなんだ」と興味のない声は簡単に出る。だって、彼女のナターシャに対する『変わっている』という評価になんて欠片も興味はない。……変わっている、ねえ。それを言うなら、俺だって変わっている。だから、この女の子だって、これだけ大勢のクラスメイトがいる中で、席も近くないのにわざわざ俺に声をかけてきた。ただ、俺の『変わっているところ』が彼女にとって好ましいだけ。自分から見て、好ましいか、好ましくないか。自分基準で評価をすることに、忌避感も嫌悪感もない。俺だって、そうだから。ただ、それに共感を求められることには嫌悪感はある。数を集めて、自分が思っていることは『正しい』と思いたいからなのだろうけれど、少数派を排他するようなやり方は好きではない。これも、俺基準なのだけれど。どうしたって、見た目から少数派に属してしまうナターシャが好きな俺に、多数派に入ってほしいっていう意見は邪魔であり、不快でもある。でも、これを口にしたことはない。ナターシャが、それを望まない。ナターシャは、自分の足で立っている。俺の、いまの俺の存在は、ナターシャのそれを邪魔してしまう。邪魔はしたくない。だから、我慢する。我慢はするんだけど……凛としているナターシャの横顔を見るたび、胸の奥が軋む。触れたいって思う。抱き寄せたいって思う。この気持ちを、誰に相談できるわけでもなく、悶々と抱えている。俺がナターシャを好きなことは、父さんたちは知っている。話したわけではない。五歳になる前に「ナターシャ、好き」とみんなの前で言った俺の気持ちが、高校三年生のいまになってもただ変わらないだけ。でも、
last updateLast Updated : 2026-03-03
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第157話

―― ナターシャ、大好き。そう言ったのは、子どもの頃。子どもだったから、そう言えた。 *ナターシャのことを好きだと思った日を、俺はいまでもはっきり覚えている。いつ、何歳とかの記録ではなく、どんなときだったかと体が記憶している感じだ。.その日は、桐谷家の庭に多くの人が集まっていた。集まっていた理由は覚えていない。ただ子どもの俺が両親から離れて自由に歩き回っていたから、桐谷家にとって好意的な人の集まりではあったのだと思う。季節は、春の終わり。風は柔らかくて、庭の桜の樹はすっかり葉桜になっていた。「せーじ」この頃のナターシャはまだ幼くて、舌足らずな、可愛い声をしていた。いや、いまも十分可愛いのだけれど、「せえじ」とも聞こえたあの頃の呼び方はいまはもうない。 でも、色は変わらない。呼ばれて俺が振り返って、視線を下に向けると、小さな金色の頭が見えた。日本人の子どもたちとは明らかに違う髪。光を含んだような淡いブロンド。俺たち子どもは、固まって遊んでいたけれど、誰もがナターシャから距離をとっていた。ナターシャは、それを気にしていなかったと思う。それが、ナターシャにとって当たり前だから。―― 誠司は囲まれる、私は避けられる。望もうと、望まなかろうと、それはもう『仕方がないこと』なのよ。中学生の頃には、もうそんなことを言っていた。そうだな、って思う。こればかりは、俺たちが何を望もうと変わらない。それなら気にしないほうが楽だ。でも、そう思うには始まりがあった。その、ナターシャの始まりは、きっとこの日だと思う。.「どうした?」ナターシャに呼ばれて僕が近づくと、ナターシャは小さな手を伸ばした。何かを見せようとしているのだと、すぐに分かった。ナターシャの小さな掌の上にあったのは、石だった。どこにでもあるような、多分庭に落ちていた石。「石が、どうしたの?」俺の言葉に、ナターシャは膨れた。「ナターシャ?」 「ちがう」ナターシャは首を振った。「そら」小さな声でいった言葉の意味を、最初は理解できなかった。実は、ロシア語で何か言ったのかとも思った。 「そら!」理解できない俺に焦れたナターシャは、手のひらを前に突き出してきた。それでも、そこにあったのは石でしかなかった。ただの灰色の石。俺にとっては。でも、ナタ
last updateLast Updated : 2026-03-05
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第158話

あの日、ナターシャが庭で見つけたその石は、色を閉じ込められるという理由で瞬く間にナターシャの宝物になった。あの日、ナターシャはあの透明な部分にいろいろな色を映して見せてくれた。夢中だった。俺も。ナターシャも。·それは、突然だった。「ねえ、あの子、変わった色をしているよね」「外国の子だよ」子どもは、残酷だって。思い出すたびに思う。「目、青いよ」「ちょっと怖いね」「不気味だよ」その言葉に、ナターシャの手が止まった。俺が振り返ると、俺と同じくらいの年の女の子が三人いた。あの子たちは、ナターシャを見ていた。珍しいものを見る目。そして、「どうしてあの子が」という目。今なら、想像がつく。あの子たちは、俺と仲良くしてこいと言われたのだと思う。それなのに、俺はナターシャと一緒にいた。だから、ナターシャを排除しようとしたんだ。怖い。加害者のくせに、被害者の振りをした言葉を使っていた。 「……カノン」ナターシャは、俺から離れて、乃蒼さんたちのほうに行ってしまった。俺では、助けにならないからだ。俺はそのとき初めて知ったんだ。俺のみんなと違うが好まく思われるように、ナターシャのみんなと違うは攻撃されやすいということ。理由が、嫉妬だろうと羨望だろうと関係ない。攻撃されれば、ナターシャは傷つく。ナターシャを守れるようになるまで、近づかない。そう決めた。でも、ナターシャは可愛いから、誰かに取られてしまうかもしれない。よし、大人を味方につけよう。……俺って、昔から小賢しかったと、本当にそう思う。.母さんが外で飲むのを父さんが嫌がるから、乃蒼さんたちはよく桐谷家に泊る。この日も、乃蒼さんたちは母さんと飲むためにうちに泊まった。ナターシャと俺は、いつも通り一緒に俺の部屋で寝た。「おはよう、せーじ」そう言って、まだ目をこするナターシャの手をひいて、俺はキッチンに行った。「おなか、すいたの?」そんなことを言いながら、ナターシャも小走りでついてきてくれた。「おはよう、誠司」キッチンには、父さんと母さん、乃蒼さんと佳孝さんもいた。丁度いいと、思った。大人たちは笑っていたけれど、僕の顔を見て、母さんが首を傾げた。 「どうしたの、誠司?」俺はナターシャの手を握ったまま言った。「ナターシャが好き」「……うん?」
last updateLast Updated : 2026-03-05
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第159話

春の光は、やけに透明だった。校舎の窓に当たった光が、教室の床に四角く落ちている。その光を見るのが、好き。黒板では教師が何か説明しているけれど、意識が、向かない。机の上に置いたシャープペンシルの影。その影の輪郭が、窓から差し込む光で微妙に揺れる。(今日の光は、少し青い)そんなことを考えていた。光には色がある。午前中の光は白く、昼に近づくと少し黄色くなる。そして今日の光は、なぜかほんの少しだけ青かった。空の色が、反射しているのかもしれない。指先を光の中に入れてみる。白い指が、ほんのり青く染まる。きれい。その瞬間。「花岡」先生の声がした。「聞いてるか」教室の空気が、わずかに動いた。顔を上げる。「すみません聞いてません」正直に答えた。教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。先生は少し困った顔をして、ため息をついた。「……次からは聞いてくれ」怒るほどでもない。そういう生徒だと分かっているからか、それとも最低限の成績をキープしているからか。……どっちでもいい。「はい」返事をして、また窓の外を見た。グラウンドの桜はもうほとんど散っている。地面には薄い桃色の花びらが広がっていて、それが風に流れていく。その色の動きが、きれいだった。 授業が終わると、教室がざわついた。椅子が引かれる音。友達同士の会話。笑い声。机に肘をつき、窓の外を見ながら、耳をそばだてる。それでも、教室のざわめきは、少し遠くに感じる。「ねえ」声がした。振り向くと、同じクラスの女子が三人立っていた。名前は知っている。けれど、初めてのクラスメイト、ほとんど話したことはない。「花岡さんってさ」一人が言った。「ハーフ?」「うん」「ロシア系?」頷く。「へえー」一人が覗き込む。「目、すごい青いよね」「カラーコンタクトじゃないんだ」好意的ではない。女の子たちは少し笑う。悪意があるのか、ないのか。好意がその理由になると、その境界は、いつも曖昧になる。「いいよねー、そういうの」「目立つし」「モデルとかできそう」首を振る。「目立つの、嫌いだから」「えー?」女子たちは顔を見合わせた。「でもさ」一人が言う。「桐谷先輩と仲いいよね」その瞬間。教室の空気が少しだけ変わった。
last updateLast Updated : 2026-03-06
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第160話

夜の庭は、夕方の庭とは違う色をしている。石川先生の家からは、桐谷家の車に乗って帰る。小さい子どもではないから大丈夫といたら、小さい子どもじゃないからダメだとみんなに言われた。―― ついでだし。みんなが納得する形で、誠司が部活を終えたら私をピックアップしてくれることになった。「ナータ」穏やかな声。誠司だけが呼ぶ私の愛称。顔をあげると、「どうした?」という顔でこちらを見ている誠司。きれいな人だなって思う。蓮司おじ様の男性らしい凛々しさに、桔梗おば様の優しさがミックスされた顔立ちは、武司おじ様が『いいとこどり』という顔立ち。そこに、幼い頃からいろいろ、道と付くものをいろいろやっているからか、立ち姿や雰囲気がきれいだ。同世代の男子よりも大人びている。でも、なんだろう、石川先生はもちろん、蓮司おじ様たちみたいな『大人』ではない。でもそれは、私も一緒。まだ、私も大人の振り。クールぶって、みんなとは違うって線引きをしても、社会的に見れば『子ども』になる。桔梗おば様や、カノンたちからしてみたら、まだ保護対象の子ども。「まだまだ、だな」私の呟きに、誠司は苦笑する。「まだまだ、だね」足りない、何もかもが。私も、誠司も、その足りない何かを埋めようとしている。門についている照明が、私たちを照らす。庭にできた長い影は、ふたつ重なっている。でも、私たちは手も触れていない。つないでいない手は、ゆっくりと揺れている。まるで、誘うようで。でも、掴まれたくないといってもいるようで。「ナータ」影を見るのに満足して、そろそろって思ったタイミングで誠司から声をかけられる。このタイミングを、なぜか誠司は間違えない。物心がつく前から一緒にいたから、物を測るタイミングが同じなのかもねと誠司は言う。
last updateLast Updated : 2026-03-07
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