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6-22

「お帰り、蓮司」玄関の扉を開けた瞬間、柔らかく迎える声が耳に届いた。顔を上げると、そこには和美祖母さんがいた。この家は桐谷家であり、本来なら和美祖母さんのほうが客人のはずなのに、その「おかえり」は不思議なほど自然で、まるで帰る場所そのものに声をかけられているような感覚になる。違和感がないどころか、むしろしっくりと胸に収まる。その理由を考えれば、おそらく和美祖母さんは、俺たちにとっての「家」そのものなのだろう。誰にとっても帰る場所であり、安心の基準のような存在。そして、その空気を桔梗もまた持っている。だから俺は、この家に帰りたくなる。桔梗がいる場所に帰りたくなる。「うん、ちゃんと“男”の顔になったわ」和美祖母さんが満足そうに頷く。その視線に含まれた何かを感じ取って、俺はようやく腑に落ちた。「武司を使って焚きつけてきたのは、祖母さんか」そう言うと、和美祖母さんは一瞬だけ目を丸くして、「どうして分かったの」という顔をした。それだけで十分な答えだ。「武司の言葉にしては、なんか……悟りに入ってたからな」「あらあら」俺が軽く肩をすくめて言うと、和美祖母さんはくすくすと楽しそうに笑う。その笑い方は昔から変わらない。人の心の機微をすべて見透かしたうえで、それでも優しく包み込むような笑みだ。「祖母さん」「なに?」疑問に思っていたことを、口に出してみる。「愛の告白って、やっぱりバラの花束が必要かな?」自分で言っておいて、柄じゃないと思う。そんな芝居がかったことをするタイプじゃない。けれど、それくらいの覚悟を持たないと、踏み出せないところに来ているのも事実だった。「それよりも、勢いでしょう。考えすぎると、言葉は全部嘘になるものよ」和美祖母さんはあっさりと言い切る。「桔梗さん、さっき台所にいたわよ」その一言で、背中を押された気がした。「それは分かる。いい匂いがしてる。この家、桔梗以外は全員、料理音痴の呪い持ちだから」思わず軽口が出る。この家で、この時間帯にキッチンから甘い匂いが漂ってくるとすれば、それは桔梗がいる証拠だ。料理の腕も、手際も、何よりその空間を優しく満たす空気も、桔梗のものだ。 * 廊下を進み、台所が見える位置まで来ると、そこに立つ桔梗の背中が目に入った。白いエプロンを身につけ、静かに手を動かしている。和美祖母さんに頼ま
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6-23

「桔梗」名前を呼んだ、そのたった一言だけで、胸の奥がきしむように痛んだ。呼び慣れているはずの名前なのに、今はまるで初めて口にしたかのように重く、喉の奥に引っかかる。「はい、どうしました?」返ってきた声は穏やかで、そこに拒絶も警戒もない。ただ純粋に、俺の言葉を待ってくれている声音。その事実が、逆に逃げ場を奪っていく。どんな言葉を選ぶべきか――そう考えた瞬間、嫌になるほど分かってしまう。俺はまた、「いい夫」として無難で耳障りのいい言葉を探そうとしている。この場をやり過ごすための言葉。自分を守るための言葉。そうじゃないだろう、と胸の奥で誰かが叩く。「俺は……ずっと、黙っていようと思ってた」言葉を絞り出すようにして告げると、桔梗の表情がわずかに揺れた。「……それは……」何かを察したのか、桔梗が目を伏せる。その仕草に、逃げ道が目の前に現れた気がした。ここでやめればいい。言わなければ、今のままでいられる。そう囁く声を、無理やり踏み潰す。「あの夜のことも、そのあとのことも、全部」一度、深く息を吸う。肺に入った空気がやけに冷たく感じる。「桔梗が知らないのをいいことに、桔梗が何も言わないのをいいことに、俺は“何もなかった顔”を選んだ。誠司がいるから仕方がないって、自分に言い訳して、踏み込まなかった」桔梗の手元を見ると、カップを握る指先が白くなっている。力が入っている。緊張しているのは、俺だけじゃない。「桔梗に嫌われたくなかった。失いたくなかった。何もなかったことにすれば、このままでいられるって……そう思った。だから聞かなかった。謝りさえも、しなかった」喉が焼けるように痛む。言葉にするほど、自分の卑怯さがはっきりと形を持っていく。「俺は、君に乱暴をした」「それはっ……」桔梗が反射的に声を上げる。「待ってくれ」思わず強く言ってしまうが、すぐに声を落とす。「君のことだから、俺にも事情があるんだとか……そう言うのか?」桔梗は口を開きかけて、結局何も言わずに閉じた。唇を噛みしめている。その表情は、苦しそうで、悔しそうで、それでも否定はしない。そのことが、何よりの答えだった。俺は一度、視線を逸らす。真正面から受け止めるには、まだ自分が足りないと分かっているからだ。それでも、言葉は止めない。「桔梗が、俺をそういう男じゃないって思ってくれてい
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6-24

「私は……」どれほどの時間が流れたのか分からない沈黙のあと、ようやく桔梗の唇がかすかに動いた。その声は小さく、けれど確かに震えていて、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。それでも、その一言が空気を変えた。「蓮司さんに選んでほしかったんです」「……俺、に?」思わず聞き返してしまう。選ぶ、という言葉の意味を一瞬で理解できなかったわけじゃない。ただ、その言葉があまりにもまっすぐで、想像していなかった形で胸に突き刺さったからだ。選んでほしかった――つまり、俺に桔梗を選んでほしかった、ということか。それは、当然だ。俺はずっと桔梗を選んできたつもりだったし、これからもそうするつもりでいた。けれど、その“つもり”が、彼女にとっては違っていたのだろうか。「仕方がないでもいいから、蓮司さんの傍にいたかったんです。ずっと……好きでした……と思います……えっと、多分」……え?耳に入ってきた言葉を、頭がうまく処理できない。好きでした――過去形。そして、“多分”。その曖昧さに、思考が一瞬で引っかかった。  『女性が次に行くのは、早いぞ』意に武司の声が頭の中で蘇る。嫌なタイミングで思い出すな、と内心で毒づきながらも、その言葉が妙に現実味を帯びて胸に居座る。「過去形? それに、“多分”?」思わず問い返してしまうと、桔梗は戸惑ったように目を泳がせた。「え……だって、好きだって思いましたけれど、それでいいのか分かりませんでした」「なんだ、その“分からない”って」さっきまであれほど慎重に言葉を選んでいたのに、気づけば距離を詰めていた。桔梗の肩を掴み、そのまま問いただしている。自分でも驚くほど余裕がない。「だって……誰かを、好きになったことが……ない、んだもん」「え……」思考が止まる。いや、止まるしかなかった。なんだそれ。どういうことだ。しかも、その言い方はなんだ。拗ねたような、子どもみたいな口調で「だもん」なんて。こんな場面でそんな可愛いことを言われて、どう反応すればいいのか分からない。「桔梗……」名前を呼ぶと、桔梗はぶんぶんと小さく首を振った。「分からないっ! だって、蓮司さんには凛花さんがいたから、結婚するって聞いて……浮気相手になるなんて、それ以前でも、あの人に不快な思いをさせるなんて絶対にしたくなかったから……」言葉が途切れ途切れに
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6-25

「それだけでも……なのに、妊娠してた……終わった、と思った」掠れた声でそう言った瞬間、桔梗の瞳から大粒の涙が溢れ出した。「……桔梗」呼びかける声は、自分でも驚くほど弱く、頼りなかった。それでも、目の前で崩れていく彼女を前に、何もしないという選択肢はなかった。俺は桔梗の体を引き寄せ、強く抱きしめる。腕の中に収まったその体は驚くほど細く、そして震えていた。逃げられなかったことに、安堵が胸の奥に滲む。そんな自分の感情すら、ひどく醜いものに思えた。それでも、離すことはできなかった。「怖かったの」「ごめん」「痛かったの」「ごめんな」「気持ち悪かった、殺してやりたかった」その言葉に、息が止まりそうになる。この優しい桔梗が、誰かに対して“殺してやりたい”とまで思った。その対象が自分だという現実が、胸に重くのしかかる。「ごめんな、桔梗……俺は……」続く言葉が見つからない。どれだけ言葉を並べても、何一つ足りない気がした。「妊娠したなんて……もう、想いを抱くことすら許されないんだって……そう考えると、あのときよりも、辛かった。苦しかった。泣いて、叫んで、なかったことにしたかった」言葉の終わりは叫びに変わり、そのまま桔梗は声をあげて泣き崩れた。堰を切ったように溢れ出す感情は激流のようで、受け止めきれる自信など到底ない。それでも、受け止めたいと思った。俺は無意識のうちに桔梗の背をゆっくりと撫で、時折軽く叩いていた。まるで誠司をあやすときのように、一定のリズムで、安心させるように。その単純な動作に、少しずつ桔梗の体の強張りが解けていくのが分かる。やがて嗚咽は弱まり、呼吸も落ち着いてきた。力が抜けた体を支えながら、このまま立っているのは辛いだろうと判断し、俺はゆっくりと床に腰を下ろす。自分の膝の上に桔梗を乗せ、上半身を預けさせた。ぐったりとした体は軽くはないはずなのに、不思議と負担には感じなかった。むしろ、この重みを手放すことのほうが怖かった。桔梗の瞼は重そうに揺れ、その奥の視線はどこか定まらない。「……蓮司さんが……」掠れた声が、かろうじて形になる。喉が痛むのか、小さく咳払いをする仕草が痛々しい。「蓮司さんが、私を襲った人だったと分かったとき……信じられなかった。真っ暗で、顔が見えなかったから、分かったいまでも、あの怖い人が蓮司さんと一緒に
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6-26 side桔梗

目が覚めた瞬間、世界が熱に包まれていた。空気そのものが肌にまとわりつくように重く、視界はまるで蜃気楼の中に放り込まれたみたいに揺らいでいる。焦点が定まらず、現実と夢の境界が曖昧になっているような、不安定な感覚だった。頭の奥がずきずきと痛む。特に後頭部から波のように押し寄せてくる鈍い痛みは、思考を鈍らせるには十分だった。喉もひどくひりついている。乾いて、焼けるようで、息をするだけでも少し痛い。水を飲みたい。ただそれだけの単純な願いすら、今の体には遠いものに思えた。「ん……」小さく声を漏らし、体を起こそうとする。けれど右腕に力を込めた瞬間、ぶるぶると震えて支えきれないことを悟った。思った以上に体が言うことをきかない。そのときになってようやく、自分が柔らかいものの上に横たわっていることに気づく。……ベッドだ。いつの間に。どうして。そこまで考えて、途切れていた記憶が一気に押し寄せてきた。――思い出したくない。喚き散らしたこと。蓮司さんにぶつけた言葉。叩いたこと。泣き叫んだこと。そして、最後に――抱きしめられたぬくもり。  『大好きだよ』耳の奥に残る、あの甘くとろけるような声。その一言を思い出しただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。体の熱がさらに一段階上がった気がして、視界がぐらりと揺れた。顔から火が出る、なんて言い回しは比喩だと思っていたのに、今は違う。本当に、燃えているみたいに熱い。恥ずかしい。その一言に尽きる。あんなふうに取り乱して、全部ぶつけて、そのうえであんな言葉を向けられて――その結果がこれ。恥ずかしさで熱を出すなんて、どれだけ子どもなのだろうと思うと、余計に顔を覆いたくなる。……とりあえず、隠れよう。布団の中に潜り込めば、少しは落ち着くかもしれない。そう思って身じろぎした、そのとき。「桔梗」 !心臓が跳ねた。これは、想像じゃない。確かに耳に届いた、現実の声。しかもすぐ近くから。「……っ」思わず息を呑んだ瞬間、額にひんやりとした感触が触れる。優しく置かれた手のひら。蓮司さんの手だ。「……熱が、高いな」低く落ち着いた声が、すぐそばで響く。距離が、近い。近すぎるくらいに近い。声も、触れている手も、微かに感じる呼吸の気配も――すべてがはっきりと分かる距離。今までと同じはずなのに、決
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6-27

ただ触れているだけなのに、その距離はあまりにも近く、あまりにも深くて、まるで境界線そのものが溶けていくような感覚だった。優しいはずなのに、押しつけるでも奪うでもないのに、じわじわと内側に入り込んでくるようで、逃げ場がない。ベッドの中で抱き合っているときよりも、よほど親密で、よほど意識させられる。体の奥からじんわりと熱が湧き上がってきて、呼吸すら落ち着かない。これ、絶対に熱のせいだけじゃない。「……すみません」ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱く、情けないほど小さかった。「なにが?」すぐに返ってきた声は、変わらず穏やかで、けれど逃げ道を与えない響きを含んでいる。「……その……ご迷惑を……」言いながら、胸の奥で苦笑がこぼれそうになる。昨日、あれだけ感情をぶつけて、泣き叫んで、取り繕う余地なんてとっくになくなっているのに、今さら何を言っているのだろうと思う。「迷惑なら、ここにいない」迷いのない即答だった。あまりにも自然で、あまりにも当然のことのように言われて、言葉を失う。その一言が、胸の奥に静かに落ちて、じわじわと広がっていく。「桔梗、今日は何も考えなくていい」そう言いながら、蓮司さんは私の肩口まで布団を引き上げる。丁寧で、当たり前みたいな仕草なのに、距離が近すぎて、どうしても意識してしまう。……近い。顔が近い。息が、かかっている。「……あの……」「ん?」「……近くない、ですか……」声は弱々しく、明らかに逃げ腰だと自分でも分かる。それでも言わずにはいられなかった。「近いかもな」あっさりと認めたくせに、離れる気配はない。それどころか、布団の端を整えながらそのまま腰を下ろし、さりげなく退路を塞ぐように位置を変える。「以前なら、怖くて、離れてた。幸せだと感じることは罪深く、失ったときを想像して、深く入りこまないようにしていた」その言葉に、心臓が大きく跳ねた。耳の奥で、自分の鼓動がやけに響く。「でも、もう――そうする理由がない」静かに、けれどはっきりと告げられたその言葉に、息が詰まる。……それは、ずるい。そんなふうに言われたら、何も返せなくなる。「な?」確かめるでもなく、押しつけるでもなく、ただ事実を述べるような口調。その無防備さが、余計に逃げ場を奪う。私は堪えきれず、布団の中で顔を覆った。熱い。頭も、体
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6-28 side蓮司

「また眠ったか」小さく呟きながら、俺はベッドに横たわる桔梗の様子を確かめる。呼吸は浅いが規則的で、大きな乱れはない。そのことに、ようやく胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけほどけた。それでも安心しきることはできない。額に浮かぶ汗、時折苦しげに寄せられる眉、その一つひとつが不安を掻き立てる。触れなくても分かるほど、体温は高い。実際に手を当てれば、熱がじかに伝わってくるのだろう。俺はそっと体温計を取り上げ、桔梗の脇に差し入れた。数秒の沈黙のあと、電子音が小さく鳴る。取り出して表示を見た瞬間、思わず舌打ちが漏れた。三十八度。軽く見ていい数字じゃない。むしろ、はっきりと高いと断言できる熱だ。「大丈夫か……」思わず口に出た言葉は、誰に向けたものでもなく、ただの独り言に近かった。桔梗は今、妊娠している。四ヶ月を過ぎて安定期に入ったとはいえ、油断はできないことには変わりない。体調の変化には人一倍気を遣わなければならない。それなのに――タイミングを間違えたか。胸の奥に浮かんだその考えに、すぐに自分で首を振る。違う。これはただの言い訳だ。まさか、あんな反応をするとは思わなかった――そんな考えも、結局は自分を軽くするための逃げ道でしかない。·桔梗は「知恵熱」なんて言っていたが、そんな軽い言葉で片付けていい状態ではないはずだ。怒って、泣いて、感情をすべて吐き出して、そのまま意識を手放すように眠りに落ちた。その負担が体に来ないわけがない。むしろ、これでもまだ軽いほうなのかもしれないとすら思う。それでも――俺の視線は、ベッドサイドに置いたネクタイへと向かう。正確には、元はネクタイだったもの、だ。桔梗は眠りに落ちる直前まで、それを強く握りしめて離さなかった。まるでそれだけが頼りであるかのように、指先に力を込めて、縋るように。嫌わないで。離れないで。言葉にはならなかったが、あの手は確かにそう訴えていた。俺がどれだけ言葉を尽くしても届かない部分を、あの無意識の仕草がすべて語っていた気がする。嫌ってなどいない。むしろ、あの告白を聞いて、嬉しいとしか思えなかった。あれだけのものを打ち明けてくれたことが、どれほどの意味を持つか分からないほど鈍くはない。そして、それを聞いた上で離れるつもりなど、最初から一切なかった。桔梗を着替えさせるために家政婦の野村さ
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6-29

思い出のもの、と言えば――視線は自然とネクタイの向こう側へと移る。そこにあるのは、冷却ジェルシートの箱。市販の何の変哲もない箱のはずなのに、今の俺にとっては特別な意味を持っている。その理由は、箱の表面に描かれた絵。クレヨンで一生懸命に描かれたそれは、誠司の作品だ。桔梗が熱を出し、今夜は一人で寝かせなければならないと伝えたとき、誠司は露骨に顔を歪め、今にも泣き出しそうな目で俺を見上げていた。その姿に耐えかねたのか、朋美が「じゃあお見舞いをしよう」と言い出し、二人でドラッグストアにいってこの箱を買ってきたのだ。そして誠司は、小さな手で一生懸命にクレヨンを握りしめ、桔梗のためにと箱に絵を描いた。丸い顔に笑った口、ぎこちない手足――それでも、その一つひとつに「ママが早く元気になりますように」という気持ちがこもっているのが、はっきりと分かる絵だった。クレヨンが剥がれないように慎重に箱を持ち上げながら、俺は中から二枚目のシートを取り出す。こういう何気ない動作ひとつにも、妙に神経を使っている自分に苦笑した。桔梗の額に触れると、やはり熱は高いままだ。さっき貼ったシートはもうぬるくなっていて、指先に伝わる体温の高さが嫌でも現実を突きつけてくる。俺はそっとそれを剥がす。剥がすだけの簡単な動作なのに、どうしても手つきが慎重になり、時間がかかる。以前、朋美がねん挫したときにテーピングをしてやったことがあったが、そのときは一分もかからなかったはずだ。それなのに、今はこの薄いシート一枚を扱うだけで、まるで壊れ物に触れているかのように気を遣ってしまう。新しいシートを貼ると、ひんやりとした冷たさが心地よかったのか、桔梗の唇から小さく息が漏れた。その声はかすかで、弱々しくて――それなのに、妙に耳に残る。理性を試されているような気さえして、思わず視線を逸らしたくなるほどだった。·桔梗は、俺が思っていた以上に「女」だった。もちろん、それは下卑た意味ではない。だが同時に、ただ清らかで守るべき存在としてだけ見ていた自分の認識が、いかに一面的だったかを思い知らされた。彼女は俺を求める感情も持っていて、それを溢れさせるように零してくれた。そして何より、彼女は自分の中にある「汚い」と思っている感情まで、すべて俺にさらけ出したのだ。あのときの桔梗の言葉、表情、震える声――思い出す
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6-30 side桔梗

「心因性発熱ですね」穏やかな声でそう告げた主治医の言葉に、ベッドの傍に立つ蓮司さんはわずかに眉を寄せ、考え込むような表情を見せた。その横顔を見ながら、私は布団の中でそっと息を潜める。「いわば知恵熱です、ご心配なさらず」続けられた説明に、私は心の中で小さく頷いた。やっぱり、そうなのだろう。安心と納得が同時に胸に落ちてくる。「心配は、ないのですね」低く確認するような蓮司さんの声に、医師は穏やかに笑みを浮かべて答える。「ええ、妊娠中ということで慎重に診ましたが、喉の腫れもありませんし、感染症の兆候も見られません。おそらく感情の起伏と疲労が重なったのでしょう。しっかり休めば自然に下がりますよ」その言葉に、胸の奥で張りつめていたものがようやく緩んだ。妊娠中だからこそ怖かった“もしも”が否定されて、ほっとする。けれど同時に、「知恵熱」という言葉がじわじわと恥ずかしさを運んできて、私は思わず布団を引き上げて顔を隠した。大人が、しかもいい歳をした大人が、感情を爆発させた挙げ句に発熱――しかも二日目に入っても下がらない。……その原因の半分以上が、たぶん目の前にいるこの人なのだから、なおさら性質が悪いし、恥ずかしい。「よかったですね」医師の柔らかな声が遠くに聞こえる。「ありがとうございます」それに応じる蓮司さんの声は落ち着いていて、どこか安堵を含んでいるのに、それが逆に腹立たしくもあった。……誰のせいでこうなっていると思っているのだろう、と理不尽な文句を胸の中で呟く。やがて診察が終わり、扉が閉まる音と同時に、家政婦の野村さんが先生を玄関に案内する声が遠のいた。「……良かった」ぽつりと落ちた蓮司さんの声は、心の底からの安堵が滲んでいて、その響きに私は布団の中で小さく頷いた。ベッドの端が沈み、彼が腰を下ろした気配が伝わる。次の瞬間、額に触れる手のひらの冷たさに、びくりと体が反応した。「……まだ熱いな」そう言いながら、指先で前髪をそっと払われる。その仕草があまりにも自然で、優しくて、だからこそ余計に心が落ち着かない。――やめてほしい。こんなふうにされたら、治るものも治らなくなる。「……あの……」何か言おうとした瞬間、「水、飲むか」と被せるように言われて、言葉が途切れる。差し出されたストロー付きのグラスに手を伸ばそうとしたけれど、蓮司さんは
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6-31

三日目になると、ようやく熱が下がり始めた。まだ完全な平熱ではないし、体を起こすと少しふらつくけれど、頭の奥に張りついていた鈍い重さはずいぶん軽くなっている。視界もようやくまともに定まり、ぼんやりと夢の中を漂っていた感覚も薄れてきた。とはいえ、熱が下がったことで別の問題が浮上してきた気がする。正確には、“現実を冷静に認識できるようになった”というべきかもしれない。.「今日は、誠司が来てもいいか? ママに会いたいと言っているんだ」ベッド脇に腰を下ろしていた蓮司さんが、どこか遠慮がちにそう言った。その声音が妙に柔らかくて、私は反射的に頷きかける。「それは、私も会いたいですけれど……」そこまで言って、言葉が止まる。……私たち、今、子どもに見せていい距離感なのかしら。ここ数日、蓮司さんとの距離が近い。物理的にも、精神的にも。いや、正確には“近くなった”というより、“遠慮がなくなった”のだと思う。以前の蓮司さんは、触れると壊れるものを扱うみたいに慎重だった。私が怖がらないように、警戒させないように、一歩引いた位置で接していた。でも今は違う。額に触れるのも、髪を撫でるのも、手を取るのも、どこか自然で、躊躇がない。その変化に私自身がまだ慣れていないのに、誠司はどう感じるのだろう。落ち着かない空気とか、妙に甘い雰囲気とか、子どもでも案外敏感に察する気がする。……いや、そもそも問われたとき、どう説明すればいいの?そんなことを考えているうちに、「ママ!」と元気いっぱいの声が響いた。ドアが開くなり、誠司が小さな足でぱたぱたと駆け込んでくる。その勢いに思わず笑いそうになるけれど、ベッドの直前でぴたりと止まったのを見て、私は目を瞬かせた。ちゃんと“飛び込んじゃいけない”と理解しているらしい。「ママ、もう、だいじょーぶ?」不安そうに揺れる瞳。熱が出た日から会えなかったぶん、きっと我慢していたのだろう。「うん、大丈夫よ」できるだけ安心させるように笑うと、誠司は目に見えてほっとした顔をした。その表情に胸がきゅっとする。心配をかけてしまったのだ。……ん?そこで誠司の視線が、すっと横へ動く。私を見る。次に蓮司さんを見る。そしてまた私を見る。何かを確認するみたいに交互に見比べたあと、「……なかよし?」と、あまりにも率直な感想を口にした。「っ、ごほ……!」
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