All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 161 - Chapter 170

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6-32

誠司は、まるで「これが正解だよ」と教えてくれるみたいに、蓮司さんへ勢いよくぎゅうっと抱き着いた。小さな腕を精いっぱい伸ばして、大きな体にしがみつく姿があまりにも可愛らしくて、思わず頬が緩む。蓮司さんも自然に腕を回し、誠司の背中を軽く叩いて受け止めていた。その仕草があまりにも慣れていて、二人が普段からこうして触れ合っているのだと分かる。誠司は得意げに顔を上げると、「ほら、こう!」と胸を張った。でも、「こう」と言われても、どう反応していいのか分からない。そもそも、誠司みたいに素直に飛び込んでいけるほど、私は子どもではないのだ。戸惑っている私を見て、誠司はじれったそうに唇を尖らせた。「マーマー」甘えるような声を出しながら、私の腕を引っ張る。小さな手なのに意外と力強くて、私はそのまま蓮司さんのほうへ引き寄せられた。……蓮司さん、ここは「ママを動かしちゃだめだぞ」じゃないのですか? この数日、私が少しでも立ち上がろうとするたび、「安静に」「無理をするな」と、あれほど真剣な顔で言っていたではありませんか。熱が下がりきっていないからと、水を取るだけでも付き添おうとした人が、どうして今は止めないのだろう。そんなことを思っていると、「……誠司」と、蓮司さんが低い声で名前を呼んだ。その声に、誠司はぴたりと動きを止め、きょとんと首を傾げる。「ママはまだ体調が悪い」「うん」素直に返事をする誠司に、蓮司さんは静かに続けた。「だから、俺が抱っこするから、ちょっと退きなさい」……え? 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。「はーい」けれど誠司はあっさり頷いて、ぱっと私から手を離す。ちょっと、誠司?そんな簡単に引き渡すの?内心で慌てる間もなく、蓮司さんの腕が私の体を包み込んだ。後ろからそっと抱きかかえられるようにして、そのまま膝の上へ乗せられる。熱の残る体に、大きな体温がじんわり伝わってきた。背中越しに感じる胸の厚みも、肩に添えられた手の重みも、全部がやけに意識されてしまう。逃げようと思えば逃げられるくらいの力加減なのに、逃がすつもりはないのだと分かる抱き方だった。「誠司、おいで」蓮司さんが片手で誠司を手招きする。誠司は嬉しそうに駆け寄り、今度は蓮司さんの左足の上にちょこんと乗せられた。結果として、私は後ろから抱え込まれ、誠司は前に座る形になっ
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【第七章】

配信用の動画撮影に使っているキッチンスタジオを出たところで、私は見覚えのある車に気づいた。夕暮れの光を受けて静かに停まっているその車は、周囲の景色から少しだけ浮いて見えるほど洗練されている。紺色の金属のボディは艶やかで、流れるような曲線が街灯の淡い光を柔らかく反射している。ただ高級というだけではない、持ち主の趣味や美意識まで感じさせる車だった。そして、その隣に立つ蓮司さんもまた、まるで雑誌の一ページみたいに絵になっている。長い脚に無駄のない体躯。コートの裾を夜風に揺らしながらこちらを見る姿に、一瞬だけ足が止まった。難しい顔をしてスマホを見ていた蓮司さんは、私に気づくと自然に表情を和らげる。その変化があまりにも自然で、胸の奥が小さく熱くなった。「それでは、私はここで失礼します」「長谷川さん?」私は驚いて隣を見た。今日の撮影に同行してくれた護衛の長谷川さんは、まるで最初から予定していたように落ち着いた顔をしている。むしろ驚いている私を見て、少しだけ笑みを浮かべていた。「お迎え、来られると聞いていましたので」……聞いていた?私は聞いていない。完全にサプライズだ。けれど長谷川さんはそれ以上余計なことは言わず、蓮司さんへ丁寧に一礼する。「それでは、お気をつけて」私にも「失礼します」と軽く頭を下げ、そのまま足早に去っていった。取り残された私は、何となく居心地が悪くて視線を泳がせる。そんな私に、蓮司さんは当たり前みたいな顔で手を差し出した。「それじゃあ、行こうか」差し出された大きな手。少し迷ってから、その手に自分の指を重ねると、蓮司さんは何も言わずにそっと握ってくれた。強すぎず、でも離れない程度の力加減。その優しさが妙に心臓に悪い。助手席のドアを開けられ、促されるまま車に乗り込むと、ふわりと落ち着いた香りがした。革張りのシートの匂いに混ざる、蓮司さんが普段まとっている清潔な香水の香り。密室だからなのか、いつもより近く感じてしまう。ドアが閉まる音がして、二人だけの空間が完成した。走り出した車の中。私はどうにも落ち着かなくて、窓の外ばかり見ていた。蓮司さんが運転している姿なんて、今までちゃんと見る機会がなかった。そしていまも見られない。ハンドルを握る長い指も、前方へ向けられる真剣な横顔も、視界に入るたびに妙に意識してしまう。だから私は逃げる
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7-1

それにしても、どうかしたか、とはどういう意味だったのだろう。そんなに変な顔をしていただろうか。私は窓の外を見つめたまま、そっと視線だけを蓮司さんへ向ける。「楽しそうだから」あ……。不意打ちみたいに言われて、言葉が詰まった。そんな顔をしていたのかと、自分でも驚く。「あ、の……楽しい、ので」しどろもどろに答えると、蓮司さんの口元がふっと優しく緩む。その笑い方があまりにも穏やかで、胸の奥がまた落ち着かなくなる。「誠司に悪い、とも思ってる、か」「……はい」小さく頷きながら認めると、蓮司さんの目元が柔らかく細められた。叱るでもなく、呆れるでもなく、ただ「そうか」と受け止めるような目。「安心してほしい。誠司にはちゃんと賄賂を渡してきた」「賄賂?」思わず聞き返す。幼児に、賄賂とは?「お風呂で遊べる玩具と、新しい絵本を三冊」ああ。確かに、それは誠司にとって最高の賄賂だ。目を輝かせて箱を開ける誠司の姿が簡単に想像できる。きっと「パパ、だいすき!」なんて言いながら飛びついたに違いない。でも、それなら余計に不思議だった。「今日、何かの日でしたか?」記念日だっただろうか。結婚記念日でも誕生日でもない。何か忘れているのではと少し焦る。けれど蓮司さんは小さく首を横に振った。「いや、特に理由はないんだ」「……え?」理由は、ない? そんな私に、蓮司さんは前方を見たまま静かに続ける。「今日、昼間、部屋の窓から空を見て天気がいいと思った」低く落ち着いた声が、車内にゆっくり広がる。「そうしたら、今日の夕焼けは綺麗そうだと想像して、そうしたら、桔梗と二人で宵の時間を過ごしたくなった」蓮司さんが、ふっと笑った。「最近の俺は、何かをいいなと思うと、それを桔梗と共有したいと思ってしまう。そして、共有するなにかが、欲しいと思う」『いいな』を共有する。その言葉が胸に静かに落ちていく。綺麗な空。美味しい食事。たまたま見つけた花。くだらない会話。そういう、小さな『いいな』を重ねていくこと。それがきっと、一緒に生きていくということなのだろう。「俺が年をとって過去を振り返ったとき、いまこうして過ごしている時間を思い返したとき、二人で過ごしていたって思い出せるものが欲しくなった。つまり、思い出が欲しい」「思い出なら……」私たちにはもう、たくさんある。誠司が生ま
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7-2

「んっ……」車を停めると同時に、運転席で蓮司さんが小さく息を漏らした。そのまま背もたれに体を預け、長い腕を上へ伸ばして大きく体を反らせる。シャツ越しに肩や腕の筋肉が動くのが分かって、私は思わず視線を止めてしまった。蓮司さんはそのまま凝った筋肉を解すように、広い肩をゆっくり三回まわす。骨が小さく鳴る音まで聞こえそうなくらい静かな車内だった。「疲れましたか?」聞きながら、当たり前のことを聞いてしまったと思う。よく考えれば、蓮司さんは今朝普通に会社へ行き、いつも通り仕事をしていたのだ。そのあと、私を迎えに来て、こうして長時間運転までしている。疲れていないはずがない。「当たり前さ」蓮司さんは苦笑しながら眉間に手を当て、そのまま目元をぐりぐり押した。いつも余裕のある人だから忘れそうになるけれど、ちゃんと疲れるし、眠くもなるし、肩だって凝るのだ。そんな当たり前のことを、妙に愛おしく思う。どう見てもお疲れの様子に、私は胸の奥が少し痛んだ。せっかくのデートなのに、と残念な気持ちはある。でも、それ以上に蓮司さんの体のほうが大事だ。無理をさせるくらいなら、今日はこのまま帰ったほうがいいのかもしれない。そう言おうと口を開きかけた、そのときだった。「大事な人を隣に乗せて走るなんて、初めてのことだからな」え?一瞬、意味が分からなくて瞬きをする。「武司さんを乗せたこととかは?」……あれ? 言った瞬間、何か違った気がした。蓮司さんの顔が、ものすごく微妙な顔になる。苦いものを噛んだような、なんとも言えない表情。「桔梗」「はい」低い声で名前を呼ばれ、私は反射的に背筋を伸ばす。蓮司さんはしばらく私の顔をじっと見て、それから深々とため息を吐いた。「なんでここで武司が出てきたのかは分からないし、その理由を聞きたくもないのだが」呆れ半分、諦め半分みたいな声音だった。「一応言っておくと、アイツと一緒のときに事故ったらどうしよう、なんて思ったことはない」そこで一拍置く。「ま、実際に事故ったら、“悪い”で終わるだろうしな」あまりにも雑な扱いに、思わず吹き出しそうになる。武司さん、気の毒。でも、男同士ってたぶんこういう距離感なのだろう。蓮司さんはそんな私を横目で見ながら、静かに続けた。「でも隣に桔梗を乗せていると、絶対に事故れない」その声音が、急に真剣になる。
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7-3

昼間の熱気はもうほとんど残っていなくて、夜へ向かう途中の静かな冷たさだけが辺りを満たしている。私はなんとなく反射的に深く息を吸いこんだ。冷えた空気が肺へ流れ込み、熱を持っていた頭をすうっと冷やしていく。さっきまで車内に満ちていた甘く落ち着かない空気が、少しだけ薄まった気がした。けれど完全には消えない。胸の奥に残った熱だけは、夜風程度ではどうにもならないらしい。「足元、気をつけろ」隣から低い声が落ちてくる。見ると、蓮司さんが自然な仕草で私の歩幅に合わせてくれていた。街灯は少ない暗がりの中でも歩きやすい位置を選ぶみたいに、蓮司さんはさりげなく私を車道側から遠ざけていた。その何気ない気遣いが、いちいち心臓に悪い。自動販売機の白い灯りが近づくにつれて、周囲の暗さが余計に濃く見える。ぽつん、とそこだけ切り取られたみたいな空間。虫の羽音と、遠くを走る車の音だけが夜に滲んでいた。私たちは並んで自動販売機の前に立つ。ずらりと並んだ缶やペットボトルを見上げると、妙に種類が多く感じた。温かいもの、冷たいもの。お茶、炭酸、コーヒー。普段なら何も考えず選ぶのに、今日はなぜか妙に迷う。そんな私の隣で、「そういえば……」と蓮司さんが小さく呟いた。「自動販売機で飲み物を買うなんて、久しぶりだな」「蓮司さんも?」私がぼんやり考えていたことを、そのまま口にされて驚く。私は普段ほとんど家にいるし、たまの外出もキッチンスタジオだ。喉が渇けば、冷蔵庫を開ければいい。撮影現場でも、飲み物はいつの間にか用意されている。でも、よく考えれば蓮司さんだって似たようなものなのだろう。会社では秘書さんが淹れたコーヒーを飲むだろうし、外で人と会えば、先方が出してくれることも多いはずだ。蓮司さんと自動販売機。妙な組み合わせだった。以前、「意外とコンビニを愛用している」と聞かされたときと同じくらいのミスマッチ感がある。「どうした?」不意に声をかけられて顔を上げる。「え?」「楽しそうに、笑っている」……そう? 自分では気づかなかった。でも、それを言うなら蓮司さんだって、どこか機嫌が良さそうだ。「蓮司さんも、笑っていますよ」「そうか?」「何を考えていたんですか?」そう聞くと、蓮司さんは「なにを……」と呟きながら、なぜか本当に考え込むような顔をした。視線が少し宙を泳ぐ。「蓮司さ
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7-4

デート。何も考えず、ぽろりと口から零れ落ちた言葉だった。本当に無意識だったのだと思う。自分でも気づかないうちに胸の中に浮かんでいたものが、そのまま声になってしまっただけ。でも、言ってから数秒遅れで羞恥心が駆け足で追いついてきた。あ、ものすごく恥ずかしいことを言った気がするって感じ。夫婦なのに。いや、夫婦だからこそ恥ずかしいのかもしれない。耳が熱くなるのを感じながら誤魔化そうとした、その瞬間だった。「デートだろ」蓮司さんが即答した。迷いも照れもなく、あまりにも自然に肯定されてしまって、私は思わず勢いよく顔を向ける。「そんなに驚くことではないだろう?」「えっと……」だって、もっとこう、茶化されるとか、曖昧に笑われるとか思っていたのだ。なのに蓮司さんは真面目な顔で頷いている。「言っただろ、恋人時間だって。それに、夫婦でデートっていうのもいいじゃないか」これは、デート。そう改めて言葉にされると、途端に現実味を帯びてくる。夜の自動販売機の前で飲み物を買っているだけなのに、急に全部が特別な時間みたいに思えてしまう。「デートと言えば……どこかで、待ち合わせとかをして?」ふと思いついて言うと、「それは、却下」と即座に返された。「却下?」あまりに早い否定に、私はぱちぱち瞬きをする。デートと言えば待ち合わせ、というのは定番ではないのだろうか。駅や会社の前とか、映画館の入口とか。そういう“待ち合わせ”の時間も含めてデートだと思っていたのだけれど。「夫婦でデートするのだから、一緒に家を出る」「それは……」私は少し言葉に詰まった。なんというか、ロマンがない気がする。食料品の買い出しみたいに、“生活の延長”感があるというか。待ち合わせ、特別感がある。先に着いてそわそわしたり、遠くから相手を見つけて嬉しくなったり。「桔梗が、待ち合わせに興味があるのは分かった」「……いえ、それは別に……」なんだか、“デート経験のない人生”みたいに思われている気がして、妙に悔しい。それは事実なのだけれど。事実なのだけれど、素直に認めるのも何となく負けた気がする。「でも、諦めてくれ」「でも……」私は唇を尖らせかけて、ふと考える。待ち合わせって、具体的にどこで? 私の乏しい知識だと、待ち合わせといえば駅前とか会社前だけど、そのどちらも蓮司さんには恐ろしく似合わない。
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7-5

リクエストされるのが好きだ。献立に悩まなくて楽という現実的な理由もある。でも、それ以上に、「これが食べたい」と言われることが嬉しい。自分が必要とされている気がするから。特に桐谷家では、料理を作れるのが実質私しかいない。だからこそ、誰かの“食べたい”を叶えられるのは、少し特別だった。誠司が「ハンバーグ!」と目を輝かせるのも嬉しいし、蓮司さんが「今日は和食の気分だな」とぽつりと言うのも、実はかなり好きだ。そんなことを考えていると、「そもそも、あのときなんでそんなリクエストしたんだ俺は」と蓮司さんが首を傾げた。夜の自動販売機の白い灯りの下で、缶コーヒーを片手に本気で考え込んでいる姿が少しおかしい。「なんで……って、お酒を飲んだからでは?」私はウーロン茶のキャップを開けながら答える。お酒を飲んだあとに飲むしじみの味噌汁は格別だ。しじみの代表的な成分であるオルニチンは、一般的に肝臓の働きを助けると言われている。もちろん薬ではないし、あくまで“サポート”程度なのだけれど、「効く」と思って飲むことでプラシーボ効果もあるのか、世間ではほとんど魔法の薬みたいな扱いだ。「ああ……あのときか……やけ酒だったから、しこたま飲んだ記憶があるな」「やけ酒?」私は思わず聞き返した。そんなこと、するんだ。蓮司さんはいつも余裕があって、理性的で、感情で暴走するタイプには見えない。自棄になって酒を煽るなんて、イメージから一番遠い。「だって、そうだろう?」そう、とは? きょとんとしている私に、蓮司さんは苦笑する。「初めていいなって思った、ほぼ一目惚れの桔梗がいるのに、凛花に妊娠したと言われて、結婚しなければいけないことになったんだからな」あれ……そういえば。私は今さらながら、あることに気づいた。「蓮司さん、凛花さんとはどうなったんですか?」口にした瞬間、蓮司さんが少し驚いた顔をした。「別れているぞ!」「……あっ、いや、それを疑ったことはないのです」慌てて付け足す。だって、疑う理由なんてない。そもそも、今の今まで完全に忘れていたくらいなのだから。「ただ単純に、凛花さんはどうしている……いや、あのあと、どうしたのかなって思っただけで」「……話して、なかったか?」「聞いて、いませんね」蓮司さんは「はて」と本当に不思議そうに首を傾げた。首を、傾げちゃっている。ま
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7-6

「桔梗」名前を呼ばれて、深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上してくるのを感じた。柔らかな声だった。無理に起こそうとする響きではなく、眠りの水面をそっと撫でるみたいな呼び方。私は重たい瞼をゆっくり開ける。最初に見えたのは、暗闇の中に滲む橙色の光だった。ぼんやりと霞んでいた視界が少しずつ輪郭を持っていく。窓の外。木々の向こう側。建物から漏れる暖かな灯りが、夜の闇に溶け込むように揺れていた。「……ここ、ですか?」まだ少し寝ぼけた声で尋ねる。車は完全に停まっていた。エンジン音も消えていて、静寂だけが周囲を包んでいる。でも、建物まではまだ少し距離があるように見えた。ぼんやりした頭で周囲を見回して、この先に続く細い道に気づく。建物が少し高い位置に見えるから、ここから歩いて上がっていくのだろう。「ここから、少し歩く」蓮司さんはそう言いながら窓の外へ視線を向ける。ライトアップされた庭木が、夜の中で静かに浮かび上がっていた。「道は舗装されているし、緩い坂道だから大丈夫だと聞いていたんだが……」その声音には、少しだけ迷いが混じっている。また私の体調を気にしてくれているのだと分かって、胸の奥が温かくなった。「蓮司さんに手を貸してもらえれば、大丈夫ですよ」本当は、一人でも歩けると思う。でも、せっかくこんな雰囲気なのだから、少しくらい甘えてもいい気がしたし、蓮司さんの眉間の皺がふっと緩んだから間違いではないと思う。「それなら、大丈夫か」安心したように息を吐き、ハンドルから手を離した。その横顔が、どこかほっとして見える。「疲れたら、抱いていくから言ってくれ」さらりと言われて、思わず瞬きをする。まるで当然みたいに言うから困る。私は小さく「……はい」とだけ返してシートベルトを外した。.車を降りると、思わず立ち止まってしまうほどに空気がまるで違っていた。街の音が聞こえない。クラクションも、人の話し声も、遠くを走る車の気配さえ薄い。代わりに耳へ届くのは、風が木々を揺らす音と、どこかで水が流れる気配だった。さらさら、と静かな音。川なのか、小さな水路なのかは分からない。でもその水音に、妙な懐かしさを覚えた。胸の奥を柔らかく撫でられるみたいな感覚。まるで、誰かに静かに「おかえり」と迎えられているようだった。「……素敵」思わず漏れた声に、隣の蓮司さんが小さく笑う。
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7-7

カランッ――。蓮司さんが扉を開けると、頭上で揺れたカウベルが低い金属音を響かせた。澄んでいるのにどこか柔らかい音だった。その余韻に絡まるようにして私へ届いたのは、木とハーブの香り。乾いた木材の匂いに、ほんのりと青さを残した植物の香りが混ざっている。蓮司さんが好んでつけるシダーウッドの香水より、もっと軽やかで優しい。でも、どこか同じ系統の落ち着いた空気を纏っていて、胸の奥へすうっと沁み込んでいく。安心する匂いだと思った。いつも隣にいてくれる人と似た匂いだからかもしれない。中へ足を踏み入れると、そこは静かな温もりに満ちた空間だった。桐谷邸の玄関よりは広い。でも、高級ホテルのロビーほど広すぎない。人の気配がちゃんと感じられる絶妙な広さ。視線を上げると、三階分はありそうな吹き抜けの高い天井が広がっていた。木材をふんだんに使った内装は、どこか山荘を思わせるのに、洗練されていて野暮ったさがない。観光雑誌の表紙に載っていそうな場所だと、素直に思った。「こういうところ、初めてきました」思わず口にすると、「そうか」と蓮司さんが小さく笑う。その向こうに見えたものに、私は目を奪われた―――暖炉だ。本物の暖炉。映像や雑誌では見たことがあっても、実際に火が入っている暖炉をこんな近くで見るのは初めてだった。薪がぱちぱちと小さな音を立てながら燃えている。橙色の炎がゆらゆら揺れて、その光が木の床や壁に柔らかく反射していた。壁には主張しすぎない絵画が飾られ、シェルフの上には季節の草花が小さな壺に活けられている。派手ではない。でも、一つ一つが丁寧に整えられていて、空間全体が穏やかだった。誰でも受け入れてくれるような、温かい静けさ。そんな言葉がぴったりな場所だった。.「こんばんは。お待ちしておりました」落ち着いた声が聞こえて、私は視線を向ける。“お待ちしておりました”。“お帰りなさい”ほど親密ではない。でも、“いらっしゃいませ”よりも距離が近い。不思議な言葉だ。歓迎されているのに、構えなくていい。自然と肩の力が抜けていく。「ご予約の、桐谷様ですね」「急に無理を言って申し訳なかった」蓮司さんがそう言いながら、自然な動作で私の肩を抱き寄せる。「急に妻とデートがしたくなってね」蓮司さんっ!私は思わず顔を向けた。さらっと何を言っているのだろう。この人は。しかも、店員さ
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7-8

「ごゆっくりお過ごしください」カードへの記入が終わると、それまで蓮司さんと気さくに会話していた紳士的な店員さんの雰囲気が、ふっと変わった。まるで空気に溶け込んだみたいに存在感が薄くなる。そこに立っているはずなのに、“いる”と感じさせない。必要以上に話しかけないし、視線も向けてこない。けれど放置されているわけでもない。必要なことがあれば、すぐに応えてくれると分かる距離感。その絶妙な空気―――ここは大人による、大人のための場所。騒がしさも、好奇の目もない。誰かの時間を邪魔しないために整えられた空間。「大人向け、ですね……」自分でも少し子どもっぽい感想だと思って、小声で蓮司さんへ囁く。すると蓮司さんが喉の奥で笑った。「だから、ここに決めた」そう言って、私の耳元へ少し顔を寄せる。「高校の教室みたいに、これから俺たちが二人きりで何をするのかを想像するような目で見られたら、桔梗は緊張するだろう?」その例えに、胸がどくんと跳ねた。足元が一瞬ふらつく。「気をつけろよ」……誰のせいですか? 私は心の中で抗議する。「普段、カーペットの上を靴で歩くことがないので、躓いてしまいました」動揺を隠すため、私は廊下に敷かれた深い色のカーペットのせいにした。確かに普段の生活では靴のまま室内を歩くことは少ない。でも、耳元で低い声を落とされたせいで、心臓が忙しくなってしまっただけ。私は平静を装いながら一歩踏み出した。けれど私の足音は、柔らかなカーペットが綺麗に吸い込んでしまった。照明は間接光だけで、足元に柔らかな影を落としていた。短すぎず、長すぎもしない廊下。両側にいくつ部屋があるのかは分からない。でも不思議と人の気配はしなかった。それなのに、私たち以外にも誰かがここで静かな時間を過ごしているのだろうという気配だけは、ほんのりと漂っている。.「ここか」蓮司さんが足を止める。手の中で鍵を持ち替えた拍子に、部屋番号のプレートと金属の鎖が小さく音を立てた。その音がやけに耳へ残る。部屋の前で、蓮司さんが動きを止めた。鍵を差し込む前に、私を見る。さっきよりも大きく胸が跳ねた。「桔梗が不安になるようなことはしないから」低く穏やかな声。安心させるような言い方なのに、その言葉の意味を考えると余計に鼓動が速くなる。カチャリ、と鍵が回る音。蓮司さんは
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