All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 171 - Chapter 180

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7-9

シャワーを浴び終えて脱衣所へ戻ると、そこには蓮司さんの言っていた“小細工”の成果がしっかり用意されていた。壁のフックに掛けられたハンガー。その先に揺れているのは、深い青紫色のワンピース。夜を閉じ込めたみたいな色合い。派手ではないのに目を引く、不思議な上品さがある。生地は柔らかそうで、光を受けるたびにわずかに艶めいた。触れる前から、きっと着心地がいいのだろうと分かる。そして……。その下には、きちんと新しい下着まで揃えられていた。しかも見覚えのないもの。つまり、今日のために用意してくれたということだ。……これも、蓮司さんが?思わず頬が熱くなる。だってサイズ。どうやって把握していたのだろう。いや、夫婦なのだから不思議ではないのかもしれない。でも、そういう問題ではなくて。こういうものを選びに行った蓮司さんを想像してしまって、落ち着かない。店員さんに相談したのか。それとも、一人で真剣に選んだのか。後者だったら、なんだか……着たときの私を想像、したりしたのかな。.私はそっとワンピースを手に取った。想像通りさらりとした生地が指先を滑る。鏡越しに自分へ合わせてみると、落ち着いた色なのに顔色を綺麗に見せてくれそうだった。きっと、私の好みを考えて選んでくれたのだろう。そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなる。恋人時間だと言いながら、こういうところはとても“夫”らしい。私の好みも、体調も、全部知った上で気を回してくれる。なんだかそれが嬉しくて、少し照れ臭い。着替えを済ませると、いつもより少しだけ丁寧に髪を整えた。いつも淡めの化粧を、少しだけ濃くする。鏡に映る自分は、普段よりほんの少しだけ大人っぽく見えた。いや、服と場所の雰囲気に騙されているだけかもしれない。それでも、悪くない気分だった。.しばらくすると、浴室の扉が開く音がした。蓮司さんが出てくる。私は思わず視線を向け――そして、息を止めた。きっちりとジャケットを着こなした姿が、反則みたいに格好良かった。濡れた髪を軽くかき上げながらこちらを見る仕草さえ絵になる。シャワー上がりなのに、もう乱れた感じがない。むしろ、いつもより少しだけ肩の力が抜けていて、その自然体な色気がずるい。「どうした?」見つめすぎていたのか、蓮司さんが小さく笑った。「……いえ」格好いいです、とは恥ずかしくて言えない。
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7-10

「美味しい……」思わず零れた声は、ほとんど吐息みたいだった。スプーンですくったかぼちゃと豆乳のムースは、口に入れた瞬間、ふわりと舌の上でほどけた。かぼちゃ特有の優しい甘み。そこへ豆乳のまろやかさが重なって、後味は驚くほど軽い。甘いのに重たくない。丁寧に裏ごしされているのか、ざらつきもなく、とろりと滑らかだった。温度も絶妙だ。冷たすぎず、ほんのりとした冷たさが口の中へ広がる。思わずもう一口食べたくなる料理。これなら誠司も好きそう。むしろ絶対好きだ。かぼちゃの甘みは子ども受けがいいし、豆乳の癖もほとんど感じない。少しだけ味付けを調整すれば、離乳食にも応用できるかもしれない。裏ごしをもう少し柔らかくして、塩分を控えめにして―――そこまで考えたところで、私は思わず小さく笑ってしまった。「どうした?」向かいから蓮司さんが不思議そうに聞いてくる。「この味、誠司が好きそうだと思って」そう答えると、蓮司さんが「ああ」と納得したように頷いた。「誠司は、かぼちゃとかサツマイモとか好きだからな」その言い方が、息子のことをちゃんと知っている父親で、なんだか微笑ましい。すると今度は、蓮司さんがふっと笑った。「恋人時間を過ごすと言っても、やはり何かあると誠司の顔が浮かぶな」その言葉に、私もつられて笑ってしまう。せっかく二人きりで来ているのに、結局、子どもの話をしている。でも、それが嫌ではなかった。「子どもたちが大きくなったら、家族できましょう」自然とそんな言葉が出ていた。“子どもたち”。まだお腹の中にいる子まで含めた言い方をしている自分に気づいて、胸の奥が少し温かくなる。家族で、またここへ来る。きっと誠司は庭を見てはしゃぐだろうし、小さな弟か妹は暖炉を不思議そうに見つめるのだろう。そんな未来を想像すると、不思議なくらい自然に笑みが浮かんだ。こういうところも、ただの恋人同士とは違う。私たちは夫婦で、親で、その上で恋人みたいな時間を過ごしている。順番は少し変かもしれない。でも、その歪ささえ今は愛おしいと思えた。.次に運ばれてきた皿に、私はまた目を輝かせる。「アボカドのタルタルソース……」サーモンのミ・キュイに添えられていたのは、淡い緑色をしたソースだった。滑らかな見た目。けれど普通のタルタルソースより艶がある。口へ運ぶと、まずアボカドの濃
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7-11

食事を終えて部屋へ戻る頃には、窓の外の庭はすっかり深い夜の色に沈んでいた。ライトアップされた木々だけが静かに浮かび上がり、水盤に映る灯りがゆらゆらと揺れている。廊下を歩く足音は柔らかな絨毯に吸い込まれて、世界から音が消えていくみたいだった。さっきまで食事をしていた空間の温かな賑わいも、ここへ戻ると遠い場所の出来事みたいに感じる。部屋へ入った瞬間、空気が変わった。静かで、甘くて、少しだけ緊張する“夜”の空気だ。.蓮司さんが持ってきてくれたパジャマへ着替える前に、もう一度軽くシャワーを浴びた。湯気の中で火照った頬を冷ますみたいに深呼吸をする。鏡を見ると、自分でも分かるくらい顔が赤かった。食事中は楽しくて、自然に笑えていたのに、部屋へ戻ってくると急に意識してしまう。今夜は二人きり。しかも、恋人時間。そんなことを考えてしまうから、心臓が落ち着かない。脱衣所へ戻ると、揃いのパジャマが置かれていた。柔らかな生地で、触れるだけで心地いい。蓮司さんとお揃いなのだと思うと、それだけで妙に照れ臭かった。夫婦なのに、今さら。そんな気持ちもある。でも、だからこそ余計に胸がくすぐったいのかもしれない。交代する形で蓮司さんが脱衣所に向かったけれど―――早い。そして、格好いい。深い色合いのパジャマ姿は普段のスーツ姿とは全然違うのに、不思議とよく似合う。むしろ、肩の力が抜けている分だけ近づきやすくて、危険だった。こんな姿を見慣れてしまったら、きっと外で完璧なスーツ姿を見たときとの差に毎回どきどきしてしまう。「寝るか」低く落ち着いた声に、私は小さく頷いた。「……はい」緊張しながら先にベッドへ入る。シーツはさらりとしていて気持ちいい。ふかふかしすぎないマットレスが、体を優しく支えてくれる。すると蓮司さんが壁際へ行き、照明のダイヤルへ手を伸ばした。ゆっくりと灯りを落としていく。その横顔が、妙に真剣だった。暗闇がまだ怖い私のために、どの明るさなら不安にならないか探ってくれている。完全な暗闇にはしない。でも明るすぎもしない。柔らかな間接照明だけが残されて、部屋の輪郭を淡く照らしていた。「このくらいなら大丈夫か?」まるで壊れ物を扱うみたいな慎重さに、胸が温かくなる。「はい、大丈夫です」そう答えると、蓮司さんもベッドへ入ってきた。マットレスが少し沈む感覚。
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7-12

翌朝、目を覚ましたとき、最初に感じたのは温かさだった。柔らかな布団の温もりと、背中に回された蓮司さんの腕の重み。その両方に包まれて、私はぼんやりと天井を見上げた。昨夜はあんなに緊張していたのに、いつの間にか深く眠ってしまっていたらしい。窓の外からは、小鳥の鳴き声が微かに聞こえてくる。ゆっくりと振り返ると、蓮司さんはまだ眠っていた。普段より少し幼く見える寝顔。きっちり整えられていない前髪が額にかかっていて、いつもの完璧な“桐谷蓮司”ではなく、ただの一人の男の人に見える。こんな顔を知っているのは、きっと家族だけなのだろう。そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなった。.しばらくすると蓮司さんも目を覚まし、二人で朝食を食べた。焼きたてのパンの香り。スープから立ちのぼる湯気。窓の外では、昨夜とは違う穏やかな朝の庭が広がっている。夜は幻想的だった場所は、朝になると明るくて優しい。「また来たいです」気づけば、そんな言葉が口から零れていた。蓮司さんがコーヒーカップを置き、小さく笑う。「気に入ったか?」「……はい。ものすごく」こんなふうに誰かと時間を過ごせる場所があるなんて知らなかった。静かで、温かくて、安心できる場所。恋人みたいにどきどきもして、いまのようにホッとできる時間もある場所。「次は、家族でだな」「ふふっ、誠司は暖炉の前から動かなくなりそうです」そんな話をしながら部屋へ戻り、荷物をまとめる。部屋を出る前、私は思わず振り返る。短い滞在だったのに、ここにはたくさんの“初めて”が詰まっている気がした。「桔梗」入口で待っていた蓮司さんがこちらを見ていた。「また来よう」約束するように言われて、胸がくすぐったくなった。.オーベルジュを出ると、朝の空気は少しひんやりしていた。昨夜通った坂道をゆっくり下っていく。昼間に見ると、昨夜よりも道幅が広く感じるから不思議だ。昨夜はまるで異世界へ続く道みたいに見えていたのに。「桔梗、足元」蓮司さんが自然に差し出してくれた手を取る。もう昨夜ほど緊張しない。でも、繋がれた手が嬉しい気持ちは変わらなかった。車へ乗り込み、ゆっくりとオーベルジュを後にする。バックミラーの向こうで建物が小さくなっていくのを、私は名残惜しく見つめていた。また来たい。夫婦なのに、恋人みたいに過ごした一泊二日。たぶん、この先何年経
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7-13

どうする――。問いを投げかけられても、すぐには答えられなかった。会いたいとか、会いたくないとか、そういう感情ではない。ただ、会う必要がない。それが、私にとっての“父親”という存在だった。嫌いとか、憎いとか、そういう言葉ですら追いつかないくらい、遠い。感情を向けるだけ無駄だと、もうずっと前に諦めていた人。だから、本来なら悩む必要なんてないはずなのに、胸の奥がざわつくのは―――父のほうから、ここへ来たからだ。私に会いに来た。少なくとも、そういうことになる。今まで、一度もなかったこと。私が桐谷家へ嫁いでから、父は一度たりとも“娘に会いに来た父親”になったことがない。それなのに、今日に限って。こんな不意を打つようなやりかたで。いや、もしかして……。「父が会いにきたのは、これが初めてですか?」静かに尋ねると、隣の蓮司さんの体がぴくりと揺れた。顔を見ると、そこには一瞬、疚しさのようなものが浮かんでいた。ああ……蓮司さんは勘違いしている。私と父の関係を、自分が断ち切ってしまったのではないかと。父娘の縁を遠ざけたのではないかと。だから私が“初めて”という言葉を口にしたことで、責められた気になったのだろう。そんな必要、ないのに。むしろ逆だ。父親という存在から私を遠ざけてくれたことを、感謝しているくらいなのに。―――父のせいで、蓮司さんにそんな罪悪感を抱いてほしくなかった。「蓮司さん、一緒にいてくれますか?」その言葉に、蓮司さんの表情が変わる。驚いて、それからゆっくりと安堵へ変わり、最後に滲むみたいな嬉しさが宿った。「もちろんだ」短い返事だった。でも、その一言だけで十分だった。蓮司さんはすぐに車のフロントパネルへ取り付けていたスマホへ手を伸ばした。迷いのない動きで電話をかける。ツーコールで呼び出し音が切れた。『蓮司様。どうかなさいましたか?』長谷川さんの落ち着いた声が車内へ響く。「いま、ガレージの前だ。花嶺辰治が来ている」わずかな沈黙。『分かりました』長谷川さんの声は緊張というより、どこか呆れていた。『すぐに人を向かわせます。花嶺辰治、お一人ですか』「ああ、そう……いや。玲子夫人も、ご一緒だな」玲子さん……。ホテルに来るように指示した、あの日の玲子さんの声。記憶が引きずり上げられる。新月の夜。真っ暗な部屋。荒い呼吸。肌
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7-14

もう、終わりにしよう。ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。あの夜に怯える自分を責めることも。思い出してしまうたびに、前へ進めていない気がして苦しくなることも。全部、終わりにしたい。きっと、完全に忘れることはない。これから先も、ふとした拍子に思い出すのだろう。暗い部屋。押し潰されそうな恐怖。身体の芯まで凍るような感覚。記憶は、簡単には消えてくれない。でも――。「桔梗、どうした?」「え……?」名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ傍に蓮司さんがいた。真っ直ぐ私を見つめる目。心配そうなのに、どこか甘い。「笑う顔は可愛いから全く構わないのだが……どうした? 俺、変なことをしたか?」どうやら私は、知らないうちに笑っていたらしい。頬に触れてみると、確かに口元が緩んでいる気がした。「違います。蓮司さんはいつも素敵です」そう答えると、蓮司さんが少しだけ目を細めた。私の言葉を疑うでもなく、茶化すでもなく、当たり前みたいに受け止めてくれる顔。その表情を見ているだけで、胸がじんわり温かくなる。私はただ、思い出し笑いをしていたの。でも、それに気づいて、私は少し驚いていた。あの夜のことを思い出したのに、悲鳴でも涙でもなく、“笑えた”。「華乃に、あの夜のことを話したときのことを思い出していたんです」私がそう言うと、蓮司さんの身体がわずかに固くなった。身構えるみたいに、肩へ力が入る。「……それは……」きっと、私がまた傷ついたのではないかと警戒しているのだろう。その優しさが、少し切なくて、愛おしい。「もし私に、ドラマみたいな出会いがあって、ドロドロに溺愛されて、愛され尽くされても、あの夜のことを私は忘れられないだろうって」あのとき、本気でそう思っていた。どれだけ幸せになっても、どれだけ愛されても、傷は消えない。ふとした瞬間に記憶は蘇って、そのたびに私は怯えるのだろうって。だから、そんな面倒な女を愛し続けられる人なんていないと思っていた。最初は優しくても、いつか疲れる。重いと思われる。うんざりされる。そうやって、少しずつ壊れていく未来しか想像できなかった。「……それは」蓮司さんが、言葉に困ったように眉を寄せる。でも、私は責めたいわけじゃない。ただ、不思議だったの。「人生、何があるか分からないなって」そう言って、私は蓮司さんの頬へそっと口づけ
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7-15

「桔梗が大変だと言って呼び出されたんだけど……」呆れ半分、心配半分みたいな顔で華乃が言う。その視線の先には、蓮司さんに背中を支えられるように座っている私。傍から見れば、“大変”というより、恋人同士の甘い空気にしか見えないのかもしれない。「大変よ?」私が反論すると、華乃は胡乱げな目を向けてきた。「どろんどろんに愛され尽くされて、幸せそうな顔をしていて?」その言い方に思わず頬が熱くなる。「それは、色々あったから」曖昧に返すと、華乃は深いため息を吐いた。やけに重たい。肺の奥に溜まっていた疲労を全部吐き出したみたいなため息。その顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。「子育ては順調?」「天国と地獄を行ったり来たりしているわ」華乃がぐっと両腕を上に伸ばす。ボキボキボキッと景気のいい音が鳴った。……すごい音。華乃って蓮司さんと同じで、一見すると細くて華奢なのに、意外としっかり筋肉がついているのよね。本人はそれをかなり気にしているから言わないけれど。「蓮司さんからもらったリカバリーウェアがなかったら、佳孝と一緒に動けなくなっていたわ」「どちらか動けないと、二歳児の嵐で家の中はすごいことになるからな」「経験済みよ」蓮司さんの言葉に、華乃が肩を竦める。またボキッと骨が鳴った。疲労が蓄積しているわ。ナターシャちゃんもまだ小さいし、佳孝君も仕事が忙しいと言っていた。二人で協力しているとはいえ、育児は体力勝負。しかも、ナターシャちゃんは最近、日本語をどんどん覚えていて、お喋りが止まらないって聞いている。誠司もそうだったけれど、二歳児って体力が無限。大人がへとへとでも、彼らは元気いっぱいで走り回る。「それにしても……」私はふと、華乃と蓮司さんを見比べた。「蓮司さんと華乃が、ここまで仲良くなるとは思わなかったわ」「私もよ。佳孝が蓮司さんに見惚れて、ゲイだってバレたときは、殴ってやろうかと思ったけれど」思い出したのか、華乃が苦笑する。蓮司さんは、私に近づく男は敵、みたいな認識をわりと本気でする。それは華乃も同じ。でも華乃が「友人」として紹介した佳孝君があまりにも分かりやすく蓮司さんを見つめるものだから、蓮司さんは佳孝君の性的思考を察する。しかしそこから芋づる式でばれたかといえば、華乃が蓮司さんに嫉妬していたから、蓮司さんは「あれ?」となったらし
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7-16 side蓮司

「蓮司さん」 柔らかな声に名を呼ばれて視線を向けた瞬間、俺は思わず息を止めた。そこに立っていた桔梗は、あまりにも綺麗で――現実感が薄かった。まるで、どこか遠い国の物語から抜け出してきた姫君のようだった。いや、姫という言葉ですら足りない。静謐で、穏やかで、けれど芯の強さを秘めたその姿は、神話や宗教画の中に描かれる聖女に近い。エンパイアラインのワンピースは、桔梗の華奢な身体を優しく包み込んでいる。胸下で切り替えられたデザインは古典的な優雅さを感じさせるのに、同時に壊れてしまいそうなほど儚げだった。だが、その儚さの中に確かな命がある。まだ大きく膨らんではいない腹部。その内側に、俺と桔梗の子どもがいるという事実が、彼女の美しさに母としての強さを与えていた。細い肩。折れそうな手首。白い首筋。どれも繊細なのに、桔梗は確かに命を育んでいる。その奇跡に、胸の奥が熱くなる。生成り色の薄布で仕立てられた上半身は、柔らかな照明を受けてほんのり透けて見えた。慎ましく、清楚なのに、どうしようもなく色っぽい。宗教など信じていない俺ですら、この姿には敬虔な気持ちを抱く。触れれば壊れそうで、けれど誰よりも強い。そんな矛盾を抱えた存在が、俺の妻で、愛しい女だと思うと、理性が焼けるようだった。 袖は短めで、手首が見えている。その細い腕を見て、以前この服を選んだときのことを思い出す。「家事がしやすそうなので」などと真顔で言った桔梗を、俺は一生忘れないだろう。確かに「可愛い」とか「流行っている」とか、そういう理由を挙げることが多いだろう。だが桔梗は真っ先に“動きやすさ”を考えた。しかも言ったあとで、「変ですよね……」と恥ずかしそうに俯く姿が可愛いこと。全くもって変ではない。俺にとって、それこそが桔梗らしさだ。着飾るためだけではなく、自分の生活に寄り添う服を選ぶ。家族のために動けることを大切にする。そんな感覚が、あまりにも愛おしかった。.襟元には、小さな貝ボタンが一つ。控えめに光を反射している。そのボタン一つ選ぶのに、桔梗は真剣な顔でサンプルを並べ、何度も見比べていた。  『こっちだと少し可愛すぎますか?』  『でも、こっちは地味でしょうか』そう悩む姿が可愛くて、俺は途中から話を聞くより、桔梗の顔ばかり見ていた気がする。桔梗は、自分では気づいていないが、お洒
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7-17

「今日は、お時間をいただきまして……」花嶺辰治が作り笑いを浮かべながら頭を下げる。その顔を見た瞬間、俺は無言で視線を逸らした。会うと決めたのは俺ではない。桔梗だ。だから俺はここにいる。ただ、それだけだ。お前に会いたかったわけでも、話を聞きたかったわけでもない。頭を下げられたいわけでもない。その程度の礼で帳消しになるほど、お前が桔梗にしてきたことは軽くない。俺はわざとそれ態度で示した。配慮する気はないと伝わったのだろう。花嶺辰治は一瞬だけ表情を引きつらせたが、すぐに取り繕うように笑みを張り付け直した。そういうところが気に入らない。自分の保身ばかりで、本当に大事なものが何だったのか理解しない、理解しようとしない男。俺は、こんな男を絶対に許さない。.花嶺辰治が、病院にいる桔梗へ向かって“勘当”という言葉を口にした瞬間から、この男は桐谷家にとって「敵」になった。単なる不快な相手ではない、家族を傷つけた相手だ。桔梗は、もう桐谷家の人間だ。いや、血の繋がりなど関係なく、もっと前から俺たちの大切な存在だった。朝食に並ぶ桔梗の味噌汁一つで、家の空気が変わる。桐谷家にとって、ただの嫁じゃない―――日常そのものだ。家に帰ればいるのが当たり前で、笑っていてほしい存在。その桔梗を傷つけた。だから、俺たちはこの男を許さない。   『関税を引き上げるかな』先日、祖父さんは桔梗が作った手作り味噌の味噌汁を飲みながら、淡々とそう言っていた。口調は穏やかだったが、目が笑っていなかった。冷徹な経営者の顔だった。さっきまで「次はなめこの味噌汁が飲みたい」と桔梗に甘えていた老人と同一人物とは思えないほど、静かな怒りを滲ませていた。祖父さんは昔から、家族に危害を加える相手には容赦がない。そして祖父さんにとって桔梗は“庇護対象”。その後、花嶺貿易が主力とする輸入品の利益率を削る形で関税の調整案が動き始めた。それが載った新聞を読む俺の前で、祖父さんはのんびりと啜るように茶を飲んでいた。恐ろしい人だと思った。  『貿易は、タイミングが大事よね』祖父さんに対抗するように、母さんは花嶺貿易の輸出入許可に関する情報を持ち帰ってきた。どこからそんな情報を仕入れるのか、俺ですら把握しきれていない。ただ、母さんの人脈は異様に広い。そして怖い。特に“美味しいもの”が絡むと人
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7-18

桔梗の母親―――花嶺明美が亡くなってから花嶺貿易の業績は目に見えて落ち始めた。右肩上がりだった数字は鈍化しやがて下降線を描くようになった。だが当時、それを真正面から問題視した人間は少ない。貿易という仕事は他国の情勢、為替、港湾、天候、紛争、資源価格など、ありとあらゆる外的要因に左右される。どれだけ優秀な経営者でも、運に見放されれば傾くことはある。まして花嶺辰治は“時代の寵児”とまで呼ばれた男だった。雑誌は持ち上げ、経済番組は成功者として称賛し、周囲は「花嶺社長は先を見る目がある」と口を揃えた。―――だから誰も気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。花嶺辰治という男はそこまで“できる男”ではなかった。彼が纏っていた有能さのヴェール。その実態が、妻である明美さんと、娘である桔梗によって支えられていた。恐らく、本人もいまだにその事実に気づいていないかもしれない。だからこそ、『手伝ってくれ』なんて言葉が平然と出てくるのだ。「戻ってきてほしい」でも、「助けてくれ」でもない―――「手伝ってくれ」。その言葉に、この男の認識の甘さが透けて見える。自分はまだ時代の寵児のつもりで、身の周りが大変なことを人手不足と信じて桔梗を人手として借り出そうとしている。桔梗はいまだ、この男にとって都合のいい便利な存在。必要なときだけ使い、不要になれば捨てられる存在。そんな感覚が何の悪気もなく滲み出る様子に反吐が出る。「すまないが確認させてほしい。桔梗に“手伝え”というのは、花嶺貿易で仕事をしろという意味か?」俺が問いかけると、花嶺辰治は慌てたように首を横に振った。だが、その顔には露骨な動揺が浮かんでいる。……ああ。今、気づいたのか。花嶺辰治は自分がなぜ桔梗を必要としているのかを理解していない。つまり、今回の件の黒幕は……。花嶺辰治の視線が隣の玲子夫人へ向かう。やはり、花嶺辰治に入れ知恵をしたのは玲子夫人だろう。玲子夫人は俺の視線を受けると、まるで逃げるように露骨に目を逸らした。それは責められる自覚がある人間の反応だった。「玲子夫人?」低く呼びかけると、その肩がびくりと震えた。逃がさない。俺はこいつらが桔梗にしてきたことを、曖昧なまま終わらせるつもりはない。「……桔梗に、手伝ってもらいたいのは……その……花嶺家の、家のほうのこと
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