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この日の桐谷家は、朝から家中が少しだけ浮き足立っていた。自分の準備をすませて子ども部屋に向かうと、お義父様とお義母様の弾んだ声が何メートルも前から聞こえた。今日の服装は祖父母プロデュースにしたいと仰ったから、二人にお任せしたのでどんな子どもたちになったのかは分からない。「ママッ」覗き込むと、すぐに誠司が私に気づいた。とても可愛い。まるで小さな蓮司さんだ。「僕、パパみたい?」スーツ姿は、誠司の中で蓮司さんと“お揃い”になるらしい。サスペンダーに半ズボンというところが可愛らしい仕上がりになって、蓮司さんとは違うなとは思うけれど、大好きなパパとのお揃いに喜ぶ誠司に水を差すつもりはない。「蓮司より何倍も何倍も誠ちゃんのほうが素敵よ」「うんうん。何と言ってもあの子は、いまの誠司くらいの頃から不愛想だったからね」そして祖父母の分厚い孫フィルターによって褒めそやされた誠司は、もう鼻高々状態。「誠司、いらっしゃい」しゃがみ込み、小さなネクタイを整える。白いシャツに紺のジャケット。まだ丸みの残る頬が、いつもより少しだけきりっとして見える。お義父様とお義母様の孫フィルターを笑えないわね。私も、親馬鹿スイッチが入ってしまう。「ママ、茉白も見て。すっごく可愛いの」自分の名前に気づいたのか、ふわりと広がるワンピースに包まれた茉白が顔をあげる。今日はいつもよりお姫様。でも、なんでかすぐに茉白は俯いた。どうしたのかと思って覗き込めば、そこには手鏡。鏡の中の自分を見て、茉白は「あー」と声を上げた。柔らかな髪には、小さなリボン。後ろについているのは、見えたら茉白は引っ張ってしまうからだろう。「桔梗、そろそろ時間だぞ」蓮司さんの声がして、戸口をみると蓮司さんが立っていた。何となく気恥ずかしそうなのは、いつもの黒や紺で
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 美術館は、いつもより華やいでいた。あまり広くないエントランスには所狭しと、上方向まで使って花が飾られている。その脇を、招待客が行き交うのだが、その豪華な顔ぶれに館長を始めとしたスタッフの顔が蒼褪めている。招待客のほうは、慣れたもので穏やかに歓談をする。騒めきは穏やかで、フラッシュの光が時折瞬いていた。「誠司、一人で歩く」胸を張った誠司の言葉に、蓮司さんが笑いながらその手を離す。その手が寂しそうだったから、私は抱いていた茉白を蓮司さんに渡した。「あー」「そうだ、パパだぞ」パパって感じではなかった気がするけれど、茉白の言葉は私と蓮司さんでは違って聞こえるらしい。「この柱、すごい」誠司が歓声を上げて、入口横の柱に走っていってしまった。子どもがいると目的地までが遠いけれど、大人にはない発見をするから面白い。いまは大理石の柱に夢中だ。「つるつる。ママ、見て、オジーサマさんの頭みたいに光ってる」「くふっ」……苦しい。ここは耐えなければいけないのに、笑いを耐えるのが苦しい。蓮司さん……も、必死に顔を背けて笑うのを堪えている。 .誠司の言う「オジーサマさん」は、私の実父である花嶺辰治さんのこと。私にとってはとっくに縁が切れた人だけれど、あちらは生活の支援を求めてときどき私の前に姿を現す。私は彼を誠司に会わせる気は一切なかったのだけれど、誠司と出先から帰ってきたとき、蓮司さんとのときみたいに家の前で待ち伏せしていて、門が開くまでの隙を突かれて窓ガラスのあのときみたいに叩かれた。私は誠司を守るように抱き寄せたけれど、誠司も私を守ろうとしてくれて、常に携帯している防犯ブザーを訓練通りに鳴らした。慌てたのは防犯ブザーを鳴らされた彼のほうで、必死に「おじい様」だと外から叫んだ。しかし、防犯ブザー
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桔梗は、基本的には完璧だ。美人で、スタイルがよくて、老若男女に人気の人誑し。家事は職人クラスで、料理を中心としたライフハックの動画配信で人気。字もきれいだし、裁縫だってパパッと仕上げる。子育てだって、文句を言えるポイントがどこにもない。ただ……。「……また、です」桔梗はかれこれ三十分、リビングのソファで可愛い顔に眉を寄せ続けている。手にしているのはタブレット。五分ほど前にスマートフォンの調子が悪いからタブレットを貸してほしいと言われ、そして貸したのだが、手つきが危なっかしくて気になって堪らない。こんなに躍起に……真剣に何をしているのかと言えば、自動車教習所のプライベートレッスンの申し込み。「どうして、こんなにエラー……」向かいでずっと仕事をしていたが、桔梗が気になって一枚も書類が進んでいない。このままでは埒が明かないので、いま気になったという振りをして顔を上げる。「どうした?」「あの……」そう言って桔梗が見せたのは、ずーっと見ている最初のページ。内容は……。「入力内容に問題はないな」「はい。確認画面までは……進めるんですが……」うん、進めた。「問題がなければ【送信】を押してくださいというので、押すと……」【通信に失敗しました】。ふむ……。「……なんでだ?」「分かりません。通信って、このマークがついていれば問題ないはずですよね」桔梗が指さすのはWi-Fiアイコン。「桔梗、俺より年下だよな?」「はい。え? 生年月日の入力を
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こんなことだろうと思った。そう言ったら怒って引っ叩かれそうだから言わないが、こんなことになるだろうと思った。桔梗は車のエンジンがかからないというミラクルを起こした。厳冬の真っただ中でもないのに、教習車がバッテリー上がりを起こすとは。「蓮司さん……」「まあ、こういうこともあるさ」普通はないが。気落ちしている桔梗に、さらに追い打ちをかけても意味はない。「私、何もしていません」「わかってる」機械のほうが勝手にリスク回避しただけだ。 . 「あの、大変申しわけありませんが、よろしければ旦那様も一緒に乗っていただけますか?」「構いませんよ」そうなると思った。このままでは教習そのものが不成立となりそうで、そうなった場合に教習所としても「何も問題なかった」という証明をしたいのだろう。気持ちはよく分かるし、夫としては申し訳ない気持ちにもなる。「それでは、後部座席に」言われるままに後部座席に乗る。運転席に座る桔梗を見るという新鮮さ。おそらく……これが最初で最後になるだろう。なにしろ、不安しかない。「それでは、エンジンをかけてください」「はい」桔梗が気合いを入れて、プッシュスタートボタンを押す。へえ、よく分かったな。あの回すやつはどこだくらい言うと思っていた。「「あっ」」エンジンがかかった。「エンジンがかかりましたねっ」「はいっ」はじめの一歩中の一歩でこの感激……この教官、相当切羽詰まっていたな。「それでは、ゆっくり発進してください」教官の言葉に桔梗は頷き、教本そのままの手順で全体を確認した後に車を発進させた。車が動いた。なんだろう、拍手したい気持ち
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夜中に目が覚めた。やっぱり、気になる……。そっと体を起こしたのだけど、ベッドを揺らしてしまい、蓮司さんが小さく呻いた。「……桔梗?」「ごめんなさい、起こしてしまって」蓮司さんが「いや」と言ってくれたことにホッとして、私はベッドから降りる。「どうした?」「誠司の様子が気になって……」「誠司? 誠司がどうかしたのか?」「寝る前の誠司の顔の赤みが気になって……風邪もはやる時期ですし……」杞憂ならいい。なんでもなかったと笑って、また眠ればいいだけ。でも……多分、あっている。「誰かに、車をお願いできますか?」「俺が出そうか?」「いえ、蓮司さんは茉白についていてあげてください。インフルエンザとかだったら、うつってしまうので」その場合、幼い茉白のほうが重症化する可能性は高い。同じ可能性に気がついたのだろう。蓮司さんの眉間にしわが寄る。「桔梗、誠司は俺が……」そう、言ってくれると思った。誠司がインフルエンザならば、看病する私もうつる可能性が高い。私が罹るなら、自分が罹ったほうがいいと思う人だ。「食事の世話とか、いつものリズムではできなくなると思うので、誠司のほうは私が看ます」「……分かった。それなら、誰かを茉白につけたら、俺は必要なものを買ってくる。タイミングのいいときに何が必要かリストにして送ってくれ」「お願いします」 .多少でも予防できればとマスクをつけて誠司の部屋に行くと、部屋の中は妙に熱気が籠り、誠司は荒い呼吸をしていた。額に触れただけで、はっきりと発熱が分かる。部屋の電気をつけると、眩しかったのか誠司の目が薄っすら開いた。目が潤んでいる。「……ママ……」「お熱がでているから、ママと一緒に病院に行きましょう?」私がそう言うと、間をおいて誠司は頷く。
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桔梗と誠司を乗せた武司の車を見送ったあと、俺は茉白のもとに向かった。非常事態に多くの者が起きてきているが、まだ寝ている茉白の部屋周辺は静かだった。扉を静かに開け、部屋に入って子ども用ベッドを覗き込む。「……ふっ」万歳して気持ちよさそうに寝ている茉白の姿に、俺の鼻から笑い声が抜けた。起こさないように気をつけつつも、首筋に触れて熱を測る。高温には感じない茉白の体温にホッとしたものの、落ち着かなかった。ベビーモニターのスイッチを入れて、部屋を出る。やはり、落ち着かない。誠司が気になるのだろうか。「蓮司」呼ばれてそちらを見ると、母さんがいた。そしてここは、キッチン。俺と母さんは顔を見合わせて、同時に苦笑する。料理の腕が壊滅的な俺たちが、キッチンに二人でいることには違和感しかない。落ち着かない気持ちで冷蔵庫を開け、アイスコーヒーを取り出す。アイスコーヒーをマグカップに注いで、電子レンジで温めてホットコーヒーにする。アイスコーヒーで作られた商品のコンセプトを台無しにするようで申しわけなさもあるが、料理の腕が祟られている俺にコーヒーを淹れるなんて、それが例えインスタントコーヒーでもできない。 チンッあたため終了の合図にマグカップを取り出したら、取っ手が熱い。温めすぎたか。ここまで呪われているのか。俺はため息を押し殺して、鍋掴みをとり、マグカップの取っ手を掴む。温めすぎたなら、冷めるのを待てばいい。やることができて、よかったではないかと自分を慰めていたら……。「母さん?」「私のは温めが足りなかったの。何分温めたの?」「三分」「じゃあ、一分半にしておくわ」ブンッと音がして、電子レンジが温めを開始する。母さんはそれをジッと見ているが……なんとなくだけど、失敗すると思う。しかし、コーヒーってこんなに熱くなるものなのか? チンッ「やっぱり、二人ともここにいた」あたため終了の合図と同時に、父さんがキッチンに顔を出した。三人揃って顔を見合わせ、苦笑する。父さんが冷蔵庫に向かうのを何となく見送り、電子レンジの中のマグカップに手を伸ばした母さんを観察する。……手、ひっこめた。温めすぎたか。俺は右手につけていた鍋掴みを、母さんに渡した。母さんは自分の呪われた体質に嘆くようなため息を吐いたあと、礼を言って鍋掴みを受け取り、
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『いま診察が終わり、インフルエンザだと確認取れました。重症化はしていませんし、抗生物質を飲めば比較的すぐに熱は下がるようです。茉白は大丈夫ですか?』「まだ寝ているよ」―― やっぱり自分がいないと駄目なんだなって思いたかったりするわけよ。不意に、母さんの言葉が浮かぶ。「桔梗から電話がもらえてよかった。さっきまで、俺一人で大丈夫かと思っていたからな」『蓮司さんも、そんなことがあるんですね』「当たり前だ。いかにいつも桔梗に頼っていたのかを思い出したよ」『急いで、帰りますね』「ああ、待ってる」電話を切って、大きく息を吐く。顔が熱い……もしかして、誠司のインフルエンザがうつったか? .「マ、マ」茉白の声にベッドを覗き込めば、茉白が目を覚ましていた。ドクンッと心臓が大きく鳴る。「パ、パ」茉白がにこっと笑い、手を伸ばすから、俺も手を伸ばして自分の指を握らせる。最初は俺の手を振り回して楽しそうだったが、次第に茉白の顔から笑みが消える。「ママ?」その問いに、一瞬だけ言葉を探す。しかし、うまいこと子ども向けの理由が出てこない。「今日は誠司が体調が悪いから、ママは誠司のところにいる」茉白が首を傾げる。違う、この説明ではない。理由は要らない。もっと、分かりやすく、茉白に合わせた言葉で……。「ママは、お兄ちゃんと一緒にいる」「にに」「ああ、お兄ちゃんのところにいる」「にに?」今度は、なんだろう。誠司がどこにいるか、か?「お兄ちゃんは病院にいる」茉白の動きが止まる。顔がぐしゃりと歪む。まずい、泣く。「やー」「茉白、大丈夫だ。お兄ちゃんはすぐに帰ってくるから」「にに、やー。まま」言っている言葉は聞き取れるのに、茉白の要望が分からない。「ごめん、茉白」抱き上げると、泣き止まないものの、泣く声は小さくなる。茉白を腕の中に引き寄せる。小さな体は、思っていたよりも軽く、温かい。桔梗は、これを毎晩やってきたのか。俺が仕事で遅くなった夜も。出張でいなかった夜も。―― 大丈夫です。桔梗は、大丈夫だと思っていた。でも、桔梗だって母親をやるのは初めてだ。こうやって、大丈夫になっていったんだ。「ママ……」茉白は桔梗を呼ぶ。どうすればいい?分からない。解決策がないことに、焦る。桔梗ならどうする?桔梗なら
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【外伝:誠司】

朝七時半。まだ通学路に制服の波が生まれる前、私は校門をくぐる。朝の空気は透明で、肺の奥まで冷たさが落ちてくる。その冷気の中に、かすかに甘い匂いが混ざっていた。吐いた息に絡みつくような、淡く柔らかな香り。視線を巡らせれば、校庭沿いに並ぶ桜の樹が朝日に照らされ、白にも薄紅にも見える花を揺らしている。春が来たのだと、視覚より先に匂いで理解する。高校二年生。一年前、この門をくぐったときの私は、校舎の大きさにも、生徒たちの視線にも、すべてに緊張していた。けれど今は違う。どの廊下が朝日をよく通すのかも、どこの階段が人通りが少ないのかも知っている。勝手知ったる環境で始まる二度目の春。.まだ誰もいない昇降口に入ると、わずかな湿気を含んだコンクリートの匂いがした。新しいクラスになって数日しか経っていない下駄箱は、いまだに無意識では辿り着けない。数字を確認してから扉を開け、ローファーを脱ぎ、上履きへ履き替える。その動作だけは、一年前と変わらない。上履きのゴム底が床を擦る乾いた音が、静まり返った空間に小さく響いた。廊下には規則正しく蛍光灯が並び、白い光を落としている。無機質で、静かで、少しだけ冷たい校舎。反響する自分の足音を聞きながら歩くこの時間が、私は好きだった。夜を超えて熱を失った廊下はひんやりとしていて、閉ざされた教室の扉は、まるでまだ眠っているみたいに静かだ。窓ガラスには朝の光が薄く映り込み、その中を歩く自分の姿がぼんやり揺れる。誰もいない学校は、世界から切り離された箱庭みたいだった。教室の前で立ち止まり、静かに扉を開ける。無人の空間がそこにあった。三十六個の机と椅子が整然と並び、黒板には昨日の授業の名残がうっすら残っている。消し切れなかったチョークの白い筋。日直の文字。窓際のカーテンが微かに揺れ、朝日が斜めに床へ差し込んでいた。私は窓際の自分の席へ向かう。鞄を置き、ブレザーを背もたれに掛ける。その一連の動作を終えると、ようやく呼吸が落ち着く。教室という空間に、自分だけが存在している感覚。嫌いじゃない。むしろ、好きだった。鞄から文庫本を取り出して開く。ページをめくる紙の音だけが静寂を破る。活字を追い始めると、現実の輪郭が少しずつ薄れていく。私は昔から、本の中へ潜るのが得意だった。文字を読んでいるはずなのに、いつの間にか私はそこにいる。雪の
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外伝-1

放課後のチャイムが鳴るより少し前から、私はそわそわし始める。表情には出さない。ノートを取る手も止めないし、教師の話にもちゃんと頷く。それでも、指先だけは落ち着かなかった。シャープペンを持つ角度を変えたり、ノートの端を無意味に整えたり、小さな動きが増える。心だけが、もう教室にはない。窓の外へ、街へ、あの場所へと向かっている。クラスメイトたちは、放課後になれば誰と遊ぶとか、カラオケに行くとか、ファストフード店に寄るとか、そんな話をしている。私はその輪に入らない。入れないわけではない。ただ、そこへ混ざる自分をうまく想像できなかった。教師がホームルームの終わりを告げるより少し早く、私は静かに教科書を閉じる。誰とも目を合わせない。机の中に忘れ物がないかだけ確認して、鞄を持つ。その動作には迷いがなかった。誰かと帰る約束はない。私は帰宅部で、そして毎日寄り道をする。チャイムが鳴る。椅子を引く音と喧騒が一斉に広がる中、私はその隙間を縫うように教室を出た。廊下には、解放感に満ちた空気が漂っている。部活へ向かう運動部の足音。友人同士で笑い合う声。スマホを覗き込む生徒たち。そのすべてから少し距離を置くように、私は階段を降りる。昇降口でローファーに履き替え、校門を出る頃には、春の夕方特有の湿った風が頬を撫でていた。駅へ向かう道には学生や会社員が増え始めている。けれど、まだラッシュには早い。ホームへ滑り込んできた電車に乗り込み、私は窓際へ立つ。ガタン、と小さく揺れて扉が閉まる。流れていく街並みをぼんやり眺めながら、窓に映る自分の横顔を見る。淡い青色の瞳。光の加減で銀にも灰色にも見える髪。日本人の両親とは似ていない顔。幼い頃から何度も見てきたはずなのに、時々、自分の顔なのに借り物みたいに感じる瞬間がある。赤ちゃんの頃、紛争地の難民キャンプで保護されたこと。二歳になる頃に日本へ来たこと。両親は隠さず話してくれた。だから私は、自分が拾われた存在であることを知っている。その頃の記憶はない。銃声も、泣き声も、炎も、何一つ覚えていない。ただ、ときどき夢を見る。色のない世界。灰色の空。そこには音がない。静かすぎるほど静かで、風だけが吹いている。乾ききった地面はひび割れ、空気には何の匂いもなかった。街なら必ずあるはずの、人の生活の匂いがない。食べ物の匂いも、土の湿り気
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外伝-2

まだ新しい木の香りが残る制作室は、一般的な日本画家の工房とはどこか違っていた。漆喰の白い壁。高い天井。大きく取られた窓から夕方の光が差し込み、床に長い影を落としている。部屋の隅には和紙が丁寧に積まれ、棚には膠や岩絵具の瓶が整然と並んでいる。その光景だけを見れば、歴史ある日本画家の工房そのものだ。けれど、その中央に置かれたものが、この空間を異質なものへ変えていた。武骨な黒い3Dプリンター。金属のフレームを剥き出しにした大型機械は、一定のリズムで低いモーター音を響かせている。  ガガッ、ウィン、ガガッ規則正しく動くノズルが透明な樹脂を少しずつ積層し、形を作り上げていく。その様子はまるで、機械が静かに呼吸しているみたいだった。和紙の繊維の匂い。膠の甘さを含んだ独特の匂い。その中へ、わずかに混じる熱を帯びた樹脂の科学的な匂い。伝統と機械が同じ空間で混ざり合っているこの空間に初めて入った日は、違和感で落ち着かなかった。けれど今は、この不自然さこそが石川先生らしいと思う。プリンターの前に立っていた男性が、私に気づいて軽く会釈した。折々舎から来ている技術者の立川さんだ。三十代くらいだろうか。細身で、いつも黒いシャツを着ている。映像ディレクターというより芸術家に近い雰囲気を纏っている人だった。私も小さく頭を下げる。「ちょうど、終わるところだ」そう言ったのは石川先生だった。先生は少し離れた場所で腕を組みながら、静かにプリンターを見守っている。人間国宝になった今でも、先生は安定を求めず、常に新しいものに挑戦している。弟子が幾人かいるが、彼らがここに来ることはない。日本画を極めたいと思っている彼らにとってここは、石川先生のアトリエなので邪道ではないが、正道でもない場所なのだろう。それについて、先生は何も言わない。人それぞれだから芸術は面白い、そう解釈しているようだ。.しばらくして、機械音が止まった。部屋に急に静寂が落ちる。立川さんが前へ進み、透明なカバーをゆっくり開けた。内部からわずかに熱気が漏れ出す。慎重な手つきで取り出されたのは、一枚の白い樹脂板だった。「できました」制作台へ置かれたそれを見て、私は思わず息を呑む。そこにあったのは版だ。以前、石川先生が描いていた下絵と同じ構図。硬質な白い樹脂の表面に、細い線が浮き上がり、面ごとに繊細な段差
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