All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 211 - Chapter 220

270 Chapters

8-13

「さて、話だったよね」石川先生が部屋の真ん中に胡坐をかいて座る。真正面は例の、不自然に空いた何もない壁。「どうぞ」そして隣をポンポンと叩いた。俺はそこに座る。俺の視線の左、一番左側の絵の女は静かに微笑んでいた。穏やかで、落ち着きがあり、柔らかい光を含む眼差し。理想的な気品がありつつも、誰もが安心を覚える表情を浮かべている。喜怒哀楽の「喜」。 そして、俺の正面にいる二枚目の女は眉をわずかに寄せている。怒りではない。拒絶でもない。――試す表情だ。見る者を選別、踏み込めるかどうかを量っている眼。喜怒哀楽の「怒」。 そして、目測で計った限り、一枚分を空けたその先。三枚目の女は目を伏せている。指先だけが衣の端をわずかに掴んでいる。触れてほしいのか。触れてほしくないのか。境界が曖昧な表情。胸が締め付けられるような静かな弱さ。喜怒哀楽の「哀」。 三枚目の向こうの四枚目の女は笑っている。でも、喜びは感じられない。どこか空虚で、諦観を含んだ微笑。すべてを知り、すべてを見透かした者の笑み。安らぎというより、悟りを開いたような到達の笑み。喜怒哀楽の「楽」。 ……なんだ?「……前に見たときより、なにかが変わった……?」四連花は有名な絵だ。石川先生と面識を持つ前も、美術館の特別展示などで何度か見たことがある。だから生で見ている迫力というわけではない。つまり……絵が、変わった?……それは、まるで生きているようでは……。「安心するといい。怪談話ではあるまいし、絵は変化しないよ」ふうっと、俺は息を吐く。「意外だね。怪談は苦手かい?」「理屈が通じないので」石川先生は笑う。「参考までに、以前と今と、何がどう違う?」以前との、違い?「以前より……女って感じがします」モデルが明確になったからだろうか。「ふうん。具体的には?」具体的に……。「喜の絵は、一緒に笑いたくなる。怒の絵は、とにかく謝らなくてはと、この場に平伏したくなります」女の表情に桔梗が重なる。桔梗が花嶺明美の娘だからだろうか。いや、違う。この感覚は、俺が桔梗に感じるものだ。「絵の女が、桔梗に見えます」「おやおや」石川先生が、笑う。「だから、でしょうか。哀の絵は、抱きしめたくなる。楽の絵は……めちゃくちゃに、壊したくな
Read more

8-14

「明美が僕の昔の恋人で、焼け木杭に火がついて不倫関係になった……そう思っているのかい?」石川先生は穏やかな口調でそう言った。だがその問いは妙に真っ直ぐで、俺は一瞬言葉に詰まった。けれど、曖昧に誤魔化すこともできなかった。「……はい」正直に頷く。なぜなら、それはあまりにも“ありそうな話”だったからだ。昔好き合っていた男女。叶わなかった恋。政略結婚―――そして、再会。恋愛小説なら、そこから道を踏み外す展開はいくらでもある。石川先生はそんな俺の思考を見透かしたように苦笑した。「恋愛小説の定番だしね」「ええ」俺が認めると石川先生は小さく笑い、それから静かに床板を撫でた。年季の入った木の床。艶のある飴色の板を石川先生は懐かしむような手つきで撫でる。「僕は石川家の三男として生まれた。兄たちみたいに跡取りとして期待されていたわけじゃなかったからね。かなり自由に育ったんだ」石川家の本宅ではなく、祖父の家の離れだったというこの建物。俺が通されたこの場所は、元は茶室として使われていたらしい。障子越しに差し込む柔らかな光と静かな空気が妙に落ち着く。「祖父と西園寺家の先々代当主が親友だった。だから西園寺家の人たちは頻繁にここへ来ていてね。その中に明美もいた」石川先生の表情が柔らかくなる。「当時、僕は十歳。明美は七歳だった。小さくて、人懐っこくて、僕のあとをぴょこぴょこついて歩く子だったよ」その声音は“妹”を思い出す“兄”のものだった。「ここでもよく遊んだ。庭に出て、池の鯉に餌をやったり、かくれんぼをしたり。明美は怖がりなくせに好奇心旺盛でね。転んでは泣いて、泣いたと思ったらすぐ笑う子だった」石川先生が少し目を細める。「女の子の成長は早いね。十を超えた頃から急に背が伸びて、声も顔立ちも変わっていった。気づけば……“少女”ではなくなっていた」そこで石川先生は肩を竦める。「でも僕にとってはずっと“妹”だったんだ。胸が膨らんでも、腰が細くなっても、綺麗になっても、変わらなかった」その言葉に俺は少しだけ理解できる気がした。人は相手を見るとき現在の姿だけを見ているわけじゃない。過ごした時間ごと見ている。石川先生にとって花嶺明美はずっと妹、守る側の相手だったのだろう。「もちろん僕も鈍感ではない。明美が僕に恋をしていることには気づいていたよ」
Read more

8-15

「海外へ渡ってからも僕は絵を描き続けた。でも結果は散々だったよ。酷評ばかりで、何度も筆を折ろうと思った」石川先生は自嘲するようにふっと笑う。「そんなとき西園寺家の先代当主――明美のお父さんから、明美の結婚式に誘われた。気分転換にもなると思って僕は日本へ帰った」数年ぶりの帰国―――そして、再会。「驚いたよ。明美が完全に“大人の女”になっていたから」その声音に滲むのは懐かしさではない。苦さだった。「家のための結婚だった。花嶺辰治は世間的には申し分ない男だったのかもしれない。でも互いに誠実な夫婦だった両親を見て育った明美には……合わなかったんだろうね」西園寺家も抗議はしたらしい。だが、力関係では花嶺家が上だった。結局、誰も花嶺明美を助けられなかった。.「結婚式の前夜だった」石川先生がゆっくりと言う。「明美はここへ来た。この部屋に」空気が静まり返る。「花嶺辰治とは結婚する。でも初めては僕に、好きな人に捧げたいって」喉が乾く。そんな俺から目を逸らし、石川先生は“楽”の絵を見る。微笑んでいる女の絵。でもその笑みはどこか壊れそうに見えた。「僕は、断るべきだったんだと思う」静かな声。「でも……断れなかった」長い沈黙が落ちた。庭を揺らす風の音だけが聞こえる。その沈黙の中で石川先生はぽつりと続けた。「好きだったんだよ。自覚したときにはもう遅かったけれど」その言葉は長い年月を経てなお消えなかった後悔の色をしていた。.「それは……」言いかけて、言葉が見つからないことに気づいて俺は口を閉じた。”愛情”だったのか、と問おうとして違うと思ったからだ。でも、同情でもない気がする。花嶺明美の中に、そして無自覚でも石川先生の中にも恋情があったのだから。恋情。一般的に語られる恋愛感情とは少し違う気もする。楽になりたかった花嶺明美。楽にしてやりたかった石川先生。互いに相手を必要としていたのは確かなのだろう。けれど、その形は同じではないように感じた。愛情とは、本来互いの想いが向き合うものだ。だが、この二人の感情は同じ方向を向いているようでいて微妙にずれている。そんな違和感が胸に残った。「当時は、明美に抱いたのは同情だと思った……彼女の中に入る直前まで、本当にいいのかと思っていたことを覚えている」石川先生は静かにそう言
Read more

8-16

思えば、俺はあの写真について相談するためにここへ来たはずだった。それなのに話は思わぬ方向へ転がり、花嶺明美と石川先生の恋物語を聞いていた。桔梗に関わることだから無駄には感じなかった。むしろ、ここまで聞いたからこそ見えてきたものがある。「分かりましたので、先生、続きを」促すと、石川先生はまだ少し不安そうな顔をした。「本当に分かってる? 僕のこと、リベンジポルノをするような最低男だと思ってない?」そこまでは思っていない。というか、もし本当にそういう男なら桔梗を助けたあと……なんというか、あんなふうに接しないだろう。リベンジポルノとか考えたことがないから確証はないが。「思っていません」俺がきっぱり言うと、石川先生は露骨にほっとした顔をした。「良かった……いや、本当にね、女性の表情って一瞬なんだよ。ほんの刹那なのに、男の心には焼き付いて離れない。でも女性のほうは案外あっさりしてる。明美もそうだった」石川先生がふっと笑う。「僕に抱かれた余韻なんて最低限でさ。翌朝には、びっくりするくらい晴れ晴れした顔をして、この部屋を出ていった。切り替えが早いんだよ、あの子は昔から」その顔は、懐かしい妹を思い出すような顔だった。女として見ていたはずなのに、それでもなお“妹”としての感情が残っている。複雑で、歪で、それでも確かに大切だったのだろう。「明美さんとは、それからは……えっと、何も?」俺が聞くと、石川先生は静かに首を振った。「何もなかったよ。未練がましく僕は個展の招待状は送ったりしていたけれど、彼女からは花が届くだけ。本人が来るのは五回に一回くらいかな。それも、挨拶する暇もなく帰ってしまう」石川先生は苦笑する。「僕に未練はなかったのか、それくらい花嶺辰治のフォローに追われていたのか……後者だと思いたいけれど、それはそれで腹立たしい。あの男は明美の苦労も知らずに、明美を役立たず扱いしていたのだからね」その言葉に、俺は少し考えてから口を開いた。「でも、明美さん本人はそれほど遣る瀬なさを感じていなかった気がします」「蓮司君?」石川先生が顔を上げる。「桔梗がそうだからです」俺は静かに続けた。「桔梗は、花嶺辰治たちに使い潰されたことに怒りはあります。でも“報われなかった”とはあまり思っていない。なぜなら、最初から期待していなかったからだそうで
Read more

8-17

「蓮司君」庭を眺めながら外に立っていると、石川先生に呼び止められた。「こんなところにいたんだね」「トイレの場所が分からなかったので」石川先生に時間が必要だった理由を、さも自分の事情であるかのように口にする。先生は何も言わなかった。俺もまた、その目元に残る湿り気には気づいていないふりをした。「君の用事がまだだったね。今度はこっちで、コーヒーでも飲みながら話そうか」「そうですね」あの霊廟のようなアトリエにもう一度足を踏み入れることには抵抗があった。だから俺は、石川先生の提案を二つ返事で受け入れた。.「ありがとう」石川先生の礼に通いの家政婦だという初老の女性が頭を下げて部屋を出ると、その場に静寂が満ちる。開け放たれた窓の向こうには手入れの行き届いた庭。机の上では、淹れたてのコーヒーから湯気が立ちのぼっている。穏やかに時間だけは流れていたが、俺はどこから話を切り出すべきか迷っていた。「今日、石川先生を訪ねたのは、ある写真について相談したかったからです」「……写真?」石川先生の目に、わずかな警戒が宿る。「写真をお見せする前に、まず俺がこれを手に入れた経緯を説明します」石川先生は静かに頷いた。「この写真は、俺の元婚約者である吉川凛花が、“脅迫材料”として持ってきたものです」「脅迫とは……物騒だね」「ええ。かなり物騒でしたので、きちんと処理しました。ご安心ください」「桔梗さんと誠司くんに害がなければいいよ」――“みんな”じゃないんだな。この人は本当に、線引きがはっきりしている。「この写真は、花嶺桜子から吉川凛花へ送られたものでした」「花嶺桜子……そういえば、最近は彼女の話題を耳にしないね」「彼女はいま……海外にいます」「なるほど」石川先生はそれだけで察したように頷いた。「それで、そろそろ本題に入ろう。まず、その写真とは?」俺はスマホを取り出し、例の写真を表示する。そして、その画面を石川先生へ向けた。次の瞬間。石川先生は弾かれたように立ち上がった。重厚な一枚板の机が大きく揺れ、コーヒーカップの中で液面が波打つ。「これをどこでっ!」……驚いた。普段が穏やかな人だからこそ、その大声は衝撃的だった。「先生……」「蓮司君、教えてくれ! この写真を、いったいどこで……!」鬼気迫るとは、こういうことを言うの
Read more

8-18

「僕は彼のパリの画廊に行ったこともあるし、僕の絵を展示するときには彼も必ず顔を出してくれた。もちろん、いまはもう縁を切っているよ。桔梗さんにあんなことをするなんて」石川先生は心底憤慨しているようだった。「石川先生にとって、白洲典正はそういうことをしそうにない人物だった、と?」「そうだね。清廉潔白な人物とまでは言わないが、薬で女性の自由を奪い、襲うような男だとは思いもしなかったよ」信じていいのだろうか。白洲典正が桔梗を襲ったあの日。石川先生は桔梗を助けるために白洲典正を殴り倒している。意識を刈り取るほど強く殴っていたから、俺はてっきり偶然居合わせたのだと思っていた。知人という可能性は考えもしなかった。「石川先生は、あの日、なぜあそこにいたんですか?」俺の質問は、石川先生と白洲典正の関係を露骨に疑うものだった。石川先生の目がわずかに険しくなる。「君が警戒するのは当然だ。理解もしている。だから、この場ではっきり言わせてもらう。白洲典正とは、画家とそのファンという関係でしかない。彼は画廊のオーナーだが、僕の作品を扱ってもらったことはない。だから、僕たちの間に利害関係も存在しない」「……ファン」「そうだ。熱心なファンと言ってもいい。彼は僕の絵を何枚か所有している。四連花も売ってほしいと、それはもう昔から熱心に――」そこで石川先生の言葉が途切れた。……なんだ?何かに思い当たったような顔をしている。「もしかして、白洲さんが……」「石川先生?」「……ちょっと待っていてくれ」石川先生は足早に部屋を出ていった。.しばらくして戻ってきた先生の手には、大きな箱が抱えられていた。先生はその箱を静かに俺の前へ置く。覗き込むと、中に入っていたのは和紙だった。何枚も丁寧に重ねられている。「見てもいいですか?」そのために持ってきたのだろうが、一応確認を取る。石川先生が頷いたので、俺は一枚を取り出して広げた。そこに描かれていたのは、一人の女性だった。衣をまとっていない。だが、露骨な裸体画ではない。ラフなデッサンのように線は少なく、陰影も最低限。色彩も隅にわずかに置かれているだけだった。まるで途中で筆を止めてしまったような絵。色を重ねて、やめた。そんな印象を受ける。制作途中。いや、おそらくこの絵は永遠に完成しない。未完成の
Read more

8-19

「四枚を展覧会に出して、賞を取って、僕の画家人生は一変した。いわば、勝ち組というやつだ。それまでどんなに描いても酷評ばかりだったのに、それ以降に描いた作品は何を出しても賞賛された。結局、美術というのは価値を生み出した者が勝つ世界なのかもしれないね」美術の世界に身を置く人間にしては、ずいぶん冷めた言い方だと思った。「どうしたんだい?」「思ったよりも“商売”として美術を語るんだな、と」「僕たちも霞を食べて生きているわけじゃないからね」それは、その通りだ。「でも、これは今だから言えることだよ。当時の僕は、それまで無価値だった自分に突然価値がついたことに戸惑っていた」当時を思い出したのか、石川先生は苦笑した。「それまでは絵を抱えて何軒も画廊を回っていたのに、今度は画廊のオーナーたちが僕の前に列を作るようになった」「画廊のオーナー……」「そう。白洲典正も、その中の一人だった」石川先生は頷いた。「彼は僕の四連花の大ファンだと言ってね。誰よりも熱心だった。彼の画廊と契約することも考えたんだけれど、次兄に止められた。僕はそういう現実的なことにはからっきしだから、兄の助言に従ったんだ。今となっては、それで正解だったと思うよ」石川先生の実家である石川家は大病院を経営している。親族にも医療関係者が多い。事情を抱えた権力者や資産家が入院してくることもあるだろう。その中で、白洲典正の裏の顔について耳にする機会があったのかもしれない。「断った後も、白洲典正は熱心に僕を訪ねてきた。困った僕は実家に相談して、長兄がマネージャーをつけてくれたんだ」石川先生は少しだけ笑う。「彼はいまも僕のマネージャーだけどね。母親より口うるさい。睡眠時間だの栄養だの、突然生活を管理されるようになって、当時の僕はずいぶん反発したものだよ」俺の頭に武司の顔が浮かんだが、すぐに追い払った。「僕は、そのことを今でも深く後悔している」「……何をですか?」「僕が住んでいたアパルトマンに泥棒が入ったんだ。描きかけの絵も含めて、部屋にあった作品をすべて持っていかれた」石川先生は静かに目を伏せた。「彼には、あの建物はセキュリティが甘いから早く引っ越せと言われていたんだけどね……僕が意地を張ってしまった」「すべて……。それじゃあ、五枚目も?」「そうだ」石川先生は頷いた。「警察にも
Read more

8-20 side桔梗

退院してしばらく経ち、生まれたばかりの茉白に振り回されながらも、ようやく家族の生活に一定のリズムが生まれ始めた頃だった。蓮司さんが、石川先生を家に招きたいと言い出した。そして今日、石川先生が我が家を訪れている。別に反対ではない。ないのだけれど――。「石川先生、コーヒーにミルクは入れますか?」蓮司さんが、ミルクと砂糖を乗せたトレーを石川先生へ差し出す。「ありがとう。いただくよ。いやあ、桔梗さんの淹れるコーヒーはやっぱり美味しいね」……まだ飲んでいないのに。そのやり取りを見て、私はますます首を傾げた。この様子は何だろう。「お二人、一体何をやらかしたんですか?」「「え?」」二人の肩が同時に跳ねた。……やっぱり。この二人、なんだか似ている。「……蓮司さん?」「違う! 俺は何もやっていない」即答だった。しかも。――俺は。その強調が怪しい。「石川先生……?」私が視線を向けると、石川先生は目を逸らした。そしてまた私を見て、再び逸らした。完全に挙動不審である。「僕の話を聞いたら、桔梗さんはショックを受けると思う」言いにくそうに言葉を選んでいる。でも、話すしかないのなら早く話してほしい。それとも、本当に言い出しづらい内容なのだろうか。だったら――。「石川先生と、お母様に何かしらの関係があったということですか?」「……どうして分かったんだい」どうして、と言われても。「先生、時々私のことを『明美』って呼ぶので」「……え? そうなの?」蓮司さんが驚いた顔をする。私は頷いた。「無意識に間違えている感じでしたし、わざわざ訂正するほどでもないかなと思っていました。それに……」「それに?」私は少し迷った。でも、ここまで話したのだから続ける。「先生が『明美』って呼ぶときの声が……」思わず蓮司さんを見る。蓮司さんは不思議そうに首を傾げた。「蓮司さんが私を呼ぶときの声に似ていたんです。だから、そういうことなのかなって」「「……なるほど」」二人の声が見事に重なった。しかも二人とも照れくさそうに口元を隠している。本当に似ている。母と娘は、男性の好みも似るものなのだろうか。「桔梗さん……その……明美さんのことを……僕のことを……」石川先生は言葉を探している。言いたいことは何となく分かった。お母様
Read more

8-21

「こんな写真が……どうして……」「それについては、僕にも責任がある。詳しい事情は省かせてもらうけれど、この写真を撮ったのは僕なんだ」……石川先生が?「絵を描くための資料として撮影した。誓って、それ以外の目的はなかった」「……そうですか」そのときのお母様と石川先生の関係がどういうものだったのか、私には分からない。だから、そこについて口を挟むつもりはなかった。仮に恋人同士の間で交わされた特別な時間だったとしても。……今は落ち着こう。「この写真を、どうして吉川凛花さんが持っていたのかは分かっているのですか?」「この写真は、昔、僕が暮らしていたパリのアパルトマンから、他の作品と一緒に盗まれたんだ」「盗まれた……」吉川凛花さんが?……いいえ。時期が合わない。以前、特集番組で見たことがある。石川先生が日本にアトリエを構えてから、もう二十年以上経つはずだ。つまり、この盗難事件も二十年以上前。その頃の吉川凛花さんは、まだ生まれてすらいないかもしれない。「犯人は分かっているんですか?」石川先生は蓮司さんをちらりと見た。蓮司さんが静かに頷く。「桔梗。俺たちは、石川先生のアパルトマンに盗みに入ったのは白洲典正だと考えている」……白洲典正?「どうして、あの人が……?」名前を聞いただけで、あの日の記憶が蘇る。息が浅くなる。身体が震えた。すると蓮司さんが立ち上がり、私の隣へ移動してきた。そっと肩を抱き寄せられる。温もりと匂いに包まれて、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。「……“考えている”ということは、証拠はないんですか?」思ったより落ち着いた声が出た。蓮司さんもそれに気づいたのだろう。肩を抱く手の力が少し緩む。「かなり昔の話だからな。当時のアパルトマンはセキュリティも甘かった。警察も、安い物件に住んでいたんだから仕方ないという態度で、まともに捜査してくれなかったらしい」「吉川凛花が俺にこの写真を見せなければ、白洲典正に盗まれた可能性があるという仮説すら立てられなかった」吉川凛花さん……。彼女がなぜこの写真を持ち出したのかは、なんとなく分かる。私を貶めるため。あるいは、この写真を使って脅し、蓮司さんを手に入れようとしたため。彼女が今の自分の境遇に納得していないことは聞いている。一度は蓮司さんを手に入れかけたのだ
Read more

8-22

「桔梗には、まだショックな話が続く……悪い」謝るということは、聞いておくべき話なのだろう。私は小さく頷いた。「話してください」蓮司さんは一度目を閉じ、覚悟を決めるように息を吐いた。「吉川凛花との婚約だが、表向きはいろいろ理由を説明していた。だが、本当の理由は違う。俺は吉川凛花に責任を取るために婚約した」「責任を取るって……」その言葉が意味するものを考えて、息が詰まる。「違う」蓮司さんはすぐに否定した。「俺と吉川凛花に肉体関係はない。ただ俺は……あの夜、薬を飲まされたあの夜に俺を相手にしたのは吉川凛花だと、本人から聞かされていたんだ」――!「なんで……」声が掠れる。「吉川凛花は、あの夜ホテルへ来ていた。“花宮”と名乗り、俺の部屋番号を聞き出した桔梗の鞄にICレコーダーを仕込んだんだ」「ICレコーダー……」それって。あの夜の音が。記録されていたということ――。ひゅっ。息がうまく吸えない。「うっ……」胃がひっくり返るような感覚に襲われた。「桔梗!」蓮司さんが慌てて背中をさすってくれる。「げほっ……」「吐いた方がいいか?」「いえ……このまま……撫でていてください……」私は縋るように蓮司さんの腕を掴んだ。力が入りすぎている。痕が残るかもしれない。そう思うのに、指を離せなかった。何度も深呼吸を繰り返す。胃の不快感が少し落ち着いた頃、私は蓮司さんに続きを促した。蓮司さんは躊躇うように視線を伏せたが、やがて口を開く。「桔梗が武司を見て倒れただろう」私は頷く。「あれを見て、俺は吉川凛花の話に違和感を覚えた。そして問い詰めたんだ。すると吉川凛花は、ICレコーダーを仕込んだ経緯と、桔梗が拾ったICレコーダーを回収しただけだと話した」「……あれが私だったことは……」「知らなかった」蓮司さんは首を横に振る。「音声データは専門機関で分析した。桔梗の声と照合しても、『そうかもしれない』という程度の結果しか出ていない。一方で、吉川凛花の声ではないことは確認できた」断定はできない。でも、否定もできない。その曖昧さに、私は少しだけ安堵した。もし完全に一致していたらと思うと、今でも胃が痛くなる。「そして、その音声データを使って錦野柾が俺を脅しに来た」……なるほど。話が繋がった。「吉川凛花さんは、願いを叶える
Read more
PREV
1
...
2021222324
...
27
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status