All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 621 - Chapter 630

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第621話

「あの女……よくもそんなことを!」円香は驚きを隠せなかった。思わず声が上がる。テーブルクロスを握る指に、力が入っていた。杏奈も眉をひそめ、冷静に考えを巡らせた。「今の藤本家は、もう実質的に空っぽでしょう。それでどうやって、私たちを一度に飲み込もうというの?誰かの力を借りていないと説明がつかない。紗里の後ろに、私たちの知らない、確固たる後ろ盾があるわ」円香がふと思い当たって言った。「もしかして、エルメス家と関係があるんじゃない?アルバートソンズが来てから、急にここまで大きな動きをし始めたわ。タイミングが合いすぎる」蒼介は頷いた。その推測を肯定する。「この件の裏には、確かにアルバートソンズが動いている。いや、より正確に言えば――」一拍置いて、表情がすっと引き締まった。声に、普段にはない重みが乗る。「巨大な黒船が、本格的に国内市場に牙を剥いた。アレーナを先に送り込み、続いてアルバートソンズを寄越したのは、いずれも様子見の前哨戦だ。本格的な侵攻へ向けた、地ならしに過ぎない」円香の眉がだんだんと険しくなっていく。「でも、それはおかしいわ。もし国内市場をそこまで本気で狙っているなら、国が黙って見ているわけがない。外資が無秩序に荒らし回るのを、許すはずがないわ」外資を完全に締め出しているわけではない。しかし何事にも限度がある。外資が市場の根幹を揺るがすほどの規模になれば、必ず強い介入が入るはずだ。蒼介の唇の端に、冷たい弧が浮かんだ。「もし……要所にいる人間が、すでに彼らに取り込まれているとしたら……」「……っ!そんなわけない!」蒼介が言い切る前に、円香が鋭く遮った。語気は確固としている。「翔真はそんな人間じゃないよ。買収されるはずも、脅されて屈するはずも、絶対にない!」杏奈は親友の顔を潰したくはなかったが、それでも静かに、しかし確実に届くように言った。「円香、忘れないで。翔真さんは今、あくまで代理当主よ。寒川家の方向を本当に決定できるのは、今も祖父の寒川新蔵さんだわ」円香はそこでぐっと言葉に詰まった。顔に、ばつの悪さとハッとしたような色が浮かぶ。軽く咳払いをして、強引に話を変えようとした。「わ、私はただちょっとした冗談を言っただけで、場を和ませようとしたんだけど……って、ほら、本題!本題に戻ろう!」どう見
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第622話

「その通りよ!」円香は即座に頷いた。先ほどのばつの悪さを振り払うように言った。「隠し事なしに全部話して、整理する。曖昧にしておくといざという時ややこしくなるから、はっきりさせておいたほうがいいわ」「本当に、すべて知りたいのか」蒼介は今度は円香の方へ視線を移した。その瞳には、決定的な事実を告げる前に相手へ与える、最後の猶予のような深い色がある。円香はなんとなく胸がざわついた。根拠のない悪い予感が、じわじわと広がっていく。しかし深く息を吸い込み、その視線を真っ直ぐに受け止めた。「話して。今さら、知らない方がいいことなんて何もないわ」そのきっぱりとした態度を確認して、蒼介は遠回りをやめた。落ち着いた口調で、しかし一言一言が重い鉄槌のように響いた。「寒川家は間もなく、アルバートソンズ家との政略的な縁組みを結ぶ予定だ。その当事者は、お前たちが今話していた寒川翔真と――アレーナ」ガタン!言い終わらないうちに、椅子が倒れる激しい音が、個室の静寂を破った。円香が弾かれたように立ち上がっていた。血の気が引き、蒼白になっていた。信じられないというように蒼介を見つめ、声が激しく揺れた。「今……何て言ったの!?」蒼介は円香の衝撃を真正面から受け止めながらも、表情は微動だにしなかった。残酷なほど冷静だった。「十分に明確に伝えたはずだが」蒼介の言葉は明確だったし、円香の耳にもはっきり届いていた。ただ、信じたくなかった。受け入れたくなかった。翔真と……アレーナが、縁組みする?その事実を頭に浮かべた瞬間、見えない手に心臓を鷲掴みにされたような感覚が走った。締め付けられて、刺すように痛くて、息ができないほどに。「円香!」杏奈がすぐに立ち上がり、ふらつく体を支えた。瞳に、強い心配の色がありありと浮かんでいる。いつも凛とした杏奈の目に、純粋な心配がはっきりと映っていた。指先から伝わってくる冷たさに、杏奈の胸もきゅっと締まった。「わ、私…………っ」円香が口を開いた。しかし喉が何かで詰まったように、言葉が出てこない。いつも明るく輝いて、陽だまりのようだったあの顔が、今は完全に血の気を失い、唇まで白く染まっていた。杏奈の胸が痛んだ。その痛みが、自分の胸にまで伝染してくるようだった。唇をきつく結んで、込み上げるものを押さえ、できるだ
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第623話

円香は唇の端を引き上げて、無理に笑おうとした。しかし出てきたのは、泣くよりも痛々しそうな、引きつった苦笑いだった。「そうよね……私なんて、何なのかしら。どんな立場で、どんな身分で、彼に問いただせるっていうの……」力なくこぼれた声。どこにも行き場のない自嘲が滲んでいた。「円香!」杏奈は焦りと怒りをにじませて、円香の手をきつく握りしめた。声に、有無を言わせない強さが宿る。「彼はあなたのことが好きだって言ったのよ!自分の気持ちを打ち明けておいて、そう簡単に投げ出すなんて許せない。何の葛藤もなく婚約を受け入れるなら、あなたの気持ちを弄んだのと同じじゃない!」「でも……私、別に返事してないじゃない」円香の声は、砂を噛むように掠れていた。一言一言が、喉の奥から苦労して絞り出されるように聞こえる。「それがどうしたの?」杏奈は今この瞬間、完全に円香の味方だった。理屈など関係なく、ひたすら親友の味方だった。「断ってないじゃない。最終的な答えを出す前に、彼はあなたを待てなかった。抗ってもみなかった。それで婚約を受け入れるなら、それは裏切りよ。騙したのと同じよ!」円香の頭の中は、とうに混乱でいっぱいだった。強引で、でもなぜか核心を突いた杏奈の言葉に、さらに心を掻き乱される。理性はほとんど残っていない。それでも、瞳の奥で弱々しい光が、微かに揺れて灯った。溺れかけながらも、必死ですがりつくような光だ。「杏奈……本当に……これで、いいの?」杏奈は揺れる瞳を正面から受け止めて、一切の迷いなく言い切った。「いいに決まってるわ。絶対にそうよ!」「じゃあ……会いに行く。今すぐ、直接聞く!」円香は憑き物が落ちたように勢いを取り戻し、杏奈の手をがっしりと掴んだ。「行きましょう!今すぐに!」杏奈も握り返して、踵を返そうとした。その瞬間、蒼介がさっと一歩前に出た。絶妙な位置で、二人の行く手を塞ぐ。「今行っても、会えないぞ」彼の落ち着いた声に、揺らぎは一切ない。「なんで?」円香がすかさず詰め寄った。今にも飛びかかりそうな勢いだ。杏奈も足を止めて眉をひそめ、鋭い視線で説明を促した。蒼介は事務的な口調で、淡々と言った。「入手した情報によると、彼は現在、寒川新蔵氏によって本宅に軟禁されている。その際、表沙汰にはなっていないが、
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第624話

そう言葉を切ってから、蒼介はすべてを見透かしたような口調で続けた。「どうしても直接会いに行きたい、本人の口から聞きたいというなら……まったく手段がないとは言い切れない」「どうするの?どんな方法があるの!?」円香はもう限界だった。取り繕う余力も、強がる気力も、すっかり底をついていた。声に、懇願に近い切迫感が滲んでいる。さっき杏奈に「ほんの少しだけ気になる程度」だと言ったのは、まるっきりの嘘だった。最初に出会った瞬間から、心は動いていた。知らないうちに、蔦が心臓に絡みついていくように。しかし立場が違いすぎた。関係が複雑で、繊細すぎた。だから湧き上がる気持ちを死に物狂いで心の底に押し込めて、冗談で誤魔化して、軽口で覆い隠してきたのだ。それが今、翔真が本当に別の人と婚約するという話を聞いた瞬間、抑え込んできたすべての感情が堤防を決壊させて、一気に溢れ出してきた。円香にはわかった。自分は彼が好きだ。思っていたより、ずっとずっと好きだ。寒川家の高い壁があっても、エルメス家の脅威があっても、それでも飛び込んでいきたい。奪い返したい!翔真本人がどう思っているかは……まったく。鈴木円香様が一度目をつけた獲物を、誰かに好き勝手させてたまるか。もし本当に嫌だなんて言ったら……私の「ビンタの女王」の異名が伊達だと思ってるの?大人しくさせる方法くらい、いくらだってある!個室に、しばらくの沈黙が落ちた。空気が止まったようだった。窓の外から遠く車の流れる音だけが届いて、室内の静けさをいっそう際立たせている。蒼介はまるで円香の焦りなど感じていないかのように、ゆったりと指先で白磁のティーカップの縁をなぞっていた。観客が下手な芝居を眺めるような、悠然たる表情が、心底腹立たしかった。円香は目が赤くなるほど怒りをこらえ、ここでテーブルをひっくり返さないのは自分が大人だからだと言い聞かせながら叫んだ。「何か言ってよ!どうすればいいの、もったいぶらないで!」しかし蒼介の視線は円香を軽く通り過ぎて、まっすぐ杏奈の顔へ注がれた。深くて夜のような、侵食してくるような、どうしても手に入れようとする意志を隠しきれない目だった。薄い唇が、微かな、しかしはっきりとした弧を描く。「世の中は、何かを出せば何かが手に入る仕組みになっている。タダより高
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第625話

「俺が求めるのは――杏奈に、一つだけ俺の要求を聞いてもらうことだ」杏奈の睫毛が微かに揺れ、口を開こうとした、その瞬間。円香が尻尾を踏まれた猫のように跳ね上がり、杏奈を背後に庇うようにして、興奮した声で叫んだ。「お断りよ!吉川蒼介、絶対にお断り!そんなこと、絶対にさせない。私が許さないわ!条件を変えて!」「寒川翔真に会いたくなくなったのか」蒼介の声は相変わらず静かで、どこかからかうような響きさえ帯びていた。円香の最も弱いところを、一切のためらいもなく突いてくる。「ふん、笑わせないでよ!」円香は精一杯の虚勢を張って言い返した。「だったら……だったら私が、濱海の有力な名家をいくつか巻き込んで押しかけてやるわ!あの寒川新蔵だって、全員を追い返すわけにはいかないでしょう。そこで直接聞き出せばいいのよ!」「ふん……では、自由にどうぞ」蒼介は微かに笑った。その声には、見下すような憐れみが混じっていた。「この微妙な時期に、鈴木円香さんの一時の意地のため、あるいは男女の情のために、寒川家とエルメス家という強力な連合の反感を買ってまで動いてくれる家が、果たしてこの濱海にあると思うか……自分の目で確かめてみてくれ」この婚姻の背後に複雑に絡み合う巨大な利権と脅威を、蒼介は誰よりもよく理解していた。海千山千の古狸たちは、損得勘定が骨の髄まで染みついている。円香一人のために火中の栗を拾うような真似は、絶対にしない。「私は……」言い返そうとした円香の声が、乾いて掠れた。言葉に詰まった。現実の冷たさが、足元から這い上がってくるのを感じた。その瞬間、杏奈がそっと円香の腕に手を置いた。力は強くなかったが、それでも、不思議なほど心を落ち着かせる何かがあった。円香が反射的に振り向く。杏奈はゆっくりと顔を上げ、その瞳は水面のように静かで、しかしどこまでも深かった。何かを確固として決断した者だけが持てる、静かな、しかし確かな強さで、蒼介の深くて掴みどころのない眼差しを正面から受け止めた。そして、唇を開いた。はっきりと、冷静に、一言一言、噛み締めるように。「わかったわ。約束する」蒼介は眉を僅かに上げた。その声の調子から、後に続く条件の存在を読み取ったのだ。案の定、杏奈は続けた。落ち着いた、しかし一切の妥協を許さない口調で。「ただ
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第626話

円香は一瞬で理解した。目をわずかに見開いて、周囲をさっと確認してから、ほとんど口を動かさずに囁いた。「まさか……最初から踏み倒す気?」杏奈は隠すつもりもなかった。あっさりと頷く。「そういうこと」「で、でも……後で三浦家に報復してきたら?」円香はまだ心配が消えなかった。杏奈はずいぶん落ち着いていた。「彼が濱海のトップであることは確かよ。でも、ルミエールと杉野家は濱海に根を張ると決めた以上、いずれ吉川家と正面からぶつかる時が来る。どうせそうなるなら、今ここで先手を打ったところで、何が変わるっていうの?」「ほぅ……それは……確かに筋が通ってるわね!」円香はあごに手を当て、瞳に興奮の光を宿した。「まあ、細かいことは私に任せて」杏奈はそこで話を切り上げ、真剣な顔で念を押した。「あなたの今の仕事は、すぐに柏家へ行って、翔真さんの本当の気持ちを確かめることよ。駆け落ちするにせよ、二人で家に立ち向かうにせよ、ほかに何か策があるにしても……できるだけ早く答えを出してちょうだい」「え?じゃああなたは?一緒に来ないの?」「私はここに残って、蒼介を引き留めておくわ。しばらく機嫌も取っておく」「了解!すぐ行ってすぐ戻る、必ず決着をつけてくるわ!」素早く小声で作戦を固めた二人は、蒼介の前へと戻った。その態度はきっぱりしていた。「条件、受け入れたわ」円香がすかさず続けた。「でも、今すぐ翔真に会わせること。今すぐね!」蒼介はまぶたを少し上げ、深い瞳が二人の顔を順に流れた。胸の内は読み取れない。しかし何も言わず、ただ淡々と言った。「先に食事を。終わる頃には、手配した車が到着しているはずだ」「わかったわ」三人が席に着き、彩り豊かな料理が揃っていく。テーブルの上は賑やかで、小春がひっきりなしに喋り続ける甘い声だけが弾んでいた。不気味なほど、場の空気は穏やかだった。食事が終わると、蒼介の手配した人間が時間通りに現れた。円香は一刻を争うように、案内人について、足早に店を後にした。個室に残ったのは、杏奈と蒼介、そして小春の三人だけだ。蒼介は小春を抱いたまま、ゆったりと席に座っていた。視線が何度か杏奈へ向けられ、口が開きかけては閉じる。地雷を踏むのを恐れるように。杏奈はそれに気づいて、怪訝そうに眉を寄せた。「言い
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第627話

思い出されるのは、あの夜、薬を盛られた一件だ。蒼介が頭から杏奈を疑った、あの一件がすべてを物語っている。蒼介もそれを思い出したのだろう。珍しく、後悔の色が顔をよぎった。説明しようと口を開く。「あの件については……」「もう昔の話よ」杏奈はあっさりと遮った。声に感情はこもっていない。「私はもう気にしてないから、今さら蒸し返す必要もないわ」「……そうだな」蒼介は言いかけた説明を飲み込み、本題へ戻った。「四十五日を、お願いしたい」「四十五日?」杏奈は眉を上げた。よくそれだけ図々しいことが言えるものだ。断ろうとして、ふと気がついた。四十五日――おおよそ一ヶ月半。約束した離婚の日も、ちょうどその頃だ。つまりこれは……その四十五日を使って、自分を引き戻そうという魂胆か。隠された意図を読み取った瞬間、胸に湧いたのは感動でも揺らぎでもなく、ただ一つ、乾いた皮肉と疲労感だった。「断るわ」と、冷たく言い返した。これは蒼介の想定内だったのか、あっさりと妥協した。「では、一ヶ月で」それでも受け入れがたかった。また断ろうと口を開いた、まさにその時。蒼介の、静かな脅しが響いた。「これ以上は譲れない。もし一ヶ月も承諾できないと言うなら、鈴木円香を助ける話も、今すぐ白紙に戻せる」仕方がない。大切な親友の幸せを弱みに握られては、杏奈に選択の余地はなかった。「……じゃあ一ヶ月で」どうせ円香の件が片づけば、いつでも反故にできる。蒼介はその内心を読んだかのように、意味深な笑みを口元に刻んだ。何か言いかけたとき、丁寧なノックが響いた。コン、コン、コン――「失礼いたします。三浦様、入口に藤本紗里様と名乗る方がいらっしゃいまして、吉川様とあなたにお取次ぎをとのことですが。お心当たりはございますか?」「紗里が?」杏奈は無意識に蒼介を見た。蒼介もまた眉をひそめていた。紗里の突然の来訪は、明らかに予想外らしい。「お客様?」係員が再び問いかけた。蒼介は我に返り、杏奈の探るような視線に気づくと、思わず弁解を口にした。「来ることは知らなかった」杏奈は軽く「そう」とだけ返した。まるで他人事のように。「お店なんだから、誰が来ようと私には関係ないわ」入口の方へあごをしゃくった。「早く行ってきなさい。待たせると悪いでし
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第628話

レストランのメインホールには、水銀のように冷たく白い光が、不気味なほど静かに降り注いでいた。紗里はオーダーメイドの純白のワンピースを纏っていた。柔らかな布地が細い体のラインを繊細になぞり、豊かな黒髪は緩やかに流れ落ち、数本の毛先が僅かに青ざめた頬に張りついている。俯いた首筋が、ひどく儚げな弧を描いていた。全身から計算し尽くされた儚さが漂い、強い風に揺れる白百合のように見えた。誰の目にも、守ってやりたいという庇護欲を呼び起こす、壊れそうな美しさだった。個室から足を踏み出した蒼介の目に、まず飛び込んできたのがその光景だった。数ヶ月前、あるいはわずか数週間前の彼であれば、考えるよりも先に駆け寄っていただろう。脱いだ上着をそっと彼女の肩にかけ、隠しようのない心配を滲ませた声で、気分は悪くないか、休む必要はないかと問いかけていたはずだ。しかし今は、長い脚は床に釘づけになったように動かず、冷たく硬い彫像のようにその場に立ち尽くしていた深く暗い瞳に、いつもの値踏みするような鋭さはなかった。代わりに宿っているのは、感情をすっかり剥ぎ取った冷たい観察の光だった。価値を失った収蔵品を眺めるような、あるいは排除すべき障害を見据える目だった。その無言の視線を受けて、紗里が何かを感じたように、ゆっくりとまぶたを上げた。いつもならすぐに涙ぐんでみせるその瞳が、今はほんのり赤みを帯び、青白い唇が微かに震えていた。言葉にできない想いを飲み込んでいるかのように。しかし言葉を発しようとした瞬間、波ひとつ立てない、むしろうんざりした色さえ帯びた蒼介の声がそれを遮った。「まだ芝居は終わらないのか。藤本紗里」低い声だった。しかしそれは、氷のように冷たく鋭い刃となって、二人の間に張り続けていた最後の茶番をすっぱりと断ち切った。紗里の細い体が、ほんの僅かにこわばった。か弱く装っていた表情が、水面の波紋のように揺れ――次の瞬間には、冷たく嘲るような笑みに取って代わられていた。「ふっ」と、彼女は軽く笑った。声は相変わらず柔らかいが、今度は明らかな毒が混じっている。「やっぱり、もう全部調べがついたのね、吉川社長」か弱く清楚な声を保つ努力を、紗里はきれいにやめた。声に、自棄めいた皮肉が乗る。蒼介は問いに答えなかった。一歩前に踏み出して、大きな影が紗里を覆う
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第629話

「あなたたちは誰もかれも、上から目線で私を何だと思ってるの?退屈しのぎ?あなたたちの恋愛ごっこで、自分の魅力を証明するための道具だとでも思ってるの?私は絶対に、このままじゃ終わらないわ!」言葉は堰を切った濁流のように溢れ出した。歪んだ嫉妬と、やり場のない怒りに満ちて。蒼介は無表情に聞いていた。深くて暗い瞳の中から、最後に残っていた僅かな温もりが、静かに消えていった。残ったのは、冷徹に獲物を見定めるような光だけだ。紗里の涙も怒りも、今の蒼介にとっては、ただ一つの事実を裏書きするだけだった。この女の存在そのものが、最大の間違いだ。消し去るべき染み。自分が本当に必要なものを取り戻す妨げになる、徹底して排除しなければならない障害だ。紗里は荒い息を吐きながら、蒼介を睨みつけた。蒼介の瞳には、何ひとつ揺れ動く色がなかった。あるのは冷酷な決断だけだと悟った。やがて紗里はヒステリーをやめた。真っ赤になった目で、しかし奇妙なほど澄ました表情で蒼介に向け、声が急に静かになった。ただ、最後に残った、執着に塗れた問いだけを携えて。「わかったわ。今日はここまで話したんだから、最後に一つだけ聞かせて」蒼介は奥歯を噛み締めて黙っていた。それが黙認の代わりだった。「あなたは……一度でも、本当に私のことを愛したことがあった?利用じゃなく、その場しのぎじゃなく、本心から」空気が凍りついた。時間が引き伸ばされていくような沈黙の中、蒼介はただ黙って紗里を見ていた。その沈黙は、どんな残酷な言葉よりも圧倒的だった。鈍い刃で、ゆっくりと、最後に残った幻想を削り潰すように。紗里の目の光が、完全に落ちた。小さく、乾いた笑いが漏れた。その笑いには、底知れぬ虚無感と、自嘲だけが宿っていた。「そう。わかったわ」一歩後ろに引き、背筋を立て直した。顔色はまだ青ざめていたが、不思議なほど冷たく引き締まった表情が戻ってきた。「では、それぞれの力で決着をつけましょう。吉川社長、次は……ビジネスの場で」それだけ言うと、紗里は迷わず踵を返した。ハイヒールが大理石の床を刻む音は、澄んでいて、一切の未練を含んでいなかった。蒼介はその場に立ち尽くし、回転ドアの向こうへ消えていく背中を見送っていた。唇が微かに動いたが、最終的に何も言わなかった。蒼介は知らなかった。紗里が夜
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第630話

紗里が去ってから十分ほど経った頃、杏奈は小春の手を引いてレストランの出口へと向かった。「彼女はもう行ったの?」声は淡々としていた。今日の天気でも尋ねるような、感情の全く滲まない問いだった。「ああ」蒼介は一言だけ答えた。しかしその視線は、強い引力のように杏奈に張りついて離れない。瞳の奥で、後悔、渇望、不安が渦巻いていた。しかし喉が何度か動いても、言葉は出てこなかった。杏奈は顔を上げて、真正面から蒼介の視線を受け止めた。かつてこの男への愛情と憧れで満たされていたその瞳が、今は古い井戸のように静かで、喜びも悲しみも、恨みすらなかった。あるのはただ、底知れない失望を経て焼き固まった、完全な静けさと距離感だけだった。その瞳が、どんな激しい怒りや非難よりも、蒼介の胸に鋭い痛みをもたらした。「用がないなら、先に帰るわ」蒼介が何も言わないのを見て、杏奈は小春の手をそっと離し、身を翻して歩き出そうとした。「待て!」蒼介の口から、反射的に声が出た。自分でも気づかないほどの、切迫した、うろたえたような響きが混じっていた。大股で前に回り込んで、杏奈の前に立ち塞がる。灯りの下で、その顔がさっきより青白くなっているように見えた。眉間に、めったに見せないような、痛々しいほどの疲労が滲んでいた。根拠のない、しかし強烈な焦燥が蒼介を捕らえていた。今ここで行かせたら、もう二度と掴めなくなる――そんな予感が、あまりにくっきりと頭に浮かんでいたのだ。杏奈は足を止め、振り返った。軽く眉を寄せて、礼儀正しく問い返す。「吉川社長、まだ何か?」その他人行儀な言葉が、鋭く胸を刺した。蒼介は薄い唇を引き結び、意を決したように、少し掠れた声で言った。「約束の件を……今日から始めてもいいか」円香を助ける条件として取り交わした、一ヶ月間吉川家に戻るという約束だ。杏奈の顔には、驚き一つ浮かばなかった。ただ、極めて薄く微笑んだ。瞳には決して届かない笑みで。「いいわよ。行きましょう」まるで、たいして意味のない約束に付き合うような、あっけらかんとした返事だった。何より、杏奈は全て分かっていた。円香の件がうまくいけば、一ヶ月などただの形式だ。小春のそばで数日過ごしながら、この男が何を企んでいるのか、じっくり観察してやればいい。「やったぁ〜〜!
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