All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

「ふぁあ〜眠くて死にそう……ねえ、もうこの時間、放課後に間に合わないんじゃない?いっそ引き返して二度寝しない?」杏奈は前を向いたまま、ハンドルをしっかり握って答えた。「学校に時間は確認したから大丈夫。今から行けば、ちょうど昼休みが終わる時間に間に合うわ」「そっかー……」円香は口をもごもごさせながら、もう一度目を閉じようとした。が、よりにもよってそのタイミングで、スマホがじりじりと震え出した。画面を一瞥した円香は、何も考えずにサイレントモードにして、そのままポケットに突っ込んだ。一連の動作があまりにも迷いなく滑らかで、これまでに何百回と繰り返してきたかのようだった。「誰から?なんで出ないの?」杏奈がちらりと横目で見た。円香は隠す気もなく、顔を思い切り歪めて深々と溜息をついた。「誰だと思う?あのしつこすぎる寒川家の長男坊よ」「寒川翔真から?」「んふ」名前が出た途端、円香のスイッチが入ったように、全身から露骨な不満のオーラが滲み出てきた。「ほんっとに意味わかんない。世の中に女の子なんて星の数ほどいるのに、なんで私なの?ガムみたいにべったり張り付いて、どんなに振り払おうとしても剥がれないし、もううんざり!」杏奈はその様子がおかしくて、つい笑ってしまった。「それだけ円香に魅力があるってことじゃない。輝きすぎて、一度見たら目が離せなくなるのよ」「やめてやめて!」円香は両手を振って全力で拒否した。「魅力なんかいらない、目立たなくていいの。平凡でいいから静かに生きたい!今の私は、厄介な恋愛トラブルのど真ん中なんだってば!」「まあ、真面目に聞くけど」杏奈は笑いを収め、ちらりと円香を見た。「本当に、一ミリも気がないの?……なんとなく、あなた、全然嫌いじゃないんじゃないかと思うんだけど」「もう、杏奈ってば。お願いだからそういうこと言うのやめてよ」円香は頭を抱えるように額に手を当て、どこか達観したような溜息を吐いた。「……まあ、認めるよ。あいつはさ、顔もいいし、家柄もいいし、仕事もできる。文句のつけようがない優良物件よ。ちょっとくらい気になっても、別におかしくはない」小指を立てて、これだけ、と示してみせる。が、すぐに声のトーンが変わった。清々しいくらい、きっぱりと。「でも、自由と比べたら、その『ちょっと
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第612話

「いい?鈴木家も三浦家も、突き詰めれば『商』の家。でも寒川家は……『政』の世界よ。その間には、目には見えないけれど確かに存在する、越えがたい溝があるの」「私が翔真と付き合えば、外からは、鈴木家が寒川家に高望みした、と見られる。うちのおやじ、今は好き勝手にやらせてくれてるけど、いざ家同士の利益の結びつきや今後の発展が絡んでくれば話は別よ。そうなったら、私個人の意志なんて関係なくなる」そこで、いつも能天気に笑っている円香の顔に、かすかな苦さと、どうにもならないという諦めが滲んだ。「それに……私は鈴木家の娘なの。ずっと鈴木家に養われ、守られてきた。いざというとき、鈴木家のために何かしなきゃいけない場面が来たら……そのとき、自分の気持ちだけを優先して逃げ出すなんて、私にはできない」大きく息を吸って、その息と一緒に胸のつかえを吐き出すように。次の瞬間にはもう、いつものあっけらかんとした顔に戻っていた。杏奈に向かって、パッと明るい笑顔を向ける――ただ、どこかその裏に、胸がちくりと痛むような何かが見えた。「だからね!どう考えても今が一番いいの!気ままで、お金もあって、誰にも縛られない自由な毎日。やりたいことだけやって生きる。恋愛なんてめんどくさい、いらない!」杏奈はその無理やり明るく作った笑顔を見ながら、どうしても笑い返すことができなかった。円香が翔真に何も感じていないわけじゃない。本当の意味で感情がないわけでも、愛情を求めていないわけでもない。ただ……この立場に生まれれば、外からは見えないしがらみがある。思い通りにならないことがある。何か力になれることがないか。杏奈はそっと心の片隅に留めておいた。今はまだ、胸の奥に押し込めておく。車内に静けさが戻った。窓の外を流れる風の音と、エンジンの低い唸りだけが響いている。……そんな車内とは対照的に、寒川家の本宅の書斎では、今まさに空気が重く張り詰めていた。上座の椅子に背筋を伸ばして座る新蔵の表情は、岩のように厳しい。その下座では、泰明が視線を泳がせながら落ち着きなく座り、翔真は傍らに立って深く眉を寄せている。そして由里子は、噴火寸前の火山のように顔を真っ赤に紅潮させていた。重苦しい沈黙が室内に満ち、嵐の前の静けさのような息苦しさが漂っている。「お義父様!」ついに由里子が限
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第613話

「家が崩壊して、妻も子も失って……それでやっとあんたは、家長として立ち上がれるの?自分の息子を守るために、たった一言くらい言えないの!?」妻の悲痛な声と拳が、泰明の胸に突き刺さる。表情が歪んだ。口がもごもごと動いた。何か言いかけているようだった。しかし意を決して顔を上げ、父の目と正面からぶつかった瞬間――その瞳に宿った、冷たく、深く、感情の欠片もない光を見た瞬間に、積み上げていたわずかな勇気が、煙のように霧散した。糸の切れた操り人形のように肩が落ちて、泰明はまた元の、意気地のない男に戻った。深々と頭を垂れる。父親がまったく当てにならないと悟った翔真は、深く息を吸い込み、自分で立ち上がるしかなかった。背筋をしゃんと伸ばし、新蔵の目を真っすぐに受け止めて、澱みのない声で、一言一言を重く刻み込むように響かせる。「おじいさま、アレーナさんとの縁談には、絶対に同意いたしません」新蔵はまぶたを上げようともしなかった。急ぐ様子もなく湯呑みに口をつけ、平然としたままで、しかし抗いようのない圧を滲ませた。「お前は自分から寒川家に戻ることを選んだ。家の力を借りて今の足場を作れたのだろう。我々の間には、とうに話がついていたと思っていたが」一拍置いて、声が氷のように冷えていく。「今や情勢が固まったというのに、覆そうとするのは、いささか虫が良すぎないか」翔真は怯まなかった。むしろ一歩前に出て、淡々と、しかし揺るぎなく返した。「最初の約束は、あくまで僕が寒川家の当主を継ぎ、家を立て直すというものでした。僕個人の結婚を犠牲にし、自分自身を売り渡すことまでは含まれていません」目に力を込め、真っ向から言い切る。「そうでなければ、最初からこの家には戻りませんでした」新蔵はわずかに目を上げた。濁ってはいるが鋭い眼光が翔真を舐めるように捉え、淡々とした口調のまま、殺気のような圧だけが重くのしかかる。「アレーナが国際的な政財界で持つ影響力は、お前のほうがよくわかっているだろう。彼女と縁組みすれば、寒川家の政界での道は一気に開ける。利権も、人脈も、資金も、思いのままだ。それこそ、我々が最初に描いた大きな絵ではないのか」「ですが、僕にはすでに心に決めた人がいます」翔真は一ミリも退かず、声の奥に抑えきれない感情を滲ませた。由里子がすかさず前に出て
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第614話

従って駒となり、家の助けとなるか。さもなくば、ゴミのように切り捨てられるか。寒川家を追われてしまえば、庇護を失った彼らは、数日と経たずに相次いで「不慮の事故」で命を落とすだろう。敵対する者たちは、寒川家に恩を売り、ついでに私怨を晴らす機会を、決して見逃しはしない。窓の外から差し込む午後の光が、防弾ガラスを通して高価なペルシャ絨毯に揺らぐ影を落とし、その場にいる者たちの顔に浮び、重苦しさ、葛藤、やり場のない怒りをくっきりと照らし出していた。由里子と翔真は、鋭い眼差しを新蔵に向けた。当の新蔵はといえば、軽く口の端を上げただけでゆっくりと立ち上がり、枯れ枝のような手で翔真の張り詰めた肩をぽんと叩いた。「自分のためでないにしても、お前の母親のことを考えてやれ。半生、お前のために苦労してきた人だ。晩年に惨めな思いをさせたり、まして……流浪の身になってもいいのか」脇で縮こまっている泰明には、一瞥もくれなかった。この意気地なしの息子など、新蔵の心の中でとうに取るに足りない存在だと分かっているのだろう。返事も待たず、新蔵は金の装飾を施した黒檀の杖をつき、悠々と書斎を出ていった。後に残ったのは、息もできないほどの重い沈黙だけだ。「バタン!」重厚な木の扉が閉まった瞬間、それまで澱んでいた空気がようやく動き出した。由里子がふらついて後ろに一歩下がり、マホガニーの机に寄りかかった。翔真は深く目を閉じる。三人がほぼ同時に、長く、重い溜息を吐いた。溺れかけてようやく水面に顔を出した人間のようだった。由里子は翔真の腕を掴んだ。指が、上着の布地に食い込みそうなほど力がこもっている。声は低く、掠れていた。「翔真、今すぐ好きな人を連れて海外に出なさい。どこでもいいわ、スイスでも、アイスランドでも、誰も知らない小さな町でも。とにかく、あのジジイの目が届かないところへ逃げるのよ」翔真は苦笑して首を振り、冷え切った母の手の甲にそっと自分の手を重ねた。「無理です、母さん。国内にいれば、彼の目からは逃れられない。海外に出ても……今やエルメス家の後ろ盾を得た以上、向こうの手はさらに遠くまで伸びている。逃げるほど、早く捕まるだけですよ」影の中から、泰明の弱々しい声が漏れた。どこか希望にすがるように。「……とりあえず、承知したふりをするのは……どうだろうか。
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第615話

――そんなわけがあるか!泰明は半泣きになった。押し寄せてくる恐怖に抗いきれず、がばりと膝をついて由里子の足にすがりついた。体裁など、とっくにどこかへ吹き飛んでいた。「ゆ、由里子、頼む、別れないでくれ!お前なしで俺はどうやって生きればいいんだ。自分が役立たずで、情けなくて、男として最低なのも分かってる。だから、もう一度だけチャンスをくれ、一度だけ!」由里子は足を強く引こうとしたが、泰明は死に物狂いで離さない。眉を顰め、煩わしさと嫌悪を顔に露わにしながら、由里子は声を絞り出した。「泰明、放して。きれいに別れましょう。お互い、最後の一欠片の品位くらいは保って」「放さない!絶対に別れない!」首を振り続けながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした泰明は、突然何かを閃いたように目を見開いた。溺れる者が藁を掴むように。「彼に撤回させればいいんだろう?俺が行く。今すぐ書斎に行って頼み込んでくる。三日三晩でも土下座してやる、水も飲まないし、飯も食わない。絶対に考えを変えさせてみせるから!」顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃのまま由里子を見上げた。その表情がこう問いかけていた――もう一度だけ、信じてくれるか?由里子は、長い年月を共にしてきた、しかしついに一度たりとも立ち上がることのなかったこの男を見つめた。様々な感情が瞳の奥を駆け抜けて、最後には燃え尽きた灰のような徒労感だけが残った。長い沈黙の後、由里子は極めてゆっくりと頷いた。声には何の感情も乗っていなかった。「……行ってきなさい」「よし、今すぐ行ってくる。吉報を待っていてくれ、由里子!」泰明は弾かれたように立ち上がった。重大な使命を授かった人間のように飛び出そうとする――その背中に、翔真の低い声が落ちた。「父さん、待ってください」「な、なんだ?」急ぎ足が止まる。一刻も早く行かなければという焦りが顔に滲み出ていた。翔真は静かな目で父を見た。その奥には、はっきりとした冷酷な光が宿っている。声を低め、一語一語確かめるように告げた。「おじいさまが今回どう答えるにしても、しばらくの間、そばにいてほしいです。できるだけ、よく見て、よく聞いておいてください。誰と会ったか、どんな話をしたか。特に、藤本家のこと、エルメス家のこと……僕自身に関することは何でも、機会を見つけてすぐに教えてほし
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第616話

以前の小春なら、我が儘に甘やかされて育ったお姫様だ。こんな炎天下で待たされれば、とっくに癇癪を起こして、手当たり次第に物を投げつけていただろう。しかし今この瞬間、杏奈の姿を見つけた途端、待ち疲れてうっすらと翳りかけていた大きな瞳が、ぱっと輝いた。まるで星を散りばめたように。身体中の不快感などどこかへ消え去ったようだった。日向ぼっこをしていた子猫のように、小春は弾んだ足取りで、おぼつかなくよたよたと走り寄ってきた。「ママ〜〜!やっと来たっ!会いたかったよ、すっっごく!」甘く幼い声を弾ませながら、迷いなく両腕を広げて杏奈に向かって飛び込もうとする。杏奈の足が、ほんの一瞬だけ止まった。目の前のこの無邪気で小さな存在を見つめ、そっと唇を引き結ぶ。胸の中に、複雑な感情が渦を巻いた。小春との間にあった、母と娘としての絆。それはあの、子供自身も一役買った「狂言誘拐」の茶番劇の中で、すり減り、踏みにじられ、どこかへ消え失せてしまった。今すぐ何のわだかまりもなく、あの頃のようにこの子を抱き締められるかといえば、正直そうはいかない。長年の間に刻まれた深い傷は、数日の炎天下や「ママ」という甘い呼び声で簡単に塞がるものではなかった。ただここ数日の、小春のひたむきな姿。不器用ながらも、懸命な歩み寄り。それはまだ氷を完全に溶かすには至らなかったが、それでも厚い表面に細い亀裂を一筋入れてはいた。汗に濡れた小さな背中を無下に突き放すことは、やはりできなかったのだ。幸い、杏奈の迷いを敏感に察知した円香が、すかさず先に動いた。にっこりと腰を折り、絶妙なタイミングで走り込んでくる小さな体を受け止め、ひょいと抱き上げる。「まあまあまあ、どこの可哀想なちびっこかしら。茹でだこみたいに真っ赤に焼けちゃって。この薄情者ー、ママしか見えないの?円香おばさんがこんなにどーんと立ってるのに、完全にスルー?限定チョコ、持ってきてあげたのに!」抱き上げられても小春はさほど抵抗せず、素直に首へ腕を回してふんわりと答えた。「円香おばさんのこと、見えてたよ」「じゃあ、なんでママだけに飛びつくの?」「だって、一番好きなのはママだもん!」幼い声にたっぷり滲んだ、ためらいのない純粋な愛情。こんなまっすぐな告白を受けて、胸を動かされない母親はそうはいないだろう。しかし、杏
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第617話

「天水埠頭?」杏奈と円香は顔を見合わせ、互いの目に同じ驚きが浮かんでいるのを見た。円香が眉を寄せた。「小春、天水埠頭なんて場所、誰に聞いたの?」杏奈も続ける。「どうして急に、そんなところでサプライズをしようなんて思ったの?」詰問のような二人の勢いに、小春はきょとんとしたまま、どうしていいか分からない顔をした。杏奈は小さく溜息をつき、水が滴りそうなほど声を柔らかくした。「ママがただ気になっただけよ。少しだけ、こっそり教えてくれる?」円香も即座に笑顔を作って同調した。「そうそう、円香おばさんもめちゃくちゃ気になってるー!」小春は唇をきゅっと結んで、しばらく小首を傾けてから、ぽつりと言った。「あそこ……学校のお友達から聞いたの」大きな瞳を瞬きもせず杏奈へ向け、幼い声に珍しく申し訳なさそうな色を滲ませた。「ママ、前に……海に行きたいって言ってたでしょ。でも私のお世話で、ずっと行けなかったって。だから……今度は楽しんでほしいなって」もちろん、そんな細かいことを小春の年齢で覚えているはずがない。すべて、蒼介が入れ知恵したことだ。円香はふっと笑って、小春のほっぺを軽くつねった。「ちびっこ、よく聞いておきなさい。あんたのパパはろくでもない人間よ。あの人みたいに絶対になっちゃダメよ」小春がぷくっと頬を膨らませて言い返そうとした瞬間、小春には、傍らの杏奈がかすかに、でも確かに頷いたのが見えた。同意の頷きだ。小春はしゅんと萎んだ。「……わかったよ。悪い子にはならないから」小さな頭を垂れて、大人びた口調で約束する。黙って見ていた杏奈は、唇をそっと動かして、それでも抑えきれずに口を開いた。「小春……本当に、紗里が何か吹き込んだんじゃないの?」ブロロロ――小春が「もうずっと彼女には会ってないし、連絡もしてないよ」と言いかけた、その瞬間。低くて力強いエンジン音が、三人のすぐそばで響いた。流れるような美しいラインを描くマイバッハが、静かに杏奈の車の隣へ滑り込んできた。ドアが開く。背筋のすっと伸びた男が足早に近づいてくる。まばらな人混みを見渡したその視線が、一瞬で杏奈を捉えた。数歩分の距離を隔てたまま、杏奈はその視線とぶつかった。複雑な色を湛えた、言いたいことを押し殺したような瞳。杏奈の眉が微かに寄る。
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第618話

言い終わる頃には、小春の目がじわりと赤くなっていた。声が、泣き出しそうに震えている。その場の空気が、しんみりと重く沈んだ。しかし円香はお構いなしだった。ぱっと口を開いて、その重い空気をぶち破った。「それは無理ね」「なんで?」小春がうるうるした目で見上げる。円香は手をひらひらさせながら、少し意地悪な笑顔で言った。「だって、あんたのパパの顔を見たら、平手打ちを二発くらい食らわせたくなるのよ。吉川のえらい社長様が豚みたいに腫れ上がった顔で会社を歩き回っても構わないっていうなら、話は別だけど」最後の一言は、明らかにこちらへ歩いてくる男に向けられたものだった。蒼介の足がほんの一瞬、止まりかけた。しかしすぐに元のペースに戻り、表情一つ変えずに近づいてくる。まるで何も聞こえなかったかのように。「吉川社長って毎日こんなに暇なわけ?会社はもうどうでもいいの?」目の前に立つなり、円香の皮肉が直撃した。容赦がない。蒼介はちらりと円香を一瞥した。「余計なお世話だ」円香は口をへの字にした。「誰が世話なんか焼くものか」そう言いながら、腕の中の小春を蒼介に向かって差し出した。「自分の子供でしょ。自分で抱きなさいよ」小春を受け取る際、蒼介の視線がさりげなく杏奈へ流れた。当の杏奈は何も感じていないかのように、顔に何ひとつ感情を浮かべていない。杏奈の最高の代弁者として、円香がが、きっぱりと告げた。「はい、お子さんと無事に合流できたことだし、私たちはこれで」「待って、ママ……!」小春が慌てて呼んだ。瞳に懇願の色が宿っている。「ダメダメ。ママって言っても、パパって言っても、無駄よ」円香は取り合わずに、杏奈の腕を引いて踵を返した。正直なところ、子供だけなら一緒に食事くらい付き合ってやっても構わない。でもこのろくでなしが来た以上、食事の最中に気分が悪くなる未来が目に見えていた。しかし二、三歩進んだところで、背後から蒼介の低い声が届き、二人は思わず足を止めた。「藤本家について、そして紗里についての調査が、ほぼ終わった。興味があれば、食事でもしながら話せる。店は予約してある」二人の足が、同時に止まった。認めたくはないが、その話題だけは気にならないわけにはいかなかったのだ。「どうする?」円香が小声で杏奈の意向を探る。杏奈
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第619話

二人の遠慮のない皮肉を浴びても、蒼介は顔色一つ変えなかった。棘のある言葉も、どこ吹く風とばかりに受け流されるだけだ。前を向いたまま、静かに、しかしぶれることなく言った。「目的さえ達成されれば、過程も手段もどうでもいいことだ」ここまで言われては、杏奈と円香もそれ以上言葉を重ねるだけ無駄だと悟った。「じゃあ、行きましょう」「ああ」蒼介は手際よく運転席へ収まり、エンジンを静かにかける。車が滑るように前へ出た。円香がハンドルを握り、杏奈を乗せて、適度な間隔を保ちながら後に続く。流れる街の灯りが時折車内を照らす中、二人の間には重たい沈黙が満ちている。円香はそっと唇を引き結び、しばらく迷ってから口を開いた。「杏奈……あの人、あなたに対して絶対に何か企んでると思う」杏奈は変わらず窓の外を見ていた。表情に波は立っていない。円香に言われるまでもなく、とっくに気づいていた。声は羽根のように軽かった。しかしその奥には、揺るぎない静けさがあった。「かつて何があったとしても、もう終わったことよ。私はこれから先だけを見て生きていくわ」円香への返事でもあり、自分自身への誓いでもあるような一言だった。円香は張り詰めていた肩をすっと下ろし、小さな声で言った。「そう思えてるなら、安心した」「心配しなくて大丈夫よ」杏奈は親友の方へ顔を向けて、穏やかに笑った。「何をすべきで、何をすべきでないか、ちゃんとわかってるから」円香はわざとらしく眉を吊り上げた。「かつてのあなたが重度の恋愛脳だったから、余計に気を遣わなきゃいけないんでしょ。女が一番大事にすべきなのは、自分自身を成長させることよ。未来を男に委ねたりしちゃダメ。自分が優れた人間になってこそ、それが本当に頼れる財産になるのんだから」杏奈は少し目を見開いた。声に驚きと称賛が混じる。「円香様からそんな深い言葉が聞けるとは思わなかったわ」「当然でしょ」円香はすまして顎を上げた。「私、名言メーカーだからね」笑い合っているうちに、前の車が路肩へ静かに停車した。目の前には、重厚感のある高級レストランが店を構えている。円香が慣れた手つきで車を止めると、ドアの外にはすでに、大人と子どもの人影が立っているのが見えた。洗練されたスーツに身を包んだ男と、小綺麗なワンピース姿の女の子。まるで
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第620話

甘えた呼び声が続くものだから、通りかかった人たちの視線が自然と集まってきた。子供連れの親たちが羨ましそうに目を向け、誰かが小声で囁いた。「あの子、なんて素直なのかしら。うちの子もあんなに可愛かったらねえ」しかし、羨望の眼差しを一身に浴びている杏奈は、眉一つ動かさなかった。表情は凪いだ湖面のように、静かで動かない。人の悲しみも喜びも、互いには届かないものだ。傍目には温かい親子の情景に見えても、今の杏奈の心には騒がしさと、言いようのない疲労感、そして疎外感がじわりと滲んでいた。「はいはい」円香が敏感に空気を読んで、すっとそばに割り込んだ。にこやかな顔で、まだぺちゃくちゃと喋り続ける小春を自分の側へと引き寄せる。「円香おばさんと一緒に行こっか。キャンディ持ってきてるよ」一瞬でもママの関心を引きたい小春は断らず、ぱっと目を輝かせてこくりと頷いた。「うん……!」「いい子ね」円香は柔らかく頭を撫でて、温かい手でしっかりと小さな手を握り、先に店の入り口へと向かった。二人が先を歩き、自然な流れで杏奈と蒼介が後ろに並ぶ形になった。一歩ほどの間を空けて、微妙な雰囲気の中、二人の足音だけが静かに続く。「こういう光景も」低い声が不意に沈黙を破った。相手を試すような響きが混じっていた。「悪くはないだろう」杏奈は微かに眉を寄せて、いつの間にか横に並んでいた蒼介を見た。声は淡々としている。「何が言いたいの?」蒼介は僅かに首を傾けて、杏奈の横顔に複雑な目を向けた。その奥に、杏奈には読み解けない暗い情念が渦巻いている。「家族が揃い、母と娘が仲良く過ごす。こういう安定が目の前にあるのに、なんで拒む?」声が少し低くなった。どこか宥めるような、誘い込むような響きがある。「頷きさえすれば、すべては本来あるべき軌道に戻るのに」杏奈は即座に、その言外の意味を理解した。唇の端に、静かな、しかしはっきりとした皮肉な笑みが浮かぶ。口が開きかけた。けれど、結局何も言わなかった。一度ひびが入ったものは、元には戻らない。言葉を重ねたところで、事実の前では何の意味もないのだ。「ここまでにしましょう」それだけ短く言い置いて、杏奈は蒼介から視線を外し、足を速めた。振り返って待っている円香のそばへ、迷いなく向かっていく。杏奈は振り返らな
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