All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

でも、何かしなければならない。今すぐ動かなければ!杏奈は壁に手をつき、一歩、また一歩と、ゆっくりではあるが確かな意志を宿した足取りで、医師の診察室へと向かっていった…………数日後、三浦家にはめずらしく穏やかな日々が続いていた。あれほど濱海市で水面下に渦巻いていた不穏な気配も、まるで最初から存在しなかったかのように息をひそめ、世界はかりそめの静けさを取り戻したかに見えた。杏奈も、この数日はずいぶん落ち着いて過ごしていた。会社には顔を出さず、外の喧騒からひとまず遠ざかり、ほとんどの時間を家の中で過ごした。恵理子と他愛もないおしゃべりをしながら散歩に出かけたり、隆正と将棋を指しながらお茶を楽しんだり――久しく忘れていた、あたたかな家族の時間をゆっくりと味わっていた。だが、嵐の前の静けさというものは、いつだって長くは続かない。その日の午後、円香が息を弾ませて帰ってきた。いつもはおどけた顔に、めったに見せない真剣な色が宿っている。花を生けていた杏奈を見つけるなり、円香はまっすぐに近づいてきた。次の瞬間、その一言が、杏奈の心に暗い影を落とした。「杏奈、藤本家が動いたよ!」表向きは穏やかな日々を装っていたとはいえ、杏奈は彼らへの警戒を一度として緩めたことはなかった。凄腕の冴を密かに監視役として送り込んでいたのはもちろん、円香を通じて一流の探偵チームを大金で雇い、主要人物を二十四時間体制で追わせていた。紗里と達也が水面下でいったい何を企んでいるのか――それを白日の下に晒すつもりだった。円香の言葉を耳にした瞬間、杏奈の手の中のハサミがぴたりと止まった。その表情が、すっと引き締まる。「誰が?藤本達也がとうとう動いたの?」だが円香は首を横に振り、どこか腑に落ちないように言った。「違うわ。桐島佐弓よ」「探偵からの最新報告によると、今日の午後、佐弓がこっそり紗里と会ったみたい。会い終えたあと、佐弓は自ら、今まで見たこともない素性の知れない連中を数名引き連れて、車二台で郊外へ向かったって。どう考えても怪しいわ」「郊外……?」杏奈の眉がきつく寄った。胸の奥から、じわじわと嫌な予感がこみ上げてくる。「また何か企んでるの?まさか……また人殺しだったり……?」「今のところ詳細はわからないわ」と、円香の顔にも緊張が走った
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第602話

直後、スマホから乱れた足音が激しく流れ込んできた。茂みを勢いよく掻き分ける音、そして恐怖で裏返った探偵の悲鳴が続く。「まずい、バレた!円香さん、見つかりました!吉川家の……桐島佐弓は吉川家を狙って――うぐっ!」鈍い衝撃音と苦悶の声が重なり、スマホの向こうで激しい物音がした。探偵は最後の力を振り絞るように叫んだ。「吉川家にすぐ知らせてください、警戒するように伝えて!でないと……!!」ツー、ツー、ツー。強制的に切られた無機質な切断音が、静寂の中に突き刺さった。まるで鈍い刃で、すべての情報をぷつりと断ち切られたかのように。リビングに、重苦しい沈黙が降りた。杏奈と円香は顔を見合わせた。二人の表情には、同じように驚愕と困惑の色が浮かんでいる。しばらく、言葉が出てこなかった。「……今、なんて言ってた?」杏奈は思わず呟いた。「吉川家に関わる話だ、って……吉川家にすぐ知らせろって」円香が、途切れ途切れだった言葉を懸命に手繰り寄せるように反芻する。「じゃあ、佐弓はいったい吉川家に何を企んでいるの……?」激しい不安が、杏奈の心をぎゅっと締めつけた。円香はといえば、完全に言葉を失っていた。内心では、あの探偵の胸ぐらを掴んで問い詰めたい衝動に駆られていた。――一番肝心なことを言ってから通信を切れよ、と。中途半端すぎて、これじゃあ何もわからないじゃないか。「とにかく!」杏奈は強くこめかみを押さえ、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。「『吉川家』と『警戒』――この二つのキーワードが全てよ。万が一ということもある。今すぐ政夫さんに連絡しないと!」杏奈は素早く判断を下した。「あの探偵については……すぐ森口警部に連絡して位置情報を送るわ。警察が動いてくれれば、まだ間に合うかもしれない」多少詰めが甘いところはあったが、もとはといえば自分たちの依頼で危険に飛び込んだのだ。見捨てるわけにはいかない。「わかった!」円香がすぐさま頷く。二人は素早く役割を分担した。杏奈は大地に電話をかけ、要点だけを手短に伝えて位置情報とともに救助を要請した。円香は吉川の本宅に連絡し、聞き取れた断片的な警告を一言一句、漏らさず政夫に伝えた。どうにか手配を終え、ようやく一息つこうとした瞬間、テーブルの上のスマホが何の前触れもなく鳴り響いた。その
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第603話

「おお、杏奈じゃないか!俺のかわいい娘よ!最近どうだい?ええと、今日は……時間あるかな?」杏奈と円香は顔を見合わせた。お互いの目に、同じ嫌悪と警戒が滲み出ている。――白々しいにもほどがある。杏奈は容赦なく、冷ややかに言い放った。「藤本達也。そういう虫酸が走るような寝言を並べるだけなら切るわよ。私の時間は貴重なの。茶番に付き合う暇はないわ」「お、お前な……」達也は明らかに一瞬詰まった。声に苛立ちがにじんだが、すぐに押さえ込み、また例の歪んだ「慈愛」の口調に戻る。「まったく、父親に対してまだそんなによそよそしいのか。お父さんはね、本当に反省してるんだよ、ずっと。今まで散々お前たち母娘に辛い思いをさせてきたって。だから、一度家に帰っておいで。家族みんなで食卓を囲んで、お父さん、ちゃんと埋め合わせをしたいんだ。今まで与えられなかった分、父親として少しでも――」「父親として?」杏奈の唇が、冷たい弧を描いた。まるで笑えない冗談を聞いたかのように。「その言葉があなたの口から出るなんて、聞いた中で一番悪趣味な冗談ね。十数年遅れた父親の愛情を今さら振りかざして、恥ずかしくないの?」しかし達也は、まるで聞こえないふりをして続けた。声に、今度は滲むような嗚咽まで混じり始める。「……っ!杏奈ぁ……お父さんは本当に悔いてるんだ。本当に、取り返したいと思ってる!お前が佐弓と紗里を嫌ってるのはわかってる。だからお父さん、あの二人を藤本家から追い出すことにした。家の財産も継承権も、全部お前のものだ!お父さんの全てはお前のためにある!」言葉を重ねるにつれ、達也の「感情」はどんどん高ぶっていく。泣き崩れんばかりの声で、後悔と懺悔を滔々と語り続けた。「お前には想像もできないだろうが、お父さんがどれだけの夜を眠れずに悔やみ続けてきたか。昔のことを思い出すたび、胸が締め付けられて……もし時間が巻き戻せるなら、この命を賭けてでも、お前たち母娘を守った。絶対に悲しい思いなんてさせなかった。本当だよ、杏奈……」情感豊かな、涙ながらのこの一人芝居。事情を知らない人間が聞けば、本当に心を動かされてしまうかもしれない。生憎、相手は彼の本性を骨の髄まで知り尽くしている杏奈だった。――アカデミー賞でも贈ってやろうか。杏奈は内心で鼻で笑いつつも、
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第604話

達也は込み上げてくる笑みをどうにか堪えながら、声には引き続き偽りの嗚咽を漏らした。今度はそこに、裏切られた男の悲壮感まで加えてみせる。「なんでって?全部、佐弓のせいだよ!あの女、よりにもよって……浮気しやがった。俺がこれまであの女に何を与えてきたと思う?食わせて、着せて、贅沢な暮らしをさせてやったのに。どうしてそんな真似ができるんだ!どうして俺にそんな仕打ちができるんだ!!」同情を引き出そうと、男女のもつれに話を誘導しようとする魂胆は見え見えだった。杏奈はそんな愚痴には一切興味がなかった。さっさと話を遮り、本題に切り込む。「それで、紗里は?確か、あなたの目に入れても痛くない大事な娘のはずよね。佐弓が浮気をしたとして、紗里には関係ないでしょう。彼女まで切り捨てるの?」達也はとうに言い訳を用意していた。悔しそうな声を出す。「あの忌々しいガキの話はするな!あいつは母親がやってきた醜い真似をとっくに知っていて、黙って俺を馬鹿にして騙し続けたんだ。あんなに可愛がってやったのに、その恩をこんな形で返しやがって。杏奈、お父さんはもう完全に愛想が尽きた。あの二人の本性が、ようやく見えたよ」そして達也はすぐさま哀れな父親の顔に切り替え、声をか細く、頼りなげに揺らしてみせた。「お父さんには今、何もない……誰にも見捨てられて……残ったのはお前だけだ。そして、妙子へのやり場のない後悔だけだよ。杏奈、かわいい娘よ……お父さんを、許してもらえるか?」最後の一言は、地を這うような、卑屈なまでの懇願に変わっていた。しかし、母の名がその口から出た瞬間、杏奈の喉元にむかつきが込み上げてきた。――あなたに、お母さんの名前を口にする資格なんてない。「……いいわよ」その即答に、電話の向こうの達也が絶句した。傍らで身構えていた円香まで勢いよく振り向き、目を丸くして杏奈を凝視する。その顔には「正気!?」と書いてあるようだった。「杏奈、あなた……」言いかけた円香だったが、杏奈の唇の端にかすかに浮かんだ、氷のように冷たい笑みを捉えた瞬間、すべてを理解した。――演じているんだ。そう気づくと、円香はすぐに口を閉じた。杏奈が何を狙っているのかは知らないが、全力で援護するだけだ。一方、電話の向こうの達也は驚きから立ち直るなり、一気に歓喜の波に呑まれた。
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第605話

そう言い終えた瞬間、電話の向こうが、しんと静まり返った。スピーカー越しでも、円香には達也の顔が目に浮かぶようだった。きっと今頃、真っ青を通り越して土気色になっているに違いない。さすが杏奈。やるときはやる。鋭い一言で、達也の最も痛いところをえぐってみせた。「お、お前……」達也の声に、かろうじて抑え込んでいた怒りが滲み出た。「それはさすがに要求が過ぎるんじゃないか?俺はお前の父親だぞ!」杏奈の声は、軽く、冷ややかで、何ひとつ動じていなかった。「過ぎる?自分が死に追いやった元妻の位牌の前で土下座して謝るのが、そんなに行き過ぎた要求なの?それが嫌なら、結構よ。あなたの言う『罪悪感』とか『埋め合わせ』とかいうものは――」鼻で笑う気配が漏れた。「佐弓と紗里、あの筋金入りの略奪女母娘にでも取っておきなさいな」そう言い放って、電話を切ろうとした。「待て、切るな!」達也が慌てて声を張り上げた。「そ、それをやれば……それをやれば、本当に許してくれるのか?家に戻って、家業を引き継いでくれるのか?」杏奈はあえて明言を避けた。ただ、静かに、しかし確かな圧をかける。「それはあなたの『誠意』が、どれだけ本物かによるわね」電話の向こうに、数秒の沈黙が降りた。葛藤しているのが生々しく伝わってくる。やがて達也は、大きな決断を下したかのように、歯を食いしばりながら絞り出した。「……わかった。応じる。で、いつ始める?」杏奈の眉がわずかに上がった。――随分と早い。拍子抜けするほどだ。プライドの塊で、自分さえ良ければいいというあの男が、こんなにすんなり折れるとは。これほど素直に折れるのは、達也の異常に高いプライドや自己中心的な性格とかけ離れている。いったいどんな窮地に追い込まれているというのか。これほどの屈辱を呑んでまで、急いで自分を引き込もうとするとは。疑念はいっそう深まったが、杏奈は表情に一切出さなかった。ただ淡々と言う。「こちらから連絡するわ」それだけ言って、相手が何か言う前に、冷たく電話を切った。「もう、最悪!」通話が終わるなり、円香が声を上げた。顔には心配と懸念の色がありありと浮かんでいる。「杏奈、この話は怪しすぎる。あの狸親父が、そんな条件を呑むわけがない。絶対に罠よ、しかも大掛かりなやつ。約束しち
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第606話

そのとき、部屋のドアが静かにノックされ、恵理子の穏やかな声が聞こえてきた。「杏奈、円香。二人して部屋にこもって何をこそこそやってるの?用がないなら、そろそろ出ていらっしゃい、お客様がいらしてるわよ」杏奈はドアを開けた。「おばさん、誰が来たの?」円香も興味津々で顔を覗かせる。「私たちに用がある人?」恵理子は、二人が揃って同じ動きをするのがおかしかったのか、くすりと笑った。「ふふふ、本当に仲がいいわね、この二人は。まるで双子みたいに」ひとしきり笑ってから続ける。「前にお義父さんの誕生会にいらしてた、杉野親子よ。提携について話があるって、リビングで待ってくださってるわ。急ぎの用事がないなら、早く行ってあげなさい。お客様を待たせるのは悪いでしょう」「はい、今すぐ行きます」二人は声を揃えて頷いた。……リビングでは、創大と心愛が並んでソファに座り、隆正と和やかに話していた。杏奈と円香が階段を下りてくると、二人はすっと立ち上がり、丁寧に挨拶した。「三浦さん、円香さん、お邪魔いたします」「杏奈お姉ちゃん、円香お姉ちゃん、こんにちは!」「杉野さん、心愛ちゃん」杏奈と円香も軽く会釈を返す。円香は心愛の頭をくしゃりと撫でた。「おや、可愛い社長様、今日も元気いっぱいね!」ひとしきり挨拶を交わして、それぞれソファに腰を落ち着ける。自然と空気が少し引き締まり、どこか商談めいた雰囲気が漂い始めた。それを察した隆正は、にこにこしながら立ち上がった。「杏奈ちゃん、円香ちゃん、若い人たちの話し合いにじじいが混じるのも野暮だからな。散歩にでも行ってくるよ」恵理子も笑って「皆さんにクッキーでも焼いてくるわ」と言い、二人揃ってリビングをあとにした。年長者たちがいなくなった途端、室内の空気がふっと変わった。どこかひりついた、緊張感のある静けさが、じわじわと四人の間に満ちてくる。円香はあごに手を当て、今日の心愛をじっと観察した。なんとなく、以前とは雰囲気が違う気がする。子どもらしい無邪気さが薄れ、その年齢に似合わないほど落ち着いた佇まいが漂っている。円香が考えを巡らせる間もなく、心愛が背筋をすっと伸ばし、幼さの残る顔に真剣な色を浮かべながら、先に口を開いた。「杏奈お姉ちゃん、以前いただいた提携のご提案について、この二日間、父
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第607話

心愛の瞳に、交渉が思い通りに進みそうだという微かな期待の光が宿りかけた。だがその瞬間、杏奈の言葉の切っ先が鋭く翻った。「ただ――」射抜くような眼差しが、心愛の一見もっともらしい要求の裏に潜む「焦り」を、鋭く見抜いた。「私には、杉野家以外の選択肢もあるのよ。これだけ日が経っても音沙汰がないから、てっきり興味をなくされたのだと思っていたわ。それがまさか、こうしてわざわざ足を運んでくださるとはね」杏奈はわずかに身を乗り出した。室内に静かな重圧が満ちていく。唇の端には、すべてを見透かすような淡い笑みが浮かんでいた。「むしろ、これで確信したわ。この提携をより切実に必要としているのは、杉野家のほうでしょう?」理屈は単純だ。交渉の主導権は、最初から杏奈の手の中にあった。心愛の瞳の奥に、一瞬だけ激しい動揺が走った。杏奈の洞察がこれほどまでに鋭いとは、完全に計算外だったのだろう。実のところ、心愛は濱海市の近況を分析し終えた時点で、拭いようのない焦燥に駆られていた。藤本家はすでに水面下で不気味な布石を打ち、寒川家は外資のアルバートソンズと秘密裏に何らかの取引を交わしている。さらに他の有力一族も、生き残りをかけて結束の動きを見せ始めていた。このまま杉野家が孤立無援を貫けば、真っ先に獲物として食い尽くされかねない。形勢は急を告げている。もはや強気な条件で値を吊り上げている余裕などなかった。心愛が今、喉から手が出るほど欲しているのはただ一つ――一刻も早く、杏奈との提携を成立させることだった。だが、焦れば焦るほど杏奈に余裕を与え、主導権はますます彼女のものになっていく。「最終利益に一割上乗せとなれば、初期試算だけでも数千億規模。しかもそれは、長期にわたって継続する利益よ」杏奈は落ち着いた口調で、しかし一言一言を重く刻み込むように言った。「その対価に見合う何かを、杉野家が今の時点で持ち合わせているというの……?」そこで杏奈は静かに首を振った。言葉は率直だったが、そこには無意味な棘などない。純然たる事実の提示だった。「今の杉野家には、まだそこまでの価値はない。私はそう判断しているわ」差し出した分だけしか、返ってはこない。誠意なきところに、好条件など生まれないのだ。もっとも、心愛もそれは百も承知だった。だからこそ、今日は手ぶ
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第608話

「どうして藤本達也は、これほどの資産を海外に移しているの?」杏奈は顔を上げ、まっすぐに創大を見据えた。しかし、創大は自分には見当もつかないといった様子で、心底困惑したように首を傾げた。その様子に、杏奈は思わず呆れ混じりの溜息をつく。――あなたが調べさせた資料でしょうに。「……はぁ。仕方ないわね、私が説明するわ」心愛の口から、場にそぐわない、妙に老成した溜息が漏れた。心愛が頼りない父をちらりと一瞥し、まるで小さな学者のような口ぶりで分析を始めた。「私の推測では、彼の目的は二つ考えられるわ。一つは、極めて大きな賭けに出ようとしていること。一世一代の大勝負を前に、万が一の敗北に備えて海外に逃げ道を作っておいた」「もう一つは、藤本家がすでに吉川家と決裂しており、その余波でここまで追い詰められた。結果として、身を削ってでも生き延びようとしている」そこで心愛は小さく首を横に振った。「ですが、二番目の可能性は低いでしょうけどね。濱海の財界では周知の事実ですし……吉川社長と紗里さんの関係は、恋人かどうかは別として、単なる知人の域をとうに超えていますから」言い終えてから、目の前に座る人物が誰あろう吉川蒼介の「正式な妻」であることを思い出し、心愛の幼い顔にさっと羞恥の色が広がった。「あっ、杏奈お姉ちゃん、今の言葉はわざとじゃ……」「いいのよ、気にしないで」杏奈はくすりと笑って手を振った。その声には、どこか清々しいほどの冷ややかさが滲んでいる。「子どもらしからぬ心配ね。大丈夫よ、そんな過去のしがらみに、今さら心をかき乱されるほど愚かではないわ」「えっ?」心愛は目を丸くした。これは、事前に調べていた「杏奈像」とはあまりにかけ離れていた。愛に溺れ、どれほど冷遇されても尽くし続ける、筋金入りの恋愛脳……ではなかったのか?どうしてこれほどまでに泰然としているのか。驚きを隠せない顔があまりに正直で、杏奈は思わず口元を緩めた。思い込みというものは、ときに真実を曇らせるものだ。「まあ、どうせそのうち知ることになるわ。隠すようなことでもないしね」杏奈は静かに、しかしその場の空気をぴんと張り詰めさせるような一言を告げた。「蒼介とは離婚することにしたわ。あと一ヶ月ほどで正式に公表されるはずよ」「本当に!?」
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第609話

仕事の話に戻ると、心愛は即座に余計な感情を押し殺し、その表情を引き締めた。「杏奈お姉ちゃん。この『手土産』があれば、杉野家の誠意は十分に証明できたと考えていいかな?」杏奈は満足げに頷いた。声のトーンも、先ほどより幾分か和らいでいる。「ええ。ただ、提携の具体的な条件については、ルミエールに出向いて私の先輩と直接詰めてもらえるかしら」「わかりました」父娘は声を揃えて快諾した。話がまとまると、二人はそれ以上長居をすることはなかった。立ち上がって別れを告げようとした際、創大は何かを思い出したように足を止め、振り返った。その顔には、言い出しにくそうな躊躇いの色が浮かんでいる。「三浦さん、もう一つだけ。断片的な情報ではあるのですが……藤本家が、海外のある組織と何らかの繋がりを持っているのではないか、という噂を耳にしました」少し言い淀んでから、慎重に付け加える。「確証はありませんし、情報の確度もまだ低いです。あくまでご参考までに」「ありがとうございます。参考にさせていただきますわ」杏奈は真剣な眼差しで頷いた。「いえ、とんでもないです」創大が人の良さそうな笑みを浮かべ、さらに言葉を重ねようとしたところで、心愛に袖をぐいと強く引っ張られた。車に乗り込むなり、心愛は勢いよく振り返って父親を問い詰めた。「ねえパパ、正直に言って。杏奈お姉ちゃんのこと、気になってるでしょう」創大の笑みがぴたりと固まった。耳の先まで、見る間に赤くなっていく。「……そんなに、顔に出ていたかな?」鼻の頭を掻きながら、心底きまり悪そうに白状した。心愛はあからさまに白目を剥いてみせた。「わかるに決まってるじゃない。さっきの目、うちのマロンが尻尾を振りながら撫でてもらうのを待ってる時と同じ顔だったわよ。全部顔に書いてあったわ」娘に容赦なく見抜かれた創大は、開き直ることにしたらしい。「だったらなんだ。彼女が離婚すれば自由の身だ。誰を好きになろうと、誰に迷惑をかけているわけでもないだろう!」心愛はがっくりと額に手を当てた。「聞いてなかったの?あの人はもう新しい家庭を作る気はないって、はっきり言ってたじゃない。仕事一本で生きていくって」しかし、創大はどこか自信満々な様子でへらりと笑った。「人の心なんて、どう変わるか分か
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第610話

「もしもし、ママ?明日、時間ある?」電話の向こうから、あどけない甘えるような声が聞こえてきた。どこかおずおずとした期待を滲ませている。円香は軽く咳払いした。「あー、あんたのママはお風呂に入ってるよ。何か用があるなら、この円香おばさんに言ってもいいよ」一瞬の沈黙。小春はすぐに声の主に気づいたらしく、喉元まで出かかった「ひどいおばさん」という言葉をなぜかぐっと飲み込み、ぎこちなく言い直した。「……円香おばさん?なんで、うちのママのとこにいるの?」「二、三日泊まりにきてんの。で、用件は?遠回しはいいから、さっさと言いなさい」円香はベッドにだらりと寝そべったまま、寝る前の暇つぶし程度に付き合ってやることにした。小春は向こうでしばらく迷っているようだった。やがて意を決したように、たどたどしく切り出す。「あの……明日、ママに学校まで迎えに来てほしいな」円香は鼻で笑い飛ばしそうになるのをどうにかこらえた。この子、寝言でも言ってるの?代わりに冷たく断ろうとした瞬間、小春がすかさず付け加えた。その声は、普段の我が儘な様子とは違う、妙な真剣さを帯びていた。「だって……すごく大事な話があって、ママに直接言わないといけないの!」はじめはたいして気にも留めなかった円香だったが、ふと引っかかるところがあった。この子は紗里と、まるで本物の親子のようにべったりだ。何か紗里の企みを、うっかり耳にしている可能性はないか?「今、電話じゃ話せないの?」「無理!」小春の即答は、子どもらしい頑固さと、どこか謎めいた雰囲気を滲ませていた。「絶対、ママに会って直接言わないとダメなの!」円香は目を細めた。何かありそうだ。単純な話じゃないかもしれない。少し考えてから、はっきりとは確約しないことにした。「わかった。ママが出てきたら伝えとく。ただ、明日迎えに行くかどうかは保証できないからね」「うん!ありがとう、円香おばさん!」小春の声に、ほっとしたような明るさが戻ってきた。しかも珍しく、きちんとお礼まで言っている。――あら、このちびっこ。今日は素直じゃないの。珍しいこともあるものだ。ガチャッ。そのとき、浴室のドアが開いた。杏奈が濡れた髪をタオルで拭きながら出てくる。「円香、上がったわよ。早く入りなさい」「ちょっと待って
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