All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 631 - Chapter 640

645 Chapters

第631話

どこ吹く風といった様子の、冷淡な一言だった。蒼介の眉がいっそうきつく寄った。念を押すように言葉を継いだ。「二度と、お前のもとへは近づかせない」「そう」また同じ、変わらない返事が返ってきた。ただ聞き流すように、完全な無関心で。蒼介が必死に取り戻そうとして、言い訳しようとして、いっそ懺悔しようとした言葉は、そのたびに、「そう」という短い一言に容赦なく押し戻された。七年間に及ぶ無関心と傷が、愛情も期待も、すっかりすり減らしてしまっていた。そしてそれはまた、自分が杏奈のことをいかに何も知らなかったかを、蒼介に突きつけていた。何が一番好きな料理か。どんな花が好きか。それすら、言葉にできなかった。絶望的な隔絶と無力感が蒼介を包み込んだ。自分が築き上げてきた冷たいビジネスの帝国の外で、こんなにも途方に暮れる惨めな自分を、彼は初めて知った。道中、言葉はなかった。重い沈黙が分厚いガラスの壁となって、二人を完全に別々の世界へと隔てていた。吉川家の別邸へ車が入り、杏奈はようやく口を開いた。車に乗ってから、最初の言葉だった。静かで、明確だった。「ゲストルームを用意してください」相談ではなく、有無を言わさぬ決定だった。蒼介の唇が、きつく引き結ばれた。杏奈の、静かで、しかし一切の妥協を許さない眼差しの前で、二人の寝室へ戻らせようとする考えが音を立てて砕け散った。「……わかった。安達に頼む」それだけ答えた。声が微かに掠れていた。「小春も一緒にゲストルームで寝る!」大人の静かな攻防など何も知らない小春が、本能のままに叫んだ。やっと掴めた温もりを、一秒たりとも手放したくないという子供の切実な声だった。蒼介は視線を落として、娘の期待に輝く顔を見た。そして、さりげなく杏奈の方へ目を流した。彼女の表情は穏やかで、苛立ちや拒絶の気配もなかった。その様子を見て、彼はどういうわけか胸のつかえがふっと下りるのを感じた。その瞬間、声のトーンには自分でも気づかないほど、顔色をうかがうような必死さが混じる。彼は小春に向かって、言い聞かせるように語りかけた。「わかった、いい子にするんだよ。ママのことをしっかり頼んだよ」小春はぐっと小さな拳を握り、大役を任されたように、真剣な顔で胸を張った。「任せて!絶対ちゃんとするから!」そして自
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第632話

安達が温かいミルクを手に部屋へ入ってきた。いつもの丁寧な表情の中に、今日はいつもより少しだけ戸惑いと心配の色が滲んでいた。「奥……いえ、三浦様」咄嗟に言い直した安達は、手をやや落ち着きなく組み合わせながら続けた。「旦那様からお電話がございまして、会社で急ぎの用件が入ったとのことで、お戻りが遅くなるそうです。お待ちにならず、先にお休みになってください、とのことでした」そこで言葉を止めて、安達は少し躊躇った。その顔に、言いかけて飲み込んだ何かが浮かんでいる。何か諭したいことがあるのは明らかだった。しかし立場がある。吉川家の人間として、口にできることとできないことがあるのだ。杏奈は人一倍鋭い。安達のどこか落ち着かない様子を、彼女が見逃すはずもなかった。ミルクを受け取り、柔らかく微笑んだ。温かみはあるものの、どこか他人行儀な笑みだった。先回りするように、穏やかに告げる。「安達さん、心配しなくて大丈夫よ。私はしばらく泊まるだけで、すぐに出ていくから」その言葉は、安達を安堵させたようだった。「はい、そうですか……それはよかったです……」とはっきりと表情を和らげ、何度も頷いた。もう少し何か伝えたそうにしていたが、言葉を組み立てるより先に、ベッドの端でぶらぶらと足を揺らしていた小春が突然飛び降り、小鳥のように駆け寄ってきて、安達の服の端を掴んで洗面所へと引っ張り始めた。「安達さん、安達さん、早くママのお風呂を用意して!いい香りの入浴剤を入れてね!ママ疲れてるから、ゆっくり浸かってもらいたいの!」「あらあら、お嬢様、急かさないでください、転んだら大変ですよ!」引っ張られながら安達がよろめき、言いかけていた言葉はきれいに飲み込まれて、そのまま洗面所へと引きずられていった。二人の姿がドアの向こうへ消えるのを見送って、杏奈の口元の薄い笑みが、ゆっくりと消えた。安達の心配は、よくわかる。でも、同じ過ちを繰り返すほど、愚かではない。自分は誰よりもそれをわかっていた。……夜の闇は墨を流したように深く、静かだった。しかし濱海市の他の区域と違い、今夜の寒川家本宅だけは、煌々と灯りがともり、まるで昼間のようだった。重厚な鉄の門の外には、いつもよりはるかに多い警備の人間が並んでいる。黒い制服の護衛たちが厳しい表情で等間隔
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第633話

今この瞬間も、杏奈は自分のために蒼介のところで奔走してくれている。もしかしたら、嫌な思いまでさせているかもしれない。そう思うと、円香の胸が焦りからじりじりと焼かれるようだった。とにかく早く翔真に直接会い、はっきりと白黒をつけなければ。「中に潜り込めさえすれば、本当に彼に会えるの?居場所が変わってないって、確かなのよね?」まだ半信半疑の円香に対し、男は何も答えなかった。代わりに戦術用のウエストポーチをごそごそと漁り、丁寧に折り畳まれた一枚の紙を引っ張り出す。広げてみれば驚くほど大判で、色とりどりのマーカーで書き込まれた歪な矢印や注釈が、紙面をびっしりと埋め尽くしていた。——寒川家本宅の詳細な見取り図である。「鈴木様、こちらをご覧ください。内部情報と最新の偵察結果をもとに作成した、最新の侵入ルート図でございます。まず、この赤い点線に沿って……」男が言い終わるより早く、円香はその前衛芸術のような地図をひったくった。悠長に説明を聞いている余裕などない。大きく息を吸い込み、腹を括る。見栄も外聞もすべてかなぐり捨て、地面に這いつくばった。そのまま躊躇いなく尻を高く突き上げると、しなやかな猫のごとく、すばしこく犬用の穴をすり抜けた。ガサッ!立ち上がった、まさにその瞬間だった。服に絡みついた草の欠片を払う暇も、地図を広げて確認する余裕もない。眩いサーチライトの光に、四方八方から一斉に照らし出された。それは舞台のスポットライトのように正確に円香一人を捉え、逃げ場も隠れ場所も、容赦なく根こそぎ奪い去った。……なによ、これ。円香は言葉を失った。今すぐ蒼介に電話して苦情を叩きつけたい。いったい何なのよ、この役立たずのポンコツ案内は!ザッ、ザッ、ザッ!切迫した足音の波が、怒涛のように四方から押し寄せてくる。黒い制服に身を包み、ゴム警棒を手にした十数名のボディーガードが、みるみるうちに円香を包囲した。表情一つ変えない屈強な男たちが醸し出す、凍りつくような威圧感。その輪の真ん中に立たされた円香は、猛獣の群れに放り込まれた子羊そのものだった。「み、みなさん……っ」円香は素早く両手を高々と掲げた。強烈な光に晒されながらも、精一杯の無実と無害をアピールする笑顔を顔に貼りつけ、声のトーンまで数段柔らかく落としてみせる。「誤解です、絶
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第634話

直接彼女の平手打ちを食らったことは一度もない。だが、目の前で猫のように毛を逆立てる円香を見ていると、翔真はなぜか両頬がじんじんと痛み始めるような気がして、条件反射的に顔を強張らせた。「き、君……なんで来たんだ?」無意識にこめかみを押さえる彼の声には、驚きと——自分でも気づいていない、微かな苦悩と困惑が滲んでいた。円香はぷいと唇を尖らせた。ここに至るまでの心細さと、犬用の穴を潜り抜けた屈辱を思い出した瞬間、目の縁がじんわりと赤くなり、声に微かな震えが混じった。「私が来なかったら、あんたは本当に、素直にあのアレーナとかいう人と結婚するつもりだったの!?私のことが好きって、あんなに真剣に言っておいて、どうしてあっさりと別の人との結婚を受け入れられるわけ?杏奈の言う通り、最初から私の気持ちを弄んでたってこと!?ただの暇つぶしだったの!?」悔しさと怒り、そして不安が入り混じった非難の言葉が、まるで雹のように容赦なく降り注ぐ。翔真はそれに気圧され、しばらく言葉を失った。「違う……円香、ちょっと待ってくれ。落ち着いて」彼女を、そして何より自分自身をなだめようとするが、思考がうまくまとまらず、口元が情けなく引きつってしまう。「君だって……僕の気持ちをちゃんと受け入れてくれたわけじゃないだろ?僕たち、まだそういう関係になったわけじゃない。それに、どうして僕が気持ちを弄んだことになるんだ?そもそも……正式に付き合ってもないのに、僕に『弄ぶ資格』なんてあるのか?」この切迫した空気を和らげようと、翔真はぎこちない冗談を口にしてみた。しかし円香は、その言葉の中から一番の地雷を瞬時に嗅ぎつけ、目を丸くして怒りの炎をさらに燃え上がらせた。「ちょっと待って!翔真、あんた本当に私のこと弄んでたわけ!?最低!」言い放つや否や、翔真が驚く間も与えず、円香はすかさず一歩踏み込んだ。パリッとアイロンの効いた彼のシャツの襟を両手で乱暴に掴み、力任せにぐいと引き寄せる。次の瞬間、完全に不意を突かれた翔真の端整な顔が無理やり引き下げられ、円香の鼻先が触れ合うほどに近づいた。互いの息がかかるほどの距離。怒りのせいか少し乱れた彼女の温かな吐息が肌をかすめ、髪の毛から漂う、自分の使うコロンとはまるで違う、爽やかでほんのり甘い香りがわかるほど……近い。翔真の心臓
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第635話

額と額をくっつけたまま、互いの鼻先が触れ、熱い吐息が溶け合う。先ほどの激しいキスのせいで低く掠れた彼の声は、しかし、揺るぎない確かさを帯びていた。「これが、僕の答えだ……わかったか?」円香は小さく息をつきながら、無意識に親指で、少し腫れた自分の唇をそっと拭った。たった今起きた出来事をようやく飲み込んだ瞬間、彼女の表情は嵐の後の晴天のように一変した。さっきまでの怒りも悔しさも跡形もなく吹き飛び、代わって満面の得意げな笑みが浮かぶ。まるで夏の太陽みたいに眩しく、いっそ清々しいほど屈託のない笑顔だった。「ふんっ、話がわかるじゃない!反応が遅かったら承知しなかったんだから!」その笑顔を見た瞬間、翔真の胸の奥が、甘く解けた。そのまま体の力を抜き、体重を彼女に預けるように寄りかかる。まるで目当てのものを手に入れた、妖艶な男のように薄い笑みを浮かべ、流し目にはあからさまな色気が滲んでいた。「じゃあもし……僕の反応が遅かったり、答えが気に入らなかったりしたら、どうするつもりだったんだ?」わざとらしく語尾を引き延ばし、明らかにからかうような、それでいてどこか期待を含んだ瞳で彼女を見つめる。パシッ——!言い終わるか終わらないかのうちに、静かな夜の空気の中へ、乾いた、それでいて何とも艶っぽい音が弾けた。円香の手が容赦なく、翔真の引き締まった尻に一発お見舞いしたのだ。その予想外の刺激に、翔真は言いかけた台詞を喉の奥で完全に詰まらせた。全身に電流が走ったかのように固まり、端整な顔に奇妙な赤みがぱっと広がる。呼吸までが乱れた。まさか本当にここで——信じられない。声が裏返りそうなほど震え、羞恥と狼狽、そして説明のつかない何かがごちゃ混ぜになって彼を襲う。「ま、円香!君……見られてるんだぞ」でも……悪くない、かも?そう言われて、円香もようやく自分が場をわきまえていなかったことに気がついた。顔を上げ、鋭い視線をサーチライトのように周囲へ走らせる。すると、先ほどまで忠実に背景の役割を果たしていたボディーガードたちが、今や懸命にポーカーフェイスを保とうとしながら、必死に口元を引き締めていた。しかし、こらえきれずにピクピクと上がる口角と、「すごい」「神展開」「社長、ずいぶん刺激的だな」と全力で語りかけてくる瞳が、彼らの胸の内で燃え盛る
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第636話

程なくして、犬用の穴のそばには円香と翔真の二人だけが残された。円香は疑わしげに翔真をじろじろと観察した。「正直に言いなさい。これ、どういうこと?あんたの家の警備ってそんなにザルなの?犬用の穴一つ見張れないなんて」翔真は軽く笑い、目の奥にいたずらっぽく狡い光をちらりと宿らせた。「これはただの穴じゃない。子どもの頃、こっそり抜け出して遊ぶために、わざわざ人に頼んで作らせた隠し通路だよ。うちのボディーガードの大半も、その存在を知らない」まだ半信半疑の顔をしている円香に対し、翔真はもう隠し立てするのをやめた。自分が軟禁されていること、そして水面下で密かに反撃の準備を進めていることを、手短に話し始める。「おじいさまは、僕を閉じ込めさえすれば言いなりにできると踏んでいるんだろうが……随分と甘く見られたもんだ」声は淡々としているのに、その言葉には有無を言わせない確固たる自信が滲んでいた。「この数年で、寒川家の内部にはかなりの数の駒を仕込んである。あとは頃合いを見て、一気に網を狭めるだけだ」そして、こう締めくくった。「大まかにはそういうことだ。後続の手もすでに打ってある。そう時間がかからないうちに、今回の縁談は完全に白紙にできると思う」ところが円香は首を横に振り、瞳に鋭い光を宿らせた。「ダメよ。今すぐ解決しようとしないで」「え?」翔真が片眉を上げる。「なんでだ?まさか本当に、僕が別の女と結婚するのを見たいわけじゃないよな?」円香はぎろりと彼を一睨みしてから、自分のほうの事情——杏奈と蒼介が交わした取引の話、そして紗里への対抗策——をすべて打ち明けた。互いに情報を出し合ってみると、二つの計画が意外なほど完璧に噛み合うことがわかった。「あんたはしばらくアレーナと上手く付き合っているふりをして、アルバートソンズの注意を引きつけておいて。その間にこっちは力を集中させて、紗里という火種を始末する」円香は刃のような冷たい目つきで言った。「紗里という内通者を排除できれば、アルバートソンズは片腕をもがれたも同然よ。そうなれば、あいつを仕留めるのもずっと楽になるわ」翔真は感心したように彼女を見つめた。「さすがは鈴木家のお嬢さん、理にかなった見事な分析だ。僕も同じことを考えていた。ただ……」横目でちらりと円香を窺いなが
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第637話

ドンッ!くぐもった音とともに、翔真が仰向けに倒れ込んだ。さすがに円香の顔から血の気が引く。「翔真!大丈夫!?まだ結婚もしてないのに、私を未亡人にする気!?」慌てて屈み込み、わたわたと彼の様子を確認する。翔真はあまりの展開に吹き出してしまい、胸を押さえながら起き上がった。「安心しろ。未来の君の旦那様は、随分と頑丈にできてる。そう簡単には死なないさ」痛む胸をさすりながら、からかうように言う。「それにしてもすごい力だな。結婚してからそれで尻に敷かれたら、たまったもんじゃない」笑いながら円香に引っ張り起こされ、二人は連れ立って屋敷の中へ入っていった。「未来の義母」である由里子への挨拶を済ませたあと、書斎に落ち着いて今後の相談を始める。由里子は深夜の円香の訪問にも特に驚いた様子を見せず、ただ意味ありげに二人をひとしきり眺めてから、気を利かせてそっと席を外してくれた。「明日にでもアレーナさんに連絡を取って、アルバートソンズの具体的な計画を探ってみる。ただ、三浦さんのほうが……」翔真は言葉を切り、問いかけるような視線を円香に向けた。円香は頭を抱えた。計画に変更が生じたということは、杏奈がもうしばらく蒼介のもとに留まらなければならないということだ。それがどれほど辛いことか、想像するだけで胸が痛んだ。杏奈の気性を誰よりもよく知る円香には、彼と同じ空間で過ごす一分一秒が、彼女にとって拷問同然だということが手に取るようにわかっていた。「何か良い手はないの?」翔真なら何か妙案があるのではないかと願いながら、円香は尋ねた。「吉川蒼介のほうに直接接触して、この件に巻き込んでみるのはどうだろう。奴が忙しくなれば、自然と三浦さんにかまっている暇もなくなる」と、翔真は提案した。「吉川グループとアルバートソンズには、もともと因縁があるからな。アルバートソンズが吉川グループに対して水面下で動いていると知れば、吉川蒼介が黙って見ているはずがない」「それ、いいと思う!」円香の目がパッと輝いたが、すぐに少しの不安がよぎった。「でも、そうなるとあなたのおじいさんに勘付かれない?翔真と私のことがバレでもしたら……」翔真は気にも留めない様子で、軽く笑い飛ばした。「もし何か見破られたとしても、親父が盾になってくれるさ。おじ
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第638話

安達はわずかに言いにくそうな表情を浮かべながらも、預かった伝言を正確に伝えた。「……ただ、夜はちゃんと『家』へお戻りくださいと、旦那様が」家?杏奈は心の中で冷ややかに笑った。ここはもう、とっくに自分の帰るべき「家」ではない。しかし顔には一切出さず、ただ静かにうなずいた。「わかったわ」何気なく尋ねただけで、蒼介たちのことなど本当はどうでもよかった。今の杏奈の頭を占めているのは、円香のことばかりだ。昨夜の潜入はうまくいったのか、寒川家で何か危険な目に遭っていないか。ちょうどそのとき、スマホが震えた。円香からだった。すぐに電話に出る。「円香、そっちどうだった?何もなかった?必要なら人を手配できるけど」心配がそのまま言葉になり、立て続けに口をついて出た。「私は大丈夫よ、ぴんぴんしてる」円香はまず杏奈を落ち着かせてから、昨夜翔真と話し合って決めた計画の全容を打ち明けた。そして最後に、心底申し訳なさそうな声色に変わった。「杏奈、もうしばらく吉川家で我慢してもらうことになっちゃって……本当にごめんね。でも安心して。紗里っていう目の上のたんこぶを二人で一緒に取り除いたら、すぐに出られるようにするから!絶対に!」「大丈夫よ」杏奈は電話越しに穏やかに微笑んだ。声は静かだが、揺るぎない響きを持っていた。「どうせあと数日の話でしょう。あなたは、何より自分の身を一番に考えてね。絶対に無茶はしないこと」円香の無鉄砲な性格を誰よりもわかっているからこその忠告だった。彼女は大切な人のためなら、後先考えずに火の中へでも飛び込んでいくのだから。「わかった、わかった」と電話口で円香が明るく応じる。先ほどまでの重苦しい声が、すっかり軽くなっていた。通話を終える直前、杏奈はふと思い出し、くすりと笑いながら付け加えた。「言い忘れてた。おめでとう。翔真さんと、末永くお幸せにね」それは、何の偽りもない心からの言葉だった。「私の杏奈も、ずっとずっと幸せでいてよね!」円香の弾けるような声は、隠しきれない幸福感に満ち溢れていた。「ええ」杏奈は柔らかく答えた。気づけば、自然と口元が緩んでいた。自分が今どんな境遇にあろうとも、大切な友人が幸せを手にしたと知るだけで、胸の奥に温かいものがじわりと広がっていく。電話を切ってリ
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第639話

「へえ?」紗里は語尾を軽く持ち上げた。ひどく興味深げな口ぶりだった。「どうして?蒼介の名前があなたを守ってくれるとでも思っているの?それとも……私があなたに手を出さないとでも?」杏奈はそっと車の速度を落とし、ちらりと横目で見た。その眼差しは、相手の心の奥底までを冷ややかに見透かすようだった。「あなたは、本当の意味での『切り札』じゃないから。ただ注目を集めたいだけなら、わざわざ自分の手を汚してまで私に手を出すほど、あなたは馬鹿じゃない。割に合わないもの。それに……」少し間を置き、一言一言、メスを入れるように的確に相手の心理を切り開いていく。「もし本当に私に何かしたら、アルバートソンズの計画全体が、そううまくはいかなくなるんじゃないかしら。そうじゃないの?」車内の空気が、一瞬にして凍りついた。紗里の顔に貼りついていた笑みが、ほんのわずかだが揺らいだ。杏奈がそれを見逃すはずはなかった。狭い車内に、重苦しい沈黙が落ちる。それは濃い霧のように立ちこめ、息が詰まるほど重たかった。窓の外を流れる見慣れた街並みが、まるで別の世界の景色みたいに遠く感じられる。紗里は驚いたように眉を持ち上げ、指先で無意識に窓枠の縁を撫で続けていた。杏奈がここまで正面から、すべてを的確に言い当ててくるとは思ってもみなかったのだ。完全にペースを乱されていた。紗里が冷たく唇を歪め、声を限界まで低く落とす。意図的に作り出された、脅しの響きがそこにはあった。「あなたって……」一呼吸置き、毒を含んだ刃のような目を向ける。「随分と、自信家なのね?」キキーッ!鋭い急ブレーキの音が、静寂を無惨に引き裂いた。タイヤがアスファルトを激しく擦り、歪な黒い痕跡を残す。焦げたゴムの匂いが瞬く間に広がった。タイヤの焦げる匂いが漂う中、杏奈の凪のような表情がくっきりと浮かび上がる。その声は風のように涼しげで、それでいて、相手の挑発をむしろ面白がるような色さえ含んでいた。「——試してみる?」車が完全に停止し、紗里の表情が一瞬にして凍りついた。今日の杏奈は、自分の知っている「慎重で大人しい杏奈」とはまるで違う。完全に想定外だった。あの控えめな性格からすれば、こんな露骨な脅しに対しては、ひとまず堪えてじっくりと機を待つのが当然ではないのか?
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第640話

円香や翔真たちに向けられた、あの微塵の疑いもない絶対的な信頼のことを言っているのだ。紗里の目には、それがひどく無邪気で、それでいて目が眩むほどまばゆく映った。杏奈は、ある意味で紗里のことが理解できた。藤本家のような歪んだ環境で育ち、達也のような利己的な父親にただの駒として扱われてきたのなら——もし自分がその立場だったなら、やはり誰かを易々と信じることなど、できなかったかもしれない。紗里にとって「信頼」とは、決して手の届かない贅沢品であり、同時に命取りになりかねない弱点でもあるのだろう。杏奈が口を開きかけた、まさにその瞬間だった。紗里はまるで答えを聞く気をなくしたように、あるいは、自分には決して持てないその答えを突きつけられるのが恐ろしくなったかのように——ただ小さく首を横に振り、そのまま車を降りて歩き去った。言葉は交わされなかった。しかし、杏奈の眼に一瞬だけ宿った静かな哀れみの色が、何よりも雄弁な答えとなって、紗里の胸に深く突き刺さった。車のドアが閉まる寸前、紗里の声が細い隙間から、冷たく響いた。「疲れたわ。この茶番じみた『恋愛劇』にも、そろそろ幕を引かせてもらう。今度あなたたちが勝ったなら、私はもう邪魔をしない。けれど逆なら——あなたたちは全員、私の前に跪くことになるわ」その声には、一か八かを賭ける者の、ひどく乾いた決意があった。「けれど、そのときは……似たような境遇のよしみで、あなたには……選ぶ機会を与えてあげる」愛か、権力か。絶望の淵に立たされたとき、あなたはいったいどちらを選ぶのだろう。紗里は心の中でそう問いかけながら、不思議と一抹の期待を覚えていた。杏奈は何も答えなかった。ただバックミラーの中で、ハイヒールを鳴らしながら歩き去る、背筋だけは凛と伸びた孤独な後ろ姿を静かに見送った。どれほど運命が自分たちを「同じ種類の人間」として結びつけようとも、二人の本質は根本から違う。決して交わることのない平行線なのだと、紗里は永遠に分からないのだ。しかし杏奈にとって、愛はすべてではない。権力にも興味はない。ただ、自分を大切にしてくれる人たちが、自分が守りたいと願う人たちが、無事でいてくれること。それだけで十分だった。それ以上に大事なものなど、何一つない。……円香の計画が動き始めた速度は、杏奈が想像し
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