Lahat ng Kabanata ng 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Kabanata 71 - Kabanata 80

100 Kabanata

第71話

あっという間に日は過ぎ、幼稚園の親子参観の日が訪れた。正門で蒼介たちと顔を合わせた杏奈は、小春が「ママにはあげない、全部紗里ちゃんにあげるんだから」と勝ち誇るように言い放つ声を聞いた。けれど、その瞳にはもはやさざ波ひとつ立たなかった。紗里が同行することは予想外だったが、彼女を目にしても杏奈の心は凪いだままだった。ただ平静に、形式的な挨拶を交わす。まるで目の前にいるのが、夫と娘を奪い去った女ではなく、ただの行きずりの他人であるかのように。その無関心な反応に、紗里の瞳に一瞬だけ驚愕の色が走った。傍らに立つ男も、わずかに眉を動かして杏奈を一瞥したが、それ以上意に介さなかった。そう――この七年間、彼女が幸福の絶頂にあろうと絶望の淵に沈んでいようと、蒼介は、いつだってガラスのように冷淡な瞳をしていた。彼の視界に、初めから杏奈という存在は映っていなかったのだ。去ることを決意した今、どれほど胸が痛もうと、七年以上の歳月を費やした真心が無に帰したと悟ろうと、杏奈は歯を食いしばって、彼との、そして過去のすべてとの繋がりを断ち切らなければならない。だからこそ、紗里がいかに「不倫相手」らしく振る舞おうと、杏奈にとってはすでに無関係なことだった。蒼介の寵愛も、小春の執着も、もはや杏奈の知ったことではない。今日、杏奈がここに立っているのは、ただ純粋に母親としての責務を果たすため。ただ、それだけのことだった。杏奈の内心など知る由もない小春は、期待していた「母親のうろたえる姿」が見られないことに苛立ち、眉を吊り上げて睨みつけた。「ママ、この作品、絶対に見せないからね」「興味ないと言ったでしょう。あなたが提出すればいいわ」杏奈は静かに小春を見据えた。それでも、小春は食い下がった。「ふん!その前に全部、紗里ちゃんに見せるんだから!」「そう。小春は優しいわね」杏奈は淡々と答えた。その言葉に、小春は戸惑い、言葉を失った。ママに褒められた。嬉しいはずなのに、なぜかちっとも心地よくない。想像の中では、ママは粘土作品を紗里ちゃんに渡すのを嫌がり、必死に阻止しようとしたり、自分の手から奪い返そうとしたりするはずだった。そうなれば、それを切り札にして、ママを以前のような従順な世話役に戻し、今後紗里ちゃんと遊ぶのを邪魔しないと約束させられたはずなの
Magbasa pa

第72話

その問いにより、周囲の空気は一瞬にして一変し、ぴりついた。みんなの視線を感じる紗里は、杏奈が貶められると身構えていた。けれど、杏奈の口から出たのは思いもよらない言葉だった。「あの方は、小春の親子行事を見学に来られた親戚です」それだけ。ただ、それだけだった。紗里は虚を突かれたように杏奈を見た。けれど杏奈は紗里に視線すら向けず、言い終えると同時に先生が指示した待機エリアへと足を向けた。蒼介もまた、怪訝そうに眉を上げ、杏奈の背中に深い眼差しを投げた。大人たちの間に流れる複雑な機微など理解の及ばない小春だけが、ただ純粋に紗里が残れたことを無邪気に喜んでいた。一緒にゲームに参加できたら、もっと最高なのに……!見学と参加では、似て非なるものだ。それに、ここには小春の「本当の」パパとママが揃っているのだから。花原先生は深く追及せず、微笑みを湛えて一行を休憩エリアへと案内した。やがて参加者が揃い、園側の代表による挨拶が済むと、参観日の親子行事が正式に幕を開けた。最初の種目は、三人四脚。ルールは至って単純だ。参加者がスタートラインに並び、縄で互いの足を結び合わせ、三人一組でゴールを目指す。園庭には、はしゃぎ回る子供たちのはしゃぎ声が響く。準備のための時間はたっぷりと三十分も設けられていた。杏奈がこれを「時間の無駄」だと感じた理由がそこにある。このもどかしい空白の時間だけで、全種目が終わる頃には日が暮れてしまうだろう。「パパ!」先生から配布された、足を結ぶための縄を手に小春が戻ってきた。「早く結んでよ!」蒼介は動かず、ただ杏奈の方を一瞥した。その目の意図は明白だ。「お前がやれ」と言っている。常に頂点に君臨する男としてスポットライトを浴びる蒼介が、どうして膝を折り、他人の足を縄で結ぶなどという泥臭い真似をするだろう。たとえその一人が娘で、もう一人が「妻」であったとしても。蒼介がそんなことをするはずがない。そう信じて疑わなかった。杏奈が動かず、呆然と立ち尽くしているのを見て、蒼介はわずかな沈黙の後、おもむろにその麻のざらついた感触を受け取った。そして――杏奈が驚愕に目を見開く傍らで、蒼介は静かにその場に片膝をつき、自分と小春の足を、そして自分と杏奈の足を結び始めたのだ。その瞬間、杏奈は白
Magbasa pa

第73話

「大丈夫か」その言葉に、杏奈の思考が真っ白に塗りつぶされた。彼が、私を案じている……?それだけではない。支えてくれた、というのか。次々と起こるあり得ない光景に、作り上げてきた蒼介のイメージが、根底から覆されそうになっていた。返事をすることも、その腕から逃れることも忘れ、杏奈はただ呆然と彼の腕の中に収まっていた。広い体育館には、大勢の保護者が詰めかけている。天井から降り注ぐ光は、まるで二人を特別に切り取っているかのように、その姿を美しく際立たせた。「あら、あの方……吉川社長じゃない?奥様を抱き寄せて……なんて仲睦まじいの」「見てごらんなさい。あのお立場でありながら、公の場であんなに奥様を大切になさって。あなたも少しは見習ったらどうなの」「本当に羨ましいわ。容姿端麗で、お金も地位もあって、あんなに愛妻家だなんて。どうして私の夫ではないのかしら」「全くだわ。うちの人なんて、ここ数年、私をまともに見たことすらないのよ。今日の行事にだって来る気もないんだから」人々の間に広がるため息混じりの羨望が、休憩エリアで見守る紗里の耳にも届いていた。杏奈を射抜くその眼差しが一変する。「……新しい手ね。面白いじゃない」紗里は低く呟き、その目を鋭く細めた。「けれど。どれほど興味を引けたとしても、心を掴めなければ何の意味もないのよ」……一方。杏奈はようやく我に返り、弾かれたように蒼介の腕から身を引いた。乱れた衣服を整えながら、複雑な想いを込めて彼を一瞥する。「……ありがとう」それはあまりに丁寧で、夫婦としての親密さも、以前のように彼に縋り付く執着も感じさせない、乾いた言葉だった。蒼介は意に介した様子もなく、ただ冷ややかに唇を歪めた。「気にするな。小春が行事に参加できるようにしただけだ」その言葉を聞いて、杏奈は納得がいった。そうだ、自分が転倒して怪我をすれば、小春が期待している行事が台無しになる。案じている、などというのは……ただの自惚れだった。そう自分に言い聞かせた。杏奈は納得し、小さく頷いた。「……ええ、そうね」「ママ、どうしてそんなにトロいの!」蒼介との会話が終わるや否や、小春が再び騒ぎ出した。「ママが転んで怪我なんかしたら、あたしが出られなくなるじゃない!そしたら、一位になれないわ!」負けず嫌
Magbasa pa

第74話

「うん……」小春は弱々しく頷いたが、もはや「紗里ちゃんにあげる」などと口にできる空気ではなかった。自らの言葉が母を不機嫌にさせている。その自覚は、幼い彼女の中にも確かにあった。分かっているのに、なぜ繰り返すのか。小春にとって、母がどれほど不快になろうと、それは大好きな紗里には無関係なことなのだから。紗里が喜んでくれるのなら、それでいい。「わかったわ」杏奈は短く答え、それ以上は何も言わなかった。娘が切望するなら、母親として全力を尽くす。けれど、それが紗里への捧げ物であるというのなら、足を引っ張りはしないまでも、魂を込めることもしない。競技の後、小春がこっそりとメダルをあの女に手渡そうと、杏奈の知ったことではない。ただ、今この瞬間だけは、先ほど誓った通り、ここに立っているのは一人の「母親」でしかなかった。パン――!乾いた破裂音が体育館に響き渡る。スタートラインに並んだ数十組の家族が、一気に前方へ躍り出た。とはいえ、子供を最高峰の私立幼稚園に通わせるような層は、その多くが贅沢に慣れきった富豪や貴婦人たちだ。泥臭く足を結ばれ、息を合わせて走る経験などあるはずもない。二、三歩も進まぬうちに、あちこちで悲鳴と共に家族が転倒していく。残った人々も、這うような歩みで、一向に進まない有様だった。そんな混沌とした光景の中で、一組の家族だけが、他を寄せ付けぬ速さで、参加者たちを置き去りにした。杏奈は微塵の焦りも見せず、一人で二人を導くように、隣の男と足元の娘へ淀みない掛け声で指示を飛ばす。「左、右、左、右……」リズミカルな号令。本来なら不自由なはずの足取りは、まるで普通に闊歩しているかのような速度で、ゴールラインへと突き進んでいく。――ヒュッ!息をつく暇もなく、赤いテープが小春の手によって切り裂かれた。「ママ、すごすぎるよ!」小春の興奮した叫びが上がる。すごい、か。正直に言えば、かつての杏奈は運動全般が苦手だった。大学時代も、華やかなサークル活動には目もくれず、一人実験室にこもって他人が見れば退屈でしかない薬学の研究に没頭する方を好んだ。蒼介と結婚し、小春を産んでからというもの、彼女は「万能」であることを自分に強いたのだ。親子競技への対策も、その一環だった。この幼稚園が企画する行事は多岐にわた
Magbasa pa

第75話

勝てたのは、杏奈のおかげ。誰の目にもそれは明らかだった。確かに、母の尽力あっての結果だ。けれど、ママが頑張ったのは自分のため。手にしたこの結果は、あたしの実力だと言ってもいいはずだ。もし、さっきの母の威圧感に気圧されていなければ、そして次のゲームでも母の力が必要でなかったら、小春は今すぐにでもこのメダルを紗里に捧げていただろう。今はまだ、自慢する程度に留めておくのが得策だった。しかし、紗里が不快感を露わにしていることなど、小春は微塵も気づいていなかった。紗里は内心で毒づいた。私が、あの杏奈に劣るとでも言いたいの?なんて可愛げのないガキ。恩を仇で返す飼い犬そのものね。自分があの場に立てれば、こんな程度のメダル、望むだけ手に入れてみせるのに。苛立ちを隠しきれない紗里は、隣の蒼介へ探るような視線を投げた。「蒼介。さっきの競技を見ていたら、私も、小春ちゃんと一緒にやってみたいわ。小春ちゃんとあんなふうに息を合わせるなんて、素敵だわ。次は、私も試してみても……」「園がそんな特例を許すはずがない」と、男は一蹴した。紗里の表情が、わずかに引きつった。園長たちが、この街の頂点に君臨する男に逆らえるはずもなかった。要は、蒼介が首を縦に振らなければ、彼女がその舞台に立つことは叶わないのだ。「じゃあパパ、花原先生にお願いしてよ!あたしも、紗里ちゃんと一緒がいい!」幸いにも、強力な援軍がいた。紗里の望みを察した小春が、弾かれたように蒼介へ縋り付いた。「お前が先生に言え。許可が出るなら好きにすればいい」「やだぁ。パパが言わなきゃ、先生は絶対に『ダメ』って言うもん!」小春も、自らの我儘が花原先生に通じないことくらいは理解していた。蒼介の腿にしがみつき、必死に懇願する。「小春ちゃん、いいのよ。あなたたちの活躍を特等席で見守れるだけで、もう十分に幸せだわ」紗里は物分かりの良い「良き理解者」を演じながら、巧妙に火に油を注いだ。その落胆した様子を目の当たりにし、小春は居ても立ってもいられなくなる。「パパ、お願い!」「俺に頼んでも無駄だ。先生の裁量だと言っているんだ」と、蒼介の態度は石のように動かなかった。父に頼んでも無駄だと見限った小春は、渋々と母へ視線を向けた。その目には躊躇いが滲んでいる。母に頼むことがどれ
Magbasa pa

第76話

一体、誰が本当の母親なのか。そのあまりに無邪気な残酷さに、花原先生はわが耳を疑った。「小春ちゃん……」、紗里が、困ったように眉を下げて口を開きかけた。隣に座る蒼介が、静かに唇を動かした。「……ママが稼がないのは、お前が不自由なく育つよう、ママがずっと家を守ってきたからだ」その言葉に、小春は口を噤み、紗里は、喉元を詰まらせたように息を呑んだ。どういう意味……?私の前で、あんな女の肩を持つなんて。余計な真似はするなって、私に釘を刺すつもり?けれど、蒼介が向けた視線は、かつて杏奈がどれほど願ってもその手に触れられなかった優しさだった。紗里は、胸に湧いた不吉な予感を強引に振り払った。自分はあの杏奈から夫と娘を完全に奪い取ったのだ。二人の心は、もう完璧に自分のものになっているのだから。紗里は表情を取り繕い、蒼介の言葉に同調してみせた。「小春ちゃん、パパの言う通りよ。ママが何年も家庭に尽くしていなければ、きっとママの才能なら、もっとすごい仕事ができていたはずよ」小春は、母にそれほどの能力があるとは思えなかったが、紗里が言うのならと、彼女は納得のいかない顔で、しぶしぶと首を縦に振った。「……わかった」やがて休憩が終わり、第二種目が始まった。水を手にした杏奈が戻り、蒼介、小春と共にルールの説明に耳を傾ける。用意されたのは、ひねりを加えた「だるまさんがころんだ」だった。一人が太鼓でリズムを刻み、もう一人が子供を抱えて「鬼」へと歩み寄る。鬼に触れた者が勝ち。ただし、鬼が振り返ったときは太鼓を止めねばならず、動いている姿を見られたら失格となる。「どちらが叩く?」杏奈は短く、蒼介へ問いかけた。「お前が叩け」蒼介は小春をひょいと抱き上げ、軽く揺らした。「体力勝負だ。俺が小春を抱えて行く」「わかったわ」杏奈は深く考えず、淡々と応じた。彼の言葉にどのような含みがあろうと、慈しみなど、一欠片も期待していない。ただ、小春のために勝利を欲しているだけなのだと、自分に言い聞かせる。去ることを決めた以上、もはや振り返ることはない。無価値な連中のために、もう心を砕くつもりはなかった。蒼介はふと眉を上げたが、そのまま小春を抱いてスタートラインへと向かった。杏奈は花原先生からバチを受け取り、太鼓の前に座る。「保護者の皆様、準備は
Magbasa pa

第77話

彼は成功に酔いしれ、身を持ち崩すような男では断じてなかった。ストイックに研鑽を積み、肉体を鍛え上げることは、彼にとって日常の一部ですらあった。吉川の屋敷には、彼専用のトレーニングジムさえ備えられている。けれど。杏奈が彼と結婚して以来、主である彼自身の手で、その重い扉が開かれることは一度としてなかった。最初の頃、彼がいつか戻る日を信じて、杏奈はそこを掃除し、整え続けてきた。けれど、報われない期待はやがて、白く積もる埃の下に静かに埋もれていった。ふとそのことを思い出し、杏奈は小さく唇を噛んだ。視線を逸らそうとした瞬間、まるでこちらの気配を察したかのように、前方を行く男が不意に振り返った。ちょうどその時、鬼役の先生の声が響く。「止まれ!」全員がその場で静止する。視線が、真っ向から交差した。高い天井から降り注ぐ陽光に、微細な埃がキラキラと浮沈している。杏奈は思わず、息を呑んだ。どこか柔らかな熱を宿して自分を射抜くなど、あっていいはずがない。七年間、渇望しても得られなかったものが、今さら手に入るはずがないのだ。背後へ視線をやれば、案の定、紗里が華やかな微笑を湛えていた。あたかも、愛する男の視線に精一杯の慈愛で応えようとしているかのように。「……やっぱり、そうね」杏奈は自嘲気味に口角を上げると、二人の密やかな睦み合いなど、もう気にするまいと目を伏せた。溜まりに溜まった鬱屈を吐き出すように、力任せにバチを振り下ろす。ドンドンドン!重厚な響きが体育館の空気を震わせる。視線を落とした直後、蒼介の瞳から温度が消え、紗里の顔から笑みが剥がれ落ちたことに、杏奈は気づく由もなかった。紗里は唇を噛んだ。絶対に見間違いではない。先ほど、蒼介が見つめていたのは――自分ではなく、杏奈だった。どうして?彼の心が見えない……「パパ、何を考えてるの?」抱きかかえられた小春が、唐突に囁いた。蒼介が先生に背を向ける形で静止しているため、密着している小春がどれほど口を動かそうと、鬼には見えない。密やかな「ズル」に、小春は頬を紅潮させた。「パパ、先生ったらあたしが動いたことに全然気づいてないよ。ちょっとマヌケだね。あともう少し、このまま抱っこしててよ?」「ああ」蒼介は微かに目を細めると、音楽に合わせて悠然と
Magbasa pa

第78話

蒼介はわずかに眉を動かしたが、皮肉など意に介さぬ様子で淡々と告げた。「あいにく、俺は隠し事などしない性質だ」「勝手になさればいいわ」と、杏奈は冷ややかに鼻を鳴らし、背を向けて立ち去った。「パパ、何を隠してたの?」好奇心を抑えきれない小春が、父の裾を引く。パパは絶対に、紗里ちゃんに関することを隠している。でなければ、ママがあんなに怒るはずがないのだから。小春の瞳にあるのは、母への心配などではなく、紗里と分かち合う「秘密」への渇望だった。「……何でもない」蒼介は無機質な手つきで娘の頭を撫でると、休憩エリアへと促した。「少し休もう。まだ最後の種目が残っている」「うん!」小春は休憩エリアに戻るなり、紗里の元へと駆け寄り、パパが何を隠しているのか、自分も仲間に入れてほしいとせがみだした。紗里は、ひきつる頬を強引に吊り上げて笑みを形作り、宥めるように言った。「あの夜、うっかりパパのところに忘れてきちゃったネックレスのことじゃないかしら。また今度、もっと素敵なのを買ってあげるわね」「本当!?紗里ちゃん、大好き!」歓喜の声を上げる娘。「ええ、いいわよ」紗里は微笑みを湛えつつ、視線の端で杏奈の様子を窺った。けれど、杏奈は微動だにしなかった。あたかも、紗里の言葉がただの羽音ほども届いていないかのように。犬の遠吠えの方が、まだ注意を引くかもしれない。それほどまでに、杏奈は無関心だった。あの夜の出来事も、うっかりという名の誘惑も。過去と決別すると決めた今、もはや彼女の心に波風を立てる余地などないのだ。……落ち着いているふりをして。どうせ強がっているだけでしょう?紗里の瞳の奥に、どろりとした昏い光が沈んだ。そんなはずはない。杏奈がいかに惨めに蒼介へ縋りつき、ただ一度の慈悲を求めて這いつくばってきたか。誰もがそれを嘲笑い、目撃してきたのだ。今さら、あの「忠犬」が尻尾を振るのをやめたなどと、信じられるはずもなかった。紗里は試すように、声を潜めて尋ねた。「……最近、お仕事を探されていると聞いたけれど?」杏奈は沈黙を守り、ただ冷え切った瞳で続きを促した。「少し気になったの。吉川家の奥様が、どうして今さら働こうなんて思い立ったのかしら?」退路がある者は、いつだって恐れを知らない。裏を返せば――吉川家での
Magbasa pa

第79話

杏奈は静かに首を振った。どうやら、親友のあの苛烈な立ち振る舞いから盗むべき術は、まだいくらでもあるようだった。言い返せず、紗里は屈辱に震えた。杏奈が「吉川夫人」の座に就いている限り、紗里には反論の余地も、立ち向かう名分もなかった。紗里は救いを求めるように、蒼介へ縋るような視線を投げた。けれど、今日の彼はどうしたというのか。支え、見つめ、あまつさえ杏奈を庇うような素振りまで見せている。「もういい。ここは幼稚園だ。騒ぎたいなら場所を考えろ」それは、情を一切排除した非情な宣告だった。不満があるなら外でやれ、と。つまり行事後、紗里がまだ不満であれば、いつでも解決できると。けれど紗里にとって、それは自分を切り捨て、杏奈に肩入れしたも同然だった。「……それなら、私はこれで失礼しようかしら」いたたまれず席を立とうとした紗里を、絶妙なタイミングで呼び止める声があった。「ママ、紗里ちゃんにそんなひどいこと言わないで!」小春だった。紗里は内心でほくそ笑み、再び腰を下ろした。実の娘に詰め寄られる杏奈の無様な姿を、これ以上ない特等席で拝めるのだ。ふん、悲しいだろう。だが、杏奈は眉一つ動かさなかった。裏切りには慣れきっている。心の痛みを感じる機能など、とっくに壊れて久しかった。「どうして私が、彼女の顔色を窺わなきゃいけないの?」「だって、紗里ちゃんだもん!あたしの、世界で一番大好きな人なんだから!」それが世界の理だと信じて疑わぬ幼い残酷さで、小春は叫んだ。「だから、ママはそんな態度を取っちゃダメなの!」「そう。それはあなたの好みの問題であって、私には何の関係もないことよ」杏奈は淡々と、突き放すように告げた。「それが、私と何の関係があるというの?」「でも……あたしはママにとって、一番大切な人でしょ!?」だったら、あたしの好きな人を、どうしてママも大事にしてくれないの?ママがあたしの世話だけで手一杯じゃなかったら、紗里ちゃんの面倒も見てあげてほしかったくらいだ。小春の身勝手な論理。彼女が求めているのは、家族の融和などではない。父と紗里が楽しく遊んでいる横で、母が甲斐甲斐しく自分たちの世話を焼き、傅く――そんな歪んだ「楽園」だった。幼いながらも、その身勝手な支配欲は完成の域に達していた。娘の無垢な仮面の
Magbasa pa

第80話

再び母に突き放された小春は、周囲の視線すべてが自分を嘲笑っているかのような錯覚に陥った。耐えきれなくなった幼い心は、ついに音を立てて崩れ落ちた。「わああああっ!」激しい泣き声を上げ、小春は叫ぶ。「ママなんて、大っ嫌い!」彼女はそのまま、振り返ることもなく走り去った。単なる親子喧嘩か。周囲の人々は一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに興味を失った。どこの家庭にもあるありふれた光景として、深く気に留める者はいない。「小春ちゃんのお母様」けれど、担任の花原先生だけは、見て見ぬふりをするわけにはいかなかった。「休憩時間がもうすぐ終わります。まだ競技も残っていますし、小春ちゃんを連れ戻した方がよろしいのでは?」「……いいえ、結構です」杏奈もまた、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。「あの子がああして去ったということは、自ら棄権を選んだということです。今日の競技は、すべて棄権したとお考えください」「えっ?」花原先生は絶句した。競技の結果などどうでもよかった。泣きながら走り去った我が子を追おうともしない、その母親の態度が信じられなかったのだ。先ほどまで紗里にべったりと甘えていた小春を見て、複雑な事情を抱えた家庭なのだろうとは察していたが、どうやら問題は想像以上に根深いようだ。……早急に、小春ちゃんの家庭状況を園に報告し、スクールカウンセラーと連携を取らなければ!「花原先生。他に手がけなければならない仕事がありますので、私はこれで失礼します」杏奈は儀礼的な挨拶を済ませると、逃げた娘を追うことも、隣に座る二人を視界に入れることもなく、静かにその場を辞した。蒼介がついているから、あの子に不測の事態など起きるはずがないと、自分に言い聞かせるように前を向いた。心底自分を疎んでいる娘のために気を揉むより、さっさと身を引く方が互いのためだ。そうすれば、自分がいないのを見て、あの子も安心して戻ってくるかもしれない。杏奈の予測は、残酷なまでに的中した。杏奈の背中が遠ざかるのを待っていたかのように、物陰から小春が姿を現した。けれど、その泣き声は先ほどよりも激しさを増していた。「うわああああん!ママが行っちゃった!どうして追いかけてくれないのよぉ!」誰も答えない。小春がなぜ実の母にこれほどまでに拒絶されているのか、その真の
Magbasa pa
PREV
1
...
5678910
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status