All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話

美南から回ってきた品々は、型落ちとはいえ新品同然。換金すれば相当な額になる。不意に、携帯が鳴り響いた。那月は画面を一瞥し、即座に出た。「……どうだった?」「兄さん、私を誰だと思っているの?全て手回しは済んでいるわ」「そうか。あの女、何年もお前に手なずけられ、飼い殺しにされているな」受話器の向こうの男は、ふと思い出したように言葉を継いだ。「そういえば、俺のことは紹介したのか?」「焦らないで」那月は冷淡な笑みを浮かべた。「獲物を確実に仕留めるには、まずは向こうから飛び込んでくるのを待つのが一番よ。あの女があなたなしではいられなくなる筋書きなら、もう書き終えているわ」「わかった。お前に任せる。吉報を待っているぞ」……「……なら、せいぜい待っていればいいわ」翌日。美南は、一向に届かないデザイン画に痺れを切らしていた。彼女からの催促の電話に、杏奈は容赦なく言い放った。「何度言えばわかるのかしら。私はもう、あなたのために描くつもりはないの。諦めなさい」「よくも私の顔に泥を塗ってくれたわね!今さら泣いて詫びたって、もう遅いわよ!」「勝手に言っていなさい。理解不能だわ」杏奈は冷たく通話を切った。捨て台詞など、痛くも痒くもない。どうせ、また蒼介を盾にして脅しをかけてくるつもりなのだろう。今の杏奈にとって、かつては呪縛のように彼女を縛ったその名も、今や空虚な記号に過ぎなかった。すべて終わったことだと自分に言い聞かせていたが、午後に裕司から予期せぬ連絡が入った。「杏奈、すまないが、今日会社に来てもらうことになりそうだ」「何かあったんですか?」杏奈の問いに、裕司は苦渋に満ちた声を漏らした。「裏で悪意ある噂を流布し、空気を煽っている者がいるらしい。社内では、君の復帰を阻もうとする拒絶反応が、手のつけられないほどに高まっている。事態を鎮静化させるために二日ほど復帰を遅らせるか、あるいは今すぐ乗り込んで、実力で黙らせるか」裕司は冷静に状況を分析し、続けた。「後者を選べば、君は剥き出しの敵意の中に身を投じることになる。けれど、君の圧倒的な実力を見せつければ、すべての雑音は自ずと消え去るだろう……どうする?」「迷う必要なんてないですわ」杏奈の唇が、挑戦的な、けれど確信に満ちた弧を描いた。「答えは決まっているで
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第92話

裕司の懸念を余所に、杏奈の瞳に怯えの色は一欠片もなかった。「先輩、心配しないで。こんなこと、もう慣れっこだわ」蒼介の傍らで、何年もの月日を耐え忍んできたのだ。根も葉もない噂話など、今の彼女にとって、そんな雑音など意識の端に上せる価値すらなかった。覚悟はしていたし、準備も整えていた。けれど、ルミエールの重厚な門をくぐった瞬間、肌に突き刺さるような異様な視線と、ひそひそ話という名の卑屈な毒が、執拗に杏奈の肌を蝕んだ。ここはルミエール。光の名を冠し、至高の輝きを生み出す場所。かつての聖域は、今やどろりとした悪意が澱む、泥沼のような有様に成り果てていた。周囲の人間は、彼女の冷徹な心中など知る由もない。余裕を崩さず辺りを見回す杏奈の姿に、野次馬たちの口調は、好奇という名の薪を得てさらに勢いを増していく。「あれが噂の、コネで入ったっていう新人?」「へえ、なかなかの美人じゃないか。あんな美貌、武器にするなっていう方が無理だろ。俺が社長でも……へへっ!」「やめろよ、下卑た顔して。反吐が出る」「私たちは爪を剥ぎ、夜を徹する思いでここを勝ち取ったのに、どうしてあの女だけあんなに楽ができるのよ。恥も外聞もなく、よくもまああんな風に踏んぞり返って歩けるものね」容赦なく投げかけられる耳障りな言葉に、裕司の表情が険しくなる。「杏奈、少し待て。俺が――」彼が連中の口を封じようとした瞬間、杏奈がその腕を制した。「いいんですよ。私がここに現れたこと自体、波風を立てる口実を与えたようなものですし」「だが、君には確かな実力がある。断じてコネなどではない」「ええ、そうですね」杏奈は静かに頷いた。「けれど、それを彼らは知らないですわ。ただ、それだけのことですよ」その一言に、裕司は辛うじて怒りを飲み込んだ。無知な連中を一人一人なぎ倒して回るほど、彼は独善的な男ではなかった。真の力を見せつけた時、その曇りきった眼に何を映すか、今から楽しみですらあった。降り注ぐ嘲笑の雨を、傘も差さずに切り裂きながら、二人はデザイン部のフロアへと向かった。他部署の人間が好奇心で眺めているのに対し、デザイン部の面々は、まるで敵を迎え撃つかのような殺気を放っていた。当然だろう。コネで紛れ込んだ者の無能さを、最も身近で押し付けられるのは現場の人間だ。デザ
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第93話

裕司の表情には依然として苦い影が落ちていたが、対照的に杏奈は優雅に口角を上げた。「私が歓迎されていないことなど、百も承知です。縁故で紛れ込んだ、使い物にならない新顔だと蔑まれているのでしょう?」フロアの空気が一瞬で氷結し、誰一人として反論を口にできなかった。これほどまでに剥き出しの真実を、平然と突きつける者がいるだろうか。その自信は一体どこから来るのか。たとえ裏口入社だとしても、社長である裕司が彼女一人のために、ルミエールという屋台骨を自ら叩き折るつもりがない限り、そんな暴挙はあり得ない。困惑の視線が集中する中、杏奈は言葉を継いだ。「けれど、構いません。私が今日ここへ来たのは、皆さんに私の実力を証明するため。私がただの『お気に入り』ではないことを、その目に刻んでいただくためです」「いいぞ……!」低く響き渡る声が、ざわめく人々の口を強引に封じた。社員たちが左右に分かれて道を開けると、極めて洗練された装いに端正な貌を持つ男が、悠然と通路を歩み、杏奈の前に立った。「俺はデザイン部のチーフデザイナー、金城真紘(きんじょう まひろ)だ」彼は冷酷な審美眼で、杏奈の全身を射抜くように見据えた。「自分を証明したいというなら、試してやってもいい」杏奈は沈黙を守り、先を促した。真紘は鼻先でせせら笑うと、残酷な条件を突きつけた。「こうしよう。ルミエールの席が欲しいのなら、『光』をテーマに作品を一つ。期限は一週間……いや、一ヶ月でいい。その期間内に、俺の美学を納得させるだけの、一点の曇りもない傑作を差し出してみせろ。もし成功すれば、お前の入社を認めるだけでなく、このチーフの座を譲ってやってもいい」彼はそこで言葉を切り、背後に控える裕司へと視線を投げた。「河原社長、異論はありませんね?」裕司に異論などなかった。むしろ、それこそが彼の望む展開でもあった。だが――「金城。お前、彼女を個人的に標的にしているのか?」コネ入社への反発、という建前を超えた執念を、裕司は敏感に感じ取っていた。「その通りです」真紘は隠すこともなく、堂々と頷いた。「ええ、間違いありません。この女からは、紗里のような人を惹きつける華やぎも、圧倒的な才気も微塵も感じられない。河原社長がなぜこのような凡人を招き入れたのか、理解に苦しみますが、吉川グ
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第94話

沈黙が、今この場を重く縛りつけるすべてだった。デザイナーたちの口角が引き攣る。もはや嘲笑う気力すら失せていた。もしこれが、世界的に名を馳せた大御所デザイナーの言葉なら、誰もが平伏しただろう。目の前の女は三浦杏奈。業界のどこにもその名が刻まれていない、正体不明の部外者に過ぎない。真紘は一拍置いて鼻先で笑うと、吐き捨てるように裕司へ問うた。「河原社長、まさか、こんな得体の知れない狂人を担ぎ出して、我々を愚弄するつもりじゃありませんよね?」今日。日没まで数時間もないこの土壇場で、この自分を唸らせるジュエリーを形にするなど、真紘本人にすら不可能な芸当だ。ましてや、この得体の知れない女にできるはずがない。裕司が答えるより早く、最初に杏奈を迎え入れた女性が、強張った空気を和らげるように苦笑を添えた。「真紘さん、きっと三浦さんの言い間違いですよ。さすがに……」「言い間違いではないわ」杏奈は案じてくれた女性へ穏やかに口角を上げると、真剣な眼差しで真紘を射抜いた。「本物か、それともただの虚勢か。今日、その答えを突きつけてあげる」「いいだろう」真紘が頷く。「一日足らずの猶予で、俺を跪かせるデザインを描けると言うのか。いいだろう、見せてもらおうじゃないか」閃きの欠片を拾い上げ、構想を練り、細部まで命を吹き込んでいく。それは、凡人が言葉で語るほど容易な道のりではない。「作業室を借りてもいいかしら?」杏奈は淡々と尋ねた。真紘が誰かに案内を命じようとするより早く、先ほどの女性が手を挙げた。「こちらへ。私が案内します」「ありがとう。では、よろしくね」二人が去り、裕司もまたその場を立ち去ろうとした。その背中に、真紘の氷のように冷たい声が突き刺さった。「河原社長。お待ちください」「まだ何か?」振り返る裕司に、真紘は傲岸に告げた。「賭けをしませんか」「何を賭けるというんだ」「あなたの連れてきたあの女が、俺を、そして審査員たちを唸らせる作品を完成させられるかどうかです」公平を期すために、真紘は付け加えた。「私情を排するため、マーケティング部のディレクターや編集長など、外部の目利きの連中を審査員として招きましょう。河原社長、よろしいですね?」「いいだろう」裕司は承諾し、さらに問いを重ねた。「……で、賭けの内容は?」
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第95話

自分の放った一言が、周囲の心にどれほどのさざ波を立てたか、真紘は露ほども気づいていなかった。裕司が危惧した通り、経営資源のすべてが紗里ひとりに注ぎ込まれることになれば、残されたデザイナーたちの椅子はどうなるのか。転職か。しかし吉川グループを除けば、ルミエールに並ぶほどの恩恵を与えてくれる企業など、この街のどこにも存在しない。「私たちの生活を何だと思ってるんだ」――誰かが漏らした低い毒づきが、その場に暗い同意を広げた。誰かが押し殺した声で吐き捨てると、周囲から無言の同意が広がった。表立って反旗を翻しはせずとも、社員たちの心の中で、真紘への信頼は砂の城のように脆く崩れ落ちていた。……「三浦さん、デザイン部の同僚たちをあまり悪く思わないでくださいね。みんな、根はいい人たちなんです。ただ、真紘さんへの信頼が厚すぎて、彼の態度に引きずられてしまっただけですから」作業室へと続く廊下で、那月はこれ以上ないほど甘い声を作って語りかけてきた。杏奈は穏やかに微笑む。「大丈夫よ。気にしていないわ」「そうですか、よかった」「もし、チームに馴染めなかったらどうしようと心配していたんです。私の考えすぎでしたね。三浦さんは、本当にお心が広い方なのね」那月は安堵したように胸を撫で下ろした。これほどの忍耐強さがなければ、吉川家でのあの地獄のような七年間を生き抜くことなどできなかっただろう。普通の人間なら、とっくに心が壊れていても不思議ではない。「そういえば、まだ自己紹介が済んでいませんでしたね。私は横井那月。デザイン部でデザイナーをしています」その名を耳にした瞬間、杏奈の表情からわずかに生気が消えた。那月の胸を、小さな疑念が掠めた。私の名前を知っているの?まさか、これまでの工作がバレている……?いや、あり得ない。自分は常に慎重だった。悪評を流した際も、自分が火元だとは悟られないよう細心の注意を払ってきた。雑談の隙間に、わずかな毒を忍ばせただけだ。そんな大昔の些細な話を、当の同僚ですら覚えているはずがないのだ。那月は探るように言葉を重ねた。「もしかして……私のことをどこかで?」嫌というほど聞かされてきた。忘れようにも忘れられない名前だ。この二日間、親友の円香が耳元で「横井那月」という名の毒蛇について、嫌というほど愚痴をこぼして
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第96話

「横井さん?大丈夫かしら」どこか楽しげな響きを含んだ声が、那月の昏い空想を切り裂いた。杏奈が案じるような顔をして、こちらを覗き込んでいた。「顔色が悪いわよ。どうしたの?」「あっ、いえ、大丈夫です。少し、空耳かと思いまして」那月は首を振り、隣の部屋のドアの前で足を止めた。「ここがデザイナーたちの共同作業エリアです。もっとも、あなたほどの実力があれば、すぐに専用のアトリエが用意されるでしょうけれど」「ありがとう」杏奈は微笑んで頷くと、ドアを押し開けて中に入った。カチャリ、と施錠を告げる乾いた音が廊下に響く。一人残された那月の顔から、先ほどまでの作り笑いが剥がれ落ちた。その貌は、もはや陰険な獣そのものだった。「吉川美南……本来ならもう少し生かしてやるつもりだったけど、自分から死に急ぐっていうなら、もう私のせいじゃないわよ」その囁きは、木の扉を隔てて杏奈の耳にも届いていた。那月が何を企んでいるのかは知らないし、関心もない。七年間、恩義のかけらもない不躾な要求を突きつけられ続けてきたのだ。義妹である美南に対し、もはや情など一欠片も残っていなかった。自ら手を下すことはせずとも、彼女が自業自得の不運に見舞われるのを見るのは、さぞ愉快だろう。杏奈はわずかに口角を微かに上げた。胸のつかえが、少しだけ取れたような気がした。彼女は思考を切り替えると、ペンを握った。長く、暗い歳月の中に積み上げられてきた着想の断片を、真っ白な画用紙へと解き放ち始めた。……夜、高く懸かった月が冴え渡り、時計の針はすでに九時を回っていた。定時をとうに過ぎ、一般社員のほとんどが帰路についた時刻だ。他のフロアの明かりは次々と消え、窓にはまばらな残業の光が灯るばかり。だが、デザイン部だけは他とは一線を画す異様な熱気に包まれていた。誰一人として帰路につこうとせず、全員の視線が、奥に位置する作業室の扉へと釘付けになっていた。彼らは、審判の時を待っていた。杏奈が勝てば、あのプライドの高い真紘のことだ、間違いなく身を引く道を選ぶだろう。大黒柱を失えば、部の待遇は悪化するかもしれない。だが、逆に真紘が勝てば、自分たちの居場所そのものが失われる。待遇の低下か、あるいは職そのものの喪失か。天秤にかけるまでもない。人々は胸の中で、見ず知ら
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第97話

正直なところ、当初は危惧の念を抱いていた。吉川グループがジュエリー界の新星を抱え込み、かなりの手練れだという噂を、かねてより耳にしていたからだ。だが、杏奈の能力を目の当たりにした今、その懸念は跡形もなく霧散していた。実力がある、だと?笑わせるな。やれるものならやってみるがいい。たった半日で、これほど完璧なデザインを二つも仕上げられるものならな。杏奈は彼らの賞賛に応えようとしたが、限界まで酷使された肉体が、ついに悲鳴を上げた。視界が歪み、足元が大きく揺らぐ。脳を削るようなデザイン作業以上に、工具を振るう実制作は苛烈に体力を奪うのだ。倒れそうになった彼女の体を、間一髪のところで裕司が抱きとめた。「デザインさえ上がれば十分だと言ったはずだ。なぜ制作までした」裕司の声には、隠しきれない懸念の色が滲んでいた。杏奈は力なく、けれど満足げに笑った。「せっかく生まれたインスピレーションですもの。形にしてあげないと、この子たちが不憫ですよ」ジュエリーは彼女にとって、単なる仕事の成果ではない。心血を注いで産み落とした、愛しい我が子なのだ。裕司はその想いを知り、それ以上は何も言わず、彼女を椅子に座らせて休ませた。杏奈が蒼白な顔で呼吸を整える間、フロアには重苦しいまでの静寂が流れた。結果は、もはや明白だった。誰もがその静寂を乱すことをためらっていた。その凝縮された静寂を破ったのは、地を這うような、男の掠れた声だった。「……俺の、負けだ」真紘は深く頭を垂れていた。その顔にどのような屈辱が浮かんでいるのか、誰にも窺い知ることはできない。ただ、彼の手によって掲げられた二つの宝石だけが、人々の目に鮮やかに焼き付いた。イヤリングとブレスレット。それは、一つの魂を分け合ったセットだった。人々がその素材を推測し、未知の技法に目を見張っていると、少し息を吹き返した杏奈が静かに語り始めた。「これはセット作品です。名は『モーニング・ライト・キス』」彼女の透き通るような声が響く。「私は、光とは宝石が反射するものではなく、その内側から生まれ出るものだと考えています」その一言は、プロたちの胸を鋭く穿った。言葉を咀嚼する暇も与えず、杏奈は続けた。「メインストーンには、あえてダイヤモンドではなく、高純度の無色サファイアを選びました。ダイヤモ
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第98話

その言葉を聞き、誰もが決着はついたと確信した。けれど、それはまだ終わりではなかった。「隠された意匠が、もうひとつ。ブレスレットの留め具の内側には、蓄光性の瑪瑙を組み込んであります。暗闇の中では、私が手描きした星の軌跡が浮かび上がり、『目に見えぬ光』を象徴するように設計しました」言葉が途絶えた瞬間、会場は水を打ったような静寂に包まれた。人々は叫びたかった。歓声を上げたかった。これほどまでに完璧な宝石の誕生を目撃できた奇跡を祝いたかった。けれど、あまりの衝撃に喉は枯れ、言葉を発することさえ叶わない。沈黙を破ったのは、居ても立ってもいられなくなったマーケティング部のディレクターだった。「三浦さん……完敗です。あなたの実力は、私の想像を絶していました。ですが、この繊細なカット技術、デザインの細部は、量産が可能なのでしょうか?」もし一点物で終わるなら、それは芸術としては至高だが、ビジネスとしての価値は限定的だ。「真の芸術は、唯一無二であるべきよ」杏奈の突き放すような言葉に、ディレクターの顔がわずかに引き攣る。だが、彼女の次の言葉が、彼の心臓を再び高鳴らせた。「ですが、量産化の工程案もすでに用意してあります。私の設計図通りに進めれば、この輝きを再現することは可能です。はい、先輩。これがその資料です」杏奈が資料を差し出そうとした刹那、横から鮮やかな手つきでそれが奪われた。気づけば資料はすでにマーケティング部のディレクターの手の中にあった。「河原社長、まずは拝見させてください。販路を見極めるのは役目ですから」ディレクターは形ばかりの苦笑いを浮かべたが、その手つきに迷いはなかった。ページをめくるごとに、彼の瞳は獲物を見つけたかのようにぎらつきを増していく。「素晴らしい。ルミエールに莫大な富が舞い込んでくる光景が、俺にはもう見えていますよ」「そのくらいにしておけ。腕を振るう機会なら、これから腐るほどある」取り憑かれたような部下の様子に、裕司は苦笑を漏らした。「ええ、ええ。その通りですとも!」ディレクターは弾かれたように何度も頷いた。「三浦さんさえいれば、我が社がデザイン不足に陥ることは万に一つもあり得ない。近いうちに、ルミエールの名は国際舞台を席巻することになるでしょう!」その言葉に、その場にいた全員が深く同意
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第99話

「鼻で笑わせるな。俺がルミエールを離れれば、他に行き場がないとでも思っているのか?」「え?」杏奈は呆然とした。そんな意図で言ったわけではない。弁明しようとした彼女に、真紘の激越な怒りが叩きつけられた。「認めよう、あんたのデザインは完璧だ。だが、あんたにしか作れない物などない。才能に溺れ、傲慢に振る舞い、他人を見下す。その果てに何があるのか、せいぜい見せてもらうとしよう」困惑する杏奈を置き去りにしたまま、真紘は背を向け、苛立ちを隠さずフロアを後にした。「……彼、少し極端すぎないですかね?」杏奈が裕司に問いかけると、彼もまた苦いものを噛み潰したような顔をした。「君に完膚なきまでに叩きのめされて、肥大した自尊心が収まりつかないんだろう。ほとぼりが冷めるまで、頭を冷やすよう命じておくよ」「そうですね……わかりましたわ」先輩に任せておけば大丈夫だろう。杏奈はそう納得し、周囲と短い会話を交わした後、裕司に支えられるようにしてフロアを後にした。渦中の二人が去った後も、フロアの熱気は一向に引く気配がなかった。杏奈を巡る議論は、堰を切ったように溢れ出し、止まるところを知らなかった。かつての否定的な空気は霧散し、そこにあるのは感嘆と賞賛の嵐だった。「バカは、俺たちの方だったな」「全くだ。口利きで入った腰掛けの素人だなんて、よくも言えたもんだ。正真正銘、次元の違うプロだったな」「これからは謙虚さを学ばないとな。彼女が度量の大きい人間で救われたよ。そうでなきゃ、今頃は全員お払い箱だ」「なあ那月、さっきの作品……正直、度肝を抜かれたでしょ?」「あっ、ええ、本当に……言葉を失うほど、見事だったわ」那月は、はっと我に返った。隣を歩く同僚が、好奇心に目を輝かせて尋ねる。「何を考えてたの?どうやってあの『新星』に取り入ろうか、早速そろばんを弾いてたんじゃないの?」那月が部内で人気を博し、誰とでも良好な関係を築いていることを知る者なら、当然の問いだった。「そうよ」那月は心を整え、同僚の言葉に乗った。「あれほどの方ですもの、どうにかして近付きたいと思うのは当然でしょう?お人好しそうだし、こちらから歩み寄れば、無下にされることはないと思うわ」その瞬間、那月の脳内で一つの明確な「勝算」が形を成した。これまでは美南の歪んだ言葉
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第100話

――リリリリン!不意に携帯の無機質な着信音が、静かなレストランに響いた。向かいに座る裕司が顔を上げると、杏奈が無表情に画面をなぞり、音を遮断するのが見えた。「誰だ?出なくていいのか」「気にしないでください」杏奈は、小春からの着信だとは告げなかった。心身ともに摩耗しきった今の彼女に、あの小賢しい娘を相手にする余裕など微塵も残っていなかった。裕司は深く追及せず、話を戻した。「今日の件はひとまず解決だ。あれほどの傑作を見せつけられれば、デザイン部の連中もぐうの音も出ないだろう」二つの完璧な作品は、彼女を取り巻く悪意ある噂を粉砕するのに十分な破壊力を持っていた。「だが、影で糸を引く黒幕を炙り出せていない以上、油断は禁物だ」「ええ、わかっていますわ」杏奈は頷き、不意に思い出したように尋ねた。「そういえば先輩、横井那月というデザイナーを知ってますか?」「横井那月?」裕司はわずかに眉を寄せた。「直接的な接点はないが、部内での評判は申し分ない。誰とでも良好な関係を築くタイプだそうだ。彼女をいじめていた者がいたらしいが、周囲から孤立し、早々に会社を去ったと聞いているよ」その言葉に、杏奈の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。那月のような執念深い女が、甘んじていじめを受けるはずがない。それは、彼女が邪魔な人間を巧妙に排除した結果に過ぎないのだ。「何か、彼女と確執があるのか?」杏奈の表情の変化を見逃さず、裕司が問うた。杏奈は隠すことなく、円香から聞いた話を簡潔に伝えた。「先輩が言っていた、社内の空気を操作している『新しい勢力』――その正体は、おそらく彼女ですよ」裕司は絶句した。誰もが称賛する「善き社員」である那月の裏の顔。わずかな沈黙の後、彼は重く口を開いた。「わかった。しかし、今はまだ彼女に手の内を明かすべきじゃないだろう。手の届く場所に置いておいたほうが、いざという時の対処もしやすい」「ええ、私もそう思っていたんですわ」杏奈が微笑む。「賢明だな」裕司もつられて笑った。「案ずるな、俺がうまく立ち回ってみせる」「頼りにしてますよ、先輩」穏やかに言葉を交わす二人の姿が、離れた場所から見守る一人の男の目に、酷く刺々しく映っていた。「蒼介、個室の用意ができたよ。小春ちゃんと紗里さんは先に向かった。さあ
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