All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

世話を焼く使用人だろうか。美味しい食事を作る料理人だろうか。寝る前に本を読み聞かせる道具だろうか。それとも、紗里といられない時に生じるやり場のない怒りをぶつける、都合のいいゴミ箱だろうか。羅列した選択肢の中に、「母親」という一枠も残されていないというのか。考えれば考えるほど、笑いがこみ上げるのを抑えられなかった。自らの不甲斐なさに、そして長年自分を慈しんできた母を失おうとしている小春の愚かさに。目の前の小さな欲に駆られて、もっとも価値のあるものを捨てる――いや、本人はそうは思っていないのだろう。むしろ、ようやくこの煩わしい母を振り切れると、喜んですらいるのかもしれない。まるで何らかの契約を交わすような、儀式めいた、冷ややかな距離を置いて、杏奈は静かに立ち上がり、一歩後ろに下がった。「これから先、もうあなたを煩わせることはないわ」その言葉を、かつて蒼介に言おうとしたことがあった。最初に告げる相手が、自分の娘になるとは思いもしなかった。小春は、呆然と固まった。「マ……ママ、今なんて言ったの?」杏奈は平然と繰り返す。「あなたの望み通り、これからはもう、あなたを煩わせたりはしないわ」「本当?」小春の顔に悲しみの色はなく、むしろ湧き上がる歓喜を隠しきれない様子だった。ママがもう邪魔しなくなれば、いつでも紗里ちゃんと遊びに行ける。想像するだけで、小春は瞳を輝かせ、この嬉しい知らせを今すぐにでも紗里に伝えたくてたまらない様子だった。杏奈は最後にもう一度だけ娘を見つめると、振り返って部屋を出た。かつて吉川の家を去ると決めた時と同じように、一片の未練も残さず。「ねえねえ紗里ちゃん、聞いて……!」背後から、小春の抑えきれない歓声が聞こえてきた。杏奈は一瞬足を止めたが、すぐに虚無を抱えたまま歩き続けた。「杏奈、大丈夫なの?」食卓の片付けを終えた恵理子が階段を上がってきて、心配そうに声をかけた。親子の会話こそ聞いていなかったが、誰の目にも、その姿は異様に映った。顔色は青白く、不快な耳鳴りに苛まれているのか、険しく眉を寄せている。その足取りは危うく、今にも階段から転げ落ちそうだった。「恵理子おばさん……大丈夫です」杏奈は手すりを強く掴み、無理やり微笑みを作った。「ここ数日、あまり休めていな
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第52話

翌朝。夜が明ける前に、小春はすでに飛び起きていた。眠りこけている杏奈を構わず、その体を力いっぱい揺さぶる。「ママ、早く起きて!」今日は紗里ちゃんと遊びに行く日。ママが早く起きて顔を洗わせ、歯を磨かせ、車で送ってくれないと、約束に遅れてしまうじゃない!「っ……」杏奈は強引に引き起こされ、割れるような頭痛に眉をひそめた。小春はそれをお構いなしに、杏奈が目を開けるなり、その腕を引いてベッドから引きずり出そうとした。「ママ、もう起きたんだから、早く支度させて!紗里ちゃんを待たせちゃうじゃない」杏奈は何も言わず、ただ呼吸を整えると、黙って小春の身支度を手伝った。リビングに降りると、月白色の部屋着に身を包んだ祐一郎が、仁王立ちで待ち受けていた。「来たか」祐一郎は二人を一瞥すると、車のキーをくるくると弄んでいた。「行こう。俺が送っていく」「お兄ちゃん、どうして……」杏奈は戸惑った。祐一郎がどうして小春の今日の予定を知っているのか。「いいから。お前、ひどい顔をしているぞ。そんな状態で運転して、事故でも起こされた日には目も当てられん。俺も特に用事はない、ついていくよ」祐一郎は説明を拒み、不敵な笑みを浮かべて外へと向かった。その瞳には、一歩も引かぬ鋼の決意が宿っていた。昨日の一日で、彼は知りすぎてしまった。杏奈が辛い思いをしているだろうとは予感していたが、これほどまでとは。己を失い、糸の切れた操り人形のように、生気を失っている。吉川蒼介。そして、藤本紗里。この二人が、人をここまで追い詰められる、いかなる手合いか。この目でしかと確かめてやる。杏奈は唇を噛み、祐一郎の後に続いた。小春は興奮を隠せず、弾むような足取りで跳ね回っている。幼い子供には、従兄妹の間に流れる張り詰めた空気など読めるはずもない。ただ、大好きな紗里に会える喜びと、久しぶりの叔父が送ってくれることに、はしゃぎ回っている。ママがいなければ、もっと最高なのにね。車は滑らかに走り、窓の外の景色が、後方へと飛ぶように流れ去っていく。小春が浮かれた声で紗里と電話をしている声以外、車内は静寂が支配していた。杏奈は何を話せばいいのか分からなかった。祐一郎が何かを察し、あえて同行を申し出たことは理解している。兄は蒼介に何をするつもりなのだろうか。不安が
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第53話

その睦まじい様子を見れば、事情を知らぬ者は誰もが、彼女たちこそが真の母と娘だと思っただろう。「……お兄ちゃん。帰りましょう」杏奈は強く唇を噛んだ。一刻も早く、この場を離れたかった。大切にする価値のない感情など、もう捨て去ると決めたはずだ。それなのに、紗里の懐で無邪気に甘える小春の姿を目の当たりにすると、どうしても心臓が嫌な跳ね方をする。「ふん。それは、いけないな」祐一郎は杏奈の懇願をさらりと流し、その口角に涼やかな笑みを浮かべた。「義弟とは、もう何年も会っていないんだ。せっかく顔を合わせたというのに、挨拶もなしに背を向けるなんて、義兄として筋が通らないだろう?」杏奈が止める間もなく、祐一郎はシートベルトを外し、流れるような動作で車を降りた。彼らの方へと歩を進める背中を追い、杏奈も慌てて後を追う。蒼介たちの身を案じているのではない。ただ、再建の途上にある三浦家が、これ以上泥を塗られるのを恐れたのだ。「よう、蒼介。久しぶりだな」その呼びかけに、蒼介の忌々しい記憶が呼び覚まされた。あの頃、祐一郎がまだ海外へ渡る前。彼はいつも、そうやって軽薄な笑みを浮かべて呼んでいた。今も、変わらぬままだ。「……三浦副社長」蒼介は短く頷き、突き放すような、冷ややかな挨拶を返した。祐一郎の笑みが、さらに深くなる。「耳が早いな。さすがだ。俺が昨日、三浦グループの副社長に就任したばかりだというのに。まだ公式な発表も出回っていないはずだが?」蒼介は、至極淡々と応じた。「三浦家は、もはやかつてのような名門ではない。御社の内部情報を掴むことなど、造作もない」「なるほど、確かに」祐一郎は納得したように頷いた。「だが、人は時に、自らの慢心ゆえに手痛いしっぺ返しを食らう。そうだろう?」「それで」蒼介が真っ向から祐一郎を見据えた。初めてその瞳が険しく細められた。「一体、何が言いたいのか?」睨み合う二人の間に、火花が散る。隣に立つ杏奈は、心臓の音が耳元まで響いてくるような緊張に包まれていた。場を和ませるべきか。けれど、従兄の面目を潰すような真似をすれば、彼の不興を買うかもしれない。杏奈はただ、必死の思いで祐一郎に視線で合図を送り続けた。祐一郎は、杏奈には目を向けなかった。蒼介の不遜な態度を意に介す様子もなく、ふっと短く笑ってから
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第54話

遠ざかっていく車のエンジン音。残された三人は、眉一つ動かさなかった。あたかも、彼女たちが消え去ったことなど、季節の移ろいほどにも価値のない出来事であるかのように。バックミラーから彼らの影が消えた頃、祐一郎は静かに車を停めた。隣で大粒の涙を零し続ける杏奈を振り返り、呆れたように、けれど慈しむように声をかける。「情けないな。何を泣いているんだ。男一人、それだけのことだろう?お前さえ望むなら、掃いて捨てるほどいい男を連れてきてやる。ガタイも良くて腕も立つ、選び放題だぞ」「……お兄ちゃん!何を言ってるのよ」杏奈は涙を拭い、恨めしそうに兄を睨んだ。泣きたくて泣いているのではない。けれど、感情というものは、時にどうしようもなく溢れ出す。長年の牢獄のような日々が、彼女の気力を削り取っていた。溢れ出る涙を止める術を、彼女は失っていた。けれど、泣くのも悪くはない。胸の奥に溜まった澱をすべて吐き出せば、少しは息がしやすくなる。泣き腫らしたあとの杏奈は、先ほどよりは幾分か心が軽くなっていた。「わかった、悪かったよ」祐一郎は杏奈の頬を指先で拭った。眼鏡の奥の目は笑っているが、そこには一片の温度も宿っていない。「……さて。お前、このまま一人で帰れるか?」「会社へ行くの?」祐一郎が昨日、三浦グループの副社長に就任したことは知っている。「仕事なら、私は一人で大丈夫よ」「ああ、会社へ行くよ」祐一郎は苦笑して頷いた。「親父もひどいものだ。私一人を酷使して、片付けるべき厄介ごとが山積みでね」「ふふ、能ある鷹は爪を隠すって言うでしょう?」杏奈は兄の肩を軽く揉んでやり、少しの会話を交わしてから、車を降りて彼の出発を見送った。もし今、杏奈が武史に電話をかけていれば、叔父がこの二日間、祐一郎に一切の仕事を振っていなかったことを知っただろう。ただ杏奈に寄り添い、気晴らしにでもなればと願っていた、そんな叔父の不器用な慈しみだった。「ふぅ……」そよ風が、杏奈の耳元で髪を揺らした。長く息を吐き、しばらくその場に佇む。さざなみ立つ心を静め、ようやく歩き出した。三浦の家にも、自分の家にも、今はまだ帰りたくなかった。ただ、当てもなく歩きたかった。風が頬をかすめる冷たさや、街角から聞こえる雑踏の音。それらが、心の傷跡を少しずつ癒していくような気がした
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第55話

事態が起きてから、血が止まっていないようだった。今すぐに手当をしなければ、迎えが来る前に、息絶えるだろう。「そう言われても、何も持っていないわ」医療キットも、清潔な布もない。杏奈には手の施しようがなかった。「ならどうにかしろ……」マスクの隙間から覗く男の瞳に、焦燥と苛立ちが混じる。……なんて間抜けな女だ。男は、自分を助けることになるこの女が、どれほど愚鈍な顔をしているのか確かめてやろうと顔を上げた。だが。その顔をはっきりと認めた瞬間、男は弾かれたように動きを止めた。「お前……!なぜ、お前がここにいる!?」驚愕の声が漏れる。「えっ?」杏奈もまた、予想外の反応に目を丸くした。「私のことを、知っているの?」「知らん」男は一瞬の沈黙のあと、自らの失言を塗りつぶすようにナイフを振りかざした。「だが、お前が早く手当をしないのなら、その喉を掻き切ることになるぞ」杏奈は思わず、呆れたように天を仰いだ。「まず、そのなまくらなナイフをしっかり握ってから言いなさいよ」その指先が、隠しようもなく震えている。「……ッ、余計なことを言うな。早く……はぁ、早く止血しろ」男は、正真正銘の限界を迎えていた。「はいはい、わかったから」杏奈は適当に受け流し、周囲を見渡した。どうやら顔見知りらしい。ならば、見捨てるのも寝覚めが悪い。結局、杏奈は男が着ている上着に目をつけた。引き裂こうと手を伸ばして力任せに引っ張ったが、布地は意外にも頑丈で、かえって傷口を抉ってしまった。男は激痛に襲われ、地面に転がって悶える。「お前っ!何をしてやがる!」「見ればわかるでしょう?」杏奈はきまり悪そうに口端を上げた。「あなたの服を、包帯代わりにするのよ」「自分のでやれ!」「嫌よ。どうして?」あまりに堂々とした拒絶に、男は絶句した。結局、屈したのは男の方だった。彼は服を脱いで渡し、杏奈は手際よく傷口を縛り上げた。「はい、血は止まったわ。私はもう行くから、あとは勝手にしなさい」男は罵声を投げようとしたが、声が出なかった。いや、勝手すぎるだろ!ほどなくして迎えの者が到着したとき、彼らを待っていたのは、負傷者による見境のない怒号だった。「元さん、北島社長からお電話です」高度な医療機器を揃えた車内で、手当を受けていた高岡元(たかお
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第56話

子供という生き物は、現実と空想の区別なんて、ついていないも同然だ。そのせいで、大人の測り知れないところで、多くの誤解を振りまいてしまう。杏奈は、小春が何を考えているのか測りかねていた。つい先ほどまで紗里に抱きつき、甘ったるい声でその名を呼んでいた子が、舌の根も乾かぬうちに自分を恋しがって甘えてくるなど、にわかには信じられなかった。もし本当に自分を求めているのなら、あの時、去ろうとした自分を引き止めたはずではないか。「もういいわ。用があるなら手短に言いなさい。ママはこれから忙しいの」杏奈には、無意味なやり取りに費やすつもりは毛頭なかった。来週の月曜日にはルミエールへの初出勤が控えている。残された数日で準備に追われる日々が目に見えていた。「ママ!」小春の声が、不満げに跳ねた。「あたしが病気だって、わかんないの?」病気――杏奈は沈黙した。先ほど感じた「母を求める純粋な甘え」など、やはりただの錯覚だったのだ。小春は賢い。自分のこれまでの振る舞いが、母の機嫌を損ねたことを察している。だからこそ、看病してほしいという本心を隠し、後ろめたさから「寂しがっている娘」を演じて、母を呼び戻そうとしているのだ。だが、小春にとっても当てが外れたはずだ。かつてあれほど献身的だった母に、これほどまでに冷ややかな口調で突き放されるとは、思ってもみなかっただろう。思い通りにいかないもどかしさが、小春の声に涙を混ぜさせた。「ママ、いったいどうしちゃったの?あたしが体調悪いって知っても、ほっとくなんて!もうあたしのことなんて、どうでもいいんでしょ!」そんな言葉を浴びせられても、杏奈の心にさざ波すら立たなかった。至って平静に、彼女は問い返す。「それで、結局何が言いたいの?」確かに、自分には小春に対する逃れられない責任がある。けれどそれは、以前のように神経をすり減らし、隅々まで世話を焼くこととイコールではない。小春が紗里を選んだあの瞬間、親子の絆は、小春自身の手で断ち切られたのだ。ならば、杏奈が「自分自身」に戻ることに、誰に文句を言われる筋合いがあるというのか。それに、電話口でこれだけまくし立てられるのなら、容体もさほど深刻ではないはずだ。蒼介もついているのだ、過度な心配は不要だろう。小春が言葉に詰まり、怒りに鼻を鳴らす音が受話器越しに届
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第57話

「いい加減にしろ!」杏奈の言葉を遮るように、蒼介の、冷徹な一喝が受話器越しに響いた。「後で小春を家に送る。お前がどこで何をしていようが知ったことではないが、家に戻って世話をしろ」それだけを一方的に告げると、蒼介は電話を切った。無機質な切断音が響き、通信が途絶えた。杏奈は携帯を握りしめたまま、自分が今、どんな感情を抱くべきなのかさえ見失っていた。実の娘が熱を出しているというのに、屋敷に丸投げして、自分は別の場所へ向かう父親など、この世に存在するのだろうか。いや、放置ではない。彼はこうして、母親としての義務を、事務的に通告したにすぎない。「……はぁ」杏奈は考えるのをやめ、車のキーを手に取って部屋を出た。それが情けなのか、あるいは母親としての最後の責任感なのか。どちらにせよ、放っておくことはできなかった。「今度こそ、少しは堪えてくれればいいのだけれど……」……「ママ、遅いよ!」杏奈が吉川の屋敷に到着したとき、時刻はすでに午後五時を回っていた。窓の外には毒々しいほどの夕焼けが広がり、怒りに満ちた小春の顔を真っ赤に染め上げている。子供というものは大人と違い、病という苦痛に晒されれば、感情を制御することなどできるはずもない。だからこそ、溜まった不満を遠慮なくぶちまけ、その激昂し、喚き散らすことで、病の苦痛を外へ逃がそうとする。案の定、一通り叫び散らした小春は、脳をかき乱すような頭痛が少しだけ楽になったのか、さらに追撃しようと口を開いた。「ママ、あたしを――!」甲高い罵声が、静かな廊下に響き渡る。階下の安達までが様子を窺いに顔を出したが、杏奈は最後まで眉一つ動かさなかった。ただ、底も見えないほどに、冷たく凪いだ瞳で小春を見つめる。心に波風一つ立たない。それは、光を通さない、濁った澱みのようだった。さすが、あの男の血を引く子ね。どちらの胸にも、冷え切った心臓が脈打っている。「三浦様……」ドアの影にいた安達がやるせなさに目を伏せ、杏奈を見つめた。「大丈夫よ」杏奈は安達に穏やかな笑みを向けた。「安達さん、解熱剤と、お湯で濡らしたタオルを用意してもらえるかしら。お願いね」「はい。すぐに準備いたします」小春の癇癪は収まる気配がない。それどころか、母の無反応がさらに火をつけ、彼女の不満を増幅させた。
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第58話

そう思うと、得体の知れない不安が小春の胸に染み出してきた。紗里はとても優しくしてくれるけれど、身の回りのことは、やっぱりママじゃないと嫌だ。たった二日間離れていただけで、小春は何をするにも不自由を感じていた。「ママぁ……」小春は、湿り気を帯びた声で呼んだ。「……怒ってる?」杏奈が怒っていることは、小春にも痛いほど知っている。だからこそ、そんな卑怯な質問ができる。「怒ってなんていないわ」杏奈の表情は、ぴくりとも動かない。「じゃあ、抱っこしてよ」小春は杏奈の懐へ潜り込み、その腰に細い腕を回して甘えた。小さな体は頼りなく柔らかで、ミルクのような甘い香りが鼻をくすぐる。その瞬間に、杏奈の脳裏をかつて小春を慈しみ、尽くし抜いた記憶がよぎった。凍りついていた心が、「ママ」という震える声に、ふっと緩む。「……はぁ」杏奈は音を立てずにため息をつき、小春を優しく抱きしめた。十月十日の月日をかけてお腹の中で育み、命を削る思いで産み落とした、大事な我が子。できることなら冷たく接したくなどない。ましてや、遠くへ突き放したいはずもなかった。だが、杏奈の目には映らなかった。懐に顔を埋めた小春の瞳に、勝利を確信したような狡猾な光が宿ったことを。やっぱり。少し甘えて「いい子」にしてれば、ママはどんなに怒ってても絶対に許してくれるんだ。「ママの手作りの味噌汁が食べたい」絆を取り戻したと確信した途端、小春は当然のように、わがままをねだった。杏奈もまた、拒むことはしなかった。「……わかったわ。部屋で少し横になっていなさい。下に行って作ってくるから」小春の頭を撫で、杏奈は部屋を後にした。その姿が見えなくなるやいなや、布団にくるまっていたはずの小春は抜け出し、必死にキッズ携帯を探し始めた。紗里ちゃん、今ごろ何してるかな?あたしのこと、考えてくれてるかな……病気じゃなければ、紗里ちゃんと一緒にいられたのに。……「三浦様」階下に降りてきた杏奈を、安達がすぐに迎えた。「何か、お手伝いすることはございますか?」「大丈夫よ。あの子に味噌汁を作りに来ただけだから」「味噌汁、ですか……」安達の顔が曇り、躊躇いがちに言葉を継いだ。「実は三浦様がこの家を出られてから、特別な食材を誰も注文していないのです。小春ちゃんが味噌汁をとおっ
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第59話

「ねぇ、紗里ちゃん。パパと二人だけで、あたしに内緒でご馳走を食べに行っちゃったでしょう」「まあ。病気が良くなったら、必ず連れて行ってあげるから。約束よ?」その一言で、ついさっきまで膨れていた小春は、ぱっと顔を輝かせた。「本当?じゃあ、忘れないでね。絶対だよ」「ええ、忘れるわけないじゃない……そういえば、ご飯は食べた?まだなら、今から美味しいものを届けさせようかしら」小春は反射的に飛びつこうとしたが、今味噌汁を作ってくれている母の存在を思い出し、がっかりと肩を落とした。「……やっぱり、いい。ママが今、味噌汁を作ってるから。紗里ちゃんの美味しいものが食べたいけど、ママが知ったらまた騒ぐもん」そこに、母への気遣いなど微塵もなかった。ママに見つかって騒がれるのが、ただ煩わしかったのだ。以前の小春なら、そんなことなど目もくれず、わがままを押し通したはずだ。けれど、先ほど母が見せたあの「怒り」を経験し、子供なりの損得勘定が働いたのだ。今はまずママを二、三日なだめておこう。そうしてママの心の中での自分の序列が元に戻れば、その時にまた、好きなだけ駄々をこねればいいのだから。だが、小春は知らない。今、ドアの外でその会話に聞き耳を立てている杏奈の瞳に、一片の揺らぎもないことを。安堵すべきだろうか。母親は、娘の底の透けた甘え言葉など、もはや心を許すことはなかった。いや、杏奈はただ悲しかった。己の不遇に、そして小春の浅ましさに。どれほどの時間が過ぎただろう。杏奈の足はしびれ始めていた。室内での密やかな共謀を思わせる会話が、ようやく終わりを告げる。小春は名残惜しそうに別れを告げると、慌ててキッズ携帯を隠し、何事もなかったかのように布団を被った。その直後、静かにドアが開いた。杏奈は味噌汁を手に、部屋へと入る。「できたわよ。起きて食べなさい」小春は、後ろめたさを隠すように母を二度、三度と窺った。さっき紗里と連絡を取っていたことが、バレてはいないだろうか。杏奈の無機質な表情に変化がないのを確認し、ようやく安堵の吐息を漏らすと、温まったばかりの布団から這い出した。「わぁ、ママの味噌汁、すごくいい匂い!」後ろめたさの裏返しだろうか。小春はまだ口にしてもいないのに、これ見よがしに、母への賛辞を並べ立てた。正直に言えば、杏奈は乾い
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第60話

泣き喚く子供を冷めた目で見つめながら、彼女に記憶の中のあの素直で愛らしかった娘と面影を重ねることさえ、今の杏奈には難しかった。おそらく、すでに消えてしまったのだ。父と母の間に立たされて前者を選び、母と父の不倫相手の間に立たされて後者へとその手を伸ばした瞬間、かつて杏奈に束の間の幸福をもたらしてくれた小春は、もうこの世にはいない。代わりにそこにいるのは、恩知らずで、底なしの強欲の塊のような小さな暴君だ。そう思うと、杏奈は静かに目を閉じ、胸に込み上げる熱いものを、瞼の裏に閉じ込めた。せめて、記憶の中に残る最後の美しさだけは汚されぬよう、必死に留めようとした。だが、杏奈の沈黙を要求を満たされなかった小春は「無視」と受け取り、完全に逆上した。ママが以前のような極上の味噌汁を作ってくれないだけでなく、あまつさえ、自分を無視している。やっぱり、ママは紗里ちゃんみたいに、我慢強く丁寧に世話をしてくれないんだ。今日はどうして世話をしないで、ママに押し付けたんだろう。紗里ちゃんには用事があったんでしょ。遊ぶのも用事?子供にとって、遊ぶことこそが世界で一番大事なこと!「ママぁ!」小春の甲高い叫びが部屋を震わせた。杏奈が目を開けた瞬間、その視界は凍りついた。小春がベッドの上に立ち上がり、味噌汁の入った碗を両手で掲げ、こちらに投げつけようとしていたのだ。明らかに杏奈を狙ったその一振りに、自分に熱い味噌汁が降りかかるという懸念など微塵もなかった。「小春!」杏奈は悲鳴のような声を上げた。だが、避けることはしなかった。大股で駆け寄り、小春の手から碗を奪い取ろうと手を伸ばした。何と言おうと、小春は自分の娘だ。命を削って産み落とした、血の繋がった娘なのだ。感情がどれほど摩耗していようとも、母親としての本能が、危険に晒される我が子を見過ごすことなどできなかった。出来立ての味噌汁だ。その熱が幼子の柔らかな肌を焼けば、取り返しのつかない傷跡を残すだろう。ガシャン!ほどなくして、陶器の砕ける鋭い音が響いた。熱い味噌汁が床一面に飛散し、白い湯気がもやのように立ち昇る。杏奈は、その中へ飛び込んでいた。表情に微かな苦痛を滲ませ、あらわになった左手の皮膚が瞬く間に赤く染まっていく。けれど、杏奈は己の傷など目に入らない様子で、
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