All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

もしそうなら、あらかじめ鉢合わせを避けるのが賢明かもしれない。「それが……」その話題になった途端、安達は困惑を顔に滲ませた。「小春ちゃんが……三浦様に顔を洗ってもらって、歯を磨いてもらわないと絶対に起きない、と言い張りまして」だからこそ、安達は杏奈の姿を見るなり駆け下りてきたのだ。あの小さな暴君を、使用人たちの手に負えるはずもない。杏奈も、それは痛いほど知っていた。正直、一歩も足を踏み入れたくはなかったが、安達たちをこれ以上困らせるわけにもいかない。彼女は小さく頷いた。「わかったわ。先に小春に伝えておいて。すぐに上がるから」「ありがとうございます。では、よろしくお願いいたします」面倒か、と問われれば。ええ、これ以上なく面倒だった。以前の杏奈なら、娘に必要とされることを何よりの喜びに感じていただろう。顔を洗うにしても、お湯に指先を浸し、その温もりを確かめてから触れさせていた。けれど今は、ただ胃の底を焼くような苛立ちが募るだけだ。さっさと起きて身支度を済ませれば、すぐに出発できるというのに。どうしてこれほどまでぐずるのか。子供ゆえの、無邪気な顔をした、残酷な独占欲なのだろうか。けれど、紗里が一言命じれば、小春は喜んで飛び起き、誰の手も借りずに支度を済ませるのだ。そこまで考えて、杏奈は長く重い息を吐き出した。しばらく車内で目を閉じ、波立つ心を静めてから、ようやく、拒絶する体を無理やり車外へと連れ出した。一見華やかだが、その内側には冷淡な嫌悪だけが渦巻く別荘へと足を踏み入れる。……「ふん。あの人を許したわけじゃないんだから!あたしがちゃんとお仕置きしてやるよ。紗里ちゃんをいじめたらどうなるか、思い知らせてあげるの」安達がどれほど杏奈を擁護しても、小春は聞く耳を持たなかった。まるで大金星でも挙げたかのような、得意げな顔。これを紗里が知ったら、きっと最高に褒めてくれるに違いない――その確信が、小春を突き動かしていた。「小春ちゃん……」「もう、安達さんは黙ってて!」小春は苛立たしげに安達を睨みつけた。「安達さんにお給料を払ってるのはパパでしょ?どうしてそんなにママの味方ばっかりするのよ」あら、ママだという自覚はあるのね。安達は、言いかけた言葉をそっと奥歯で噛み殺した。この子の短気な性格はよ
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第42話

杏奈は、その視線に込められた意図を意に介さず、淡々と娘を見据えた。「顔を洗って、歯を磨いてほしいんでしょう?」「そうだけど」小春は頷き、その口元に意地の悪い笑みが漏れた。また何か、くだらない悪だくみでも閃いたに違いない。「じゃあ、来なさい」「え?」振り返りもせず洗面所へと向かう背中に、抱っこをせがんで伸ばした両手は、虚空を掴んだ。ママ、抱っこしてくれないの?計画では、抱き上げられた瞬間にわざと髪を強く引っ張り、紗里ちゃんの仇を討ってやるつもりだったのに。「ママ、抱っこは!?」小春が焦ったように叫ぶ。「あなたはもう、赤ちゃんじゃないでしょう」杏奈は足を止めることなく、冷淡に言い放った。「もう、ママの抱っこは必要ないはずよ。自分でベッドから降りてきなさい」逃げ場のない拒絶に、小春は言葉を失って固まった。いつもなら、あたしが怪我をしないか、転ばないかと、あんなに腫れ物に触るように心配していたのに、どこへ行くにも抱き上げたがっていたはずなのに。小春は恨めしげに、高さ五十センチほどのベッドの縁を見つめた。ママ……あたしが落ちても、怖くないの?返事は、分かるはずもない。小春は仕方なく、無様に腹這いになり、ベッドから這い降りる。お尻を突き出しながら必死に足を伸ばして床を探った。ようやく着地したときには、ひどく息を切らせていた。それと同時に、母への憎しみが、一気に沸点に達した。小春は洗面所へと駆け込み、怒声を張り上げた。「ママ、どうして抱っこしてくれないのよ!」「さっき説明したはずよ」杏奈は濡らしたタオルを、無造作に小春へ差し出した。「さあ、自分で洗いなさい」またしても思いもよらない仕打ちに、小春は信じられないものを見るかのように目を見開いた。「……洗ってくれないの?」復讐計画その二。顔を洗ってもらうついでに、わざと水を跳ね飛ばしてママを濡らしてやるつもりだった。けれど今、小春は洗面台にすら手が届かない。「あなたはもう、小さい子じゃないから。ママは……」「もう、いい加減にしてよ!」小春がいら立ちを爆発させる。「ママは、それしか言うことがないの!?」一瞬の沈黙のあと、杏奈はただ、突き放すような一言を投じた。「……手伝わないわ」「どうして!?」小春は眉をひそめ、激しく詰め寄った。母の豹変
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第43話

けれど今、小春が洗い終えて、強くこすりすぎた頬が赤く火照りだしても、過保護だった母は労いの言葉ひとつ、かけなかった。終始、杏奈の瞳は、薄気味悪いほど凪いでいた。まるで、道端の石ころでも眺めるような、無関心。そんな眼差しを向けられたのは、人生で初めてだった。理由のわからぬ不安が復讐心に代わって、小春の胸にじわりと、心の奥を侵食していく。「ママ……」小春は恐る恐る、母を見上げた。「……小春のこと、嫌いになっちゃったの?」「どうしてそんなことを思うの」杏奈の唇に、形ばかりの薄笑いが浮かぶ。「あなたは私の娘よ。嫌いになるわけないでしょう」嫌いとは言わなかったが、好きとも言わなかった。その言葉の裏にある、残酷なニュアンスまでは届かない。ただ、ママはこれまで嘘をついたことがないから、その言葉は真実なのだと自分に言い聞かせた。そうよ。あたしはママにとって一番大切な存在なんだから、嫌われるはずがない。「じゃあ……歯磨き、手伝って」「ええ、わかったわ」今度は拒まなかった。子供の歯磨きには、誤飲や喉を突くといった危険が伴う。どれほど心がすり減っていようと、母親という役割を捨てきれないがゆえの、義務感がある以上、実の娘を危険に晒すわけにはいかなかった。小春は、それで確信に変わった。やっぱりママはあたしを愛しているんだ、と。まあ……これだけあたしを愛してくれているんだから、今回だけは許してあげよう。でも、紗里ちゃんにはちゃんと謝ってもらわなきゃ。彼女が不機嫌なのは嫌だもん。「んっ!」小春が謝罪についての条件を切り出そうとした瞬間、歯ブラシが、有無を言わさず口内にねじ込まれた。乱暴ではないが、決して優しくもない――慈しみの欠片もない力加減で、機械的に磨かれる。「ぐっんーんー!」不快感に小春が眉を寄せるが、杏奈は気にも留めない。ただ一刻も早く、この儀式を終わらせたかった。ずいぶんと時間を取られてしまった。これ以上遅れれば、三浦家に着く頃には日が傾いてしまう。歯磨きとうがいが終わり、小春が文句を言おうとしたときには、杏奈はすでに着替えを手に取り、乱暴に着せつけていく。襟元をぐいぐいと引っ張られ、小春の顔は歪み、言葉を発する隙も与えない。着替えが終わる頃には、歯磨きの不満など記憶の彼方に消し飛んでいた。「行くわ
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第44話

「わかった」蒼介は短く答え、小春の頭を撫でた。「早く行け。ママが外で待っている」「うん」小春は力なく返事をした。紗里と遊びに行けない事実に、気分がひどく沈んでいる。屋敷を出る間際、彼女は振り返って必死に畳みかけた。「パパ、明日は絶対に早く迎えに来てね」「わかっている。いいから、もう行け」蒼介ははぐらかすような返答をしたが、小春はお構いなしに、足早に外へと駆けていった。父は明日、学校を休ませてくれると約束してくれた。また紗里と過ごせるのだと思えば、沈んでいた心も、一気に跳ね上がった。「……早く今日が終わればいいのに」三浦家へ向かう車の中で、小春がふとそう呟いた。口にしてからまずいと思ったのか、気まずそうに杏奈を窺った。ママ、聞いてないよね?杏奈は聞いていた。けれど、もはや何も感じなかった。娘がなぜ今日を早く終わらせたいと願っているのか、理由は痛いほど分かっている。明日、紗里と遊べるからだ。それに対して、何を感じろというのか。どんな感情を持てば正解だというのか。人を真に切り裂くのは、嘘ではない。常に、剥き出しの真実だ。すでに穴だらけになった心に、さらにひとつ傷が増えたところで、いまさら粉々に砕けることもなければ、癒えることもない。たとえ時間がいつか洗い流してくれたとしても、そこには醜い傷跡が、消えない痕跡として、刻まれ続ける。……三浦家が没落して以来、叔父一家はかつての豪邸を去り、今は小ぢんまりとした洋館に身を寄せている。吉川家からそう遠くないのは、杏奈に何かあったとき、すぐに駆けつけられるようにという配慮からだった。けれど、地価が高騰を続ける濱海市の一等地で、その献身的な配慮を維持するのは、血の滲むような努力があったに違いない。家族全員が倹約に努め、叔父は私財を投げ打ち、会社の立て直しにすべてを捧げていた。一時間ほどのドライブを経て、ようやく洋館のシルエットが見えてきた。チャイルドシートの小春は、もう半分夢の中だ。「ママ、まだ着かないの?」「もうすぐよ。あの角を曲がればすぐ」前方の曲がり角を回ると、洋館の門前に立つ人影が見えた。杖をついた祖父が、遠くからこちらに向かって力いっぱい手を振っている。その傍らには、世代の違う二人の男性が寄り添っていた。年長の男は、柔和な笑みを
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第45話

隆正は、小春を抱き上げるたびに髭をすり寄せてあやすのが癖だった。それが痛くて不快なのだと、小春は容赦ない拒絶を突きつけた。隆正は、曾孫なりの「甘え」だと思って流した。けれど杏奈の耳には、この数年間に自分が施してきた教育が、虚空に言葉を投げ捨てるような無駄骨であったと、告げられたように響いた。「小春。曾おじいちゃんに謝りなさい」杏奈は眉をひそめて娘を厳しく見据えた。紗里と一緒にいるときは、好きにすればいい。家じゅうをひっくり返そうが、知ったことではない。けれど、自分を心から愛してくれる家族に対し、これほどの無礼を働くことは、断じて許せなかった。「嫌よ!」小春は口を尖らせた。「悪いのは曾おじいちゃんなのに、どうしてあたしが謝らなきゃいけないの?」「小春。曾おじいちゃんが、あなたの嫌がることをしてしまったのは確かよ。配慮が足りなかったかもしれないわ」杏奈は、事実は否定しなかった。「でも、断るにしても、もう少し優しい言い方はできなかったの?いつもあなたを大切にしてくれる曾おじいちゃんが、その言葉を聞いてどう思うか。曾おじいちゃんを悲しませるかも、とは考えなかった?」杏奈の教育方針は常に一つだった。事実をありのままに伝え、正しいことは正しく、悪いことは悪いと教えること。曖昧に濁すことは決してしない。だが悲しいかな、娘の心はとうに父親に支配されていた。小春は母親の道理に耳を傾けるより、駄々をこねてでも蒼介の影を追うことを選んだ。振り返ってみれば、こうして正面から小春を諭すのは、いったい何年ぶりのことだろうか。杏奈が教育を終えるまで、周囲の三人は静かにそれを見守っていた。話が一段落すると、隆正が苦笑しながら近づき、自ら頭を下げた。「曾おじいちゃんが悪かった。小春ちゃんの気持ちを考えずに抱き上げようとしてすまなかったね。次からは気をつけるから、もう怒らないでおくれ」小春は不機嫌そうに「……うん」とだけ頷いた。「それで?次は何を言うべきなの?」杏奈の眉間はまだ険しいままだ。今日ばかりは、娘がよく口にする「悪いママ」に徹するつもりだった。幸い、小春もまだ状況を察するだけの賢明さは持ち合わせていた。曾祖父という、無条件の味方の前では素直に頭を下げた。「……曾おじいちゃん、ごめんなさい」「いいんだよ、大丈夫
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第46話

「それが、隠し事の正体か?」祐一郎が静かに問うた。三浦家の再興のため、彼は早くから海外へ渡っていた。業界の動向を学び、もし三浦家が完全に沈んだとしても、一族と共倒れになるのを避け、再起の足がかりを築くためだ。ゆえに、彼は杏奈の近況を詳しくは知らなかった。両親からの断片的な話と、杏奈との電話で交わされる「すべて順調よ」という嘘。そして今、その欺瞞は小春の振る舞いによって無残に打ち砕かれた。あんな態度は、幸せな家庭で育った子供が取るものではない。これから杏奈は、息が詰まるような、「逃げ場のない愛」を受けることになる。「……隠そうとしたわけじゃないの」杏奈は肩をすくめ、身を縮めた。従兄の愛情は知っているが、それでもやはり、怖い。「ただ、みんなを心配させたくなかっただけ。気を揉ませたくなかったのよ」三浦家の危難だけで、この大家族はすでに限界まで疲弊している。自分の不遇で、これ以上、心労を重ねさせたくなかった。祐一郎は沈黙した。細い目をさらに細め、その底知れぬ思考は、誰にもうかがい知れない。もう返事はないだろうと杏奈が諦めかけたとき、彼は淡々と言葉を落とした。「俺たちの不甲斐なさが、お前を縛りつけたんだな」もし三浦家が揺るぎない権力を持っていれば、吉川の連中が、一族の掌中の珠である杏奈をこれほどまで舐められることなど、万に一つもなかったはずだ。祐一郎は、今ほど権力を切望したことはなかった。「お兄ちゃん……」杏奈の視界が、じわりと熱を帯びていく。「お兄ちゃんたちのせいじゃない。みんな、私に十分すぎるほど良くしてくれた。悪いのは、私……」言葉が詰まった。杏奈はさらに深く頭を垂れる。「私が、お兄ちゃんの反対も、みんなの忠告も聞かずに、蒼介と結婚したいって、無理を通したのは私よ。自分自身で決めた道だもの。こんな経験をするのも、自業自得だわ」大人の選択に、誰にも救いを求める資格なんてない。けれど、杏奈は忘れていた。彼女が三浦家の娘であり、一族全員の手のひらで大切に育まれてきたという事実を。かつての明るさを失い、縮こまって耐え忍ぶ彼女の姿に、祐一郎の怜悧な表情の下で、冷徹な、けれど苛烈な怒りが、静かに鎌首をもたげていく。吉川蒼介――濱海市の頂に座す、絶対的な権力者。祐一郎は目を細め、ふと冷ややかに笑った。どの
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第47話

「はっはっは!」「お兄ちゃん!」杏奈は眩しさに目を細め、チカチカする目をこすりながら、恨めしそうに祐一郎を睨んだ。「すまん、悪かったよ」祐一郎は喉を鳴らし、ようやく笑い声を収めた。「太陽に直接向けるんじゃない。こうして、光を遮るんだ」杏奈は背中を向けて日差しを避けるように、改めてボックスを開いた。ようやく、その全貌が露わになる。水の流れをそのまま形にしたような、クリスタルのネックレス。何より驚嘆すべきはその精緻な技術だった。繋ぎ目が一切見当たらない。すべてが一つの水晶から透かし彫りで削り出されているのだ。全体が、まるで手で掬い上げたばかりの清水のように、瑞々しく輝いている。「どうだ?」祐一郎が横から覗き込んだ。「悪くないだろう?」「悪くないどころか……」あまりの衝撃に、杏奈は言葉が出てこなかった。「……素晴らしいわ」国内に類似のスタイルがないわけではない。水の流れをジュエリーに写し取るという発想自体は、決して珍しいものではないからだ。けれど、杏奈がこれまで見てきたどの作品とも、これは決定的に違っていた。形を模しただけの、魂の通っていない意匠ではない。そこには、生きた水の魂が宿っている。例えるなら、生命感溢れる動物の彫刻と、稚拙な粘土遊びほどの差があった。「お兄ちゃん、これ、どこで手に入れたの?」杏奈は身を乗り出して尋ねた。このデザイナーの感性に触れることができれば、今の自分にとって何よりのインスピレーションになるはずだ。祐一郎は多くを語らなかった。「とうに引退したデザイナーだよ。引退の花道に、持てる情熱のすべてを傾けた集大成だそうだ」海外の闇の市場では、すでに一千億円を超える値がついていた。けれど祐一郎は独自のルートを辿り、地を這うような執念でデザイナーの居所を突き止め、直接掛け合ったのだ。その時負った脇腹の銃創が、今もじりじりと熱を持っている。けれど、それを微塵も感じさせぬ顔で、祐一郎は妹の無邪気な笑顔を見つめた。……これでいい。報われた。「お兄ちゃん、本当にありがとう!」潤んだ瞳で、まっすぐに感謝を伝えた。「このジュエリー、本当に、本当に大切にするわ」「お前が喜んでくれれば、それでいいさ」祐一郎は穏やかに微笑んだ。「ねえ、名前はあるの?」「『ロー・デ・ゼトワール』。天上の星々に囲まれ
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第48話

祐一郎の瞳の奥に、一瞬だけ昏い火が灯った。この件は、祐一郎にとってだけは決して終わらない。笑い、からかい、穏やかに接しているのは、決して許したからでも、諦めたからでもない。ましてや、妹が受けた屈辱を水に流すつもりなど毛頭ない。すべては、煮えくり返るような怒りが爆発するまでの、冷徹な偽装に過ぎなかった。事を成すには忍耐を、謀には隠密を。万全の準備が整うまでは、たとえ吉川蒼介と対峙しても、彼は最高の笑顔で挨拶を交わすだろう。「さあ、入れよ」再び杏奈の頭を乱暴に撫で、祐一郎は家の中を指した。「俺たちのペースで立ち話なんてしていたら、中に入る頃にはみんな食後の茶をすすっているぞ」「ふん、平気よ」「ああそうだな、お前はいいよな。どうせお母さんが飯を残しておいてくれるんだから。不憫なのは兄貴だけさ。皿の残り汁でも啜っていろと言われるのが関の山だ」……食後、午後の二時を回った頃。窓の外の日差しは一段と強まり、静寂が家を包む。隆正が昼寝に入る時間だ。祐一郎は隆正と、遊び疲れてぐったりとした小春を連れ、先に二階へと上がった。叔母の恵理子は、テーブルに並んだ食器を手際よく片付けている。叔父の武史が上着を手に、会社へ戻ろうとしたその時、杏奈が呼び止めた。「おじさん、少しお待ちください」「杏奈か」武史は振り返った。そこには、いつもの慈愛に満ちた笑みがあった。「俺に何か用か……」言葉が途切れた。差し出されたキャッシュカードを見つめ、武史の唇が微かに震える。「……杏奈、持って帰りなさい。俺にはもったいない」「おじさん、受け取ってください」杏奈は一歩も引かなかった。けれど武史もまた、頑なに首を振る。「この数年、お前からは何度も援助を受けた。だが会社は一向に上向かず、業種転換という苦渋の決断を下すまでに追い詰められた。これ以上、お前の金を無駄にするわけにはいかない」姪が吉川家でどれほどの辛酸を舐めているか、彼は知っている。助けてやりたい。だが、自分にはその力がない。せめて、彼女の手元にわずかな金でも残っていなければ、この先どうやって生きていくというのか。以前は姪の孝行だと思って受け取っていた。けれど今、杏奈の命綱であるそのカードを受け取ることなど、到底できはしなかった。「おじさん!」杏奈は拒む手を退け、
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第49話

だが、それでも……「杏奈、俺の話を聞きなさい……」姪の金を受け取るなど、到底できるはずがない。だが、拒絶の言葉を口にする前に、背後から呆れたような声が割り込んだ。「親父、受け取ってやれよ」祐一郎が、いつの間にか姿を現した。「二人で押し問答して、疲れないか?無駄な意地の張り合いはやめてくれ」「だが、この金はお前の妹が……」「いいんだって。親父が妹だと言ったんだろう?なら、俺が妹の金を使って何が悪いんだ」祐一郎は父の懸念など百も承知だ。だが、杏奈がどれほどの蓄えを持っているというのか。この数年の援助を考えれば、たかが数千万そこらだろう。自分が動けば、すぐにでも埋められる額だ。今はこの金を受け取り、杏奈のために運用して、何十倍にも膨らませて返せばいい。彼女に自信を取り戻させるには、それが一番の近道だ。「お前!」息子の真意を知らぬ武史は、無遠慮な物言いに色をなして、太い拳を振り上げた。幸いにも杏奈が割って入り、祐一郎は鉄拳制裁を間一髪で免れた。「親父、俺は帰国したばかりで、まだどれだけのことが出来るか自分でも分かっていないんだ。二、三日、待っていてくれ」そう言い残すと、祐一郎は鮮やかな手つきで父の手からカードを奪い取り、風のように立ち去った。「あのバカ息子……数年会わないうちに、図々しさだけは一人前になりやがって」武史は呆れた顔で杏奈を見た。「杏奈、心配するな。あいつが戻ってきたら説教の一つもして、無理やり返させるから」杏奈は静かに首を振った。「いいんです、おじさん。元々お渡しするつもりだったのですから。お兄ちゃんが使っても同じことですわ……私たちは家族でしょう?私を他人扱いなさるのですか?」「……わかったよ」武史はそれ以上言わず、上着を羽織ると、足早に屋敷を出た。……一方。屋敷を離れた祐一郎は、細長い指先でくるくると、器用にカードを回していた。彼は思考より先に行動する男だ。手に入れた資金は、寝かせておけば死に金になる。損を恐れて立ち止まることなど、露ほども考えていない。やってみなければ、結果は出ないのだ。もちろん、それは自分の腕への揺るぎない確信があってこその無謀。「宝石、か」祐一郎がぽつりと呟いた。三浦家の再建計画に、宝石業界は含まれていない。あまりにリスクが高すぎる
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第50話

電話の相手は怪訝そうな声を漏らす。「天下の三浦様が、柄でもない宝石にいつから興味を持たれたんですか?まさか、銃のグリップにでも埋め込んで、敵の目を眩ませるおつもりで?」「いいから、無駄口を叩かずに探せ」「はいはい、すぐに取りかかりますよ」電話を切ると、祐一郎は巨大なLED画面に映し出される吉川家のジュエリー広告を見上げた。その瞳に、射すような光を宿す。杏奈が受けた苦しみ――その一つひとつを、必ず取り戻してやる。……「ふん、取り戻してもらわなくていいもん」三浦家、杏奈の部屋。休んでいたはずの小春はすでに跳ね起き、上機嫌で紗里と長電話に夢中になっていた。隣に座る杏奈が何を感じているかなど、微塵も気にかけていない。……ああ、もう慣れたわ。それほど痛くもない。杏奈は自分に言い聞かせた。けれど。小春が、かつて杏奈が贈った誕生日プレゼント――寝る間も惜しんで、慈しむように自らの手で彫り上げた髪飾りを、こともなげに他人に譲ろうとしているのを聞いた瞬間。どうしようもなく、心臓を素手で握りつぶされたような痛みが走った。小春にとって、母が心血を注いだ真心さえ、それほどまでに、ガラクタ同然だというのか。「あたしのものなんだから、誰にあげようがあたしの勝手でしょ。ママだって文句なんて言えないんだから」紗里への返答は、そのまま杏奈への最後通牒だった。窒息しそうな部屋の空気に耐えられなくなり、杏奈は立ち上がろうとする。だが、杏奈の膝を枕にしていた小春が不機嫌そうに声を荒らげた。「ママ、動かないでよ。今、頭が落ちそうになったじゃない」杏奈は何も言わず、ただ静かに小春を見つめた。一方、電話の向こうの女は、わざとらしく驚いて見せた。「あら!小春ちゃん、ママも隣にいるの?」「うん」「……じゃあ、さっきの話、全部聞かれてしまったんじゃないかしら?」「聞かれたよ」小春は悪びれる様子もない。「紗里ちゃん、それがどうしたの?聞かれたって別にいいでしょ」紗里ちゃんと話しているだけなのに、まさかママ、これもダメだなんて言わないわよね?小春は挑発するように母を仰ぎ見た。杏奈の顔色は沈んでいたが、小春に恐れる様子は微塵もない。それどころか、弾かれたように身を起こすと不満をぶちまけた。「ママ、いちいち大げさにしないでよ!
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