All Chapters of 時の流れに抱かれて、彼女は消えた: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

克成は旭を突き飛ばすと、大股で駆け出し、大介の手から車の鍵をひったくった。「I国行きの飛行機を予約しろ」一刻たりとも待てなかった。I国中を探し回ってでも、明里を見つけ出す。その思いだけが彼を突き動かしていた。時雨家、明里の寝室。旭は地面から跳ね起き、昴の腕を掴んで半狂乱になって叫んだ。「兄貴、明里はI国のどこに行ったんだよ、早く教えてくれよ!」小さい頃から、明里は何があっても昴に打ち明けてきた。だが昴は今回、何も言わずに顔を手で覆っている。明里に初めて会った時から、彼はこの柔らかく小さな妹を守ると誓っていた。幼い頃、両親が仕事で忙しく、三人の弟妹は彼が一人で育てた。明里だけが彼の首に抱きつき、飴を口に入れて「お兄ちゃん、お疲れ様」と笑ってくれた。少女が成長してからは、服の一着一着まで彼が手配した。明里がどこへ行くにも、必ず彼に一言添えてから出ていった。しかし今回は、何の挨拶もなく消えてしまった。「兄貴、何か言ってくれよ!」湊もたまらず声を上げる。五歳の時、遊びに夢中になって水に落ちた湊を、明里は考える間もなく飛び込んで助けようとした。だが、湊の背丈の半分にも満たない小さな体では、湊を引き上げられるはずもなかった。まるで引きずり込まれるように体が沈んでいっても、明里は決して手を離さなかった。救助が遅れていれば、明里の人生はあの瞬間、永遠に五歳で止まっていたかもしれない。それ以来彼女は病弱になり、湊もまた医学を学び、命がけで自分を救ってくれた妹の世話をすると誓った。だが陽葵が来てからというもの、今度は彼女が常に病に悩まされるようになった。湊は思った。少しだけ陽葵の面倒を見るくらいなら、明里は長く時雨家にいるのだから気にしないだろう、と。けれど明里は気にしていた。そして、この家を去ってしまった。その「少しだけ」のはずの世話のために、湊は明里に向けるはずの愛情をすべて手放してしまった。何年も明里の体調を診てきたのに、明里の妊娠にさえ気づけなかった。湊は、救出された後の明里の言動を一つ一つ思い返す。大切に育てられてきたが、明里は驚くほど我慢強い子だ。相当な痛みがなければ、あんなひねくれた行動はとらなかっただろう。「兄貴、お願いだから、教えてくれよ!」昴が沈黙を貫くなか、
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第12話

I国の首都に到着したばかりのフライトが滑走路に降り立った。空港を出た途端、明里の視界に清水の光り輝く頭頂部が飛び込んでくる。「清水先生!」思わず力いっぱい手を振ると、清水は安堵の笑みを浮かべた。「明里、ダンスを諦めなかったんだな。本当に嬉しいよ」その笑顔を見た瞬間、胸に巣食っていた重たい憂鬱がすっと消えていくようだった。清水は明里にとって、ただの恩師ではない。キャリアの浅い彼女を特待生として迎え、数々の反対を押し切ってセンターに立たせた、恩義と信頼の象徴のような存在だった。「こちらは君の後輩、緒方安幸(おがたやすゆき)だ」清水が身を引くと、隣に立つにこやかな男性が頭を下げた。「先輩、僕たち小さい頃に会ってるんだよ。うちが海外に移住したから、もう覚えてないかもしれないけど」安幸は自然な仕草で明里のスーツケースを受け取る。明里は、この明るく元気な青年の整った顔立ちを見つめながらも、幼い頃に「明里姉ちゃん」とまとわりつき、鼻ちょうちんを膨らませていた近所のコロコロとした男の子とどうしても結びつけられなかった。女が成長すると変わるというが、どうやら男にも当てはまるらしい。黙り込んだ明里に、安幸は完璧な紳士の一礼をしてみせる。「これから仲良くしてね。かわいくて、綺麗な明里先輩」「おい、明里をびっくりさせるんじゃない」清水に足を蹴られ、安幸は大げさに呻き声を上げた。その様子がおかしくて、明里は思わず口元を緩める。安幸のきらきらと輝く瞳を見ていると、胸に差していた暗い影が薄れ、体の内側から少しずつ温かさが戻ってくるようだった。「さあ、明里。とりあえず、私が借りておいたアパートに来なさい。ダンスカンパニーの寮も見てきたが、君には合わない。医者の予約も取ってあるから、定期的に診てもらうんだよ、いいね?」清水は運転しながら、道中ずっと口やかましく注意を重ねた。横では安幸が茶化すような相槌を打つものの、そのたびに清水に睨まれている。二人がじゃれ合うように言い合う姿を見て、明里の心も次第に和らいでいった。「そうだ、今夜はみんなでアパートで食べようよ。僕が料理を振る舞うから」清水も頷いた。「こいつは料理が上手いんだぞ」「本当?料理もできるなんて意外だね」明里の驚きに、安幸は照れくさそう
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第13話

「安幸さん、私たち会ったばかりだし、この仕事、私の専門には合ってないわ」明里と安幸はしばし見つめ合った。明里より六つ年下のこの男が、拒まれてしょんぼりしているのか、それとも負けん気を見せているのか、その入り混じったまなざしで彼女を射抜く。その瞳はきっぱりとした光を宿していたが、次第に拗ねたような色を帯び、まるで褒めてもらえなかった子犬のように潤んでいった。「そっか……じゃあ、先輩、僕もう一つ仕事があるんだけど、うちの会社のモデルになってくれないかな!海外で時代劇のモデルって、なかなか見つからないんだ。先輩、僕を助けると思って、ね、いいでしょ?」安幸は椅子に座り直し、顔を上げた拍子に、ふわふわの髪がぴょんと二度跳ねた。その情熱に満ちた明るい笑顔は、真っ直ぐに明里の胸に届いた。「こら、安幸。明里が来たばかりなんだから、少しは静かにしてやれ。飯よそってこい」清水は呆れたように安幸を追い払った。「明里、安幸の言う通りだ。海外で時代劇のモデルを探すのは本当に難しい。心配しなくていい、給料のことは私がしっかり見ておく。国内を出てきたんだ、そろそろ気持ちを落ち着けて生活するべきだよ」時雨家のことに口出しする気はなかったが、教え子を他人にいじめさせるわけにはいかない。明里と克成の間に何があったか詳しくは知らないが、婚約者が変わったことは多くの者が知るところだ。安幸を連れてきたのも、このやんちゃ坊主が最も得意な弟子にとって良い気分転換になるだろうという思惑からだった。明里は清水の意図を悟り、首を傾げながらキッチンをちらりと見た。キッチンでは、安幸の横顔が明るい光に照らされて、驚くほど格好よく、どこか初々しい。照明のせいか、耳たぶがほんのり赤く染まっているのが見えた。モデルをするだけなら、悪くないのかもしれない――そんな思いが胸をかすめる。こちらの会話が途切れた頃、安幸がご飯をよそい終え、小皿に切ったフルーツを盛りつけ、明里の前にそっと置いた。「先輩、食後のフルーツだよ。冷やしてあるから、後で食べるとちょうどいい」彼は熱を帯びたまなざしで明里を見つめ、どうにか機嫌を取ろうとしているのが、隠しようもなく伝わってくる。だが、そのあからさまな、どこか幼い媚び方が、むしろ爽やかで心地よかった。明里はわざと彼をからか
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第14話

明里ははっと我に返り、そっと身を引いた。「何でもないわ。そこに座って待ってて。着替えてくるから」明里はさりげなくソファを指した。安幸は素直に頷き、背筋を伸ばして座る。その従順さがおかしくて、明里は思わず笑みを漏らし、安幸の髪をくしゃりと撫でた。「小さい頃はこんなにおとなしくなかったのに」幼い彼はひどく甘えん坊で、少しでも明里の姿が見えなくなるとすぐに泣いた。明里はうんざりしていて、安幸一家が移民するとなったときには、密かに胸を撫で下ろしたほどだった。「先輩の前だからだよ」澄んだ瞳でまっすぐ見つめられ、明里は感電したように手を引っ込め、改めて後輩の姿をまじまじと見つめた。この子、思っていた以上にやるじゃないか。着替えを終えて戻ると、テーブルには安幸が用意した朝食が並んでいた。どれもこれも、明里の好みにぴたりと合っている。疑わしげな明里の視線に気づき、安幸は気まずそうに目を逸らした。「先輩、変に勘ぐらないでよ。たまたま朝食の作り方を習って、たまたま先輩の好きなものだっただけだから」「はいはい。座って食べましょ」深く追及する気はなかった。何でも白黒つけないと気が済まない年齢は、とっくに過ぎている。朝食を終えると、二人は車で公園へ向かった。安幸はカメラを構え、明里に幾つかポーズを指示する。「先輩、どうしてそんなに綺麗なの」彼の視線は一瞬たりとも明里から離れない。「先輩、こんなのはどう?この手を、この彫刻に添えてみて」安幸はそっと明里の手を取り、彼女を包み込むように導いた。彫刻に触れたとき、彼の体温がじわりと伝わってくる。「先輩、少しつま先立ちしてみて。そっちの方が軽やかに見えるから」しゃがみこんだ安幸が、明里の足首をそっと支える。彼の指導のままに、明里はわずかにうつむいた。悲しみも喜びも纏わないその顔は、この世のものとは思えぬ清らかさを漂わせ、通りかかった人々も思わず感嘆の声を漏らした。安幸は鮮やかな手つきでシャッターを切った。その瞬間。明里は突然よろめき、そのまま地面に崩れ落ちた。「先輩!」安幸は飛びつき、明里を腕に抱き寄せるようにして庇った。自分の体が強く地面にぶつかったのに、痛みを気にする様子もなく、ただ必死に彼女の顔色を確かめる。「先輩、大丈夫?」明里
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第15話

安幸は明里を抱きかかえ、すっと立ち上がった。「先輩、先に送って帰るね」明里は彼をじろりと睨んだ。足首をひねっただけで、そこまで大袈裟にする必要はないだろう。二人の様子を目にして、克成は息をのんだ。胸が締めつけられるように痛み、指先までも痺れていく。明里が、自分と陽葵が一緒にいるのを見たとき、どれほど辛かったか――ようやく彼にも理解が及んだ。自分が「明里のために」と称して仕掛けてきた数々の策略が、どれほど滑稽で、どれほど彼女を追い詰めていたのかも。克成は気づけば、二人の行く手を遮るように立ちはだかっていた。赤く滲んだ目元には、後悔も無念も、縋るような思いも、あらゆる感情が渦巻き、ほんの一瞬で数歳老け込んだようにすら見えた。「明里、たった二日で彼氏なんてできるわけないだろ。俺の言うことを聞けよ。お前はあいつのことなんか好きじゃない。ただ辛すぎて、誰かに受け止めてほしかっただけなんだ。な、俺と帰ろう。昔みたいに戻ればいい。俺はお前と結婚するし、一生大切にするから」だが、明里が向けた瞳は、もはや他人を見るように冷淡だった。「克成、あなたの婚約者は陽葵よ。一生なんて言葉、簡単に言うけれど、長いのよ。いろんなアクシデントがあるもの。私はあなたに賭ける気はない」その一言に、安幸の口元は思わずほころんでしまった。「おじさん、僕の彼女が言ってること聞こえなかったの?婚約者がいるんなら、これ以上惑わせるなよ。先輩、帰ろう。僕のところには先輩を邪魔する奴なんて一人もいないから、安心して」克成には、明里の心が完全に自分から離れたなど、到底信じられなかった。薬を盛られたあの日、自ら望んで彼に手を伸ばしてくれた人間が――幼なじみで、どんな時も味方でいてくれた子が――どうして自分の元を去るというのか。「明里!俺の婚約者は、お前しかいないんだ!俺たちには子供もいるんだぞ、俺を捨てるな!」なりふり構わぬ叫びだった。しかし、明里が目の前でもがくように立ち尽くしているのを見て、克成の胸の内にかすかな希望が灯る。今回も、きっといつもと同じようになる。ちゃんと謝って、必死に引き留めれば、明里は自分のところに戻ってきてくれるはずだ。二人の間には、あまりにも多くの絆があった。家族も、幼い頃からの感情も、数えきれない思い出も。複雑
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第16話

明里にも同じ写真付きメッセージが届いた。それと同時に、陽葵からの電話も鳴りはじめる。「あんた、まだ恥知らずなことする気?克成さんとはもう婚約解消したんでしょ。なんでまだ誘惑するの?私の家族を奪っただけじゃ足りなくて、私の男まで奪うなんて、この恥知らず……」明里は電話を無言で切り、そのまま番号をブラックリストに入れた。あのふたりの間に何があろうと、もう知りたくもなかった。明里はお守りを取り出し、指先でそっと撫でる。そしてようやく思いが定まった。この子は自分だけのもの。他の誰とも関係のない存在なのだ、と。「先輩」外でドアの軋む音がし、安幸がそっと入ってきた。明里の前に立ち、じっと彼女を見つめる。その哀れなほどの表情に、明里は呆れるやらおかしいやら、なんとも言えない感情を覚えた。「何か用?」明里が口を開いた瞬間、安幸の顔にぱっと明るさが差した。「先輩、病院に行ってきたよ。先輩の主治医の先生が薬を出してくれて、マッサージのやり方も教わってきたんだ」彼は床に腰を下ろし、明里の足をそっと持ち上げ、慎重に揉みほぐし始めた。その手つきは驚くほど専門的で、長い時間をかけて練習してきたのが一目でわかる。だが、明里にそれを口にする気はなかった。誰にだって隠したいことの一つや二つはある。安幸だって同じだ。しばらく揉んだあと、安幸は床にしゃがみ込み、明里を見上げた。「先輩、実は僕、嘘をついてたんだ」思いもよらぬ言葉に、明里はわずかに眉を上げた。彼のほうから切り出すとは、まるで予想していなかった。安幸はふくらはぎからゆっくり上へと指を滑らせ、両手が膝のあたりで止まる。その姿は半ば跪くようで、どこか敬虔にさえ見えた。「実はね、子供の頃に習ってたんだ。あの日、先輩が水に落ちて……マッサージが虚弱体質に効くって聞いて、それからずっと練習してきた。その成果を、試させてくれない?」わざと声を低くし、顔を少し上げたその角度からは、若々しい色気がにじんでいた。明里は安幸の顎を軽く指ですくい上げた。「私のことが好きなの?それ、告白のつもり?」安幸の顔はみるみる赤くなり、薄い唇が淡い桜色に染まっていた。「うん……先輩、僕は――」明里はそっと手を伸ばし、その唇に指を当てた。「今、恋愛をする気はないの。まして
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第17話

ふたりはあんなにも愛し合っていたはずなのに、彼の脳裏に浮かんだのは、婚約を破棄したあの日、ヒステリックに取り乱す明里の姿だった。あの時、自分はいったい何を考えていたのだろう。頭にあったのは、「家族」と「責任」の四文字だけ。陽葵に手を出してしまった以上、責任を取らざるを得ない。明里には自分を理解してほしいとさえ願い、これまでの想いもすべて心の奥にそっとしまってほしいと望んでいた。しかし、それが大間違いだった。本当に彼を救っていたのは、ほかならぬ明里だった。その後、陽葵が明里を陥れるたび、胸が痛んだにもかかわらず、彼は見て見ぬふりを選んだ。「理性」という鎖に頭を縛りつけられ、陰で陽葵に釘を刺すことしかできなかった。ふたりが拉致された間、明里に会えない一秒一秒が地獄のようで、生きた心地がしなかった。それでも彼は考えようともせず、触れようともしなかった。その臆病さこそが、明里を犯人の手で二週間も生き地獄を味わわせたのだ。克成は深く息を吸い込んだ。涙をこらえながら、自嘲するように陽葵の窓の前で一晩中立ち尽くした。大介に見つかった時、彼の体にはうっすらと白く霜に覆われていた。「社長、緒方安幸の素性が判明しました。I国に基盤を持つ緒方家の御曹司で、恐らく我々が……」ドアが開く音がした。明里が扉を開けると、真っ先に目に入ったのは楓の木の前に立つ克成の姿だった。明里は彼と向き合うつもりなどなかった。ふたりの関係はもう終わったのだから、これでおしまい。心を乱されることもないはずだった。明里が克成を無視して歩き出そうとした瞬間、クラクションの鋭い音が彼女を驚かせた。眩いスポーツカーがスピンしながらふたりの間に滑り込み、明里の視界を遮った。「先輩、迎えに来たよ」安幸はルーフを開け、白い歯を覗かせる。どこかこびたようでありながら、不思議と嫌味のない愛嬌たっぷりの笑顔だった。「いいの」明里はどちらの相手もする気になれなかった。ただ、一人で静かに暮らしたい――今はそれだけだった。安幸は車のドアを開き、図々しいほどに距離を詰めてくる。「先輩、僕たち同じダンスカンパニーでしょ。後輩が先輩の面倒を見るのは当たり前だよ。一度だけでいいから、僕にチャンスをちょうだい。それに、もうすぐ遅刻だよ」明里は今日が初出勤
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第18話

しばらく沈黙が落ちたのち、克成は再び口を開いた。喉に刃が突き刺さっているかのような痛みを覚えながら。「上杉家には十分すぎるほどの資産があります。明里の治療だって、いくらでもきます。清水さん、あなたにも若い頃があったでしょう。俺は以前、取り返しのつかない間違いを犯してしまいました。これからは明里のために償い続けるつもりです。二度と彼女を悲しませたりはしません。この立場にいれば、どうしようもないことが山ほどあります。本意ではなかったことも、確かにありました。明里は俺の人生に差し込んだ一筋の光でした。その光を失って初めて、その尊さに気づいたのです。俺の頑固さが原因で誤解が生まれました。あなたは俺と明里が共に歩んできた姿をご存知のはずです。時雨家と上杉家、明里と俺――俺たちは生まれながらの縁で結ばれたカップルです。チャンスさえいただければ、明里の心を取り戻してみせます」清水の前の克成は、まるで自分の殻を一枚ずつ剥ぎ取っていくかのようだった。もはやそこにいるのは上杉家の後継者でも、有望な若き社長でもない。ただ救いを求め、震えている一人の青年にすぎなかった。何年も前、雪の中でしゃがみ込み、明里を受け入れてほしいと懇願したときと、まったく同じ姿だった。清水も、そんな克成にこれ以上厳しい言葉を投げつけることはできなかった。「フレミングダンスカンパニーは、今になって明里を誘ったわけじゃない。離れたがらなかったのは明里のほうだ。拉致事件のあと、明里はあなたたちから見限られ、そこで初めて覚悟を決めて、私に協力を求めてきた。だから私は、I国の永住権を確実に取れるよう手を尽くした。あなたたちは明里を深く傷つけすぎた。もう会わないことこそ、彼女への最大の慰めになるかもしれない。よく考えるんだ」そう告げると、清水は克成の肩を軽く叩き、チップを置いて席を立った。克成は呆然と座り込んだまま、二十余年の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡るのを感じていた。そうだ。時雨家も上杉家も、明里を見捨てた。だからこそ彼女は去り、もう二度と戻りたくないと思ったのだ。克成は顔を両手で覆った。それでも、明里はまだ完全には自分を拒んでいない。ほんのわずかでも可能性が、まだどこかに残っているかもしれない……そのとき、携帯の着信音が彼の思考を断ち切った。「このバカ息子
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第19話

克成は目を赤くしながら、一言一句を噛みしめるように繰り返した。「当初、俺が婚約を破棄したのは、ロイヤルホテルで薬を盛られ、陽葵の貞操を奪ってしまったからだ。だけど、先日調べたら……あの時、俺を助けてくれたのは明里だった。俺が母さんの言うことを聞かず、上杉家の人間全員を陽葵の救出に向かわせたのも、陽葵が『湊が明里を助けに行ったから、明里はもう安全だ』って言ったからだった」しかし、これらはすべて嘘だった。克成はとんでもない誤解をし、自らの手で明里を深淵に突き落としていたのだ。責任は自分が負う――そう思い込んでいただけで、結局、一番無責任だったのは他ならぬ彼自身だった。「この人でなし!」電話口で、裕子は泣きじゃくる陽葵に思い切り平手打ちを浴びせ、その体を張り倒した。陽葵は信じられないといった面持ちで頬を押さえる。「お義母さん!私はあなたの息子の嫁よ!私のお腹には、まだ上杉家の子どもがいるのよ!」「誰があなたのお義母さんよ」陽葵は悲鳴を上げて地面に崩れ落ち、それでもなお取り繕おうとした。「裕子さん、私、本当に嘘なんてついてないわ!ただ、小さい頃からずっと苦労してきたから、お姉ちゃんが羨ましかっただけなの。でも、本当に嘘じゃないの。私、本当に克成さんの子を妊娠してるの!」「黙りなさい!」裕子の睨みつける目は、氷の刃のように鋭かった。両家の縁談はともかくとして、裕子は明里が成長する姿をずっと見守ってきたのだ。あの子が二週間も拉致犯の手に落ち、しかも子どもまで流してしまったと思うと、目の前の女を引き裂いてしまいたいほどの怒りが込み上げた。陽葵が宿す子が克成の子であろうとなかろうと、いずれにせよ、裕子は上杉家の孫を、こんな性根の腐った女に産ませるつもりなど微塵もなかった。「奥様、時雨家の方々がいらっしゃいました」執事も、裕子が他人に手を上げる姿を見るのは久しく、声も低く沈んでいた。裕子は乱れた髪を整え、地面で首を振りながら懇願する陽葵を鋭く睨み下ろす。その眼差しには、一点の揺らぎもない冷たい光が宿っていた。「時雨家の坊やたちを前で待たせているでしょう。この女を見張るように誰か手配しなさい。明里がどれほどの苦しみを味わったか、千倍万倍にして償わせるから」時雨家と上杉家の血生臭い争いを、明里は知るよ
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第20話

明里は身を屈め、背後でいたずらを働く安幸の手をぱしりと払い落とした。「あなた、本当に子供っぽくない?」安幸はみるみる顔を赤らめ、すっと姿勢を正して俯きがちに呟いた。「……まあ、ちょっとね」何が「まあ、ちょっとね」だ。明里は呆れ半分、笑いたい気持ちを必死に抑えた。「スタジオに入りなさい。動きを直してあげる。清水先生の顔を潰すようなことは、させないからね」「うん、先輩!」元気よく返事をすると、明里が背を向けた瞬間、安幸は先ほど言い寄ろうとしていた男を鋭く睨みつけた。睨まれた男はびくりと震え上がり、背後の男性俳優にバラの花束を無言で押し付けた。緒方家の若様に逆らうなど、できるはずもない。ダンスシューズに履き替えた明里は、小さな教鞭を手に取り、安幸の動きを一つひとつ丁寧に直していく。教鞭が動くたび、安幸の胸は空へと舞い上がるかのように高鳴った。シェネの最中、ガラス越しの人影に気づいた途端、安幸の顔が険しくなり、つま先がぐらついた。明里は怒りを込めた足取りで近寄ってくる。「何回言ったらわかるの。ここはしっかり立って、脚に力を入れて。腰はどうしたの?腰が甘いから上半身が安定しないんでしょ」額に手を当て、ため息をつく。清水先生の教え子は皆才能ある者ばかりだというのに、どうしてこんなに出来の悪い弟子を取ったのだろう。まさかコネ……というわけでもないはず。「先輩、先生が先輩に教えるときは、腰に手を添えて細かく指導してくれたでしょ?でも僕のときは適当に済ませて、『わからないことは先輩に聞け』って……それなのに先輩は僕を怒るなんて……」安幸はしょんぼりと俯き、瞳の奥に宿る計算高い光を巧みに隠した。その「傷ついているのに言わない」という仕草に、明里は思わず胸がちくりと痛んだ。確かに、明里は清水先生から徹底的に教え込まれた。安幸がほとんど独力でここまで来たのなら、十分すぎる努力だろう。「先輩、僕、馬鹿だから……全然うまくできないのかな」安幸の声には、さらに寂しげな響きが加わる。罪悪感が一気に膨れ上がったその刹那、彼がそっと近寄ってきた。「先輩……よかったら、僕の腰を支えて、一回だけでいいから一緒に踊ってほしい。きっと、一回で覚えられるから」安幸は身を屈め、まっすぐに明里を見つめた。その
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