「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ませた。「やっと決心がついたか?今度こそ約束だ、もう撤回はなしだから!前にも言っただろう、将来こそが一番大事なんだって。一週間かけて、しっかり友達とお別れしてきなさい」時雨明里(しぐれ あかり)は「ええ」と気のない相槌を返した。電話を切った瞬間、彼女は二十年以上暮らした家と、そして婚約者とも、完全に決別することになった。……明里は無意識に手首の金のブレスレットをなぞった。華やかな幅広の金細工の下には、ムカデのように醜く残る傷跡がある。この道を選んだのは明里の意思ではない。婚約者も家族も、彼女を見捨てたのだ。そのとき、楽屋の外から小さなノック音が聞こえた。「お姉ちゃん、入ってもいい?」声が終わるより早く、時雨陽葵(しぐれ ひまり)はすでにドアを開けていた。潤んだ大きな瞳は無邪気な子ウサギのようで、誰に対してもおずおずとした仕草を見せる。しかし、その白い首筋に散る赤い痕だけが、やけに生々しく目に刺さった。明里の視線に気づいたのか、陽葵は恥ずかしそうに襟元を押さえ、甘えた声で言う。「もう、克成さんったら、すぐにちょっかい出すんだから」明里はどうしても笑顔を作れなかった。陽葵が言う「克成さん」は、かつて明里の婚約者──上杉克成(うえすぎ かつなり)だった。だが今は、陽葵の婚約者だ。陽葵が帰ってきたばかりの頃、克成は明里を屋上に呼び出して満天の星を見上げ、明里一人だけを永遠に愛すると誓った夜がある。誰が戻ってこようとも、愛するのは明里だけだ、と。だがその熱烈な愛は、一年三ヶ月しか続かなかった。別の星空の夜、克成は乱れた服の陽葵を抱きしめ、時雨家のリビングルームで膝をついた。そして、婚約者を陽葵に替えてほしいと懇願したのだ。妹の無垢そうな顔の裏に、どれほどの卑劣さと策略が潜んでいるのか。だが、明里はもうすぐここを離れる。つい先ほど、清水に海外行きとフレミングダンス顧問の仕事を引き受けると返事をしたばかりだ。国内での最後のさよなら公演を終えれば、あの仲睦まじい二人を煩わせることも、もうないだろう。「お姉ちゃん、今回のメインダンサー、私に譲ってく
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