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時の流れに抱かれて、彼女は消えた

時の流れに抱かれて、彼女は消えた

By:  ブタキツネCompleted
Language: Japanese
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「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」 電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ませた。 「やっと決心がついたか?今度こそ約束だ、もう撤回はなしだから!前にも言っただろう、将来こそが一番大事なんだって。一週間かけて、しっかり友達とお別れしてきなさい」 時雨明里(しぐれ あかり)は「ええ」と気のない相槌を返した。 電話を切った瞬間、彼女は二十年以上暮らした家と、そして婚約者とも、完全に決別することになった。

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Chapter 1

第1話

「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」

電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ませた。

「やっと決心がついたか?今度こそ約束だ、もう撤回はなしだから!前にも言っただろう、将来こそが一番大事なんだって。一週間かけて、しっかり友達とお別れしてきなさい」

時雨明里(しぐれ あかり)は「ええ」と気のない相槌を返した。

電話を切った瞬間、彼女は二十年以上暮らした家と、そして婚約者とも、完全に決別することになった。

……

明里は無意識に手首の金のブレスレットをなぞった。

華やかな幅広の金細工の下には、ムカデのように醜く残る傷跡がある。

この道を選んだのは明里の意思ではない。婚約者も家族も、彼女を見捨てたのだ。

そのとき、楽屋の外から小さなノック音が聞こえた。

「お姉ちゃん、入ってもいい?」

声が終わるより早く、時雨陽葵(しぐれ ひまり)はすでにドアを開けていた。潤んだ大きな瞳は無邪気な子ウサギのようで、誰に対してもおずおずとした仕草を見せる。

しかし、その白い首筋に散る赤い痕だけが、やけに生々しく目に刺さった。

明里の視線に気づいたのか、陽葵は恥ずかしそうに襟元を押さえ、甘えた声で言う。

「もう、克成さんったら、すぐにちょっかい出すんだから」

明里はどうしても笑顔を作れなかった。

陽葵が言う「克成さん」は、かつて明里の婚約者──上杉克成(うえすぎ かつなり)だった。

だが今は、陽葵の婚約者だ。

陽葵が帰ってきたばかりの頃、克成は明里を屋上に呼び出して満天の星を見上げ、明里一人だけを永遠に愛すると誓った夜がある。

誰が戻ってこようとも、愛するのは明里だけだ、と。

だがその熱烈な愛は、一年三ヶ月しか続かなかった。

別の星空の夜、克成は乱れた服の陽葵を抱きしめ、時雨家のリビングルームで膝をついた。

そして、婚約者を陽葵に替えてほしいと懇願したのだ。

妹の無垢そうな顔の裏に、どれほどの卑劣さと策略が潜んでいるのか。

だが、明里はもうすぐここを離れる。

つい先ほど、清水に海外行きとフレミングダンス顧問の仕事を引き受けると返事をしたばかりだ。

国内での最後のさよなら公演を終えれば、あの仲睦まじい二人を煩わせることも、もうないだろう。

「お姉ちゃん、今回のメインダンサー、私に譲ってくれない?お願い」

陽葵は明里の腕を掴み、甘えるようにすがった。

この手が、これまで何年も明里からどれほどのものを奪ってきたことか。

明里はもう耐えられず、強く手を振り払った。

「出て行って!」

「お姉ちゃん……!」

陽葵は勢いで床に倒れ込み、華奢な手で白いふくらはぎを押さえた。その瞳にみるみる涙が滲み、震える下唇が切なげに噛みしめられる。

そこへドアを押して克成が入ってきた。彼は陽葵に駆け寄り、宝物のように抱き起こす。

整った眉をひそめ、優しい声で痛む場所を尋ねた。

陽葵はしおらしくに首を振る。

「大丈夫……お姉ちゃんはわざとじゃないの。私がちゃんと立てなかっただけ」

嗚咽の混じる声は、どう聞いても「大丈夫」ではなかった。

明里は無意識に眉を寄せる。押した覚えなどない。腕を引いただけだ。こんな拙い芝居、誰が信じるというのか。

だが、克成は信じた。

冷えた目が明里に向けられる。

「明里。お前は時雨家に甘やかされたお嬢様で、気が強くても、少なくとも裏表のない人間だと思っていたんだが」

その言葉が楽屋に落ちた瞬間、時雨家の三兄弟が次々に駆けつけた。

三人の兄は陽葵を囲んで口々に気遣い、明里へ向けられる視線は、非難と失望ばかりだった。

「陽葵ちゃんはお前の代わりに何年も苦労してきたんだぞ。どうして譲ってやれないんだ。今回のダンスはもういい、陽葵ちゃんに譲れ」

いつも最終決定を下す長男・時雨昴(しぐれ すばる)。

明里の、油で煎られるような苦痛に満ちた心は、その一言でわずかに残っていた情さえ完全に焼き尽くされてしまった。

これは明里にとっての、さよなら公演だ。ただ、心から愛するダンスに区切りをつけ、大切な人たちにきちんと別れを告げたかっただけなのに。

まして、一度海外へ出れば、もう戻る場所などないのだから。

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第1話
「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ませた。「やっと決心がついたか?今度こそ約束だ、もう撤回はなしだから!前にも言っただろう、将来こそが一番大事なんだって。一週間かけて、しっかり友達とお別れしてきなさい」時雨明里(しぐれ あかり)は「ええ」と気のない相槌を返した。電話を切った瞬間、彼女は二十年以上暮らした家と、そして婚約者とも、完全に決別することになった。……明里は無意識に手首の金のブレスレットをなぞった。華やかな幅広の金細工の下には、ムカデのように醜く残る傷跡がある。この道を選んだのは明里の意思ではない。婚約者も家族も、彼女を見捨てたのだ。そのとき、楽屋の外から小さなノック音が聞こえた。「お姉ちゃん、入ってもいい?」声が終わるより早く、時雨陽葵(しぐれ ひまり)はすでにドアを開けていた。潤んだ大きな瞳は無邪気な子ウサギのようで、誰に対してもおずおずとした仕草を見せる。しかし、その白い首筋に散る赤い痕だけが、やけに生々しく目に刺さった。明里の視線に気づいたのか、陽葵は恥ずかしそうに襟元を押さえ、甘えた声で言う。「もう、克成さんったら、すぐにちょっかい出すんだから」明里はどうしても笑顔を作れなかった。陽葵が言う「克成さん」は、かつて明里の婚約者──上杉克成(うえすぎ かつなり)だった。だが今は、陽葵の婚約者だ。陽葵が帰ってきたばかりの頃、克成は明里を屋上に呼び出して満天の星を見上げ、明里一人だけを永遠に愛すると誓った夜がある。誰が戻ってこようとも、愛するのは明里だけだ、と。だがその熱烈な愛は、一年三ヶ月しか続かなかった。別の星空の夜、克成は乱れた服の陽葵を抱きしめ、時雨家のリビングルームで膝をついた。そして、婚約者を陽葵に替えてほしいと懇願したのだ。妹の無垢そうな顔の裏に、どれほどの卑劣さと策略が潜んでいるのか。だが、明里はもうすぐここを離れる。つい先ほど、清水に海外行きとフレミングダンス顧問の仕事を引き受けると返事をしたばかりだ。国内での最後のさよなら公演を終えれば、あの仲睦まじい二人を煩わせることも、もうないだろう。「お姉ちゃん、今回のメインダンサー、私に譲ってく
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第2話
「まだ怪我をしているんだから、今回は見送って。治ったら、好きなだけ踊ればいい」次男の時雨湊(しぐれ みなと)が眉をひそめて言った。三男の時雨旭(しぐれ あさひ)は、元来派手好きで奔放な気質の持ち主だった。「明里、陽葵ちゃんとどうしても張り合うって言うなら、もう二度と踊らせないからな」明里の胸中は穏やかではなかった。それでも一度だけ、自分のために声を上げたかった。「この公演は、私にとってすごく大事なの。私……」「うちの力は知ってるだろ。俺たちはお前の身内だ。俺たちが首を縦に振らなければ、誰もお前を踊らせようなんてしない」言い終える前に、昴がもう一度冷ややかに警告した。明里は乾いた笑いを漏らした。時雨家が最も強引な手を使うとき、それは他人に向けられるものだと思っていた。まさか自分に向けられる日が来るとは。「陽葵ちゃん、行こう。レゴが好きだろ?ほら、俺が組み立ててやったぞ」男たちに囲まれあやされると、陽葵はあっさり泣きやみ、笑顔を浮かべて克成にもたれかかった。「旭兄ちゃん、だーい好き」「よし、もう泣かないぞ」四人の男たちは、まるで姫を守る騎士のように陽葵を囲み、そのまま立ち去っていった。明里は茫然としていた。二十数年間の記憶が、まるで他人の夢のように遠のいていく。その夢の中で、兄たちと克成に宝物のように大切にされていたのは、紛れもなく明里自身だった。そのころ明里はまだ、時雨家のひとり娘として、三人の兄と幼なじみの許嫁である克成に、いつも囲まれてちやほやされていた。毎朝の食卓には明里の前に四人分の朝食が並び、四人の男たちは彼女をじっと見つめ、明里が困ってため息をつくと、両親は「ほら、またやってる」と笑ったものだった。皆が当然のように言った。我が家のお姫様なら、これくらいの寵愛は受けて当然だと。六歳のとき、明里は舞台で踊るダンサーの姿に心を奪われた。両親は苦労をさせたくなかったが、兄たちと克成は自分たちで節約し、明里の学費を払って夢を叶えた。旭に至っては、学校で自らを「一日彼氏」として貸し出し、明里が踊り続けるための費用を稼いだ。克成も、同級生を総動員して明里のために初めての舞踏会を開き、「拍手したら宿題写させてやる」と宣言したほどだ。両家の両親はそれを知って呆れながらも、微笑ましく見守っ
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第3話
明里はドアを静かに閉め、外界とのつながりを断った。楽屋に戻ると、自分の持ち物を淡々と整理し始める。ダンスカンパニーに入って十年。仕分けを終えた荷物は、いつの間にか部屋いっぱいに積み上がっていた。精巧な置物や、今ではもう手に入らないぬいぐるみたちを前に、明里はしばし立ち尽くした。幼い頃から、彼女はこうしたふわふわしたものが好きだった。新作が出るたび、兄たちと克成がどんな手を使ってでも買ってきてくれた。そして頭を優しく撫でながら言うのだ――「明里ちゃんのためなら、何でも買ってあげるよ」と。だが、その後に陽葵が現れた。明里の部屋には、それ以来一つとして新しいぬいぐるみが増えることはなく、まるで彼女自身が「古い物」に分類されたかのようだった。いま明里は、ここを去る。ならば、これらの過去の品々に執着する意味はもうない。彼女はリサイクル業者に電話をかけ、すべて引き取って廃棄するよう依頼した。業者を待つあいだ、劇団での引き継ぎを淡々と済ませる。幹部たちは、申し合わせたように彼女のさようなら公演には一切触れなかった。明里も何も言わなかった。ここで時雨家の力に抗えるはずがない、とわかっていたからだ。もう兄たちのために心をすり減らすつもりもなかった。自分のさようなら公演は、時雨家と陽葵への返礼――そう割り切ることにした。劇団を出た瞬間、克成の車が静かに横付けされた。「明里様。克成様が、ハイアットホテルへお越しくださるようにと」「行かない」明里は踵を返す。「明里様、私たちを困らせないでください」四人のボディーガードが無言で道を塞いだ。彼らは、かつて明里を守るために克成が付けていた人間たちだ。今は同じ腕を、彼女を強引に連れて行くために使っている。明里は俯き、広い車内へと身を押し込んだ。「お前を絶対に無理強いはしない」。あの日の克成の言葉が、今でも耳に残っている。けれど、彼女はもう克成の妻ではない。特別扱いされる資格も、守られる理由も、とうに失われていた。それでいい。ここを離れれば、心は静かで、何にも縛られずに済む。車はハイアットホテルへ滑り込み、停車した。祝賀の文字が刻まれた垂れ幕が、まるで嘲笑うように目に刺さる。【時雨陽葵、主役抜擢、おめでとうございます】個室の扉は開かれており、四人の
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第4話
明里が突然物静かになったことに、男たちは一様に戸惑いを覚えた。呼び止めようとして口を開きかけて、彼らはふと気づく。いつの間にか「明里」という二文字を口にすることさえ、ためらうようになっていたのだと。「克成さん、私たちも中に入りましょう」陽葵に腕を引かれ、克成はようやく我に返った。胸の奥から込み上げてくる名のつけようのない感情を無理に押し込み、伏し目がちに小声で「ああ」と返す。その仕草は、恋人たちが耳元で囁き合うように、どこか親密だった。「克成さん!お姉ちゃんの目の前でそんなこと……!」陽葵はわざと甘えた声を響かせる。明里はその意図を察したが、取り合う気にはなれなかった。宴は、始まりから終わりまで、すべてが予兆めいて明里の予想通りの展開だった。二十年以上ものあいだ、彼らはいつもこの形式で、明里のために祝い事を執り行ってきたのだから。兄たちは、結局のところ、有言実行なのだ。かつて明里に注がれたものを、一つ残らず、今度は陽葵に与え直していく。「陽葵、俺のプレゼントを見てみて」湊が箱を開けると、中には透き通るような水色の舞踏会用ドレスが収められていた。嵌め込まれた宝石はひとつひとつが希少で、まるで熟練の職人が精霊のクローゼットからそっと盗み出してきたかのような輝きを放っていた。そのよく知ったドレスを見た瞬間、明里の指先は自分でも気づかぬうちに強く掌に食い込んだ。これは二年前、彼女が金賞を獲得した際、湊が数ヶ月を費やして明里のためだけに仕立てた特別な一着だった。授賞式の日、湊は誇らしげに皆へ告げた――「このドレスは、時雨家のお嬢様だけが袖を通せるものだ」と。その言葉は一時SNSで話題を呼び、「シスコン」と揶揄されもした。いま、陽葵がそのドレスを抱きしめ、つま先立ちして喜ぶ姿を見て、明里はそっと胸に手を当てた。離れれば、忘れれば、もう痛みなど覚えないはずだった。だが、心臓の内側に鋭く広がる痛みは、どうしても無視できない。「お姉ちゃん、克成さんがね、このドレスにはお揃いのネックレスがあるって言ってたんだけど、貸してくれるかな?私、小さい頃から家を離れてたけど、お姉ちゃんみたいに、最高のダンサーになりたいの」陽葵は茶目っ気たっぷりに手を差し伸べ、その瞳には、ほのかな暗示が宿っていた。あなたは
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第5話
四人の男は、明里の傍からあっという間に離れていった。克成の冷たい視線は、陽葵へ向けられた瞬間、優しさと愛情を湛えたものへと変わる。「明里、体はたいしたことないんだろ。パーティーが終わるまで待てよ。俺たちが連れて行ってやる。たまには気晴らしする方が体にもいいんだから」湊はそう言い放った。彼らは陽葵と明里の間で、結局、迷いなく前者を選んだのだ。「結構よ」明里はきっぱりと背を向けた。彼女には、施しのような愛情など必要なかった。ホテルを出た途端、携帯が何度も震えた。兄たちが「病院に行け」と促すメッセージと、克成が予約した病院の診察券。その一言一句に込められた気遣いを見ても、明里はただ苦笑するしかなかった。今さら家族ごっこに、いったい何の意味があるというのか。この体がこんなふうになったのは、むしろ彼らが原因ではないか。三ヶ月前、明里と陽葵を拉致したのは、時雨家の宿敵だった。決死の覚悟で挑んできた連中であり、二人に良い結末が待っていないことは誰もが分かっていた。犯人たちは二つの住所を残し、救助を分散させるつもりだった。だが、彼らは計算を誤った。誰もが陽葵のもとへ向かい、明里のもとへ来た者は一人もいなかった。犯人は、その怒りをすべて明里にぶつけた。冷たい地面に引きずられ、皮膚を少しずつナイフで裂かれた。明里は生きたまま拷問され、そして流産に追い込まれた。希望が怨恨へ変わり、ついには一片の希望さえ抱けなくなるまで、たった二週間しかかからなかった。しかし、その二週間は明里にとって、まるで一生にも等しい長さだった。やがて警察に救出された明里は、あまりにも惨い姿に変わり果てていた。家に戻ったとき、彼女が目にしたのは――無傷で、ただ怯えているだけの陽葵を、皆が囲んでいる光景だった。誰も、明里が二週間も消えていたことに気づきさえしなかった。誰も、彼女が子供を失ったことを気にとめなかった。頬を伝う濡れた感触に触れ、顔が涙で濡れ尽くされていることに気づいた。明里はお腹の子に申し訳なさで胸が潰れそうになった。あれは数ヶ月前、まだ明里が克成と時雨家に、かすかな希望を持っていた頃のことだ。しかし、陽葵の帰還によって、二人の間に深い溝が生じた。克成を狙う者は少なくなく、これまでは明
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第6話
明里はこれまで神様といった存在を信じたことがなかったが、この世に生まれてこられなかった子供は、向こうでいじめられることがある――そんな話をどこかで聞いたことがあった。彼女は小さなお守りを縫い始めた。うっかり深く刺してしまい、指先から赤い滴が落ちたが、それでも手を止めることなく、黙々と針を進め続けた。あと三日で彼女はここを去る。去る前に、お守りを寺に納め、あの子のために祈願したいと思っていた。明里は一日中部屋にこもった。時雨家の人々とは顔を合わせたくなかったし、外へ出る余裕もなかった。夜が更ける頃、ようやくお守りは形になった。翌朝、明里は早起きして身支度を整えた。時雨家の誰にも気づかれないよう別荘地を抜け、駅まで歩いて電車に乗る。市役所に着くころには、ちょうど職員が一日の業務を始める時間だった。手続きを終えてパスポートを受け取ろうとしたとき、肩を軽く叩かれた。「明里!あなたも来てたのね」池田綾香(いけだ あやか)は、笑った瞬間、頬にくっきりと二つのえくぼを浮かべた。綾香は明里の一番の親友で、時雨家の向かいに住んでいる。「どうしてさよなら公演をキャンセルしたの?応援しようと思ってチケットまで買ったのに」彼女は親しげに明里の肩を抱いた。ふだんであれば、二人はなんでも話し合えた。しかし、この時ばかりは、明里にはどう言葉を選べばいいのかわからなかった。時雨家には育ててもらった恩がある。三人の兄を表立って責めることなど、決してできない。明里が沈黙した瞬間、綾香の笑顔がふっと消えた。「あの女のせいでしょ!」明里は静かに微笑むだけで、何も言わなかった。綾香はその表情だけで察し、怒りを露わにした。「あいつが現れた時から、絶対にろくなことにならないって思ってたのよ!『貧しい家の出』とか言っておきながら、時雨家のDNA鑑定の報告書なんか手に入れられるなんて、怪しすぎるでしょ。それにあなたの兄さんたちは……」「もういいの」明里は彼女の手をそっと握った。「彼らがどう選ぶかは彼らの問題。私は、自分の意志で道を選ぶだけよ」時雨家のことには、もう関わりたくなかった。それは時雨家の事情であって、自分とは別の世界の話だ。綾香もそれ以上は言わなかった。大家族の事情は、部外者がどうこうできるものではないとわ
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第7話
道中、二人は一言も交わさず、まるで赤の他人のようだった。赤信号が青に変わるのを待って、克成はアクセルを踏み込んだ。「寺で何をするんだ?」「お祈りよ」明里は静かに答えた。克成はさらに問う。「誰のために?」明里は顔を上げ、バックミラー越しに克成の表情を見つめた。彼に尋ねたかった。本当に、あの夜のことを覚えていないだろうか。そして、自分たちの子どものことを、何とも思っていないのか。「克成、まだ覚えている?数ヶ月前、ロイヤルホテルでのこと」克成は眉を寄せた。もちろん覚えていた。あの日、彼を招いたのは小さな業者で、先輩から紹介状をもらわなければ参加できないようなパーティーだった。案の定、会場で誰かに薬を盛られ、その日、陽葵と関係を持ってしまった。その責任を取るつもりで、彼は婚約者の変更を申し出たのだ。だが、なぜ今、その話を持ち出す?「あの日の婚約破棄は、俺の個人的な事情だ。お前には関係ない。だから気にしなくて……」言いかけたところで、克成の携帯が鳴った。陽葵が設定した、特別な着信音だった。一度鳴っただけで、克成はすぐ電話に出た。「克成さん、今忙しい?少し来てほしいの……チワワに引っ掻かれちゃって。ごめんなさい、私、何をやってもダメね。いつも克成さんに迷惑かけてばかりで……」甘えたような、弱々しい声が電話から漏れた。克成は無意識に明里へ視線を向けた。「克成、私にも言いたいことがあるの。聞いてくれる?」明里はお守りを握る手に、じわりと力を込めた。克成は不機嫌そうに眉をひそめる。「また今度だ。陽葵が怪我したと言ってる」「……分かったわ」その瞬間、明里の心は音もなく冷え切り、死んだようになった。明里はそれ以上詮索せず、静かにドアを開け、車を降りた。その潔さに、克成は少しばかり戸惑いを覚えた。今回は何かが決定的に違う。明里が、本当に自分の世界から消えてしまいそうな気がした。その感情を、克成は言葉にできなかった。なぜ急にあの日のことを出したのか――問いただしたかったのに、喉まで出かかった千の言葉は、結局「すまない」の一言に変わった。黒い車が向きを変えるように大きく切り返し、砂埃がふわりと舞い上がった。その埃が静かに落ちる頃には、すでに明里の姿はなかった。平安寺は
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第8話
明里の胸はぎゅっと締め付けられた。なりふり構わず子犬に飛びかかり、お守りを奪い返そうとする。だが、陽葵が伸ばした足に躓かされる。「きゃっ!」背後で悪事を働いた女がわざとらしく後ろへ倒れ込み、明里の手も石にぶつかり、突き刺すような痛みが走った。幸い、お守りだけは取り返せた。赤ちゃん、ごめんね……ママが守ってあげられなかった。明里はお守りを固く握りしめ、胸元にそっと押し当てる。手のひらが切れ、血が布に染みていくことには、まるで気づかなかった。「陽葵ちゃん!」その光景を目にした克成は、手にしていた電話を放り出す暇もなく、地面に倒れた陽葵へ駆け寄って抱きしめた。電話はスピーカーに切り替わり、中からアシスタント・山下大介(やました だいすけ)の声が響く。「社長、ロイヤルホテルの件、情報を整理してメールでお送りしました」しかし、その場の三人に、それを聞く余裕はなかった。克成は気が気でない様子で陽葵の体の傷を確かめている。陽葵はか弱くその腕に倒れ込み、滂沱の涙をこぼしていた。「克成さん、どうしてお姉ちゃんはこんなに私のことを嫌うの?私がお姉ちゃんの居場所を奪ったから?でも、私だってそうしたかったわけじゃないのに」「陽葵ちゃんのせいじゃないよ」克成は心を痛めながら陽葵のふくらはぎの痣をさする。その眼差しは痛ましさに満ちていたが、明里へ顔を向けた瞬間、陰鬱で氷のように冷たい色へと変わった。「謝れ」はっ!私のお守りを奪ったのは陽葵なのに。私を転ばせたのも陽葵なのに。克成には、それが見えないのだろうか。明里は苦笑を浮かべ、ただじっと彼を見つめた。なぜか、今にも崩れ落ちそうな明里の姿を目にした瞬間、克成の胸は鷲掴みにされたように痛み、息が詰まるほどだった。明里は結局、何も言わずに身を翻し、立ち去ろうとした。「克成さん」克成が何か言いかけたその時、背後から陽葵の弱々しい泣き声が響く。「明里、謝れ!このまま行くなら、一生、金輪際会わない!」明里の足がぴたりと止まった。それなら、会わなければいい。再び歩みを進めた明里の足取りは、先ほどよりもいっそう確かなものになった。小さく遠ざかっていく明里の背中を見つめながら、克成はふいに、不安に胸を締め付けられた。まるで
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第9話
明里の飛行機が離陸した頃、国内の劇場ではちょうど舞台の幕が上がったばかりだった。大介が克成に電話をかけてきた。「社長、ロイヤルホテルの件で手がかりが見つかりました。もしかすると、私たち、とんでもない勘違いをしていたのかもしれません……」「すぐ戻る。そこにいろ」克成が立ち上がり、足早に去ろうとした瞬間、ちょうどダンス衣装に着替えた陽葵がその服の裾を掴んだ。潤んだ瞳で、憐れむように彼を見つめている。「克成さん……私、今日が初めての主役なの。ずっとここにいて、見ていてくれない?」「離せ」克成の声は、氷のように冷たかった。陽葵は、その急激な態度の変化に言葉を失った。「陽葵、前にも言っただろう。お前が俺を助けるために貞操を失ったのなら、妻という立場は与える。だが、それだけだ。それで満足できないなら、その立場を取り消すこともできる」克成の眼差しには、凍りつくような冷えが宿っていた。大介の「とんでもない勘違い」という言葉が、頭の中で何度も反芻される。あの夜、あの部屋にいた女は、いったい誰だった?車の中で、克成はふとあの日の明里の言葉を思い出した。「ロイヤルホテルのこと、まだ覚えてる?」と。明里は、あのときまだ何か言おうとしていた。だが、陽葵からの唐突な電話がすべてを遮ってしまったのだ。胸の奥に、どうしようもない苛立ちが募る。明里がいつも座っていた助手席に視線をやりながら、克成はアクセルを深く踏み込んだ。上杉商事ビル。大介が復元した、人為的に消去されていたはずの監視カメラ映像。そこには、克成が運び込まれて間もなく、明里が彼の部屋に入り、明け方になってようやく慌ただしく出ていく姿が映っていた。あの日、薬の影響で克成は理性を失い、獣のように貪り尽くしていた。部屋を出る明里は、壁に手をつき、今にも倒れそうなほど弱々しく見えた。そのすぐ直後、陽葵がこっそりと部屋に忍び込む。そして、克成が陽葵を抱き上げて部屋を後にする映像。克成は椅子に沈み込み、息を呑んだ。あの夜、半ば狂ったようになっていた彼と身体の関係を結んだ相手は、陽葵ではなかった。明里だった。とんでもない誤解を、彼自身が信じ込み、突き進んでいたのだ。克成は明里の番号を何度もかけ続け、パソコンでは監視映像を繰り返し再生した。
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第10話
克成は大介にメッセージを送り、明里がどこへ向かったのか調べるよう指示した。携帯電話を置くと、彼は明里がいつも座っていた椅子に崩れ落ち、まるで気力も手立てもすべて使い果たしたかのようだった。旭は床に座り込み、明里が暮らしていた部屋を茫然と見つめていた。昴と湊もいつもの席に腰掛けていたが、普段は冷静沈着を自負する二人の手は落ち着きなく動き続け、その内心の動揺を如実に物語っていた。沈黙を破ったのは、携帯電話の着信音だった。克成の携帯から、陽葵の声が勢いよく飛び出してくる。「克成さん、あなたとお兄ちゃんたちはどこに行ったの?さっきダンスの練習で足首を捻っちゃって、すごく痛いの、私……」「痛すぎて死んじまえ」克成の声は陰鬱に沈み、震えていた。電話の向こうで、陽葵の声が途切れる。「克成さん……」克成は乱暴に通話を切り、高く振り上げた拳を、しかし結局そっと下ろした。ここは明里がかつて暮らしていた場所。そのどんな一つを壊すことすら、彼にはできなかった。激しい動きの拍子に少し開いた引き出しの中で、二枚の書類が静かに身を潜めていた。一枚は妊娠検査の結果報告書だった。克成は震える手でそれを取り出す。検査日は三ヶ月前。妊娠した時期は、ちょうど彼が婚約の変更を要求した日と重なっていた。もう一枚は、流産の診断書だった。彼は思い出す──あの日、携帯には無数の不在着信が残っていた。その日は明里と陽葵が拉致された日。克成は明里に諦めさせるため、明里からの電話を一件一件、切り捨てたのだ。彼は、自分の手で、何度も何度も、子どもの生きる道を断ち切っていた。彼の子どもは、彼自身によって死刑を宣告されたのだ。「この人でなし!明里に手を出しておいて、他の女と婚約だと!」克成の背後にいる旭は、「妊娠」と「流産」の文字を見た瞬間、込み上げる感情を抑え切れなくなった。彼は克成の顔面に拳を叩きつけた。克成も殴り返す。「あの日、お前はなんで明里を助けに行かなかったんだ!?」明里と陽葵が拉致されたと知ったあの日、克成は婚約を守るため陽葵の救出へ向かった。そして、昴たちが明里を助けに行くと信じていた。だが、誰も行かなかった。報告書と診断書は全てを物語っていた——昴たちは、明里を助けに行かなかったのだ。明里が犯人
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