All Chapters of 愛は秋雨とともに止まった: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

恵美は賭けに出た。自分の声のせいで、もしかしたら文哉の心に特別な感情が芽生えるかもしれないと。結果は、彼女の勝ちだった。文哉は彼女をかばった。恵美は涙を流しながら「自分の力不足で叱られただけです」と謝った。文哉は、その聞き慣れた声で泣かれるのに耐えられなかったのだろう。結局、心を動かされ、彼女を自分の生活補佐に任じた。こうして恵美は文哉のそばにいる人間となった。面倒な仕事を抱える必要はなく、彼の食事や身の回りの世話だけをすればいいのだ。その機会を利用して、恵美は文哉のことを少しずつ知り、そして、彼には耳の聞こえない妻がいることも把握した。耳が不自由なため、その女性の声も徐々に変わっていった――だからこそ、文哉は恵美の声にあんなにも驚き、心を動かされたのだ。恵美は黙って桐子に関するあらゆる資料を集め、彼女の話し方の癖を一つひとつ覚え、毎日練習を重ねた。やがて、ほとんど完璧に再現できるようになった。その頃から、文哉の視線が時おり恵美に留まるようになり、その時間は次第に長くなっていった。恵美は、自分の努力が確かに実を結びつつあることを感じ取った。そして、自分が妊娠していることを知ったとき、ようやく突破口を見つけたのだと思った。文哉は結婚して長いが、いまだに子どもがいない。家族からの催促にはうんざりしていたが、どんなに努力しても結果が出ず、ただ耐えるしかなかった。恵美はわざと文哉の前で何度かえづいてみせ、問いかけられると、曖昧に「ちょっと食あたりしたみたい」とごまかした。文哉は最初こそ深く考えなかったが、何度も続くうちにようやく気づいた。すぐに恵美を連れて病院へ行き、検査の結果妊娠が判明すると、迷うことなく「中絶しよう」と言い放った。あの日の出来事はただの事故であり、桐子との関係を邪魔されるわけにはいかなかったのだ。文哉は、恵美が拒むだろう、必死に抵抗するだろうと思っていた。だが意外にも、彼女はあっさりと承諾した。ただ一つだけ、彼女は文哉に手術に付き添ってほしいと頼んだ。家族もおらず、手術台の上で誰にも看取られず死んでしまうのが怖いからだと言った。文哉はその願いを受け入れた。恵美が妊娠したのは、自分にも責任があると思ったからだ。手術室へ運ばれていく恵美を見送りながら、文哉は彼女の青ざめた顔と、声もなく流
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第12話

もともと一線を越えてしまった二人が、朝も夜も共に過ごすうちに、文哉も次第にかつての信念を忘れていった。桐子の誇り高さに比べれば、恵美のほうが男が抱く「理想の女」に近い。不器用ではあるが、決して大きな問題を起こさず、全身で文哉に頼りきる姿は、どんな男にも強烈な「必要とされている」感覚を与える。やがて文哉も、そんな関係の中に小さな幸福を見いだし、恵美への態度も大きく変わっていった。最初は子どものことしか気にかけなかったのに、次第に彼女自身を気遣うようになり、ついには彼女を連れて友人たちに紹介することさえあった。恵美は、自分が少しずつ文哉の生活の中に溶け込み、確固たる立場を手にしたのだと信じていた。しかし、目の前のそのメモは、容赦なく彼女に突きつけていた――文哉が本当に気にかけているのは、自分ではなく腹の中の子どもだけなのだと。そう思った瞬間、恵美の瞳は暗く沈んだ。ここまで綿密に仕掛けてきたのに、「母を捨てて子だけ残す」なんて結末、受け入れられるはずがない。諦めきれないから、あの男が彼女に接触してきたとき、恵美はほとんど迷わず、その提案を受け入れた。どうせ、彼女が欲しいのは文哉の妻という座だけ。そして、あの男は文哉と桐子への復讐を望んでいた。利害が一致するのに、何のためらいがあるだろう。恵美はスマホを開き、シークレットモードに切り替えると、保存された番号を探し出し、そのまま発信した。それが、あの男との唯一の連絡先だった。二人はいつも、この番号で繋がっていた。恵美は、計画がどこまで進んでいるのか気になって仕方がなかった。彼らの段取りでは、桐子は海外へ送られ、文哉に見つからないようにするはずだった。海外に出てしまえば、桐子に逃げ場はない。後は好きに弄ばれ、飽きられれば闇の取引ルートに流されて、やがて誰にも知られずに始末される――彼らはそう考えていた。恵美はその計画を思い浮かべ、胸の奥がわずかに高鳴った。だが、電話は長いあいだ鳴り続けても、一向に誰も出てこない。恵美は思わず眉をひそめた。まさか、実行の途中で何か問題でも?しかし、少し考えてすぐに首を振った。桐子はただの役に立たない障害者だ。あの周到に張り巡らされた網から逃れられるはずがない。恵美は自分に言い聞かせるように、きっとあの男が桐子を連れて国外へ向か
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第13話

文哉は部下に桐子に伝言を伝えさせ、到着したら、必ず最初に自分へ連絡するようにと。文哉は一日中ぼんやりとして、仕方なく仕事に没頭することで気を紛らわせていた。ようやく夜になって、文哉のもとに一本の電話が入った。彼は慌てて桐子の様子を尋ねた。無事に到着したのか、と。スマホの向こうから、少し困ったような声が返ってきた。「旦那様、奥様はいまご機嫌がとても悪くて……かなりの物を壊されました。それに……それに、もし白洲さんを追い出す気がないなら、もう二度とお会いしないとおっしゃっています」その言葉を聞いて、文哉は胸のあたりの張りつめたものが、少しほぐれるのを感じた。そして、すぐに小さく首を振る。やはり――あの子は本当にわがままで手がかかる。さっきまでの心配は無駄だった。彼女にはまだ俺に腹を立てるだけの元気があるんだ。だったら、もう少し苦労させて、わがままなところを直してやらないと。「物を壊したいなら好きにさせておけ。ただし、後片付けはきちんとしろ。怪我だけはさせるな。彼女の要求については――俺は承諾しないと伝えろ。いつか彼女が納得したら、その時に改めて報告しろ」「かしこまりました、旦那様」相手は恭しく電話を切ると、がらんとした島を見渡し、思わずため息をついた。彼は祖父の代から白野家に仕えてきた。ところが、不運にも息子がギャンブルに手を出し、多額の借金を背負ってしまった。このままでは一家が崩壊する恐れがある。追い詰められた末、彼はあの謎の男の脅迫に屈し、文哉を欺く手助けをするしかなかった。もともと、文哉に裏切りが露見すれば、彼の残酷な報復を受けるに違いないと恐れていた。しかし、先ほどの文哉の様子からは、桐子への未練も以前ほどではないように感じられた。彼は思わず胸をなで下ろした。やはり、どんなに深い感情でも、時間が経てば少しずつすり減っていくものだ。……文哉が電話を切ったあとも、胸の奥に残る苛立ちは消えなかった。彼は、自分が桐子と初めて本気でぶつかったことへの戸惑いだと、そう言い聞かせるしかなかった。ちょうどそのとき、恵美から電話が入った。「文哉、家政婦さんに教わって、あなたの好きな料理を作ってみたの。帰ってきて味見して?」以前なら、文哉は彼女のその誘いに応じていたかもしれない。だが今の彼は、理
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第14話

「は、はいっ」メイドは驚いて声を上げ、慌てて家具がどこへ運ばれたのかを調べに走った。ほどなくして、手がかりが見つかった。「旦那様、分かりました。奥様はあの家具をすべてオークションに出されたようです」「なんだって?」文哉は思わず息をのんだ。あの品々が桐子にとってどれほど大切なものか、彼はよく知っている。それは彼女の祖先から代々受け継がれてきた品であり、家を失い、家族を亡くした彼女にとっては、心の支えそのものだった。桐子がそんなものを簡単に手放すはずがない。彼女はお金に困っているわけでもないのだ。胸の奥に嫌な予感が広がり、文哉は深く息を吸い込み、それを押し殺した。「今すぐあの品を全部買い戻せ。値段はどうでもいい、とにかく全部だ」メイドに品物を買い戻すよう指示したあと、文哉は部屋に戻り、もう一度確認した。すると、以前自分が桐子に贈った服やアクセサリーは手つかずのままで、なくなっているのは彼女自身の持ち物だけだと気づいた。なぜだろう、文哉の脳裏に、あの日書斎で桐子が何かを書いていた光景がふとよみがえる。あのとき桐子は、買い物リストを書いているだけと言っていたので、文哉もそれ以上は気にしなかった。だが今思えば、ただの買い物リストならスマホのメモに書けば済む話ではないか。何かがおかしい――そう直感した文哉は、足早に書斎へ向かった。山積みの本と書類の下から、桐子が残したものを見つけた。それは――離婚協議書だった。長い間しまい込まれていたせいか、紙は少し黄ばんで脆くなっていた。それでも、文字ははっきりと残っている。大きく力強い字が、まるで針のように文哉の目を刺した。あの時、彼がプロポーズした際、桐子は高価な宝石も、豪華な家や車も望まなかった。代わりに求めたのは、この離婚協議書だった。その時の彼女は言った――人の心は変わりやすい。もしいつか互いの気持ちが変わってしまったなら、私はただ自由でいたいと。文哉はその願いを受け入れた。だが同時に宣言したのだ。この一生、桐子にこの紙へ署名させるようなことは絶対にしない、と。あの頃の文哉は、本気で二人が離れる日など来るはずがないと信じていた。十七年も愛し、十七年も守り続けてきた女を、どうして手放すことができようか。結婚後、文哉は桐子を連れて各地の名医を訪ね回り
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第15話

佐藤の声は、まるで一本の矢のように、文哉の心臓を真っ直ぐ貫いた。その瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。「今、なんて言った?桐子が……聴力を取り戻したって?」文哉の掌に、じわりと冷や汗をかいた。かつて、彼は心の底から桐子の聴力が戻ることを願っていた。だが今、その知らせは何よりも聞きたくない言葉になっている。「ええ、数日前のことでございます」佐藤は事情が飲み込めず、ただ文哉の反応が妙に冷たいことに首をかしげた。「彼女が回復したなら、なぜすぐに俺に報告しなかった?」その怒気に、佐藤の背中を冷や汗が伝わった。文哉が本気で怒ったとき、それは家政婦の自分には到底受け止められないものだ。「申し訳ありません、旦那様。奥様から『サプライズですので内密に』と、特に仰せつかっておりました」文哉のスマホが手から滑り落ち、床にぶつかる音が響いた。中からは佐藤の問いかける声が聞こえてきたが、彼の耳にはもう何も届かない。すべてが終わった……それが文哉の頭に浮かんだ、ただひとつの思いだ。桐子が聞こえないと思っていたからこそ、彼はそんなことをした時、彼女を避けようとすらしなかった。それどころか、背徳の刺激を求めて、わざと彼女の前で何度か話題にしたことさえある。思い返せば、あの頃の桐子の顔色はどこかおかしかった。けれど、そのときの文哉は気にも留めなかった。桐子は身体が弱い。体調の悪い日があっても不思議じゃない。顔色が悪いのも、環境に慣れていないせいか、寝不足のせいだろうと思っていた。まさか、自分と恵美のあの愚かな行為が、すでに桐子の耳に届いていたなんて――そんなこと、彼は一度も考えたことがなかった。道理で、彼女があんなにも早く家の中のものをすべて片づけたわけだ。道理で、あの封印された離婚協議書にサインしたわけだ。道理で、最近の彼女の態度があんなにも不安定だったわけだ。文哉は拳を握りしめ、胸を二度強く叩いた。鈍い痛みが走る。だが、それでも今胸の奥を刺す痛みに比べれば、なんでもない。自分の裏切りを知ったとき、桐子の心は今の自分よりもっと痛んだのだろうか。文哉はいつまでそこに座っていたのか、耳をつんざくようなスマホの着信音が彼の思考を断ち切るまで、ようやく茫然自失の状態から我に返った。
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第16話

文哉はすでに埠頭に到着し、島へ向かう船に乗る準備をしていた。そのとき電話を受け、彼の表情が一瞬で複雑に曇った。彼は返事をせず、すぐに補佐へ連絡をした。「療養所を探して白洲恵美を連れて行け。出産したら、子どもを連れ戻せ」もともと、それが彼の計画だった。ただ、その後、彼は自らの節度を保てず、繰り返し度を越した行いを重ねてしまったのだ。幸い、今からでもまだ間に合う。彼はすべてをきちんと話し、実際の行動をもって桐子の許しを得るつもりだ。彼女はこれまでずっと自分を愛してくれていたのだから、これはきっとほんの小さな波乱にすぎない。そう自分に言い聞かせながら、文哉は船に乗り込み、桐子のいる場所へと向かった。……桐子は峰雄に連れられ、プライベートジェットで海外へ向かった。ずっと黙っていた桐子は、飛行機に乗ってからようやくうつろな状態から我に返った。すべてがあまりにも急速に起こりすぎて、彼女はほとんど流されるように峰雄の提案に乗ってしまった。今、数万メートルの上空に来て、彼女は突然、峰雄とはもう何年も会っていなかったことに気づいた。彼は、相変わらずかつてのように自分を甘やかしてくれる兄さんなのだろうか?もし彼も文哉のように変わってしまっていたら、自分はどうすればいいのだろう。峰雄は、桐子が突然身体をこわばらせたのを見て、体調が悪いのではないかと思い、慌てて気分は大丈夫かと心配そうに尋ねた。そう言いながら、思わず手を伸ばして彼女の額に触れ、体温を確かめようとした。しかし、桐子はさっと身を引いて彼の手を避けた。その瞬間、彼女の警戒と不安を感じ取った峰雄の胸が、締め付けられたように痛んだ。あの頃、彼が去ったのは確かに急で、そして冷たかった。きちんとした別れの言葉さえなかった。けれど、それもやむを得ない選択だったのだ。昔、孤児院にいた彼は、偶然にも迷子になり、拉致されかけていた桐子を助け、彼女を家まで送り届けた。小林家の両親は、桐子の命を救ったその恩に深く感謝し、彼を養子として迎え入れることを申し出た。その日から峰雄は小林家の一員となった。養子ではあったが、小林家の両親は彼を実の娘と変わらぬほど大切に扱ってくれた。彼はようやく、「家族の温もり」というものを知ったのだった。だが、桐子が成長す
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第17話

峰雄が海外へ渡ったとき、手元にはほとんどお金もなければ、人脈もなかった。国内での事を思い出したくなくて、彼は必死に働き、学び続け、自分を麻痺させるように日々を過ごした。卒業後、彼はインターネット関連の会社を立ち上げた。研究していた分野がちょうど時代の波に乗り、彼は時流の恩恵を受けて大きな利益を手にし、会社の規模も次第に拡大していった。ようやく少しの余裕ができた頃、彼はそっと桐子の近況を探る勇気を持てるようになった。しかし耳にしたのは、小林家が数年前に思いがけない出来事で破産したという悲しい知らせだった。桐子の父親は脳出血で亡くなり、母親も一時は踏ん張っていたが、ついに力尽き、自ら命を絶ったと言われている。立て続けの悲劇に耐えきれなかった桐子は、突発性難聴を患い、二度と音を聞くことができなくなってしまった。桐子は、当時彼女に寄り添い続けてくれた文哉と結婚した。峰雄は目を疑った。この数年、意図的に距離を取ってきたことが、小林家が最も困難な時期を見逃す結果になろうとは、夢にも思わなかった。彼はすぐにチケットを購入して帰国した。だが、遠くから文哉が桐子に寄り添い、一緒に病院へ向かう姿を見た瞬間、静かにその場を去ることを選んだ。彼女が最も助けを必要としていた時、自分は傍にいて上げなかったのだ。今さら現れて、ただ彼女を悲しませるだけだろう。峰雄は彼らの生活に干渉せず、黙って見守ることにした。彼の開発したソフトが国内で代理店を選ぶ際、彼は迷わず白野グループを選び、文哉に莫大な利益をもたらした。そして、桐子が海外で治療を受けていると知ると、持てるすべての人脈を使い、彼女のために最高峰の医師を探し出した。これまでのすべてを行ってきたが、峰雄は一度も姿を見せなかった。ただ、桐子がこれからの日々を穏やかに過ごせればそれでいいと願っていたのだ。だが、あるオークションの時、彼は桐子が小林家に代々伝わる多くの骨董品を出品していることに気づいた。最初は、文哉の会社の経営に問題が起きたのだと思い、調べさせた。すると、文哉が他の女性と関係を持っていることが判明した。峰雄はすぐに関係の手続きをすると同時に、桐子のことも見守るよう人手を手配した。幸いにも、今回はもう取り返しのつかない過ちを犯すことなく、桐子が最も助けを必要として
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第18話

箱の中に入っていたのは、なんと一丁の拳銃だった。しかも、それはかつて桐子が射撃を習っていた頃、いちばん気に入っていた型だった。「どうして私に?」桐子はそっと手を伸ばし、指先でなぞったが、すぐには手に取らなかった。「怖がっているだろう。俺がまたお前を傷つけるんじゃないかって」峰雄は確信を持って言った。かつて二人は一つの屋根の下で生活をしていた親密な関係だった。桐子のほんのわずかな仕草さえも、彼はすぐに見抜いてしまう。「怖がるな、俺はお前を傷つけない」――そんな言葉だけの保証は無意味だと、峰雄は考えていた。桐子が本当に安心できるのは、頼れるものを手にしたときだけだ。桐子は目を伏せ、一瞬ためらってからそっと拳銃を手に取り、念入りに確かめた。確かに作動する状態だ。しかも、弾丸は既に入っていた。これで、彼女は一定の自衛手段を手にしたことになる。無意識のうちに、峰雄に再び裏切られ傷つくかもしれないという緊張感が、少し和らいでいった。二人の間に、長い沈黙が続いた。久しく会っていなかった上に、前回の別れはあまりにも気まずかったから。だからこそ、どちらも先に口を開けず、話題も見つからなかった。やがて、沈黙を破ったのは峰雄の方だ。「お前が前に売ったあの骨董品、全部俺が落札した。いずれ船便で海外に送れるようにしてある。向こうでもお前のそばに置いておくから」桐子は視線を落とし、「わかった。オークションの代金は後で渡すから」と静かに答えた。桐子も本当は、小林家の伝統を受け継いだ品を手放したくはなかった。けれど、それらすべてを持って行くことはできなかった。だから、どうしても手放せないものだけを少し選んで残し、あとのものはすべて競売にかけた。きっと父と母なら、自分がそんな「死んだ物」に縛られることを望まないだろうと彼女は思った。峰雄の行動は、確かに彼女の大きな悩みを解決してくれた。だが、彼女がきっぱりと線を引く様子を見て、峰雄はそっと拳を握りしめた。「いいよ。小林家にあんなに長い間世話になったんだ。それが俺なりの恩返しだ」桐子はその言葉を聞いて、ただ静かにうなずくしかなかった。再び、二人の間に沈黙が流れた。桐子は先ほどの出来事でろくに眠れていなかった。警戒心が緩んだ途端、彼女はそのまま静かに眠
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第19話

男は困ったような顔をしていた。文哉は思わず眉をひそめた。「聞こえなかったのか?桐子はどこだ?」男の体がびくりと震えた。もともと今日は、受け取った金を持ってここを出て、海外に逃げるつもりだ。二度と戻る気などなかった。まさか文哉が突然現れるとは思ってもみなかった。完全に不意を突かれた。「奥様……その、奥様は……」男の歯切れの悪い様子に、文哉の我慢が切れた。彼は男を乱暴に押しのけ、そのまま別荘の主寝室へと足を踏み入れた。だが、そこはひっそりとしていて、人の気配さえ感じられなかった。文哉はさらに他のゲストルームも一通り確認したが、どこも空っぽだった。いない。桐子がここに来た痕跡は、どこにもない。不吉な予感が胸の奥で膨れ上がり、文哉の脳裏にあの日、桐子の絶望に満ちた叫び声がよみがえった。あのとき、彼女は確かに助けを求めていた。だが文哉は、それを桐子のいつもの甘えだと思い込み、まともに取り合わなかったのだ。足元から冷気が這い上がり、全身が一瞬で氷のように冷たくなる。「……桐子はどこだ?」文哉は勢いよく外へ飛び出し、男の胸ぐらを掴み上げた。「奥様は……ここには、送られていません……」文哉は突然、頭の中が真っ白になった。「お前、前に桐子の行き先を報告しただろう?どういうつもりで俺を騙した!」男は全身を震わせ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。「す、すみません……魔が差したんです。一瞬の気の迷いで……」男が涙ながらに訴えても、文哉は一片たりとも同情の色を見せなかった。彼は力任せに蹴りを入れ、目には抑えきれない怒気が宿っていた。「誰と手を組んで俺を騙したのか、徹底的に調べろ……」言い捨てると、躊躇いもなく踵を返した。ここで時間を無駄にしている暇などない。桐子を一刻も早く見つけなければならない。ほんの十数分滞在しただけで、文哉は帰路についた。だが、来るときの不安とは違い、今の彼の心は、どん底に沈むように暗く重かった。あの日、自分が何を言い、何をしたのか――思い出すことすら怖かった。あの時、桐子にはすべてが聞こえていたのだ。だからこそ、彼女が危険にさらされ、最も信頼していた夫に助けを求めたその瞬間、耳に届いたのは――彼が別の女と親しくする声だった。俺はまるで畜生以下だ。
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第20話

そんな人の寄りつかない場所には、当然ながら監視カメラなど存在しない。つまり――口封じのために人を殺す、これ以上なく都合のいい場所だ。文哉の胸の奥に残っていたわずかな希望も、その瞬間に完全に消え去った。手が震える。それでも声を押し殺して命じる。「人を集めて山を探せ。生きている人間が、跡形もなく消えるなんてあるはずがない」文哉が巨額の資金を投じたところ、専門チームは直ちに動員され、徹底的な捜索を開始した。文哉自身も現場へ向かった。かつて交通事故で骨折したときでさえ手放さなかった仕事を置き去りにし、山の中を三日三晩、休むことなく探し続けた。そして、体力が限界に達しようとしたそのとき――ようやく見つけた。だが、そこにあったのは、ほとんど焼け尽くされた車の残骸だけだった。車の中には男女二人の遺体があり、すでに焼けただれて顔の判別もつかないほどだ。全身泥まみれの文哉は、その知らせを聞いた瞬間、しばし呆然と立ち尽くした。だがすぐに、また前へと歩き出した。「社長、あの車の車種は専門家に確認済みです。奥様が乗っていたものと一致しました」文哉はまるで聞こえないかのように叫んだ。「桐子?桐子?ここにいるのか?」補佐は見かねて前に出て、彼を制した。「社長、遺体が着ていた服とアクセサリーは、奥様が外出の際に身につけていたものです……」「どけ!」文哉は突然激高し、補佐に拳を振るった。「桐子を探すって言っただろ!二度と俺を止めたら、給料もらって出てもらう……」文哉は怒号を上げた。三日間一睡もしていないせいで、目は真っ赤に血走っていた。彼は、桐子がそんな簡単に死ぬなんて信じられない。あの日のあの電話が、本当に二人の最後の会話だったなんて、彼は信じられない。つい数日前まで、桐子は彼のそばであんなにも生き生きとしていたのに。どうして突然、焼け焦げた死体になってしまうんだ?どうして彼を置いて、こんなふうにいなくなってしまうんだ?文哉の体がぐらりと揺れた――きっと嘘だ。これは夢だ。彼は手を上げ、自分の頬を思い切り叩いた。その力はあまりに強く、一瞬で彼の顔を横に向かせた。だが、頬を焼くような痛みは、彼を悪夢から目覚めさせはしなかった。むしろ、その痛みが、すべてが現実だということを突きつけてきた。文
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