Tous les chapitres de : Chapitre 41 - Chapitre 50

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第四十一話 争っていない席

その日の午後。黒崎本社から高瀬邸へ戻って、まだそれほど時間は経っていなかった。沙耶は応接室の窓辺に立ち、庭を眺めていた。征吾へ、名前のない依頼書を預けた。黒崎本社から一ノ瀬エレクトロニクスへ出された照会。その発行者を追うための、今の自分にできる一手だった。けれど、安心したわけではない。黒崎の内部で誰が動いているのか。征吾がどこまで記録を辿れるのか。そして、確認された事実がいつ怜司へ伝わるのか。答えの出ないことばかりだった。テーブルの上で、スマートフォンが震えた。表示された番号を見て、沙耶の眉がわずかに寄る。以前、美玲からかかってきた番号だった。一度だけ迷い、通話へ応じる。「はい、高瀬です」『今日、黒崎本社へ行っていたでしょう』やはり美玲だった。「……見ていたのですか」『会長に会っていたのね』どうやら、本社を出るところを見られたらしい。「それが、何か?」『お義父様に何を頼んだの?』お義父様。まだ婚約すらしていないはずなのに、美玲は当然のようにそう呼んだ。沙耶は眉を寄せる。「あなたへ説明する必要はありません」『復縁を頼みに行ったの?』あまりにも見当違いな問いだった。「違います」『だったら、どうして会長に会う必要があるのよ』「それも、あなたには関係ありません」電話の向こうで、美玲の呼吸がわずかに乱れた。『離婚したのに、まだ黒崎家とのつながりを残しているじゃない』「会社同士の関係まで、離婚と同時になくなるわけではありません」『そうやって、また怜司さんのそばへ戻るつもりなの?』沙耶は窓から離れ、椅子へ腰を下ろした。今日、自分が何を征吾へ渡したのか。美玲は何も知らない。それで
last updateDernière mise à jour : 2026-09-12
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第四十二話 消された一文

内部監査室から新たな報告が上がったのは、翌日の午前だった。怜司は執務室で、例の照会書に関する調査記録を読んでいた。黒崎本社から一ノ瀬エレクトロニクスへ、過去の検証資料を求めた文書。その発行には、役員室系統の共通経路が使われていた。そしてようやく、承認までの流れが確認された。「副会長室ですか」「はい」監査責任者が答える。「電子部品事業部から上がった照会案を、副会長室で確認しています。隆臣副会長の了承後、共通経路を使って処理された記録があります」「照会案を上げた責任者は」「部門責任者は一ノ瀬雅人執行役員です。ただし、本人が文書を作成したと断定できる記録まではありません」怜司は報告書を閉じた。「叔父上に来ていただいてくれ」ほどなくして、隆臣が執務室へ入ってきた。怜司は、黒崎側に保存されていた照会書の写しをテーブルへ置く。「こちらを承認なさいましたか」隆臣は目を通し、すぐに頷いた。「ああ」「どういう説明を受けましたか」「高瀬との共同開発で使われた旧書式と検証環境を確認したいと、雅人から聞いた」「それだけですか」隆臣の目が細くなる。「安全性を調べるために過去条件を再現する。そういう話だった」怜司は書面の下部を指した。そこには一文がある。再現資料には検証用であることを明記し、正式な品質記録とは明確に区別して管理すること。「この記載もご覧になった?」「ああ」隆臣は迷わなかった。「だから承認した。再現資料を正式記録として扱えなどという指示なら、認めるはずがない」「その後、この照会を使って作られた資料が、高瀬の正式な検査記録であるかのように提出されています」「なら、その意味を変えた人間を調べろ」隆臣の声は穏やかだった。「私が認めたのは通常の技術照会だ。その先まで私の指示にするつもりか」「現時点で、そのつもりはありません」怜司は叔父を見返した。「ですが、停止を決裁した私と同じように、承認した側にも確認は必要です」隆臣の口元に薄い笑みが浮かぶ。「少しは経営者らしくなったな」立ち上がる。「高瀬を止めた判断については、いずれ取締役会でも説明を求められるだろう。自分が騙された被害者だったと言えば済むと思うな」「思っていません」怜司は静かに答えた。「騙された判断の責任を負うことと、騙した人間を調べることは別で
last updateDernière mise à jour : 2026-09-13
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第四十三話 残された控え

黒崎本社の内部監査室から照会が届いたのは、雅人が会議を終えて執務室へ戻った直後だった。三か月前、黒崎本社から一ノ瀬エレクトロニクスへ送られた資料提出依頼書について。本社側に保存されている承認時の文書。一ノ瀬側で受信した時刻。受信した文書を印刷した社員。さらに、送信処理に使われた経路についても確認を求めている。質問そのものは簡潔だった。だが、監査の手は確実に深い場所へ届き始めていた。雅人は執務室の扉を閉め、照会書を机へ置いた。黒崎本社には、隆臣が了承した時点の文書が残っている。そこには――一文がある。再現資料には検証用であることを明記し、正式な品質記録とは明確に区別して管理すること。一方、一ノ瀬エレクトロニクスへ実際に届いた文書には、その一文がない。その違いを怜司たちが把握したのなら、次に調べる場所は決まっている。承認後。送信前。どこで文書の内容が変わったのか。雅人は、一ノ瀬エレクトロニクスの品質保証部長へ電話をかけた。『お疲れさまです、一ノ瀬執行役員』「三か月前、黒崎本社からそちらへ届いた資料提出依頼書について確認したい」『はい』「受信した文書を、誰かが印刷した記録は残っているか」電話の向こうで、わずかな間が空いた。『正式な保存は電子文書ですが、作業担当者が印刷した可能性はあります』「可能性ではなく、記録を確認してくれ」『少々お待ちください』端末を操作する音が続く。雅人は無言で待った。紙そのものが残っていなければ、まだ説明の余地はある。一ノ瀬側の電子文書と黒崎本社側の原文に差があったとしても、どの段階で変わったのかは別途立証が必要になる。だが。当時、一ノ瀬側へ届いた状態のまま印刷された紙が残っていれば。話は変わる。『ありました』品質保証部長の声が戻る。『受信した当日、一部印刷されています』「誰だ」『神谷直人です。高瀬の旧資料を取りまとめていました』雅人は目を閉じた。神谷直人。高瀬メディカルから一ノ瀬エレクトロニクスへ転職してきた電子制御系の技術者。雅人自身が直接引き抜いた人間ではない。開発部門から候補者として上がり、電子部品事業を統括する立場で採用を承認した。高瀬の旧書式。共同開発初期の検証環境。制御系の試験方法。それらを知る人材として、使い道があることは理解していた。「
last updateDernière mise à jour : 2026-09-14
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第四十四話 逃げた先で

神谷は、駅前のビジネスホテルにいた。狭い机の上には、開いたままのノートパソコンと、ほとんど口をつけていない弁当が置かれている。妻には、急な社外研修だと伝えた。三日間だけ家を空ける。そう言えば、深く聞かれないと思った。けれど、嘘をついたときの妻の顔が何度も頭に浮かんだ。高瀬を辞め、一ノ瀬エレクトロニクスへ移ったとき、家族は喜んでくれた。給与が上がった。役職もついた。電子制御の技術者として、ようやく認められたような気がした。高瀬では、義肢装具士や職人が開発の中心だった。神谷の仕事も必要とされていた。それでも最後に評価されるのは、患者の足へ直接触れる者たちだと感じていた。自分が組んだ検証手順も。電子制御の仕組みも。いつも裏側にある仕事だった。一ノ瀬への転職を勧められたとき、迷いは少なかった。ここなら、自分の技術がもっと前へ出られる。そう思った。だから、過去の検査書式を確認するよう求められたときも疑わなかった。古い利用者IDとの紐付けが残っている可能性を話したときも、旧環境を再現するために必要なのだと思っていた。いや。そう信じたかったのだ。何かがおかしいと気づいたあとも、黙っていた。今の地位を失うのが怖かった。せっかく安定した生活を手に入れたのに、また家族へ不安を背負わせるのが怖かった。神谷は机の端に置いたスマートフォンへ目を向けた。沙耶へ照会書の控えを渡したのも、正義感だけではない。偽造に使われたと分かったとき、真っ先に浮かんだのは恐怖だった。もし発覚すれば。高瀬の旧書式を知っていた自分。古いIDが残っている可能性を話した自分。一番都合のいい責任者にされるかもしれない。だから証拠を残したかった。自分も騙されたのだと示したかった。
last updateDernière mise à jour : 2026-09-15
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第四十五話 証言者を守れ

深夜、征吾の私用端末が鳴った。会長直属の監査責任者からだった。『内部通報窓口へ、神谷直人と名乗る社員から連絡が入りました』征吾は手元の書類を閉じた。「本人確認は」『済んでいます。一ノ瀬エレクトロニクスの社員記録と一致しました。三年前まで高瀬メディカルに勤務していた技術者です』沙耶が照会書の控えを受け取った男だった。「何を話した」『高瀬時代の旧書式について説明したことと、古い利用者IDとの紐付けが残っている可能性を一ノ瀬側へ伝えたことを認めています。また、品質保証部で作られた再現資料が、後に高瀬への供給停止の根拠として使われた可能性があると』「ほかには」監査責任者の声が低くなる。『本人へ匿名のメッセージが届いています』「内容は」『「三か月前の照会について、外部へ話すな」「これ以上動けば、一ノ瀬での立場は保証できない」と』単なる資料の取り違えなら、証言しようとする社員を黙らせる必要などない。「送信元は」『黒崎グループの社員通知にも使われる共通名義です。現時点では、個人も部署も特定できていません』「記録を保存させろ。返信はさせるな」『承知しました』「神谷本人は何を求めている」『家族へ不利益が及ばないようにしてほしいと』征吾は一拍置いた。「家族には勝手に接触するな。本人の同意もなく動けば、かえって追い詰める」『はい』「今夜は本人の希望を確認したうえで、安全を確保できる場所への移動を提案しろ。接触する監査担当も限定する」『警備部門には知らせますか』「必要なら責任者一人だけだ。この件を副会長室にも電子部品事業部にも流すな」通話を切る。隆臣。雅人。あるいは、その周囲にいる誰か。誰が神谷を黙らせようとしているのか、まだ決めつけることはできない。だが圧力がかかった以上、証言者を一人で放置するわけにはいかなかった。◇◇◇翌朝。神谷は黒崎本社とは別の場所にある、監査用の会議室へ来ていた。征吾が入ると、神谷は慌てて立ち上がった。一睡もしていないのだろう。顔色が悪く、両手を落ち着きなく握っている。「黒崎征吾だ」「……神谷直人です」「座りなさい」征吾が向かいへ腰を下ろすと、監査担当者が録音機を置いた。「これから話す内容は、正式な証言として記録する」神谷の肩が強張る。「君を最初から犯人と決めつけるつもりはな
last updateDernière mise à jour : 2026-09-16
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第四十六話 小さな心音

診察室へ呼ばれるまで、沙耶は待合室の隅で静かに呼吸を整えていた。朝から吐いたわけではない。ただ最近、以前は何ともなかった車の揺れに弱くなっていた。病院へ来る途中も、信号で何度か加減速を繰り返すうちに胃の奥がむかつき、大橋に少し速度を落としてもらった。つわりは比較的軽いほうだと思う。食事も少量なら取れるし、水分にも困っていない。それでも、疲労や緊張が重なると急に吐き気が強くなることがあった。名前を呼ばれ、診察室へ入る。照明が少し落とされると、画面に淡い影が映った。沙耶は診察台の上で、知らず指先を握りしめていた。「ここが頭ですね」医師が画面を示す。「少し動いています。心拍も安定していますよ」規則正しい小さな音が、静かな診察室へ響いた。速い。けれど、確かな心音だった。沙耶は息をすることさえ忘れそうになって、その音を聞いた。腹の中に命がいることは分かっていた。出血した夜も、病室で眠れずに朝を待った時間も、この子だけは失いたくないという思いに迷いはなかった。それでも、こうして確かな音を聞くと、胸の奥に押し込めていた不安がようやくほどけていく。「……順調ですか」「はい。その後、出血もありませんね。今のところ問題ありません」その言葉を聞いて、沙耶はようやく息を吐いた。医師は画面を確認しながら尋ねる。「吐き気はどうですか」「普段はそれほどでもありません。ただ、最近は車の揺れでも少し気分が悪くなることがあって」「吐いてしまうことは?」「ほとんどありません」「比較的軽いつわりですね。ただ、無理をすると急に症状が強くなることがあります」医師は少しだけ表情を厳しくした。「仕事は?」「少しずつ戻しています」「短時間で、途中に休めるなら構いません。ただし、身体の反応を無視しないこと。水分が取れなくなったり、また出血があったりしたら、すぐに連絡してください」「はい」沙耶は素直に頷いた。高瀬のために、まだやらなければならないことはある。けれど今は、自分一人の身体ではない。そのことを忘れてまで守る会社ではないと、宗一郎にも何度も言われていた。診察を終え、服を整えて待合室へ戻る。向かい側には、若い夫婦が並んで座っていた。夫らしい男性が超音波写真を何度も見返し、そのたび隣の女性が笑っている。「どっちに似るかな」「まだ分からな
last updateDernière mise à jour : 2026-09-17
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第四十七話 触れられた腕

第三者機関による本格的な調査が始まった朝、沙耶は高瀬メディカルの共同開発棟にいた。退院してから、高瀬へ出社するのは初めてだった。医師からは短時間なら仕事をしてもよいと言われている。それでも宗一郎は最後まで反対し、佐伯と相川も、途中で必ず休むことを条件に立ち会いを認めた。朝食は林檎を数切れ食べただけだった。緊張していたせいか、それ以上は喉を通らなかった。この日は、高瀬と黒崎双方の立ち会いのもと、問題になった検査機器や保存記録の照合が行われることになっていた。担当者への個別の聞き取りは、第三者機関が別室で進めている。調査員が端末の記録を確認しているところへ、黒崎側の出席者が入室した。沙耶は書類から顔を上げる。怜司がいた。黒いスーツに、感情を読ませない表情。離婚の日から、それほど長い時間が過ぎたわけではない。それなのに、ひどく久しぶりに会うような気がした。左右で色の違う瞳が、まっすぐ沙耶へ向けられる。その視線が一瞬だけ、顔から身体へ下がった。以前より痩せたことに気づいたのかもしれない。沙耶は先に目を逸らした。「では、現場確認を始めます」調査員の声で、室内の空気が切り替わった。午前中は問題なく進んだ。ところが昼を過ぎた頃から、胃の奥に重い不快感が広がり始めた。検査室に残る機械油。試作品の調整に使われる樹脂。休憩から戻った誰かが持っている濃いコーヒー。普段なら気にも留めない匂いが、今日はひどく鼻についた。沙耶は口元へ手を添え、浅く息をする。少し外の空気を吸えば治まる。そう思い、誰にも告げず廊下へ出た。窓のある場所まで行こうとしたが、数歩進んだところで視界が揺れた。朝からほとんど食べていないことも悪かったのだろう。壁へ手を伸ばすより先に、腕を掴まれた。「沙耶」怜司の声が、すぐ近くで聞こ
last updateDernière mise à jour : 2026-09-18
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第四十八話 もう聞けないこと

沙耶は椅子に座ったまま、水を少しずつ口にしていた。一度に飲まず、唇を湿らせるように喉へ流し込む。怜司は、その飲み方を知っていた。沙耶は体調が悪いときほど、周囲に気づかれまいとする。熱があっても翌日の会食へ出ると言い張ったことがあった。黒崎家の客を迎える準備が終わるまで、休もうとしなかった夜もある。あの頃も、怜司は気づいていた。顔色が悪いことも、いつもより食事が進んでいないことも。それでも、休めと強く言ったことはなかった。沙耶なら自分で判断できる。本当に無理なら、家の者へ伝えるだろう。そう考えていた。それは信頼だったのか。それとも、彼女が自分で何とかすることに甘えていただけなのか。今となっては分からない。少なくとも、弱っているときに自分を頼ってもいいのだと、沙耶へ思わせたことは一度もなかった。怜司は窓際に立ったまま、その横顔を見つめた。以前より頬が痩せている。先ほど腕を支えたときも、記憶にあるより身体が軽く感じられた。離婚を突きつけ、その直後には高瀬への部品供給と追加の研究支援を止めた。痩せた理由のすべてを知ることはできない。だが、その一端を自分が作ったことだけは分かっている。聞きたいことはいくつもあった。何の診察を受けているのか。いつから体調を崩しているのか。仕事へ戻るほど無理をして、本当に大丈夫なのか。だが問いかければ、沙耶はきっとまた一歩退く。「少し落ち着きました」沙耶が水のボトルへ蓋をした。「相川さんに連絡します」「俺が送る」口にしてから、怜司自身も唐突だと思った。沙耶の手が止まる。「結構です」「まだ一人で歩かせられない」「黒崎社長が席を外すほうが、調査に支障が出ます」「俺一人いなくても進む」「でしたら、
last updateDernière mise à jour : 2026-09-19
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第四十九話 今さら届く言葉

高瀬家へ戻る車の中で、沙耶は窓の外を眺めていた。流れていく街並みを見ているはずなのに、意識は共同開発棟の小会議室へ戻ってしまう。第三者調査の初日には、供給停止を決裁した責任者として怜司自身が立ち会っていた。毎日の調査へ出るわけではないだろう。それでも、黒崎側の判断そのものが問われる最初の日に、担当者へ任せず自ら来た。それが彼なりの責任の取り方なのだと、沙耶にも分かった。無意識に、怜司に支えられた腕へ指を添える。倒れそうになったから手を貸しただけだ。窓を開け、水を渡してくれたことも、具合の悪い人間への当然の気遣いにすぎない。分かっている。それでも、胸の奥は落ち着かなかった。夫婦だった三年間、沙耶は何度も怜司に気づいてほしいと願った。疲れている日も、一人で食事を待つ夜も、笑顔のまま心が折れそうになっていたときも。けれど、彼は何も言わなかった。今になって顔色を見て、倒れる前に手を伸ばす。その変化を嬉しいと思いかけた自分が、少し悔しかった。「沙耶様、まだ気分が悪いですか」助手席から相川が振り返る。「いいえ。もう落ち着きました」「帰ったら、今日はもう仕事をなさらず休んでください」沙耶は現在、高瀬の後継者として必要な判断には関わっているが、まだ通常どおり出社しているわけではない。自宅で報告を受け、重要な会議や確認にだけ参加する。それが宗一郎たちと決めた今の働き方だった。「分かっています」今度は素直に頷いた。自分一人の身体ではない。高瀬を守るために、この子を危険へ晒しては意味がなかった。屋敷へ戻ると、自室で着替え、ベッドへ横になる。目を閉じてしばらくすると、枕元のスマートフォンが震えた。画面を見た瞬間、呼吸が止まる。黒崎怜司。離婚してから、仕事上の窓口を通さず彼から直接連絡が来るのは初めてだった。
last updateDernière mise à jour : 2026-09-20
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第五十話 歪み

第三者機関から、中間報告が上がった。問題の検査表は、高瀬メディカルの真正な検査記録とは認めがたい。その暫定所見を読んでも、黒崎隆臣は表情を変えなかった。副会長室の机には、第三者機関の報告書と、会長直属の監査部門から共有された資料が並んでいる。最後の一枚まで目を通し、隆臣は静かに伏せた。当初の計画は、もっと小さなものだった。高瀬の安全管理に、一時的な疑いを生じさせる。怜司が部品供給と追加支援の停止を決裁したあと、その疑いが誤りだったと判明すればよかった。確認を尽くさず、重要な取引先を止めた。妻の実家との関係を意識するあまり、判断を誤った。いずれ経営責任を問われたとき、そう突けばいい。後継者としての評価に傷が残れば、それで十分だった。高瀬そのものを奪う必要などない。株式。特許。患者の歩行データ。検証責任者の交代。そこまで踏み込めば、単なる判断ミスでは終わらない。雅人は、自分の野心のために計画を広げすぎた。内線が鳴り、秘書が来客を告げた。『一ノ瀬執行役員がお見えです』「通せ」扉が開き、一ノ瀬雅人が入ってくる。いつもの余裕はなかった。「第三者機関の見解は聞いたな」「まだ中間報告です」「なら、覆せる材料があるのか」雅人は答えない。隆臣は一枚の資料を抜き取り、机の上を滑らせた。「神谷直人が正式に証言した」雅人の目が動く。「一ノ瀬の品質保証担当者が、高瀬の旧書式を使って再現資料を作っていたこと。そのファイル名と作成時刻が、問題の検査表と一致していることまで話している」「同一の資料だと証明されたわけではありません」「まだな」隆臣は否定しなかった。「だが、依頼書もある。本社で承認された文書と、一ノ瀬へ実際に届いた文書の内容が違う
last updateDernière mise à jour : 2026-09-21
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