Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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第二十一話 救済という名の鎖

提案書を閉じても、沙耶の指先には紙の冷たさが残っていた。一見すれば、高瀬メディカルを救うための提案だった。開発資金を出す。品質管理体制を立て直す。止まっている共同研究の継続を支援する。今の高瀬が必要としているものを、相手は驚くほど正確に並べている。だからこそ、腹立たしかった。何に困っているのか。どこを押さえれば苦しくなるのか。すべて知ったうえで、一番弱っている場所へ手を差し入れてきたように思えた。「お祖父様は、どう思いますか」宗一郎は向かいのソファで、提案書を最初から読み直していた。ページをめくるたび、眉間の皺が深くなる。「支援を受ければ、当面の資金繰りは楽になる」「はい」「部品の手当ても進められるかもしれん。大学病院で予定している評価試験も、早く再開できる可能性はある」沙耶は黙って頷いた。そこだけを見れば、魅力的だった。いま高瀬が失いかけている時間を、金で買い戻せる。社員の不安も抑えられる。患者たちを待たせる時間も短くできるかもしれない。けれど、その代償があまりにも大きい。「その代わり、高瀬は高瀬でなくなります」沙耶は、膝継手関連特許の共同管理と記された箇所へ目を落とした。共同管理。柔らかい言葉だった。だが、新しい技術を生み出しても、高瀬だけでは使用も改良も決められなくなる可能性がある。さらに、研究資料へのアクセス権。そこには、患者の同意や研究倫理上の手続きを前提とする文言こそあったものの、蓄積された歩行データを共同研究に広く利用する権限まで含まれていた。沙耶の指が止まる。「これは、ただの数値ではありません」宗一郎が顔を上げた。「患者さんが、痛みを抱えながら歩いた記録です。どこで足が止まったのか。どんな地面で怖さを感じたのか。どれだけ時間をかけて、もう一度
last updateDernière mise à jour : 2026-08-23
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第二十二話 選ばれるはずの女

前日、美玲は怜司に尋ねた。――離婚は成立したのでしょう? なら、私たちはいつからやり直せるの?五年間、待ち続けた言葉だった。正確には、待たせたのは自分のほうだ。怜司を捨て、別の男を追って海外へ渡った。それでも帰国した自分を見れば、怜司は昔のように手を差し伸べる。どこかでそう信じていた。けれど返ってきたのは、期待していた答えではなかった。――離婚と、君とのことは別だ。その言葉が、一晩経っても胸に引っかかっている。自分が戻ったから、怜司は沙耶との結婚を終わらせたはずだ。ならば次に選ばれるのは、自分でなければおかしい。美玲はその翌日、黒崎家の本邸を訪れた。突然押しかけたわけではない。前日のうちに黒崎征吾の秘書へ連絡し、正式に面会を申し入れている。一ノ瀬家と黒崎家には、古くから付き合いがあった。経営難によって一ノ瀬エレクトロニクスが黒崎傘下へ入った今も、創業家としての名や人脈まで失ったわけではない。そして、美玲と怜司が交際していた頃、黒崎家は二人の結婚に反対していなかった。少なくとも美玲は、自分が黒崎家の妻として不足していると思ったことなど、一度もなかった。応接室の扉が開く。「久しぶりだな、美玲さん」「ご無沙汰しております、征吾さん」立ち上がって頭を下げる。昔と変わらず、征吾は容易に感情を見せない。「それで、今日は?」「怜司さんとの今後について、ご挨拶をしておきたいと思いまして」征吾の目が、わずかに細くなった。「今後とは?」「私たちは、もう一度やり直すつもりです」怜司から約束されたわけではない。むしろ昨日、曖昧に退けられた。だが、そんなことを征吾へ話す必要はない。迷っているように見せれば、自分の立場まで軽くなる。「怜司が、そう言ったのか」「離婚を決めたのは、私が戻ったからです」嘘ではなかった。征吾
last updateDernière mise à jour : 2026-08-24
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第二十三話 約束していない未来

翌朝、怜司は父の征吾から本邸へ呼び出された。執務室へ入ると、征吾は机の向こうから鋭い視線を向けた。「昨日、美玲さんが来た」怜司は眉を寄せる。「何のために来たのですか」「おまえとの今後について、挨拶をしたいそうだ」一瞬、意味を測りかねた。前日、美玲へ告げた言葉が蘇る。――離婚と、君とのことは別だ。やり直すとは、一度も言っていない。「私は、何も約束していません」「だろうな」征吾は驚かなかった。「だが、彼女はおまえとやり直すつもりだと言い切った」怜司は黙った。「五年前、おまえと美玲さんが結婚するなら、私は反対するつもりはなかった。一ノ瀬家とは昔から縁がある。だが、それは五年前の話だ」「それが、今と何の関係があるのですか」「同じ場所へ、そのまま戻れると思うなということだ」征吾の声が低くなる。「美玲さんは一度、おまえを捨てた。沙耶さんは三年間、おまえの妻として黒崎家にいた」沙耶の名に、胸の奥が重くなる。「離婚は、私が決めたことです」「ああ。だから聞いている」征吾は息子ではなく、後継者の判断を測るように怜司を見た。「本当に、美玲さんを妻にするための離婚だったのか」答えは決まっていたはずだった。美玲が戻ったと聞いた夜、怜司は迷わなかった。失ったものを取り戻せる。そう思ったから、沙耶へ離婚届を差し出した。なのに、今「美玲との結婚」を現実の未来として置かれると、言葉が出ない。「自分の選択くらい、自分で見極めろ」征吾はそれ以上追及しなかった。◇◇◇本社へ戻ると、雅人が一冊の提案書を持って待っていた。「高瀬メディカルへの支援案です」怜司は受け取り、ページをめくる。開発資金の提供。品質管理体制の再構築。
last updateDernière mise à jour : 2026-08-25
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第二十四話 同じ立場

高瀬メディカルへの支援案は、すぐには断らないことにした。受け入れるためではない。回答期限まで「検討中」と思わせ、その間に黒崎以外の資金調達先と部品供給先を探すためだ。相川が作成した回答案を確認し終えたところで、沙耶のスマートフォンが震えた。見覚えのない番号だった。「もしもし」『沙耶さん』その声だけで、背筋が冷える。「……美玲さん?」『少し、お話ししたくて』沙耶は眉を寄せた。美玲へ個人番号を教えた覚えはない。以前、怜司へ連絡しようとしたときも、大橋の電話を借りている。「どうして、私の番号をご存じなのですか」一拍の間のあと、美玲は悪びれもせず答えた。『怜司さんのスマートフォンに入っていましたの。借りていたときに、偶然』「偶然見つけた番号を、無断で控えたのですか」『そんなに警戒なさらないで。お伝えしたいことがあっただけですわ』沙耶は腹の奥に生まれた不快感を押し込めた。「ご用件は?」『高瀬へ、黒崎側から支援のお話が出ているそうですね』指先が止まった。まだ公表されていない話だ。「どこで聞いたのですか」『兄が最近、高瀬の支援案件を扱っていると聞いただけです』一ノ瀬雅人。高瀬へ供給されていた電子部品を管轄する男だ。『受け入れたほうが賢明だと思いますわ』「なぜ、あなたにそんなことを言われなければならないのですか」『私も、似た立場を知っていますから』美玲の声に、かすかな笑みが混じった。『一ノ瀬の会社も、経営が傾いて黒崎に助けてもらったの。創業家として悔しいことはあっても、受け入れてしまえば楽になります』沙耶は黙った。一ノ瀬エレクトロニクスは残った。名前も、技術も、社員も。けれど経営権は黒崎へ移った。『
last updateDernière mise à jour : 2026-08-26
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第二十五話 利用する者たち

黒崎隆臣《くろさき・たかおみ》は、役員専用フロアの応接室で一ノ瀬雅人を待っていた。窓の向こうには、黒崎グループ本社を囲む高層ビル群が並んでいる。隆臣も、その景色を築いてきた一人だった。兄の征吾を支え、国内外の事業拡大に関わり、黒崎の名をここまで押し上げてきた。それでも次に頂点へ立つのは、自分ではない。征吾の息子、怜司だ。怜司が無能なら、まだ納得のしようもあった。だが甥は冷静で、決断も早い。大きな失策もなく、社内ではすでに次代を担う人間として扱われている。だから隆臣が欲しかったのは、たった一つだった。怜司自身が下した、消せない判断ミス。扉が開き、雅人が入ってきた。「お呼びでしょうか、副会長」「座れ」隆臣は、高瀬メディカルへの支援提案書を机へ滑らせた。「少し欲を出しすぎたな」雅人の目が細くなる。「何のことでしょう」「株式、役員派遣、特許、患者データ。挙げ句に検証責任者まで替えるつもりらしいな」「高瀬はいま弱っています。時間を与えれば、別の資金源を探すでしょう」「だから全部奪う?」「利用できる機会を逃す理由はありません」迷いのない声だった。隆臣は小さく息を吐いた。「私は、高瀬など欲しくない」雅人の表情から、わずかに温度が消える。「私が欲しかったのは、怜司が十分な確認をする前に供給停止を決裁したという事実だけだ」安全性に疑義がある。患者へ危険が及ぶかもしれない。そう報告されれば、怜司は止める。そして後から前提が誤りだったと分かれば、取締役会で問える。なぜ、身内だった企業との案件で、より慎重に確認しなかったのか。なぜ、損失が出る前に判断を修正できなかったのか。怜司の経歴に傷をつけるには、それで十分だった。「私は一時止まればよかった」隆臣
last updateDernière mise à jour : 2026-08-27
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第二十六話 戻れない場所

役員応接室を出た雅人は、足を止めずに自分の執務室へ戻った。隆臣から見せられた権限一覧が、頭から離れない。高瀬の検証用データは、雅人が統括する電子部品事業部から閲覧できる。共有先の管理責任者として、自分の名も記録されていた。それだけで、偽造への関与を証明されるわけではない。雅人本人が資料を開いた証拠でもない。だが、高瀬が次に電子部品事業部を調べる理由としては十分だった。扉を閉め、机へ向かう。置いてあったスマートフォンには、美玲からの未読メッセージが届いていた。『高瀬の奥様に、支援を受けたほうがいいって言っておいたわ』雅人の眉が動く。続く文面を開いた瞬間、表情が冷えた。『兄さんが高瀬の支援を担当していることも少し話したけど、別にいいでしょう?』雅人はすぐに電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、美玲が明るい声で応じる。『兄さん?』「おまえは何をしている」『何って?』「沙耶へ電話したそうだな」『ええ。一ノ瀬だって黒崎に助けてもらったんだから、高瀬も同じようにすれば楽になるって教えてあげたの』「俺の名前まで出したのか」『少しだけよ』雅人は奥歯を噛んだ。「二度と勝手なことをするな」『どうして? 兄さんだって高瀬が欲しいのでしょう?』美玲の声が尖る。『私は怜司さんを取り戻したい。兄さんは高瀬を手に入れたい。そんなに違う?』「おまえの恋愛と、俺の仕事を一緒にするな」『兄さんこそ、都合のいいときだけ私を利用するくせに』一瞬、雅人は黙った。美玲が怜司の近くにいれば、耳に入る情報もある。その程度には役に立つと思っていた。だが、妹は自分の望みのためなら、兄の名前も仕事上の情報も平然と使う。今後は、渡す情報そのものを選ばなければならない。「これ以上、沙耶へ連絡するな」
last updateDernière mise à jour : 2026-08-28
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第二十七話 庭に残る記憶

高瀬メディカルへの支援案について、黒崎側から届いた補足資料を、沙耶たちは応接室で確認していた。向かいには宗一郎と佐伯、相川がいる。腹部の痛みはほとんど治まり、医師からも家の中なら短時間歩いてよいと言われていた。それでも外出の許可はまだ下りていない。皆が会社で動いているのに、自分だけがここで報告を待つ。そのもどかしさには、なかなか慣れなかった。「やはり、この条件は受け入れられません」沙耶は支援案の一項を指した。品質管理体制の再構築に伴う、検証責任者の交代。後任は、支援側が推薦する人材を置く。佐伯の顔が険しくなる。「責任者を替えれば、検査機器の元データも、共有システムの履歴も、新しい担当者が見ることになります」「品質管理を客観化したいだけなら、利害関係のない第三者機関を入れれば済むはずです」相川も静かに言った。その通りだった。なぜ、支援する側が選んだ人間でなければならないのか。沙耶は、机の上に置かれた共有権限の一覧へ目を移した。偽造の元になった可能性がある検証用データは、黒崎側の電子部品事業部にも共有されていた。そして、その共有先責任者として記されている名前。一ノ瀬雅人。雅人本人が資料を開いた証拠は、まだない。部署の誰が、いつ、何のために閲覧したのかも分からない。けれど、その直後に美玲から電話があった。兄が高瀬の支援案件を扱っていると、美玲自身が口にしている。そして支援案には、高瀬が集めている証拠へ触れられる立場の人間を送り込む条件まである。偶然と片づけるには、重なりすぎていた。「この条件は拒否します」沙耶は言った。「調査が必要なら、黒崎とも高瀬とも利害関係のない外部機関へ依頼しましょう」「元データの保管は?」佐伯が尋ねる。「社内だけに置くのは避けたいです。顧問弁護士と、第三者のデータ保全先に
last updateDernière mise à jour : 2026-08-29
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第二十八話 見ていた花

高瀬メディカルから届いた回答書は、朝一番で怜司の執務机へ回されていた。添付されているのは、保守会社の点検記録、大学病院の入館記録、そして共同開発用システムの共有権限に関する照会だった。怜司は最後の一文で目を止めた。貴社電子部品事業部に当該検証用資料の閲覧権限が付与されていた経緯、ならびに実際の閲覧者、閲覧日時および閲覧目的について、正式な回答を求めます。「雅人を呼べ」秘書へ告げ、怜司は椅子から立ち上がった。窓際の小さな花瓶に、白い花が生けられている。来客用に誰かが用意したものだろう。何気なく目を向けた瞬間、黒崎邸の景色が蘇った。沙耶が嫁いできてから、屋敷にはいつも花があった。玄関にも、食卓にも。季節ごとに種類は変わったが、白い花が混じることが多かった。怜司は一度も、白が好きだと言った覚えはない。ただ、ある夜、食卓に生けられていた白い花へ少し長く目を留めたことがある。沙耶は、それを覚えていたのだろうか。書斎へ置かれる花も、香りの弱いものばかりだった。仕事中に強い香りを嫌うことを、いつの間にか知られていた。一度だけ、深夜に萎れかけた花を見つけた。使用人はすでに休んでいた。怜司は水を替えた。翌朝、沙耶は何も言わなかった。気づかなかったのか。気づいても、あえて言わなかったのか。今となっては確かめられない。ただ、沙耶がいなくなってから、屋敷から花も消えた。扉が開いた。「お呼びでしょうか」雅人の声に、怜司は花瓶から目を離した。「高瀬から正式な照会が来ている」回答書を差し出す。雅人は目を通しても表情を変えなかった。「電子部品事業部には、いつからこの検証用資料への閲覧権限があった」「共同開発開始時からです。部品適合の確認に必要でしたので」「実際に誰が閲覧した」「現在、確認しております」怜司の眉が寄る。「管理責任者はおまえだろう」「部署内で共有された資料です。個々の閲覧履歴については、精査が必要です」「なら急げ」怜司は別の資料を机へ置いた。「高瀬が出した反証については?」「外部記録があることは確認しています。ただ、それだけで不正がなかったとは――」「機器は点検中だった」「別の資料が混在した可能性もあります」「担当者は大学病院にいた」「承認処理を別人が行った可能性も否定できません」怜司は黙った。
last updateDernière mise à jour : 2026-08-30
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第二十九話 消えたはずの名

 黒崎グループから正式な回答が届いたのは、翌日の午後だった。高瀬邸の応接室には、宗一郎と佐伯、相川が集まっている。沙耶は相川から書面を受け取り、一行ずつ目を通した。支援案に盛り込まれていた検証責任者交代の条件は撤回する。今後の調査には、高瀬と黒崎の双方が候補を出し、利害関係を持たない第三者機関を選定する。さらに、黒崎側電子部品事業部に付与されていた閲覧権限について、実際の閲覧者、日時、目的を調査し、正式に回答する。「こちらの要求が認められましたね」相川の声に、わずかな安堵が滲んだ。沙耶は最後の決裁欄へ目を落とした。黒崎怜司。その名を見た瞬間、胸の奥が小さく揺れた。怜司は、高瀬から提出した反証を読んだ。雅人側の説明だけで判断せず、調査の方法まで改めた。けれど、それを「信じてもらえた」と受け取ることはできない。部品供給はまだ止まっている。高瀬に向けられた疑いも、完全に晴れたわけではなかった。怜司が高瀬を信じたのか。それとも、経営者として公平な手続きを選んだだけなのか。紙の上から、その答えを知ることはできない。「第三者機関の選定には?」「候補先への確認もありますので、数日は必要になるかと」相川が答えた。「分かりました。その間も、元データとログの保全を続けてください」「承知しました」沙耶は回答書を閉じた。期待してはいけない。一度こちらの言葉を聞いたからといって、怜司との間に起きたことまで消えるわけではない。それでも――。今度は、途中で止められなかった。自分たちの言葉が、確かに怜司まで届いた。その事実だけが、どうしても胸に残った。◇◇◇夕方近くになって、佐伯が再び高瀬邸を訪れた。手には、何枚ものシステム記録が握られている。
last updateDernière mise à jour : 2026-08-31
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第三十話 怯える元社員

神谷直人の人事記録が、高瀬邸の応接室へ運ばれた。沙耶の前で、佐伯が古い履歴書と退職時の書類を開く。「神谷さんは、義肢装具士ではなかったのですね」「ええ。電子制御系の技術者です」高瀬メディカルは、義足そのものの設計や調整には強い。一方、センサーや制御基板を扱う電子分野は、小さな技術チームで補っていた。神谷はそこで、センサーから送られる数値の確認や、制御基板と膝継手を接続する検証を担当していた。「今回使われた検査表の書式も、神谷がいた頃に作られたものです。それに、共同開発初期の検証環境にも関わっていました」それなら、古い書式も認証方法も知っている。偽造資料の提出に使われた旧利用者IDが、神谷に紐づくものだったことも無視できない。「退職理由は?」「一ノ瀬エレクトロニクスへの転職です」一ノ瀬エレクトロニクスは、小型センサーや制御基板、精密モーターを扱う企業だ。経営難から黒崎グループ傘下へ入り、その技術は現在、黒崎本社の電子部品事業にも組み込まれている。そして、その事業を統括しているのが一ノ瀬雅人だった。「引き抜かれたのですか」「条件を提示されたと聞いています。高瀬にいた頃より給与も役職も上がった。神谷自身、電子制御の技術が正当に評価されていないという不満を持っていたようです」佐伯の声には、わずかな苦さがあった。高瀬では、どうしても義肢装具士が開発の中心になる。神谷にとって、一ノ瀬への転職は専門性を生かすための選択だったのかもしれない。それ自体を裏切りと決めつけることはできない。「連絡は取れますか」相川が答えた。「会社を通せば可能ですが、一ノ瀬側へ先に伝わります」それでは神谷が警戒するかもしれない。「退職時の個人連絡先は残っていますか」「確認します」◇◇◇夕方、相川が見つけた番号へ、沙耶は自分で電話をかけた。長い呼び出し音のあと、男の声がした。『……はい』「神谷直人さんでしょうか。高瀬沙耶です」沈黙。その名を聞いた瞬間、電話の向こうの空気が変わった。「三年前まで使われていた利用者IDについて、お聞きしたいことがあります」『……その件は、僕には関係ありません』沙耶は眉を寄せた。まだ、何に使われたIDなのか説明していない。「高瀬の名で、偽の検査記録が提出されました。その際、神谷さんに紐づく古いIDが使わ
last updateDernière mise à jour : 2026-09-01
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