Tous les chapitres de : Chapitre 31 - Chapitre 40

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第三十一話 名前のない指示

神谷が指定したのは、高瀬邸から車で二十分ほどの小さな喫茶店だった。その日の診察で、短時間の車移動なら構わないと医師から許可が出ていた。それでも沙耶は一人では来なかった。相川には店の外で待ってもらい、体調に異変があればすぐ戻れるようにしている。約束の時間を少し過ぎて、神谷が現れた。以前より痩せ、店へ入るなり周囲を何度も確認する。沙耶の向かいへ座っても、上着を脱ごうとはしなかった。「来てくださってありがとうございます」「……長くはいられません」「分かりました」神谷は鞄から薄い封筒を取り出した。中に入っていたのは、高瀬で以前使われていた検証書式の写しと、共有システムの操作手順だった。「三か月ほど前、黒崎本社から一ノ瀬エレクトロニクスへ、過去の検証資料を出すよう照会が来たんです」「誰からですか」「分かりません。会社を通して正式に届いた依頼でした」神谷によれば、目的は高瀬との共同開発で使われていた旧書式や、過去の検証環境を確認することだった。それだけなら、不自然ではない。「僕は高瀬にいた頃、電子制御系の検証を担当していました。だから昔の書式や、どのデータを使っていたかを聞かれて……答えました」神谷の指が、紙の端を強く押さえる。「そのとき、旧環境を再現するなら、過去の利用者IDとの紐付けも確認したほうがいいと話しました。共有側に古い情報が残っている可能性があったので」「認証情報を渡したのですか」「違います。パスワードなんて渡していません。ただ、古いIDが残っているかもしれないと伝えただけです」沙耶は静かに頷いた。その情報を知った誰かが、残された仕組みを悪用した可能性はある。「偽の検査記録については?」神谷の顔が強張った。「最初は知りませんでした」しばらく迷ったあと、声を落とす。「一ノ瀬の品質保証の担当者が、高
last updateDernière mise à jour : 2026-09-02
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第三十二話 初めての贈り物

神谷が店を出たあとも、沙耶はしばらく席を立てなかった。テーブルの上には、名前のない依頼書が残されている。右上に印字された管理番号。黒崎本社から出された照会だということまでは分かった。けれど、誰が発行し、誰の判断で一ノ瀬エレクトロニクスへ送られたものなのかは見えない。雅人なのか。それとも、別の人間なのか。考えても、今ある材料だけでは答えは出なかった。沙耶は書類を封筒へ戻し、店の外で待つ相川へ連絡を入れた。会計へ向かいかけて、レジ脇の棚に目が止まる。店の奥半分は小さな雑貨売り場になっていた。木製の食器や布小物、手作りの玩具が、古い棚へ丁寧に並べられている。その中に、小さな木のパズルがあった。丸や三角、四角の木片を、同じ形の穴へはめるものだ。淡い木目を生かした作りで、角も丸く削られている。沙耶は、なぜかそこから動けなくなった。この子が使えるようになるのは、ずっと先だ。生まれて。首が据わって。やがて一人で座れるようになり、もっと先には、小さな指で木片をつかむ。丸い穴へ四角を入れようとして、何度も首を傾げるかもしれない。うまくはまったときには、どんな顔で笑うのだろう。まだ見たこともない笑顔が、ふっと頭に浮かんだ。「……こちらも、お願いします」気づけば、そう言っていた。◇◇◇店を出ると、大橋が車の後部座席の扉を開けて待っていた。助手席には相川が乗り込む。「お疲れではありませんか」「大丈夫です。少し買い物までしてしまいました」沙耶が紙袋を見せると、相川は中身を尋ねず、静かに微笑んだ。車が走り出す。窓の外では、幼い子供が母親の手を引いていた。何かを見つけたのか、懸命に指を差し、母親が腰を屈めて話を聞いている。少し先には子供服の店があった。本来なら今は、こんな景色を見て、ただ
last updateDernière mise à jour : 2026-09-03
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第三十三話 帰る場所

高瀬メディカルから新たに届いた照会資料には、黒崎本社のものと見られる管理番号が添えられていた。怜司は、黒崎本社に残る発番記録と見比べる。形式は確かに黒崎グループのものだ。だが、電子部品事業部で通常使われる番号とは異なっている。「申請者名が残らない運用なのか」怜司が尋ねると、内部監査室の責任者は資料へ目を落とした。「役員室から子会社へ直接照会を出す際、秘匿区分の共通経路を使うことがあります。ただ、通常は後から発行元を追える記録が残ります」「今回は?」「通常画面では確認できません」怜司は眉を寄せた。「一ノ瀬の電子部品事業部から出た可能性は」「低いと思われます。少なくとも、同部門の通常発番ではありません」「過去半年、一ノ瀬エレクトロニクスへ出された同形式の照会を洗え」「一ノ瀬執行役員へ確認しますか」「まだするな」先に問いただせば、通常業務だったと説明する時間を与える。今必要なのは言葉ではなく記録だった。「発行経路と実際に処理した端末を先に特定しろ。結果は俺へ直接上げてくれ」「承知しました」監査責任者が退室すると、怜司は高瀬から提出された資料を取り上げた。偽造された検査記録。退職者に紐づく旧ID。一ノ瀬エレクトロニクスへ移った元技術者。そして、黒崎本社から出された名前のない照会。沙耶たちは、自分たちでここまで辿り着いた。部品供給と追加支援を一時停止すると決裁したのは怜司自身だ。患者の安全に疑義がある以上、あの時点で止める判断をしたこと自体を、誰かのせいにするつもりはない。責任は自分にある。だが、判断の前提として差し出された資料そのものが、意図的に作られていたのだとしたら。それは別の問題だった。誰かが、怜司なら止めると分かったうえで、安全という言葉を使った。そして、高瀬から届く反証ま
last updateDernière mise à jour : 2026-09-04
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第三十四話 五年前のあなた

美玲が黒崎邸を訪れたのは、夜九時を回った頃だった。昔から顔を知る使用人に、怜司が最近も帰宅が遅いらしいと聞いた。ならば、ろくに食事も取っていないだろう。そう思って、クリーム煮を持ってきた。学生の頃、料理教室で作ったものを怜司が一度だけ「うまい」と言ったことがある。たった一度。それでも、美玲は忘れていなかった。二人には、沙耶にはない時間がある。五年前まで、自分は怜司の隣にいるのが当然だった。だから、戻ればまた同じ場所に立てると思っていた。玄関先で使用人へ器を預けようとした、そのときだった。門の向こうから車のライトが差し込み、黒い車が玄関前へ滑り込む。後部座席から怜司が降りてきた。美玲を見た瞬間、わずかに足を止める。「どうしてここに」「あなたが忙しいと聞いたから。差し入れを持ってきたの」美玲は笑って器を示した。「クリーム煮。昔、好きだったでしょう?」怜司の視線が器へ落ちた。懐かしそうな顔をすると思った。けれど、その表情は変わらない。「気遣いはありがたい。だが、持って帰ってくれ」「どうして? 疲れているときこそ、食べたほうがいいわ」「今は夜に重いものは食べない」その言葉に、美玲は一瞬黙った。昔は違った。徹夜のあとでも平気で食べていた。美玲が呆れるほど、食事の時間にも無頓着だった。「変わったのね」「五年経っている」怜司は短く答えた。美玲の胸の奥が、わずかにざらついた。「でも、あなたのことなら分かるわ」怜司が玄関へ向かおうとする前に、美玲は続けた。「昔から知っているもの。あなたが何を背負ってきたかも、誰にも見せない傷も。無理をすると黙ることも」怜司が足を止めた。左右で色の違う瞳が、美玲を見る。「君が知っているのは、五年前
last updateDernière mise à jour : 2026-09-05
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第三十五話 信じるということ

翌朝、怜司は黒崎本社の執務室で、内部監査室から上がってきた報告書を読んでいた。例の管理番号は、電子部品事業部の通常経路から発行されたものではない。黒崎本社の役員室系統で使用される、共通の照会経路を通っていた。「発行者は特定できたのか」怜司が尋ねると、監査責任者は首を横に振った。「まだです。複数の役員室と、その秘書部門から利用できる経路です」「申請者の記録は?」「通常の閲覧画面には残っていません。ただ、処理時刻と接続端末については、さらに深いログを確認しています」表面上の依頼内容は、旧検証環境の確認。過去の検査書式。共有システムの構成。以前の利用者IDとの紐付け。どれも、共同開発の安全性を確認する技術調査として説明できるものだった。問題は、その後だ。正当な照会によって集められた資料が、誰かの手で再現資料へ加工され、それが高瀬の正式な検査記録であるかのように扱われた。「この件は、まだ関係部署へ広げるな」「一ノ瀬執行役員にもですか」「まだだ」先に名を挙げて問いただせば、説明を整える時間を与える。今は、誰を疑うかではない。何が残っているかを見るべきだった。「共通経路を使った端末を絞れ。推測はいらない。記録だけを上げろ」「承知しました」監査責任者が退室すると、怜司は椅子へ深く背を預けた。高瀬への部品供給と追加支援を一時停止すると決裁したのは、自分だ。その責任を誰かへ押しつけるつもりはない。安全性に疑義があれば、止める。それは今でも間違いではないと思っている。だが、その判断へ至らせるための材料そのものが、意図的に作られていたのだとしたら。さらに、高瀬から届く反証まで途中で滞らせられていたのだとしたら。黒崎の内部に、怜司の判断を利用した人間がいる。しかも、電子部品事業部だけでは届かない場
last updateDernière mise à jour : 2026-09-06
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第三十六話 制御を外れた駒

隆臣は、秘書から渡された報告書へ目を通していた。内部監査室が、例の管理番号を追っている。役員室系統の共通経路。そこからさらに、実際に使用された端末と承認経路を洗っているらしい。隆臣は最後の頁まで読み終えると、紙の角を揃えて机へ置いた。本来、ここまで大きくなるはずではなかった。高瀬メディカルの安全性に疑いを生じさせる。怜司に、新規開発用の部品供給と追加支援を一時停止させる。その後、疑いの前提に誤りがあったと判明すればいい。なぜ十分な照合を待たなかったのか。なぜ離婚した妻の実家という特殊な相手を前に、私情を排除しようとするあまり判断を急いだのか。損失が生じれば、それも取締役会で材料になる。怜司の経歴に、小さな傷が一つ残れば十分だった。ところが雅人は、それでは満足しなかった。株式。役員派遣。特許。患者の歩行データ。挙げ句、検証責任者を支援側の人間へ替える条件まで入れた。欲を出せば、相手は警戒する。高瀬は共有権限を調べ、雅人の名へ辿り着き、ついには黒崎本社の管理番号まで掘り当てた。扉が開く。「お呼びでしょうか、副会長」雅人が入ってきた。「見ろ」隆臣は報告書を向かい側へ滑らせた。「怜司が管理番号の発行経路を追っている」雅人は数頁めくった。「通常の資料照会です。私の名で偽造を命じた記録はありません」「記録がなければ安心か?」雅人が顔を上げる。「高瀬がここまで辿った理由を考えろ」返事はない。隆臣は指先で報告書を叩いた。「検証責任者を替える条件まで入れれば、何か見られたくないものがあると疑われても仕方がない」「高瀬内部へ入れなければ、調査状況を把握できません」「それが私の目的だったか?」雅人の口
last updateDernière mise à jour : 2026-09-07
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第三十七話 誰を守るためでもなく

第三者機関の選定が正式に終わったのは、二日後だった。高瀬邸の応接室で、沙耶は相川から届いた通知へ目を通していた。黒崎、高瀬の双方が候補を出し、その中から利害関係のない検査機関が選定されている。調査開始は三日後。対象となるのは、偽造された検査表だけではない。元データ。共有システムの記録。資料が作成された経緯。さらに、必要に応じて関係者への聞き取りも行われる予定だった。「ようやくですね」相川の声には、わずかな安堵が滲んでいた。沙耶も同じ気持ちだった。これで少なくとも、高瀬と黒崎のどちらか一方の判断だけで結論を出されることはない。それでも、胸につかえていたものがすべて消えたわけではなかった。「部品供給については、何か回答がありましたか」「調査結果が出るまでは、停止を継続するとのことです」佐伯が苦い顔で答えた。第三者調査を受け入れても、現場は待ってくれない。新規開発用のセンサーやモーターの供給は止まったまま。試作機の組み立ても進まない。代替部品へ切り替えるには、制御系から設計を見直す必要がある。大学病院で予定していた評価試験にも遅れが出ていた。沙耶は通知書を静かに閉じた。「例の管理番号については?」相川が別の書面を確認する。「黒崎側も内部で調査を続けているそうです。役員室系統の共通経路を通った番号であることまでは確認されていますが、発行元はまだ特定されていないと」「そうですか」ならば、怜司もあの番号を追っている。少なくとも今度は、高瀬からの問いを途中で止めてはいない。そう思ったとき、佐伯がもう一枚の資料を机へ置いた。「それと、気になる話があります」「何ですか」「黒崎内部で、高瀬との共同開発停止によって生じる損失見込みが整理され始めているようです」沙耶は顔を上げた。「損失?」「試作の遅延、共同研究費、人員配置。そういったものを役員向けにまとめているらしいと」それだけなら、経営上当然の作業にも思える。だが、佐伯の表情は晴れなかった。「取締役会へ出すためですか」「そこまでは分かりません。ただ、停止判断の責任と結びつけることはできます」沙耶の指先が止まった。部品供給と追加支援の停止を正式に決裁したのは怜司だ。患者の安全に疑義がある。そう判断して止めた。だから、その決裁について怜司に責任がないと
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第三十八話 守るべきもの

高瀬沙耶から面会を求められたと聞いたとき、征吾は少なからず驚いた。離婚以来、沙耶が黒崎家の人間へ個人的に接触してきたことはない。しかも、指名されたのは怜司ではなく自分だった。指定された時刻、高瀬家の車が黒崎本社へ到着した。応接室へ入ってきた沙耶は、以前より少し痩せて見えた。それでも背筋は伸びている。「お時間をいただき、ありがとうございます」「座りなさい」「失礼いたします」沙耶が椅子へ腰を下ろす。その動きが以前より慎重になっていることに、征吾は気づいた。体調でも崩したのかと思ったが、本人が何も言わない以上、尋ねることはしなかった。「怜司ではなく、私へ見せたいものがあるそうだな」「はい」沙耶は鞄から封筒を取り出した。中に入っていたのは、一枚の資料提出依頼書だった。「これは?」「黒崎本社から一ノ瀬エレクトロニクスへ送られた照会書の控えです」征吾の目が細くなる。「控え?」「一ノ瀬側で受信した当時、作業に関わった社員が印刷して保管していたものです」「その社員というのは」「神谷直人さん。三年前まで高瀬にいた電子制御系の技術者です。今は一ノ瀬エレクトロニクスに勤めています」征吾は書面へ視線を落とした。高瀬で以前使われていた検査書式。共同開発初期の検証環境。過去の条件を再現するために必要な資料。内容だけを見れば、通常の技術照会として説明できる。雅人の署名もない。他の役員名もない。右上に、黒崎本社の管理番号だけが記されていた。「なぜ神谷がこれを持っていた」「旧資料の確認に関わったため、作業用として受信文書を印刷していたそうです。後で確認できるよう、そのまま手元に残していたと」征吾は黙って続きを促した。沙耶は、神谷から聞いたことを順に説明した。黒崎本社から過去資料の照会が来たこと。神谷が高瀬時代の旧書式や検証環境について説明したこと。その際、外部共有システムに古い利用者IDとの紐付けが残っている可能性を伝えたこと。ただし、パスワードなどの認証情報は渡していないこと。そして、一ノ瀬の品質保証担当者が、高瀬の古い書式へ数値を入力しているところを神谷が目撃したこと。「何のために作っていると説明された」「過去の条件を再現するための検証資料だと」「その後は?」「高瀬への供給停止後、問題とされた検査記録の日時と
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第三十九話 父の問い

征吾から呼び出しを受けたのは、その日の夕方だった。怜司が会長室へ入ると、父は窓際に立ち、本社を囲むビル群を見下ろしていた。「お呼びでしょうか」「座れ」怜司が向かいの椅子へ腰を下ろすと、征吾は一枚の報告書を机へ置いた。例の管理番号について、内部監査がまとめた途中経過だった。黒崎本社の役員室系統で使われる共通経路。利用可能だった端末は、すでに数台まで絞られている。だが、実際に誰が操作し、誰の承認で一ノ瀬エレクトロニクスへ照会を出したのかまでは、まだ特定されていなかった。「どう見る」征吾が尋ねる。怜司は報告書から目を上げた。「電子部品事業部単独で出した照会ではありません。少なくとも、本社の役員室系統を通っています」「一ノ瀬は?」「雅人が旧資料の収集に関わった可能性は高いと思っています。ただ、最初の照会を発行した人間と同一とは限りません」「隆臣はどうだ」叔父の名を出されても、怜司はすぐには答えなかった。「現時点では、判断できません」「疑いたくないか」怜司の指が、報告書の端で止まる。「……それはあります」正直に答えた。隆臣は、怜司が幼い頃から黒崎にいた。父を支え、会社を大きくしてきた人間でもある。疑わずに済むなら、そのほうがいい。「ですが、それを結論にはしません」征吾の目が細くなる。「なぜだ」「信じることと、確認しないことは別だからです」以前、父から言われた言葉だった。征吾はわずかに頷いた。「なら、最後まで記録で確かめろ」「はい」征吾は報告書を閉じた。「もう一つ聞く」「何でしょうか」「高瀬との共同開発停止による損失見込みが、役員向けに整理され始めていることは知っているな」「報告は受けていま
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第四十話 まだ残る席

その日の午後。征吾が怜司を会長室へ呼ぶ、少し前のことだった。美玲を乗せた車が黒崎本社の車寄せへ入ったとき、正面玄関から一人の女が出てきた。沙耶だった。美玲は、後部座席の扉へ伸ばしかけた手を止めた。沙耶の後ろには、会長室付きの秘書が付き添っている。何か言葉を交わし、沙耶が丁寧に頭を下げた。それから、少し離れた場所で待っていた高瀬家の車へ向かう。歩き方は以前より慎重だった。足元を確かめるように、一歩ずつゆっくり進んでいる。まだ体調が悪いのだろうか。そんな疑問が一瞬浮かんだ。だが、それ以上に美玲の胸へ引っかかったものがある。――会長室。沙耶はこちらに気づかないまま、後部座席へ乗り込んだ。高瀬家の車が走り去ってから、美玲はようやく車を降りた。沙耶は黒崎家を出たはずだ。離婚も成立している。それなのに、征吾の秘書に玄関まで見送られていた。何を話しに来たのだろう。美玲自身も、少し前に征吾と会っている。一ノ瀬家と黒崎家には古くからの付き合いがある。それでも、歓迎されたわけではなかった。五年前に怜司を捨てたのは美玲自身だ。以前の場所が、そのまま残っていると思うな。怜司が自分の意思で選ぶなら反対しない。だが、黒崎家が二人を結び直すために動くことはない。はっきりと線を引かれた。その征吾が、離婚した沙耶とは正式に面会している。胸の奥に、ざらついたものが広がった。美玲は受付へ向かう。「黒崎社長に、お会いできますか」約束はなかった。確認には少し時間がかかったが、やがて十分ほどなら時間を取れると返事が届いた。通された執務室で、怜司は書類から顔を上げた。「突然ごめんなさい」「何の用だ」淡々とした声だった。美玲は机の前まで進む。
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