LOGIN愛のない政略結婚を三年続けた沙耶は、結婚記念日に夫・怜司から離婚を告げられる。しかも彼の初恋の女に濡れ衣を着せられ、妊娠まで隠したまま黒崎家を去ることに。高瀬メディカルを守るため渡米した沙耶は、五年後、息子・悠真を連れて帰国する。だが悠真の左右で色の違う瞳を見た瞬間、冷徹なCEO怜司はすべてを悟る――。
View More「妊娠八週です。おめでとうございます」
医師の言葉を聞いた瞬間、沙耶《さや》は診察台の上で息を止めた。
画面に映るのは、まだ人の姿とは呼べないほど小さな影だった。
「こちらが心拍です」
医師が示した場所から、規則正しい音が聞こえてくる。
その音が、自分の身体の中から生まれているのだと思うと、不思議だった。
沙耶は無意識に腹部へ手を添えた。
ここにいる。
怜司との子供が。
胸の奥から込み上げた喜びに、目頭が熱くなる。
けれど、その感情に身を任せるより早く、別の思いが浮かんだ。
怜司は、喜んでくれるだろうか。
黒崎怜司《くろさき・れいじ》は沙耶を愛していない。
そのことを、沙耶は三年前から知っていた。
夫婦として求められる夜はあった。
抱かれるときだけは、彼の熱も腕も確かに自分のものになる。それだけで、いつも少し期待してしまった。
いつか、この人の心もこちらを向くのではないか。
けれど夜が明ければ、怜司はいつもの怜司へ戻った。
冷静で、隙がなく、必要以上の言葉を口にしない夫。
身体の距離がなくなっても、心の距離だけは消えなかった。
それでも三年間、沙耶は諦めきれずにいた。
沙耶と怜司の結婚は、高瀬メディカルと黒崎グループの提携をより確かなものにするために決められた。
誰が見ても政略結婚だった。
けれど、沙耶にとっては違う。
結婚が決まるより前から、彼を愛していた。
だから、選ばれたときは嬉しかった。
理由が会社でもよかった。
最初は愛されなくても、同じ家で暮らし、同じ時間を重ねていけば、いつか。
そう思っていた。
だが怜司の心には、ずっと別の女性がいた。
五年前に彼の前から去った、一ノ瀬美玲。
沙耶がどれだけ近くにいても、その人の記憶だけは怜司の中から消えなかった。
それでも今日は、少しだけ夢を見てもいい気がした。
三度目の結婚記念日。
そして、二人の子供を授かった日。
今夜、伝えよう。
驚くだろうか。
いつもの無表情が、少しだけ崩れるだろうか。
もしかしたら――喜んでくれるかもしれない。
そんな期待を抱く自分が、ひどく幼く思えた。
それでも沙耶は、超音波写真と母子手帳を受け取るための案内を、折れないよう大切にバッグへしまった。
夕方、黒崎邸へ戻ると、自ら食卓を整えた。
怜司の好物は、三年の間にだいたい覚えた。
味の濃すぎるものは好まないこと。
魚なら白身を選ぶこと。
仕事で疲れている日は、重い料理より温かいスープをよく口にすること。
ワインも彼の好みに合わせた。
自分のグラスには、色の似た炭酸水を注ぐつもりだった。
気づいてくれるだろうか。
酒を飲まない理由を尋ねてくれるだろうか。
そんな小さな仕掛けまで考えている自分が可笑しくて、沙耶は一度だけ笑った。
怜司が帰宅したのは、料理が冷め始めた頃だった。
「お帰りなさい」
玄関へ迎えに出る。
怜司は無言で上着を脱いだ。
右は漆黒。
左は淡い灰青色。
生まれつき色の違う瞳が沙耶へ向けられたが、すぐに逸れた。
「食事の用意ができています。今日は――」
「話がある」
声を遮られた。
いつもより硬い。
沙耶の胸の奥に、冷たいものが落ちた。
それでも何も言わず、怜司を食堂へ案内する。
用意した料理を前にしても、彼は箸を取らなかった。
向かいへ座ると、白い封筒から一枚の紙を取り出した。
食卓の上を滑ったそれが、沙耶の前で止まる。
文字は読めているのに、意味が頭へ入ってこなかった。
離婚届。
その文字より先に、怜司の署名が目に入った。
もう、書いてある。
沙耶が今日一日、どうやって妊娠を伝えようかと考えている間に、怜司はこの紙へ自分の名前を書いていた。
数時間前に聞いた小さな心拍音が、耳の奥で蘇った。
命が始まったと知らされた日に。
夫婦の終わりを告げられている。
「どういう……意味ですか」
尋ねる必要などなかった。
それでも声が出た。
怜司は目を逸らさなかった。
「美玲が帰国した」
その名前だけで、十分だった。
五年前、怜司を残して別の男と国外へ去った女性。
一ノ瀬美玲。
三年間妻だった沙耶よりも長く、怜司の心の中に居続けた人。
その女性が戻った。
ただ、それだけでこの結婚は終わるのだ。
「彼女と、やり直すのですか」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
「そのつもりだ」
迷いのない答えだった。
沙耶は膝の上で手を握った。
バッグの中には、怜司に見せるつもりだった超音波写真がある。
今、言えばいい。
あなたの子供がいます、と。
その一言で、きっと何かは変わる。
怜司は責任から逃げる男ではない。
少なくとも、立ち止まりはするだろう。
その想像に、心が一瞬だけ縋った。
けれど。
それで、どうするのだろう。
子供がいるから残る夫を、毎日隣で見続けるのか。
心では別の女性を求めている人を、父親という役目だけでここへ縛りつけるのか。
「両社の提携は、離婚後も継続する。高瀬社に不利益が出ないよう手配する」
怜司の言葉に、沙耶はゆっくり顔を上げた。
離婚を告げた直後に、彼が口にしたのは会社のことだった。
高瀬と黒崎。
契約。
利益。
責任。
三年間、同じ家で暮らしてきた妻に対して、まず心配するのはそこなのか。
自分はそんなふうに見えていたのだろうか。
会社との関係さえ守られれば、納得する女だと。
離婚を告げられたこととは別の痛みが、胸の奥に広がった。
沙耶はバッグへ伸ばしかけていた手を、静かに膝へ戻した。
「分かりました」
怜司の眉が動く。
「沙耶?」
「離婚に応じます」
今度は自分でも驚くほど、はっきり言えた。
怜司の表情がわずかに揺れた。
すぐ承諾されるとは思っていなかったのかもしれない。
その反応を見て、ほんの少しだけ胸が疼いた。
引き止めてほしかったわけではない。
そう言い聞かせる。
「ただ、今夜は署名できません。少し考える時間をください」
「ああ」
怜司は短く答えた。
そして離婚届を食卓へ残したまま立ち上がる。
「今夜は書斎で休む」
夫婦の寝室には戻らない。
その意味くらい、説明されなくても分かった。
沙耶は引き止めなかった。
廊下を進む足音が遠ざかり、やがて書斎の扉が閉まった。
広い食堂に、一人きりになる。
目の前には、手をつけられなかった料理。
怜司のために選んだワイン。
結婚記念日のために整えた食卓。
ほんの一時間前まで、ここで妊娠を伝える自分を想像していた。
沙耶はしばらく動けなかった。
やがてバッグを開き、超音波写真を取り出した。
離婚届の隣へ置く。
一枚は、夫婦の終わりを告げる紙。
もう一枚は、二人の間に生まれた命の証。
あまりにも残酷な並びだった。
沙耶は震える指で、小さな影をなぞる。
今から書斎へ行けばいい。
この写真を怜司へ見せればいい。
「あなたの子です」と言えばいい。
きっと彼は、無視できない。
けれど、それは愛ではない。
沙耶は目を閉じた。
「ごめんね」
声が震えた。
子供を使って、愛されない結婚へ怜司を縛りつけたくない。
そして、この子にもいつか、自分が誰かを引き止めるための理由だったなどと思わせたくない。
沙耶は腹部へ両手を添えた。
そこにはまだ何も感じない。
けれど確かに、あの小さな鼓動がある。
「あなたのことは……まだ言えない」
今夜、怜司へ渡すはずだった言葉を、沙耶は自分の胸の奥へしまった。
車が黒崎邸を離れると、沙耶はようやく息を吐いた。後部座席の窓の向こうで、三年間暮らした屋敷が少しずつ遠ざかっていく。最後まで振り返らないつもりだった。それなのに、気づけば目で追っていた。あの窓の向こうに夫婦の寝室がある。朝になれば怜司を見送り、夜になれば帰宅を待った。暮らした時間は確かにあったのに、最後まで自分の居場所にはならなかった。左手には、指輪を外した白い痕が残っている。「お加減はいかがですか」運転席から、大橋が気遣うように尋ねた。「大丈夫です。少し眠れていないだけだから」そう答えたものの、下腹部には朝から鈍い痛みが残っていた。昨日から、あまりにも多くのことが続きすぎたのだろう。美玲の転落。怜司の疑い。離婚届への署名。そして、黒崎邸を出たこと。沙耶は腹部へそっと手を添えた。今は、この子だけは守らなければならない。それだけを考えた。◇◇◇昼前、高瀬邸へ着くと、玄関前には宗一郎が立っていた。七十を過ぎても背筋の伸びた祖父が、上着も羽織らず待っている。大橋が車を停めるより早く、沙耶は胸が詰まった。車を降りても、宗一郎は理由を尋ねなかった。ただ沙耶の顔を見て、「帰ってきたか」と言った。それだけだった。「……ただいま」声が震える。宗一郎の腕が、沙耶の肩を包んだ。幼い頃から何度も自分を守ってくれた、懐かしい腕だった。その温かさに触れた途端、黒崎邸を出るまで張りつめていたものが、一気に緩みそうになる。泣いてはいけないと思っていた。けれど、ここでは少しくらい弱くなってもいいのだと、身体のほうが先に思い出した。居間へ入ると、温かい茶が用意されていた。宗一郎は向かいへ座り、沙耶が一口飲むまで何も聞かなかった。やがて、低い声で尋ねる。「離婚届には署名したのか」「はい」「理由は、帰国した女か」沙耶は顔を上げた。「ご存じだったのですか」「黒崎の周辺が騒がしくなれば、こちらにも多少は耳に入る。五年前に姿を消した女が戻ったことくらいはな」沙耶はしばらく黙ったあと、昨日からの出来事を話した。美玲が突然黒崎邸を訪ねてきたこと。自分から階段へ上がり、怜司が現れた直後に転落したこと。そして、沙耶に背中を押されたと訴えたこと。怜司が美玲の言葉を信じたこと。防犯映像を確認してほしいと頼んだことも。宗一
翌朝、沙耶は夜が明ける前に目を覚ました。ほとんど眠れなかった。衣装部屋には、三年間で増えた服や靴が並んでいる。けれど旅行鞄へ詰めたのは、結婚前から持っていたものと、当面の生活に必要な品だけだった。黒崎家から贈られた宝石も、怜司に買ってもらった服も持っていかない。淡い青色のワンピースを手にしたときだけ、指が止まった。以前、怜司が一度だけ「似合っている」と言った服だった。たった一言だった。それなのに嬉しくて、その後何度も袖を通した。沙耶はしばらく生地を指先で撫でたあと、静かに元の場所へ戻した。思い出まで持ち出せば、いつまでも手放せない気がした。身支度を整え、最後に超音波写真と、母子手帳を受け取るための案内をバッグへ入れる。昨夜、宗一郎へ電話をかけた。離婚することになったので、家へ帰らせてほしい。それだけしか言えなかった。階段のことも、美玲のことも、妊娠のことも、まだ話せなかった。宗一郎は理由を問いたださなかった。――帰ってこい。短い一言を聞いた瞬間、張りつめていたものが崩れそうになった。帰る場所がある。そう思っただけで、涙が出そうになった。沙耶は旅行鞄を手に、玄関ホールへ下りた。そこに怜司が立っていた。早朝にもかかわらず、すでにスーツを着ている。沙耶の姿を見ると、その視線が足元の旅行鞄へ落ちた。「もう出るのか」「昨日、お伝えしました」「荷物が少なすぎる」「持っていくものは、これで全部です」怜司の眉間に皺が寄った。「残りはどうする」「黒崎家からいただいたものは置いていきます。処分してください」「感情的になるな」低い声だった。「落ち着くまで、この家にいても構わない」沙耶は一瞬、何を言われたのか分からなかった。「離婚を求めた人と、同じ家で暮らし続けろと言うのですか」「美玲がすぐこの家へ来るわけじゃない」すぐ。その言葉が、胸の奥へ冷たく沈んだ。すぐではない。なら、いずれは。美玲がこの家に入り、自分が使っていた部屋を歩き、怜司と同じ食卓につく。想像するだけで息が苦しくなった。「それなら、なおさら早く出ていきます」「沙耶」怜司が一歩近づいた。沙耶は旅行鞄の持ち手を強く握る。そこで、昨夜から胸に残っていたことを思い出した。「防犯映像は確認しましたか」怜司の足が止まる。少しの間があった
沙耶が黒崎邸へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。怜司はまだ美玲のそばにいる。広い屋敷は、ひどく静まり返っていた。沙耶は食堂へ入り、朝、自分で離婚届をしまった引き出しを開けた。白い封筒を取り出し、椅子へ腰を下ろす。中から離婚届を抜き出すと、妻の氏名を書く欄だけが、まだ空白のまま残されていた。病院では、明日署名すると言った。けれど、もう一晩迷ったところで答えが変わるとは思えなかった。沙耶はペンを取る。――黒崎。三年前、喜びながら手に入れた姓だった。初めてこの名字を名乗ったとき、自分はようやく怜司の家族になれたのだと思った。愛されていなくてもいい。最初は形だけでもいい。夫婦として時間を重ねれば、いつか。そんな願いまで、この名字の中に詰め込んでいた。ペン先を紙へ下ろそうとして、指が止まる。ここに名前を書けば、本当に終わる。怜司の妻ではなくなる。この家へ帰ることも、彼の隣で朝を迎えることも、もうない。沙耶は腹部へそっと手を添えた。この子が生まれても、三人で暮らす未来は来ない。胸が締めつけられた。それでも、沙耶はゆっくりと文字を書いた。黒崎沙耶。書き慣れたはずの名前が、ひどく遠く見えた。署名を終える。左手の結婚指輪を外すと、指の根元に白い痕が残った。三年間、ほとんど外したことのない指輪。なくなった途端、そこだけが妙に頼りなく感じられる。沙耶は指輪を離婚届の上へ置いた。そのとき、玄関の扉が開く音がした。しばらくして、怜司が食堂へ入ってくる。彼は沙耶の前に置かれた離婚届と指輪を見て、足を止めた。「署名したのか」「はい」怜司は近づき、離婚届を手に取った。沙耶の署名へ視線を落とす。すぐに封筒へ戻すと思った。けれど、怜司はそのまま紙を持っていた。「本当に、これでいいのか」沙耶は顔を上げた。一瞬だけ、胸が揺れた。何を聞いているのだろう。離婚を望んだのは怜司だ。それなのに、その声音にはわずかな迷いがあるように聞こえた。もし今。やはり離婚はやめる、と言われたら。ほんの一瞬だけ、そんな愚かな期待が胸をよぎった。「どういう意味ですか」「昨日まで、おまえはこの結婚を続けるつもりだった」「昨日までの私は、美玲さんが戻ったことも、あなたが離婚を望んでいることも知りませんでした」「それだけで、
救急車が到着すると、美玲は担架へ乗せられた。怜司は迷うことなく、その隣へ付き添った。沙耶もあとを追おうと階段を下りたが、玄関ホールへ降りきったところで、下腹部に鈍い痛みが走る。「……っ」息を詰め、とっさに腹部へ手を添えた。今までとは違う痛みに、一瞬だけ不安がよぎる。けれど、少し休めば治まるかもしれない。そう自分に言い聞かせた。怜司は振り返らなかった。視線は担架の上の美玲へ向けられたままだった。そのことが、なぜか痛みよりも胸に残った。救急隊員が美玲を運び出したあと、怜司がようやく沙耶へ向き直る。「沙耶」冷えた声だった。「病院へ来い。事情を説明してもらう」沙耶はすぐには答えなかった。頭の中に残っているのは、美玲が落ちた瞬間だけではない。玄関へ帰ろうとせず、自分から階段へ上がったこと。逃げたいと言いながら、途中で一段下りて距離を縮めたこと。身体の陰へ隠したスマートフォン。そして、美玲が何かを送った直後に現れた怜司。「その前に、一つ聞いてもいいですか」怜司の眉が動く。「何だ」「あのとき、どうしてあなたが来たのですか」「どういう意味だ」「美玲さんがここへ来ることを、知っていたのですか」怜司の表情が硬くなる。沙耶は先に言葉を重ねた。「あなたが美玲さんと示し合わせていたと言いたいわけではありません。ただ、偶然にしては出来すぎています」少しの沈黙のあと、怜司が答えた。「美玲からメッセージが来ていた」「メッセージ?」「これから君に会いに行く。離婚のことを、きちんと話してくる、と」胸の奥がざわついた。「いつ届いたのですか」「すぐには気づかなかった。あとで見て、勝手なことをするなと電話した」「美玲さんは出たのですか」「いや」怜司の声に苛立ちが混じる。「何度か呼び出したが、出なかった。それで家へ向かった」沙耶は階段の上で見た光景を思い返す。「そのあとに、もう一通届いたのですか」怜司の目がわずかに細められた。「ああ。こっちへ向かっている途中でな」「何と?」「『怖い……来て』と」指先が冷えた。あのときだ。美玲が手を身体の陰へ隠し、スマートフォンを操作していた。「では、美玲さんは、あなたがもうこちらへ向かっていることは知らなかったのですね」「伝えていない」沙耶は黙った。美玲は怜司がすでに来