جميع فصول : الفصل -الفصل 7

7 فصول

《第一部》第一話 結婚記念日の離婚届

「妊娠八週です。おめでとうございます」医師の言葉を聞いた瞬間、沙耶《さや》は診察台の上で息を止めた。画面に映るのは、まだ人の姿とは呼べないほど小さな影だった。「こちらが心拍です」医師が示した場所から、規則正しい音が聞こえてくる。その音が、自分の身体の中から生まれているのだと思うと、不思議だった。沙耶は無意識に腹部へ手を添えた。ここにいる。怜司との子供が。胸の奥から込み上げた喜びに、目頭が熱くなる。けれど、その感情に身を任せるより早く、別の思いが浮かんだ。怜司は、喜んでくれるだろうか。黒崎怜司《くろさき・れいじ》は沙耶を愛していない。そのことを、沙耶は三年前から知っていた。夫婦として求められる夜はあった。抱かれるときだけは、彼の熱も腕も確かに自分のものになる。それだけで、いつも少し期待してしまった。いつか、この人の心もこちらを向くのではないか。けれど夜が明ければ、怜司はいつもの怜司へ戻った。冷静で、隙がなく、必要以上の言葉を口にしない夫。身体の距離がなくなっても、心の距離だけは消えなかった。それでも三年間、沙耶は諦めきれずにいた。沙耶と怜司の結婚は、高瀬メディカルと黒崎グループの提携をより確かなものにするために決められた。誰が見ても政略結婚だった。けれど、沙耶にとっては違う。結婚が決まるより前から、彼を愛していた。だから、選ばれたときは嬉しかった。理由が会社でもよかった。最初は愛されなくても、同じ家で暮らし、同じ時間を重ねていけば、いつか。そう思っていた。だが怜司の心には、ずっと別の女性がいた。五年前に彼の前から去った、一ノ瀬美玲。沙耶がどれだけ近くにいても、その人の記憶だけは怜司の中から消えなかった。それでも今日は、少しだけ夢を見てもいい気がした。三度目の結婚記念日。そして、二人の子供を授かった日。今夜、伝えよう。驚くだろうか。いつもの無表情が、少しだけ崩れるだろうか。もしかしたら――喜んでくれるかもしれない。そんな期待を抱く自分が、ひどく幼く思えた。それでも沙耶は、超音波写真と母子手帳を受け取るための案内を、折れないよう大切にバッグへしまった。夕方、黒崎邸へ戻ると、自ら食卓を整えた。怜司の好物は、三年の間にだいたい覚えた。味の濃すぎるものは好まないこと。魚なら白身を選ぶこと。
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第二話 離婚していただけますか

翌朝、沙耶が目を覚ましたとき、隣に怜司の姿はなかった。昨夜は書斎で休み、そのまま早朝に屋敷を出たらしい。寝室へ戻った形跡はなく、枕にもシーツにも、彼の温度は残っていなかった。食堂へ下りると、昨夜の料理はすでに片づけられていた。結婚記念日のために整えた食卓は、何事もなかったように元へ戻っている。その中で、離婚届だけが昨夜と同じ場所に残されていた。妻の署名欄だけが、空白のままだった。沙耶は、怜司が座るはずだった向かいの席を見つめた。一か月半ほど前。怜司はこの屋敷で、沙耶を抱いた。彼が妻を求める夜は多くなかった。それでも腕を伸ばされるたび、沙耶は拒めなかった。触れられているあいだだけは、自分が必要とされているように思えたからだ。愛ではない。三年の結婚生活の中で身についた習慣にすぎないと、何度も自分に言い聞かせてきた。それでも、身体を重ねるたびに期待した。いつか、この距離が心にまで届けばいいと。その夜に授かった命が、今も自分の中にいる。沙耶は離婚届へ手を伸ばしかけ、指を止めた。父親である怜司には、この子の存在を知る権利がある。分かっている。けれど、妊娠を告げればどうなるのだろう。怜司は責任から逃げる人ではない。だからこそ、離婚を撤回するかもしれない。愛する女を諦め、望んでいない妻と、子供のためだけに夫婦を続ける。そんな怜司を毎日そばで見ながら、この子を育てていけるのだろうか。そしていつか、この子自身が、自分の存在が両親を縛ったのだと知ったら。「どうしたらいいの……」答えは出なかった。沙耶は離婚届を封筒へ戻し、食堂の引き出しへしまった。今はまだ、署名もできない。妊娠を告げることもできなかった。昼を少し回った頃、玄関の呼び鈴が鳴った。ちょうど使用人が奥へ下がっていたため、沙耶は自分でインターホンを確認した。門の前に、白いワンピースをまとった女が立っていた。肩まで伸びた艶やかな黒髪。色の白い、儚げな顔立ち。写真でしか見たことはなかった。それでも、見間違えるはずがない。一ノ瀬美玲《いちのせ・みれい》。怜司が五年間、忘れられなかった女。沙耶はしばらく画面を見つめた。なぜ、ここへ。怜司から自分が屋敷にいると聞いたのだろうか。警戒はした。それでも、門前で追い返せば、自分が取り乱しているような気がした。そん
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第三話 階段から落ちた女

「先ほど、お腹を庇いましたよね」美玲の視線が、沙耶の腹部へ落ちた。沙耶は表情を変えなかった。「少し痛んだだけです」「そうですか」納得したような声ではなかった。美玲は手すりを握ったまま、沙耶をじっと見ている。「もしかして、妊娠しているのですか?」胸の奥が強く鳴った。けれど、沙耶は答えなかった。わずかな沈黙を、美玲はどう受け取ったのだろう。目元から先ほどまでの余裕が消え、代わりに探るような色が浮かんだ。「もし子供ができていたら、怜司さんへ話すつもりですか」「あなたに答える必要はありません」「子供がいれば、怜司さんは離婚できない。そう考えているのでしょう?」沙耶の胸に怒りが込み上げた。まだ何も知らないくせに。たった一度、腹部へ手を添えた。それだけで、腹の中の命まで夫を引き止める道具のように扱われたくなかった。「仮にそうだったとしても、子供は誰かを縛るためのものではありません」口にしてから、沙耶は唇を結んだ。言いすぎたかもしれない。だが、認めたわけではない。美玲はしばらく沙耶の顔を見ていた。「否定はしないのですね」「あなたの想像に付き合うつもりがないだけです」「でも、もし本当に妊娠していたら」美玲の声から柔らかさが消える。「その子は、私と怜司さんの邪魔になります」「邪魔?」「怜司さんが望んでいるのは、愛する女性との子供です。愛していない妻との子供ではありません」鋭いものが胸へ突き刺さった。もし妊娠を告げたら、怜司もそう思うのだろうか。望んだ子ではないと。高瀬と黒崎をつなぎ止めるための新しい鎖だと。沙耶は腹部へ手を伸ばしたくなるのを堪えた。今ここで触れれば、美玲の疑いを確信へ変えてしまう。「それを決めるのは、あなたではありません」「分かります」美玲は迷いなく言った。「怜司さんが愛しているのは、私ですから」昨夜の怜司の声が蘇った。――美玲が帰国した。だから離婚してほしい。分かっていたはずなのに、美玲の口から突きつけられると、また違う場所を傷つけられる。美玲は手すりに添えていた指を滑らせ、一段だけ下りた。二人の距離が、わずかに縮まった。沙耶は眉を寄せる。逃げたいのなら、なぜ自分から近づくのか。「話は終わりです。お帰りください」沙耶はその場を動かなかった。「もし子供がいたら、それでも
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第四話 信じてもらえない妻

救急車が到着すると、美玲は担架へ乗せられた。怜司は迷うことなく、その隣へ付き添った。沙耶もあとを追おうと階段を下りたが、玄関ホールへ降りきったところで、下腹部に鈍い痛みが走る。「……っ」息を詰め、とっさに腹部へ手を添えた。今までとは違う痛みに、一瞬だけ不安がよぎる。けれど、少し休めば治まるかもしれない。そう自分に言い聞かせた。怜司は振り返らなかった。視線は担架の上の美玲へ向けられたままだった。そのことが、なぜか痛みよりも胸に残った。救急隊員が美玲を運び出したあと、怜司がようやく沙耶へ向き直る。「沙耶」冷えた声だった。「病院へ来い。事情を説明してもらう」沙耶はすぐには答えなかった。頭の中に残っているのは、美玲が落ちた瞬間だけではない。玄関へ帰ろうとせず、自分から階段へ上がったこと。逃げたいと言いながら、途中で一段下りて距離を縮めたこと。身体の陰へ隠したスマートフォン。そして、美玲が何かを送った直後に現れた怜司。「その前に、一つ聞いてもいいですか」怜司の眉が動く。「何だ」「あのとき、どうしてあなたが来たのですか」「どういう意味だ」「美玲さんがここへ来ることを、知っていたのですか」怜司の表情が硬くなる。沙耶は先に言葉を重ねた。「あなたが美玲さんと示し合わせていたと言いたいわけではありません。ただ、偶然にしては出来すぎています」少しの沈黙のあと、怜司が答えた。「美玲からメッセージが来ていた」「メッセージ?」「これから君に会いに行く。離婚のことを、きちんと話してくる、と」胸の奥がざわついた。「いつ届いたのですか」「すぐには気づかなかった。あとで見て、勝手なことをするなと電話した」「美玲さんは出たのですか」「いや」怜司の声に苛立ちが混じる。「何度か呼び出したが、出なかった。それで家へ向かった」沙耶は階段の上で見た光景を思い返す。「そのあとに、もう一通届いたのですか」怜司の目がわずかに細められた。「ああ。こっちへ向かっている途中でな」「何と?」「『怖い……来て』と」指先が冷えた。あのときだ。美玲が手を身体の陰へ隠し、スマートフォンを操作していた。「では、美玲さんは、あなたがもうこちらへ向かっていることは知らなかったのですね」「伝えていない」沙耶は黙った。美玲は怜司がすでに来
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第五話 告げなかった命

沙耶が黒崎邸へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。怜司はまだ美玲のそばにいる。広い屋敷は、ひどく静まり返っていた。沙耶は食堂へ入り、朝、自分で離婚届をしまった引き出しを開けた。白い封筒を取り出し、椅子へ腰を下ろす。中から離婚届を抜き出すと、妻の氏名を書く欄だけが、まだ空白のまま残されていた。病院では、明日署名すると言った。けれど、もう一晩迷ったところで答えが変わるとは思えなかった。沙耶はペンを取る。――黒崎。三年前、喜びながら手に入れた姓だった。初めてこの名字を名乗ったとき、自分はようやく怜司の家族になれたのだと思った。愛されていなくてもいい。最初は形だけでもいい。夫婦として時間を重ねれば、いつか。そんな願いまで、この名字の中に詰め込んでいた。ペン先を紙へ下ろそうとして、指が止まる。ここに名前を書けば、本当に終わる。怜司の妻ではなくなる。この家へ帰ることも、彼の隣で朝を迎えることも、もうない。沙耶は腹部へそっと手を添えた。この子が生まれても、三人で暮らす未来は来ない。胸が締めつけられた。それでも、沙耶はゆっくりと文字を書いた。黒崎沙耶。書き慣れたはずの名前が、ひどく遠く見えた。署名を終える。左手の結婚指輪を外すと、指の根元に白い痕が残った。三年間、ほとんど外したことのない指輪。なくなった途端、そこだけが妙に頼りなく感じられる。沙耶は指輪を離婚届の上へ置いた。そのとき、玄関の扉が開く音がした。しばらくして、怜司が食堂へ入ってくる。彼は沙耶の前に置かれた離婚届と指輪を見て、足を止めた。「署名したのか」「はい」怜司は近づき、離婚届を手に取った。沙耶の署名へ視線を落とす。すぐに封筒へ戻すと思った。けれど、怜司はそのまま紙を持っていた。「本当に、これでいいのか」沙耶は顔を上げた。一瞬だけ、胸が揺れた。何を聞いているのだろう。離婚を望んだのは怜司だ。それなのに、その声音にはわずかな迷いがあるように聞こえた。もし今。やはり離婚はやめる、と言われたら。ほんの一瞬だけ、そんな愚かな期待が胸をよぎった。「どういう意味ですか」「昨日まで、おまえはこの結婚を続けるつもりだった」「昨日までの私は、美玲さんが戻ったことも、あなたが離婚を望んでいることも知りませんでした」「それだけで、
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第六話 空になった家

翌朝、沙耶は夜が明ける前に目を覚ました。ほとんど眠れなかった。衣装部屋には、三年間で増えた服や靴が並んでいる。けれど旅行鞄へ詰めたのは、結婚前から持っていたものと、当面の生活に必要な品だけだった。黒崎家から贈られた宝石も、怜司に買ってもらった服も持っていかない。淡い青色のワンピースを手にしたときだけ、指が止まった。以前、怜司が一度だけ「似合っている」と言った服だった。たった一言だった。それなのに嬉しくて、その後何度も袖を通した。沙耶はしばらく生地を指先で撫でたあと、静かに元の場所へ戻した。思い出まで持ち出せば、いつまでも手放せない気がした。身支度を整え、最後に超音波写真と、母子手帳を受け取るための案内をバッグへ入れる。昨夜、宗一郎へ電話をかけた。離婚することになったので、家へ帰らせてほしい。それだけしか言えなかった。階段のことも、美玲のことも、妊娠のことも、まだ話せなかった。宗一郎は理由を問いたださなかった。――帰ってこい。短い一言を聞いた瞬間、張りつめていたものが崩れそうになった。帰る場所がある。そう思っただけで、涙が出そうになった。沙耶は旅行鞄を手に、玄関ホールへ下りた。そこに怜司が立っていた。早朝にもかかわらず、すでにスーツを着ている。沙耶の姿を見ると、その視線が足元の旅行鞄へ落ちた。「もう出るのか」「昨日、お伝えしました」「荷物が少なすぎる」「持っていくものは、これで全部です」怜司の眉間に皺が寄った。「残りはどうする」「黒崎家からいただいたものは置いていきます。処分してください」「感情的になるな」低い声だった。「落ち着くまで、この家にいても構わない」沙耶は一瞬、何を言われたのか分からなかった。「離婚を求めた人と、同じ家で暮らし続けろと言うのですか」「美玲がすぐこの家へ来るわけじゃない」すぐ。その言葉が、胸の奥へ冷たく沈んだ。すぐではない。なら、いずれは。美玲がこの家に入り、自分が使っていた部屋を歩き、怜司と同じ食卓につく。想像するだけで息が苦しくなった。「それなら、なおさら早く出ていきます」「沙耶」怜司が一歩近づいた。沙耶は旅行鞄の持ち手を強く握る。そこで、昨夜から胸に残っていたことを思い出した。「防犯映像は確認しましたか」怜司の足が止まる。少しの間があった
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第七話 故郷へ戻った娘

車が黒崎邸を離れると、沙耶はようやく息を吐いた。後部座席の窓の向こうで、三年間暮らした屋敷が少しずつ遠ざかっていく。最後まで振り返らないつもりだった。それなのに、気づけば目で追っていた。あの窓の向こうに夫婦の寝室がある。朝になれば怜司を見送り、夜になれば帰宅を待った。暮らした時間は確かにあったのに、最後まで自分の居場所にはならなかった。左手には、指輪を外した白い痕が残っている。「お加減はいかがですか」運転席から、大橋が気遣うように尋ねた。「大丈夫です。少し眠れていないだけだから」そう答えたものの、下腹部には朝から鈍い痛みが残っていた。昨日から、あまりにも多くのことが続きすぎたのだろう。美玲の転落。怜司の疑い。離婚届への署名。そして、黒崎邸を出たこと。沙耶は腹部へそっと手を添えた。今は、この子だけは守らなければならない。それだけを考えた。◇◇◇昼前、高瀬邸へ着くと、玄関前には宗一郎が立っていた。七十を過ぎても背筋の伸びた祖父が、上着も羽織らず待っている。大橋が車を停めるより早く、沙耶は胸が詰まった。車を降りても、宗一郎は理由を尋ねなかった。ただ沙耶の顔を見て、「帰ってきたか」と言った。それだけだった。「……ただいま」声が震える。宗一郎の腕が、沙耶の肩を包んだ。幼い頃から何度も自分を守ってくれた、懐かしい腕だった。その温かさに触れた途端、黒崎邸を出るまで張りつめていたものが、一気に緩みそうになる。泣いてはいけないと思っていた。けれど、ここでは少しくらい弱くなってもいいのだと、身体のほうが先に思い出した。居間へ入ると、温かい茶が用意されていた。宗一郎は向かいへ座り、沙耶が一口飲むまで何も聞かなかった。やがて、低い声で尋ねる。「離婚届には署名したのか」「はい」「理由は、帰国した女か」沙耶は顔を上げた。「ご存じだったのですか」「黒崎の周辺が騒がしくなれば、こちらにも多少は耳に入る。五年前に姿を消した女が戻ったことくらいはな」沙耶はしばらく黙ったあと、昨日からの出来事を話した。美玲が突然黒崎邸を訪ねてきたこと。自分から階段へ上がり、怜司が現れた直後に転落したこと。そして、沙耶に背中を押されたと訴えたこと。怜司が美玲の言葉を信じたこと。防犯映像を確認してほしいと頼んだことも。宗一
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