All Chapters of ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……: Chapter 1 - Chapter 10

13 Chapters

001:琥珀糖の飽和点

第1章 過冷却の平衡 世界は、ある一定の条件が揃って初めて、その形を保つことができる。 たとえば、純粋な水は静かに冷やしていくと、氷点下になっても凍らないことがある。「過冷却」と呼ばれるその現象は、きわめて不安定な均衡の上に成り立っている。一見、穏やかな液体に見えるそれは、ほんのわずかな衝撃を与えるだけで、一瞬にして凍りつくのだ。 私、篠宮桜にとって、早坂漣歌との関係はまさにこの過冷却の水に似ていた。 放課後の図書室には、西日が長く伸びていた。 十一月半ば。窓の外の銀杏並木は黄金色に輝き、時折吹く風に舞った葉が硝子に当たってかさりと音を立てる。古い紙の匂いと、微細な埃が舞う光の粒子。その中で、カリ、と硬質な音が響く。 隣に座る漣歌が、小瓶から取り出した琥珀糖を齧った音だ。「桜ちゃん、ここの微分のところなんだけど」 漣歌がシャープペンシルの先で数学の問題集を指し示す。彼女の指先は白く、爪は桜貝のように薄いピンク色をしている。その指に、うっすらと白い粉がついているのが目に入った。琥珀糖の砂糖衣だ。 私は小さく溜息をついてから、彼女のノートを覗き込んだ。いつものことだ。漣歌の数学は、基礎は理解していても応用が効かない。それは彼女が感覚的に物事を捉えるタイプだからで、論理的思考を要求される数学とは根本的に相性が悪いのだ。「……漣歌、そこは合成関数の微分だから、まずは外側の関数を微分して、そのあとに中身の微分を掛けるの。チェーンルールって言ったでしょう?」「うーん、なるほど? 桜ちゃんの説明はいつも分かりやすいねえ」 漣歌はふにゃりと笑うと、また一つ、宝石のような青い琥珀糖を口に放り込んだ。口の中で転がすようにして味わう仕草が、どこか子供っぽい。 寒天と砂糖を煮詰めて結晶化させたその菓子は、外側は磨りガラスのように硬く、内側はゼリーのように柔らかい。その矛盾した食感は、どこか彼女自身に似ていた。 天真爛漫で、少し抜けていて、私がいないと危なっかしくて見ていられない。 たとえば、三年前。 私たちが出会ったのは、高校の入学式の日だった。偶然隣の席になった彼女は、配布された書類をすべて机の下に落とし、慌てて拾い集めていた。私が手伝ってやると、彼女は満面の笑みで「ありがとう! あなた、神様?」と言った。 神様などではない。ただ、効率の悪い人間を見る
last updateLast Updated : 2025-12-14
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002:『真夜中のデコード』

第1章 暗号化された金曜日 東京の夜景は、基板(マザーボード)の上を走る電流に似ている。無機質で、規則的で、そして残酷なほどに明るい。渋谷のスクランブル交差点から見上げる広告塔の光は、まるでデバッグ中のコードが吐き出すエラーログのように、私の網膜を焼き付ける。 三十二階建てのオフィスビル。その最上階フロアの窓ガラスに映る私は、加賀見雫という完璧なシステムとして稼働していた。 タイトスカートのラインに乱れはなく、ルージュは朝七時に引いた紅のまま鮮やかさを保っている。肩まで伸ばした髪は一本の乱れもなく、ブラウスのボタンは首元まできっちりと留められている。外見上、私はプロジェクトマネージャー・加賀見雫として、完璧に機能していた。 だが、内側のCPUはとっくにオーバーヒート寸前だった。 デスクに積まれた仕様書の山。モニターに並ぶ未読メールの赤い通知。スマートフォンには、クライアントからの催促が三十分おきに届いている。 午後十一時を回った金曜日のオフィスに、まだ二十人近くの社員が残っている。皆、青白い顔でモニターに向かい、必死にキーボードを叩いていた。 三週間にわたるデスマーチ。 大手銀行の基幹システムリニューアルという巨大プロジェクトは、当初の予定から大幅に遅延していた。仕様変更が重なり、テストで次々とバグが発見され、週末返上で対応を続けてきた。 私の身体は、もはやカフェインとプライドだけで立っていた。 眼鏡の奥で焦点が定まらない。視界の端が白く滲む。水曜日から四時間しか眠っていない。木曜日は二時間。昨夜は──記憶がない。おそらく、デスクで気絶していたのだろう。「……加賀見さん、ここ」 背後から投げかけられた声は、低く、ハスキーで、私の偏頭痛を心地よく──そう、心地よく──刺激した。 振り返ると、牧村夜がブルーライトカット眼鏡の奥から私を見上げていた。 彼女は私の部下であり、この社内で唯一、私に躊躇なく意見してくるリードエンジニアだ。私より六つ年下。入社三年目でありながら、技術力は部内トップクラス。 グレーのオーバーサイズのパーカーを羽織り、エナジードリンク片手にキーボードを叩く姿は、いかにも技術屋らしい。首から提げたイヤホンからは、微かにロックミュージックが漏れている。 メイクはほとんどしていない。素顔に近い。けれど、その切れ長の瞳と、意
last updateLast Updated : 2025-12-14
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003:鉄の森の聖歌(オラトリオ)

序章 灰色の世界 世界が終わったのは、二十三年前のことだった。 人々はそれを「大崩壊」と呼んだ。自律型兵器の制御システムが暴走し、わずか七十二時間で人類の九割が消失した。生き残った者たちは地下に潜り、やがてそこでも飢えと病で数を減らしていった。 今、地上に残るのは瓦礫と錆、そして無数の機械の残骸だけだ。 空からは絶えず「灰色の雨」が降り注ぐ。それは大気中に漂う塵と化学物質が結合したもので、皮膚に触れればただれ、吸い込めば肺を焼く。かつて文明を誇った摩天楼は、今や鉄の墓標となって地平線を埋め尽くしている。 私、エルマ・クラウゼは、その鉄の森を彷徨う一匹の野犬のようなものだ。 二十八歳。職業は回収屋——つまりは死体漁り。崩壊前の技術遺産を掘り起こし、辺境の集落に売りつけて糊口をしのぐ、社会の最底辺に位置する仕事だ。 防毒マスクとゴーグルで顔を覆い、継ぎ接ぎだらけの防護服を着込んで、私は今日も廃墟を探索する。背負った袋には、昨日見つけた古い真空管が三本と、使えるかどうか分からないバッテリーパックが一つ。 あまり良い収穫ではない。だが、生きるとはそういうことだ。明日の食料と、次の雨を凌ぐ屋根。それだけを求めて、一日一日を積み重ねていく。 希望? そんなものは、親の顔と同じくらい忘れて久しい。第一章 瓦礫の中の歌姫1 旧市街の中心部、かつて「文化地区」と呼ばれていたエリア。 私がこの危険な場所に足を踏み入れたのは、偶然ではなく必然だった。三日前、廃棄物処理場で出会った老人が、息を引き取る直前にこう囁いたのだ。「……オペラハウス……地下三層……歌姫が……眠って……」 老人は元エンジニアで、崩壊前の記憶を持つ数少ない生き証人だった。彼の言葉には重みがある。もし本当に旧型のアンドロイドが無傷で残っているなら、それは小さな集落一つを養えるほどの価値がある。 地下三層への階段は、瓦礫と蔦で完全に塞がれていた。 私は腰のベルトから小型の爆薬を取り出し、慎重に設置する。轟音とともに崩れた岩の壁。舞い上がる粉塵の中を、携帯ライトの光を頼りに降りていく。 十分ほど歩いただろうか。 突然、視界が開けた。 そこは、旧時代の歌劇場跡だった。崩落した天井から差し込む微かな光が、舞台を照らしている。かつて千人の観客を収容したであろう客席は
last updateLast Updated : 2025-12-14
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004:ロープブレイク・キス

第1章 処刑台のカーテンコール後楽園ホールの空気は、酸素よりも熱気と殺意の濃度の方が高い。天井から吊るされた巨大スクリーンに、私の凶悪な笑みがクローズアップされる。二千人の観客が上げる怒号が、リングのキャンバスを揺らし、マットの振動となって私の足裏に伝わってくる。「殺せ! やっちまえカルマ!!」「セイントを潰せええぇッ!」四方から浴びせられる罵声。空のペットボトルが、リングサイドに投げ込まれる。警備員が慌てて走る。これらすべてが、私――ヒールレスラー「紅蓮の処刑人・カルマ」にとっては最高の賛美歌だ。観客の憎悪が濃ければ濃いほど、私の価値は高まる。それがヒールという存在の宿命であり、誇りだ。私は、リングの中央で倒れている早乙女聖――リングネーム「聖女・セイント」の長い黒髪を無造作に掴み上げ、強引に立たせた。彼女の頭皮が悲鳴を上げるのを感じる。だが、それを顔に出すことは決してない。それが彼女のプライドだ。スポットライトに照らされた聖の顔は、汗と流血で化粧が崩れ、痛々しくも神々しい。白いコスチュームは私の毒霧と、彼女自身の鮮血で汚れている。額から滴る血が、彼女の頬を伝い、顎から滴り落ちる。「立てよ、聖女様。皆がお前の奇跡を待ってるぜ?」低くドスの効いた声で囁き、私は彼女の腹部に膝を叩き込んだ。ドゴッ、という鈍い音が響く。最前列の観客が息を呑む音が聞こえた。聖の口から苦悶の声が漏れ、身体がくの字に折れる。私はそのまま彼女の左腕を極め、マットにねじ伏せた。クロスフェイス・カルマロック――私のフィニッシュホールドだ。関節が悲鳴を上げる感触。筋肉が限界まで伸展する張り。私の腕の中にいる聖の肉体は、驚くほど熱い。体温計で測ったら、おそらく38度は超えているだろう。肉体が極限まで追い込まれた時、人の体温はこれほどまでに上昇する。汗で滑る肌の感触、荒い呼吸と共に上下する肋骨の動き、脈打つ血管。細い首筋を走る頸動脈が、私の前腕に激しく拍動している。そのすべてが愛おしく、どうしようもなく興奮する。(ああ、聖。なんて綺麗なんだ)私は凶悪な笑みを観客に見せつけながら、心の中で彼女に口づけを送る。カメラマンがリングサイドから望遠レンズを向けている。明日のスポーツ紙には、この残虐な構図が一面を飾るだろう。「紅蓮の処刑人、聖女を完全制圧!」というような見出しと共
last updateLast Updated : 2025-12-14
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005:絡繰り屋敷の女郎蜘蛛

序章 運命の予兆帝都の夜は、常に何かを隠している。九条小夜が生まれたその夜、九条家の屋敷を囲む梅の古木が、季節外れの花を一斉に咲かせたという。白い花弁が、真夏の闇に舞い落ちる光景を、乳母は「不吉の前触れ」と呼んだ。それから二十年。小夜は九条家当主の娘として、祓い屋の技を叩き込まれた。血筋が持つ霊力は、代々受け継がれる家宝の刀と共に、彼女の全てを規定していた。感情を殺し、欲望を封じ、ただ聖なる務めを果たす――それが九条の女の定めだった。だが、小夜の胸の奥には、常に黒い空洞があった。誰かに壊されたい。誰かに堕とされたい。その禁断の渇望は、年を重ねるごとに濃くなり、夜ごと彼女を悪夢で苛んだ。そして今宵。師である祖母から命じられた任務が、その渇望と運命的に交差する。「吉原に巣食う女郎蜘蛛を祓え」雨が降り出した夜、小夜は一人、魔都の闇へと足を踏み入れた。第一章 雨夜の訪問者一、黒い雨の街帝都に降る雨は、黒い墨汁を流したように重く、そして冷たい。石畳を打つ雨音が、街全体を水底に沈めたような錯覚を生む。ガス灯の明かりさえも、この闇には飲み込まれそうだった。九条小夜は、番傘を傾けながら、吉原の表通りを歩いていた。白衣に緋袴。腰には魔除けの守り刀。髪は高く結い上げ、額には九条家の家紋を刻んだ銀の簪を挿している。この色街には、あまりに似つかわしくない装束だった。すれ違う客引きの男たちが、怪訝そうに小夜を見る。遊女たちは格子の向こうから、好奇と憐憫の混じった視線を向けてくる。「ねえ、あの娘、坊さんかい?」 「違うよ。祓い屋だ。どこかで悪さでもあったのかね」 「あの格好で吉原たぁ、野暮の極みだねえ」ひそひそと交わされる囁きを、小夜は聞こえないふりをした。彼女の目的は、遊郭の最奥――吉原でも最も格式が高く、最も謎めいていると噂される「蜘蛛の館」と呼ばれる屋敷の主、八重だ。祖母の言葉が、小夜の脳裏に蘇る。『八重と名乗るあの女郎蜘蛛は、少なくとも三百年は生きておる。これまで幾多の男を喰らい、その精気を啜って生き永らえてきた。最近では、富豪や政治家までもがあの屋敷に通い、骨抜きにされておるという。放置すれば、帝都の中枢まで蝕まれるやもしれぬ』『しかし、祖母様。なぜ今まで放置を……』『……あやつは狡猾でな。決して一線を越えぬのだ。人を
last updateLast Updated : 2025-12-14
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006:コルセットの戒め、夜の鍵

第1章 鯨骨の牢獄 ロンドンの朝は、霧と紅茶の香りで始まる。 一八七五年、ヴィクトリア女王治世三十八年目の初冬。テムズ川から立ち上る濃霧が、ベルグレイヴィアの高級住宅街を白い綿のように包み込んでいた。ハミルトン伯爵邸は、その一角に威厳を持って佇む石造りの館だった。四階建ての建物には、使用人だけでも二十名が住み込みで働いている。 重厚なベルベットのカーテンを開けると、灰色の光が三階の主寝室に差し込んだ。窓の外では、朝霧の中を馬車の車輪が石畳を削る音が微かに響いている。街路樹の裸の枝が、霧の向こうに黒い影絵のように浮かんでいた。「おはようございます、お嬢様」 私、マーガレット・サットンは、ベッドサイドで深々と頭を下げた。齢二十五。この屋敷で上級メイドとして、主人の身の回りの世話を一手に引き受けている。黒いドレスに白いエプロン、頭には質素なモブキャップ。眼鏡の奥の灰色の瞳は、常に冷静な観察者の色を湛えている。 天蓋付きのベッドの中、絹のシーツと羽毛の掛け布団に包まれて眠るのは、この屋敷の主、エリザベス・ローズ・ハミルトン伯爵令嬢だ。齢二十二。父である伯爵が外遊中の今、この広大な屋敷の実質的な主人は彼女一人である。 金の髪が枕に散らばり、白磁のような肌が朝の光に透けている。長い睫毛が頬に影を落とし、薔薇色の唇が微かに開いている。まるで絵画の中の天使のように、彼女は眠りの中で無防備だった。「……マーガレット? まだ眠いわ……何時なの……」「午前七時でございます。いけません。今夜はバッキンガム宮殿で王室主催の舞踏会がございます。準備には時間がかかりますので」 私は容赦なく掛け布団を剥ぎ取った。十二月の冷気が部屋に満ち、エリザベスが小さく悲鳴を上げる。「ああ、もう! あと十分だけ……」「十分お待ちしたら、次は二十分、その次は一時間とおっしゃるでしょう。起きてください、お嬢様」 不満げに呻くエリザベスを、私は慣れた手つきで抱き起こした。彼女の身体は驚くほど軽い。私より三歳若いとはいえ、貴族の娘らしく華奢で、まるで陶器の人形のように繊細だ。 まず洗面台へ連れて行き、薔薇水で顔を洗わせる。冷たい水に触れて、ようやくエリザベスの翠玉色の瞳が完全に開いた。鏡に映る自分の寝乱れた姿を見て、彼女は小さくため息をついた。「本当に今夜なの? 舞踏会……」「ええ。先
last updateLast Updated : 2025-12-14
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007:硝煙とブルームーン

第1章 雨とジャズと9ミリ弾 この街の雨は、いつだって洗い流すべきものを隠すために降っている。 葛城ケイはそう信じていた。少なくとも、この十二年間で九十七人を「掃除」してきた彼女にとって、雨は共犯者だった。路地裏のマンホールからは白い蒸気が立ち上り、ネオンサインの赤が水溜まりに滲んでいる。街角のジャズバーからは、マイルス・デイヴィスの『ソー・ホワット』が漏れ聞こえてくる。 廃ビルの非常階段を登りながら、ケイは愛用のグロック19のマガジンを確認した。フルロード。十五発プラスワン。標的一人には過剰だが、裏切り者には慈悲をかける理由もない。 スライドを引く。カチャリ、という金属音が、廃ビルの静寂に冷たく響いた。 今日の仕事は単純だ。組織の金を横領し、機密データを盗み出した裏切り者――コードネーム「キャンディ」――を「掃除」し、データを回収する。それだけのはずだった。 雨音に紛れて足音を殺しながら、ケイは最上階へと向かった。濡れたコンクリートの匂い、錆びた鉄の匂い、そして微かに漂う甘い香り。ロリポップキャンディの匂いだ。「……見つけた」 最上階の一室。ケイが靴底でドアを蹴り破ると、蝶番が悲鳴を上げて崩れ落ちた。 そこには一人の女がいた。 部屋の隅、サーバーラックの緑色のLEDに照らされたその女――ルカは、手に持っていたロリポップキャンディを口から離し、ニカっと笑った。まるで旧友の訪問を待っていたかのような、無邪気で危険な笑みだった。「遅いよ、お姉さん。待ちくたびれて飴が三本も溶けちゃった」 金髪のショートヘアに、派手な龍の刺繍が入ったスカジャン。ピアスだらけの耳たぶと、チェーンのついたブーツ。どこかのパンクロッカーのような出で立ちだが、その目だけは違った。底知れぬ虚無を湛えた、ケイと同じ種類の瞳。 銃口を向けられているというのに、恐怖の色は微塵もない。狂っているか、大物か――いや、両方だろう。「遺言は?」ケイは感情を殺した声で問いかけた。「ないね。強いて言うなら、このデータの中身を見ないこと」ルカは傍らのハードディスクを指差した。「見たら、組織だけじゃなく、この国全体が揺れるよ」「興味ない」 ケイは引き金に指をかけた。仕事だ。感情はいらない。いつも通り、一発で終わらせる。頭部に一発。確実に。九十八人目だ。 だが、その瞬間―― ルカがふ
last updateLast Updated : 2025-12-14
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008:指先のレゾナンス

第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする
last updateLast Updated : 2025-12-14
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009:『雨宿りの陶(すえ)』

第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不
last updateLast Updated : 2025-12-17
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010:銀糸の不完全性(メメント・モリ)

第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと
last updateLast Updated : 2025-12-17
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