第1章 過冷却の平衡 世界は、ある一定の条件が揃って初めて、その形を保つことができる。 たとえば、純粋な水は静かに冷やしていくと、氷点下になっても凍らないことがある。「過冷却」と呼ばれるその現象は、きわめて不安定な均衡の上に成り立っている。一見、穏やかな液体に見えるそれは、ほんのわずかな衝撃を与えるだけで、一瞬にして凍りつくのだ。 私、篠宮桜にとって、早坂漣歌との関係はまさにこの過冷却の水に似ていた。 放課後の図書室には、西日が長く伸びていた。 十一月半ば。窓の外の銀杏並木は黄金色に輝き、時折吹く風に舞った葉が硝子に当たってかさりと音を立てる。古い紙の匂いと、微細な埃が舞う光の粒子。その中で、カリ、と硬質な音が響く。 隣に座る漣歌が、小瓶から取り出した琥珀糖を齧った音だ。「桜ちゃん、ここの微分のところなんだけど」 漣歌がシャープペンシルの先で数学の問題集を指し示す。彼女の指先は白く、爪は桜貝のように薄いピンク色をしている。その指に、うっすらと白い粉がついているのが目に入った。琥珀糖の砂糖衣だ。 私は小さく溜息をついてから、彼女のノートを覗き込んだ。いつものことだ。漣歌の数学は、基礎は理解していても応用が効かない。それは彼女が感覚的に物事を捉えるタイプだからで、論理的思考を要求される数学とは根本的に相性が悪いのだ。「……漣歌、そこは合成関数の微分だから、まずは外側の関数を微分して、そのあとに中身の微分を掛けるの。チェーンルールって言ったでしょう?」「うーん、なるほど? 桜ちゃんの説明はいつも分かりやすいねえ」 漣歌はふにゃりと笑うと、また一つ、宝石のような青い琥珀糖を口に放り込んだ。口の中で転がすようにして味わう仕草が、どこか子供っぽい。 寒天と砂糖を煮詰めて結晶化させたその菓子は、外側は磨りガラスのように硬く、内側はゼリーのように柔らかい。その矛盾した食感は、どこか彼女自身に似ていた。 天真爛漫で、少し抜けていて、私がいないと危なっかしくて見ていられない。 たとえば、三年前。 私たちが出会ったのは、高校の入学式の日だった。偶然隣の席になった彼女は、配布された書類をすべて机の下に落とし、慌てて拾い集めていた。私が手伝ってやると、彼女は満面の笑みで「ありがとう! あなた、神様?」と言った。 神様などではない。ただ、効率の悪い人間を見る
Last Updated : 2025-12-14 Read more