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005:絡繰り屋敷の女郎蜘蛛

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-14 05:03:39

序章 運命の予兆

帝都の夜は、常に何かを隠している。

九条小夜が生まれたその夜、九条家の屋敷を囲む梅の古木が、季節外れの花を一斉に咲かせたという。白い花弁が、真夏の闇に舞い落ちる光景を、乳母は「不吉の前触れ」と呼んだ。

それから二十年。小夜は九条家当主の娘として、祓い屋の技を叩き込まれた。

血筋が持つ霊力は、代々受け継がれる家宝の刀と共に、彼女の全てを規定していた。感情を殺し、欲望を封じ、ただ聖なる務めを果たす――それが九条の女の定めだった。

だが、小夜の胸の奥には、常に黒い空洞があった。

誰かに壊されたい。誰かに堕とされたい。

その禁断の渇望は、年を重ねるごとに濃くなり、夜ごと彼女を悪夢で苛んだ。

そして今宵。師である祖母から命じられた任務が、その渇望と運命的に交差する。

「吉原に巣食う女郎蜘蛛を祓え」

雨が降り出した夜、小夜は一人、魔都の闇へと足を踏み入れた。


第一章 雨夜の訪問者

一、黒い雨の街

帝都に降る雨は、黒い墨汁を流したように重く、そして冷たい。

石畳を打つ雨音が、街全体を水底に沈めたような錯覚を生む。ガス灯の明かりさえも、この闇には飲み込まれそうだった。

九条小夜は、番傘を傾けながら、吉原の表通りを歩いていた。

白衣に緋袴ひばかま。腰には魔除けの守り刀。髪は高く結い上げ、額には九条家の家紋を刻んだ銀の簪を挿している。

この色街には、あまりに似つかわしくない装束だった。

すれ違う客引きの男たちが、怪訝そうに小夜を見る。遊女たちは格子の向こうから、好奇と憐憫の混じった視線を向けてくる。

「ねえ、あの娘、坊さんかい?」 「違うよ。祓い屋だ。どこかで悪さでもあったのかね」 「あの格好で吉原たぁ、野暮の極みだねえ」

ひそひそと交わされる囁きを、小夜は聞こえないふりをした。

彼女の目的は、遊郭の最奥――吉原でも最も格式が高く、最も謎めいていると噂される「蜘蛛の館」と呼ばれる屋敷の主、八重だ。

祖母の言葉が、小夜の脳裏に蘇る。

『八重と名乗るあの女郎蜘蛛は、少なくとも三百年は生きておる。これまで幾多の男を喰らい、その精気を啜って生き永らえてきた。最近では、富豪や政治家までもがあの屋敷に通い、骨抜きにされておるという。放置すれば、帝都の中枢まで蝕まれるやもしれぬ』

『しかし、祖母様。なぜ今まで放置を……』

『……あやつは狡猾でな。決して一線を越えぬのだ。人を殺さぬ。ただ、生かさず殺さず、甘い毒で絡め取る。だからこそ厄介なのだ』

小夜は、懐に忍ばせた札束を確認した。「蜘蛛の館」は一見の客は取らない。莫大な金と紹介状がなければ、あの八重には会えないという。

九条家が用意した偽の身分――裕福な商家の娘という触れ込みで、小夜は今夜、初めてあの女郎蜘蛛と相対する。

裏通りに入ると、三味線の音色が湿った空気に溶けていくのが聞こえた。

格子戸の向こうで、遊女たちが艶やかに笑っている。だが、その笑い声には、どこか空虚な響きがあった。

「……ここか」

小夜は、ある一軒の前で立ち止まった。

他の遊郭とは明らかに異なる、重厚な門構え。黒漆塗りの門扉には、金箔で蜘蛛の紋様が刻まれている。

門番らしき男が、小夜を値踏みするような目で見た。

「お嬢さん。ここは、そこらの女郎屋とは違いますぜ」

「存じております。九条――いえ、田中商会の者です。紹介状をお持ちしました」

小夜が懐から封筒を取り出すと、男は中を確認し、僅かに目を見開いた。

「……これは確かに。失礼致しました。どうぞ、お上がりください」

重い門が開く音がした。

それは、小夜にとって、運命の扉が開く音でもあった。

二、蜘蛛の館

館の中に足を踏み入れた瞬間、小夜は息を呑んだ。

外の雨音が、まるで別世界のもののように遠のく。代わりに、館の内部を満たしているのは、濃密な沈黙と、甘く重い香りだった。

廊下は長く、曲がりくねっている。朱塗りの柱が整然と並び、行灯の明かりが揺らめいている。壁には、豪華な掛け軸や屏風が飾られているが、その絵柄はどれも妖艶で、どこか不気味だった。

蜘蛛の巣を描いたもの。絡み合う男女の影絵。彼岸花が咲き乱れる墓場の風景。

「こちらでございます」

案内する仲居の女は、能面のように無表情だった。その動きは滑らかだが、どこか人形じみている。

(この館の者たちも、皆……)

小夜は気づいた。この館で働く者たちの首筋には、目を凝らさなければ見えないほど細い、赤い痣のような痕があった。

それは、八重の「糸」で操られている証だろうか。

やがて案内されたのは、紅殻べんがら塗りの壁が毒々しい、離れの座敷だった。

「八重様は、間もなくお越しになります。どうぞ、おくつろぎください」

仲居が襖を閉めると、小夜は一人、その部屋に取り残された。

部屋の中央には、黒漆塗りの文机と、蒔絵が施された煙草盆が置かれている。壁には、満月を背景に蜘蛛が糸を張る様を描いた掛け軸が掛かっていた。

小夜は、腰の守り刀に手を添えた。刀身には、代々受け継がれてきた祓いの呪文が刻まれている。いざとなれば、この刀で――。

その時、襖が音もなく開いた。

濃厚な伽羅の香りが、鼻腔を突いた。

行灯の薄暗い光の中、煙管をふかした女が一人、ゆらりと入ってくる。

「あら……」

八重の第一声は、驚きとも、歓喜ともつかない、複雑な響きを含んでいた。

「珍しいお客さんだこと。まさか、こんな夜に、こんな可愛らしいお嬢さんが来てくださるなんて」

小夜は、思わず息を呑んだ。

濡羽色の黒髪が、腰まで流れている。透き通るような白い肌は、人間離れした美しさで、まるで磁器の人形のようだった。そして唇には、血を吸ったかのような鮮やかな紅が差されている。

その着物は、豪華絢爛な打掛だ。金糸銀糸で刺繍された蜘蛛の巣の文様が、灯りに照らされてきらきらと輝いている。

だが、小夜の霊視には、それ以上のものが見えていた。

八重の背後に揺らめく、六本の脚の幻影。足首に絡みつく、無数の透明な糸。そして、その瞳の奥に潜む、底知れぬ闇の深さ。

「……」

小夜は、言葉を失っていた。

想像していたよりも、遥かに美しい。遥かに、恐ろしい。

「どうなさいました? 顔色が悪いわよ」

八重がゆっくりと身を起こし、小夜の正面に座った。

至近距離で見る八重の顔は、完璧だった。一分の隙もない美貌。だが、その完璧さ故に、人間ではないという確信が小夜の中で強まる。

「いえ……その、八重様のお美しさに、つい見惚れてしまいまして」

「まあ、お世辞がお上手ね。でも……」

八重が煙管から紫色の煙を吐き、小夜の顔を覗き込んだ。

「貴女、嘘をつくのが下手ね。目が泳いでいるわよ」

ドキリとした。

八重の瞳は、まるで全てを見透かすようだった。

「わ、私は――」

「ふふ。緊張なさらなくても大丈夫よ。ここでは、誰もが秘密を持っているの。貴女が何者であろうと、私は構わない。ただ……」

八重が手を伸ばし、小夜の頬に触れた。

冷たい指先だった。だが、その冷たさは不快ではなく、むしろ熱に浮かされた身体に心地よかった。

「貴女のその瞳。とても、綺麗ね。まるで、深い森の奥にある、誰も知らない泉のよう」

小夜は、八重の指先から逃れられなかった。

身体が、動かない。

それは、恐怖のせいではなかった。もっと根源的な、捕食者に見初められた獲物の、諦念にも似た静寂だった。

(この人は……危険だ)

理性が警鐘を鳴らす。

(今すぐ、刀を抜いて、祓わなければ)

だが、身体は命令に従わなかった。

なぜなら、小夜の心の奥底にある、あの黒い空洞が――誰かに壊されたいという渇望が、八重に惹かれ始めていたからだ。

「九条家の小夜と申します」

小夜は、覚悟を決めて名乗った。

「……貴女に憑いているモノを祓いに参りました」

一瞬の沈黙。

そして、八重はくすりと笑い、煙管から紫色の煙を吐いた。

「憑いている、ねえ。……私のどこに、そんな悪いモノが見えるのかしら?」

八重が立ち上がった。

音もなく、小夜に歩み寄る。

その動きは人間離れして滑らかで、まるで重力を無視しているようだった。いや、足が地面に触れていないのかもしれない。

小夜は、守り刀の柄に手をかけた。

だが、抜くことができなかった。

殺気がない。いや、殺気よりも濃密な「甘い毒」のような気配に、身体が竦んでしまったのだ。

「貴女のような聖女様が、わざわざこんな穢れた場所まで来てくださるなんて。嬉しいわ」

八重が、小夜の耳元で囁いた。

「でもね、小夜さん。貴女、本当は祓いになんて来ていないでしょう?」

「……!」

「貴女が求めているのは、救済ではなく……破滅よ」

図星を突かれ、小夜の顔から血の気が引いた。

なぜ、この妖が、私の心の奥底を見透かしているのか。

「さあ、お座りなさい。長い夜になるわよ」

八重が小夜の手を取り、畳の上に導いた。

その手の冷たさが、小夜の運命を、今夜、決定的に変えることを――小夜はまだ、知らなかった。


第二章 絹の檻

一、捕食者の微笑

「堅苦しい顔。……そんなに眉間に皺を寄せていては、美しい顔が台無しですよ」

八重の冷たい指先が、小夜の頬に触れた。

ゾクリ、と背筋に電流が走る。

それは恐怖ではない。もっと根源的な、捕食者に見初められた獲物の戦慄。

小夜は、幼い頃から数多のあやかしと対峙してきた。怨霊、付喪神、狐火、河童――様々な妖異を祓い、封じてきた。

だが、八重は違う。

他のあやかしたちが持っていた、人間への憎悪や怨念が、八重からは感じられない。代わりにあるのは、深い孤独と、満たされぬ飢餓、そして――愛おしいものを見つけた時の、子供のような純粋な喜び。

「触らないでください。私は……っ」

「祓い屋さん? それとも、ただの寂しい女の子?」

八重は小夜の背後に回り込むと、その耳元で囁いた。

吐息が、首筋にかかる。伽羅の香りに混じって、何か甘く、危険な香りがした。

「貴女の身体、とても緊張しているわ。まるで、折れそうなほど張り詰めた糸みたい」

八重の手が、小夜の肩に触れる。

その瞬間、小夜は気づいた。

八重の帯が、まるで生き物のようにシュルシュルと音を立てて解けていく。

いや、それは帯ではない。

八重の指先から放たれた、目に見えないほど細い「糸」だった。

「……ッ、これは!」

糸が、小夜の手首に絡みつく。

足首に、二の腕に、首筋に。

気付けば、小夜の身体は無数の糸によって、まるで繭のように包まれていた。

「暴れないで。私の糸は、暴れるほど食い込むわよ」

白衣の上から締め付けられる感触。身動きが取れない。

小夜は、守り刀を抜こうとしたが、手首を縛る糸がそれを許さなかった。

「く……っ!」

「無駄よ。貴女の霊力では、私の糸は切れない。この糸はね、物理的なものではないの。想いで紡がれた、執着の糸なのよ」

八重が小夜の正面に回り込み、膝立ちで座った。

その動きは、優雅で、艶やかで、そして圧倒的に捕食者のそれだった。

「お前を退治しに来た私を、喰らうつもりか」

小夜が、最後の抵抗として毅然とした声で言う。

だが、八重は首を横に振った。

「喰らう? まさか」

八重が小夜の白衣の襟元に手をかけ、ゆっくりと開いていく。

「男の汚い生気はもう飽き飽きなの。権力に溺れた豚ども、欲望に塗れた獣ども。彼らの精気は、どれも似たり寄ったりで、味気ないわ」

露わになった鎖骨。その白い肌に、八重が顔を近づける。

「私が欲しいのは、貴女のような……」

八重が小夜の首筋に鼻を近づけ、深く息を吸い込んだ。

「潔癖で、頑固で、それでいて誰よりも穢されたがっている、聖女様の魂よ」

図星だった。

小夜の心臓が、激しく跳ね上がる。

なぜ、この妖は私の全てを知っているのか。

「違う……私は、そんな……」

「嘘」

八重が小夜の唇に指を這わせる。

「貴女の身体は、正直ね。震えている。恐怖で? 違うわ。これは、期待の震え」

小夜は、反論できなかった。

なぜなら、八重の言葉は真実だったからだ。

小夜は、家督と使命に縛られ、自分の感情を押し殺して生きてきた。

笑うこと、泣くこと、怒ること、愛すること――全てを封じて、ただ九条家の娘として、祓い屋として生きてきた。

誰かにこの重荷を降ろさせてほしい。誰かにめちゃくちゃにしてほしい。

そんな昏い願望を、小夜は夜ごと抱いていた。

「……どうして、分かるの」

小夜が、震える声で尋ねた。

八重は、優しく微笑んだ。

「だって、私も同じだったから」

「……え?」

「三百年前。私も、貴女と同じだったの。家の名誉のために、望まぬ相手に嫁がされて、夫に殺されかけて……そして、蜘蛛になった」

八重の瞳に、一瞬だけ、深い悲しみが浮かんだ。

だが、それはすぐに消え、いつもの妖艶な笑みに戻る。

「だから、分かるのよ。貴女の中にある、壊れたいという願望が」

八重の長い髪が、小夜の顔にかかった。

視界が、黒く遮られる。

「さあ、小夜。私に、全てを委ねなさい」

八重の声が、甘い毒のように、小夜の心に染み込んでいく。

「この檻の中で、貴女は自由になれる。誰の目も気にせず、ありのままの自分でいられる」

小夜の理性が、必死に抵抗する。

(これは、罠だ。この妖の甘言に惑わされてはいけない)

だが、心の奥底では、もう一つの声が囁いていた。

(もう、いいじゃないか。ずっと、こうなることを望んでいたのだろう?)

八重の指が、小夜の涙を拭った。

「泣いているのね。……大丈夫。もう、誰も貴女を責めたりしない」

「私は……泣いてなんか……」

「嘘。頬が濡れているわよ」

八重が、小夜の頬に口づけを落とす。

その唇の冷たさと柔らかさに、小夜の最後の抵抗が崩れ始めた。

二、堕ちゆく聖女

行灯の火が、ゆらりと揺れる。

影が壁を這い、二人の姿を歪ませる。

八重の手が、小夜の着物の合わせ目に触れた。

「やめ……」

「嫌? 身体はこんなに熱いのに」

八重の手が、小夜の肌を滑る。

白衣の下、緋袴の隙間。禁断の領域に、冷たい指先が忍び込んでいく。

「ぁ……っ」

小夜の口から、意志に反して甘い声が漏れた。

(駄目だ、こんなの……)

理性が警鐘を鳴らす。

だが、身体は正直だった。八重の指先が触れた場所が、熱を帯びていく。

「いい子ね。素直になれば、もっと気持ちよくなれるわよ」

八重は小夜の抗議を無視し、ゆっくりと、焦らすように着物を剥いでいく。

白衣が肩から滑り落ち、緋袴の紐が解かれる。

露わになった鎖骨、肩、二の腕。

月明かりに照らされた小夜の肌は、陶器のように白かった。

「綺麗……」

八重が、うっとりとした声で呟く。

「誰にも汚されていない、純粋な白。でも、私が染めてあげる。私の色に」

八重が、小夜の鎖骨に口づけを落とした。

チクリ、とした痛みが走った。

「っ!」

蜘蛛の毒だ。

だが、それは致死性の猛毒ではなく、神経を麻痺させ、快楽を増幅させる媚薬のような毒だった。

「ぁ……ん……」

小夜の口から、自分でも信じられないような甘い声が漏れる。

血管の中を、熱い何かが駆け巡る。手足の感覚がなくなり、世界が八重の体温と香りだけで満たされていく。

「これは……何を……」

「私の毒よ。でも、安心して。死にはしない。ただ、とても、とても気持ちよくなるだけ」

八重の唇が、小夜の首筋を這う。

耳たぶを甘噛みし、鎖骨の窪みに舌を這わせ、肩の線をなぞっていく。

その度に、チクリ、チクリと、小さな痛みと共に毒が注入される。

「んっ……あ、ぁ……」

小夜の身体が、弓なりに反る。

快楽が、波のように押し寄せてくる。

(これは、おかしい。こんなの、人間の感じる快楽じゃ……)

理性が、必死に抵抗する。

だが、身体はもう、八重の毒に侵されていた。

痛みが快楽に変わり、恐怖が期待に変わり、拒絶が受容に変わっていく。

「いい声。……もっと聞かせて」

八重が艶然と微笑み、小夜を畳の上に押し倒した。

絢爛な打掛が、布団のように二人の身体を覆い隠す。

八重のしなやかな手足が、小夜を搦め取る。

それは捕食というよりも、愛おしい人形遊びのようだった。

「貴女は、私を祓うのでしょう? なら、その霊力で私を浄化してごらんなさい」

八重の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

その双眸は、闇夜に浮かぶ二つの月のようで、覗き込めば二度と戻れない底なしの沼を湛えていた。

伽羅の香りが濃くなる。

いや、それは香木の匂いではない。

数多の男の精気を吸い尽くし、熟れきった果実が腐ちる寸前に放つような、むせ返るほど甘く、頽廃的なあやかしの体臭だった。

小夜の視界が、八重の長い睫毛に覆われ、世界が閉ざされる。

そして――。

ぷつり。

小夜の理性を繋ぎ止めていた最後の糸が切れる音と共に、八重が小夜の唇を塞いだ。


第三章 毒と蜜の儀式

一、禁断の口づけ

それは、蝶が蜜を吸うような可愛らしいものではなかった。

ねっとりと濡れた唇が、吸盤のように小夜の唇に張り付き、食い込み、形が変わるほど強く押し付けられる。

八重の唇に塗られた紅の味がした。

鉄錆のような血の風味と、白粉の粉っぽい甘さ。そして、その奥に潜む、何百年も生きたあやかしの、腐れかけた花のような甘美な毒。

小夜は、抵抗しようとした。

だが、身体は八重の糸に縛られ、毒に侵され、もはや言うことを聞かなかった。

柔らかな肉の感触と共に、ヌルリとした舌が、こじ開けられた小夜の歯列の間から侵入してくる。

それはまるで、獲物の内臓を探る捕食者の触手のように、口内の粘膜を執拗に舐め回し、蹂躙した。

「ん……ぅ……ッ、ぁ……」

小夜の喉奥から、押し殺そうとしても漏れ出してしまう、濡れた嗚咽が響く。

八重の舌が、小夜の舌に絡みつく。

吸い付き、揉みほぐし、味わい尽くすように、何度も何度も絡め取る。

上顎を舐め、歯茎をなぞり、喉の奥まで侵入してくる。

「んむっ……! ぁ、ぐ……」

息ができない。

八重の口が、小夜の呼吸を完全に塞いでいた。

だが、不思議なことに、小夜は窒息しなかった。

八重が、自分の息を小夜に送り込んでいるのだ。

肺の中に、八重の吐息が流れ込んでくる。

それは、あやかしの息だった。

人間の息とは違う、もっと濃密で、甘く、そして毒々しい空気。

小夜の肺が、八重の息で満たされていく。

血液が、八重の毒を全身に運んでいく。

脳が、八重の香りで染められていく。

(私が……私じゃなくなっていく……)

恐怖と、奇妙な安堵感が、同時に小夜を襲った。

抵抗しようと力を込めた指先は、すでに八重の不可視の糸によって自由を奪われており、ただ畳を虚しく掻くことしかできない。

爪が畳に食い込み、畳表が剥がれる音がした。

だが、真の恐怖と快楽は、肉体の接触のさらに奥で始まっていた。

二、魂の交歓

――ズズズ、と。

魂の深淵から、何かが吸い上げられる感覚。

それは、小夜が生まれた時から持っていた、九条の血筋が代々守り抜いてきた、雪解け水のように清冽で冷たい霊力だった。

小夜という人間を構成する「聖なる核」が、口づけを通じて八重の体内へと奔流となって吸い出されていく。

自分が自分でなくなっていく喪失感。

空っぽになっていく感覚は、恐ろしいはずなのに、なぜかたまらなく心地よかった。

重い鎧を一枚ずつ剥がされ、裸にされていくような開放感。

九条の娘としての誇り、祓い屋としての使命、家名の重圧――全てが、八重の口づけによって吸い取られ、溶かされていく。

それと引き換えに、八重の口からは、ドロドロとした熱い濁流が注ぎ込まれてきた。

それは、数百年を生きた女郎蜘蛛の妖力。

怨念、欲望、情熱、そして底知れぬ孤独。

無数の男を喰らい、無数の夜を生き延び、誰にも愛されず、誰も愛せず、ただ糸を紡ぎ続けてきたあやかしの、深く、暗く、そして切ないエネルギー。

墨汁を垂らしたように黒く、蜜のように粘り気のある闇のエネルギーが、小夜の食道を通って全身の血管へと逆流していく。

(熱い……! 焼ける……身体中が、汚されていく……!)

聖と邪。光と闇。

決して交わってはならない二つの相反するエネルギーが、小夜という小さな器の中で衝突した。

バチバチバチッ!

瞼の裏で、極彩色の曼珠沙華ひがんばなが一斉に開花するような幻覚が炸裂する。

血管の一本一本が、高熱を持ったピアノ線に変わったかのように疼き、痙攣する。

あやかしの毒は、小夜の神経系を瞬時に侵食し、痛覚を快楽へと書き換えていった。

指先が痺れ、感覚が溶ける。

自分が畳の上にいるのか、宙に浮いているのか、それとも泥沼に沈んでいるのかさえ分からない。

ただ、八重と繋がっている唇の熱さだけが、この世の唯一の真実だった。

「んむ……ッ、やえ……っ、こわ、れる……っ!」

小夜は背中を反らし、白目を剥いてあえいだ。

脳髄が白く焼き尽くされるようなエクスタシー。

それは、人間としての「死」と、あやかしの眷属としての「再生」が同時に行われる儀式だった。

三、蜘蛛の抱擁

八重の背中から、幻影の脚が六本、鎌のように伸び上がった。

いや、それは幻覚ではなかった。

八重の妖力が具現化し、蜘蛛の本性を現したのだ。

六本の脚が、小夜の四肢を絡め取る。

腕を、脚を、胴を、首を。

まるで獲物を糸で縛り上げる蜘蛛のように、八重は小夜を完全に支配下に置いた。

「ぁ……あ、ああああっ……!」

小夜の声が、悲鳴なのか、歓喜なのか、もはや区別がつかなかった。

八重の糸が、小夜の身体を繭のように包み込んでいく。

白く、柔らかく、そして逃れられない絹の檻。

絹糸の摩擦音。着物の衣擦れ。そして、水音を立てて交わされる唾液の交換音。

それらが混然一体となって、小夜の聴覚を支配する。

八重の舌が、小夜の舌に絡みつき、吸い付く。

その一吸いごとに、小夜の中の「正しさ」が消え、「欲」が満ちていく。

祓い屋としての誇りも、家名の重圧も、すべてが甘い毒に溶かされ、あやかしの色に染め上げられていく。

視界が明滅する。

八重の瞳が、金色に輝いているのが見えた。

その瞳に映っているのは、もはや聖職者ではない。

乱れた髪を汗で頬に貼り付け、快楽に蕩けた表情を浮かべる、ただの雌の顔をした小夜自身だった。

(ああ、なんて……美しい地獄……)

思考が途切れる寸前、小夜は悟った。

自分はずっと、こうなることを望んでいたのだと。

この美しい捕食者の網にかかり、骨の髄までしゃぶり尽くされ、その一部となって永遠に堕ちていくことを。

四、魂の契約

八重の喉が鳴った。

ゴクリ、と小夜の魂を飲み干す音が、鼓膜を震わせた。

それは、二つの魂が完全に混ざり合い、不可分の「共犯者」へと変質を遂げた、決定的な音色だった。

「んむ……ッ、やえ、八重……っ!」

小夜は拘束されたまま、八重の背中にしがみつこうと指を動かした。

祓うことなど、もうどうでもよかった。

この美しく恐ろしいあやかしの一部になりたい。

その糸で永遠に縛り上げられ、飼い殺されたい。

その背徳的な願いが、小夜の理性を完全に決壊させたのだ。

「もっと……もっとちょうだい……」

小夜が、自分から八重の唇を求めた。

それを見た八重の瞳に、一瞬、驚きと歓喜が浮かんだ。

「……貪欲な子ね。でも、嫌いじゃないわ」

八重が、再び小夜の唇を塞ぐ。

今度の口づけは、先ほどよりも優しく、愛おしげだった。

まるで、大切な宝物を扱うように。

二人の身体が、完全に重なり合う。

肌と肌。唇と唇。魂と魂。

境界が溶けて、どこまでが八重で、どこからが小夜なのか、分からなくなっていく。

行灯の火が、小さくなっていく。

部屋は暗闇に沈み、二人だけの世界が生まれる。

その暗闇の中で、小夜は初めて、本当の自分を見つけた。

誰かに愛されたい。

誰かを愛したい。

ただ、それだけの、シンプルで切実な願い。

そして、八重も同じだった。

三百年の孤独を生きてきた女郎蜘蛛は、ずっと誰かを求めていたのだ。

自分を愛してくれる、本物の相手を。

「愛してる……八重……」

小夜が、震える声で囁いた。

八重の動きが、一瞬止まった。

そして、その瞳から、一筋の涙が流れた。

「……ずっと、待っていたわ。この言葉を」

八重が、小夜を優しく抱きしめた。

「愛しているわ、小夜。私の、たった一人の……」

二人の魂が、完全に一つになった瞬間だった。


第四章 彼岸花の咲く夜明け

一、残り香

嵐のような夜が過ぎ、雨音が止んだ頃。

部屋には、気怠い沈黙が漂っていた。

小夜は八重の膝枕で、ぼんやりと天井を見上げていた。

身体は、もう動かなかった。

全身には、糸で縛られた赤い痕と、八重が残した無数の噛み痕キスマークが刻まれている。

それは祓い屋としての彼女が堕落した証であり、同時に新しい「契約」の証でもあった。

「……満足したか、化け物」

小夜が、力のない声で呟く。

「ええ。久しぶりに、美味しいお酒を頂いた気分よ」

八重が煙管をくゆらせながら、小夜の乱れた髪を梳く。

その指先には、もう殺意も捕食の意図もなかった。

あるのは、所有物に対する深い愛着と、奇妙な敬意だけだ。

「貴女の霊力、本当に美味しかった。清らかで、冷たくて、でもどこか切なくて……まるで、冬の朝の初雪みたいだった」

「……もう、残っていないがな」

小夜は自嘲気味に笑った。

霊力は枯渇し、身体の奥底には八重の妖力が巣食っている。

もう、魔除けの刀を握る資格はない。

だが、不思議と後悔はなかった。

胸の奥にあった冷たい空洞が、今は八重の熱で満たされている。

それが、何よりも心地よかった。

「貴女、もう家には戻れないわよ。私の毒が回ってしまったから」

八重が、小夜の頬に触れる。

「この痕、消えないわ。一生、貴女は私のものよ」

「……分かっている」

小夜は、八重の手を握った。

その手は相変わらず冷たかったが、今はそれが温かく感じられた。

「責任を取って、ここで飼ってあげる。……私の、可愛いお人形さん」

「ふん。……寝言を言うな。私が、お前を見張ってやるのだ。これ以上、悪さをしないように」

小夜が八重の着物の袖を掴む。

それは精一杯の強がりであり、二度と離さないという意思表示だった。

二、新しい夜明け

障子の向こうが白み始める。

雨上がりの朝は、空気が澄んでいた。

小夜は、ゆっくりと身体を起こした。

全身が痛む。だが、それは不快な痛みではなかった。

むしろ、生きている実感がある、心地よい痛みだった。

「動けるの?」

八重が、心配そうに小夜を見る。

「ああ……なんとかな」

小夜が立ち上がろうとすると、足元がふらついた。

八重が、すぐに小夜を支える。

「無理しないで。まだ、毒が抜けきっていないわ」

「……ありがとう」

小夜が、初めて素直に礼を言った。

八重は、嬉しそうに微笑んだ。

二人は、障子を開けた。

外は、雨上がりの清々しい朝だった。

庭には、真っ赤な彼岸花が咲き乱れていた。

「……彼岸花? こんな季節に?」

「私が咲かせたの。貴女を迎えるために」

八重が、小夜の手を取った。

「彼岸花は、此岸と彼岸を繋ぐ花。生と死、聖と邪、光と闇。相反するものを繋ぐ花よ」

「つまり、私とお前を繋ぐ花、というわけか」

「そう。私たちは、もう離れられない」

二人は、庭に降り立った。

朝露に濡れた彼岸花が、二人の足元で揺れる。

小夜は、一輪の彼岸花を摘んだ。

そして、それを八重の髪に挿した。

「……似合っているぞ」

「まあ、ありがとう」

八重が、小夜の額に口づけを落とす。

その唇の紅は、小夜の血を吸って、昨日よりも鮮やかに、妖しく輝いていた。

三、共犯者たちの誓い

「ねえ、小夜」

八重が、真剣な表情で小夜を見た。

「これから、どうする?」

小夜は、少し考えた。

「……まず、祖母に手紙を書かないとな。任務に失敗したと」

「怒られるわよ」

「構わない。もう、九条の娘ではないのだから」

小夜が、凛とした表情で言う。

「私は、小夜。ただの、小夜だ」

八重は、その言葉を聞いて、優しく笑った。

「そう。貴女は、もう誰のものでもない。ただ、私のものよ」

「違う。私は、誰のものでもない。ただ……」

小夜が、八重の手を握り締めた。

「お前と、共にある」

八重の瞳が、潤んだ。

「……ずるい言い方ね」

「お前に教わった」

二人は、笑い合った。

そして、再び口づけを交わした。

今度の口づけは、激しくも、優しくもなく、ただ愛おしさに満ちていた。

朝日が、二人を照らし出す。

その光は、もはや二人を裁くものではなかった。

祝福するものだった。

この背徳的な、だからこそ美しい、二つの魂の結びつきを。

「愛しているわ、小夜」

「……私も、お前を愛している」

小夜は、もう光を恐れてはいなかった。

彼女の魂は、この絡繰り屋敷の主によって、永遠に甘い糸で絡め取られてしまったのだから。

だが、それは不幸ではなかった。

むしろ、これこそが彼女が求めていた、本当の自由だったのだから。


終章 蜘蛛の糸、その後

数ヶ月後。

九条家には、小夜からの手紙が届いた。

『祖母様。私は任務に失敗しました。八重を祓うことができませんでした。いえ、祓いませんでした。私は、八重と共に生きることを選びました。これは背信であり、家への裏切りです。九条の名を汚したこと、深くお詫び申し上げます。ですが、後悔はしておりません。私は初めて、本当の自分を見つけました。どうか、私のことはお忘れください。小夜』

祖母は、手紙を読み終えると、静かに笑った。

「……やはりな」

傍らにいた弟子が、驚いた顔で祖母を見る。

「師匠、このままでよろしいのですか?」

「ああ。小夜は、自分の道を選んだのだ。それを尊重してやらねばな」

「しかし、あやかしと共に生きるなど……」

「人間とあやかし。そう簡単に分けられるものではない」

祖母は、窓の外を見た。

そこには、季節外れの彼岸花が咲いていた。

「小夜は、己の心に正直になっただけだ。それは、誰にも責められるものではない」

そして、祖母は手紙を懐にしまった。

「……幸せになれよ、小夜」


蜘蛛の館では、今夜も小夜と八重が寄り添っていた。

小夜は、もう白衣を着ていない。

代わりに、八重が仕立てた黒い着物を纏っている。

髪には、彼岸花の簪が挿されていた。

「似合っているわよ、小夜」

「……お前のせいで、すっかり様変わりしてしまった」

「後悔している?」

「まさか」

小夜が、八重の膝に頭を預ける。

「これが、私の選んだ道だ」

八重が、小夜の髪を優しく撫でる。

「私も、貴女を選んで良かった」

二人の間に、言葉は必要なかった。

ただ、互いの存在を感じ合うだけで、心が満たされた。

外では、雨が降り出していた。

帝都に降る雨は、相変わらず黒く、重く、そして冷たい。

だが、この館の中だけは、温かかった。

二つの魂が紡ぎ出す、絹の繭のように。

その繭の中で、小夜と八重は、永遠に寄り添い続けるのだろう。

聖と邪。光と闇。人間とあやかし。

全ての境界を越えて、ただ愛し合う二つの魂として。

彼岸花が咲く、この美しい地獄で――。

(了)

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