LOGINロンドンの朝は、霧と紅茶の香りで始まる。
一八七五年、ヴィクトリア女王治世三十八年目の初冬。テムズ川から立ち上る濃霧が、ベルグレイヴィアの高級住宅街を白い綿のように包み込んでいた。ハミルトン伯爵邸は、その一角に威厳を持って佇む石造りの館だった。四階建ての建物には、使用人だけでも二十名が住み込みで働いている。
重厚なベルベットのカーテンを開けると、灰色の光が三階の主寝室に差し込んだ。窓の外では、朝霧の中を馬車の車輪が石畳を削る音が微かに響いている。街路樹の裸の枝が、霧の向こうに黒い影絵のように浮かんでいた。
「おはようございます、お嬢様」
私、マーガレット・サットンは、ベッドサイドで深々と頭を下げた。齢二十五。この屋敷で上級メイドとして、主人の身の回りの世話を一手に引き受けている。黒いドレスに白いエプロン、頭には質素なモブキャップ。眼鏡の奥の灰色の瞳は、常に冷静な観察者の色を湛えている。
天蓋付きのベッドの中、絹のシーツと羽毛の掛け布団に包まれて眠るのは、この屋敷の主、エリザベス・ローズ・ハミルトン伯爵令嬢だ。齢二十二。父である伯爵が外遊中の今、この広大な屋敷の実質的な主人は彼女一人である。
金の髪が枕に散らばり、白磁のような肌が朝の光に透けている。長い睫毛が頬に影を落とし、薔薇色の唇が微かに開いている。まるで絵画の中の天使のように、彼女は眠りの中で無防備だった。
「……マーガレット? まだ眠いわ……何時なの……」
「午前七時でございます。いけません。今夜はバッキンガム宮殿で王室主催の舞踏会がございます。準備には時間がかかりますので」
私は容赦なく掛け布団を剥ぎ取った。十二月の冷気が部屋に満ち、エリザベスが小さく悲鳴を上げる。
「ああ、もう! あと十分だけ……」
「十分お待ちしたら、次は二十分、その次は一時間とおっしゃるでしょう。起きてください、お嬢様」
不満げに呻くエリザベスを、私は慣れた手つきで抱き起こした。彼女の身体は驚くほど軽い。私より三歳若いとはいえ、貴族の娘らしく華奢で、まるで陶器の人形のように繊細だ。
まず洗面台へ連れて行き、薔薇水で顔を洗わせる。冷たい水に触れて、ようやくエリザベスの翠玉色の瞳が完全に開いた。鏡に映る自分の寝乱れた姿を見て、彼女は小さくため息をついた。
「本当に今夜なの? 舞踏会……」
「ええ。先月から何度もお伝えしております。王太子殿下も出席なさるとか」
「憂鬱だわ。あの退屈な社交辞令と、意味のない会話と、足を踏まれるダンスと……」
「しかし、お嬢様の立場では避けて通れません。ハミルトン家の顔として、完璧でなければ」
私は彼女の夜着を脱がせ、薄いシュミーズ一枚の姿にした。白い絹地が、彼女の曲線をほのかに透かして見せる。まだ少女の面影を残す身体だが、胸元は豊かに膨らみ、腰のくびれは優美な曲線を描いている。
ここからが、毎朝繰り返される「儀式」だ。
私は特注の鯨の髭と鋼でできたコルセットを手に取る。それは先代の主人、つまりエリザベスの亡き母が使っていたもので、パリの名工が作った逸品だ。白い生地に黒いレースが施され、内側には何十本もの鯨骨が仕込まれている。それは貴族の女性が社会に出るために身につける、美しくも残酷な鎧だった。
私は彼女の身体にコルセットを巻きつけ、背中の
「息を止めてください」
「……優しくしてね、マーガレット」
その言葉には、懇願と諦めと、そして微かな期待が混ざっていた。
私が背中の紐を掴み、一気に引き絞る。
ギチリ、と硬質な音が鳴り、エリザベスの細い腰がさらに極限まで締め上げられる。鯨骨が彼女の肋骨を圧迫し、内臓を押し上げ、腰を不自然なまでに細く形作る。理想とされる「蜂腰」を作り出すために、女性たちは毎日このような拷問に近い儀式に耐えるのだ。
「うっ……苦しいわ、マーガレット……」
「美しさには痛みが伴います。これが社交界の掟です。あと一センチ、絞りますよ」
私は彼女の背中に膝を当て、躊躇なく紐を引いた。体重をかけ、全身の力を込めて絞り上げる。エリザベスの身体が前に押し出され、彼女は思わず化粧台に手をついた。
白い背中に赤い紐の跡が食い込む。彼女の肋骨が軋む音が、私の指先に伝わる。一センチ、また一センチ。彼女の腰のサイズは、通常時の六十センチから、最終的には四十五センチにまで絞り込まれる。
「ああ……もう、無理……」
「いいえ、まだです。昨日は四十四センチまで絞れました。今日はそれを超えましょう」
鏡越しに目が合う。苦痛に潤んだ彼女の瞳は、私を恨んでいるようで、同時にどこか熱っぽく私に甘えていた。その矛盾した感情が、透明な翠玉色の中で渦巻いている。
この拘束こそが、彼女が私の管理下にあるという証。
私は紐を結び、その結び目にそっと指で触れた。複雑に絡み合った結び目は、まるで魔法の封印のように、彼女の身体を縛り付けている。この結び目を解けるのは、私だけだ。
「完璧です。今日も誰よりも美しいですよ、エリザベス様」
鏡の中の彼女は、確かに息を呑むほど美しかった。コルセットによって作り出された極端なシルエット。押し上げられた胸、絞り込まれた腰、そこから広がる腰の曲線。それは人間の自然な形ではなく、芸術品として造形された美だった。
だが、その美しさの代償として、エリザベスは一日中、浅い呼吸しかできない。深呼吸は不可能で、食事もほとんど喉を通らない。階段を上れば息切れし、長時間立っていれば貧血で倒れそうになる。
それでも、これが「淑女」の証なのだ。
私はその上からペチコートを何枚も重ね、最後に今日のためのドレスを着せた。深い翠色のベルベット生地に、金糸の刺繍が施された豪奢な一着。これだけで使用人一人の年収に相当する。
髪を結い上げ、宝石をつけ、完璧に仕上げる。化粧台の前で二時間。ようやく「氷の薔薇」エリザベス・ローズ・ハミルトンが完成した。
「……綺麗?」
「完璧です。今夜、誰もがお嬢様に目を奪われるでしょう」
私の言葉に、エリザベスは小さく微笑んだ。だが、その笑みはどこか寂しげだった。
夕刻、私たちはハミルトン家の紋章が入った馬車でバッキンガム宮殿へ向かった。
舞踏会の会場は、シャンデリアの輝きと香水の匂いで飽和していた。天井まで届く巨大な鏡、大理石の床、金箔で装飾された壁。そこは地上の天国のような空間だった。百人を超える貴族たちが、宝石とドレスで着飾り、談笑している。
ワルツの旋律に合わせて、色とりどりのドレスが回る。その中心で、真紅のドレスに着替えたエリザベスは、まさしく「氷の薔薇」として君臨していた。会場に入った瞬間、多くの視線が彼女に集まった。ざわめきが広がり、男性たちが彼女に近づいていく。
次々と申し込みに来る紳士たちに対し、彼女は扇子で口元を隠しながら、優雅に、しかし冷淡に対応している。微笑みは完璧だが、目は笑っていない。社交辞令の言葉を並べながら、彼女の心はどこか遠くにある。
私は壁際の使用人待機列に立ち、眼鏡の奥からその様子を見守っていた。黒いドレスを着た私は、華やかな会場の中で影のような存在だ。誰も私を見ない。私は透明人間のように、ただそこに存在しているだけ。
だが、私の目はエリザベスだけを追っている。
彼女の背筋がピンと伸びているのは、私が朝締めたコルセットのおかげだ。彼女が微笑むたびに、あの締め付けられた肺で浅い呼吸をしていることを、私だけが知っている。彼女がワインのグラスを口に運んでも、ほとんど飲んでいないことも。コルセットで圧迫された胃には、もう何も入らないのだ。
社交界の華やかな世界。だが、その裏側にある痛みと苦しみを知っているのは、私だけ。
(ああ、退屈そうだ)
ふと、ダンスの合間にエリザベスがこちらを見た。
距離にして十メートル。雑踏の向こう。だが、彼女の視線は正確に私を捉えていた。
彼女は誰にも気づかれないように、ほんの一瞬だけ眉を下げ、視線をバルコニーの方へ流した。そして扇子を胸元に当てる。三年間、彼女の側に仕えてきた私には、その意味が手に取るようにわかった。
――『連れ出して』。
主従の間だけで通じる、無言の
私は音もなく人混みを抜け、裏口へ回った。使用人用の通路を通り、執事を呼び、短く指示を出す。そして再び表に戻り、エリザベスの近くで待機した。
それから十分後。
エリザベスがワルツを踊っている最中、私は執事と共に彼女の傍に近づいた。
「失礼いたします、お嬢様。お顔色が優れないようですが……」
私の言葉に、エリザベスは完璧なタイミングで顔を青ざめさせた。相手の紳士に申し訳なさそうな笑みを向けながら、私の腕に身を預ける。
「申し訳ございません……少し、気分が……」
周囲がざわめく。執事が素早く状況を説明し、私は「主人の体調不良」を理由に馬車を手配した。青ざめた演技をするエリザベスを抱きかかえるようにして、私たちは会場を後にした。
廊下に出ると、エリザベスは小さく笑った。
「完璧な演技だったでしょう?」
「ええ。しかし、あまり頻繁にこの手は使えません。次回は本当に最後まで耐えていただきますよ」
「冗談じゃないわ。あと一時間いたら、本当に倒れるところだった」
私たちは宮殿の玄関を出て、待機していた馬車に乗り込んだ。御者が鞭を鳴らし、馬車は夜のロンドンへと走り出す。
屋敷へ戻る馬車の中、外は激しい雨になっていた。
出発した時は霧雨程度だったが、いつの間にか本降りに変わっていた。石畳を叩く雨音と、馬の蹄の音が、車内の静寂を際立たせる。街灯の光が雨に反射し、ガラス窓を流れる水滴が万華鏡のような模様を作り出していた。
エリザベスは窓のカーテンを閉め切ると、ふう、と深く息を吐き、隣に座る私の肩に頭を預けた。コルセットで締め付けられているせいで、彼女の呼吸は浅く、速い。
「……疲れたわ。あの方たちの会話ときたら、キツネ狩りと領地の自慢話と、誰それが誰それと結婚するだの、娘が社交界デビューするだのばかり」
「ご苦労様でした。……ですが、素晴らしい演技でしたよ。誰も気づいていませんでした」
「誰のおかげだと思っているの? 貴女があんなにキツく締めるから、酸欠で本当に倒れるところだったわ」
エリザベスが拗ねたように唇を尖らせ、私の手袋をした手を握った。その手は冷たく、微かに震えていた。華やかな社交界は、彼女にとって戦場なのだ。完璧でなければならない。一つの失敗も許されない。常に監視され、評価され、噂の的になる。
「早く帰って、私を楽にして。……マーガレット」
その甘えた声に、私は静かに頷いた。
御者に速度を上げるよう命じる。馬車が激しく揺れ、エリザベスが私により強くしがみついた。彼女の髪から香る薔薇の香水と、汗の微かな匂いが混ざり合う。
私たちは夜の闇に守られた屋敷へと急いだ。そこは、社会のルールも身分も届かない、二人だけの城だ。
三十分後、馬車はハミルトン邸の正門に到着した。執事が傘を持って出迎え、私たちは雨に濡れずに玄関へ入った。
「お嬢様の体調が優れないため、今夜は早めにお休みになります。誰も三階には上がらないように」
私の指示に、執事と家政婦長が頷く。使用人たちは心得たもので、何も聞かず、何も見ず、ただ命令に従う。
私はエリザベスを支えながら、大理石の階段を上った。
屋敷に戻り、使用人たちを下がらせると、私たちはエリザベスの寝室に入った。重い扉を閉め、鍵をかける。外の世界から完全に隔離された、私たちだけの聖域。
暖炉に火を入れる。パチパチと薪が爆ぜる音が、静かな部屋に響く。炎の光が、部屋を琥珀色に染め上げた。
私は彼女のドレスのホックを外していく。背中に並ぶ小さなボタンを一つ一つ、丁寧に外していく。この作業には十分以上かかるが、私は決して急がない。
重い真紅の生地が床に滑り落ち、彼女は再び下着姿になった。ペチコートも脱がせ、シュミーズ一枚の姿にする。
鏡の前。
朝とは逆に、私はコルセットの結び目に手をかけた。複雑に絡み合った結び目を、慣れた手つきで解いていく。
「解きますよ」
シュルリ、と紐が緩む音。
その瞬間、エリザベスの肺が大きく膨らみ、深い呼吸が部屋に響いた。まるで溺れていた人が水面に顔を出したように、彼女は貪欲に空気を吸い込む。
「はあっ……はあっ……ああ……」
鯨骨の檻が外され、床に置かれる。カタン、という音が、解放の合図だった。
露わになった彼女の胴体には、くっきりと赤いレースの痕が刻まれていた。それはまるで、私の支配の烙印のように、白磁の肌に焼き付いている。縦に何本も走る鯨骨の跡。横に食い込んだ紐の跡。そのすべてが、一日中の拘束の証だった。
「……痛かったでしょう」
「ええ。でも、貴女に解いてもらうこの瞬間のために、耐えているようなものね」
エリザベスが鏡越しに私を見つめ、熱っぽい瞳で微笑んだ。その瞳には、昼間の冷たい氷はもうない。ただ、私だけを求める熱い炎が燃えている。
私は眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。髪を結い上げていたピンも外し、栗色の長い髪を解く。モブキャップも、エプロンも外す。
これで私はただのマーガレットになり、彼女はただのエリザベスになる。
メイドと令嬢という壁が消え、ただ二人の女性だけが残る。
私は跪き、彼女の腰に残る赤い痕に、そっと唇を寄せた。
熱い。一日中締め付けられて鬱血していた皮膚は、驚くほど熱を持っていた。私の唇が触れると、エリザベスの身体がビクンと跳ねた。
「ん……ぁ……」
私の唇が痕をなぞるたびに、エリザベスの身体が反応する。彼女の手が私の頭に触れ、髪に指を絡める。
私は痛みを散らすように、そして独占欲を刻み込むように、赤くなった箇所へ丁寧にキスを落としていった。背中から脇腹、そして柔らかい腹部へ。一つ一つの赤い痕に、私の唇が触れていく。
石鹸の香りと、彼女自身の甘い体臭が混ざり合う。シュミーズ越しに感じる彼女の体温。心臓の鼓動。すべてが、私の感覚を研ぎ澄ませていく。
「マーガレット……もっと、強く……」
エリザベスの指が、私の髪に絡まり、焦れたように引く。
私は立ち上がり、彼女を抱き上げた。驚くほど軽い身体。私は彼女を抱えたまま、天蓋付きのベッドへと向かう。
そして、その白磁のような身体を、シルクのシーツの上へと押し倒した。
バサリ、とシーツが波打ち、その上に散らばったエリザベスの金髪が、暖炉の炎に照らされて後光のように輝く。
私は彼女の上に覆いかぶさった。シュミーズ越しに感じる彼女の身体の熱。速くなる呼吸。
「お嬢様。……夜はまだ、これからです」
「ふふ。命令よ、マーガレット。私を愛しなさい。……朝が来て、またあの鎧を着るその時まで、私のすべてを貴女の色に染めて」
その言葉は、慈悲深い女神の許しのようであり、同時に淫らな誘惑でもあった。
私は彼女の唇を塞いだ。
昼間の紅茶のような上品な口づけではない。互いの呼吸を奪い合い、唾液を貪り合う、飢えた獣のような接吻。舌が絡み合い、歯が触れ合い、唇が重なる。
窓の外で激しさを増す雨音が、寝室内の衣擦れの音と濡れた水音を、世界から隔離するように包み込んでいく。
私の唇は、彼女の口元から顎のラインを滑り降り、コルセットから解放されたばかりの首筋へと移った。そこには、微かに脈打つ頸動脈がある。生命の証。私はそこに歯を立て、所有印を刻むように甘噛みした。
「あっ……!」
「声を出して構いません。この部屋の壁は厚い。……誰も、貴女の乱れた声を聞くことはできませんよ」
私の舌はさらに下へと這う。
鯨骨によって無理やり押し上げられていた胸の谷間を割り、肋骨の浮き出たラインを一本一本、丁寧に舐め上げていく。シュミーズの薄い生地越しに、彼女の肌の感触が伝わってくる。
そして、赤いレースの痕が残る脇腹へ。
一日中締め付けられていた皮膚は、敏感になりすぎており、私の熱い息がかかるだけで、エリザベスの腹筋が痙攣した。
「そこ、は……マーガレット、熱い……焼けるみたい……」
「お可哀想なエリザベス様。私が癒やして差し上げます」
私は執拗に、その赤い痕跡を舌でなぞり続けた。痛みを快楽へ、拘束を解放へ。私の舌先が、彼女の皮膚の細胞一つ一つに「貴女は私のものだ」という情報を書き込んでいく。
私の手は、彼女の太腿に残るガーターベルトを外し、純白のストッキングをゆっくりと引き抜いた。絹の感触が指先を滑り、やがて彼女の脚が完全に露わになる。
露わになった膝の裏、内太腿の柔らかな皮膚。普段はドレスの奥深くに隠され、誰も見ることの許されない聖域。
私は眼鏡を外した目で、その秘められた風景を隅々まで鑑賞し、指先で愛でた。柔らかく、温かく、そして私だけのもの。
「ん……ぁ、いや、見ないで……そんな、恥ずかしい……」
「隠さないでください。貴女の身体の隅々まで知っているのは、私だけだと思い出してください」
私の長い指が、彼女の最も秘密の場所へと滑り込む。そこはすでに、溢れ出た蜜で濡れそぼっていた。熱く、柔らかく、私の指を歓迎するように締め付けてくる。
私が指を動かすと、エリザベスはシーツを握りしめ、背中を弓なりに反らせた。
「ああっ! マーガレット、すごい……! 深い、そこ……ッ!」
普段は冷徹な「氷の薔薇」が、今はただの快楽に翻弄される一人の女として、私の下で喘いでいる。その事実は、私の中にあるサディスティックな庇護欲を極限まで煽った。
この人を守りたい。この人を支配したい。この人を愛したい。
三つの欲望が混ざり合い、私の中で渦を巻く。
私は指の動きを早め、同時にもう片方の手で彼女の胸を愛撫し、舌で敏感な突起を責め立てた。視覚、聴覚、触覚。そのすべてを私に支配され、エリザベスの瞳が陶酔で白く濁っていく。
私もまた、彼女の熱に浮かされていた。主従という壁が溶け、ただ「愛する」という本能だけが残る。
彼女の中の締め付けが強くなる。限界が近い。
「一緒に……マーガレット、一緒に来て……ッ!」
「ええ、お供します。……どこまでも」
私は彼女の唇を再び奪い、指を最深部へと突き入れた。
その瞬間、稲妻のような閃光が私たちの脳髄を貫いた。
「あぁぁぁーーッ!!」
「っ……エリザベス……ッ!」
二人の身体が同時に硬直し、そして弾けた。
エリザベスの中からの強い収縮が私の指を締め上げ、私の全身にも電流のような絶頂が駆け巡る。ホワイトアウトする視界。雨音さえも遠のき、ただ互いの激しい鼓動と、荒い呼吸音だけが、永遠の静寂の中に響き渡っていた。
私たちは互いの境界線を完全に喪失し、汗と熱に塗れた一つの魂となって、夜の深淵へと堕ちていった。
雨音がかき消す寝室の中で、私たちは長い時間、互いを抱きしめ合っていた。
暖炉の火が弱まり、部屋は薄闇に包まれている。窓の外では、まだ雨が降り続けている。
エリザベスは私の胸に顔を埋め、規則正しい呼吸をしていた。眠ってしまったのかと思ったが、時折、小さく身じろぎする。
「……マーガレット」
「はい」
「明日もまた、あのコルセットを着けなきゃいけないのよね」
「ええ。明後日も、その次の日も」
「ずっと、この繰り返し」
その声は、諦めと受容が混ざっていた。
私は彼女の金髪を撫でながら、答えた。
「明日の朝になれば、私はまた厳格なメイドに戻り、貴女の身体をきつく締め上げるでしょう。けれど今夜だけは、この戒めを解かれた裸の魂こそが、私たちの真実です」
「……そうね」
エリザベスが顔を上げ、私を見つめた。暗闇の中でも、彼女の翠玉色の瞳は輝いている。
「でも、いつか」
「いつか?」
「いつか、このコルセットを着けなくてもいい日が来るかしら。社交界の掟も、貴族の義務も、すべてから自由になれる日が」
私は答えなかった。答えられなかった。
それは不可能な夢だと、私たちは知っている。エリザベスは伯爵令嬢として生まれ、伯爵令嬢として生き、やがて誰かの妻となり、母となり、そして老いていく。それが彼女の運命だ。
そして私は、一生彼女の影として生きる。
だが、少なくとも夜だけは、私たちは自由だった。
「眠りましょう、エリザベス」
「……一緒に?」
「ええ、一緒に」
私は彼女を抱きしめ、目を閉じた。
窓の外で、雨音が優しく私たちを包んでいた。
(了)
第1章:沈黙の戒律と石の温度 聖セシリアの沈黙修道院は、雪に閉ざされた山脈の奥深くにあった。修道院の石造りの壁は、外気と同じ温度で冷たく、冬の間、院内を支配するのは、古いインセンスの微かな香りと、修道女たちの粗いウールの修道服が擦れる音だけだった。 シスター・クレマンスは、この修道院の戒律と沈黙を、誰よりも完璧に体現していた。彼女の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は決して地上のものに向けられることはない。彼女の所作は、一つの無駄もなく、完璧な献身というアルゴリズムで動いているかのようだった。その完璧な禁欲は、神への純粋な愛と、人間的な温もりへの恐れという、クレマンス自身の矛盾の上に成り立っていた。 彼女の主な役割は、古びた礼拝堂の聖具の手入れだった。彼女は、金箔の聖杯や、古い木製のロザリオといった、神に捧げられた人工物を、自分の肉体よりも丁寧に磨き上げた。なぜなら、それらは完璧であり、永遠に変わらないからだ。 ある雪の深い夜、一人の若い修道女が、この沈黙の修道院に加わった。シスター・テレーズ。彼女は、他の修道女たちと比べ、顔の表情が豊かで、喜びや驚きといった感情を、隠すことなく発する、異質な存在だった。 クレマンスは、戒律に従い、テレーズの指導役となった。聖具室での手入れの指導中、クレマンスはテレーズの手に触れた。その瞬間、クレマンスは思わず手を引いた。「テレーズ、なぜ貴女の手は、こんなにも温かいのですか?」 クレマンス自身の手は、長年の冷たい石の床と聖具の管理により、氷のように冷えていた。「ごめんなさい、クレマンス様。私は、まだ神の愛を、この身体で温めてしまうようです」 テレーズは、困ったように微笑んだ。その笑みは、クレマンスの完璧な沈黙の空間に、不必要なほど鮮やかな人間の色彩を持ち込んだ。クレマンスは、その温かい手の感触が、自分の禁欲のタペストリーに、一筋の乱れを生じさせたことに気づいていた。第2章:粗いウールと温かい手 テレーズは、クレマンスの厳格な指導にもかかわらず、どこか不器用だった。聖具の手入れ中、彼女は小さなミスを犯し、クレマンスの完璧な作業を何度も中断させた。 ある夕暮れ、二人きりの礼拝堂。窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を美しく照らしていた。 クレマンスは、テレーズに、古の修道女が着用していた粗いウールの下着を見せた。それ
第1章:バグと虚構の砂漠 二酸化炭素の濃霧が漂う現実世界は、もはや生存のための砂漠だった。人々は、精神安定のために「オアシス」と呼ばれる超巨大仮想現実空間へと意識を逃がす。 霧島は、そのオアシスを専門に破壊するハッカーだった。現実では常に黒いフードを深く被り、愛を「論理的なバグ」と見なす極度のコミュニケーション不全者だ。彼女の任務は、オアシスの最深部に位置する人気エリア「永遠の泉」を破壊し、人々の依存を断ち切ること。 彼女の今日のターゲットは、その「永遠の泉」の設計者であり、オアシスで最も愛されているVRアーティスト、咲良(さくら)。 霧島は、自室のチェアに深く座り、神経インターフェースを装着した。視界が一瞬のノイズと共に切り替わり、目の前にオアシスの風景が広がる。 人工の太陽が輝き、空にはピンクとオレンジのグラデーション。目の前には、コード一本で無限に再生される、完璧な青い湖が揺れていた。「愛をデータ化するとは、悪趣味なバグだ」 霧島は、VR内のアバター(フード付きの白いパーカー姿)で、咲良の造った「永遠の泉」へと歩みを進めた。彼女のミッションは、泉の深部に仕掛けられた「感情のコアアルゴリズム」を破壊し、オアシス全域を機能停止させることだった。 泉のほとりには、咲良のアバターがいた。白い麻のワンピースを纏い、裸足で水面に立っている。そのアバターが纏う感情のコードは、海音のソナーのように、霧島の視界に複雑で、しかし調和した金色と薄緑色の波として映った。「あなた、ここで何を?」 咲良は、霧島に気づき、優雅に微笑んだ。その笑顔は、あまりに完璧で、霧島の脳内では『最大偽装(MAX_FALSITY)』という警告コードが点滅した。「バグチェックです。あなたの描く『愛』のロジックに、脆弱性がないか確認に来ました」「脆弱性? ふふ。私の愛は、人類の集合無意識を学習させた、最も強固なアルゴリズムで動いていますよ」 咲良は、一歩霧島に近づいた。VR内の二人の間に、現実世界ではありえない親密な距離が生まれる。「ねえ、あなた。バグを見つけるのもいいけど、たまにはこの世界の『美しさ』も感じてみたらどうですか」 咲良の手が、霧島のアバターの頬に触れた。VR空間では、触覚は精巧なフィードバックで伝わる。その指先から伝わる人工的な温かさが、霧島の神経インターフェー
第1章:音響技師と不協和音の海 深海研究都市ネオ・アトランティス。地表から五百メートルの水深に位置するこの都市は、厚いチタン合金のドームに守られ、外界の濁流と喧騒から完全に隔離されていた。 音響技師の海音(うみね)にとって、この場所は唯一の安息の地だった。彼女は生まれつき、極めて強い共感覚を持っていた。人の会話だけでなく、感情の起伏までもが、彼女の視界に色と音の波として押し寄せてくる。特に、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、耳をつんざくような不協和音と、濁った濃い赤や黒の色彩を伴って、彼女の思考を侵食した。 そのため、海音は人との関わりを極力避け、濁った不協和音の届かない深海探査船の管制室に籠もっていた。ここにいるのは、水圧と、彼女が扱うソナーの単調な信号音だけだ。「ソナー、異常なし。外殻に付着した生物の振動を確認。青みがかった三オクターブ、安定」 海音は、感情のない機械のような声で報告した。彼女が認識する音は、いつでも論理的で規則正しく、美しい。 そんな海音の管制室に、突然、騒がしく、しかし心地良い透明な緑色を伴うノックが響いた。ノイズの少ない、稀有な色だ。 入ってきたのは、深海ダイバーの淡水(あくあ)。鍛え上げられた身体に、深海作業用の分厚いウェットスーツを羽織っている。短く切り揃えられた黒髪から、一筋、水滴が滴り、チタン合金の床に落ちた。「海音ちゃん。今日のメンテナンス、手伝ってくれない? 探査艇の船底ソナーの調整だ」 淡水の声は、海音にとって、淡い、揺らぎのないターコイズブルーに見えた。澄んでいて、濁りがない。彼女の感情は、共感覚を持つ海音のフィルターを通しても、ごく平穏な波長しか持たなかった。「私は管制が専門です。ダイバーの仕事は――」「ソナーの波長を体で感じられるのは、君だけだろ? 地上にいる時より、水中の方が、君の共感覚は正確になる。知ってるよ」 淡水は、海音の目をまっすぐ見た。その瞳は、海底に沈んだ宝石のように深く、海音の心臓が、微かに不規則なリズムを刻む。淡水は、海音が最も信頼するダイバーだった。なぜなら、彼女の感情は常に安定しており、海音にとって「無色の沈黙」に近い存在だったからだ。第2章:光の波長と感情のデッドスポット 探査艇の船倉。海音は、淡水と共に、ソナーの調整作業に取り掛かっていた。 海音は、ドライスー
第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと
第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不
第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする