Share

004:ロープブレイク・キス

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-14 04:44:28

第1章 処刑台のカーテンコール

後楽園ホールの空気は、酸素よりも熱気と殺意の濃度の方が高い。

天井から吊るされた巨大スクリーンに、私の凶悪な笑みがクローズアップされる。二千人の観客が上げる怒号が、リングのキャンバスを揺らし、マットの振動となって私の足裏に伝わってくる。

「殺せ! やっちまえカルマ!!」

「セイントを潰せええぇッ!」

四方から浴びせられる罵声。空のペットボトルが、リングサイドに投げ込まれる。警備員が慌てて走る。

これらすべてが、私――ヒールレスラー「紅蓮の処刑人・カルマ」にとっては最高の賛美歌だ。観客の憎悪が濃ければ濃いほど、私の価値は高まる。それがヒールという存在の宿命であり、誇りだ。

私は、リングの中央で倒れている早乙女聖――リングネーム「聖女・セイント」の長い黒髪を無造作に掴み上げ、強引に立たせた。彼女の頭皮が悲鳴を上げるのを感じる。だが、それを顔に出すことは決してない。それが彼女のプライドだ。

スポットライトに照らされた聖の顔は、汗と流血で化粧が崩れ、痛々しくも神々しい。白いコスチュームは私の毒霧と、彼女自身の鮮血で汚れている。額から滴る血が、彼女の頬を伝い、顎から滴り落ちる。

「立てよ、聖女様。皆がお前の奇跡を待ってるぜ?」

低くドスの効いた声で囁き、私は彼女の腹部に膝を叩き込んだ。

ドゴッ、という鈍い音が響く。最前列の観客が息を呑む音が聞こえた。

聖の口から苦悶の声が漏れ、身体がくの字に折れる。私はそのまま彼女の左腕を極め、マットにねじ伏せた。クロスフェイス・カルマロック――私のフィニッシュホールドだ。

関節が悲鳴を上げる感触。筋肉が限界まで伸展する張り。

私の腕の中にいる聖の肉体は、驚くほど熱い。体温計で測ったら、おそらく38度は超えているだろう。肉体が極限まで追い込まれた時、人の体温はこれほどまでに上昇する。

汗で滑る肌の感触、荒い呼吸と共に上下する肋骨の動き、脈打つ血管。細い首筋を走る頸動脈が、私の前腕に激しく拍動している。そのすべてが愛おしく、どうしようもなく興奮する。

(ああ、聖。なんて綺麗なんだ)

私は凶悪な笑みを観客に見せつけながら、心の中で彼女に口づけを送る。

カメラマンがリングサイドから望遠レンズを向けている。明日のスポーツ紙には、この残虐な構図が一面を飾るだろう。「紅蓮の処刑人、聖女を完全制圧!」というような見出しと共に。

私が締め上げれば上げるほど、聖は苦痛に顔を歪め、輝きを増す。汗と血で濡れた彼女の肌が、照明を反射してダイヤモンドのように煌めく。

レフェリーが聖の顔の前に手をかざす。「ギブアップするか?」と問いかける。

聖は歯を食いしばって首を横に振った。決して折れない。それが彼女という女だ。

彼女は私の恋人であり、私が世界で一番傷つけている女。

リング上で私たちが交わせる言葉は、拳と蹴りと関節技だけ。この痛みだけが、私たちがリングの上で交わせる唯一の愛の言語だった。

観客席から「セイント!セイント!」と応援のチャントが始まる。その声援が、彼女の力になる。それを知っているからこそ、私はさらに力を込める。

第2章 カウント2・9の対話

聖の呼吸が変わった。

それは微細な、ほんの一瞬の変化。だが、三年間、毎週のようにリングで組み合ってきた私には分かる。彼女の筋肉が、防御から攻撃へと切り替わる瞬間の、あの独特の質感。

私の腕の中で、彼女の筋肉が一瞬にして鋼のように硬直する。広背筋が盛り上がり、三角筋が膨張し、全身の筋肉が爆発的に収縮する。反撃の合図だ。

「……ナメるなッ!!」

聖が咆哮と共にブリッジし、私の拘束を強引に跳ねのけた。信じられない背筋力。私の体重60キロを、彼女は背中の力だけで投げ飛ばした。

観客席から「待ってました!」と言わんばかりの大歓声が爆発する。座席を蹴る音、拍手、口笛、怒号、歓喜。すべてが混ざり合って、会場全体が一つの巨大な生き物のように脈動する。

よろめく私に向かって、聖がロープへ走る。彼女の走りは美しい。痛みで足を引きずりながらも、その動きには一切の迷いがない。

トップロープの反動を利用した、強烈なラリアット。

バシィィン!!

首元に衝撃が走る。視界が一瞬、真っ白になる。平衡感覚が狂い、私はマットに背中から叩きつけられた。

背骨に走る衝撃で、一瞬、息が止まる。

痛い。最高に痛い。

頭蓋骨の中で脳が揺れるのを感じる。だが同時に、私の口元には笑みが浮かんでいた。

私の首をへし折る気で放たれたその一撃には、聖からの「信頼」が詰まっていた。手加減などという侮辱は、私たちの間には存在しない。全力で殺しに来てくれるからこそ、私は彼女を愛している。

受け身を取りそこねれば、本当に首が折れる。それでも彼女は躊躇なく放つ。なぜなら、私が必ず受け身を取ることを知っているから。そして私も、彼女がそう信じていることを知っている。

その信頼こそが、私たちの絆の証明だ。

「いくぞカルマアアァッ!!」

聖がコーナーポストに登る。

観客の期待が、空気の密度となって高まるのを感じる。フラッシュの嵐。カメラのシャッター音が雨のように降り注ぐ。

煌めく汗を撒き散らしながら、彼女が空を舞った。

バックドロップを受けた直後だというのに、あの高さまで跳べる身体能力。それが早乙女聖という女の恐ろしさだ。

必殺のムーンサルトプレス。

時間が引き延ばされたように感じる。落下してくる彼女の身体。重力に従って加速していく質量。その軌道を、私の目は正確に捉えていた。

避けられる。いや、避けるべきだ。ここで受ければ、試合が決まる。

だが、私は動かなかった。

落下してくる彼女の重み、体温、衝撃を、私は腹部で受け止めた。

ドゴォッ!!

マットが大きく沈む。リング全体が軋む音がした。

肺の中の空気がすべて吐き出される。内臓が押し潰され、横隔膜が痙攣する。息ができない。視界の端が暗くなっていく。

そのまま覆いかぶさるようにフォールに入られる。彼女の全体重が、私の胸郭を圧迫する。

レフェリーの手がマットを叩く。

「ワン!」

聖の乱れた長い黒髪が私の顔にかかる。汗の匂い。シャンプーの残り香。そして、微かに混ざる血の鉄臭さ。

「ツー!」

至近距離で合う視線。

彼女の瞳は、アドレナリンで瞳孔が開ききり、獣のように獰猛で、濡れていた。いや、獣ではない。これは狩りを終えた肉食獣の目だ。獲物を仕留めた満足感と、まだ足りないという飢餓感が同居している。

その瞳が「まだ終わらせない」と訴えている。

(分かってるよ、私の聖女様)

スリーが入る直前、私は渾身の力で肩を上げた。

キックアウト。

「スリーじゃなーい!カウント2!」

実況のアナウンサーが絶叫する。

会場が揺れる。文字通り、建物全体が揺れた。観客たちが一斉に飛び跳ねたのだ。

その熱狂の渦の中心で、私たちは汗まみれの身体を重ね合わせ、互いの生存と強さを確認し合っていた。

聖が私の上から退く時、その手が私の頬に触れた。一瞬の、ほんの一瞬の接触。観客からは見えない、レフェリーすら気づかない、私たちだけの秘密の愛撫。

これは闘いではない。肉体と肉体をぶつけ合う、魂のセッションだ。

私たちは立ち上がり、再び向き合う。

残り時間、あと五分。

この五分間で、私たちはまだ何度でも、互いを殺し、蘇らせることができる。

第3章 舞台裏の鏡像

試合は三十分ドローに終わった。

ゴングが鳴り響いた瞬間、会場全体が深いため息をついた。勝負がつかなかったことへの落胆と、これ以上ない名勝負を見せてもらったことへの満足感が入り混じった、複雑な感情の発露。

だが、私たちはゴングを無視した。

ヒールである私が、ルールなど守るはずがない。

私は聖に飛びかかり、髪を掴んで引き倒した。聖も負けじと私の顔面に肘を打ち込んでくる。

リングが大混乱に陥る。レフェリーが必死に止めようとするが、私たちは聞かない。

セコンドが飛び込んでくる。若手レスラーたちが三人がかりで私を押さえつけ、聖からも引き離す。

「離せ!まだ終わってねえんだよ!」

「カルマァ!次は絶対に倒す!」

私たちは罵声を浴びせ合いながら、それぞれ別の花道から退場した。

私は聖に背を向け、観客に中指を立てて花道を進む。ブーイングの嵐。それが心地良い。

バックステージの通路。

カメラのフラッシュが無数に焚かれる中、私はインタビュースペースで椅子を蹴り飛ばした。金属製の椅子が壁に激突し、けたたましい音を立てる。

「ふざけんな! あんな奴、次は息の根を止めてやる! 聖女? 笑わせんな。次は地獄に送ってやるよ!」

唾を吐き捨て、記者たちを威嚇して控室へ戻る。マイクを向けてくる記者を肘で押しのけた。

「カルマ選手!一言お願いします!」

「うるせえ! 書きたきゃ勝手に書け!」

重い鉄の扉を閉めた瞬間、私は「紅蓮の処刑人」の仮面を剥ぎ取った。

壁に背を預け、ズルズルと座り込む。

全身が軋む。特に首と腰が悲鳴を上げている。聖のラリアットをまともに受けた首は、もう左右に動かすだけで激痛が走る。ムーンサルトを受けた腹部は、深呼吸するたびに鈍い痛みを発する。

だが、それ以上に心地よい疲労感が身体を満たしていた。

これが、プロレスラーとしての充実感。肉体を極限まで使い切った証拠。

アドレナリンが切れ始め、痛みが明確になってくる。だが、それすらも心地良い。

三十分間、全力で戦った。手を抜かなかった。聖も、私も。

だからこそ、この痛みには価値がある。

トレーナーがアイシングの用意を持って入ってくる。私は黙って首を差し出した。

「カルマさん、今日の試合、最高でしたよ」

「……ありがとよ」

若手トレーナーの言葉に、私は珍しく素直に礼を言った。

シャワーを浴び、私服に着替えて裏口から出る。

ニット帽を目深に被り、マスクで顔を隠す。メイクは落としたが、目の周りの打撲は隠しきれない。サングラスをかけた。

人目を避けて乗り込んだタクシーの中で、震える指でスマートフォンを取り出した。

まだアドレナリンの残滓が身体を駆け巡っているのか、指先が微かに震えている。

メッセージアプリには、一件の新着通知。

『先に戻ってる。氷、買っておいて』

たったそれだけの短い文面。絵文字もスタンプもない。

けれど私には、その行間から滲み出る甘えと信頼が読み取れた。

「氷を買っておいて」ではなく「氷、買っておいて」。その微妙なニュアンスの違いに、彼女の疲労と、私への依存が表れている。

私は口元を緩ませ、運転手に行き先を告げた。

「〇〇町三丁目までお願いします」

タクシーが夜の東京を走る。窓の外を流れる街の灯りを眺めながら、私は今日の試合を反芻する。

あのムーンサルト、完璧だった。聖の技は年々、精度が上がっている。

私も負けていられない。明日からまた、身体を作り直さなければ。

リングという戦場を離れた私たちは、ただの傷だらけの恋人同士に戻る。

第4章 アイシングと熱情

都内某所、築十年のマンションの一室。表札には「早乙女・村上」と二つの名字が並んでいる。

ここが私たち――早乙女聖と村上むらかみほむら秘密の隠れ家セーフハウスだ。

鍵を開けて中に入ると、湿布独特のメントールの匂いと、甘いラベンダーのアロマオイルの香りが混ざり合っていた。

「おかえり、焔」

リビングのソファで、聖がぐったりと横たわっていた。

リング上の勇ましい「聖女・セイント」の姿はどこにもない。着古した大きめのグレーのTシャツ――私の古着だ――から覗く手足には、無数の痣とキネシオテーピングの跡がある。

彼女は私を見ると、子猫のように目を細めた。その表情に、リング上の獰猛さは微塵もない。

「ただいま、聖。……派手にやられたな」

「誰のせいだと思ってるの。焔のローキック、今日は特に容赦なかったじゃない。……あ痛っ」

聖が身体を起こそうとして、顔を歪める。

「動くな。今、冷やしてやる」

私はコンビニで買ってきたロックアイスの袋を持ち上げて見せた。聖が安堵したように息を吐く。

キッチンで氷を氷嚢アイスバッグに詰める。我が家には、プロレスラー用の大型氷嚢が常備されている。一般家庭にはまずない光景だ。

タオルと氷嚢を持って、聖の隣に座った。

彼女の太腿――私が第二ラウンドで執拗にローキックを見舞った箇所――を見る。ショートパンツから覗くその太腿は、紫と赤の痣で覆われていた。

「……やりすぎたかな」

「今更何言ってるの。これぐらい、いつものことでしょ」

聖は笑うが、その笑顔には疲労が滲んでいる。

私は太腿にタオルを敷き、その上から氷嚢を当てる。

「ん……つめた……」

「我慢しろ。明日の巡業に響くぞ。大阪だろ?新幹線で三時間座りっぱなしだ」

「うん……分かってる……」

冷たさに身をよじる聖の身体を片手で抑えながら、私はその痣を指先で優しくなぞった。

赤黒く変色した皮膚。所々、内出血が酷く、ほとんど黒に近い色になっている。それは私がつけた所有印マーキングだ。

罪悪感と、昏い独占欲が胸に広がる。

この痣は、明日には黄色く変色し、一週間もすれば消える。だが、その一週間の間、聖はこの痣を見るたびに、私のことを思い出すだろう。

それが、少し嬉しい。

「……ごめんな。痛かったろ」

「馬鹿ね。焔の技は、いつも的確で愛があるもの。ちゃんと計算されてる。……それに」

聖が身を起こし、私の首に腕を回した。

風呂上がりの彼女の髪から、フローラルシャンプーの香りが漂う。まだ少し湿っている髪が、私の頬に触れる。

「リングの上で、焔に組み敷かれている時が、一番生きてるって感じがするの。心臓が早鐘を打って、全身の神経が研ぎ澄まされて、世界がクリアに見える。……もっと壊してもいいのよ?」

「お前は本当に、どうしようもないドMだな」

「焔だけの、ね」

聖が私のマスクをずらし、唇を寄せてくる。

触れ合った唇は、熱を持っていた。まだ体温が下がりきっていない。

リング上での激しい衝突とは違う、砂糖菓子が溶けるような甘く、ねっとりとしたキス。

彼女の舌が私の唇を割り、口内に侵入してくる。私も舌を絡ませて応える。

唾液が混ざり合う。彼女の味がする。少し塩辛い。まだ汗の名残があるのだろう。

「ん……ぁ……焔……」

キスをしながら、聖の手が私の服の中に滑り込んでくる。

私の脇腹――彼女のラリアットをまともに受けた場所――を撫でられると、鈍い痛みが走った。けれど、その痛みさえもが快楽のスイッチに変わる。

「っ……そこ、まだ痛いんだけど」

「知ってる。だから触ってるの」

聖が意地悪く微笑む。

「私も……お前の技、効いたよ。まだジンジンする」

「ふふ、お揃いね。嬉しい」

聖が妖艶に微笑み、私をソファに押し倒した。

氷嚢が床に転がり、水が少しこぼれる。だが、それどころではない。

彼女の体重が私の上に乗る。三時間前、数千人の観客の前で私をフォールした時と同じ体勢。

けれど今、私たちの間にあるのは闘争本能ではない。

互いの傷を舐め合い、癒やし合い、確かめ合うための、静かで濃厚な愛欲だ。

「愛してるわ、私の悪役ヒールさん」

「……ああ。愛してるよ、私の聖女様」

私は彼女の腰に手を回し、そのしなやかで強靭な広背筋を掌で確かめるように引き寄せた。

ずしり、とした心地よい重量感が私の上にのしかかる。それは鍛え上げられたアスリートだけが持つ、密度の高い肉体の質量だ。

体脂肪率15パーセント。筋肉量48キロ。それが早乙女聖という女の身体だ。

Tシャツの裾から滑り込ませた私の指先が、彼女の脊柱起立筋の溝をなぞる。

指の腹に触れるのは、岩のように硬い筋肉の張り詰めと、その上を覆う女性的な皮下脂肪の柔らかさ。相反する二つの感触が、私の手の中で混ざり合う。

「ん……ぅ……そこ、効く……」

聖が吐息交じりに背中を反らすと、私の下腹部と彼女の下腹部が強く擦れ合った。

ゴリ、と互いの恥骨が当たる硬質な感覚。骨と骨の接触。

その接触点から、熱した蜜のような痺れが広がる。

私は彼女の太腿――数時間前に私が何度もブーツの底で踏みつけた場所――に唇を寄せた。

そこには紫色の内出血が、毒々しくも美しい花のように咲き乱れていた。

熱い。この痣だけが、周囲の皮膚よりも明らかに温度が高い。

破壊された毛細血管が再生しようとする生体反応の熱。私はその熱を舌先で舐め取った。

「あ……っ! 焔、だめ……痛い、のに……」

「嘘つけ。ここが一番、感じてるくせに」

「……んもう、意地悪……!」

私が甘噛みすると、聖の太腿の筋肉――大腿四頭筋――がビクンと痙攣し、私の肩に爪を立てた。

その痛みすらも愛おしい。明日、ここにも赤い三日月の痕が残るだろう。

筋肉の軋み、古傷の疼き、そして重なり合う二つの心臓の鼓動。

正常な神経なら悲鳴を上げるような痛覚のすべてが、私たちにとっては脳髄を溶かす媚薬へと変換されていく。

痛みは、私が彼女に触れたという確かな証拠ログ

傷跡は、私たちが互いの魂を削り合って刻んだ愛の軌跡。

聖の瞳が潤み、とろんと濁り始める。それはリング上でフォール負けを喫する直前の、すべてを諦め、すべてを受け入れた者の表情だ。

彼女は私の首筋に顔を埋め、獣のような唸り声を上げて腰を押し付けてくる。

「……3カウント、聞かせて。焔の中で」

その言葉は、敗北宣言ではなく、最上の求愛だった。

私は彼女の身体を抱き寄せ、寝室へと運ぶ。軽い。60キロ近い体重があるはずなのに、私の腕の中では驚くほど軽い。

それだけ、私も鍛えられているということだ。

ベッドに彼女を下ろし、私も隣に横たわる。

外からは、遠く救急車のサイレンが聞こえる。この街は眠らない。

だが、この部屋の中だけは、私たちだけの聖域だ。

私たちは今夜も、この狭く、汗と湿布の匂いが充満するベッドというリングの上で、もつれ合い、溶け合う。

レフェリーもいない、観客もいない、ゴングすら鳴らない果てしない延長戦。

意識が白く弾けるその瞬間まで、私たちは互いの痛みを貪り続ける。

明日また、世界中を敵に回して、愛し合うように殺し合うために。

窓の外では、もう夜が明け始めている。

だが、私たちの夜は、まだ終わらない。

(了)

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……   013:聖セシリアの沈黙する修道院

    第1章:沈黙の戒律と石の温度 聖セシリアの沈黙修道院は、雪に閉ざされた山脈の奥深くにあった。修道院の石造りの壁は、外気と同じ温度で冷たく、冬の間、院内を支配するのは、古いインセンスの微かな香りと、修道女たちの粗いウールの修道服が擦れる音だけだった。 シスター・クレマンスは、この修道院の戒律と沈黙を、誰よりも完璧に体現していた。彼女の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は決して地上のものに向けられることはない。彼女の所作は、一つの無駄もなく、完璧な献身というアルゴリズムで動いているかのようだった。その完璧な禁欲は、神への純粋な愛と、人間的な温もりへの恐れという、クレマンス自身の矛盾の上に成り立っていた。 彼女の主な役割は、古びた礼拝堂の聖具の手入れだった。彼女は、金箔の聖杯や、古い木製のロザリオといった、神に捧げられた人工物を、自分の肉体よりも丁寧に磨き上げた。なぜなら、それらは完璧であり、永遠に変わらないからだ。 ある雪の深い夜、一人の若い修道女が、この沈黙の修道院に加わった。シスター・テレーズ。彼女は、他の修道女たちと比べ、顔の表情が豊かで、喜びや驚きといった感情を、隠すことなく発する、異質な存在だった。 クレマンスは、戒律に従い、テレーズの指導役となった。聖具室での手入れの指導中、クレマンスはテレーズの手に触れた。その瞬間、クレマンスは思わず手を引いた。「テレーズ、なぜ貴女の手は、こんなにも温かいのですか?」 クレマンス自身の手は、長年の冷たい石の床と聖具の管理により、氷のように冷えていた。「ごめんなさい、クレマンス様。私は、まだ神の愛を、この身体で温めてしまうようです」 テレーズは、困ったように微笑んだ。その笑みは、クレマンスの完璧な沈黙の空間に、不必要なほど鮮やかな人間の色彩を持ち込んだ。クレマンスは、その温かい手の感触が、自分の禁欲のタペストリーに、一筋の乱れを生じさせたことに気づいていた。第2章:粗いウールと温かい手 テレーズは、クレマンスの厳格な指導にもかかわらず、どこか不器用だった。聖具の手入れ中、彼女は小さなミスを犯し、クレマンスの完璧な作業を何度も中断させた。 ある夕暮れ、二人きりの礼拝堂。窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を美しく照らしていた。 クレマンスは、テレーズに、古の修道女が着用していた粗いウールの下着を見せた。それ

  • ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……   012:砂漠のアルゴリズムと虚構のオアシス

    第1章:バグと虚構の砂漠 二酸化炭素の濃霧が漂う現実世界は、もはや生存のための砂漠だった。人々は、精神安定のために「オアシス」と呼ばれる超巨大仮想現実空間へと意識を逃がす。 霧島は、そのオアシスを専門に破壊するハッカーだった。現実では常に黒いフードを深く被り、愛を「論理的なバグ」と見なす極度のコミュニケーション不全者だ。彼女の任務は、オアシスの最深部に位置する人気エリア「永遠の泉」を破壊し、人々の依存を断ち切ること。 彼女の今日のターゲットは、その「永遠の泉」の設計者であり、オアシスで最も愛されているVRアーティスト、咲良(さくら)。 霧島は、自室のチェアに深く座り、神経インターフェースを装着した。視界が一瞬のノイズと共に切り替わり、目の前にオアシスの風景が広がる。 人工の太陽が輝き、空にはピンクとオレンジのグラデーション。目の前には、コード一本で無限に再生される、完璧な青い湖が揺れていた。「愛をデータ化するとは、悪趣味なバグだ」 霧島は、VR内のアバター(フード付きの白いパーカー姿)で、咲良の造った「永遠の泉」へと歩みを進めた。彼女のミッションは、泉の深部に仕掛けられた「感情のコアアルゴリズム」を破壊し、オアシス全域を機能停止させることだった。 泉のほとりには、咲良のアバターがいた。白い麻のワンピースを纏い、裸足で水面に立っている。そのアバターが纏う感情のコードは、海音のソナーのように、霧島の視界に複雑で、しかし調和した金色と薄緑色の波として映った。「あなた、ここで何を?」 咲良は、霧島に気づき、優雅に微笑んだ。その笑顔は、あまりに完璧で、霧島の脳内では『最大偽装(MAX_FALSITY)』という警告コードが点滅した。「バグチェックです。あなたの描く『愛』のロジックに、脆弱性がないか確認に来ました」「脆弱性? ふふ。私の愛は、人類の集合無意識を学習させた、最も強固なアルゴリズムで動いていますよ」 咲良は、一歩霧島に近づいた。VR内の二人の間に、現実世界ではありえない親密な距離が生まれる。「ねえ、あなた。バグを見つけるのもいいけど、たまにはこの世界の『美しさ』も感じてみたらどうですか」 咲良の手が、霧島のアバターの頬に触れた。VR空間では、触覚は精巧なフィードバックで伝わる。その指先から伝わる人工的な温かさが、霧島の神経インターフェー

  • ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……   011:深海ステレオフォニック

    第1章:音響技師と不協和音の海 深海研究都市ネオ・アトランティス。地表から五百メートルの水深に位置するこの都市は、厚いチタン合金のドームに守られ、外界の濁流と喧騒から完全に隔離されていた。 音響技師の海音(うみね)にとって、この場所は唯一の安息の地だった。彼女は生まれつき、極めて強い共感覚を持っていた。人の会話だけでなく、感情の起伏までもが、彼女の視界に色と音の波として押し寄せてくる。特に、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、耳をつんざくような不協和音と、濁った濃い赤や黒の色彩を伴って、彼女の思考を侵食した。 そのため、海音は人との関わりを極力避け、濁った不協和音の届かない深海探査船の管制室に籠もっていた。ここにいるのは、水圧と、彼女が扱うソナーの単調な信号音だけだ。「ソナー、異常なし。外殻に付着した生物の振動を確認。青みがかった三オクターブ、安定」 海音は、感情のない機械のような声で報告した。彼女が認識する音は、いつでも論理的で規則正しく、美しい。 そんな海音の管制室に、突然、騒がしく、しかし心地良い透明な緑色を伴うノックが響いた。ノイズの少ない、稀有な色だ。 入ってきたのは、深海ダイバーの淡水(あくあ)。鍛え上げられた身体に、深海作業用の分厚いウェットスーツを羽織っている。短く切り揃えられた黒髪から、一筋、水滴が滴り、チタン合金の床に落ちた。「海音ちゃん。今日のメンテナンス、手伝ってくれない? 探査艇の船底ソナーの調整だ」 淡水の声は、海音にとって、淡い、揺らぎのないターコイズブルーに見えた。澄んでいて、濁りがない。彼女の感情は、共感覚を持つ海音のフィルターを通しても、ごく平穏な波長しか持たなかった。「私は管制が専門です。ダイバーの仕事は――」「ソナーの波長を体で感じられるのは、君だけだろ? 地上にいる時より、水中の方が、君の共感覚は正確になる。知ってるよ」 淡水は、海音の目をまっすぐ見た。その瞳は、海底に沈んだ宝石のように深く、海音の心臓が、微かに不規則なリズムを刻む。淡水は、海音が最も信頼するダイバーだった。なぜなら、彼女の感情は常に安定しており、海音にとって「無色の沈黙」に近い存在だったからだ。第2章:光の波長と感情のデッドスポット 探査艇の船倉。海音は、淡水と共に、ソナーの調整作業に取り掛かっていた。 海音は、ドライスー

  • ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……   010:銀糸の不完全性(メメント・モリ)

    第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと

  • ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……   009:『雨宿りの陶(すえ)』

    第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不

  • ガールズ・ラブ短編集◆永遠に貴女と一緒に……   008:指先のレゾナンス

    第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status