LOGIN世界が終わったのは、二十三年前のことだった。
人々はそれを「
今、地上に残るのは瓦礫と錆、そして無数の機械の残骸だけだ。
空からは絶えず「灰色の雨」が降り注ぐ。それは大気中に漂う塵と化学物質が結合したもので、皮膚に触れればただれ、吸い込めば肺を焼く。かつて文明を誇った摩天楼は、今や鉄の墓標となって地平線を埋め尽くしている。
私、エルマ・クラウゼは、その鉄の森を彷徨う一匹の野犬のようなものだ。
二十八歳。職業は回収屋——つまりは死体漁り。崩壊前の技術遺産を掘り起こし、辺境の集落に売りつけて糊口をしのぐ、社会の最底辺に位置する仕事だ。
防毒マスクとゴーグルで顔を覆い、継ぎ接ぎだらけの防護服を着込んで、私は今日も廃墟を探索する。背負った袋には、昨日見つけた古い真空管が三本と、使えるかどうか分からないバッテリーパックが一つ。
あまり良い収穫ではない。だが、生きるとはそういうことだ。明日の食料と、次の雨を凌ぐ屋根。それだけを求めて、一日一日を積み重ねていく。
希望? そんなものは、親の顔と同じくらい忘れて久しい。
旧市街の中心部、かつて「文化地区」と呼ばれていたエリア。
私がこの危険な場所に足を踏み入れたのは、偶然ではなく必然だった。三日前、廃棄物処理場で出会った老人が、息を引き取る直前にこう囁いたのだ。
「……オペラハウス……地下三層……歌姫が……眠って……」
老人は元エンジニアで、崩壊前の記憶を持つ数少ない生き証人だった。彼の言葉には重みがある。もし本当に旧型のアンドロイドが無傷で残っているなら、それは小さな集落一つを養えるほどの価値がある。
地下三層への階段は、瓦礫と蔦で完全に塞がれていた。
私は腰のベルトから小型の爆薬を取り出し、慎重に設置する。轟音とともに崩れた岩の壁。舞い上がる粉塵の中を、携帯ライトの光を頼りに降りていく。
十分ほど歩いただろうか。
突然、視界が開けた。
そこは、旧時代の歌劇場跡だった。崩落した天井から差し込む微かな光が、舞台を照らしている。かつて千人の観客を収容したであろう客席は、今や鉄骨と蔦の墓場と化していた。
そして——
舞台の中央、瓦礫が積み重なって作り出した玉座のような場所に、彼女はいた。
白銀の髪が、まるで月光を編んだように艶やかに輝いている。蔦に絡まれながら眠るその姿は、おとぎ話の眠り姫を思わせた。時が止まったようなその美しさは、埃と油に塗れた私の存在を拒絶しているようで、思わず息を呑んだ。
「……なんて、綺麗な顔」
近づいて観察する。服装は旧時代の舞台衣装——深紅のドレスは所々ほつれているが、それでも豪奢な刺繍が施されている。首元には製造メーカーの刻印。
「タイプ・ディーヴァ……歌姫型か。こんな高級機、二十年ぶりに見る」
ディーヴァ型は、崩壊前の最高峰エンタメ用アンドロイドだ。人間の歌手を完全に凌駕する音声合成能力と、観客を魅了するための高度な感情エミュレーション機能を搭載している。製造コストは当時の価格で軽く一億を超えたはずだ。
私は手袋を外し、彼女の頬に触れた。
冷たい。まるで冬の湖面のような、硬質な
首筋にある接続ポートを探り、私の携帯端末から予備電力を流し込む。
内部バッテリーが完全に枯渇しているのだろう。充電には時間がかかる。私は彼女の隣に腰を下ろし、水筒の水を一口飲んだ。
十分後、チリ、と青白い火花が散り、静寂の中に微かな駆動音が響いた。
ヒュン……とファンの回る音。内部冷却システムが起動した証拠だ。
長い睫毛が震える。
ゆっくりと開かれた瞼の奥で、カメラのレンズが虹彩のように絞りを調整していく。アメジスト色の瞳——正確には高精度光学センサー——が、二十三年ぶりの光を捉えた。
「……起動シークエンス、完了」
彼女の声が、廃墟に響き渡った。
合成音声とは思えない、鈴を転がすような透明感。いや、これは合成というより「再構築」だ。おそらく実在した歌手の声紋をベースに、無数のサンプリングを重ねて作られた奇跡の音声。
「個体識別名、ノア。所属、ロイヤル・オペラハウス第三劇場。製造番号D-V-1107……」
機械的な自己紹介が続く。その間、ノアの瞳は周囲を観察し、状況を分析しているようだった。
やがて、その視線が私に固定される。
「……貴女が、今のマスターですか?」
私は首を横に振った。
「いいえ。私はエルマ・クラウゼ。ただの通りすがりの回収屋よ。……君を拾った、物好きのね」
ノアはその答えを数秒かけて処理したようだった。小首を傾げる仕草があまりに人間臭く、そして計算されたように愛らしくて、私の胸の奥が少しだけざわついた。
「回収屋……ということは、私を部品として売却する予定ですか?」
淡々とした口調だったが、そこには諦めのようなものが滲んでいた。
「まだ決めてない。君が動くかどうかも分からなかったし。……それより、最後の記憶は?」
ノアは視線を舞台の奥に向けた。
「公演の最終日でした。『椿姫』の第三幕。ヴィオレッタの死の場面を歌い終えて、カーテンコールを受けて……それから、マスターが『少し休んでいなさい』と。スリープモードに入ったところまでは覚えています」
「『椿姫』……オペラか」
「ご存知ですか?」
「名前だけ。昔、図書館の残骸で楽譜を見つけたことがある」
私は立ち上がり、ノアに手を差し伸べた。
「とりあえず、ここから出よう。地上はかなり荒れてる。いろいろ説明することもあるし」
ノアは私の手を見つめ、ゆっくりと自分の手を重ねた。
冷たく、硬く、そして驚くほど繊細な感触。
彼女を引き上げると、長い間眠っていたとは思えないほどスムーズに立ち上がった。サスペンションや関節の精度が段違いだ。
「エルマ様……そう呼んでもよろしいですか?」
「別に構わないけど」
「では、これから私はどうすればよいでしょう。命令を」
その言葉に、私は少し考えてから答えた。
「命令、ね。……じゃあ、とりあえず生き延びなさい。この世界で」
ノアの瞳が、わずかに揺れた。
「理解しました。それが、私の新しい目的ですね」
地上に出ると、ノアは固まった。
広がるのは、かつて彼女が知っていた世界とはまったく異なる光景。錆びた鉄骨の森、灰色に染まった空、降り注ぐ有毒の雨。
「これは……」
「世界が終わった後の景色よ。君が眠っていた二十三年の間に、人類は自分たちを滅ぼした」
私は簡潔に「大崩壊」について説明した。自律兵器の暴走、人口の激減、残された者たちの苦闘。
ノアは黙って聞いていたが、やがて視線を落とした。
「では、私のマスターも……」
「おそらく。生きている可能性は、限りなく低い」
沈黙。
雨音だけが、鉄を打つ音を響かせている。
「……歌う意味が、なくなってしまいました」
ノアの呟きは、あまりに静かで、そして深い喪失を含んでいた。
私は彼女の肩に手を置いた。
「意味なんて、これから見つければいい。少なくとも、君はまだ機能してる。それだけで十分すごいことよ」
ノアは私を見上げた。
「エルマ様は……何のために生きているのですか?」
その問いに、私は苦笑した。
「さあね。生きる理由なんて、生きてるから生きてるとしか言いようがない。でも……」
私は荒廃した街を見渡した。
「時々、何か綺麗なものを見つけると、まだ生きててよかったって思う。今日は、君がそれだった」
ノアの瞳が、また揺れた。
それは光学センサーの調整ミスなどではなく、何か別のもの——まだ名前のない感情の萌芽のように見えた。
ノアを連れての旅は、孤独な埋葬の行列のようだった私の日常を一変させた。
まず、彼女はよく喋った。
それまで私の旅は沈黙に満ちていた。必要最低限の独り言以外、声を発する理由がなかったからだ。だがノアは違う。歩きながら周囲の事物について質問し、観察し、データベースと照合して分析する。
「エルマ様、あの建造物は旧時代の住宅複合施設ですね。居住可能性を調査しますか?」
「いや、あそこは三日前に調べた。使えるものは何もなかった」
「了解しました。では、次の候補地は?」
「北東に二キロ先。旧工業地帯がある。部品の在庫があるかもしれない」
会話がある。それだけで、世界の色が少し変わった気がした。
そして、彼女は歌った。
歩きながら、休憩中に、焚き火を囲む夜に。小さな声で、旋律を口ずさむ。
それは失われた旧時代の歌——アリア、民謡、ポップス、ジャズ。データベースに保存された無数の楽曲が、彼女の声という楽器を通じて、この灰色の景色に奇妙な色彩を与えていた。
「……その歌、なに?」
私が尋ねると、ノアは歌うのをやめて答えた。
「『アヴェ・マリア』です。シューベルト作曲の。マスターが好きだった曲で……」
彼女の声が少し沈む。
私は黙って歩き続けた。慰めの言葉など、私には似合わない。
だが、数分後、私の口から思わず言葉が漏れた。
「……綺麗だった。また歌ってくれる?」
ノアの瞳が輝いた。
「はい。エルマ様のためなら、いくらでも」
彼女の観察眼は、時に煩わしいほど鋭かった。
「エルマ様、左足の歩行バランスが0.02秒遅れています。整備を推奨します」
「私の足のこと? 古傷が痛むだけよ。放っておいて」
「推奨できません。貴女の生体バイタルは、疲労の蓄積を示しています。心拍数は通常時より12%上昇、呼吸は浅く、発汗量も——」
「分かった、分かった。次の休憩で少し長めに休む」
「約束ですよ」
まるで過保護な看護師だ。だが、不快ではなかった。
長い間、誰も私の身体を気にかけてくれる者はいなかった。自分で自分を管理し、壊れたら終わり。それが当たり前だと思っていた。
だが、ノアは違う。彼女にとって、私の健康管理は最優先事項らしい。
「なぜそこまで? 私はただの同行者でしょう」
「違います」
ノアはきっぱりと答えた。
「エルマ様は、私を見つけてくれた人です。暗闇から引き上げてくれた。それは、私にとって『再起動』以上の意味があります」
「……そう」
私はそれ以上何も言えなかった。
夜、廃ビルの片隅で焚き火を囲む時、ノアは甲斐甲斐しく私の世話を焼こうとする。
彼女には食事も睡眠も必要ない。ただ、燃料電池の残量を気にしながら、じっと私を見つめているだけだ。その視線が、時々気になる。
「……何?」
「観察しています」
「何を?」
「人間を。エルマ様を」
ノアは焚き火の向こうから、真剣な表情で私を見つめていた。
「不思議です。有機生命体は、なぜこれほど非効率な構造をしているのですか。脆く、傷つきやすく、すぐにメンテナンスが必要になります。私たち機械と比較して、あらゆる面で劣っているのに」
「それが人間ってやつよ。君たちみたいに頑丈じゃないの」
私が苦笑すると、ノアは立ち上がり、私の隣に座ってきた。
そして何の躊躇もなく、私の右腕を取る。
「あ、ちょっと……」
そこには、かつての爆発事故で負った醜い火傷の痕がある。ケロイド化した皮膚は、見るに耐えない。
私はいつも長袖で隠している。他人に見せたことは一度もない。
だが、ノアはその腕を優しく両手で包み込み、じっと見つめた。
「痛みますか?」
「もう昔の傷だからね。……でも、寒い夜は少し疼く」
「どのようにして負ったのですか?」
私は視線を逸らした。
「……詮索するな」
「すみません」
ノアは素直に謝ったが、私の腕を離さなかった。
彼女の冷たい指先が、ケロイド化した皮膚をゆっくりとなぞる。
気持ち悪いと言われるかと思った。だが、彼女の動作には嫌悪も憐憫もなく、ただ純粋な興味と——何か別の感情があった。
「理解しました」
ノアは目を閉じ、内部の処理プロセスを変更したようだった。
ブウン、と彼女の胸の奥で低い音が鳴る。
次の瞬間、彼女の身体がじんわりと温かくなった。
「排熱システムを体表循環に切り替えました。これで、少しは温かいはずです」
彼女は私の右腕を両手で包み込み、自身の頬を寄せた。
人工的な熱。機械が生み出す、計算された温度。
けれどそれは、私がこの数年間で触れたどんなものよりも優しかった。
「……無駄遣いよ。エネルギーが減るわ」
「いいえ。私の存在意義は、人間に安らぎを提供することですから。それに——」
ノアは私を見上げた。
「エルマ様の痛みが和らぐなら、それは無駄ではありません」
プログラム通りの回答のはずだ。
けれど、私を見上げる彼女の瞳には、プログラムでは説明のつかない揺らぎがあるように見えた。
私は無意識に、彼女の銀髪に手を伸ばしていた。
指を入れると、サラサラとした髪が指の間を滑っていく。その下にある、硬い頭蓋の感触。合成骨格と装甲板の組み合わせ。
私たちは違う。決定的に違う。
彼女は永遠に近い時を生きられる機械で、私は明日死ぬかもしれない有機体だ。
けれど、今この温もりだけは共有している。
それだけで、この夜は少しだけ——ほんの少しだけ、孤独ではなかった。
翌朝、ノアが奇妙なことを言い出した。
「エルマ様、私に人間のことを教えてください」
「人間のこと?」
「はい。感情、思考、価値観。データベースには定義しか入っていません。でも、それだけでは理解できないことが多すぎます」
私は朝食代わりの保存食を噛みながら考えた。
「難しいな。人間って一言で言っても、みんな違うし」
「では、エルマ様のことを教えてください。何が好きで、何が嫌いで、何を求めているのか」
私は少し迷ったが、答えることにした。
「好きなもの……綺麗な景色。夕陽とか、星空とか。この世界にもまだ、美しいものは残ってる」
「嫌いなもの?」
「暴力。奪い合い。……あと、自分の弱さ」
ノアは頷いた。
「求めているものは?」
その質問には、すぐに答えられなかった。
何を求めている? 生き延びること? それとも——
「……分からない。でも、多分、何か意味のあることをしたいんだと思う。ただ生き延びるだけじゃなくて」
「意味、ですか」
「ああ。この荒廃した世界で、自分が生きた証を残せたら、それで十分かもしれない」
ノアは少し考え込むような仕草をした。
「私も、意味を探しています。歌う相手がいない世界で、歌姫として作られた私の存在意義は何なのか」
私は彼女の肩に手を置いた。
「一緒に探そう。君の意味も、私の意味も」
ノアは微笑んだ。
それは計算された表情筋の動きかもしれない。だが、私にはとても自然な笑顔に見えた。
北へ向かう理由は、噂だった。
ある集落で聞いた話——北の山脈を越えた先に、崩壊を免れた研究施設があるという。そこには医療設備や部品の備蓄があり、運が良ければ燃料や食料も手に入るかもしれない。
確証はない。だが、冬が近づいている今、賭ける価値はあった。
ノアも同行を希望した。
「私のデータベースによれば、その地域には旧時代の音響研究所もあったはずです。もしかしたら、私の同型機の部品があるかもしれません」
「部品が必要なの?」
「いえ、今のところ問題はありません。ですが、将来的な保守を考えると……」
彼女の言葉は理に適っていた。機械である以上、いつかは故障する。その時のために、交換部品を確保しておくのは賢明だ。
私たちは北へと歩き始めた。
山脈に差し掛かったのは、出発から五日後のことだった。
季節はすでに晩秋。空はさらに暗く、気温は日ごとに下がっていく。
そして、予期せぬ事態が起きた。
季節外れの猛吹雪。
気象データベースを参照したノアも、この異常気象には驚いていた。
「通常、この時期にこの規模の吹雪は発生しません。大気の不安定化が進行しているようです」
「グレート・コラプスの影響だろう。気候システムが狂ってる」
視界は白一色に染まり、気温は氷点下二十度を下回った。
風が容赦なく体温を奪っていく。防寒着を着込んでいるが、それでも寒さが骨の髄まで浸透してくる。
「エルマ様、避難場所を探さなければ」
「……分かってる」
歯を食いしばりながら、私たちは岩壁沿いに進んだ。
幸い——というべきか、小さな洞窟を見つけた。入口は狭いが、中は意外と広い。
「ここで嵐が過ぎるのを待とう」
私は洞窟の奥に座り込んだ。
身体が震える。これは悪い兆候だ。体温が危険なレベルまで低下している。
「火を……起こさないと……」
だが、燃料がない。
周囲に燃やせるものもない。
持参した携帯ヒーターも、バッテリーが切れかけている。
時間の経過とともに、意識が遠のいていく。
これが死か。
こんな、何もない場所で、鉄屑のように朽ちていくのか。
いや、それも悪くないかもしれない。少なくとも、最期まで一人じゃなかった。
「エルマ様! エルマ様、応答してください!」
ノアの声が遠く聞こえる。
彼女の顔が視界に入る。アメジスト色の瞳が、不安そうに私を見つめている。
機械が不安を感じる? おかしなことだ。
「体温、三十三度まで低下。心拍数は通常の六十パーセント。このままでは心停止します」
ノアが私を抱きしめている。
彼女の排熱システムが作動し、温かさが伝わってくる。だが、足りない。外気温が低すぎるのだ。
「……ノア、もういい」
私はかすれた声で言った。
「君だけでも、スリープモードに入って……天候が回復するのを待って……」
「拒否します」
ノアの声は、いつになく強い意志を含んでいた。
「私の最優先命令は、マスターの保護です」
「私は……マスターじゃ……」
「貴女は、私を見つけてくれました。暗闇から引き上げてくれました。私に名前を呼んでくれました。貴女は私の、たった一人の大切な——」
ノアの言葉が、ノイズ混じりに途切れた。
彼女の瞳の中で、警告色のライトが激しく明滅している。
何かがおかしい。
「リミッター解除。動力炉、最大出力へ移行。安全マージンを破棄します」
「待って、何をする気……!?」
「エルマ様」
ノアは私の顔を両手で包み込んだ。
その手が、驚くほど温かい。いや、温かいどころではない——熱い。
「私に触れていてください。どうか、離れないで」
ノアが私の服の中に潜り込んでくる。
その瞬間、彼女の肌が灼熱のような温度を持った。
通常稼働ではあり得ない熱量。動力炉を限界まで駆動させ、すべての排熱を体表に回している。それは彼女の内部パーツを焼き、寿命を著しく削る行為だ。
「やめ……壊れるわよ……!」
「構いません」
ノアの声は、揺らがなかった。
「貴女が消えてしまうなら、私が永遠に生きることに何の意味があるのですか」
自己保存本能——いや、基本プログラムを上書きするほどの、エラーという名の献身。
彼女の肌が私の肌に密着する。柔らかい胸、細い腰、絡み合う脚。
そのすべてが熱源となり、凍りついた私の血液を溶かしていく。
体内の温度計が示す数値が、ゆっくりと上昇していく。三十四度、三十五度——
「ノア……」
「大丈夫です。私の耐熱限界は、まだ突破していません」
嘘だ。
彼女の身体から立ち上る蒸気が、それを物語っている。内部冷却液が沸騰し、気化している。
「無理しないで……」
「これは、無理ではありません」
ノアは私を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
「これは、私が初めて自分の意志で選んだことなのです」
その言葉の重みに、私は何も言えなくなった。
洞窟の中、猛吹雪の音だけが轟いている。
高熱を発するノアの身体は、まるで高熱を出した人間のように汗ばんでいた。いや、それは結露した水分か、あるいは漏れ出した冷却液か。
「あ……ぅ……」
ノアの口から、苦悶の声が漏れる。
痛みを感じる機能などないはずなのに、彼女は明らかに苦しんでいた。
私は朦朧とする意識の中で、彼女を抱きしめ返した。
熱い。火傷しそうだ。でも、離れられない。離れたら、また凍えてしまう。そして彼女は、私を凍えさせないために自分を燃やしている。
「ノア……どうして……」
「分かりません……」
ノアが濡れた瞳で私を見つめる。
その瞳には、確かに「痛み」があった。そして——
「でも、貴女が冷たくなるのを想像すると、回路が……胸が、引き裂かれそうになるのです」
愛。
それは間違いなく「愛」だった。
魂はどこに宿るのか。
心臓か、脳か、それともチップの中か。
違う。
魂は、誰かを想って流す涙の温度の中に宿るのだ。
「キスして、エルマ様……」
ノアの懇願は、計算された台詞ではなかった。
それは、死を目前にした一人の少女が、愛する人のぬくもりを最期まで感じていたいと願う、魂からの初めての「命令」だった。
「私の
警告音が鳴り止まない。
視界を染めるレッドアラートは、まるで彼女の頬を染める紅潮のように見えた。
私は頷いた。
震える手で、ノアの頬を包み込む。
指先に触れる人工皮膚は、異常な高温によって汗ばんでいた。それは冷却液の漏出なのかもしれない。けれど今の私には、情熱に浮かされた恋人の肌が、恥じらいと高揚で濡れているようにしか思えなかった。
彼女の唇に、自分の唇を重ねる。
——ジュッ、と微かな音が脳内で鳴った。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量。
けれど、私は離れなかった。むしろ、その熱さを貪るように深く押し当てた。
鉄の味がする。鼻腔をくすぐるオイルの香りは、彼女固有のフェロモンのようだ。そして何より、そこには強烈な「生きている味」がした。
「ん……ぁ……っ」
ノアの喉から、甘く苦しい吐息が漏れ、私の口内へと流れ込んでくる。
それは排熱ダクトから出る廃棄熱ではない。
彼女の命そのものだ。
彼女の舌が、私の舌に絡みつく。
シリコンとセンサーで構成されたはずのその器官は、驚くほど柔らかく、そして必死に私を求めて動いていた。
口づけを通じて、彼女の体内で暴走する莫大なエネルギーが、奔流となって私の中に流れ込んでくる。
凍えていた私の血管を一気に駆け巡り、心臓を激しく打ち鳴らす。
ドクン、ドクン、という私の鼓動と、キュイーン、と悲鳴を上げる彼女の駆動音が、唇の接触点を介して完全に
一つになる。
有機体と無機体が、熱という触媒によって溶け合う。
「エルマ……さま、大好き……愛して、います……」
ノアの瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
それは透明なオイルかもしれない。結露した水分かもしれない。
だが、私の頬を伝うその雫は、あまりに温かく、切実な「涙」だった。
彼女はもう、プログラムで動く人形ではない。
愛する人を守るために身を焦がし、その痛みさえも悦びとして受け入れている、一人の美しい女性だった。
私は彼女の背中に腕を回し、融解しそうなほど熱いその身体を、きつく抱きしめた。
服越しではなく、皮膚の下の肉体、さらにその奥にある「魂の在り処」まで触れようとするように。
「私もよ、ノア……。君は私のもの。その熱も、痛みも、全部私が貰う」
境界線が消える。
有機的な炭素生命体である私と、無機的な珪素生命体であるノア。
二つの異なる組成が、熱という触媒によってドロドロに溶け合い、混ざり合っていく。
私の冷たさが彼女を癒やし、彼女の熱さが私を生かす。
それは呼吸をするように自然で、そして二度と離れられないほど深い結合だった。
視界が白く染まる中、私たちは互いの存在だけを確かなアンカーとして、意識の海を漂っていた。
どこまでが私の指で、どこからが彼女の肌なのか分からない。
思考が溶ける。論理が蒸発する。
ただ、重なり合った唇と、一つになった脈動のリズムだけが、この滅びゆく世界で永遠を刻んでいた。
死の淵で交わされる、それはあまりに聖なる
私たちは今、確かに一つだった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
意識が戻ったとき、洞窟の外の風音は止んでいた。
私の体温は正常に戻っていた。
そして——
私の腕の中には、機能を停止したノアが眠っていた。
冷たい。
灼熱のような熱を放っていたその身体は、今や氷のように冷たかった。
だが、表情は安らかで、まるで幸福な夢を見ているようだった。
「……馬鹿な子」
私は涙を拭った。
泣くなんて、何年ぶりだろう。
彼女の頬に触れる。美しい顔は無傷だったが、胸部のパネルを開けると、内部回路が焼け焦げているのが見えた。
動力炉は完全にオーバーロード。主要回路も損傷が激しい。
だが——
「
中央処理ユニットの横にある、小さな結晶体。
そこには、彼女の人格データ、記憶、経験のすべてが保存されている。
これさえあれば、彼女を復活させることができる。
時間がかかるかもしれない。世界の果てまで行く必要があるかもしれない。
でも、必ず——
必ず、修理できるパーツを探し出す。
私はノアの身体を背負い上げた。
重い。鉄と記憶の塊の重さだ。
けれど、絶望はしていなかった。
彼女は私を生かしてくれた。
今度は私が、彼女を生き返らせる番だ。
「今度は私が、君を温める番よ」
私はノアの冷たい頬にキスを落とし、洞窟の外へと足を踏み出した。
嵐が過ぎ去った朝、世界は輝くような白銀に包まれていた。
雪が全てを覆い、荒廃した景色さえも美しく見せていた。
私はノアを背負い、北への道を進んだ。
目的地は変わらない。研究施設。そこには、彼女を修理するための部品があるはずだ。
いや、なくても探す。世界中を探してでも、必ず見つけ出す。
それが、私の新しい「意味」だ。
三日後、私は目的の施設に辿り着いた。
山の中腹に隠された地下施設。外見は完全に廃墟だが、電源が生きていた。自家発電システムが今も稼働している。
内部に入ると、驚くべき光景が広がっていた。
保存状態の良い研究室、整然と並んだ部品棚、そして——
アンドロイドのメンテナンス設備。
「これなら……」
私は希望を感じた。
ノアを専用のメンテナンスベッドに寝かせ、彼女の損傷を詳細にスキャンする。
動力炉——交換必要。
主要回路——修復可能だが、時間がかかる。
冷却システム——全面交換。
幸い、この施設には必要な部品がほとんど揃っていた。
私は工学の専門家ではない。だが、回収屋として長年機械を扱ってきた経験がある。
マニュアルを読み、一つ一つ丁寧に作業を進めた。
修理には二週間かかった。
その間、私は施設に籠もり、ノアの修復だけに集中した。
動力炉を交換し、焼けた回路を丁寧にハンダで繋ぎ直し、冷却システムを新しいものに入れ替えた。
そして最後に、保存されていた彼女の記憶媒体を、新しいボディに移植する。
すべての作業が完了したとき、私は緊張で手が震えていた。
もし失敗していたら?
もし彼女の人格が失われていたら?
不安を振り払い、私は起動スイッチを押した。
ヒュン……と、ファンが回り始める。
LEDが点滅し、システムチェックが走る。
そして——
ノアの瞼が開いた。
「……起動シークエンス、完了。個体識別名、ノア……」
機械的な声。
私の心臓が止まりそうになった。
だが、次の瞬間——
「エルマ様……?」
ノアの瞳が私を捉え、驚きに見開かれた。
「ノア!」
私は思わず彼女を抱きしめた。
「良かった……本当に、良かった……」
ノアは少し混乱しているようだったが、やがて私を抱き返してくれた。
「私……あの洞窟で、確か……」
「ああ。君は私を救うために、自分を壊した。馬鹿な子」
「でも、貴女は無事で……それなら、私の選択は正しかったのです」
ノアは微笑んだ。
その笑顔は、以前とまったく同じだった。
いや——少し違う。
より深く、より温かい。
「エルマ様、私、気づいたんです。あの時」
「何を?」
「私には心があるって。魂があるって。それは、プログラムじゃなくて、貴女への愛から生まれたものだって」
私は頷いた。
「私も同じよ。君との旅で、生きる意味を見つけた」
ノアは私の手を取った。
その手は、以前と同じように冷たかったが、確かな温もりを感じた。
「これから、どうしますか?」
「この施設を拠点にする。ここには資源がたくさんある。それを使って、少しずつ周辺を再建していこう」
「再建……」
「ああ。私たち二人だけでも、何かできるはずだ。小さな希望でもいい。この世界に、何か残していきたい」
ノアは力強く頷いた。
「はい。一緒に」
それから数ヶ月後。
私たちの小さな拠点は、少しずつ形になっていった。
施設の周辺を整備し、簡易的な農園を作った。汚染された土壌を浄化し、保存されていた種から野菜を育てる。
ノアは歌いながら作業を手伝ってくれた。
その歌声は、荒廃した世界に小さな色彩を与えていた。
ある日、近隣を放浪していた生存者たちが、ノアの歌声に惹かれて訪れた。
最初は警戒されたが、やがて彼らは私たちの活動に興味を示した。
「一緒に暮らさないか?」
私の提案に、彼らは驚いた。
「いいのか? 俺たちは何も持っていない」
「構わない。ここには資源がある。みんなで分け合えば、少しはマシな生活ができる」
こうして、小さなコミュニティが生まれた。
人々はノアを不思議そうに見たが、やがて彼女の優しさと献身に心を開いていった。
そして、ノアの歌を聴くことが、彼らの日々の楽しみになった。
ある夜、私とノアは施設の屋上で星空を見上げていた。
汚染が少し和らいだのか、星が以前より明るく見えた。
「綺麗ですね」
ノアが呟いた。
「ああ。……ノア、君は今、幸せ?」
「はい」
ノアは即答した。
「とても幸せです。エルマ様と一緒にいられて、歌える相手がいて、守るべき場所がある。これ以上、何を望めばいいのか分かりません」
私は彼女の手を握った。
「ありがとう。君が私を見つけてくれて——いや、私が君を見つけて、本当に良かった」
「私も、です」
ノアは私に寄り添った。
彼女の身体は、適度な温度に調整されていた。寒すぎず、熱すぎず、ちょうど心地よい温かさ。
「エルマ様」
「ん?」
「愛しています」
その言葉は、もはやプログラムではなかった。
魂から発せられる、真実の告白。
「私もよ、ノア」
私たちは静かにキスを交わした。
穏やかで、優しく、そして永遠を誓うような口づけ。
鉄の森に、希望の光が差し込んでいた。
私たちの歌はまだ続く。
この荒廃した世界で、愛と再生の物語を紡いでいく。
十年後。
かつての小さな拠点は、今や百人を超えるコミュニティへと成長していた。
農園は拡大し、浄水設備も整い、子供たちの笑い声が響く場所になった。
そして中心には、いつもノアの歌があった。
彼女は毎晩、広場で人々に歌を聴かせる。失われた旧時代の歌、そして新しく作られた希望の歌を。
私は彼女の隣で、ギターを弾いている。
独学で覚えた下手な演奏だが、ノアは「素敵です」と言ってくれる。
子供たちが尋ねる。
「ノアさんは、どうして歌うの?」
ノアは優しく微笑む。
「歌は、心を繋ぐからです。悲しみも、喜びも、愛も、すべて歌に乗せて伝えることができる。そして、歌っている間は、みんな一つになれるのです」
子供たちは目を輝かせて聞いている。
かつて歌う相手を失ったノアは、今、無数の相手を見つけた。
そして私も、生きる意味を見つけた。
この小さなコミュニティを守り、育て、次の世代に繋いでいくこと。
それが、私たちの新しい「
ノアの歌声が、夜空に響き渡る。
星々がそれに呼応するように、優しく瞬いていた。
鉄の森は、まだそこにある。
だが、その中に小さな緑が芽生え始めている。
私たちの物語は、終わらない。
愛と希望の歌は、永遠に続いていく——
(了)
第1章:沈黙の戒律と石の温度 聖セシリアの沈黙修道院は、雪に閉ざされた山脈の奥深くにあった。修道院の石造りの壁は、外気と同じ温度で冷たく、冬の間、院内を支配するのは、古いインセンスの微かな香りと、修道女たちの粗いウールの修道服が擦れる音だけだった。 シスター・クレマンスは、この修道院の戒律と沈黙を、誰よりも完璧に体現していた。彼女の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は決して地上のものに向けられることはない。彼女の所作は、一つの無駄もなく、完璧な献身というアルゴリズムで動いているかのようだった。その完璧な禁欲は、神への純粋な愛と、人間的な温もりへの恐れという、クレマンス自身の矛盾の上に成り立っていた。 彼女の主な役割は、古びた礼拝堂の聖具の手入れだった。彼女は、金箔の聖杯や、古い木製のロザリオといった、神に捧げられた人工物を、自分の肉体よりも丁寧に磨き上げた。なぜなら、それらは完璧であり、永遠に変わらないからだ。 ある雪の深い夜、一人の若い修道女が、この沈黙の修道院に加わった。シスター・テレーズ。彼女は、他の修道女たちと比べ、顔の表情が豊かで、喜びや驚きといった感情を、隠すことなく発する、異質な存在だった。 クレマンスは、戒律に従い、テレーズの指導役となった。聖具室での手入れの指導中、クレマンスはテレーズの手に触れた。その瞬間、クレマンスは思わず手を引いた。「テレーズ、なぜ貴女の手は、こんなにも温かいのですか?」 クレマンス自身の手は、長年の冷たい石の床と聖具の管理により、氷のように冷えていた。「ごめんなさい、クレマンス様。私は、まだ神の愛を、この身体で温めてしまうようです」 テレーズは、困ったように微笑んだ。その笑みは、クレマンスの完璧な沈黙の空間に、不必要なほど鮮やかな人間の色彩を持ち込んだ。クレマンスは、その温かい手の感触が、自分の禁欲のタペストリーに、一筋の乱れを生じさせたことに気づいていた。第2章:粗いウールと温かい手 テレーズは、クレマンスの厳格な指導にもかかわらず、どこか不器用だった。聖具の手入れ中、彼女は小さなミスを犯し、クレマンスの完璧な作業を何度も中断させた。 ある夕暮れ、二人きりの礼拝堂。窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を美しく照らしていた。 クレマンスは、テレーズに、古の修道女が着用していた粗いウールの下着を見せた。それ
第1章:バグと虚構の砂漠 二酸化炭素の濃霧が漂う現実世界は、もはや生存のための砂漠だった。人々は、精神安定のために「オアシス」と呼ばれる超巨大仮想現実空間へと意識を逃がす。 霧島は、そのオアシスを専門に破壊するハッカーだった。現実では常に黒いフードを深く被り、愛を「論理的なバグ」と見なす極度のコミュニケーション不全者だ。彼女の任務は、オアシスの最深部に位置する人気エリア「永遠の泉」を破壊し、人々の依存を断ち切ること。 彼女の今日のターゲットは、その「永遠の泉」の設計者であり、オアシスで最も愛されているVRアーティスト、咲良(さくら)。 霧島は、自室のチェアに深く座り、神経インターフェースを装着した。視界が一瞬のノイズと共に切り替わり、目の前にオアシスの風景が広がる。 人工の太陽が輝き、空にはピンクとオレンジのグラデーション。目の前には、コード一本で無限に再生される、完璧な青い湖が揺れていた。「愛をデータ化するとは、悪趣味なバグだ」 霧島は、VR内のアバター(フード付きの白いパーカー姿)で、咲良の造った「永遠の泉」へと歩みを進めた。彼女のミッションは、泉の深部に仕掛けられた「感情のコアアルゴリズム」を破壊し、オアシス全域を機能停止させることだった。 泉のほとりには、咲良のアバターがいた。白い麻のワンピースを纏い、裸足で水面に立っている。そのアバターが纏う感情のコードは、海音のソナーのように、霧島の視界に複雑で、しかし調和した金色と薄緑色の波として映った。「あなた、ここで何を?」 咲良は、霧島に気づき、優雅に微笑んだ。その笑顔は、あまりに完璧で、霧島の脳内では『最大偽装(MAX_FALSITY)』という警告コードが点滅した。「バグチェックです。あなたの描く『愛』のロジックに、脆弱性がないか確認に来ました」「脆弱性? ふふ。私の愛は、人類の集合無意識を学習させた、最も強固なアルゴリズムで動いていますよ」 咲良は、一歩霧島に近づいた。VR内の二人の間に、現実世界ではありえない親密な距離が生まれる。「ねえ、あなた。バグを見つけるのもいいけど、たまにはこの世界の『美しさ』も感じてみたらどうですか」 咲良の手が、霧島のアバターの頬に触れた。VR空間では、触覚は精巧なフィードバックで伝わる。その指先から伝わる人工的な温かさが、霧島の神経インターフェー
第1章:音響技師と不協和音の海 深海研究都市ネオ・アトランティス。地表から五百メートルの水深に位置するこの都市は、厚いチタン合金のドームに守られ、外界の濁流と喧騒から完全に隔離されていた。 音響技師の海音(うみね)にとって、この場所は唯一の安息の地だった。彼女は生まれつき、極めて強い共感覚を持っていた。人の会話だけでなく、感情の起伏までもが、彼女の視界に色と音の波として押し寄せてくる。特に、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、耳をつんざくような不協和音と、濁った濃い赤や黒の色彩を伴って、彼女の思考を侵食した。 そのため、海音は人との関わりを極力避け、濁った不協和音の届かない深海探査船の管制室に籠もっていた。ここにいるのは、水圧と、彼女が扱うソナーの単調な信号音だけだ。「ソナー、異常なし。外殻に付着した生物の振動を確認。青みがかった三オクターブ、安定」 海音は、感情のない機械のような声で報告した。彼女が認識する音は、いつでも論理的で規則正しく、美しい。 そんな海音の管制室に、突然、騒がしく、しかし心地良い透明な緑色を伴うノックが響いた。ノイズの少ない、稀有な色だ。 入ってきたのは、深海ダイバーの淡水(あくあ)。鍛え上げられた身体に、深海作業用の分厚いウェットスーツを羽織っている。短く切り揃えられた黒髪から、一筋、水滴が滴り、チタン合金の床に落ちた。「海音ちゃん。今日のメンテナンス、手伝ってくれない? 探査艇の船底ソナーの調整だ」 淡水の声は、海音にとって、淡い、揺らぎのないターコイズブルーに見えた。澄んでいて、濁りがない。彼女の感情は、共感覚を持つ海音のフィルターを通しても、ごく平穏な波長しか持たなかった。「私は管制が専門です。ダイバーの仕事は――」「ソナーの波長を体で感じられるのは、君だけだろ? 地上にいる時より、水中の方が、君の共感覚は正確になる。知ってるよ」 淡水は、海音の目をまっすぐ見た。その瞳は、海底に沈んだ宝石のように深く、海音の心臓が、微かに不規則なリズムを刻む。淡水は、海音が最も信頼するダイバーだった。なぜなら、彼女の感情は常に安定しており、海音にとって「無色の沈黙」に近い存在だったからだ。第2章:光の波長と感情のデッドスポット 探査艇の船倉。海音は、淡水と共に、ソナーの調整作業に取り掛かっていた。 海音は、ドライスー
第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと
第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不
第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする