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003:鉄の森の聖歌(オラトリオ)

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-14 04:29:44

序章 灰色の世界

 世界が終わったのは、二十三年前のことだった。

 人々はそれを「大崩壊グレート・コラプス」と呼んだ。自律型兵器の制御システムが暴走し、わずか七十二時間で人類の九割が消失した。生き残った者たちは地下に潜り、やがてそこでも飢えと病で数を減らしていった。

 今、地上に残るのは瓦礫と錆、そして無数の機械の残骸だけだ。

 空からは絶えず「灰色の雨」が降り注ぐ。それは大気中に漂う塵と化学物質が結合したもので、皮膚に触れればただれ、吸い込めば肺を焼く。かつて文明を誇った摩天楼は、今や鉄の墓標となって地平線を埋め尽くしている。

 私、エルマ・クラウゼは、その鉄の森を彷徨う一匹の野犬のようなものだ。

 二十八歳。職業は回収屋——つまりは死体漁り。崩壊前の技術遺産を掘り起こし、辺境の集落に売りつけて糊口をしのぐ、社会の最底辺に位置する仕事だ。

 防毒マスクとゴーグルで顔を覆い、継ぎ接ぎだらけの防護服を着込んで、私は今日も廃墟を探索する。背負った袋には、昨日見つけた古い真空管が三本と、使えるかどうか分からないバッテリーパックが一つ。

 あまり良い収穫ではない。だが、生きるとはそういうことだ。明日の食料と、次の雨を凌ぐ屋根。それだけを求めて、一日一日を積み重ねていく。

 希望? そんなものは、親の顔と同じくらい忘れて久しい。

第一章 瓦礫の中の歌姫

1

 旧市街の中心部、かつて「文化地区」と呼ばれていたエリア。

 私がこの危険な場所に足を踏み入れたのは、偶然ではなく必然だった。三日前、廃棄物処理場で出会った老人が、息を引き取る直前にこう囁いたのだ。

「……オペラハウス……地下三層……歌姫が……眠って……」

 老人は元エンジニアで、崩壊前の記憶を持つ数少ない生き証人だった。彼の言葉には重みがある。もし本当に旧型のアンドロイドが無傷で残っているなら、それは小さな集落一つを養えるほどの価値がある。

 地下三層への階段は、瓦礫と蔦で完全に塞がれていた。

 私は腰のベルトから小型の爆薬を取り出し、慎重に設置する。轟音とともに崩れた岩の壁。舞い上がる粉塵の中を、携帯ライトの光を頼りに降りていく。

 十分ほど歩いただろうか。

 突然、視界が開けた。

 そこは、旧時代の歌劇場跡だった。崩落した天井から差し込む微かな光が、舞台を照らしている。かつて千人の観客を収容したであろう客席は、今や鉄骨と蔦の墓場と化していた。

 そして——

 舞台の中央、瓦礫が積み重なって作り出した玉座のような場所に、彼女はいた。

 白銀の髪が、まるで月光を編んだように艶やかに輝いている。蔦に絡まれながら眠るその姿は、おとぎ話の眠り姫を思わせた。時が止まったようなその美しさは、埃と油に塗れた私の存在を拒絶しているようで、思わず息を呑んだ。

「……なんて、綺麗な顔」

 近づいて観察する。服装は旧時代の舞台衣装——深紅のドレスは所々ほつれているが、それでも豪奢な刺繍が施されている。首元には製造メーカーの刻印。

「タイプ・ディーヴァ……歌姫型か。こんな高級機、二十年ぶりに見る」

 ディーヴァ型は、崩壊前の最高峰エンタメ用アンドロイドだ。人間の歌手を完全に凌駕する音声合成能力と、観客を魅了するための高度な感情エミュレーション機能を搭載している。製造コストは当時の価格で軽く一億を超えたはずだ。

2

 私は手袋を外し、彼女の頬に触れた。

 冷たい。まるで冬の湖面のような、硬質な人工皮膚シリコンの感触。だが表面は驚くほど滑らかで、人間の肌と見分けがつかない。

 首筋にある接続ポートを探り、私の携帯端末から予備電力を流し込む。

 内部バッテリーが完全に枯渇しているのだろう。充電には時間がかかる。私は彼女の隣に腰を下ろし、水筒の水を一口飲んだ。

 十分後、チリ、と青白い火花が散り、静寂の中に微かな駆動音が響いた。

 ヒュン……とファンの回る音。内部冷却システムが起動した証拠だ。

 長い睫毛が震える。

 ゆっくりと開かれた瞼の奥で、カメラのレンズが虹彩のように絞りを調整していく。アメジスト色の瞳——正確には高精度光学センサー——が、二十三年ぶりの光を捉えた。

「……起動シークエンス、完了」

 彼女の声が、廃墟に響き渡った。

 合成音声とは思えない、鈴を転がすような透明感。いや、これは合成というより「再構築」だ。おそらく実在した歌手の声紋をベースに、無数のサンプリングを重ねて作られた奇跡の音声。

「個体識別名、ノア。所属、ロイヤル・オペラハウス第三劇場。製造番号D-V-1107……」

 機械的な自己紹介が続く。その間、ノアの瞳は周囲を観察し、状況を分析しているようだった。

 やがて、その視線が私に固定される。

「……貴女が、今のマスターですか?」

 私は首を横に振った。

「いいえ。私はエルマ・クラウゼ。ただの通りすがりの回収屋よ。……君を拾った、物好きのね」

 ノアはその答えを数秒かけて処理したようだった。小首を傾げる仕草があまりに人間臭く、そして計算されたように愛らしくて、私の胸の奥が少しだけざわついた。

「回収屋……ということは、私を部品として売却する予定ですか?」

 淡々とした口調だったが、そこには諦めのようなものが滲んでいた。

「まだ決めてない。君が動くかどうかも分からなかったし。……それより、最後の記憶は?」

 ノアは視線を舞台の奥に向けた。

「公演の最終日でした。『椿姫』の第三幕。ヴィオレッタの死の場面を歌い終えて、カーテンコールを受けて……それから、マスターが『少し休んでいなさい』と。スリープモードに入ったところまでは覚えています」

「『椿姫』……オペラか」

「ご存知ですか?」

「名前だけ。昔、図書館の残骸で楽譜を見つけたことがある」

 私は立ち上がり、ノアに手を差し伸べた。

「とりあえず、ここから出よう。地上はかなり荒れてる。いろいろ説明することもあるし」

 ノアは私の手を見つめ、ゆっくりと自分の手を重ねた。

 冷たく、硬く、そして驚くほど繊細な感触。

 彼女を引き上げると、長い間眠っていたとは思えないほどスムーズに立ち上がった。サスペンションや関節の精度が段違いだ。

「エルマ様……そう呼んでもよろしいですか?」

「別に構わないけど」

「では、これから私はどうすればよいでしょう。命令を」

 その言葉に、私は少し考えてから答えた。

「命令、ね。……じゃあ、とりあえず生き延びなさい。この世界で」

 ノアの瞳が、わずかに揺れた。

「理解しました。それが、私の新しい目的ですね」

3

 地上に出ると、ノアは固まった。

 広がるのは、かつて彼女が知っていた世界とはまったく異なる光景。錆びた鉄骨の森、灰色に染まった空、降り注ぐ有毒の雨。

「これは……」

「世界が終わった後の景色よ。君が眠っていた二十三年の間に、人類は自分たちを滅ぼした」

 私は簡潔に「大崩壊」について説明した。自律兵器の暴走、人口の激減、残された者たちの苦闘。

 ノアは黙って聞いていたが、やがて視線を落とした。

「では、私のマスターも……」

「おそらく。生きている可能性は、限りなく低い」

 沈黙。

 雨音だけが、鉄を打つ音を響かせている。

「……歌う意味が、なくなってしまいました」

 ノアの呟きは、あまりに静かで、そして深い喪失を含んでいた。

 私は彼女の肩に手を置いた。

「意味なんて、これから見つければいい。少なくとも、君はまだ機能してる。それだけで十分すごいことよ」

 ノアは私を見上げた。

「エルマ様は……何のために生きているのですか?」

 その問いに、私は苦笑した。

「さあね。生きる理由なんて、生きてるから生きてるとしか言いようがない。でも……」

 私は荒廃した街を見渡した。

「時々、何か綺麗なものを見つけると、まだ生きててよかったって思う。今日は、君がそれだった」

 ノアの瞳が、また揺れた。

 それは光学センサーの調整ミスなどではなく、何か別のもの——まだ名前のない感情の萌芽のように見えた。

第二章 体温の模倣

1

 ノアを連れての旅は、孤独な埋葬の行列のようだった私の日常を一変させた。

 まず、彼女はよく喋った。

 それまで私の旅は沈黙に満ちていた。必要最低限の独り言以外、声を発する理由がなかったからだ。だがノアは違う。歩きながら周囲の事物について質問し、観察し、データベースと照合して分析する。

「エルマ様、あの建造物は旧時代の住宅複合施設ですね。居住可能性を調査しますか?」

「いや、あそこは三日前に調べた。使えるものは何もなかった」

「了解しました。では、次の候補地は?」

「北東に二キロ先。旧工業地帯がある。部品の在庫があるかもしれない」

 会話がある。それだけで、世界の色が少し変わった気がした。

2

 そして、彼女は歌った。

 歩きながら、休憩中に、焚き火を囲む夜に。小さな声で、旋律を口ずさむ。

 それは失われた旧時代の歌——アリア、民謡、ポップス、ジャズ。データベースに保存された無数の楽曲が、彼女の声という楽器を通じて、この灰色の景色に奇妙な色彩を与えていた。

「……その歌、なに?」

 私が尋ねると、ノアは歌うのをやめて答えた。

「『アヴェ・マリア』です。シューベルト作曲の。マスターが好きだった曲で……」

 彼女の声が少し沈む。

 私は黙って歩き続けた。慰めの言葉など、私には似合わない。

 だが、数分後、私の口から思わず言葉が漏れた。

「……綺麗だった。また歌ってくれる?」

 ノアの瞳が輝いた。

「はい。エルマ様のためなら、いくらでも」

3

 彼女の観察眼は、時に煩わしいほど鋭かった。

「エルマ様、左足の歩行バランスが0.02秒遅れています。整備を推奨します」

「私の足のこと? 古傷が痛むだけよ。放っておいて」

「推奨できません。貴女の生体バイタルは、疲労の蓄積を示しています。心拍数は通常時より12%上昇、呼吸は浅く、発汗量も——」

「分かった、分かった。次の休憩で少し長めに休む」

「約束ですよ」

 まるで過保護な看護師だ。だが、不快ではなかった。

 長い間、誰も私の身体を気にかけてくれる者はいなかった。自分で自分を管理し、壊れたら終わり。それが当たり前だと思っていた。

 だが、ノアは違う。彼女にとって、私の健康管理は最優先事項らしい。

「なぜそこまで? 私はただの同行者でしょう」

「違います」

 ノアはきっぱりと答えた。

「エルマ様は、私を見つけてくれた人です。暗闇から引き上げてくれた。それは、私にとって『再起動』以上の意味があります」

「……そう」

 私はそれ以上何も言えなかった。

4

 夜、廃ビルの片隅で焚き火を囲む時、ノアは甲斐甲斐しく私の世話を焼こうとする。

 彼女には食事も睡眠も必要ない。ただ、燃料電池の残量を気にしながら、じっと私を見つめているだけだ。その視線が、時々気になる。

「……何?」

「観察しています」

「何を?」

「人間を。エルマ様を」

 ノアは焚き火の向こうから、真剣な表情で私を見つめていた。

「不思議です。有機生命体は、なぜこれほど非効率な構造をしているのですか。脆く、傷つきやすく、すぐにメンテナンスが必要になります。私たち機械と比較して、あらゆる面で劣っているのに」

「それが人間ってやつよ。君たちみたいに頑丈じゃないの」

 私が苦笑すると、ノアは立ち上がり、私の隣に座ってきた。

 そして何の躊躇もなく、私の右腕を取る。

「あ、ちょっと……」

 そこには、かつての爆発事故で負った醜い火傷の痕がある。ケロイド化した皮膚は、見るに耐えない。

 私はいつも長袖で隠している。他人に見せたことは一度もない。

 だが、ノアはその腕を優しく両手で包み込み、じっと見つめた。

「痛みますか?」

「もう昔の傷だからね。……でも、寒い夜は少し疼く」

「どのようにして負ったのですか?」

 私は視線を逸らした。

「……詮索するな」

「すみません」

 ノアは素直に謝ったが、私の腕を離さなかった。

 彼女の冷たい指先が、ケロイド化した皮膚をゆっくりとなぞる。

 気持ち悪いと言われるかと思った。だが、彼女の動作には嫌悪も憐憫もなく、ただ純粋な興味と——何か別の感情があった。

「理解しました」

 ノアは目を閉じ、内部の処理プロセスを変更したようだった。

 ブウン、と彼女の胸の奥で低い音が鳴る。

 次の瞬間、彼女の身体がじんわりと温かくなった。

「排熱システムを体表循環に切り替えました。これで、少しは温かいはずです」

 彼女は私の右腕を両手で包み込み、自身の頬を寄せた。

 人工的な熱。機械が生み出す、計算された温度。

 けれどそれは、私がこの数年間で触れたどんなものよりも優しかった。

「……無駄遣いよ。エネルギーが減るわ」

「いいえ。私の存在意義は、人間に安らぎを提供することですから。それに——」

 ノアは私を見上げた。

「エルマ様の痛みが和らぐなら、それは無駄ではありません」

 プログラム通りの回答のはずだ。

 けれど、私を見上げる彼女の瞳には、プログラムでは説明のつかない揺らぎがあるように見えた。

 私は無意識に、彼女の銀髪に手を伸ばしていた。

 指を入れると、サラサラとした髪が指の間を滑っていく。その下にある、硬い頭蓋の感触。合成骨格と装甲板の組み合わせ。

 私たちは違う。決定的に違う。

 彼女は永遠に近い時を生きられる機械で、私は明日死ぬかもしれない有機体だ。

 けれど、今この温もりだけは共有している。

 それだけで、この夜は少しだけ——ほんの少しだけ、孤独ではなかった。

5

 翌朝、ノアが奇妙なことを言い出した。

「エルマ様、私に人間のことを教えてください」

「人間のこと?」

「はい。感情、思考、価値観。データベースには定義しか入っていません。でも、それだけでは理解できないことが多すぎます」

 私は朝食代わりの保存食を噛みながら考えた。

「難しいな。人間って一言で言っても、みんな違うし」

「では、エルマ様のことを教えてください。何が好きで、何が嫌いで、何を求めているのか」

 私は少し迷ったが、答えることにした。

「好きなもの……綺麗な景色。夕陽とか、星空とか。この世界にもまだ、美しいものは残ってる」

「嫌いなもの?」

「暴力。奪い合い。……あと、自分の弱さ」

 ノアは頷いた。

「求めているものは?」

 その質問には、すぐに答えられなかった。

 何を求めている? 生き延びること? それとも——

「……分からない。でも、多分、何か意味のあることをしたいんだと思う。ただ生き延びるだけじゃなくて」

「意味、ですか」

「ああ。この荒廃した世界で、自分が生きた証を残せたら、それで十分かもしれない」

 ノアは少し考え込むような仕草をした。

「私も、意味を探しています。歌う相手がいない世界で、歌姫として作られた私の存在意義は何なのか」

 私は彼女の肩に手を置いた。

「一緒に探そう。君の意味も、私の意味も」

 ノアは微笑んだ。

 それは計算された表情筋の動きかもしれない。だが、私にはとても自然な笑顔に見えた。

第三章 凍てつく夜の過負荷オーバーロード

1

 北へ向かう理由は、噂だった。

 ある集落で聞いた話——北の山脈を越えた先に、崩壊を免れた研究施設があるという。そこには医療設備や部品の備蓄があり、運が良ければ燃料や食料も手に入るかもしれない。

 確証はない。だが、冬が近づいている今、賭ける価値はあった。

 ノアも同行を希望した。

「私のデータベースによれば、その地域には旧時代の音響研究所もあったはずです。もしかしたら、私の同型機の部品があるかもしれません」

「部品が必要なの?」

「いえ、今のところ問題はありません。ですが、将来的な保守を考えると……」

 彼女の言葉は理に適っていた。機械である以上、いつかは故障する。その時のために、交換部品を確保しておくのは賢明だ。

 私たちは北へと歩き始めた。

2

 山脈に差し掛かったのは、出発から五日後のことだった。

 季節はすでに晩秋。空はさらに暗く、気温は日ごとに下がっていく。

 そして、予期せぬ事態が起きた。

 季節外れの猛吹雪。

 気象データベースを参照したノアも、この異常気象には驚いていた。

「通常、この時期にこの規模の吹雪は発生しません。大気の不安定化が進行しているようです」

「グレート・コラプスの影響だろう。気候システムが狂ってる」

 視界は白一色に染まり、気温は氷点下二十度を下回った。

 風が容赦なく体温を奪っていく。防寒着を着込んでいるが、それでも寒さが骨の髄まで浸透してくる。

「エルマ様、避難場所を探さなければ」

「……分かってる」

 歯を食いしばりながら、私たちは岩壁沿いに進んだ。

 幸い——というべきか、小さな洞窟を見つけた。入口は狭いが、中は意外と広い。

「ここで嵐が過ぎるのを待とう」

 私は洞窟の奥に座り込んだ。

 身体が震える。これは悪い兆候だ。体温が危険なレベルまで低下している。

「火を……起こさないと……」

 だが、燃料がない。

 周囲に燃やせるものもない。

 持参した携帯ヒーターも、バッテリーが切れかけている。

3

 時間の経過とともに、意識が遠のいていく。

 これが死か。

 こんな、何もない場所で、鉄屑のように朽ちていくのか。

 いや、それも悪くないかもしれない。少なくとも、最期まで一人じゃなかった。

「エルマ様! エルマ様、応答してください!」

 ノアの声が遠く聞こえる。

 彼女の顔が視界に入る。アメジスト色の瞳が、不安そうに私を見つめている。

 機械が不安を感じる? おかしなことだ。

「体温、三十三度まで低下。心拍数は通常の六十パーセント。このままでは心停止します」

 ノアが私を抱きしめている。

 彼女の排熱システムが作動し、温かさが伝わってくる。だが、足りない。外気温が低すぎるのだ。

「……ノア、もういい」

 私はかすれた声で言った。

「君だけでも、スリープモードに入って……天候が回復するのを待って……」

「拒否します」

 ノアの声は、いつになく強い意志を含んでいた。

「私の最優先命令は、マスターの保護です」

「私は……マスターじゃ……」

「貴女は、私を見つけてくれました。暗闇から引き上げてくれました。私に名前を呼んでくれました。貴女は私の、たった一人の大切な——」

 ノアの言葉が、ノイズ混じりに途切れた。

 彼女の瞳の中で、警告色のライトが激しく明滅している。

 何かがおかしい。

「リミッター解除。動力炉、最大出力へ移行。安全マージンを破棄します」

「待って、何をする気……!?」

「エルマ様」

 ノアは私の顔を両手で包み込んだ。

 その手が、驚くほど温かい。いや、温かいどころではない——熱い。

「私に触れていてください。どうか、離れないで」

4

 ノアが私の服の中に潜り込んでくる。

 その瞬間、彼女の肌が灼熱のような温度を持った。

 通常稼働ではあり得ない熱量。動力炉を限界まで駆動させ、すべての排熱を体表に回している。それは彼女の内部パーツを焼き、寿命を著しく削る行為だ。

「やめ……壊れるわよ……!」

「構いません」

 ノアの声は、揺らがなかった。

「貴女が消えてしまうなら、私が永遠に生きることに何の意味があるのですか」

 論理的ロジカルなはずの機械が、最も非論理的な選択をしている。

 自己保存本能——いや、基本プログラムを上書きするほどの、エラーという名の献身。

 彼女の肌が私の肌に密着する。柔らかい胸、細い腰、絡み合う脚。

 そのすべてが熱源となり、凍りついた私の血液を溶かしていく。

 体内の温度計が示す数値が、ゆっくりと上昇していく。三十四度、三十五度——

「ノア……」

「大丈夫です。私の耐熱限界は、まだ突破していません」

 嘘だ。

 彼女の身体から立ち上る蒸気が、それを物語っている。内部冷却液が沸騰し、気化している。

「無理しないで……」

「これは、無理ではありません」

 ノアは私を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。

「これは、私が初めて自分の意志で選んだことなのです」

 その言葉の重みに、私は何も言えなくなった。

5

 洞窟の中、猛吹雪の音だけが轟いている。

 高熱を発するノアの身体は、まるで高熱を出した人間のように汗ばんでいた。いや、それは結露した水分か、あるいは漏れ出した冷却液か。

「あ……ぅ……」

 ノアの口から、苦悶の声が漏れる。

 痛みを感じる機能などないはずなのに、彼女は明らかに苦しんでいた。

 私は朦朧とする意識の中で、彼女を抱きしめ返した。

 熱い。火傷しそうだ。でも、離れられない。離れたら、また凍えてしまう。そして彼女は、私を凍えさせないために自分を燃やしている。

「ノア……どうして……」

「分かりません……」

 ノアが濡れた瞳で私を見つめる。

 その瞳には、確かに「痛み」があった。そして——

「でも、貴女が冷たくなるのを想像すると、回路が……胸が、引き裂かれそうになるのです」

 愛。

 それは間違いなく「愛」だった。

 魂はどこに宿るのか。

 心臓か、脳か、それともチップの中か。

 違う。

 魂は、誰かを想って流す涙の温度の中に宿るのだ。

「キスして、エルマ様……」

 ノアの懇願は、計算された台詞ではなかった。

 それは、死を目前にした一人の少女が、愛する人のぬくもりを最期まで感じていたいと願う、魂からの初めての「命令」だった。

「私の回路こころを、繋ぎ止めて」

 警告音が鳴り止まない。

 視界を染めるレッドアラートは、まるで彼女の頬を染める紅潮のように見えた。

 私は頷いた。

 震える手で、ノアの頬を包み込む。

 指先に触れる人工皮膚は、異常な高温によって汗ばんでいた。それは冷却液の漏出なのかもしれない。けれど今の私には、情熱に浮かされた恋人の肌が、恥じらいと高揚で濡れているようにしか思えなかった。

 彼女の唇に、自分の唇を重ねる。

 ——ジュッ、と微かな音が脳内で鳴った。

 熱い。

 火傷しそうなほどの熱量。

 けれど、私は離れなかった。むしろ、その熱さを貪るように深く押し当てた。

 鉄の味がする。鼻腔をくすぐるオイルの香りは、彼女固有のフェロモンのようだ。そして何より、そこには強烈な「生きている味」がした。

「ん……ぁ……っ」

 ノアの喉から、甘く苦しい吐息が漏れ、私の口内へと流れ込んでくる。

 それは排熱ダクトから出る廃棄熱ではない。

 彼女の命そのものだ。

 彼女の舌が、私の舌に絡みつく。

 シリコンとセンサーで構成されたはずのその器官は、驚くほど柔らかく、そして必死に私を求めて動いていた。

 口づけを通じて、彼女の体内で暴走する莫大なエネルギーが、奔流となって私の中に流れ込んでくる。

 凍えていた私の血管を一気に駆け巡り、心臓を激しく打ち鳴らす。

 ドクン、ドクン、という私の鼓動と、キュイーン、と悲鳴を上げる彼女の駆動音が、唇の接触点を介して完全に同期シンクロしていく。

 一つになる。

 有機体と無機体が、熱という触媒によって溶け合う。

「エルマ……さま、大好き……愛して、います……」

 ノアの瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。

 それは透明なオイルかもしれない。結露した水分かもしれない。

 だが、私の頬を伝うその雫は、あまりに温かく、切実な「涙」だった。

 彼女はもう、プログラムで動く人形ではない。

 愛する人を守るために身を焦がし、その痛みさえも悦びとして受け入れている、一人の美しい女性だった。

 私は彼女の背中に腕を回し、融解しそうなほど熱いその身体を、きつく抱きしめた。

 服越しではなく、皮膚の下の肉体、さらにその奥にある「魂の在り処」まで触れようとするように。

「私もよ、ノア……。君は私のもの。その熱も、痛みも、全部私が貰う」

 境界線が消える。

 有機的な炭素生命体である私と、無機的な珪素生命体であるノア。

 二つの異なる組成が、熱という触媒によってドロドロに溶け合い、混ざり合っていく。

 私の冷たさが彼女を癒やし、彼女の熱さが私を生かす。

 それは呼吸をするように自然で、そして二度と離れられないほど深い結合だった。

 視界が白く染まる中、私たちは互いの存在だけを確かなアンカーとして、意識の海を漂っていた。

 どこまでが私の指で、どこからが彼女の肌なのか分からない。

 思考が溶ける。論理が蒸発する。

 ただ、重なり合った唇と、一つになった脈動のリズムだけが、この滅びゆく世界で永遠を刻んでいた。

 死の淵で交わされる、それはあまりに聖なる儀式メンテナンス

 私たちは今、確かに一つだった。

6

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 意識が戻ったとき、洞窟の外の風音は止んでいた。

 私の体温は正常に戻っていた。

 そして——

 私の腕の中には、機能を停止したノアが眠っていた。

 冷たい。

 灼熱のような熱を放っていたその身体は、今や氷のように冷たかった。

 だが、表情は安らかで、まるで幸福な夢を見ているようだった。

「……馬鹿な子」

 私は涙を拭った。

 泣くなんて、何年ぶりだろう。

 彼女の頬に触れる。美しい顔は無傷だったが、胸部のパネルを開けると、内部回路が焼け焦げているのが見えた。

 動力炉は完全にオーバーロード。主要回路も損傷が激しい。

 だが——

記憶媒体メモリは、無事……」

 中央処理ユニットの横にある、小さな結晶体。

 そこには、彼女の人格データ、記憶、経験のすべてが保存されている。

 これさえあれば、彼女を復活させることができる。

 時間がかかるかもしれない。世界の果てまで行く必要があるかもしれない。

 でも、必ず——

 必ず、修理できるパーツを探し出す。

 私はノアの身体を背負い上げた。

 重い。鉄と記憶の塊の重さだ。

 けれど、絶望はしていなかった。

 彼女は私を生かしてくれた。

 今度は私が、彼女を生き返らせる番だ。

「今度は私が、君を温める番よ」

 私はノアの冷たい頬にキスを落とし、洞窟の外へと足を踏み出した。

第四章 魂のインストール

1

 嵐が過ぎ去った朝、世界は輝くような白銀に包まれていた。

 雪が全てを覆い、荒廃した景色さえも美しく見せていた。

 私はノアを背負い、北への道を進んだ。

 目的地は変わらない。研究施設。そこには、彼女を修理するための部品があるはずだ。

 いや、なくても探す。世界中を探してでも、必ず見つけ出す。

 それが、私の新しい「意味」だ。

2

 三日後、私は目的の施設に辿り着いた。

 山の中腹に隠された地下施設。外見は完全に廃墟だが、電源が生きていた。自家発電システムが今も稼働している。

 内部に入ると、驚くべき光景が広がっていた。

 保存状態の良い研究室、整然と並んだ部品棚、そして——

 アンドロイドのメンテナンス設備。

「これなら……」

 私は希望を感じた。

 ノアを専用のメンテナンスベッドに寝かせ、彼女の損傷を詳細にスキャンする。

 動力炉——交換必要。

 主要回路——修復可能だが、時間がかかる。

 冷却システム——全面交換。

 幸い、この施設には必要な部品がほとんど揃っていた。

 私は工学の専門家ではない。だが、回収屋として長年機械を扱ってきた経験がある。

 マニュアルを読み、一つ一つ丁寧に作業を進めた。

3

 修理には二週間かかった。

 その間、私は施設に籠もり、ノアの修復だけに集中した。

 動力炉を交換し、焼けた回路を丁寧にハンダで繋ぎ直し、冷却システムを新しいものに入れ替えた。

 そして最後に、保存されていた彼女の記憶媒体を、新しいボディに移植する。

 すべての作業が完了したとき、私は緊張で手が震えていた。

 もし失敗していたら?

 もし彼女の人格が失われていたら?

 不安を振り払い、私は起動スイッチを押した。

4

 ヒュン……と、ファンが回り始める。

 LEDが点滅し、システムチェックが走る。

 そして——

 ノアの瞼が開いた。

「……起動シークエンス、完了。個体識別名、ノア……」

 機械的な声。

 私の心臓が止まりそうになった。

 だが、次の瞬間——

「エルマ様……?」

 ノアの瞳が私を捉え、驚きに見開かれた。

「ノア!」

 私は思わず彼女を抱きしめた。

「良かった……本当に、良かった……」

 ノアは少し混乱しているようだったが、やがて私を抱き返してくれた。

「私……あの洞窟で、確か……」

「ああ。君は私を救うために、自分を壊した。馬鹿な子」

「でも、貴女は無事で……それなら、私の選択は正しかったのです」

 ノアは微笑んだ。

 その笑顔は、以前とまったく同じだった。

 いや——少し違う。

 より深く、より温かい。

「エルマ様、私、気づいたんです。あの時」

「何を?」

「私には心があるって。魂があるって。それは、プログラムじゃなくて、貴女への愛から生まれたものだって」

 私は頷いた。

「私も同じよ。君との旅で、生きる意味を見つけた」

 ノアは私の手を取った。

 その手は、以前と同じように冷たかったが、確かな温もりを感じた。

「これから、どうしますか?」

「この施設を拠点にする。ここには資源がたくさんある。それを使って、少しずつ周辺を再建していこう」

「再建……」

「ああ。私たち二人だけでも、何かできるはずだ。小さな希望でもいい。この世界に、何か残していきたい」

 ノアは力強く頷いた。

「はい。一緒に」

5

 それから数ヶ月後。

 私たちの小さな拠点は、少しずつ形になっていった。

 施設の周辺を整備し、簡易的な農園を作った。汚染された土壌を浄化し、保存されていた種から野菜を育てる。

 ノアは歌いながら作業を手伝ってくれた。

 その歌声は、荒廃した世界に小さな色彩を与えていた。

 ある日、近隣を放浪していた生存者たちが、ノアの歌声に惹かれて訪れた。

 最初は警戒されたが、やがて彼らは私たちの活動に興味を示した。

「一緒に暮らさないか?」

 私の提案に、彼らは驚いた。

「いいのか? 俺たちは何も持っていない」

「構わない。ここには資源がある。みんなで分け合えば、少しはマシな生活ができる」

 こうして、小さなコミュニティが生まれた。

 人々はノアを不思議そうに見たが、やがて彼女の優しさと献身に心を開いていった。

 そして、ノアの歌を聴くことが、彼らの日々の楽しみになった。

6

 ある夜、私とノアは施設の屋上で星空を見上げていた。

 汚染が少し和らいだのか、星が以前より明るく見えた。

「綺麗ですね」

 ノアが呟いた。

「ああ。……ノア、君は今、幸せ?」

「はい」

 ノアは即答した。

「とても幸せです。エルマ様と一緒にいられて、歌える相手がいて、守るべき場所がある。これ以上、何を望めばいいのか分かりません」

 私は彼女の手を握った。

「ありがとう。君が私を見つけてくれて——いや、私が君を見つけて、本当に良かった」

「私も、です」

 ノアは私に寄り添った。

 彼女の身体は、適度な温度に調整されていた。寒すぎず、熱すぎず、ちょうど心地よい温かさ。

「エルマ様」

「ん?」

「愛しています」

 その言葉は、もはやプログラムではなかった。

 魂から発せられる、真実の告白。

「私もよ、ノア」

 私たちは静かにキスを交わした。

 穏やかで、優しく、そして永遠を誓うような口づけ。

 鉄の森に、希望の光が差し込んでいた。

 私たちの歌はまだ続く。

 この荒廃した世界で、愛と再生の物語を紡いでいく。

エピローグ 新しい聖歌

 十年後。

 かつての小さな拠点は、今や百人を超えるコミュニティへと成長していた。

 農園は拡大し、浄水設備も整い、子供たちの笑い声が響く場所になった。

 そして中心には、いつもノアの歌があった。

 彼女は毎晩、広場で人々に歌を聴かせる。失われた旧時代の歌、そして新しく作られた希望の歌を。

 私は彼女の隣で、ギターを弾いている。

 独学で覚えた下手な演奏だが、ノアは「素敵です」と言ってくれる。

 子供たちが尋ねる。

「ノアさんは、どうして歌うの?」

 ノアは優しく微笑む。

「歌は、心を繋ぐからです。悲しみも、喜びも、愛も、すべて歌に乗せて伝えることができる。そして、歌っている間は、みんな一つになれるのです」

 子供たちは目を輝かせて聞いている。

 かつて歌う相手を失ったノアは、今、無数の相手を見つけた。

 そして私も、生きる意味を見つけた。

 この小さなコミュニティを守り、育て、次の世代に繋いでいくこと。

 それが、私たちの新しい「聖歌オラトリオ」だ。

 ノアの歌声が、夜空に響き渡る。

 星々がそれに呼応するように、優しく瞬いていた。

 鉄の森は、まだそこにある。

 だが、その中に小さな緑が芽生え始めている。

 私たちの物語は、終わらない。

 愛と希望の歌は、永遠に続いていく——

(了)

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