LOGIN第1章 雨とジャズと9ミリ弾
この街の雨は、いつだって洗い流すべきものを隠すために降っている。
葛城ケイはそう信じていた。少なくとも、この十二年間で九十七人を「掃除」してきた彼女にとって、雨は共犯者だった。路地裏のマンホールからは白い蒸気が立ち上り、ネオンサインの赤が水溜まりに滲んでいる。街角のジャズバーからは、マイルス・デイヴィスの『ソー・ホワット』が漏れ聞こえてくる。
廃ビルの非常階段を登りながら、ケイは愛用のグロック19のマガジンを確認した。フルロード。十五発プラスワン。標的一人には過剰だが、裏切り者には慈悲をかける理由もない。
スライドを引く。カチャリ、という金属音が、廃ビルの静寂に冷たく響いた。
今日の仕事は単純だ。組織の金を横領し、機密データを盗み出した裏切り者――コードネーム「キャンディ」――を「掃除」し、データを回収する。それだけのはずだった。
雨音に紛れて足音を殺しながら、ケイは最上階へと向かった。濡れたコンクリートの匂い、錆びた鉄の匂い、そして微かに漂う甘い香り。ロリポップキャンディの匂いだ。
「……見つけた」
最上階の一室。ケイが靴底でドアを蹴り破ると、蝶番が悲鳴を上げて崩れ落ちた。
そこには一人の女がいた。
部屋の隅、サーバーラックの緑色のLEDに照らされたその女――ルカは、手に持っていたロリポップキャンディを口から離し、ニカっと笑った。まるで旧友の訪問を待っていたかのような、無邪気で危険な笑みだった。
「遅いよ、お姉さん。待ちくたびれて飴が三本も溶けちゃった」
金髪のショートヘアに、派手な龍の刺繍が入ったスカジャン。ピアスだらけの耳たぶと、チェーンのついたブーツ。どこかのパンクロッカーのような出で立ちだが、その目だけは違った。底知れぬ虚無を湛えた、ケイと同じ種類の瞳。
銃口を向けられているというのに、恐怖の色は微塵もない。狂っているか、大物か――いや、両方だろう。
「遺言は?」ケイは感情を殺した声で問いかけた。
「ないね。強いて言うなら、このデータの中身を見ないこと」ルカは傍らのハードディスクを指差した。「見たら、組織だけじゃなく、この国全体が揺れるよ」
「興味ない」
ケイは引き金に指をかけた。仕事だ。感情はいらない。いつも通り、一発で終わらせる。頭部に一発。確実に。九十八人目だ。
だが、その瞬間――
ルカがふと目を細め、どこか寂しげな色を浮かべた。それは、ケイが毎朝鏡の中で見ている、空っぽの人間の目だった。生きることに疲れ、死ぬことさえ面倒になった、魂の抜け殻の瞳。
トリガーを引く指が、ほんの一瞬、躊躇した。
その一瞬が、すべてを変えた。
「……チッ」
ケイは舌打ちをし、銃口をわずかに右へずらした。
乾いた銃声が部屋に響く。9ミリパラベラム弾はルカの頬を掠め、背後の窓ガラスを粉砕した。強化ガラスの破片が雨の中へと散らばっていく。
「え?」ルカの目が驚きに見開かれた。本物の驚きだった。
「走れ。気が変わらないうちに」
ケイの言葉が終わるより早く、階下から荒々しい足音と怒号が聞こえてきた。組織の追手だ。もはやケイも裏切り者とみなされただろう。任務失敗、ではない。裏切りだ。
「ははっ! 最高!」
ルカは高笑いを上げると、ハードディスクを鞄に詰め込み、ケイの手を掴んで走り出した。その手は意外なほど温かく、ケイは自分のした不合理な選択に眩暈を覚えながらも、その手を振り払うことはできなかった。
非常階段を駆け下りる。背後から銃声。コンクリートの壁に弾痕が刻まれる。
「車は!?」ルカが叫んだ。
「裏の駐車場! 青いマスタング!」
二人は雨の中を駆けた。もう後戻りはできない。ケイは十二年間積み上げてきたすべてを、たった一度の気まぐれで捨てた。
なぜ? 自分でもわからない。
ただ、あの虚無の瞳を撃ち抜くことが、どうしてもできなかった。
第2章 ハイウェイ・ブルース
盗んだ69年式のマスタング――正確にはルカが三年前にハッキングして横流しした盗難車だ――が、雨のハイウェイを切り裂いていく。
V8エンジンの咆哮と、カーラジオから流れる気怠いジャズ。チャーリー・パーカーの『Billie's Bounce』。そして、時折リアウィンドウを叩く銃弾の音。
「右! 次のインターは右だよケイ!」助手席のルカが地図アプリを見ながら叫んだ。
「指示するな! 舌を噛みたくなきゃ黙ってろ!」
ケイはハンドルを急激に切り、サイドブレーキを引いた。車体は耳をつんざく摩擦音を上げてドリフトし、追跡車両――組織の黒塗りのセダン三台――の側面をミリ単位で擦り抜け、インターチェンジへと飛び込んだ。
バックミラーの中で、一台のセダンがコントロールを失い、ガードレールに衝突するのが見えた。ガソリンタンクが爆発し、オレンジ色の火柱が夜空を染める。
「ヒューッ! やるじゃん、元始末屋さん」ルカが興奮した様子で拍手した。
「……元、じゃない。現役だ。お前を始末しなかっただけだ」
ケイは煙草を取り出し、口に咥えた。手が微かに震えているのは、恐怖からか、それとも興奮からか。もしかしたら、久しぶりに感じる「生きている」という実感からかもしれない。
ルカが横からオイルライターを差し出す。カキン、という小気味良い音と共にオレンジの火が灯る。風防が炎を守り、ケイはそこから煙草に火をつけた。
「ありがとう、命の恩人さん」ルカが皮肉っぽく言った。
「勘違いするな。私の気まぐれだ」
「その気まぐれに、私は賭けたんだよ。あの廃ビルで、あんたの目を見た瞬間にね」
ルカの言葉に、ケイは何も答えなかった。答えられなかった。
助手席のルカは窓を開けて夜風を浴びている。金髪が激しく揺れ、雨粒が顔を濡らしている。それでも彼女は笑っていた。まるで死の淵から解放された囚人のように。
街の灯りが遠ざかり、周囲は暗闇に包まれていく。ハイウェイを外れ、田舎道へと入った。追跡の光は、もう見えない。
二人きりの密室。革シートの匂いと、メンソールの煙草、そして微かな火薬の匂い。
ケイは横目でルカを見た。この無鉄砲な娘を守るために、自分は全てを捨てた。論理的な理由は一つもない。組織からは追われる身になり、銀行口座も凍結されるだろう。安全な隠れ家も、信頼できる仲間も、もう何もない。
ただ、彼女の――この見ず知らずの女の――生への執着が、死に場所を探していたケイの心を焦がしたのだ。
「なあ、ケイ」ルカが煙草の煙を吐き出しながら言った。「あんた、何のために生きてる?」
「……さあな。慣性で生きてるだけだ」
「嘘。あんたは今、選択した。私を生かすって」
「それが何だ」
「それって、生きるってことだよ。自分で決めるってこと」
ルカは窓から手を伸ばし、雨粒を掌で受け止めた。
「私ね、ずっと死にたかったの。この腐った世界から逃げ出したかった。でも、逃げる勇気もなくて、ただデータの海に潜ってた。そしたらさ、組織の真実を見つけちゃった。人身売買、臓器密売、政治家への賄賂……全部、データに残ってた」
「それで盗んだのか」
「うん。死ぬなら道連れを作ろうと思って。でもさ――」ルカはケイの方を向いた。「あんたに会って、ちょっと変わった。もうちょっと、生きてみたくなった」
ケイは何も言わず、ただアクセルを踏み続けた。
雨が激しさを増してきた。ワイパーが必死に水を払うが、視界はほとんど利かない。
「モーテルを探そう」ケイが言った。「このままじゃ事故る」
「あんたが事故るわけないでしょ。さっきのドリフト見た?」
「疲れてる。人間は疲れると判断を誤る」
それは、ケイが組織で最初に教わったことだった。
第3章 安モーテルの消毒液
国境近くの寂れたモーテルに滑り込んだのは、日付が変わる頃だった。
『パラダイス・モーテル』――看板のネオンサインの「M」の文字が消えかかっている。フロントには眠そうな老人が一人。現金で払い、偽名で登録した。老人は何も聞かず、錆びた鍵を渡しただけだった。こういう場所は、詮索しないのが鉄則だ。
部屋は208号室。二階の奥、非常口に近い部屋を選んだ。いざという時の逃げ道を確保するのは、ケイの習性だった。
ドアを開けると、カビと消毒液の混ざった匂いが鼻をついた。安っぽい花柄の壁紙、きしむダブルベッド、ブラウン管テレビ。典型的な三流モーテルだ。
ケイはソファに崩れ落ちた。緊張の糸が切れ、全身の疲労が一気に押し寄せてくる。アドレナリンが切れたせいで、身体が鉛のように重い。
「ケイ、怪我してる」ルカが指摘した。
ケイの左腕、白いシャツが赤く染まっている。いつの間にか。おそらく逃走中の流れ弾が掠めたのだろう。痛みは、今になって感じ始めた。
「大したことない」ケイは立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。
「だめ。見せて」
ルカはバスルームから救急セットを持ってくると――この手のモーテルには必ず置いてある――強引にケイのシャツを脱がせた。
露わになった白い肌。そこには無数の古傷が走っていた。銃創、刃物の痕、火傷の痕。十二年間の「仕事」の履歴書だ。そして、左腕には鮮烈な裂傷が走っている。
ルカは真剣な表情で消毒液を脱脂綿に含ませ、傷口に当てた。
「っ……」ケイが顔をしかめた。
「痛い?」
「……沁みるだけだ」
ルカの手つきは意外にも丁寧だった。まるで何度もこういうことをしてきたかのように。傷口を洗浄し、縫合が必要かどうかを確認し、包帯を巻いていく。その指先が肌に触れるたび、ケイの心拍数が上がった。
治療を終えると、ルカはケイの顔を覗き込んだ。至近距離。彼女の瞳には、モーテルの安っぽい照明が星のように映り込んでいる。
「ねえ、どうして私を助けたの?」
「……さあな。お前の持ってるデータが惜しくなったのかもな」ケイは目を逸らした。
「嘘つき」ルカが微笑んだ。「あんた、自分に嘘つくの下手だね」
「何が言いたい」
「ケイは、寂しかったんでしょ? 私と同じで」
図星を突かれ、ケイは言葉を詰まらせた。
ルカの手が、ケイの首筋に触れる。冷たいはずの始末屋の身体が、今は熱を帯びている。それは恐怖による発熱ではなく、目の前の女に対する、名前のつけられない感情だった。
「キスして、ケイ。……今日生き延びたお祝いに」
ケイは観念したように目を閉じ、ルカの顎を掬い上げた。
重なる唇。 甘いキャンディの人工的な風味と、ケイの肺に染み付いた苦いタールの味が、唾液と共に混ざり合う。 それはロマンスというにはあまりに粗暴で、しかし何よりも切実な、生の実感だった。ルカがケイの首に腕を巻きつけ、体重をかけてくる。
その勢いに押され、ケイはルカを抱えたまま、きしむベッドへと倒れ込んだ。 安っぽいスプリングの悲鳴が、雨音にかき消される。「……もっと。ケイの味、もっと頂戴」
ルカがケイのシャツのボタンを引きちぎるように外す。
露わになったケイの身体は、古傷と真新しい包帯、そして硝煙と消毒液の匂いにまみれていた。 ルカはそれを嫌がるどころか、まるで獲物を見つけた猫のように目を細め、ケイの鎖骨にある古い火傷の痕に舌を這わせた。「っ……、ルカ」
「生きてる。……ケイの心臓、すごくうるさい」ルカの冷たい手が、ケイの熱い腹部を撫で下ろし、ベルトに掛かる。
その挑発的な仕草に、ケイの中の理性が音を立てて崩れ落ちた。 始末屋としての冷徹な仮面はもう維持できない。目の前にあるのは、自分の命を救い、そして今、自分を渇望している柔らかな肉体だけだ。「……後悔するなよ」
ケイはルカのスカジャンを剥ぎ取り、その下の薄いキャミソールをめくり上げた。
白く、滑らかな肌。死や暴力とは無縁だったはずのその無垢なキャンバスに、ケイは自分の無骨な指を這わせる。 銃のグリップを握るために硬くなった指先が、ルカの敏感な脇腹を擦ると、彼女はビクリと身を震わせ、吐息を漏らした。「んっ……! ケイの手、ざらざらして……熱い……」
「お前が焚き付けたんだ」ケイはルカの太腿を割り、その間に割り込んだ。
互いの恥丘が押し付け合い、熱と湿度が直接伝わってくる。 寂しかった。怖かった。 銃弾が頬をかすめるたびに感じていた「死の冷たさ」を、この圧倒的な「生の熱量」で塗り潰してしまいたかった。ケイはルカの首筋、胸元、そして腹部へと、噛みつくようにキスを落としていった。
所有印を刻むように。ここにいるのは自分の共犯者だと、肉体に教え込むように。 ルカもまた、ケイの背中に爪を立て、傷が開くのも構わずにしがみつく。痛みさえもが、今生きていることのスパイスだった。「あ、ぁ……っ! ケイ、そこ……深い……ッ!」
ケイの指が、ルカの秘所を捉え、濡れた粘膜を押し広げる。
溢れ出る蜜は、彼女の情熱そのものだった。 指を動かすたびに、ルカの腰が跳ね、狭いモーテルの部屋に甘く切ない喘ぎ声が響く。 窓の外のネオンサインが明滅し、ルカの汗ばんだ肌を赤く、青く染め上げる。ケイ自身もまた、限界に達しようとしていた。
ルカの中の締め付けが、ケイの指を逃さない。 彼女と一つになることで、過去の罪も、未来への不安も、すべてが空白に変わっていく。「一緒に……ルカ、行くぞ……」
「うん……っ、連れてって……果てまで……ッ!」ケイはルカの唇を再び塞ぎ、動きを極限まで速めた。
脳髄が白く弾ける。 追っ手のサイレンも、雨音も聞こえない。 ただ、互いの存在を貪り合う獣のような呼吸と、爆発的な快楽の衝撃だけが二人を貫いた。絶頂の瞬間、二人の魂は肉体という檻を抜け出し、どこまでも広がる夜の闇へと溶けていった。
それは、死ぬことよりも激しく、生きることを肯定する、一度きりの聖なる暴動だった第4章 ブルームーン・エンドロール
翌朝、雨は上がっていた。
窓から差し込む朝日が、ルカの金髪を黄金色に染めている。彼女はまだ眠っていた。ケイの腕の中で、安らかに。
ケイはそっとベッドから抜け出し、窓際に立った。外の景色を眺める。誰も追ってきた様子はない。少なくとも今は。
テーブルの上には、ルカが盗み出したハードディスクが置いてある。これが、すべての原因だ。これがなければ、ケイは今も組織で、感情を殺して仕事をしていただろう。
これがあったから、ケイは人間に戻った。
「おはよう」ルカが目を覚ました。「逃げなかったんだ」
「どこに逃げる。私も追われる身だ」
「じゃあ、一緒に逃げよっか」
ルカが笑う。その笑顔に、もう昨夜の虚無は見えなかった。
二人は海沿いの道を走った。
追っ手は来ていない。昨夜、モーテルの駐車場に現れた組織の追跡者三人を返り討ちにし――ケイは容赦なく始末した――彼らの車のタイヤも撃ち抜いてきた。当分は追いつけないだろう。
行き止まりの埠頭。
目の前には、朝日に輝く太平洋が広がっている。水平線が眩しいほどに光っている。
ケイはエンジンを切り、車を降りた。潮風が火薬の匂いを消していく。海鳥が鳴いている。平和な朝だった。
「ここが行き止まりか」ケイが呟いた。
「ううん。ここが始まりだよ」
ルカがボンネットに腰掛け、足をぶらつかせた。彼女の手には、盗み出したデータの入ったハードディスクがある。組織の秘密、この国を揺るがす証拠。
彼女はそれを躊躇なく海へ投げ捨てた。
ポチャン、と小さな水柱が上がり、組織の秘密は深海へと沈んでいった。
「……よかったのか? それが交渉材料だったのに」ケイが驚いて言った。
「いいの。私にはもっと大事な相棒ができたから」ルカが笑いかけた。「それに、あんなもん使って生き延びても、また誰かに狙われるだけ。もう、そういうの疲れたんだ」
「じゃあ、何のために盗んだ」
「死ぬための理由が欲しかったの。でも、あんたに会って、生きる理由が欲しくなった」
ルカがケイに一本の煙草を差し出した。
ケイはそれを受け取り、火をつける。深く吸い込み、紫煙を青空へと吐き出した。
自由だ。
金も、地位も、帰る場所もない。あるのは、隣にいるこの無鉄砲な娘と、ガソリンが半分残った中古車、そして一丁の拳銃だけ。
「どこへ行く? 北へ行けば国外逃亡のルートがある。私の知り合いの密輸業者が――」
「どこでもいいよ。ケイがいるなら、地獄の底でも」
「……地獄なら、もう見てきただろう」
ケイは苦笑し、ルカの肩を抱き寄せた。ルカは自然にケイの腰に腕を回し、その胸に顔を埋める。
空には、朝だというのに白く透けた月が残っていた。
ブルームーン。ひと月に二度目の満月。見ると幸せになれるという、奇跡の象徴。
血塗れの始末屋と、お尋ね者のハッカー。
そんな二人に奇跡など似合わないかもしれないが、今この瞬間、世界の誰よりも二人は満たされていた。過去も、未来も関係ない。今、ここにいることだけが真実だった。
「行こう、ルカ。……ガス欠になるまで」
ケイがキーを回す。V8エンジンが再び目覚めの咆哮を上げた。
タイヤが砂利を蹴り、車が走り出す。
バックミラーには、何も映っていない。過去も、追っ手も、後悔も。ただ、輝く海と、真っ直ぐに伸びる水平線だけが、二人の行く先を待っていた。
カーラジオから、ジョン・コルトレーンの『My Favorite Things』が流れ始めた。
ルカが小さく歌い始める。ケイも、久しぶりに口元を緩めた。
もう誰も追ってこない。組織は二人を諦めるだろう。データは海の底だ。証拠もない。
あるのは、二人の新しい人生だけ。
マスタングは海沿いの道を北へ、北へと走り続けた。
行き先は決めていない。
ただ、道が続く限り、二人は走り続けるだろう。
それが、彼女たちの選んだ自由だった。
(了)
第1章:沈黙の戒律と石の温度 聖セシリアの沈黙修道院は、雪に閉ざされた山脈の奥深くにあった。修道院の石造りの壁は、外気と同じ温度で冷たく、冬の間、院内を支配するのは、古いインセンスの微かな香りと、修道女たちの粗いウールの修道服が擦れる音だけだった。 シスター・クレマンスは、この修道院の戒律と沈黙を、誰よりも完璧に体現していた。彼女の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は決して地上のものに向けられることはない。彼女の所作は、一つの無駄もなく、完璧な献身というアルゴリズムで動いているかのようだった。その完璧な禁欲は、神への純粋な愛と、人間的な温もりへの恐れという、クレマンス自身の矛盾の上に成り立っていた。 彼女の主な役割は、古びた礼拝堂の聖具の手入れだった。彼女は、金箔の聖杯や、古い木製のロザリオといった、神に捧げられた人工物を、自分の肉体よりも丁寧に磨き上げた。なぜなら、それらは完璧であり、永遠に変わらないからだ。 ある雪の深い夜、一人の若い修道女が、この沈黙の修道院に加わった。シスター・テレーズ。彼女は、他の修道女たちと比べ、顔の表情が豊かで、喜びや驚きといった感情を、隠すことなく発する、異質な存在だった。 クレマンスは、戒律に従い、テレーズの指導役となった。聖具室での手入れの指導中、クレマンスはテレーズの手に触れた。その瞬間、クレマンスは思わず手を引いた。「テレーズ、なぜ貴女の手は、こんなにも温かいのですか?」 クレマンス自身の手は、長年の冷たい石の床と聖具の管理により、氷のように冷えていた。「ごめんなさい、クレマンス様。私は、まだ神の愛を、この身体で温めてしまうようです」 テレーズは、困ったように微笑んだ。その笑みは、クレマンスの完璧な沈黙の空間に、不必要なほど鮮やかな人間の色彩を持ち込んだ。クレマンスは、その温かい手の感触が、自分の禁欲のタペストリーに、一筋の乱れを生じさせたことに気づいていた。第2章:粗いウールと温かい手 テレーズは、クレマンスの厳格な指導にもかかわらず、どこか不器用だった。聖具の手入れ中、彼女は小さなミスを犯し、クレマンスの完璧な作業を何度も中断させた。 ある夕暮れ、二人きりの礼拝堂。窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を美しく照らしていた。 クレマンスは、テレーズに、古の修道女が着用していた粗いウールの下着を見せた。それ
第1章:バグと虚構の砂漠 二酸化炭素の濃霧が漂う現実世界は、もはや生存のための砂漠だった。人々は、精神安定のために「オアシス」と呼ばれる超巨大仮想現実空間へと意識を逃がす。 霧島は、そのオアシスを専門に破壊するハッカーだった。現実では常に黒いフードを深く被り、愛を「論理的なバグ」と見なす極度のコミュニケーション不全者だ。彼女の任務は、オアシスの最深部に位置する人気エリア「永遠の泉」を破壊し、人々の依存を断ち切ること。 彼女の今日のターゲットは、その「永遠の泉」の設計者であり、オアシスで最も愛されているVRアーティスト、咲良(さくら)。 霧島は、自室のチェアに深く座り、神経インターフェースを装着した。視界が一瞬のノイズと共に切り替わり、目の前にオアシスの風景が広がる。 人工の太陽が輝き、空にはピンクとオレンジのグラデーション。目の前には、コード一本で無限に再生される、完璧な青い湖が揺れていた。「愛をデータ化するとは、悪趣味なバグだ」 霧島は、VR内のアバター(フード付きの白いパーカー姿)で、咲良の造った「永遠の泉」へと歩みを進めた。彼女のミッションは、泉の深部に仕掛けられた「感情のコアアルゴリズム」を破壊し、オアシス全域を機能停止させることだった。 泉のほとりには、咲良のアバターがいた。白い麻のワンピースを纏い、裸足で水面に立っている。そのアバターが纏う感情のコードは、海音のソナーのように、霧島の視界に複雑で、しかし調和した金色と薄緑色の波として映った。「あなた、ここで何を?」 咲良は、霧島に気づき、優雅に微笑んだ。その笑顔は、あまりに完璧で、霧島の脳内では『最大偽装(MAX_FALSITY)』という警告コードが点滅した。「バグチェックです。あなたの描く『愛』のロジックに、脆弱性がないか確認に来ました」「脆弱性? ふふ。私の愛は、人類の集合無意識を学習させた、最も強固なアルゴリズムで動いていますよ」 咲良は、一歩霧島に近づいた。VR内の二人の間に、現実世界ではありえない親密な距離が生まれる。「ねえ、あなた。バグを見つけるのもいいけど、たまにはこの世界の『美しさ』も感じてみたらどうですか」 咲良の手が、霧島のアバターの頬に触れた。VR空間では、触覚は精巧なフィードバックで伝わる。その指先から伝わる人工的な温かさが、霧島の神経インターフェー
第1章:音響技師と不協和音の海 深海研究都市ネオ・アトランティス。地表から五百メートルの水深に位置するこの都市は、厚いチタン合金のドームに守られ、外界の濁流と喧騒から完全に隔離されていた。 音響技師の海音(うみね)にとって、この場所は唯一の安息の地だった。彼女は生まれつき、極めて強い共感覚を持っていた。人の会話だけでなく、感情の起伏までもが、彼女の視界に色と音の波として押し寄せてくる。特に、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、耳をつんざくような不協和音と、濁った濃い赤や黒の色彩を伴って、彼女の思考を侵食した。 そのため、海音は人との関わりを極力避け、濁った不協和音の届かない深海探査船の管制室に籠もっていた。ここにいるのは、水圧と、彼女が扱うソナーの単調な信号音だけだ。「ソナー、異常なし。外殻に付着した生物の振動を確認。青みがかった三オクターブ、安定」 海音は、感情のない機械のような声で報告した。彼女が認識する音は、いつでも論理的で規則正しく、美しい。 そんな海音の管制室に、突然、騒がしく、しかし心地良い透明な緑色を伴うノックが響いた。ノイズの少ない、稀有な色だ。 入ってきたのは、深海ダイバーの淡水(あくあ)。鍛え上げられた身体に、深海作業用の分厚いウェットスーツを羽織っている。短く切り揃えられた黒髪から、一筋、水滴が滴り、チタン合金の床に落ちた。「海音ちゃん。今日のメンテナンス、手伝ってくれない? 探査艇の船底ソナーの調整だ」 淡水の声は、海音にとって、淡い、揺らぎのないターコイズブルーに見えた。澄んでいて、濁りがない。彼女の感情は、共感覚を持つ海音のフィルターを通しても、ごく平穏な波長しか持たなかった。「私は管制が専門です。ダイバーの仕事は――」「ソナーの波長を体で感じられるのは、君だけだろ? 地上にいる時より、水中の方が、君の共感覚は正確になる。知ってるよ」 淡水は、海音の目をまっすぐ見た。その瞳は、海底に沈んだ宝石のように深く、海音の心臓が、微かに不規則なリズムを刻む。淡水は、海音が最も信頼するダイバーだった。なぜなら、彼女の感情は常に安定しており、海音にとって「無色の沈黙」に近い存在だったからだ。第2章:光の波長と感情のデッドスポット 探査艇の船倉。海音は、淡水と共に、ソナーの調整作業に取り掛かっていた。 海音は、ドライスー
第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと
第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不
第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする