LOGIN東京の夜景は、基板(マザーボード)の上を走る電流に似ている。無機質で、規則的で、そして残酷なほどに明るい。渋谷のスクランブル交差点から見上げる広告塔の光は、まるでデバッグ中のコードが吐き出すエラーログのように、私の網膜を焼き付ける。
三十二階建てのオフィスビル。その最上階フロアの窓ガラスに映る私は、加賀見雫という完璧なシステムとして稼働していた。
タイトスカートのラインに乱れはなく、ルージュは朝七時に引いた紅のまま鮮やかさを保っている。肩まで伸ばした髪は一本の乱れもなく、ブラウスのボタンは首元まできっちりと留められている。外見上、私はプロジェクトマネージャー・加賀見雫として、完璧に機能していた。
だが、内側のCPUはとっくにオーバーヒート寸前だった。
デスクに積まれた仕様書の山。モニターに並ぶ未読メールの赤い通知。スマートフォンには、クライアントからの催促が三十分おきに届いている。
午後十一時を回った金曜日のオフィスに、まだ二十人近くの社員が残っている。皆、青白い顔でモニターに向かい、必死にキーボードを叩いていた。
三週間にわたるデスマーチ。
大手銀行の基幹システムリニューアルという巨大プロジェクトは、当初の予定から大幅に遅延していた。仕様変更が重なり、テストで次々とバグが発見され、週末返上で対応を続けてきた。
私の身体は、もはやカフェインとプライドだけで立っていた。
眼鏡の奥で焦点が定まらない。視界の端が白く滲む。水曜日から四時間しか眠っていない。木曜日は二時間。昨夜は──記憶がない。おそらく、デスクで気絶していたのだろう。
「……加賀見さん、ここ」
背後から投げかけられた声は、低く、ハスキーで、私の偏頭痛を心地よく──そう、心地よく──刺激した。
振り返ると、牧村夜がブルーライトカット眼鏡の奥から私を見上げていた。
彼女は私の部下であり、この社内で唯一、私に躊躇なく意見してくるリードエンジニアだ。私より六つ年下。入社三年目でありながら、技術力は部内トップクラス。
グレーのオーバーサイズのパーカーを羽織り、エナジードリンク片手にキーボードを叩く姿は、いかにも技術屋らしい。首から提げたイヤホンからは、微かにロックミュージックが漏れている。
メイクはほとんどしていない。素顔に近い。けれど、その切れ長の瞳と、意志の強そうな眉は、ノーメイクでも十分に美しかった。
「仕様書の記述と実装が矛盾してます。このままだとテストで確実に落ちます」
夜が差し出したタブレットには、赤いマーカーで修正箇所が記されている。彼女の指摘は、いつも的確だった。
「どこ? ……ああ、本当ね」
私は画面を見つめた。確かに、データベースのテーブル定義と、アプリケーション層の実装が食い違っている。基本的なミスだ。こんな初歩的なエラーを見落とすなんて。
「私のミスだわ。すぐに修正する」
「珍しいですね。あの完璧主義の加賀見さんが」
夜の声には、皮肉も揶揄も含まれていなかった。むしろ、心配そうな響きがあった。
「私だって人間よ。ミスくらいするわ」
強がって見せたが、視界がぐらりと揺れた。
床が傾く。いや、違う。私が傾いているのだ。
脳に酸素が足りない。糖分も足りない。睡眠も、まともな食事も、この三日間摂取していない。身体が、限界を訴えている。
ふらつく足元を隠すようにデスクに手をついた瞬間、強い力が私の腕を引いた。
「──!」
「座ってください。顔色、最悪ですよ」
夜の手だった。
普段はキーボードを叩いているだけの、細く長い指。けれどその握力は驚くほど強く、私の身体を革張りの椅子に沈めさせた。強引なほどに優しい力加減で。
近い。
夜の顔が、間近にあった。パーカーから漂うファブリックソフトナーの香りと、ほんの少しの汗の匂い。そして、エナジードリンクの甘い残り香。
それらが混ざり合って、妙に生々しい人間の匂いとして、私の鼻腔を刺激した。
「……放して。まだクライアントへのメールが」
「送りましたよ、僕が」
「え?」
「三十分前に。進捗報告と、月曜朝の定例会議のアジェンダ。ついでに、今夜見つかったバグも全部潰しておきました。マージリクエストも出してます」
夜がタブレットを操作し、画面を見せる。
確かに、私が送るはずだったメールが、夜の名前で送信されていた。文面も完璧だ。私が書くよりも、むしろ丁寧かもしれない。
「勝手なことを……」
「勝手じゃないです。チームリーダーの権限で動きました。それに、このままじゃ貴女が倒れる」
「倒れないわよ」
「嘘。今にも倒れそうな顔してます」
夜が私の頬に手を伸ばしかけて、ハッとしたように引っ込めた。周囲に人がいることを思い出したのだろう。
私たちの「関係」は、まだ誰にも知られていない。
いや、正確には「関係」などと呼べるものすら、まだ存在していなかった。ただ、最近、視線が絡む頻度が増えていた。休憩室で二人きりになると、会話が妙に長引くようになっていた。夜が私にコーヒーを淹れてくれる回数が増え、私は無意識にそれを期待するようになっていた。
それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない──はずだった。
「だからもう、帰れます。帰りましょう、雫さん」
彼女は私のことを、仕事中は「加賀見さん」と呼ぶ。
けれど、二人きりになると時折、確信犯的に名前で呼ぶ。
その境界線の踏み越え方が、私の理性を──逆撫でする。いや、違う。撫でられている。優しく、けれど確実に、私の中の何かが反応してしまう。
周囲を見回す。まだ数人が残っているが、誰も私たちに注意を払っていない。皆、自分のタスクに必死だ。
夜が眼鏡を外し、パーカーのフードを下ろした。
その瞬間、彼女の「顔」が変わった。
普段のクールで中性的な技術者の顔ではなく、初めて「女」の顔で私を見た。濡れたような瞳。わずかに開いた唇。
「一杯だけ、付き合ってください」
それは誘いだった。明確な。
「それとも、このままここで倒れますか? 介抱するのは僕ですけど、周りの目が気になりませんか?」
「……脅迫?」
「提案です。Win-Winの」
私は、負けた。
もう、これ以上考える気力がなかった。判断を、誰かに委ねたかった。そしてその「誰か」が、目の前のこの生意気な年下の部下であることに、私はもう抗えなかった。
「……わかったわ。でも一杯だけよ」
「了解。デプロイします」
夜がにやりと笑った。その笑みは、獲物を捕らえた捕食者のそれに似ていた。
西麻布の路地裏にある会員制のバー「CIPHER」は、照明が極端に落とされている。
入口には看板もなく、知る人ぞ知る隠れ家的な店だ。夜が常連らしく、マスターは彼女の顔を見るなり、奥の個室へと案内した。
重厚なジャズが流れる店内には、私たち以外に客の姿はなかった。金曜日の深夜。普通の人間は、家で休んでいる時間だ。
個室は四畳半ほどの狭い空間で、革張りのソファと小さなテーブルだけが置かれている。間接照明が、琥珀色の光を落としていた。
カラン、とロックアイスがグラスに当たる音が響く。
私は強めのマティーニを、夜は琥珀色のバーボンを飲んでいた。
アルコールが喉を焼き、胃に落ちていく。空腹の身体に染み込んだ酒は、すぐに頭に回った。
「……この店、よく来るの?」
「たまに。一人で考え事したい時とか」
「意外ね。貴女、あまり一人で飲むタイプに見えない」
「雫さんこそ、バーに来るイメージなかったです。もっとワインバーとか、高級レストランかと」
「偏見よ、それは」
私はグラスを傾けた。ジンの辛口が、疲労で麻痺した味覚を刺激する。
「……生意気ね、夜は」
「そうですか? 優秀な部下だと思いますけど」
「優秀すぎて可愛げがないのよ。全部先回りして、私の仕事を奪って」
「貴女が抱え込みすぎなんです」
夜が身を乗り出した。ソファの距離が縮まる。
「もっと周りに頼ればいいのに。完璧なプロジェクトマネージャーを演じ続けなくても、誰も貴女を責めませんよ」
「演じてる、ですって?」
「ええ。演じてます。完璧に」
夜の視線が、私の首筋あたりをじっと這うのを感じた。
まるで、コードを解析するように。一行一行、丁寧に読み解くように。
私は無意識に、首元の第一ボタンに手をやる。
アルコールのせいで体温が上がり、ブラウスの中が蒸し暑い。張り詰めていた糸が、少しずつ緩み始めていた。
「頼り方なんて、忘れちゃったわよ」
私は天井を見上げた。間接照明が、ぼんやりと揺れている。
「この歳になるとね、弱みを見せるのが致命的なエラーになるの。特に女は。プロジェクトマネージャーの女は、完璧じゃないと舐められる。ミスをすれば、能力を疑われる。感情的になれば、ヒステリックだと言われる」
「……それ、疲れません?」
「疲れるわよ。死ぬほど」
私は自嘲気味に笑った。
「でも、そうやって生きてきたの。十年間。いや、もっと前から。就活の時から、新人の頃から、ずっと。完璧な自分を演じ続けて、気づいたら演じてることすら忘れてた」
「エラー上等じゃないですか」
夜がグラスを置き、カウンターの下で私の手に触れた。
ひんやりとした指先が、私の掌の熱を奪っていく。
その感覚があまりに心地よくて、私は拒むことができなかった。むしろ、もっと触れていてほしいと願ってしまった。
「デバッグなら僕がしますよ。雫さんのバグも、エラーも、全部」
「……貴女は、いつもそう」
「ん?」
「いつも涼しい顔をして、私の内側に入り込んでくる。ハッカーみたいに。不正アクセスよ、これは」
「貴女のセキュリティが甘いんですよ」
夜が私の手を握り返す。強く。
「……いや、違うな。僕にだけゲートを開けてくれてるのかな。雫さん」
私の心臓が、大きく跳ねた。
夜が席を立ち、私の隣に移動してきた。
近い。
パーカー越しに、彼女の体温が伝わってくる。ウッディな香水の香りが、私の鼻腔をくすぐる。微かにバニラの甘さも混じっている。
私は動けなかった。
酔っているせいか、疲労のせいか、それとも──
「雫さん」
夜が私の耳元で、甘く低い声で囁いた。
その声は、オフィスで聞く業務的なトーンとは全く違う。湿度を帯びた、粘性のある声。
「帰りましょうか。ここじゃ、貴女を休ませられない」
「……家に、帰るの?」
「ええ。僕の家か、貴女の家か」
それは、明確な誘いだった。
私は、知っていた。この先に何があるのか。夜が何を求めているのか。そして、私が何を求めているのか。
頭では拒否すべきだと分かっていた。上司と部下。六歳の年の差。社内恋愛のリスク。キャリアへの影響。考えるべきことは山ほどあった。
けれど、私の心は、もう答えを出していた。
「……私の家の方が、お酒の種類が多いわ」
それが、私の精一杯の「合意(ハンドシェイク)」だった。
「じゃあ、決まりですね」
夜が立ち上がり、私の手を引いた。
私は、抵抗しなかった。
抵抗する気力も、理由も、もう残っていなかった。
タクシーの後部座席。
夜景が窓の外を流れていく。渋谷から六本木へ。ネオンの光が、雨上がりの路面に反射している。
私たちは一言も話さなかった。
ただ、繋いだ手だけが、互いの脈拍を伝え合っていた。夜の手は、思ったより温かかった。
運転手がミラー越しにこちらを見ている気がして、私は視線を落とした。繋いだ手を隠すように、コートで覆う。
心臓が早鐘を打っている。
酔っているのか、緊張しているのか、もう自分でも分からない。
私のマンションは、六本木ヒルズから徒歩五分の高層マンションだった。独身女が住むには広すぎる2LDK。けれど、キャリアを積むごとに、広い部屋が必要になった。見栄もあった。
タクシーを降り、オートロックのドアを抜け、エレベーターで二十三階へ上がる。
その間も、私たちは何も話さなかった。
玄関のドアを開け、中に入る。
照明のスイッチに手を伸ばした瞬間──
夜が、私を壁に押し付けた。
「──!」
激しい口づけ。
それはロマンチックなものではなく、酸素を奪い合うような、飢えた獣のそれに近かった。
ガツン、と後頭部が壁にぶつかる。少し痛い。けれど、その痛みすらも快感に変わっていく。
「んっ……よる……待っ……」
唇が離れない。夜の舌が、私の唇をこじ開けようとしている。
私は抵抗するように口を閉じたが、夜の手が私の顎を掴み、強制的に開かせた。
侵入してくる舌。熱い。甘い。バーボンの香りが口内に広がる。
私の舌と絡み合い、奪い合い、求め合う。
呼吸ができない。けれど、離れたくない。
矛盾した欲求が、私の中で渦巻いていた。
ようやく唇が離れると、銀色の糸が引き、私たちは荒い息を吐きながら見つめ合った。
夜の瞳は、オフィスで見せる冷静なそれとは違い、暗い炎を宿していた。
獣の瞳。捕食者の瞳。
「加賀見さん……」
夜が、私の頬に手を添えた。
「いいえ、雫」
名前を呼ばれるたびに、私の中の何かが溶けていく。
夜の手が、私のジャケットを脱がせる。肩から滑り落ちたジャケットが、床に落ちる。
次に、ブラウスのボタンに手が掛かる。
一つ、また一つ。
白い肌が露わになるたびに、私が纏っていた「プロジェクトマネージャー」という鎧が剥がされていく。
三つ目のボタンが外れた時、私の胸元が見えた。黒いレースのブラジャー。
夜の視線が、そこに吸い寄せられる。
私は恥ずかしさに身を竦めた。体型には自信があるつもりだったが、こうして見られると、急に自分が老いた女に思えてくる。
「隠さないで」
夜が私の手を掴み、胸元から離させた。
「綺麗ですよ。雫さん」
その言葉は、どんな賞賛よりも私の心に響いた。
夜が私の手を引き、ベッドルームへと導く。
間接照明が、部屋を柔らかく照らしている。キングサイズのベッドが、まるで祭壇のように中央に鎮座していた。
夜が私をベッドの縁に座らせると、自分はひざまずいて私のハイヒールを脱がせ始めた。
まるで、騎士が姫の靴を脱がせるように。けれど、その仕草には従順さではなく、むしろ支配の意図が込められていた。
一日中私を支えていた七センチのヒールが、床に転がる。
解放された足首を、夜の手が優しく撫で上げた。ストッキング越しの感触に、背筋が震える。
「疲れてるでしょう」
夜が私の足首に口づけた。
「全部、忘れさせてあげます」
そして、ゆっくりと、太腿へと手を滑らせていく。
スカートの裾が捲られ、ストッキングの上から肌を撫でる夜の手が、徐々に上へ、上へと這い上がってくる。
「ん……」
私の中から、抑えきれない吐息が漏れた。
夜が私の上に覆いかぶさる。
天井の照明が彼女のシルエットに遮られ、私の視界は夜一色に染まった。
さらりとした彼女の髪がカーテンのように私の頬に触れ、世界から私を隔離する。
そこは、二人だけの、息が詰まるほど狭く、そして温かい聖域だった。
先ほどの獣のような口づけとは打って変わり、今の夜のキスは、硝子細工を扱うように慎重で、丁寧に愛おしむような優しさに満ちていた。
唇だけでなく、強張った瞼へ。緊張で震える睫毛へ。火照った頬へ。そしてこめかみへと。
雨粒が落ちるように口付けが降ってくる。
その一つ一つが、「もう頑張らなくていい」という無言のメッセージとなって、私の張り詰めた神経をほどいていく。
「ん……ぁ……」
吐息が熱を帯びる。
自分の声が、恥ずかしい。こんな声、出したことがない。いや、出したことを忘れていた。
夜の唇が耳元へ滑り落ち、敏感な耳朶を甘噛みした。
ちり、とした微かな痛みが走った直後、首筋の動脈の上を、熱い舌がゆっくりと這う。
ドクン、と自分の脈打つ音が鼓膜に響いた。
彼女は私の命の音を確かめるように、そこに深く吸い付いた。
「ぁ……ん、そこ……だめ……」
跡が残る。月曜日、オフィスで隠せなくなる。
そんな理性的な思考が頭を過ぎったが、夜は容赦しなかった。むしろ、より強く吸い付き、歯を立てた。
「駄目じゃない」
夜が顔を上げ、潤んだ瞳で私を見下ろした。
眼鏡を外した彼女の素顔は、いつもの生意気な部下の顔ではなく、すべてを受け入れる慈愛に満ちた──そして、すべてを奪い尽くす──捕食者の顔をしていた。
「貴女は今、ただの雫です。プロジェクトマネージャーでも、氷の女王でもない。誰の上司でもない、ただの可愛い女の子ですよ」
その言葉は、私が三十年以上かけて積み上げてきた堅牢な要塞を、内側から優しく崩壊させた。
「女の子」なんて呼ばれる歳じゃない。
そんな反論をしようとしたけれど、喉の奥が熱くて声にならなかった。
本当はずっと、誰かにそう扱われたかったのだと、身体が認めてしまっていた。
誰かに守られたかった。誰かに甘えたかった。誰かに、弱い自分を見せたかった。
けれど、それを許されなかった。許さなかった。
完璧でいなければならなかった。強くいなければならなかった。
その重圧から、今、解放されようとしている。
夜の指が、私のシャツの隙間から滑り込み、肋骨をなぞるように這い上がってくる。
彼女の指先は、キーボードを叩くための細くしなやかな形状をしているが、私の肌に触れるタッチは驚くほど湿度を帯びていた。
まるで、コードを書くように。一行一行、丁寧に。エラーを起こさないように。
背中に回された腕が私を強く抱きしめ、同時にもう片方の手が、私のブラジャーのホックに掛かる。
カチリ。
外れる音がした。
同時に、私の中で、最後のスイッチが切れる音がした。
理性と本能の境界線が、曖昧になっていく。
もう、どうでもいい。
すべて、どうでもいい。
快楽の波が押し寄せるたび、私の脳内を占有していたタスクリストが、白いノイズとなって消えていく。
明日の会議の議題も、未読のメールも、年齢への焦りも、キャリアを守るための重いプライドも、すべてがどうでもよくなった。
今、この瞬間にあるのは──
肌と肌が擦れ合う微かな音。
互いの体温。
夜のシャンプーの、柑橘系の香り。
そして、私の中で膨れ上がっていく、名前のつけられない感情。
私は、すがるように夜の背中に腕を回し、そのパーカーを──いや、もう脱がされていた──そのシャツを強く握りしめた。
今まで誰かを守ることばかり考えてきた私が、今はただ、目の前にいるこの生意気で愛しい年下の恋人に、身も心もドロドロに溶かされたいと願っている。
その矛盾した、けれどどうしようもなく純粋な感情だけが、今の私の確かな真実だった。
「愛してます、雫」
夜が、私の髪を撫でながら囁いた。
その声は、甘く、優しく、そして少しだけ切なげだった。
「……ずるい。そんな時だけ……」
私の声は、涙声になっていた。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。嬉しいのか、悲しいのか、もう自分でも分からない。
「愛してます。貴女が強くて、脆くて、完璧で、どうしようもなく壊れやすくて──それでも、必死に立っている姿が、愛おしい」
その言葉は、どんな複雑なコードよりも美しく、私の心の隙間を埋めていった。
私は彼女の背中に腕を回し、爪を立てた。
この痛みが、私たちが今、生きてここに在るという証明だった。
そして、私は──
初めて、誰かに「愛されている」という実感を得た。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、私の瞼をあぶった。
眩しい。
重い瞼を開けると、見慣れた天井が視界に入った。自分の部屋だ。
身体が重い。けれど、それは疲労の重さではなく、心地よい倦怠感だった。
隣を見ると、夜が寝息を立てていた。
普段のクールな表情が嘘のように、無防備で幼い寝顔だ。少し口が開いている。前髪が顔に掛かっている。
私は、そっとその髪を撫でた。
昨夜の記憶がフラッシュバックし、私は顔が熱くなるのを感じた。
散乱した服。飲みかけの水。ベッドサイドに転がったコンドームの箱。そして身体に残る、生々しい痕跡。
首筋には、夜がつけたキスマークがあるだろう。太腿の内側にも、指の跡が残っているかもしれない。
恥ずかしい。
けれど、後悔はなかった。
「……お早うございます」
気配を感じたのか、夜が薄目を開けた。声が寝起きで掠れている。
「お早う」
私は笑った。自然に、笑えた。
「……よく寝てるわね」
「雫さんが離してくれなかったからですよ」
「なっ……! 適当なこと言わないで」
私が枕を投げつけると、夜はくすくすと笑ってそれを受け止め、私を引き寄せた。
素肌が触れ合う。
その温かさが、昨夜の情熱とは違う、穏やかな安心感をもたらしてくれた。
私は夜の胸に顔を埋めた。彼女の心臓の音が、耳に心地よい。
「……ありがとう」
「何がです?」
「全部」
私は、本当に感謝していた。
この十年間、誰にも見せなかった弱さを、夜は受け止めてくれた。
完璧でない私を、愛してくれた。
「コーヒー、淹れましょうか」
夜が身を起こそうとする。
「……うん。濃いめでお願い」
「了解。仕様通りに」
夜がベッドから起き上がり、私の大きなYシャツを羽織る。
白いシャツが、彼女の華奢な身体を包む。裾が太腿の半ばまで垂れている。
その背中を見送りながら、私はシーツに顔を埋めた。
夜の匂いがする。シャンプーと、汗と、そして私の香水が混ざった匂い。
また月曜日が来れば、私たちは完璧な上司と部下に戻るだろう。
会議室で顔を合わせ、業務連絡を交わし、プロジェクトの進捗を確認する。
誰も、私たちの関係を知らない。
けれど、もう大丈夫だ。
どんなに複雑なバグが発生しても、どんなに重い処理に追われても、私には帰る場所がある。
この秘密の鍵(パスワード)を共有する共犯者がいる限り、私は何度でも立ち上がれる。
キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。
それは、世界で一番優しい、再起動(リブート)の合図だった。
私は、ベッドから起き上がった。
窓の外には、土曜日の東京が広がっている。
まだ、週末は始まったばかりだ。
そして、私たちの物語も──
月曜日。
午前九時。私は定刻通りにオフィスに到着した。
完璧にセットした髪。乱れのないスーツ。首元のスカーフが、金曜日の夜の痕跡を隠している。
誰も、私の変化に気づかない。
いつも通りの、完璧なプロジェクトマネージャー・加賀見雫として、私はオフィスに入った。
「おはようございます」
デスクに向かう途中、夜とすれ違った。
彼女は、いつも通りのパーカーとジーンズ。イヤホンを首に提げ、エナジードリンクを片手に持っている。
「おはよう、牧村さん」
私は、業務的な笑みを浮かべた。
夜も、いつも通りのクールな表情で頷いた。
けれど、すれ違う瞬間、彼女の指先が、私の手にそっと触れた。
ほんの一瞬。誰も気づかないほどの、短い接触。
それだけで、私の心臓が大きく跳ねた。
デスクに着き、PCを起動する。
パスワードを入力し、システムにログインする。
画面には、いつも通りのデスクトップが表示された。
けれど、画面の右下に、見慣れない通知が表示されていた。
社内チャットの、プライベートメッセージ。
送信者は──牧村夜。
私は、周囲を確認してからメッセージを開いた。
『お疲れ様です。先週のプロジェクト、無事完了しましたね。今週は少し余裕があるので、金曜日、また飲みに行きませんか? 今度は僕のおごりで。──P.S. 昨日はありがとうございました。また、貴女の家でコーヒーを淹れたいです』
私は、思わず笑みを浮かべた。
周囲の目を気にして、慌てて表情を戻す。
そして、返信を打った。
『了承。ただし、次は私がコーヒーを淹れます。貴女の好みの豆、買っておくから』
送信ボタンを押す。
すぐに、既読がついた。
そして、絵文字が返ってきた。
ハートマーク──ではなく、親指を立てた「いいね」のスタンプ。
私は、また笑った。
生意気な部下だ。
けれど、愛しい。
どうしようもなく、愛しい。
私は、新しい週の始まりに、深呼吸をした。
どんなバグが待っていても、どんな困難が立ちはだかっても、もう大丈夫。
私には、帰る場所がある。
そして、待っている人がいる。
それだけで、私は何度でも立ち上がれる。
システム、再起動(リブート)。
私の物語は、まだ続いていく。
(了)
第1章:沈黙の戒律と石の温度 聖セシリアの沈黙修道院は、雪に閉ざされた山脈の奥深くにあった。修道院の石造りの壁は、外気と同じ温度で冷たく、冬の間、院内を支配するのは、古いインセンスの微かな香りと、修道女たちの粗いウールの修道服が擦れる音だけだった。 シスター・クレマンスは、この修道院の戒律と沈黙を、誰よりも完璧に体現していた。彼女の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は決して地上のものに向けられることはない。彼女の所作は、一つの無駄もなく、完璧な献身というアルゴリズムで動いているかのようだった。その完璧な禁欲は、神への純粋な愛と、人間的な温もりへの恐れという、クレマンス自身の矛盾の上に成り立っていた。 彼女の主な役割は、古びた礼拝堂の聖具の手入れだった。彼女は、金箔の聖杯や、古い木製のロザリオといった、神に捧げられた人工物を、自分の肉体よりも丁寧に磨き上げた。なぜなら、それらは完璧であり、永遠に変わらないからだ。 ある雪の深い夜、一人の若い修道女が、この沈黙の修道院に加わった。シスター・テレーズ。彼女は、他の修道女たちと比べ、顔の表情が豊かで、喜びや驚きといった感情を、隠すことなく発する、異質な存在だった。 クレマンスは、戒律に従い、テレーズの指導役となった。聖具室での手入れの指導中、クレマンスはテレーズの手に触れた。その瞬間、クレマンスは思わず手を引いた。「テレーズ、なぜ貴女の手は、こんなにも温かいのですか?」 クレマンス自身の手は、長年の冷たい石の床と聖具の管理により、氷のように冷えていた。「ごめんなさい、クレマンス様。私は、まだ神の愛を、この身体で温めてしまうようです」 テレーズは、困ったように微笑んだ。その笑みは、クレマンスの完璧な沈黙の空間に、不必要なほど鮮やかな人間の色彩を持ち込んだ。クレマンスは、その温かい手の感触が、自分の禁欲のタペストリーに、一筋の乱れを生じさせたことに気づいていた。第2章:粗いウールと温かい手 テレーズは、クレマンスの厳格な指導にもかかわらず、どこか不器用だった。聖具の手入れ中、彼女は小さなミスを犯し、クレマンスの完璧な作業を何度も中断させた。 ある夕暮れ、二人きりの礼拝堂。窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を美しく照らしていた。 クレマンスは、テレーズに、古の修道女が着用していた粗いウールの下着を見せた。それ
第1章:バグと虚構の砂漠 二酸化炭素の濃霧が漂う現実世界は、もはや生存のための砂漠だった。人々は、精神安定のために「オアシス」と呼ばれる超巨大仮想現実空間へと意識を逃がす。 霧島は、そのオアシスを専門に破壊するハッカーだった。現実では常に黒いフードを深く被り、愛を「論理的なバグ」と見なす極度のコミュニケーション不全者だ。彼女の任務は、オアシスの最深部に位置する人気エリア「永遠の泉」を破壊し、人々の依存を断ち切ること。 彼女の今日のターゲットは、その「永遠の泉」の設計者であり、オアシスで最も愛されているVRアーティスト、咲良(さくら)。 霧島は、自室のチェアに深く座り、神経インターフェースを装着した。視界が一瞬のノイズと共に切り替わり、目の前にオアシスの風景が広がる。 人工の太陽が輝き、空にはピンクとオレンジのグラデーション。目の前には、コード一本で無限に再生される、完璧な青い湖が揺れていた。「愛をデータ化するとは、悪趣味なバグだ」 霧島は、VR内のアバター(フード付きの白いパーカー姿)で、咲良の造った「永遠の泉」へと歩みを進めた。彼女のミッションは、泉の深部に仕掛けられた「感情のコアアルゴリズム」を破壊し、オアシス全域を機能停止させることだった。 泉のほとりには、咲良のアバターがいた。白い麻のワンピースを纏い、裸足で水面に立っている。そのアバターが纏う感情のコードは、海音のソナーのように、霧島の視界に複雑で、しかし調和した金色と薄緑色の波として映った。「あなた、ここで何を?」 咲良は、霧島に気づき、優雅に微笑んだ。その笑顔は、あまりに完璧で、霧島の脳内では『最大偽装(MAX_FALSITY)』という警告コードが点滅した。「バグチェックです。あなたの描く『愛』のロジックに、脆弱性がないか確認に来ました」「脆弱性? ふふ。私の愛は、人類の集合無意識を学習させた、最も強固なアルゴリズムで動いていますよ」 咲良は、一歩霧島に近づいた。VR内の二人の間に、現実世界ではありえない親密な距離が生まれる。「ねえ、あなた。バグを見つけるのもいいけど、たまにはこの世界の『美しさ』も感じてみたらどうですか」 咲良の手が、霧島のアバターの頬に触れた。VR空間では、触覚は精巧なフィードバックで伝わる。その指先から伝わる人工的な温かさが、霧島の神経インターフェー
第1章:音響技師と不協和音の海 深海研究都市ネオ・アトランティス。地表から五百メートルの水深に位置するこの都市は、厚いチタン合金のドームに守られ、外界の濁流と喧騒から完全に隔離されていた。 音響技師の海音(うみね)にとって、この場所は唯一の安息の地だった。彼女は生まれつき、極めて強い共感覚を持っていた。人の会話だけでなく、感情の起伏までもが、彼女の視界に色と音の波として押し寄せてくる。特に、怒りや嫉妬といったネガティブな感情は、耳をつんざくような不協和音と、濁った濃い赤や黒の色彩を伴って、彼女の思考を侵食した。 そのため、海音は人との関わりを極力避け、濁った不協和音の届かない深海探査船の管制室に籠もっていた。ここにいるのは、水圧と、彼女が扱うソナーの単調な信号音だけだ。「ソナー、異常なし。外殻に付着した生物の振動を確認。青みがかった三オクターブ、安定」 海音は、感情のない機械のような声で報告した。彼女が認識する音は、いつでも論理的で規則正しく、美しい。 そんな海音の管制室に、突然、騒がしく、しかし心地良い透明な緑色を伴うノックが響いた。ノイズの少ない、稀有な色だ。 入ってきたのは、深海ダイバーの淡水(あくあ)。鍛え上げられた身体に、深海作業用の分厚いウェットスーツを羽織っている。短く切り揃えられた黒髪から、一筋、水滴が滴り、チタン合金の床に落ちた。「海音ちゃん。今日のメンテナンス、手伝ってくれない? 探査艇の船底ソナーの調整だ」 淡水の声は、海音にとって、淡い、揺らぎのないターコイズブルーに見えた。澄んでいて、濁りがない。彼女の感情は、共感覚を持つ海音のフィルターを通しても、ごく平穏な波長しか持たなかった。「私は管制が専門です。ダイバーの仕事は――」「ソナーの波長を体で感じられるのは、君だけだろ? 地上にいる時より、水中の方が、君の共感覚は正確になる。知ってるよ」 淡水は、海音の目をまっすぐ見た。その瞳は、海底に沈んだ宝石のように深く、海音の心臓が、微かに不規則なリズムを刻む。淡水は、海音が最も信頼するダイバーだった。なぜなら、彼女の感情は常に安定しており、海音にとって「無色の沈黙」に近い存在だったからだ。第2章:光の波長と感情のデッドスポット 探査艇の船倉。海音は、淡水と共に、ソナーの調整作業に取り掛かっていた。 海音は、ドライスー
第1章:琥珀と銀の不協和音 九条暦にとって、世界とは「完璧に織り上げられたタペストリー」でなければならなかった。一糸の乱れもなく、配色も構図も論理的かつ美しく配置されていること。それが彼女の人生の原則であり、生徒会副会長という立場は、その原則を体現するための最高の舞台だった。 放課後の生徒会室は、照明が規則的に並び、書類が正確に積み上げられた、彼女の理想の空間だ。しかし、その完璧な空間から逃げ出し、暦は古い校舎の立ち入り禁止の屋上へと足を運んでいた。 屋上のフェンスに凭(もた)れ、彼女はポケットから小さな布片を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの、未完成のブローチ。緻密な銀糸で四分の一ほど刺繍された、小さな琥珀糖のモチーフだ。外側は硬質な砂糖の結晶、内側はゼリーの柔らかさを表現しようとしたその作品は、あと少しで完成というところで手が止まっていた。糸が、ほんのわずかに毛羽立ってしまったのだ。「……失敗作」 完璧ではないものは、存在価値がない。彼女の指先が、その失敗を隠蔽するように、布片を強く握りしめた。愛を込めて作ったものほど、その不完全さが許せない。誰かに見つかる前に、この世から消し去らなければならない。それが彼女のルールだった。 暦がブローチをフェンスの外へ放り投げようとした、その刹那……。「もったいないね、九条さん」 背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。 暦は反射的に身体を硬直させた。生徒会副会長が立ち入り禁止区域にいるという事実よりも、自分の「失敗」を見られたことへの恐怖が勝った。 振り返ると、そこにいたのは白瀬蒼。美術部で、いつも古いキャンバスと画材に囲まれている、自由奔放な生徒だ。制服の上から着古したオーバーオールを羽織り、鳶色の瞳は、屋上の西日を吸い込んで琥珀色に輝いていた。「白瀬さん……? どうしてここに」「私はいつもここにいるよ。古い校舎の時計が遅れてるみたいに、時間が緩いからさ」 蒼はそう言って、軽やかにフェンスの足元を覗き込む。そして、暦が投げ捨てようとしたブローチを、器用に指先で拾い上げた。「これ。失敗作なの?」 蒼の指が、銀糸のモチーフを優しく撫でる。その無遠慮な行為に、暦の胸が強く締め付けられた。「ええ。糸が毛羽立っていて、もう……」「ふうん。でも、すごく綺麗だよ」 蒼はそう言うと
第1章 泥濘(ぬかるみ)の逃避行 ワイパーが必死に水を弾いても、視界は滲むばかりだった。 六月の長雨。山梨県の県境付近、名もない林道。 私の愛車であるコンパクトカーは、舗装されていない泥道にタイヤを取られ、虚しい空転音を上げていた。「……あーあ。もう、何もかも駄目だ」 私、篠原紬は、ハンドルに額を押し付けた。 東京でのデザイナー職。深夜残業、クライアントの理不尽な要求、すり減っていく神経。 「少し休みます」と書き置きを残して逃げ出してきたが、まさかこんな山奥で立ち往生するとは。 携帯電話のアンテナは圏外を示している。 私は溜息をつき、傘をさして車外に出た。 湿った森の匂い。雨音だけが支配する世界。 ふと見上げると、木立の向こうに薄っすらと煙が昇っているのが見えた。 人家だ。 泥だらけの靴で山道を歩くこと十分。 現れたのは、築百年は経っていそうな立派な古民家だった。軒先には乾燥中の薪が積まれ、入り口には「葛西陶房」という小さな木の看板が掛かっている。「すみません……どなたか、いらっしゃいますか?」 引き戸を開けると、土間特有のひんやりとした空気と、土の匂いが漂ってきた。 奥から、一人の女性が出てくる。 作務衣(さむえ)に手ぬぐいを頭に巻き、腕まくりをしたその腕は、白く粉を吹いたように汚れていた。「……お客さん? 今日は教室の日じゃないけど」「いえ、車が泥にはまってしまって。電話をお借りしたくて」 彼女は私の顔――疲労と雨でぐしゃぐしゃになった顔――をじっと見て、ふい、と視線を逸らした。「電話はあるけど、この雨じゃレッカーは来ないよ。……上がりな。とりあえず拭くものを貸してやる」 ぶっきらぼうだが、その声には不思議な温かみがあった。 それが、私と陶芸家・葛西藍との出会いだった。第2章 土と静寂の時間 結局、藍さんの予言通り、レッカー車は土砂崩れの影響で到着まで三日かかると言われた。 私はなし崩し的に、この古民家に居候することになった。 ここにはテレビもない。ネットもほとんど繋がらない。 あるのは、雨音と、藍さんが回すろくろの音だけ。「……暇なら、やってみるか?」 二日目の午後。工房でぼんやりと彼女の背中を見ていた私に、藍さんが声をかけた。 電動ろくろの上で、粘土の塊が生き物のように回転している。「私、不
第1章 深夜の不協和音 深夜二時十五分。サントリーホールの静寂は、深海の底のように重く、そして張り詰めている。 外気温は氷点下三度。しかしホール内は湿度四十五パーセント、室温二十二度に完璧に保たれている。スタインウェイのコンディションを最良に保つための、計算し尽くされた環境だ。 ステージ中央に鎮座するフルコンサート・グランドピアノ、スタインウェイD‐274。全長二七四センチメートル、重量四百八十キログラム。約一万二千個のパーツから成る、黒い巨獣。 その前に座る二階堂亜蘭は、美しい金髪を振り乱し、鍵盤に突っ伏していた。「……違う。これじゃない。音が死んでる!」 ダンッ! 彼女が握り拳で鍵盤を叩きつける。 不快な音塊がホールに残響し、空気を汚した。二秒残響のホールアコースティックが、その不協和音を執拗に反復する。まるで彼女の精神状態を嘲笑うかのように。 亜蘭は二十六歳。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールを史上最年少で制覇した天才ピアニストだ。コンサートドレスを脱ぎ捨て、大きめのリネンシャツ一枚でピアノに向かうその姿は、成人女性というよりも、玩具を与えられて癇癪を起こしている子供のように見えた。 彼女の髪は汗でべっとりと額に貼りついている。シャツの胸元は乱れ、肩が露わになっている。裸足の足は冷たい床に投げ出され、ペディキュアを施された爪先が小刻みに震えていた。「ピアノのせいにしないで、亜蘭」 客席の暗がりから、私は静かに声をかけた。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながらステージに上がる。私の足音だけが、このホールに秩序を取り戻すリズムを刻んでいる。 私は佐伯透子。二十八歳。このスタインウェイD‐274の専属管理を任されている調律師であり、そして亜蘭の恋人だ。 黒いパンツスーツに身を包み、腰まで伸ばした黒髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。調律師として十年のキャリアを持つ私は、この業界では「絶対音感の魔女」と呼ばれている。A440ヘルツから0.5ヘルツでもずれていれば即座に感知できる聴覚を持っているからだ。「透子……。直してよ。このピアノ、低音が濁ってる。倍音が鳴りすぎてて気持ち悪い。特に左手のG♭。あそこだけ周波数が狂ってる気がする