All Chapters of 『復讐の転生腹黒令嬢は溺愛されたので天下を取ることにしました』: Chapter 21 - Chapter 30

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21 漆黒の王の口づけ 

 翌日、イザベラは王城へと移った。当然ながら、セバスとあやめも同行している。 彼女に与えられた部屋は想像していたよりも広大だった。天井は高く、漆喰の白壁には金箔が施された美しい装飾が散りばめられている。床には毛足の長い深紅の絨毯が敷かれ、その上には重厚な黒檀のテーブルとソファが鎮座していた。壁には歴代国王や王妃の肖像画が並び、視線を送るたびに、その眼差しが自分を見下ろしているような錯覚を覚える。 寝室へと足を踏み入れると、柔らかな光を透かすシルクの天蓋が優雅に揺れる巨大なベッドが目に入った。繊細な彫刻が施された鏡台や、象牙と金で象嵌細工が施された調度品が整然と並んでいる。明らかに、この部屋は女性が使うことを前提に整えられていた。「まあまあね……でも、このテーブルとソファはちょっと男性的すぎるわ。もう少し華やかで、繊細な家具が良かったわ」 イザベラはソファに腰を下ろし、指先で肘掛けをなぞる。その感触はしっかりとしていて、無骨な重厚感があった。居間の調度品は、どうやら以前は男性が使っていたものらしい。寝室の家具だけは新調されたようだが、統一感に欠ける。「すぐに変更を手配いたしましょうか?」 あやめが申し訳なさそうに尋ねる。「いいえ、このままで大丈夫よ。いつまでここにいるか分からないし……それに、こんなに広い部屋を用意してくださっただけで、十分ありがたいわ」 そう言いながらも、彼女の視線は再びソファへと落ちる。自分がこの部屋に長く滞在することを、果たして本当に望んでいるのだろうか。 そのとき―― カチャリ。 扉の取っ手が回る音が、静寂を切り裂いた。 扉がゆっくりと開かれ、そこに立っていたのは、黒曜の光を湛えた瞳を持つ美丈夫――ベルシオン王国新王、ルーク・ベルシオン。その漆黒の髪は燭台の灯火を受けて微かに光を帯び、無駄のない動作で室内へと足を踏み入れる。その瞬間、空気が変わった。張り詰めたような、けれど甘やかに満ちる独特の緊張感が、イザベラの肌を撫でる。 その黒曜石の瞳が、じかに彼女を見つめた。「イザベラ。この部屋は気に入ってもらえ―
last updateLast Updated : 2026-01-05
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22 迫る戦雲 

 バタバタと慌ただしい足音が響き、扉が勢いよく開かれた。豪奢な部屋の静寂を破り、鋭い声が飛び込んでくる。「ここにいらっしゃいましたか、ルーク様!」 現れたのは、背筋をピンと伸ばしながらも、どこか焦燥の色を浮かべた秘書官風の男だった。額にはうっすらと汗が滲んでいる。「皆様、軍議の間でお待ちでございます。急いでください!」 男の言葉にイザベラのまぶたがわずかに震えた。軍議——戦争に関する話し合い。戦争という言葉の響きに、胃の奥がキリキリと締め付けられる。 しかし、当のルークは泰然としていた。ソファにゆったりと腰掛けたまま、軽く片眉を上げると、まるで他愛もないことのように言葉を返す。「分かった、分かった。今行く」 悠然と立ち上がり、肩についた見えない埃を払うような仕草を見せる。「お忙しい方……軍議とは、何かございましたの?」 イザベラは努めて平静を装いながら問いかけたが、声の端にわずかに緊張が滲むのを感じた。「大したことではない。いつものことだ」 ルークは微笑み、まるで嵐の前の静けさのように落ち着いた態度で言った。その顔には不安の色は一切なく、ただ自信と冷静さが宿っている。 漆黒の瞳が一瞬イザベラを捉えたかと思うと、次の瞬間には振り返り、秘書官を伴って部屋を後にする。 扉が閉まると同時に、イザベラは無意識に深く息を吐いた。 軍議の間って……軍議をするのよね? ってことは戦争……? ベルシオン王国は、周囲の国々からたびたび戦争を仕掛けられていると聞いていた。特に、グランクラネル王国が裏で糸を引き、敵対国をけしかけているという話もある。 ざわざわと、心の中に不安が広がっていく。 その時、セバスが音もなく近づき、低く囁いた。「隣国カーネシアン王国が兵を動かしているようでございます」 イザベラの背筋に冷たい汗が流れた。 カーネシアン王国——それほど大国ではないが、軍備を整え、野心を持った国。グランクラネル王国の影響を強く受けているとされる国のひと
last updateLast Updated : 2026-01-06
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23 前夜、張り巡らされた狡計 1

   広々とした軍議の間には、数多の戦場を駆け抜けてきた歴戦の将たちが居並び、重厚な長机を囲んでいた。壁にはベルシオン王国の紋章を描いた旗が翻り、燭台の炎が戦士たちの鋭い眼光を妖しく照らし出している。室内には戦場を思わせる張り詰めた緊張感が漂い、誰もがこれから語られる言葉に全神経を集中させていた。 その中心に座すのは、ベルシオン王ルーク・ベルシオン。濡羽色の髪を持つ若き王は、黒曜石のような瞳で眼前の地図を見据えていた。地図上には、細密に描かれた山々や河川、城塞とともに、小さな駒が並べられている。その駒は、まるで生者の運命を握るかのように戦局を象徴し、そこに立ち尽くす将たちの視線を釘付けにしていた。「急ぎの参集、ご苦労だった。」 低く響く王の声に、軍議の間の空気が一層引き締まる。鋭い視線が一同を舐めるように巡ると、彼の言葉を待つ者たちは、自然と背筋を伸ばした。「皆もすでに聞いているだろうが、またしても隣国カーネシアン王国が軍を動かした。狙いは変わらず、ケルシャ城と思われる」 言葉とともに、王の指が地図の一点を指し示す。そこにはベルシオン王国の最前線を守る砦、ケルシャ城の名が刻まれていた。 誰もが予想していた侵攻とはいえ、眉をひそめる将もいた。カーネシアン王国の軍事行動は、ここ三年間、麦の収穫が終わるこの時期に繰り返されている。兵農分離が進んでいないこの地域では、戦争は農繁期を避けるのが通例だった。だが、今年は昨年までと違い、ベルシオンの王が交代している。前王の死をもたらした戦いからわずか一年、新王ルークがこの戦局をどう裁くのか——集まった将たちは、彼の言葉の続きを待ち構えていた。「兵の数は?」 問いに応じたのは、王の側近であり、知略に長けたケインズだった。彼は手元の書簡を確認し、静かに答える。「ケルシャ城のマルク公爵軍が千、ルーク様直轄の軍が二千、ケント公爵軍とベルク侯爵軍がそれぞれ千ずつ。合わせて五千の兵を動員可能かと」 数字が告げられると、長机の周囲にどよめきが走った。戦場では兵力がすべてではないが、それでも兵数の多寡は勝敗を左右する重要な要素である。カーネシアン軍の動員兵数が六千であるこ
last updateLast Updated : 2026-01-07
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24 前夜、張り巡らされた狡計 2

「ウイリアム様、今日中に渡河して川向こうに陣を張るのはどうでしょう?」 オリボ伯爵が提案するが、ウイリアム侯爵は首を横に振る。「気持ちは分かるが、それはすなわち、すぐに城攻めに移るということだろう。だが、状況を見ろ。今年の城兵は去年とはわけが違う」 彼は馬上から手を上げ、城の周囲に張り巡らされた防壁を指し示した。「去年は千の兵しかいなかったが、今年はすでに三千の兵が守備についている。さらに、後方から二千の援軍が近づいているという情報もある。六千の我らが、三千の城兵を攻めるのは不可能ではないが、ケルシャ城の堅牢さを考えれば、こちらの被害は甚大になるだろう。ましてや、後方から敵援軍が迫るとなれば、最悪、挟撃される危険すらある」「なるほど、戦上手のウイリアム様ならではの冷静な判断ですな。つまり、城を力攻めするのではなく、城兵を誘き出す作戦に持ち込むべきということか」「その通りだ、オリボ殿」 彼の言葉に、オリボ伯爵とカッパー侯爵は深く頷いた。城を無理に攻めるのではなく、敵を城から誘い出し、野戦で決着をつける。これはウイリアム侯爵が得意とする戦法であり、カーネシアン軍が過去に何度も勝利を収めてきた戦略だった。 三人は最後にもう一度頷き合うと、それぞれの指揮下にある軍へと戻り、速やかに陣を敷く準備を開始する。 こうして、カーネシアン王国軍の各軍は当初の予定通り、ケルシャ川の手前で慎重に陣を張った。布陣が完了すると、中央のオリバー王の本陣に諸将が集い、戦の行方を決定づける軍議が始まる——。 夕陽が傾きかけた戦場の空に、緊張の色が深まっていく。 カーネシアン王国の本陣に張られた豪奢な天幕の中、軍議は重々しい空気の中で進められていた。中央の長机の上には、羊皮紙に描かれた戦場の地図が広げられ、その上には各軍の駒が並べられている。燃え盛る松明が薄暗い幕内を照らし、戦を前にした諸将の顔を影と光で浮かび上がらせていた。 その場の中心にいるのは、カーネシアン王オリバー。濃紺の軍服の肩には金糸の刺繍が施され、王の象徴たる真紅のマントが重々しく垂れ下がっている。彼は指先で盃を弄びながら、冷
last updateLast Updated : 2026-01-08
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25  戦場の狼煙  ①

   カーネシアン軍の作戦は、夜明けとともに静かに幕を開けた。 赤みを帯びた朝霧が薄くたなびく戦場。東の空から陽がゆっくりと昇るにつれ、遠くの陣営から立ち上る灰色の炊煙が視界を染め始めた。それはまるで、これから始まる戦乱の狼煙のようにも見える。 山城であるケルシャ城の尖塔から、この異変を見つめる数人の影があった。 黒を基調とした王衣を纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばした青年――ベルシオン王国国王、ルーク・ベルシオン。  鋼のような肉体を鎧の下に秘めた歴戦の将軍――『銀狼』の異名を持つガリオン。  眼鏡越しに冷静な光を宿す参謀――知略をめぐらすケインズ。  そして、堂々とした体躯を持ち、長年戦場を経験してきた老将――ケルシャ城の守将マルク公爵。 彼らの目は、遥か遠くに広がる敵陣を捉えていた。「……敵兵が食事を終えれば、いよいよ動き出すな」 マルク公爵の低く渋い声が、静寂の中に響く。 彼の視線の先では、カーネシアン軍の兵士たちが、焚き火の周りで最後の食事をとっていた。鍋の湯気がゆらゆらと立ち上り、焼き立てのパンを割る音がかすかに届く。戦いを前に、最後の安らぎを享受しているようにも見えた。 しかし、それはあくまで戦前の静けさに過ぎない。次の瞬間には、剣戟と血飛沫が飛び交う地獄へと変わるのだ。 ルークはじっと遠方を見つめ、微かに目を細める。「六千の敵を相手に、三千で守る……」 彼は静かに呟いた。 自らを鼓舞するような言葉ではない。状況の確認に過ぎない。だが、その声音には確かな自信と覚悟がにじんでいた。「渡河中を狙うのですか?」 ガリオンが口を開く。鋭い声が空気を切り裂くように響いた。 その問いに、ケインズが眼鏡を押し上げながら続ける。「定石では、敵軍が川の半ばまで進んだところで一斉に叩くべきでしょう。水流に足を取られる彼らは、まともに防御もできません」 二人の視線がルークに向かう。 彼はゆっくりと腕を組み、しばし沈黙する。 ルー
last updateLast Updated : 2026-01-09
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26  戦場の狼煙  ②

 城門前には、嵐の前の張り詰めた沈黙が支配していた。 五百の騎馬隊が整然と並び、甲冑が冷たい朝日に鈍く光る。 肌を刺すような緊張が、兵たちの背筋を強張らせ、呼吸すら控えめになる。 風は重く、雲は低く、戦の影が忍び寄る。 騎兵たちは、まるで狩りの直前に息を潜める獣のように、じっと前を見つめていた。 彼らの剣は沈黙していたが、心はすでに戦場で血を求めて咆哮していた。 ケインズの視線——冷徹なる計算 ケルシャ城の尖塔。 ここからの景色は、まるで絵画のように広がる。しかし、今日の風景は美ではなく、死と破壊の予兆を孕んでいた。 ケインズは、単眼鏡を目に当て、川岸に集結するカーネシアン軍を見据える。 六千の軍勢が、まるで濁流のように岸辺を覆い尽くしていた。 彼らの旗は、翻る毒蛇のように戦場を睨んでいる。 ケインズは、静かに目を細めた。 ――敵は渡河の準備を整えた。 彼はその場に立ちながら、戦場の動きを頭の中で冷徹に解析していく。 敵の布陣、指揮官の指示、兵士たちの歩み……すべてが、彼の瞳に映し出され、無駄のない計算式へと変換される。 彼は、一瞬の逡巡もなく、城門前へ向かって大きく手を振った。「ガリオン将軍! 渡河が始まる!」 ガリオンの視線——戦場に生きる狼 その声を聞いた瞬間、ガリオンの口元がゆるりと吊り上がる。「待ちくたびれたぜ。」 彼の手綱を握る指が、無意識に力を込める。 愛馬『黒龍王』が、鋭く鼻を鳴らした。 その黒曜石のような瞳には、猛る戦意と獲物を狩る興奮が宿っている。「……お前も、血が騒ぐか?」 低く囁くと、黒龍王はまるで答えるように、前足を高く振り上げ、大地を叩いた。 ――それは、嵐の前触れ。 ガリオンは、剣の柄を軽く撫でる。「城門を開けろ!」 鎖が巻き取られ、巨大な門扉が軋みながら上がる。
last updateLast Updated : 2026-01-10
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27  釣りと追撃 ① 

 渡河中にガリオン隊の猛攻を受けたカーネシアン軍だったが、その損害は予想よりも軽微だった。濁流に削られた河原の石はぬかるみ、混乱を生じさせるには十分だったが、兵士たちは動揺することなく秩序を保ち、整然と渡り切った。敵軍の指揮系統は乱れず、統率の取れた動きで川を背に布陣し、流れるように鶴翼の陣を敷いている。 ベルシオン軍の精鋭であるガリオン隊の奇襲は、確かにカーネシアン軍に損害を与えた。しかし、戦場に立つ兵士たちの眼差しはなお鋭く、決して折れた様子はない。むしろ、戦火に晒されたことで彼らの戦意は研ぎ澄まされ、冷たい殺気が戦場に漂っていた。 一方、ケルシャ城の城壁の上では、剣呑な空気が張り詰めていた。血気盛んな兵士たちは、突撃したい衝動を押し殺し、ぎりぎりと奥歯を噛みしめている。敵の背に刃を突き立てたいという焦燥は、まるで鍋の底で煮え滾る熔鉄のように沸々と煮え立ち、今にも爆発しそうなほどだった。 しかし、ルークをはじめとする指揮官たちは冷静だった。敵が動き出すのを見極め、機を伺っている。 カーネシアン軍は暫く膠着状態を続けたが、やがて新たな策に出た。 先鋒のオリボ軍が城門の前に陣取ると、まるで酒場の酔漢の如く、口汚い言葉を並べ立て始めた。「おい、鼠ども! 怖気づいて城に引きこもるか? さすがは腰抜けベルシオン軍よ!」「震えて膝がすくんでいるんだろう? 戦場で役立たずの兵士どもよ、せいぜいその城壁の影に隠れて泣いているがいい!」「貴様らの王は臆病者か? それとも、ここにいる兵どもが腑抜け揃いなのか?」 嘲笑と罵声が、ひたすらに投げつけられた。男たちのがなり立てる声は、まるで腐った肉に群がる蠅の羽音のように耳障りだった。 だが、ベルシオン軍の兵士たちはそれに応じない。上官からの命令は明白であり、敵の挑発に乗るなという指示が徹底されていた。 しかし、沈黙を守る兵たちの目には、燃え盛る炎が宿っていた。ある者は顎を強く引き締め、ある者は剣の柄を握る手に力を込めていた。怒りに眉を吊り上げる者、冷ややかな微笑を浮かべる者、そして、心の中で静かに反撃の機会を待つ者——。兵士たちの無言の反応こそ
last updateLast Updated : 2026-01-11
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28 釣りと追撃 ②

 カーネシアン軍の思わぬ行動に、ケルシャ城の空気は一変した。 まさかの素通り——それは、守備側にとって最大の脅威であった。 戦うことなく敵を見逃せば、王都が直接の標的となる。 城壁の上から敵軍の動きを見据えていたルーク・ベルシオンは、目を細め、黒曜石のような瞳に鋭い光を宿らせた。敵が城門に殺到するのを想定していたが、その気配はない。 渡河後、整然と布陣したカーネシアン軍は、長い影を引きながら滑るように進軍を続けている。軍旗が翻り、鎧の煌めきが陽光を受けて瞬く。その様子は、まるで静寂を湛えた大河が、音もなく迫るようだった。 ルークの背後で、焦燥の声が上がる。「ルーク様、カーネシアン軍はこの城を放置して王都へ向かうつもりのようです。王都に攻め込まれては一大事、手を打たねばなりませんぞ!」 声の主はマルク公爵である。彼の額には汗が滲み、白みがかった髭を引き締めるように握りしめていた。その視線は、まっすぐにルークへと向けられている。 ルークは黙して応えず、深く考え込むように口元を引き結んだ。「王都の防備は?」 短く問うと、ケインズがすぐさま応じる。「ケント伯爵とベルク侯爵の軍が、先行して二千の兵で抑えに入っております。しかし、カーネシアン軍の兵力は六千。我々の倍以上の戦力です。迎え撃つにしても、適した要害がなければ苦戦は必至……」 ケインズは眉根を寄せ、手元の地図に視線を落とした。 この近辺に、二千の兵で六千の敵を足止めできるほどの天然の要害はない。つまり、ケント伯爵とベルク侯爵の軍が迎え撃つ場所は、せいぜい地形の利をわずかに得られる程度の地でしかない。「これは……正面衝突になるな。」 ルークの呟きに、場の空気がさらに張り詰める。「急ぎ伝令を飛ばし、ケントとベルクにこの情報を伝えよ!」 鋭い指示が発せられ、待機していた騎馬兵たちが一斉に動き出した。 金属が擦れる音、馬蹄が石畳を蹴る響き——伝令兵たちは全速で城門を駆け抜け、刻一刻と迫る決戦の火蓋が切られようとしていた。
last updateLast Updated : 2026-01-12
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29 釣りと追撃 ③ 

「進め! 敵を逃すな!」 怒号が響く。 カーネシアン軍の殿軍の最後尾を追いかけるように、ケルシャ城の城門から、マルク公爵率いる千の歩兵が一斉に飛び出した。 その動きは速く、力強かった。熟練の兵たちが一丸となり、整然とした陣形を保ちながら進軍する。彼らの足音は大地を震わせ、戦場に響き渡った。 カーネシアン軍の殿軍、ユーロ公爵の部隊が王都に進軍するため背中を見せている。 戦場で背を見せる——それは即ち、死を意味する。 全速力で追撃を始めたマルク軍将兵には、一本杉が見えたら追撃をやめて引き返すとの作戦指示が行き渡っている。 ベルシオン王国の門番として幾多の戦いを経験してきたマルク軍は『釣り野伏せ』で何度も敵を屠ってきた経験もあり、その怖さもその身に刻み込まれている。深追いすればどうなるかは良く良く分かっているのだ。 カーネシアン軍にマルク軍の猛烈な追撃戦は熾烈を極めた。 戦いは背を見せている時が一番損害が出やすいもの。殿を務めるユーロ公爵軍の将兵が次々と討たれマルク軍の中に飲み込まれていった。ユーロ公爵軍は逃げ足を早めるが、前が詰まっているため思うようにはいかない。ましてや後背から降りかかる攻撃を受けながらなのだから尚更である。「追え! 逃がすな!」 マルク公爵が指揮棒を振り下ろすと、兵たちは一斉に疾走した。 剣が振るわれる。槍が突き出される。  「ぎゃあああ!」 悲鳴が戦場にこだました。 カーネシアン軍は総崩れとなり、敗走を始めている。ベルシオン軍の猛攻を受け、統制を失った兵たちは我先にと逃げ出していた。「追え! 一本杉まで敵を押し込む!」 マルク公爵が厳かに命じる。 彼が率いる千の歩兵隊は、整然とした隊列を組みながら敵を追い立て、着実に撃破していく。騎兵ではなく歩兵による追撃であるため、速度は抑えめだが、そのぶん戦列を乱さず確実に進軍していた。 敵は散り散りに逃げているが、どの部隊も向かっている方向は同じだった。 ユーロ公爵軍の兵たち
last updateLast Updated : 2026-01-13
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30 敗走の軍議 ①

 大きな損害を出しながらも、ようやく予定の地点までたどり着いたユーロ公爵は、荒い息を吐きながら額の汗を拭った。心臓が激しく鼓動し、全身が戦場の泥と血にまみれている。彼の指先は震え、疲労と悔しさが混じった表情が顔を覆う。「死ぬかと思ったぞ……途中で追撃をやめてくれて助かった。前が詰まっていては逃げきれんは!」 しかし、その言葉とは裏腹に、ユーロの顔には悔しさと苛立ちが滲んでいた。拳を強く握り、舌打ちを一つ鳴らす。ここまで追い詰められるとは夢にも思わず、余裕で逃げおおせるはずが、蓋を開ければ手痛い損害を被る始末だった。 作戦に不備があったのではないか。ユーロの疑念はオリバー王と作戦立案者であるウイリアム伯爵へと向けられた。 ユーロ軍は、オリボ軍・カッパー軍・ウイリアム軍の陣を突破し、敵の追撃をかわしながらなんとか撤退。疲弊しきった兵士たちは、ようやくオリバー王の軍と合流し、膝をつく者もいた。彼らの目は虚ろで、肩で息をする者も多い。 本来ならば、追いかけてくるベルシオン軍を包囲し、殲滅するはずだった。しかし、剣のぶつかる音も、兵士たちの咆哮も聞こえない。あるのは、死者の累々たる骸と、敗北の重苦しい空気だけだった。 ──これが……失敗というものなのか。「これじゃあ我が兵は無駄死にじゃないか! くそっ……!」 拳を固く握りしめ、血に染まった地面を蹴りつける。怒りと無力感が胸の奥で膨れ上がるが、今はそれを噛み殺すしかなかった。 そんな折、伝令が駆け寄ってきて「再度、軍議が開かれる」との報せを届けた。ユーロは眉をひそめながらも、唇を噛み、足早にオリバー王の天幕へと向かう。 天幕をくぐると、すでに集まっていたオリボ、カッパー、ウイリアムの三将が冷ややかな視線を向けてきた。オリボは腕を組み、カッパーは眉をひそめ、ウイリアムは無言のまま鋭い視線を向ける。彼らの表情は硬く、作戦失敗による落胆を物語っていた。しかし、ユーロにはその視線が、まるで「釣り役を務めたお前の失態だ」と責めているように感じられた。「残念であったな。まさか釣りに乗ってこないとは!」 オリボが低く呟く。彼の口元は
last updateLast Updated : 2026-01-14
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